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ドイツにおける異文化間教育研究の理論的基盤

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  本章では、本研究の関連分野における理論的展開を確認する。その目的は、本論文の位 置づけを明確にすること、ならびに次章以降における考察の基礎となる理論を整理するこ とにある。

  よって、まずドイツにおける外国人/移民の子どもの教育に関する研究の進展を詳しく 振り返る(2-1  研究の対象および理論の推移)。それらの研究の中でも特に重要と思われ る指摘について取り上げる(2-3  学校教育が持つ国民国家的性格の批判的検証)。最後に、

多言語教育に関する論点をいくつか確認することにしたい(2-5  多言語教育の主要論点)。

2-1  研究の対象および理論の推移

  ドイツの外国人/移民の子どもをめぐる教育問題への学術的対応の変化については、急 増する外国人児童生徒への教育的措置を考察の中心に置いた「外国人教育学」から始まり、

それに対する批判を経て、ドイツ人児童生徒を含めたすべての子どもに対する「異文化間 教育」が形成されたと説明されることが多い。しかし、この解釈には反論もある。ある時 期の教育学研究がすべて「外国人教育学」で、「異文化間教育」のすべてが外国人教育学批 判を解消したものとして外国人教育学から置き換わっているわけではないからである。そ れでもなお、外国人教育学から異文化間教育へという大きな流れに沿って、研究の推移を 追うことには一定の意義があると考えられる。よって、外国人教育学と呼ばれていた時期 の研究の中にも今日言うところの異文化間教育的視点が含まれ、異文化間教育を自称する 研究の中にも外国人教育学批判として指摘された問題点の残ることがある点に留意しなが ら、本論文の関連研究がどのように発展してきたかを以下のように整理した。

外国人労働者の子どもの教育 

  増加する外国人労働者の子どもに最初に注目したのは、教育学の研究者ではなく、社会 活動(Soziale Arbeit)に従事する人々であった。異文化間教育の前史ともいえるこの時期の動 きを以下に見ていくことにする。

  1960年代の社会活動について、Hamburger(2005)は次のように整理する。「1960年代に始 まる発生期に特徴的なのは、相談所をもつ福祉団体だけではなく、市民運動グループや積 極的に参加する人々であった。このような集団と個人とは、程度の差はあれ、ゆるやかな 結びつきで、相互に結ばれたり、調整されたりしていた」157。代表的な活動の担い手であ ったのは、ドイツ・カトリック学生統一(Kath. Deutsche Studenten-Einigung; KDSE)のプ ロジェクトグループ「外国人労働者」(Ausländische Arbeiter)やKDSEの後身である「カト リ ッ ク 学 生 協 会 支 援 チ ー ム 」(Arbeitsgemeinschaft der Kath. Studenten- und Hochschulgemeinden; AGG)、前掲のプロジェクトグループが独立した「外国人支援市民運

157 Hamburger, Franz (2005): Die langen Wellen des Engagements. Zur Verabscheidung von Hermann Scheib. In: Migration und Soziale Arbeit. 27Jg. 2, S. 84

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動グループ連盟」(Verband der Initiativgruppen in der Ausländerarbeit; VIA)である。このよう な活動は現在に至るまで引き継がれ、そのような実践活動と学問とを結びつける役割を果 たす機関に「社会事業・社会教育研究所」(Institut für Sozialarbeit und Sozialpädagogik e.V.;

ISS-Frankfurt a. M.)がある。ISSは1979年から雑誌『外国人事業情報』Informationsdienst zur

Ausländerarbeit(IZA)を刊行する。IZAは実務家向けの情報提供誌として始まったが、移

民と社会事業に関する学術誌の傾向を帯びてきたことから1996年に改名され、現在は『IZA  雑誌・移民と社会事業』IZA Zeitschrift für Migration und Soziale Arbeitとなっている。

  外国人児童生徒に対する教育学的関心を表現する先鋒となったのは、コッホの著作『ド イツの学校における客員労働者の子どもたち』(1970)158とされ、同時期の研究には、ホー マン「ライン川下流の工業都市におけるスペイン人客員労働者の子どもたち」(1971)やミ ュラー編『ドイツの学校における外国人の子どもたち』(1974)などがある(Schmidtke 1994,

p.70)。これら 1970 年代前半に見られる外国人児童生徒に関する初期の研究は、その分類

の仕方が粗く、「南から来た子どもは、われわれの緯度上にいる同年代の子どもと違う気性 で活動する」というような表現も見られる(同上)が、当時の著者たちが目下の課題とし ていたのは、「ドイツ語を母語としない子どもたちが、ますます多く学校に来ていることへ の注意を喚起することであった」(同上)ことを考慮しなければならない。外国人生徒

(ausländische Schüler)というような大分類も「学校当局に追加措置を講ずるよう請求する ためには意味があった」(同上)のである。

  その後、時間の経過と研究の蓄積に伴って、外国人児童生徒を対象とする研究は彼らの 出身国別の分析や事例研究へと細分化、専門化されていく。そして、1970年代後半から「外 国 人 教 育 学 が 教 育 学 の 比 較 的 独 自 な 下 位 分 野 と し て 形 成 さ れ る よ う に な っ た 」

(Krüger-Potratz 1983, p.172)。

  Hohmann(1987)によれば、異文化間教育の概念・構想がドイツで初めて登場したのは、

1974 年の J.Vink による論考「外国人生徒に対する学校外支援措置」(“Außerschulische

Förderungsmaßnahme für ausländische Schüler”)159であったが、影響力を持ったものとしては、

R.Pfriem/J.Vink の著になる『幼稚園における異文化間教育のための資料』(1980 年)

(“Materialien zur interkulturellen Erziehung im Kindergarten”)であったとされる。また、

Hohmann(1987)は初期の異文化間教育研究に大きく寄与した国際的な研究の例として、

Chmielorz(1985), Boos-Nünning/Hohmann/Reich/Wittek(1983), Mauviel(1982)160を挙げている。

158 Koch, Herbert R. (1970): Gastarbeiterkinder in deutschen Schulen. Königswinter. Thränhardt

(1975; 1999) によれば、その内容は、ドイツ民主共和国やスイスとの比較、出身国の教育

制度の紹介、外国人児童生徒の受入れ状況やバイリンガル教育学校の現状報告等を通した 考察となっている。

159 Müller, H.(Hg.): Ausländerkinder in deutschen Schulen, Stuttgart, S. 127-142

160 Chmielorz, A.(1985): Der Europarat und die Migration in Europa. Pädagogische Diskussionen in seinen Gremien und die Entwicklung von Konzepten für den Unterricht von Migrantenkindern, Frankfurt/Bern; Boos-Nünning, U./Hohmann, M./Reich, H.H./Wittek, F.(1983):

Aufnahmeunterricht—Muttersprachlicher Unterricht—Interkultureller Utnerricht, München;

Mauviel, M.(1982): Transcultureele Pedagogiek: De twee maten nagemeten, Leiden(Manuskript).

82 外国人教育学批判 

外国人労働者の子どもたちの教育問題が1970年代に顕在化し、それへの対応が「外国人 教育学」(Ausländerpädagogik)という新しい研究領域を生じさせた。この外国人教育学に対 する批判が1980年代初頭に活発となり、それを経たことによって現在の「異文化間教育」

(interkulturelle Erziehung)の展開があるとされる。外国人教育学は、政治学、社会学、法学 などさまざまな学問が、それぞれの領域で、あるいは学際的に、外国人労働者を中心とす る外国人に起因する問題に取り組んだ「外国人研究」(Ausländerforschung)の一領域をな している。この外国人研究について、1970年代の傾向をGriese(1981)は以下のように分 類する。

―1970年代初めの外国人労働者の労働・居住・生活状況に関する総括

―子どもたちの学校や言語の問題と、それが学校生活にもたらす結果に焦点化した教育学 志向の研究

―社会化、統合、アイデンティティの問題に関する社会科学的分析、具体的には、言語や 文化の転換とその帰結の分析、複雑な問題群を理論的に把握する試み、将来予測の手が かり

―政治的、法的な限定条件、特に外国人政策と外国人法に関する著作

―実践に即した出版物(プロジェクト、モデルケースとなるべき試み、教育的措置、およ びそれらに関する批判的評価をまとめた概括)

  外国人教育学はこれら外国人研究の研究成果と相乗的に進展していた。しかし、その当 時の研究は、外国人児童生徒をめぐる学校教育の具体的な問題を出発点としているものが 多かったため、外国人児童生徒がいかに異質の存在であるかということを証明するような 現象に集中していたとされている(Gogolin et al. 2003, p.2)。

1970年代後半から1980 年代初頭、その外国人教育学の展開について批判する声が高ま った(Hamburger 1991, p.47)。これが外国人教育学批判である。この背景には、一方で、

オイルショックに連なる景気後退、それに伴う失業問題や政治動向によって、1970年代に 外国人に注目が集められ、その議論の帰結として「ドイツは事実上の移民国家となった」

という認識が広がったことがあり、他方では、同時代の新しい論説が学問的な寄与をもた らしたことがある。

移民国家という自己認識の広がりについては、1979年に出されたいわゆるキューンメモ ランダム(das ”Kühn-Memorandum”)161をはじめとして、一定の期間の後に母国へ戻るこ とが想定されていた外国人労働者が、事実上の移民として捉えられるようになっていた。

その認識の変化により、外国人問題の議論の出発点は、それまでの「帰国か統合か」

(Rückkehr oder Integration)という点から、社会の「不均質性」(Heterogenität)という点へ移 されていった。

161 正しくは、『ドイツ連邦共和国における労働移住者の統合に向けた覚書』(Memorandum zur Integration der Arbeitsimmigranten in der BRD)といい、元ノルトライン・ヴェストファ ーレン州政府首相のH.キューン(Heinz Kühn)を長とする委員会による最終報告書であ る。

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また、同時代の学問的寄与に関しては、ブルデューのハビトゥス論やグラムシの文化的 ヘゲモニー論の影響(Krüger-Potratz 1983)やハーバーマスの「生活世界の植民地化」論の 受容(Hamburger/Seus/Wolter 1981)などが指摘される。

そのような経済的、政治的、学問的な時代状況のなかで、外国人教育学に批判の目が向 けられることとなったのである。外国人教育学は、そもそも外国人児童生徒の急増という 社会的現実への応答として始まったために対症療法のような傾向が強く、一学問領域とし ての理念や目標の確立をめざす議論が不足したまま、自然発生的に拡大している面があっ た。その原因には、政策、経済の見通しおよび外国人労働者の将来設計などが不確定であ ったため、教育学が外国人児童生徒に必要とされる教育理念・内容についての長期的な展 望を持てなかったことが考えられる。しかし、それら社会的要因の不確定性を考慮に入れ た上で、外国人教育学が問題とする状況を明示し、その問題に対して教育が果たすべき課 題を明確にすることが求められるようになったのである。

外国人教育学の孕む問題性 

  では、その外国人教育学批判の内容を見ていくことにしよう。外国人教育学への批判は、

次の四点に要約される。

  一つには、外国人教育学が外国人児童生徒の問題をすべて解決できるかのように捉えら れているという批判である。これは、外国人児童生徒の問題が本質的には政治的、社会的 な制限による問題であり、教育学にできることは解決ではなく、いくぶんの軽減に過ぎな いという指摘である。

二つには、外国人教育学に見られる誤った文化理解に対する批判である。文化変容162と いう現実に教育学からの取り組みが遅れているという指摘も含まれる。

三つには、外国人教育学がドイツ人の持つ潜在的優位性を看過していることに対する批 判である。教育理念、方法について、それまで自明であったことを省察する必要性を投げ かけるものであった。

四つには、外国人教育学の持つ隔離傾向に対する批判である。ラベリングの危険性につ いても論じられた。

以下、この四点それぞれについて詳しく見ていくことにする。

①外国人教育学の限界の指摘

1980 年 、外 国人 イニシ アテ ィブグ ルー プ連盟 (Verband der Initiativgruppen in der Ausländerarbeit, VIA)163によって催された年次大会で、「外国人問題の教育学化反対」(Wider

162 ここでいう文化変容とは、外国人児童生徒がドイツ社会で生活することによって生じる 出自文化の変容を指している。具体的には、言語の習得や学校文化への適応、同年代のド イツ人児童生徒との交流やマスメディア等を通じて複合的に形成された個人の文化的アイ デンティティは、出自文化のそれと比較した場合に大きく異なることの指摘である。

163 VIAは移民と難民の保護活動に従事する諸団体の上部団体で、1979年に設立された。

2000年に異文化間事業連盟(Verband für interkulturelle Arbeit: VIA)と名称変更し、2004年 12月時点で99の団体がここに属している。主な活動はセミナーや集会などによる研修、

広報活動、地方・連邦・ヨーロッパの各範囲で政党や官庁の委員会における加盟グループ

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