世界中でも ローマ字活字版
が 十
六 種
︑
かな活字版が十一種しか発見されていない︒また︑その印刷も︑慶長十六
(一六一一)年の﹃ひです
の経﹄を最後に 断絶し
た と
い
わ れ て い る ︒
印刷技術 は見事で︑特に平仮名印刷は芸術
的
であったら し い
︒
朝鮮系活字版は︑秀吉の朝鮮出兵によって日本にもたらされた︒本来は銅活字を用いたが︑次第に木に彫った
木活字に移行したようである︒秀吉が大阪に凱旋した二ヶ月後の文様二(一五九三)年間九月︑後陽成天皇によ
って︑﹃十円文孝経﹄が印刷され︑同年十一月六日に完成したのが最初とされるが︑現存していない︒その後︑活
字印刷は流行し︑為政者・寺院・民間の問に広まっていったという・
4e
為政者の活字出版としては︑先に述べた後陽成天皇による慶長勅版と︑家康による伏見版と懸河版とがある︒
慶長勅版では︑慶長二(一五九七)年に﹃錦繍段﹄﹃勧学文﹄が出版され︑同四(一五九九)年には﹃日本書紀
神代巻﹄﹃四書﹄﹃職原妙﹄などが印刷されて現存するという︒次に︑家康の出版は.木活字による伏見版と︑
鋼活字による駿河版とがある︒伏見版は︑開室元信一五四八
3
一六
一一
一)
と西
笑承
免(
一五
四八
1
一 六
O
七)
とに命じたもので︑慶長四(一五九九)年から﹃孔子家語﹄や﹃貞観要政﹄・﹃七書﹄・﹃東艦﹄など十部二八冊
‑310・
の書籍が刊行された︒これと区別される駿河版は︑家康が隠居した後︑金地院崇伝と林道春とに刊行させたもの
で︑慶長二
O(
一六
一五
)年
に﹃
大蔵
一覧
集﹄
︑
A 和
(一六一六)年に﹃群書治要﹄が出版されている︒次に寺院による活宇出版としては︑日蓮宗本園寺による文禄四(一五九五﹀年︑﹃天台凶教儀集解﹄﹃法華玄
義序﹄の出版が愚初とされる︒﹃天台四教儀集解﹄は現存する最古の活字本とされている︒この他︑京都の寺院
による活字本の出版が見られ︑本能寺・高台寺・本願寺・妙心寺・東福寺などの出版があり︑比叡山や高野山に
も見られるという︒本願寺による出版については︑改めて論じることにする︒
次に民間での活字印刷(民間の出版を坊刻ともいう)
とし
ては
︑
医者である小瀬甫庵(一五六四
3
一六
四
O )
が︑文様五(一五九六)年に﹃蒙求﹄︑慶長元(一五九六)年に﹃十四経発揮﹄などを刊行し︑また︑五十川了
雌︿
一五
七一
‑一
t
一六六一)は慶長七(一六O
二)年から八年にかけて﹃太平記﹄を刊行し︑この他にも﹃元亨釈書﹄や﹃徒然草寿令院抄﹄を刊行している︒この他︑字書類にも相当な数の出版が見られるという︒
活字版 国渓!1tr.籍 65rul
イ
ム 議 55部
平 仮 名 書 1 7部
キりシタン喬 1 7部
片 仮 名 義 1 5 :1~ (内仏書1部)
~ヨ. , 計 1 68部
整 阪 国 漢 典 籍 1 6 il[{
仏 書 5制i
4Eh 2 計 2 1部
仏 奮 の み の 合 計 6 1部
慶長年間(1596""'"[615年)閥版部数
活字版
I
3iJ l英 典 籍 25甜lイ
ム 書 44部
平 仮 名 脅 3部
片 仮 名 寄 1 4部(内仏書2ilJIl
合 計 84部
整 版 国漢!A¥籍 1 4fl1~
{
ム 書 4部
~ヨ』 計 1 8部
仏 書 の み の 合 計 50部
元利年間 (1615""'"1624年)閲版数
また︑個人の活字出版で注円されるのが︑嵯峨本である︒
嵯峨本とは︑芸術家・能書家として有名な︑本阿弥光悦︿
五五八
1
一六
三七
)
による活字印刷であるが︑その芸術性
は高く評価されている︒慶長十
ご 六
O
八)年の﹃伊勢物語﹄などがあるが︑刊記を書かない場合が多くその出
‑311 ‑
版年の詳細は不明である︒
以上のように︑キリスト教や秀吉の朝鮮出兵などによっ
て海外から活字印刷の流入し︑多くの典籍が出版された︒
浅井了宗氏によれば︑慶長年間と元和年間とにおける活
字版と整版とのバランスは︑上図のようになっているとい
V
つ . 言
上図から︑近世ごく初期には︑それまで用いられて
いた整版印刷よりも︑活版印刷の方が隆盛していることが
知られる︒しかし︑活版印刷は次第に衰退し︑印刷方法が
整版印刷に戻るようになる︒
整版印刷に戻った要因は様々である︒例えば︑活字印刷では字をはめ込む際にある程度の見識者が必要であっ
たこと︑印刷を繰り返すと活字が汚れてしまうために組み直す必要があったこと︑大量に印刷することが不可能
であったことなどがあげられる︒また︑読者が増加したことでより読みやすい書物が求められ︑活字印刷のよう
に復雑な版組みが必要な印刷十刀法では対応できなくなったことも︑霊版印刷に戻る一因といわれている︒これら
の理由から︑次第に活字印刷は廃れ︑慶長年間(一五九六
1
一六一五﹀から寛永年間二六.一四1
一六
四回
)の
約五
O
年で活字印刷は表退した︒これ以後︑整版印刷を中心とした︑書籍の大量印制による出版隆感時代が訪れ活字印刷から整版印刷への移行は︑寛永年間ご六‑一四
t
一六四四)頃とされている︒その理由は先にも述べる
‑312‑
たが︑中野三敏氏はその理由を書庫との関連で言及して︑以下のように述べている︒
それまでの旧刊本は専ら寺院等の︑営利を目的としない内部的な刊行事業であり︑古活字も大勢はその例
に洩れない︒しかし慶長十三︹一六
O
八︺年に﹃五家正宗賛﹄を刊行した中村長兵ヱ尉というのは︑恐らく文献に明証を持つ最初の民間の本屋であろうし︑さらに慶長十四ご六
O
九︺年板の﹃古文真宝﹄の奥付には︑はっきりと﹁本屋新七﹂の名が見える︒そして寛永年間には京都に百軒余の本屋が数えられるという(奥
野彦六﹃江戸時代の古版本﹄)︒今や出版は完全に営利事業として町の本尾の手にゆだねられた︒
その時︑営業としての本屋にとって巌も基本的な財克は︑刷り上げられ製本された書物ではなく︑その元
である原版即ち版木そのものであることは言うまでもない︒何時でも注文に応じて増し刷りの出来る態勢を
保持すること︑そして子々孫々にわたって営業を続けるためには原版を持ち伝えることが何よりの条件であ
ろう︒整版はとりも直さず版木という原版を作ることであり︑少々場所はかさばるが︑板木を保存すること
によって何時たりとも増刷は川能である︒即ち財産としての板木が残せるというのが︑整版の最大の利点で
ある
.宮
中野氏は︑近世山版界が営利目的に移行した必然的な流れとして︑活字印刷の衰退を捉えている︒書臨時の隆盛と
盤版印刷への移行とを関連付けた中野氏の見解は興味深い︒
以上のように︑近世初期に入ってきた活字印刷技術によって︑日本でも様々な分野の典籍が出版されるように
なった︒そこには︑かなりの数の仏教典籍の出版も含まれている︒そして︑営利を目的とした書障の台頭によっ
て︑大量印刷に便利な盤版印刷へ移行し︑書籍は爆発的にその数を増したのである︒
本論文で取り上げている西吟は活字印刷から整版印刷へと移行していく出版隆盛の時代を生きた人物であっ
た︒凶吟と当時の出版との関係は後に述べるとして︑ここでは近世における出版の推移を︑浅井了宗氏のまとめ
を拝借して次頁に示しておいた︒それを見れば︑近世における印刷が︑どれほど大量の書籍を出版していたかを
知ることができよう︒
‑313 ‑
次員に掲践した﹁江.戸時代における出版の推移﹂は︑浅井了宗氏の論考から転載した
.5
・浅 井氏 によ れば
︑以 下の 資料 から 作成 した とい う・ 覚文九一六六九)年版﹃新版書籍日録﹄
乎保十凶(.七二九)年刊﹃新撰脊籍同録﹄
明 和 九 一 七 七 三 年 刊
﹃ 大 噌 誇 籍 目 録
﹄
元総石(二ハ九三年刊﹃新朝彫刻広益書籍目録大金﹄
宗暦四(一七五回)年刊﹃新猶書籍円録﹄
世十
・利
元こ
O一)年刊﹃合類書籍円録大全﹄八
E
戸時代における
El
版 のit島蕗震ik 元 禄 亘書白雲 三官雇 明 和 享 和 :京年
台 、, 28 360 517 136 48 13 696
事E 、, 92 38 32 20 162
,
、 37 114 69 14 7 197
厳 ,、 20 31 19 4 16
s o
舎 ,、 15 22 26 8 48
相 ,J, 35 77 68 20 141
高 ,‑, ,、 26 331 506 89 47 63.8
堅実 aFF 、 23 5 28
,、 86 381 637 211 71 82 1033
十 , 42 3S2 460 197 94 82 784 139 116 65 139 396
主婦f年 132
ー ヲ 長 震 典 そ の I11 SS 76 27 250 39 32 351 33 9 10 52 ー名 法語、 4ムー 116 185 38 13 37 168
書 • f~- i 125 360 352 ISO 128 128 736
集 喜 5 52 88 32 S1 60 247
~集聯句その 4 125 2 1 137 124 194 608 〆 63 〆77
字韻 苔書 76 194 58 40 23 45 32 305
事 書 並 有 議 79 135 96 8 34 294
E代 ilfl 伝 記 73 32 37 36 145
事 組 書 106 53 62 13 453
審 l~ 書 18 54 1仰 50 29 78 263 重喜 130 185 96 19 19 297
18
ヨ 74 247 448 187 111 158 890
~ 和 軍 215 88 114 114
書 剖2物 コ 106 213 558 112 47 104 580
歌 日出 ・ー 2S 37 40 46 113 28
鼠・ , ー 28 41 8 38
守 136 478 69 438 154 831
20 24 32 19 52 5岳
司王 66 39 5 75
選 36 72 49 4 23 113
書 21 18 40 40 24 27 132
ヒ 12 19 2.3 2 40
之 7 14 13 12 7 39
19 20 40 11 12 12
浬 7 4 5 7
II 苦藍 17 37 7 11 58
所 Eー単 27 71 63 37 44 209
箱 物 56 126 45 30 52 110
ヲ干 子 197 117 133 117
形 本 59 51 29 19 199
80 163 194
往 来 物 ・ 手 宋 84 179 196 79 166 399
sI 譜 8 17
石 箔 弁 蓄 道 77 138 61 352 783
23 〆275
風 流 説 i T 95 33
総 言f 814 2874 7240 3334 2657 2968 13014部 60609
fム 書 計 237 1694 2813 1322 445 454 34471 41 76 部巻
ー314・
第 二 項 大蔵経の出版と日本
へ の
影
響
J諭
現l、奇,策l
、
IJ、
乗大f乗大f 大乗 開律S単邸R阿合側乗徐 集義論釈経論論 3告単i4l3部量i4r鍍部霊厳華調l集大都積2宮KE般部若経
F
一
。
ー・ 一 ti七 四 六O 三 五 八 五 回 七 二 九 二三 七 : て 三 二 一 六 O八八 六 四 七三O 六 一 七 六O烹 六 六 四 回 二 五 部
予
王0 三 一五 六 回二四 六 三 一五 二二五 ー 一 二 七 ー 四 六七閥 九 四 ‑0 六 五 一五 九 八 五 八 四 六 : 七 八 八三 一 八 六四 四 八 三 五八 凶 云 八 八 八 ー 九 三 三 巻
中国に仏教 が伝来したのは︑後漢明帝の時代(五 七 i 七五)とさ
れ︑経典な どももたらされるよう になる ︒伝来した 仏教経典は ︑中
固において順次 ︑漢訳されて
い っ
た︒当初︑経 典は書写によって伝
播していた
が︑北宋時代以 降は版 本によって普及して
いく︒版本に
よる普及の中
︑特に大き な影響を 与えたのが︑大蔵
経の
編集
であ
る︒
ここでは︑出版の 影響と教義との関連を考 察する前提として︑大蔵
‑315 ‑
経の出版と日本 への影響につ い てまとめておこう
・ = ︒
中国で経典 が漢訳されるに
従 っ て ︑
その数は膨大なものになって
い っ た ︒
そ れ
ら を
最 初
に 蒐
集 し
た の
は 道
安 (
一 一
二
四 1 三 八五)の﹃ 綜
理来経目録﹄である︒その後も︑僧紹の﹃議林園仏教衆経目録﹄や︑
費 長房の﹃歴代三宝配 ﹄ ︑彦綜
・ 法 維 な ど の
﹃ 衆経目録﹄︑静泰の﹃大
唐東京大敬寺 一 切経論同録 ﹄ ︑明詮の ﹃ 大周刊定衆経目録﹄などがあ
る︒特に︑智昇
(