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ドイツにおける移民児童生徒を取り巻く社会的状況

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1-1  ドイツ社会における移民問題の概要(1950 - 90年代)

  事実上の移民国家となって久しいドイツ連邦共和国には、さまざまな国からそれぞれの 動機に基づいた人々が移住している。代表的な集団としては、1955年から 1973 年にかけ て二国間協定に基づき募集された外国人労働者、ドイツ系であることを証明してドイツ国 籍を取得するアウスジードラーと呼ばれる人々、他国での政治的迫害から逃れてきた庇護 権者、欧州連合の発足によりさらに流動性の高まったEU市民などが挙げられる。

2005年のマイクロセンサス(抽出国勢調査)によれば、外国人人口は732万人で全人口

の8.9%を占め、そこに移住背景をもつドイツ国籍者(上掲のアウスジードラーや帰化した

人など)を加えると、その数は1,533万人となり実に全人口の18.6%に達する73

  言語、文化、国籍などが多様な人々からなる社会における教育を探究する学問領域は、

日本語では「多文化教育」「異文化間教育」「異文化教育」などと呼ばれるが、ドイツ語圏 では「異文化間教育」に相当する“Interkulturelle Pädagogik”の語が用いられることが多い。

ドイツでこの異文化間教育という分野が形成された契機は、先に触れた外国人労働者の子 どもの教育問題である。ドイツ連邦共和国(統合前のいわゆる旧西ドイツ)は、1950年代 に「奇跡的経済復興」(Wirtschaftswunder)とよばれる産業の活性化を経験するが、第二次大 戦による壮年男性人口の喪失により労働力が不足していた。この労働力を補うため74に、

二国間協定に基づいて外国人労働者が募集されたのである75。二国間協定は、1955 年 12 月20日にイタリアと結ばれたのを皮切りに、ギリシャ、スペイン(1960年)、トルコ(1961 年)、モロッコ(1963年)、ポルトガル(1964年)、チュニジア(1965年)、ユーゴスラビ ア(当時、1968 年)とそれぞれ結ばれた(括弧内は締結年)。これらの国からの外国人労 働者は当時「ガストアルバイター」(Gastarbeiter; guest worker)、すなわち客員労働者と呼ば れ、その“Gast”(客)という表現が象徴するように、一時的な滞在者でいずれは出身国に 帰国するものと思われていた。

1973年にEC加盟国以外の国からの外国人労働者の募集は停止され、また、一連の帰国 促進政策がとられたが、かつて外国人労働者が募集されたこれらの国々(以下、旧募集国)

の出身者の多くは、経済的あるいは社会的な理由からドイツにとどまることを選択し、さ らに母国からの家族の呼び寄せも加速した。

73 Statistisches Bundesamt (2007): Bevölkerung und Erwerbstätigkeit. Bevölkerung mit Migrationshintergrund – Ergebnisse des Mikrozensus 2005 S.26f.

74 主たる理由は本文で述べた通りであるが、その他の理由として、製造・サービス業の拡 大、労働時間短縮・年間休暇伸長・定年の前倒し・教育年数の長期化による労働力不足、

連邦国防軍・連邦国境警備隊の設置、アウスジードラー・ユーバージードラーの減少など も挙げられる。

75 外国人労働者には、歴史的には19世紀後半に始まる炭鉱労働者および農業労働者、ナ チス体制期の強制労働による外国人労働者(Fremdarbeiter:1943年当時520万人)、さらに はドイツ民主共和国(旧東ドイツ)が共産圏から募集した外国人労働者もいるが、本論文 における外国人労働者とはこの二国間協定に基づく外国人労働者のみを想定している。

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  そのような経緯から1960〜70年代にかけて外国人が急増した最大の理由は、旧募集国の 出身者の滞在長期化と家族の呼び寄せであり、外国人に占める旧募集国出身者の割合は低 下しているとはいえ現在でも依然として高い。次に掲げるのは、1965〜1978年度の外国人 児童生徒数(職業学校を除く)の推移を表す統計である。

表:ドイツ連邦共和国における外国人児童生徒数(1965〜1978年度)

出典:Siewert (1980), S.1090f.より作成

  この時期の外国人児童生徒数の増加と、その増加に旧募集国の国籍の子どもたちが貢献 したことが明らかである。これに続く1979年度に外国人児童生徒は552,000人に達し、こ れは前年比 12%増、1965 年度比で約 16 倍という急増ぶりであった。そして、この 1979 年度の外国人児童生徒のうち、先の表でも挙げられた代表的な旧募集国6カ国の児童生徒

の割合は86%となった。内訳は、トルコ(45.7%)、イタリア(13.4%)、ギリシャ(8.9%)、

ユーゴスラビア(10.3%)、スペイン(4.5%)、ポルトガル(3.3%)である(Hopf 1981, S.841)。   以上の基本データから、1960〜70年代の外国人労働者およびその家族の増加が量的に圧 倒的かつ急激であったことが理解されよう。よって、1980年前後に議論された外国人問題 の中心にあったのは、これら外国人労働者とその家族の問題であり、教育研究の対象はも っぱら外国人労働者の子どもたちの問題であった。

外国人の子どもに対しても就学義務があったことから就学率は当初より高い水準を保っ ていたものの、学業達成に関しては厳しい状況であった。1980 年に発表された研究では、

外国人生徒の約3分の2は(最低限の卒業資格である)基幹学校修了証を手にできず、そ れゆえほとんどが職業教育を受けていないこと、2 割以上の児童生徒が授業には出ていな

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いこと、実科学校やギムナジウムに上がる割合が極端に低いことが指摘されている76。   さて、先に掲げたのは旧西ドイツ地域全体の統計であるが、外国人労働者募集の背景か ら推察されるように、かれらの多くはルール地帯に代表される工業地域などの人口集中地 域に暮らしている。1992 年時点で全外国人の 60%以上がそのような地域に住んでいた

(Gogolin/ Neumann & Reuter 1998, S. 664)。また、旧東ドイツ地域の外国人人口割合は最も 高いブランデンブルク州で 2.6%であるのに対し、旧西ドイツ地域全体の平均は約 10%で あり、旧西ドイツ地域内でもシュレースヴィヒ・ホルスタイン州の5.4%からハンブルク都

市州の 14.2%と各州間の外国人人口割合の開きは大きい77。外国人人口の分布が一様でな

いというこの事実に留意しておく必要がある。

  しかし、当然のことながらドイツに暮らす移民は外国人労働者とその家族だけではない。

その種類と概数について、以下に整理する。

庇護申請者/難民 

  ドイツ国内での保護を希望する外国人は、庇護申請とよばれる申し出を行い、以下のい ずれかに該当する場合に滞在が許可される。

①庇護権者(Asylberechtigte)

庇護権者とは、庇護権規定に基づく難民認定の請求を行って認定された人々をさす。庇 護権規定とは、ドイツの憲法に相当する基本法において「政治的に迫害されている者は、

庇護権を有する」(第16a条1項)と定められた条文である。

②条約難民(Kontingentflüchtlinge)

庇護権を請求して却下されたもののジュネーブ難民条約(正式には「1951年7月28日 の難民の法的地位に関する条約」)に基づいて国外退去とはされない場合、条約難民として 認定される。法的根拠となるのは滞在法第60条1項で、そこには「1951年7月28日の難 民の法的地位に関する条約の適用により、人種、宗教、国籍若しくは特定の社会集団への 帰属又はその政治的信念のために生命又は自由を脅かされる国への外国人の国外退去強制 は、許されない」とある。ジュネーブ難民条約は、国連総会決議に基づき、26カ国の代表 からなる全権会議において採択されたものであり、その第1条に、難民とは「人種、宗教、

国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受け るおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であっ て、その国籍国の保護を受けられない者またはそのような恐怖を有するためにその国籍国 の保護を受けることを望まない者」と定義されている。

③「事実上の難民」(de-facto Flüchtlinge)

上の二つには該当しないが、滞在法第60条2,3,5,7 項に基づき、国外退去の強制を禁止 される場合がある。出身国に送還した場合に危険にさらされるおそれがある外国人は、「事

76 Schwarzer/ Arzoz (1980), S.877

77 丸尾(2007a)、p.17

35 実上の難民」として認定される。

以上は、庇護の申し出を行った場合の手続きであるが、この他にも「戦争避難民」78、「割 り当て難民」79、「ユダヤ人難民」などが難民として滞在権を得る場合がある。

庇護権申請者の急増と庇護権規定改定 

基本法16(1993年以降は16a)条を法的根拠とする庇護権申請者数は、1990年代に入っ て急激に増加する。以下は、1955年から 2007年までの庇護申請の推移を表したものであ る。

Quelle: Bundesamt für Migration und Flüchtlinge: Asyl in Zahlen 2007 (Stand: 31.12.2007), S.9 1980年には庇護権申請者数が初めて10万人を超え(107,818 人)、その後いったん減少 に転じるものの再び増加する。1980 年代後半から1990年代初頭にかけて申請者数が急増 する模様は上のグラフから明らかであり、特に1992年の申請者数の多さは突出している。

この年には438,191 人から申請が出されている。もっともこのすべてに滞在権が付与され るわけではない。決定件数が最多となった1993年の場合、庇護権者として認定されたのは 対象となる513,561人のうち3.2%に相当する16,396人に過ぎなかった。その他は、申請却 下ないし手続き終了となっている。

庇護権に関する基本法規定の趣旨について、広渡(2002)は「難民受け入れの国際法的

78 内戦による迫害を逃れてきた戦争避難民では、旧ユーゴスラビアからの難民が代表的で ある。1992年には、ボスニア・ヘルツェゴビナから約二千人の難民を受け入れた。

79「割り当て難民」とは国際的に一定の割合で割り当てられた難民のことで、1980年代に はベトナムから、1990年代には旧ソ連からの難民が多かった。

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