・如 来蔵
・ 禅の四分野の 典 籍引用から︑﹃私観子 ﹄ の思想内容に 言 及してきた ︒ 天台教学か
らは空・仮 ・ 中の三諦を用いて自
性と阿弥陀仏︑実相と念仏とを重ねて︑実相の面を積極的に‑ 取り入れようとす
る傾向が見られた︒次に華厳思想では︑澄観の﹃華厳疏﹄﹃華厳演義妙﹄を引用することで︑観心を述べる根拠
としていたと考えられ︑
その他にも株宏などの思想との関連が注意される︒次に如来蔵系統の影響として︑﹃起 信論﹄の体・相・用の三大思想が見られる︒三大思想は自性に万徳が備わるとする根拠に用いられたと考えられ
ょう︒最後に禅宗の典籍では︑彼此を融合していく文が引用されており︑ 天台のような実相の両を強調するため
に用いられたと考えられる︒
このように︑﹃私観子﹄に引用される典籍からは.実相や自性︑観心を強調するためのものが引用されており︑
﹃私観子﹄の思惣背景を見る上で重要な傾向である︒なお︑これらの教学傾向の意義については︑第五章で述べ
ることにする︒
‑266・
二︑鎮西系統の講録依用の傾向
次に︑﹃私観子﹄に多く引用されている︑鎮西系統の引用について検討してみよう︒先の一覧で不したように︑
﹃私観子﹄には計二十筒所もの鎮西系統の講録︑が引用されている︒その中心は良忠の﹃論註記﹄である︒基本的
は
イ 易 ト
長
行 ト
通"
義
如
レ&"2
又 ︑
釈 レ
経 不
レ 釈
レ 論
例 ︑
如 レ
記 ・
2
とあるように.守﹃論註記﹄を参照すべき資料として示すのがほとんどであるよ
Zこ の
意 味
か ・
り す
れ ば
︑ ﹃
私 観
子 ﹄
の講説は︑鎮西系統の僧侶によるものかとも考えられるが︑以下の文からそのことは否定される︒
付法蔵経︑﹃大沢見聞﹄唐英法師作ト云ハ︑キワメルヒカコ卜也︒唐ノ代ニ作ル書ヲ︑梨ノ世ノ人︑引ヘキ
ル ノ ニ キ ハ ニ ハ
ヤ︒時代準々隔事也︒総鎮西家ノ書籍︑如レ是妄語多事也︒此経︑大唐多流布スレトモ︑和朝未レ渡︒申ル街
能々
可レ
考・
2
ここにある﹃大沢見聞﹄とは︑鎮西派名越流の良栄が著した注釈書の総称である︒良栄の﹃論誌記見聞﹄を確認
する
と︑
ト レ ス ニ ノ
付法蔵経者︑是非ニ仏説一︑人師作也︒是付法伝名レ経︒如‑キ経等・︒唐英法師作也・2
とあり︑﹃付法蔵経﹄を択英の作であるとしている・
5
﹃私観チ﹄は︑この良栄の説について︑択英は唐の時代(六の曇鷲が引用できるはずがないと批判するのであ
る(ただし︑択英は北宋時代︹九六
01
て二七︺であるてその後には・﹁松町鎮両家ノ書籍﹁如レ是妄語弘事也﹂
一八
1 九 O
七)
の人であるから.北親時代(四七六43
五四
‑一
)
ー267‑
と述べて︑鎮西派の解説を批判しているのであるから︑鎮西系の僧侶による講義ではないと考えられる︒ただし︑
﹃私観子﹄が鎮丙系統の講録に依りながら解説していることは間違いなく︑例えば︑
大夢者見思ソ︒其六識眠ル時︒一夜ノ夢│者︑夢ミル時ハ前五識滅/︑六識不レ眠︒夢ミヌ時モ︑しハ識モ八
識モヲサマリテ︑夢ナキナリ︒是ハ見思ノ夢ナリ︒見思易レ断如ニ破石一︒故一夜ノ夢トタトへタリ︒八識眠
時モ︑無明ノ眠世︒無明難ル断故︑万劫ノ夢卜タトヘタリ・
5
と解釈している部分は︑良忠の﹃論註記﹄に︑
' ノ 也 ノ ク レ ハ ノ リ ノ
六識
睡︑
則有
二夜
夢・
︒八
識眠
則
有一
万劫
夢一
︒所
レ言
大夢
︑生
死妄
境︒
古人
云︑
有
L
タ眠二有¥朝之醒一︒既言生死長夜・︒定有一覚悟之暁・
5
とあることや︑良栄の﹃論註記見聞L
に ︑
見思易ル断故︑警二一夜夢V
八識
相応
無明
︑
微細難断故︑
喰'
一万
劫夢
‑也
・ 2
とあるのを参照しているであろうから︑鎮西系統の講録から影響を受けながら解釈していることが知られる︒
以上のように.﹃私観子﹄では鎮丙系統の講録を依用する場面と批判する場面との両面が見られる@このこと
は︑鎮西派を相対視できる宗派の僧侶による講義であることを意味している︒ただし︑西山系統の講師であれば
鎮西系統の講録をここまで依用することはないと思われるし︑鎮西系統の講師であれば自派の講録を批判するこ
とはないと思われるから︑﹃私観子﹄の講師は真宗の学者であったとすることは充分に可能であるう︒
ー268・
また︑﹃私観子﹄の鎮西系講録の依用に関して特筆すべきは︑湛褒
( 1
一六
六
O
)
の﹃浄士論註音釈﹄を引用
していることである︒
つま
り︑
﹁道
出麻
﹂者
︑異
忠一
ハ﹁
凧﹂
字ナ
シ︒
﹃音
札﹄
コ︑
ロヲ
ミツ
ベシ
・
E︒
とある部分である︒﹁道出麻﹂について︑﹃浄土論音釈﹄を確認すると︑
ト ノ ク ハ ナ ル ヘ ハ ル タ ル 掴 三
嶋筋道出麻歴経者︒麻字恐可レ非︒所二以知一︒麻歴字形似故︒
ノ ノ ヲ ナ ル ニ ニ ニ ハ ノ ユ ヨ
而不ル消一上麻宇一之本九故記目︒或本無‑麻宇一︒更検失・2
先歴
麻写
誤︒
雄一
後書
一歴
正字
‑︒
‑ ν s '
可下
失念
とあり︑﹃私観子﹄の﹃音釈﹄は書名と内容とから﹃浄土論音釈﹄を指していることは確実である︒﹃浄土論註
音釈﹄は︑その奥書によ
れば寛永十八二
六 回 二 年 の述作であり︑寛永二十(一六四三)年に刊行されている︒
このことからも︑﹃私観下﹄は﹃論註﹄刊本と同じ
く︑当時の最新
の出版物を用いて講義していることが知られ
る ︒
﹃私観子﹄と当時の出版の問題については︑当時の状況を知るための重要な関心事であるが︑これら近世初
期教学と山版との関係については︑第五章で述べることにする︒
二︑浄土教に対する批判への対応
﹃私
観子
Lは他宗の典籍を多く使
用し
て︑
理の面を
強調する内
容で
あっ
た︒
しかし︑﹃私
観子﹄を子細に見
る
‑269‑
と︑浄士教に対する批判が述べられており︑それに対応するために埋の面を述べたと
恩わ
れる箇所がある︒
先無母寿者︑彼+ぃ教主︑阿弥陀漢語也︒三徳円満中挙エ法身常恒徳九若手‑無量光‑者︑是般若徳也︒若無量
レ ノ
テノカヌノ
ヨト
フ等
ヲ ヲ ヲ
ノ ト
寿覚者︑是解脱徳也︒今︑挙三根本法身常憤徳¥包ニ迷
霊 寿 二 有 人 ︑
挙‑寿一徳‑云=理非尽釈‑︒
是 恐 非 也
.
ノ
ナ レ ハ ニ エ
・
ノ/
タマ キノ
F Y
嘆ニ
法
身常
徳一
時︑
如二
伊三点¥如ニ
天一て同︑不縦不横︑一而三三市一︑一向互
宛転
︑
知ニ環無レ端一也︒
ノヲ
ル ニ ス
ノ
ヲ ノ
ノ
其 上 挙
寿徳日時︑不レ計具ニ霊帰向
一︒
導師
釈解
︑
一重
釈
理也
・き
ここ
では
︑ 無量寿仏を法身
の仏であるとした上で︑無量寿仏の別名を﹁無量光
H
般若﹂﹁
無
量寿覚
H
解脱﹂と配
当し︑法身・般若・解脱が円融するとして
いる
︒
この
一文は︑先に述べた深励が批判した部分である︒深励は先
にあげた文
に続
けて
︑
とき︑今曇鷲大師︑無量寿は法身常住の妙田町也︑下の無量光は仏智観照の妙用也と釈し給ひそふな所なり︒
しかるに︑売は釈し給はず︑光寿無量の本願にむくひあらはれたる方便法身の無量寿で釈し給ふゆへ︑﹁無
量寿如来寿命長遠不可思量也﹂と釈し給ふ︒若しこれを浅略なお釈じゃと思ふたならば︑それこそ祖門の罪
人なり︒こ﹄を若し無量とは法身常住の妙理也と釈し給ふときは︑弥陀は諸仏通惣の仏になりてしまひ給ふ
なり︒﹃大同経開題﹄(五丁右)に﹁無量寿者法身常恒不壊之徳是也﹂と釈しである︒これでは弥陀の無量
寿は諸仏の法身のかへ名になりてあり︒今曇鷲大師﹁無量寿如来寿命長遠不可思量也﹂と釈し給ふので︑超
世無上に摂取し選択五劫に思惟し給ふ光寿無量の本願成就の阿弥陀知来のことになるなり・
s
と述べている︒深励は曇鴛の釈を報身であるとし︑﹃私観子﹄が法身の妙理とすることを否定している︒その理
‑270・
由は︑曇驚自身︑が﹁無量寿畑来寿命長遠不可思量也﹂と報身の上で無量寿を語るからとする点と︑無量寿を法身
の妙理とすれば﹁弥陀は諸仏通惣の仏になりてしまひ給ふ﹂からという点とにある︒
さて︑深励の批判を踏まえて︑﹃私観子﹄の文を見てみると︑﹁有入︑挙ニ寿一徳三五ニ理非尽釈‑﹂とあるのが
注目
され
る︒
つまり︑曇鷲が﹃論註﹄で﹁無量寿﹂しか解釈しないことに対して︑理の面が全︿述べられていな
い不十分な解釈であると批判する者がいたと述べている︒﹃私観子﹄では︑無量寿を法身︑無量光を般若︑無量
寿覚を解脱に配当して︑それらを伊字の三点に重ねて解釈することによって︑無量寿を解釈すれば般若・解脱の
すべてが収まっているのであるから︑﹁理非尽釈﹂には当たらないとい反論するのである︒このように解説する意
図を持っていた﹃私観子﹄であればこそ︑無量寿を法身と解釈する必要があったのである︒
確かに︑﹃私観子﹄の解釈は﹃弘前註﹄から見ても妥当性に欠けるものであるが︑理の面が欠けているという浄
土教への批判回避のために︑無量寿を法身と解釈したと言える︒また︑深励は無量寿を法身とすれば﹃諸仏通惣
の仏﹂になると批判するが︑むしろ﹃私観下﹄の目的はそこにあったのではなかろうか︒深励の批判は︑浄土真
宗が全仏教の頂点にあるべきとする発想からの批判であって︑諸仏と阿弥陀仏とを同等の位置に置こうとする﹃私
観子﹄の解釈は︑近世初期という時代的特徴とも言えるだろう︒
四︑口伝・切紙の問題
切紙とは︑小さな紙に教えの内容を記して残したものであり︑天台本覚思想の研究が進むにつれて︑その存在
ー271・
意義が注目されるようになった︒天台本覚思想の内容は﹁眼前の事々物々のすがたこそ︑永遠な真理の活現のす
がたであり︑本来の覚性(本覚)の顕現したものという意である三﹂とされる︒︐大台本覚思想は︑妙立慈山(.
六三七
3
一六
九
O
)
と霊宝光謙(一六五二
8 .
七三九)によって否定された思怨であり︑近世中期に否定された
中世の教学と言えるだろう︒天台本覚思想の始まりは︑平安院政期の中頃(十一悦紀末)とされるが︑そこでの
中心は
μ
伝や切紙による相承であり︑十一二世紀ごろにはそれらが収集されて文献化(出版ではない)されるようになった︒ただし︑文献化されても︑巳然として口伝や切紙の形式は継続され︑随時新しく文献化されていった
とい
う・
3