一 品 作 諸 波 0
匹
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分民||!寸
返 野 大 根雲 中 島 吊
寺 寺 a
J反 汲 汲 汲
手~i 準妙 m; 慈議 j事良明叡鑑 門 如 瑞 源 雲 忍 躍 永 忍 主 主 長 14
法 ① 等
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部 汲
松 品 局 長「一寸
国 主 別 寺 寺 庭 汲 汲 汲 張
要 事 項 年 去
一一
二円
一一
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持続
天皇
一冗
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一凹
一一
一二
︵天
千賓
字七
︶
一八六一︵建仁一元﹀f
一九
五O
︵正
悠一
一一
︶
一一二三六へ天正四︶i
一 一 一 一
七 O︵慶長十五︶
二二四五れ天正十三︶!こ三O
七
︵ 正 保 四
︶
二二
九九
︵明
正十
六︶
一一
一一
一六
二︵
元禄
十五
︶ 二三六五︵賓永一一︶二四四六︵天明六︶
二 三 七 八
︵ 享 保 三
︶ 二 四 六 回
︵ 文 化 元
︶ 二三間九︵一万称二︶二四一入︵賓暦八︶
二三五六︵元旅九︶二同二四︵明和一冗︶
一一
三七
六︵
享保
一冗
﹀!
三四
一一
一一
一一
︵安
永二
︶ 二四四入︵天明八︶
Eさ
二四
O五
︵延
一
)二四七六︵文化十三︶
享
明
二一
一一
六六
︵賓
永
︶二
円二
一一
一︵
賓暦
十一
ニし
民言律と其の系統
批
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判 ① 派
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伴︿
慈雲
︶
ヰ千
山 ︵ 諦 日
戸 川 ︶
体 戒 一 回 一 四
︵ 天 卒 勝 賓 六
︶ 什 誓 受 戒 一 八 九 六
︵ 嘉 禎 二
﹀ 白 昔 日 受 戒 二 二 六 二
︿ 慶 長 七
︶
国民別慮開創二三七九︵一万和五︶
出現雲寺閉創二三五一︵元総四︶
伴苑行事問解二円一一二︵賓暦一一一︶E
法 律 創 唱 二 回
O九 へ 寛 延 二
︶
腕部衣相略雄一一四一八︵賓暦八︶
有 部 標 日 一 一 回
O七
︿ 延 享 四
︶
賢一
百律
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行: ︑ 幅 王 者 弘 司 一 四 一 九
︵ 賓 暦 九
︶ 有 部 律 嬬 序 二 四 二 四
︵ 明 利 一 冗
︶
有部単一形問答二四三C
︵ 明 和 七
﹂ 松 尾 寺 蹄 位 二 四 一 二 九
︵ 安 永 八
︶
密宗
風中
銭童
問
一一
四二
O頃F
︵賓
廃十
︶
一 一
一
日本偽敬挙協曾年報︵第十一年︶
一 一 一
15
註 賞 智 龍
①
海 有 部 律 儀 二 四 五 一
︵ 寛 政 三
︶ 明 程 静 岡 銭 二 四 五 九
︵ 寛 政 十 一
︶ 相 旭 照 霜 露 編 二 四 二 八
﹁ 明 和 五
︶
慈雲隼者の正法律汲及び八事山諦忍の律については其の系統︑内容分類につき品川少しく研究の要あり︑今概略につき
俄習に批列沃とすo
息 一
e如律師の良一吉律行問答には惑雲象者を許して﹁頃日夕γ有部律7鏡仰ジ衣ノ沙汰ドモス断人アνドモ受毛随行モ四分ユジテ有部ヲ行ρ
メ高
組ノ
三第
一一
一於
テ ρ儀所々々
Vグ蹄ト律トヲ事ニジ口県言7ハ傍灘セhN
勢ニ
見へ待断︑是亦我黛ニ非ズ﹂と云ふ0
︵長
谷本
九頁
右︶
︒
法明︑智明︑貧相については次項参照︒
二四
一六
︵賓
二三九六︵元
丈 暦
六︶
一一
四八
O
︵ 文
一 万
γ
一一
四七
一二
︵文
化 政 十 三
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①
五 四 分 汲 と 有 部 汲 と の 論 語
有部律再興の諸師の中最も早く且つ熱心仁これや主張しその賓行に若手しにものは踊王寺の皐如律師である︑
律師は資暦九年に有部律再興の趣意書として且言律行問答一容を撰し呉言の皐徒は大師一一車a録の雅訓により有部
律そ 依用 すべ く︑ 羽入 国笠 一日 の宗 徒は 鼻﹂ 一同 一一 一昧 耶戒 の見 識に 住し て有 部伴 や持 すべ く四 分伴 家の 徒の 如く 作在 最上 と
し偏執するの態度はとらざる所なりと主張しにのである︒これに封して四分律汲なる律の二一僧坊殊に霊雲寺汲よ
り痛斜なる反針論そ生じこミに有部汲と四分汲との聞に激烈な論詩が展開されるに至つに︒の皐如の体行問答仁針して霧雲寺第四代の法明は病宗阜銑童間在者はし大師二一皐録の趣意は有部沿皐ぶべきこと
冶一 不さ れし のみ にし て受 戒随 行は 大師 自ら 東大 寺の 戒壇 にて 問分 によ り受 具し 給ひ
︑ぷ 人承 和の 御蓮 誠じ
・未 定は 東
大寺にて受具すべしと示される所よhりして四分によるべきこと明了なりと反駁し︑大鳥汲を墜んがい筑前千如寺の
賢相は旭照霜露編や撰して壊如師の設を破しに︑これに封して皐如師は更に鼎旭凶器相露編ぞ作って反駁し︑寝門
の費龍海師は法明の説ぞ破し関学如の説を支持して陀羅尼宗所事有部作儀在替はしに︑反にこれに封して霊雲寺第
八代の智明は糟帰同録一巻冶撰して龍悔の説冶破してをる︒これぞ闘治すれば突の如くである︒
一l
法明
・符 宗悶 申鈍 章問 11 11 龍 海・ 陀羅 尼市 部所 問中 有部 伴依
|| 智別
・理 韓同 銭
感如
・国
辰吉
伴行
問答
1一﹁貴相・旭照霜露編
l l
阜如・時旭間話露編
異一言伴行問答はその奥書に﹁資暦九年己卯十二月四日書於京都僑合芯徳島市Lとある如く資暦九年和尚四十
四歳の冬京都で撰しにもので有部律再興の趣意及び異言宗徒の戒杭賀行に叫刻する態度を述べたものであり︑この
常一臼が有部律専行の遁場ぞ奥さんとせる最初の宣言ーにることは書中に﹁莫吉有部伴ハ今瞥暦九年マデハ皐行ノ人見
待− プズ
﹂と
a一員へるによって知り得る︒この書は明治十六年高野山大壊林より刊行されてをり︑父長谷資秀師は昭
和九年十一月幅王寺所蔵の寝本により謄寓して同士山に頒にれに︑長谷師本には有部作随行に針する難問に答へに
追加問答︑和備が同じく資暦九年十二月御室真光院借正に奉呈して一拍王寺冶有部律道場とせんことや請ひし願書︑
異言諸組が有部律によりしと一五ふことに封して亀龍院常塔上人の来問に舎へに異言八組有部受戒問答の三をも併
せ牧 めで ある
︒
員a
一一 日伴 行問 答に よる 壊如 師の 主張 は要 する に究 の諸 貼に 蹄す る︒
川弘法大師はコ一壊録ゆ管制して異言宗所墜の経律論を定められに.が其の中伴は蘇悉地︑蘇婆呼︑三昧耶崩御戒儀の
三部の密教律ぞ除き小乗律では根本設一切有部昆奈耶五十巻等の有部律一百六十八容をあけてゆぞられる︑故
に晶 一斉 曲学 徒は 受戒 随行 は四 分律 によ ら示 して 有部 律に よら ざる
︑べ から 歩︒ 16
同弘法大師は自ら有部在受け︑叉これぞ行じにまひ︑大師の直後にも諸弟子は有部在受戒せしことは小野六帖
虞言律と其の系統
一 一
一 一
一
日本偽教準協舎年報︵第十一年︶
四 17
教日の記に大師の弟子園行有部によると記するによりても知り得る︑これが後断絶しにのである︒
同龍猛以下の晶圭一円の八組は同じく有部によって受戒しにまへり︑この故に大師も呉言宗所壊を有部とせられに
のである︒︵この事については別に真一万八組有部受戒問答冷作って詳説してをる︶
川間二一撃は鼎足の如く其の一をも快くべからざるものなり︑而も律は最も絶え易き故にこれが専門遁場ぞおきて
復興維持ぞ固らざるべから示︒然れども宗々によりて其の主とし表とする所に別あ旬︑国換言は律宗の如く小
乗律そ専要とし遁宣鑑︐誌を組とするものに非令して経によりて宗沿江てるものなり︑放に小乗有部律︒信行?
と雛も秘密二一昧耶戒そ根本とし密款の立趣によって︑︸れを持つベく仲宗の偏局に倣ふべからす︒
同従 って 且言 の徒 は官 位に も日 升
hり絹衣や着することも雷然にして決して働組の立に反せ示︑これを一概に不如
法として排するが如きは伴宗偏局の脅気によるものじしてこれ粗削身誹諒するの生体併なり︒
凶川 西大 寺の
・米 流な る律 二一 俗坊 は姐 附興 一止 の立 ぞ忘 れて 唯体 のみ 冶岳 民ん じ呉 言と 離れ しに るも ので あり
︑南 山沿 粗 とし 興正 冶中 興と し大 州在 ば他 宗と する もの にし てこ れ律 宗に して 同県 立律 宗に 非歩
︒震 雲寺 の加 きは 民一 寸一
Hを
重んホるも伴に於いて高組の撃則に反して十岡山家治受け行事紗によって体行をなす故に莫の異言に非守して
乗組午なわ︒呉言の見識を本として有部作に依るもののみ呉の英吉作宗と言ふベし︑律宗と昆言宗とは根本よ
り相違ある沿知るべきなり︒
以上 の如 き有 部汲 の主 張は 大鯉 に二 か一 向じ 分ち 得る
︑ 一は 有部 作や もっ て長
−一 二リ 事徒 の律 とす べき こと ぞ組 師の
行蹟上より誼明せんとする歴史上の問題であわ︑一一は民A
プ一 円単 徒は 伴行 の態 度に 於い て小 乗の 偏執 冷離 れて 昆吉 三 昧耶 戒の 見解 じ杭 せよ とす る伴 行ト 一の 問題 であ る︑ 国民 一万 件行 問答 は寧 ろ第 二の 問題 に主 力沿 注い ザい もの であ わ︑
結海 の有 部律 儀は 専ら 第一 の問 題冶 謹明 せん とし しに もの であ る︒ 父事 知一 附の 追加 問答
︑同 県言 八粗 受戒 問答 は第 一
の問題を取扱ったものであり.同県源阿閥梨︑妙瑞和向︑指門和向等も串・如師と同一論操より有部体の皐行ぞ設い
てをることは前に述べに所である︒
この有部波の主張に封して四分波は全面的にこれを否定してをる︑その中宮相の旭照霜露編は何れかと言へば
第二 の問 題に 主力 を控 い︑ にも ので あり
︑知 日明 師の 糟賭 間録 は何 れか と云 へば 第一 の歴 史上 の問 題や 取扱 って そる
︒
追加問答と有部律儀の難問及び樺瞬間関録等によって第一の歴史上の問題についての四分汲の読を見るに共の諸
貼に まと めら れる
︒ 別手日本に於いては遠く鑑詰備の昔より諸言語遣にて四分により受戒す︑これ延暦のやに命
Z
所にして古来の定則なり︑日本に古来有部受戒のことなく︑父有部の戒壇なし︒
︹有 部汲
Hく︑両部戒壇は四分に局ら今︑他部もこの戒壇に登ることを得︑其の宗に随ひて戒睦沿受得す︒︺
向従って弘法大師も求和二年の遺止口諸弟子等によれば二十二歳にて東大寺戒壇にて四分により受具し給へり
︵池
唯一
4I︶o支那に於いて更に有部や受戒せられしと一三明誼なし︑前に四分主人け後随行冷有部によると言
ふ受随各別論は不可なり︒ば人大師は求和二年の御遺誠に末徒は東大寺戒壇にて受具すべしと命じ給ふ︑若し
末徒有部に依るべきならば大師別に有部そ受戒し有部の戒壇や築かるべまなり︒
︹有 部汲
Hく︑大師二十二歳四分受具は入密以前なる故蛍然なり︒入唐中有部受戒なしと断すべから歩︑に
とへ受戒なくとも随行を有部によること差支なし︒御這誠の東大寺戒壇受戒は異部同壇業支なき故に有部
を受 くる なり
︒︺
18
虞言律と其の系統
一 一 一 一 五