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第1章 保守的な白人多数派都市で孤立する黒人居住区

第1節 ミルウォーキーの特徴

1.1 多様な白人エスニック諸集団と多数派を築いたドイツ系移民

最初にミルウォーキーへ入植したのはソロモン・ジュノーらフランス系カナダ人である が、街の建設はニューイングランドからの若いアメリカ人(英国系)やニューヨークから のオランダ人たちである。初期のミルウォーキーの経済や生活はアングロサクソン系アメ リカ人によって形作られていた124。1840 年代始め頃からドイツ系移民の流入が増加し、

1860

年までにはドイツ系移民とアメリカ生まれの第二世代たちがミルウォーキーの人口 の大多数を構成するまでになっていった125。1848 年のドイツ三月革命以降の政治難民の 流入により、さらにドイツ人人口は増加し、

1880

年までにドイツ系移民の人口がミルウォ ーキー全体の人口の

27%を占めるようになり、ビールやフィッシュフライなどの食文化が

彼らによって持ち込まれただけでなく、社会生活においてもドイツ語やドイツ文化が急速 に目立つようになり、ミルウォーキーは「ドイツアテネ」と呼ばれるようになった。特に

1870

年~第一次世界大戦が始まる

1914

年までの時期を指してこう呼ばれる126。また、

1870

年~1871年の普仏戦争(フランスとプロイセン王国の戦争)後にポーランド人の流 入が増加し、当時、ドイツ人に続き、外国生まれの人口の大多数を形成していった127。 当時の移民の特徴として、ドイツやポーランドからの移民の多くは母国において同じ地 域出身である場合が多く、同胞としての連帯意識が高かったことが指摘されている128。と は言うものの、母国における背景は多様であった。宗教的、教育的機会の向上を求めてミ ルウォーキーに流入したと言われるドイツ系移民に関して言えば、最初にミルウォーキー へ流入した宗教グループは古ルター派(Old Lutherans)で、続いてドイツ・カトリック 系、ユダヤ系、少数宗派、自由思想家らが流入した。多数派を築いたカトリック系、プロ テスタント系のコミュニティでは、言語、伝統、信仰を子どもたちに継承させるべく教区 学校が建設され、授業ではドイツ語が使用された129。ドイツのエスニック性が消えていっ

124 William George Bruce, “Old Milwaukee,” The Wisconsin Magazine of History, vol. 27, no. 3(1944):

295-297.

125 ミルウォーキーへ初めてドイツ人定住者が到着したのは1839年である。この4年前、この地域では 公的な土地売買が開始されている。The Making of Milwaukee, “Ethnic Stories,”

http://www.themakingofmilwaukee.com/people/stories.cfm (accessed March 28, 2015).

126 Milwaukee County Historical Society, “Milwaukee Timeline,” op. cit.; Bayrd Still, “The

Development of Milwaukee in the Early Metropolitan Period,” The Wisconsin Magazine of History, vol. 25, no. 3 (1942): 300-302.

127 Bruce(1944), op. cit., pp.296-297.

128 Still, op. cit., pp.302-303; Robert Booth Fowler, Wisconsin Votes: An Electoral History (Madison:

University of Wisconsin Press, 2008), p.26.

129 Jennifer Watson Schumacher, German Milwaukee (Charleston, SC: Arcadia Publishing, 2009), p.29.

た背景には、第一次世界大戦中の反独気運が大きな契機になったものの、実際には

1890

年代より、ドイツ人コミュニティ内で、ドイツ語と英語の両言語での公教要理(公的教理 の教科書)を使用することが推奨される中で既に始まっていた130。1889 年に州法として 義務づけられたベネット法131 によってバイリンガル教育が脅かされると、ドイツ系住民 は激しく抵抗をし、この法律は間もなく廃止された。しかしその後、移民の同化が進んだ ことと第一次世界大戦での反独感情により、ドイツ語による教育は終わりを迎えた132。 多数派を築いたドイツ系移民は政治的にも影響力を及ぼしていった。

1890

年の市議会議 員の出身を見ると、19人がドイツ系、6人がアイルランド系、5人がアメリカ人133、5人 がポーランド系、1 人がスカンジナビア系であり、ドイツ系市民は政治的にも影響力を持 っていたことが窺える134。ミルウォーキーの政治的な特徴として、

20

世紀初期に産業革命 後にもたらされた社会や生活の変化や文明の拡大、移民の流入など近代の変化への反応と して生まれた革新主義(Progressivism)とともに、特に社会主義運動が盛んになったこ とが挙げられる135。ミルウォーキーの社会主義者らは産業革命がもたらした負の遺産を一 掃するため、公衆衛生を維持する新しいシステムや市営水道・電力システム、公園、教育 システムの改善に関する地方レベルでの刷新を試みた。革新主義と社会主義は別々のリー ダーを筆頭に、別々の言語で訴えていたものの、重なる点が多くあったと言える。社会主 義者は革新主義者が唱える産業における政府の規制に反対していたものの、資本主義シス テムから労働者を守るため、州政府により所有される産業を主体とする経済構造に転換す る方策を模索していた。社会主義者らは労働者階級のための環境改善を目標とし、暴力的 な革命ではなく、政治の効率的な運営を唱道していた136。ミルウォーキーで前述のような 意味での社会主義が隆盛した背景には、当時流入したドイツ系移民の多くが、母国におい てもこうした社会主義運動に対して既になじみが深く、共感を持っていたことが推測され る137

130 Steven M. Avella, “Sebastian G. Messmer and the Americanization of Milwaukee Catholicism,”

U.S. Catholic Historian, vol. 12, no. 3, German-Catholic Identities in American Culture (1994):

87-107.

131 1888年、ウィスコンシン州ドッジヴィルの議員マイケル・ベネットによって、公立と私立のすべての

学校で英語の使用を義務づけるベネット法が提案された。これを受け、ウィスコンシン州では賛否両論 の激しい議論が繰り広げられた。ドイツ語、ドイツ文化への暴挙で外国の影響を一掃させる試みである と捉えられた一方で、同化が移民の子どもたちの成功に不可欠であったと理解される意見もあった。

Scrapbook: Bennett Law, Wisconsin, 1889-1890, Newspaper Clippings (Madison: Wisconsin Historical Society, BV629 S37),

http://www.wisconsinhistory.org/turningpoints/search.asp?id=727 (accessed March 30, 2015).

132 現在、ミルウォーキーでは独英のバイリンガル教育を行う学校は存続する。Schumacher, op. cit., p.29.

133 アメリカ生まれ。ルーツは不明。

134 Still, op. cit., p.301.

135 ミルウォーキーの社会主義への正式な表明として、1897年に社会民主党が結成されると、社会主義者 はこの新しい政党に加わり、ミルウォーキーはアメリカ初の社会主義の都市となった。Wisconsin Historical Society, “Milwaukee Sewer Socialism,”

http://www.wisconsinhistory.org/turningpoints/tp-043/?action=more_essay (accessed March 30, 2015).

136 Ibid.

ミルウォーキーにおける経済・産業的発展の基礎は、商業と食品・皮革加工産業を中心 に、鉄道網の拡大と港湾の発達に支えられ、1860年代~1870年代には小麦粉の製粉、食 肉処理や加工包装、皮革を作るなめしの工程、ビール醸造など次々と産業が振興する先駆 的都市となった。しかし

19

世紀終わりには、重工業の発展を遂げ、

1909

年までに、製造、

機械、鉄鋼などの個々の工場が統合され、大きな製造業が発達した。当時、国内で

12

番 目の産業都市と言われていたが、バッファロー、クリーヴランド、デトロイトなどと並び 製造業労働者が多く、その中には外国生まれの移民も多く含まれていた。街の地形、地理、

交通機関などといった点で有利な場所に産業や商業が発展し、その労働者の生活の必要性 に伴い、住宅やコミュニティが発展していった138

1870

年代に給水や下水といった市の公共サービスが導入され、19 世紀終わりから

20

世紀にかけて、人口増加に伴って住宅が増加したが、ミルウォーキーにはいわゆる「テネ メント」と呼ばれる集合住宅は少なく、人口の半数以上が家族毎の住居を持ち、複数家族 が共有するような状況は比較的少なかった。市内の環境汚染や移民の増加に伴って、富裕 層の郊外化が路面電車の普及によって促進されていったが、

1905

年においてはまだ、専門 家や経営者、ホワイトカラーの労働者らの大半は市の中心部に居住していた。また、ミル ウォーキーの郊外居住者は比較的に高い割合で労働者階級や移民が含まれていた139

1920

年において、ミルウォーキーは国内で

13

番目に人口が多い都市であったが、人口密度は ニューヨークの次に高い都市であった(表

2)

。1920 年代の自家用自動車の普及は市の中 心部の白人居住者の郊外化を加速させたが、郊外居住者の税収を取り込むため、市は郊外 区の合併を続け、州の最高裁で禁じられる

1950

年代まで行政区の拡大が続けられた140

1.2 ミルウォーキーの黒人の就労状況の特徴

1870

年から、ミルウォーキーの街が商業都市から産業都市へ変化していく中で、黒人人 口も徐々に増加した。同時期、ニューヨークやシカゴなどの北部諸都市では南部からの大 勢の黒人の流入により、黒人のゲットーが北部都市のあちこちに形成された時期であった。

多くの黒人が流入した北部諸都市では「人種」の障壁によりコミュニティが分離され、白 人と黒人の間での職や住居の獲得競争が敵対心を生んでいったと言われている。ミルウォ ーキーでの黒人の経験は、一般的な北部諸都市の黒人のものと並行する一面もあったが、

以下に述べるような点で独自の特徴が目立つものであった。違いを生んだ三つの要素とし て、ミルウォーキーの黒人人口が比較的に少なかったこと、都市経済においては他の北部 都市と比べ、比較的落ち込んだ状況にあったこと、さらにより経済・社会的魅力のあるシ

138 Simon, op. cit., pp.15-18; Bruce (1918), op. cit., pp.5-10.

139 Simon, op. cit., pp.24-50.

140 Simon, op. cit., p.130