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一 O 結

ドキュメント内 日本佛教學協會年報 第11号(全) (ページ 124-139)

五 日

414 

要するに壬生の誕生地に関しての文献は今日まで護見され歩︑又文書記録の確置なるものは無い︒のみならす

大師 の壬 生氏 と主 牛一 城主 の組 先の 壬生 氏と は系 国ぞ 異じ し︑

A1

の壬生町が壬生と呼ばる込に至つにのは︑大師の

誕生より進か後世に壬生馬か京都より来りて築城してからのことである︒而して貞享三年に大師の姓の壬生氏に

附曾して誕生地なるもの現はれ︑爾来日光山の保護の下にあっしに矯め誕生地なりと一般に信じられてゐ七のであ

らう

と田

山ふ

一方下津原の誕生地は誕生・幼時・出家に閲する種々の遺跡の現存すると同時に︑口碑・文書・文献に徴し︑且

つ大諮寺との地略的闘係よhり見る等何れの方面からするも呉の誕生地にること沿誼するに充分であると信するの

である︒特に一言附記しにいことは大師出家の動機沿物語る面相智水の由来記の文書の如︑ぎは決して無陪のもの

でないといふことである︒何となれば大師の俸起を諌む者は何人も大師の生涯は常に夢と現宜とが交錯されてゐ

るといふことに誠付くであらう︒それに記す所によれば誕生一の際の種々の謹瑞の中に御尖の夢に究借紫雲に乗じ

来っ て手 洗水 ゆ倍 以て 所湯 とせ よと 止ロ け仁 とあ るが

︑一 一− 代宜 錯・ 大師 俸・ 元亨 料品 仁川 等に は紫 雲捜 謎と あり て究 借が

とに乗じて来にとはない︒これは誕阜地に惇へ・米つにものであって批に知られてゐない新事官である︒事・官斯く

あっ七であらうが精巻物沿見るが如き高僧の降誕に相・艇はしい憶説である︒それは父君に闘し穴ことであるが︑

その後御年九成の時しばらくまどろみ給ふに云々の川きに至つては夢と現賓とが交錯する大師停の第一頁となる

ベぎもので之亦誕生地のみに侍ってゐることである︒兎に角斯かる夢の俸前こそ熱費大師の場合には淘に自然の

ものであって斯かることそ億へてゐることが郎ち民の誕阜地七るそな設するに蝕りあること込思ふのである︒

以上郷土史に関する研究に就ては余は全く門外漢であるが雨誕生地現肢の事官を茶色とし︑地方榔土史家の未亡① 

断定

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下さざるものに封して意見そ辿ベムいものである︒向山治敬論議第十六班に慈費大師誕作心地に闘して以上記し

に以 外の 比一 一末 の意 見そ 述べ てお いに

︒ 註① 大正 大率 良一 白血 中研 究室 議行

25 

慈農大師の民の誕生地に就て

一一

直 ︵ 一 一 言

律 と 其 の 系 統

天 瑞

l日本係数戒律思想史

一二

︑有

部の

一ユ

伶坊

五︑四分汲と有部派との論静

一一

︑律

の三

信坊

四︑由民言律の系統

六︑真言宗と戒律

一︑序!日本悌教戒律思想史

戒律の根本と言ふべき小乗戒は何人も知る?7に律法主義であり極端な禁欲主義形式主義であり︑父消極的自利的であ回︑かフいふ戒律ぞ形式的文字通りに絶卦厳守しこれが出家の民大義務なめとするのが所謂小薬品開教で

ある︒大乗悌教は是の如き小一来の戒律主義に封する反動として起つにものと首ひ得る︑郎ち形式的な戒律︒か悌教

の根本精神ではなくして悌殺の本質はもっと荒要なものが他にあるのであってこれを忘れに戒律は却って悌敬の

棋本生命治失ふものであるとし大乗菩隣より見て小乗者や聾聞として極端に庇斥したのである︒かの維摩哩には

持戒第一の優波離は却って罪そ増長するものと叱責され︑コ品原の陣地に蓮華そ生ぜす︑卑漁の波泥に乃ちこの華

を生 す﹂ と一 一員 ひ︑

﹁無 明三 毒一 切の 煩悩 こそ 如来 の種 なり

﹂と 喝破 して ぞる つ要 する に大 乗悌 教は 悌教 の本 質は 絶

封無碍の生命の獲得と填の生命ぞ活かす大慈悲の精神にあり形式的外儀の如きは末なりとするのである︒然しな

がら印度及ひ支那の大乗者はこの大信念に住しながら其の宜際生前においては出家持である限り禁欲的形式的持

戒生活そして来たのである︒

然るに日本に来って港に小乗戒が貰際上にも排棄される様になった︑惇敬大師と親溝型人とはこの運動の二大

先駆者である︒俸教大師は叡山に大一楽園頓戒檀そ建立して大乗者には大乗猫特の戒があるべくこれのみによって

大乗の菩薩借となり得ると主張し︑五十二歳の年白ら小乗具足戒冶葉捨3れに︒父親驚聖人は更に一歩ぞ進めて

持戒自力による往生は不可能であるとし一切の戒を捨てて非借非俗の凡夫として禰陀の絶封大悲に浴し在俗的生

活に 安住 され にの であ る︒

日本側款の戒律に封する態度にはこの二の流がありこれが最も有力な系統である︑結局日本悌教は思想的にも

貰践的にも所謂戒律を捨てたのである︒然し日本側教に於いても上述二系統の捨戒主義に封して印度支那以来の

持戒主義を維持しこれそ復興せんとする一波が存し七︑これが即ち律宗異言律宗左中心とする戒律主義の一群で

ある︒この汲は音際上の勢力は最も微弱であつにがこの汲こそ悌陀の正法沿其の偉の姿にて維持せんとし倒教の

正統治奥さんとしにものであってこの一流は日本悌教の主流ではないが印度支那そ含めに全悌教より言へば少く

とも表面的には正統波なりと言はねばならぬ︑彼等が既倒そ起さんとせし努力奮闘は誠に悲壮なるものがあった

のである︒この汲は勿論日本悌款として大乗悌教の精神そ根本信念とすることは他汲と異ならぬけれども﹁内秘

 

菩薩行︑外現聾聞形﹂と一言ふ如く内に大乗の精神に住しつつその外儀に於いては例陀の正法の正しき姿をもって

巌椅なる持戒生活をなさんとするものである︒

長言律と共の系統

一一

日本

傍敬

血中

協舎

年報

︵第

十一

年︶

一二

O

鑑具和尚は六度渡海を企て謹に建中失明の厄じ遭ひつつも悌陀の聖戒を我が口本に俸へんとし天卒勝賓六年① ︵一回︶六十六歳の老齢をもって雨都に来り其の日的生達しに︒和尚の俸戒によって一時戒律は行はれにがやがて

衰へて形式的に飴命冶保つに至り︑卒安末藤原時代の官能悌救享柴悌教は全く無戒の航態を現出し律瞳の大本山① 唐招提寺の如きも既に休む人もなく僅かに耕作の一残惜を止むるの肢となった︒これに加ふるに借兵の蚊屋は慈

悲清涼の精舎をして修羅の巷と化し去つにのである︒

是の如品川︑堕落備教に封して反動として起つにものが浮土︑蹄の鎌倉新併殺であり︑これに刺戟されて奈良の奮

悌教も復活するに至り殊に戒律の復興がけ醒しかつに︒この戒律復興の先駆者は中川の賀範上人であり︑大成者

は唐招提寺の大悲菩隣組買盛︑西大寺の興正菩薩叡章であり︑京都泉桶寺の俊持律師である︒叉笠置の解脱上人︑

株尾の明恵上人等も戒律復興にカ沿査し仁人々である︒向興正窓口慌の弟子匙性菩薩良観は鎌倉に極柴寺沿創して

関東に倖瞳沿翻し亡︑興正菩薩と忠性菩隣とは戒律思想を民衆に普及するに大なる功積あり︑特に戒律精紳より

一枇 舎救 漕蓮 動浮 化運 動に カル 孟し 我が 園側 救枇 曾事 業の 最も 偉大 なる 貢献 者で 士山 一る

これ等鎌倉時代に於ける戒律復興者の多くは呉言の人々である︑印ち宜範上人︑興正菩際︑芯性菩隣︑俊務伴

師は共に昆言の人であり︑大悲菩薩も亦回以言に闘係深い︒中にも興正

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H隣叡隼は密殺沿己が宗と定めて出家し醍

醐の 国明 阿閣 梨︵ 金剛 界︶

︑且 窓阿 閤梨

︵胎 械界

︶に 雨部 の大 法冶 受け

︑更 に安 貞一 万年 二十 七歳 にし て醍 醐松 橋流 の 一 海 靖 子 翼 民 ひ 霊 能 道 場 に 於 い て 松 崎 流 の 貝 文 挫 頂 主 け 弘 法 大 師 よ り 十 五 代 の 議 選 高 橋 流 の 玄

奥を究め仁が後自ら一流な編み出して松橋流の一支流にる聞大寺流を聞いにのであるο又後に小島流の能草の法

服沿も受けてゆぞり東密事相史上極めて重要な人である︒この故に後世唐招提寺境盛の流を作宗と一吉ふに針して西

大寺 叡傘 の流 沿異 一一

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律宗と呼ぶ様になつにのである︑而して後位体に於いてはこの西大寺叡傘の流冶汲むものが

最も 多い ので あっ て︑

この意味よりすって後代の律は殆んレ﹂炭き立味に於いての民言律宗であると言ひ得るので

ある

然らば後位に所謂且A

百律 京大 る割 隼の 律が 其の 教義 上質 行上 に於 いて 且・ 一れ のな 場に 京っ て猫 特の もの であ っ七

かと一言ふに決してきうではない︑体に於いては唐招提寺も西大寺も共に同じく鑑亘の説に従ひ四分伴そ依用し① 

に ︑

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雨者の間に惜悔の法について異説があった.かこれは何ん等卑YHの宗義に闘係しにものではない︑従って

西大寺ぞ中心とする旦言律宗とは躍に︐民言の人が行ふ律なることを示すのみであって作そのものに莫言による特

別の教義態度があるわけではない︒

① ① 

① ①  雑誌悌敬一各二披拙稿参照︒唐大和倫東征停等︒律苑働旧費俸巻十o

持作苑償資停止甘十二︑興正菩薩俸等︒

凝然

︑一

週受

比丘

陵悔

雨寺

不同

記︒

二︑ 律の コ一 借坊

︑如 訟真 一一 一

H律 ︑

律法

鎌倉時代の戒律復興運動により一時の盛蓮在日凡に戒律もやがて再び衰微

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蹄し仁︑その後約三百五十年冶粧て

慶長の始めに去り山城棋尾山平等心王院に問忍律師が出で碧雲︑友軍の同志一一一入と共に栂尾山に於いて自誓受戒

し再 び伴 瞳そ 翻す に至 つに

長雪

日律

と主

︵の

系統

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