1.本分析の概要
1986年に、それまでの社会主義計画経済からドイモイ政策へと転換し、1990年代以降、
急速に市場経済化が進展したベトナムでは、経済発展と同時に国内の人口移動が活発とな った。特に、1996年の共産党大会において 2020年の工業国化を目標に掲げて、翌 97 年 には WTO に加盟してグローバル経済に組み込まれたことによって 、その動きは加速して おり、首都ハノイ市や南部の商業都市ホーチミン市の人口はすでに800万人を超えている。
近年は、中国における生産コストの上昇や 米中貿易摩擦等の事業リスクの増大により、製 造業の生産拠点が中国から近隣諸国へとシフトされる受け皿国として、日系企業をはじめ とする外資系製造業の進出が著しい。一方で、これまで国内の地域間所得格差は比較的小 さい27とされていたが、近年は年々拡大する傾向にある。
ドイモイ政策以前のベトナムでは、旧ソ連の指導による計画経済の下、他の社会主義国 と同様に戸籍登録制度や開拓移民制度を使った政府による人口移動管理が厳格に運用され、
生活必需品等の配給制度28も存在したため、自由な移住が実質的に不可能な状態であった。
ところがドイモイ政策以降、市場経済化の実現にむけた労働力の流動性が必要となり、こ れらの制約が徐々に緩和されて、条件付きで戸籍の移転が可能になったほか、一時居住も 事実上黙認された。そして、2006年に制定された居住法において「一時居住の自由」を認 めたことにより、すべての人民の国内移住を正当化する法的根拠が整備され(貴志、2011)、
それまで制限されていた戸籍の移転条件も大幅に緩和された。その結果、省や地域29を跨 いだ人口移動が急激に拡大し、図表 15 のとおり、地域を跨ぐ移動者数は 1995 年-1999 年の5年間から 2005年-2009年までの 5年間の間に77 %も増加した。このうち、東南 部への流入者数が3倍弱にまで急激に増加しており、特にメコンデルタ地域からの流出者 数が 3倍強に、北・南中部沿岸部からの流出者数も約 2倍に増加しており、この 10 年間 で流入および流出する地域がより鮮明になっている といえる。また図表 16 は、本分析で 使用する 2011 年から 2012 年の年間移動者数データにおける地域間の移動者数を示して いるが、近年は毎年全人口の 0.6 %程度が地域を跨いで移動しており、その規模が社会に 与える影響はけっして無視できない水準にあるとい えよう。ここでも、北・南中部沿岸部 とメコンデルタ地域から東南部への流入が目立っている。今後もこのような人口集中の流 れが続けば、中国や他のASEAN諸国と同様に、大気汚染やゴミ処理、排水などの問題を
27 世 界銀 行 ウェ ブ サイ トに よ る と、 ベ トナ ム の2012年 の ジニ 係数 は35.6で 、 中国 やタ イ 、 イン ド ネシ ア 、フ ィ リピ ン など のASEAN諸国 よ り低 い とさ れ る。
28 ベ トナ ム 政府 に よる 配給 制 度 はバ オ カッ プ と呼 ば れ、 直 訳 する と 「丸 抱 えで 供 給す る 」 とい う 意味 で ある 。 29 本 分析 で いう 地 域は 、ベ ト ナ ム全 土 を、 北 部山 岳 、紅 河 デ ルタ 、 北中 部 ・南 中 部沿 岸 、 中部 高 原、 東 南部 、 メ
コン デ ルタ の6つ に分 類 した もの を 指す 。
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深刻化させていく可能性が懸念される。特に公共交通機関が未発達のベトナムではバイク が市民の足として活用されており、輸送セクターが大気汚染の主因となっている (環境省 ウェブサイト)ことから、人口集中による環境汚染の深刻度は近隣 の他国よりも高くなる ものと推察することができる。
図表 15 ベトナムの年平均国内移動人口比較(1995-99年と2005-09年)
出所:General Statistics Office(2012)データより筆者作成
図表 16ベトナム国内の地域間人口移動の概況(2011年 4月 1日から2012 年4月 1日)
出所:General Statistics Office(2012)データより筆者作成
ところで、1 章で述べたとおり、ベトナムはその歴史的経緯から、南北にそれぞれ大都 市が発展しており、開発途上国でよくみられる首都への一極集中という一般的な人口移動
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モデルではなく、より複雑なモデルになっていることが 考えられる。また、近年は都市部 と農村部の経済格差の拡大が懸念されており、現在のベトナムにおける国内の人口移動の 決定要因を、省別マクロデータを使って実証分析することは、単に首都を中心とした都市 部への移動か農村部に留まるかという二者択一の人口移動モデルではなく、南北の二大都 市圏から移動先を選定できる点において、 人口移動に関する意思決定をより実証的に分析 することが可能になるのではないかと考えられる。
図表 17 ベトナム地域別全図
出所 : ベト ナ ム農 業 だよ りウ ェ ブサ イ ト(http://www.ne.jp/asahi/vietnam/agriculture/index.html)
ここで、ベトナムの6つ30の地域特性について簡単に紹介しておく。
30 本 分析 で は、 図 表17に 示さ れ た7つ の 地域 の うち 、「北 中 部沿 岸 地域 」 と「 南 中部 沿 岸 地域 」 を一 括 して 、
「北 ・ 南中 部 沿岸 地 域」 と し て扱 う 。
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(北部山岳地域)
この地域は中国と国境を接している。山岳が多く、かつ少数民族比率が比較的高いこと が特徴である。低地における稲作よりも、高地におけるキャッサバやお茶の生産、家族経 営による畜産が盛んである。地域全体として、他の地域より工業開発が遅れている。
(紅河デルタ地域)
首都のハノイ市と中央直轄市のハイフォン市を中心とする。ハノイ市が政治や商業の中 心である一方、ハイフォン市は工業開発拠点、また港湾都市としてベトナム北部の重要な 産業拠点となっている。また、このデルタ地域は広い稲作地帯であり、伝統的に農業が盛 んでもある。
(北・南中部沿岸地域)
北中部沿岸地域は、ベトナム最後の王朝グェン朝時代の首都であったフエ市を中心とす る。ホー・チ・ミン元主席の出身地でもあるが、自然災害も多く、ベトナムで最も貧しい 地域とされる。また、南中部沿岸地域は、中央直轄市のダナンを中心としている。ベトナ ム戦争時に米軍の中心基地があった関係から 、人口や経済活動が発展しており、近年は周 辺での工業生産の拡大がみられる。両地域とも海洋漁業が盛んである。
(中部高原地域)
地域の大部分が高原であるため、コーヒー豆や野菜、サトウキビなどの生産が盛んであ る。これらの農村には、低所得の少数民族が多く居住しているのが特徴である。
(東南部地域)
旧南ベトナムの首都であったホーチミン市を中心とする地域で、古くから商工業の中心 であった。1990年代以降、早くから海外からの直接投資を吸収し、ベトナムで最も重要な 工業地域である。その一方で、ゴムやサトウキビなどの農業生産も多くみ られる。
(メコンデルタ地域)
肥沃なメコンデルタ地域における稲作が最も重要な経済活動であ る地域である。三期作 が可能なため、人口一人当たりの米生産量が高く、沿岸部では海洋漁業や海老の養殖など の水産業も盛んである。
次に、図表 18は同じく 2011-12 年データにおける流入先と流出元の上位 5省を示して いる。ハノイ市とホーチミン市の現在の人口は、2012 年の時点でともに 700 万人を超す 規模にまで拡大していたものの、必ずしも両市だけに人口が集中しているというわけでは なく、両市からも相当数が流出していることが確認できる。つま り、すでに述べたように、
ベトナムにおける国内の人口移動は、よくみ られる首都への一極集中ではなく、より複雑 な要因によって意思決定されていると考えられるのである。
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図表 18 ベトナムの人口流入先と流入元の上位5省(2011-12年)
出所:General Statistics Office(2012)データより筆者作成
以上を踏まえ、本章では 2011年から2012年の国内居住省の変更人口を被説明変数とし たトービットモデルによる分析をおこなった。
2.推定結果
図表19は記述統計量を、図表20は推定結果を示している。
分析の結果、移動者数は流出元および流入先の人口に正に有意、距離には負に有意とな り、ベーシックな重力モデルが有効となる一方で、流入先の一人当たり所得に対しては負 に有意となり、Greenwood(1997)らで示されたモデルとは一部異なる結果が得られた。
人口構成の指標については、流出元の人口密度が負に有意であり、人口密度の低い地域 からの人口流出が多いことを指摘している。また、流入先の性比が正に有意なことは流入 先には男性が多いことを示し、さらに少数民族比率の高い地域への人口流入が多いことは ベトナム国民の 86 %をしめるキン(ベト)族とその他の少数民族31との融合が進展して いるものと考えられる。また、流出元の粗出生率や離婚率は負に有意であり、出生率や離 婚率の低い地域から人口流出が多いことが確認できた。
経済的な指標では、流出元の建設完工高が正に有意であり、建設業の発展が必ずしも人 口流出を抑制する要因とはならないと考えられる反面、流入先の小売売上高や貨物量が正 に有意なことは活発な経済活動が人口流入を促進させていると考えられる。また、旅客数 では流出元・流入先ともに負に有意となっており、観光産業が発展している省では人口移 動自体が少なく、住民が固定化する傾向にある可能性が考えられた。
企業に関する指標では、活動企業数の少ない省から多い省への人口移動が確認でき、人 口比の企業数が移動に大きな影響を及ぼしていることが示された。特に、資本金が約8千
31 ベ トナ ム では 全 体 の85% を 占め る キン 族 (ベ ト 族 ) の ほ か に53の 少数 民 族が 存 在す る 。