1. はじめに
文献資料による音韻史的研究は、歴史上に起こった音韻変化に対して、微細にわたる音 声学的分析方法を取ることには限界があるが、音韻論的な問題を解釈するにも「一般音声 学」的な理論に従わなければならない。「一般音声学」的な理論でも解釈できない場合に は、個別言語における個別的な事情があるか、あるいは「一般音声学」的な理論に不十分 な点があるか、などの理由をさらに考えるべきである。例えば本節で考察する、室町時代 に起こったツ・ヅにおける破擦音化の場合は、文献資料の考察によってその発生時期や発 生過程を論証することはできるが、母音に対する従来の認識によってその音韻変化の原因 を解明することは難しい。
そもそも広く使われている IPA でいう基本母音は舌面で調音するものばかりであり、
舌尖の調音関与については十分に考慮されているとは言い難い。しかし、舌尖が調音に関 与する母音、いわゆる舌尖母音は中国語の諸方言にも観察され、中国語の音韻史の事情を 説明するのに欠かせないものである。この節では先学の論述や、文献資料の考察を通し、
中国語音声音韻学でいう舌尖母音[ɿ]がス・ズ・ツの母音/u/の異音であることを論じる。
さらにその舌尖の調音関与という特徴が日本語音韻史上のツ・ヅの破擦音化や、現代日本 語の母音の無声化を引き起こす要因であると考える。
2. ツ・ヅの破擦音化の問題点
室町時代における「四つ仮名」混同の先行条件としては、チ・ヂ・ツ・ヅの破擦音化が 問題にされる。つまり破裂音であったチ・ヂ・ツ・ヅの子音[t][d]が破擦音[ts][dz]となり、
シ・ジ・ス・ズの[s][z]に近づいたことが、「四つ仮名」混同のきっかけとなったというの である。チ・ヂの破擦音化については、[t][d]が[i]の影響を受け、口蓋化を起したと解釈 するのが通説である1。前舌狭母音[i](または[j])の影響による歯茎破裂音[t][d]の口蓋化 は多くの言語に観察される一般的な音声変化である。例えば、中古中国語(知母[ȶj-]>[tɕj-]、 澄母[ȡj-]>[dʑj-])、近世朝鮮語(「知」디[ti]>지[tʃi])、近代英語(Christian[-tj-]>[-tʃ-])な どが挙げられる。
現代日本語の/u/は東日本を中心に多くの場合、非円唇母音[ɯ]である。実際にはIPAで いう第 16番の基本母音[ɯ]よりも前寄りかつ広めの母音であり2、母音の中でもっとも中 央に寄る母音である(精密表記では[ɯ̟˕])。ただし、ス・ズ・ツの場合には、その母音が さらに前寄りとなり、いわゆる「中舌化」が生じ、これまで簡略表記で[ɯ̈ ][ɨ]で記されて きた。その違いは例えば、「吸う」[sɯ̈ɯ]に聞かれる二つの母音の差にあらわれている3。 仮にこの中舌化した[ɯ̈]がツ・ヅの破擦音化よりも以前に存在したとすれば、それがツ・
ヅの破擦音化のきっかけになったと説明することも可能である4。奥舌母音[ɯ]より中舌化 した[ɯ̈]のほうが歯茎破裂音[t][d]の調音位置に近くて摩擦音が発生しやすくなり、[t][d]の 破擦音化を引き起こしえたということである。
しかし、[ɯ̈ ]の調音器官は中舌面のため、歯茎音[s][z]よりは後部歯茎音[ʃ][ʒ]のほうがさ
らに[ɯ̈]に近い。[ɯ̈]による破擦音化であれば、[ʃ][ʒ]のほうが[s][z]より添加されやすいの
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ではないか。一方、単に破擦音化の条件を狭母音に絞るとしても、その理由については明 らかにされていない。近代朝鮮語では音節[ti][tʻi][tʼi]は日本語と同様に破擦音化して [tʃi][tʃʻi][tʃʼi]に変化を遂げたが、音節[tɯ][tʻɯ][tʼɯ]は現代に至っても破擦音化しない。中国 語でも音節[tu][tʻu][du]が破擦音化することはない。また、母音の前後位置から考えても、
前舌母音[e]を持つテ・デが破擦音化しないのに、ツ・ヅが破擦音化するのはやはり不可 解である。
要するに、チ・ヂの破擦音化は[i]の調音位置に相当する渡り音[ɕ][ʑ]が添加されたのに 対し、ツ・ヅの破擦音化は[ɯ̈]の調音位置に相当しない渡り音[s][z]が添加されたという、
調音音声学的に解釈しにくい問題が認められるのである(図1)。
【図1】
3. 音声記号[ɿ]について
3.1. 中国語音声音韻学における[ɿ]
[ɿ]とは現行 IPA に収録されていない、もっぱら中国語音声音韻学に用いられる母音の 音声記号である5。[ɿ]という母音は中国の諸方言によく確認されるものであり、音声学的 にはもちろん、音韻論的にも/ɿ/は宋・元代(北方方言)から成立し、以下に例示するよう に、現代方言では音節主音として、/i/とミニマルペアを成している。
呉方言(蘇州): 思[sɿ] ≠ 西[si] 詞[zɿ] ≠ 斉[zi]
客家方言(梅県): 思[sɿ] ≠ 西[si] 詞[tsʻɿ] ≠ 斉[tsʻi]文読
(『漢語方音字彙』2003による)
3.2. [ɿ]とカールグレン
中国語学で[ɿ]を使用し始めたのは、近代的な中国音韻学の創始者と呼ばれるカールグレ ンである。その著書『中国音韻学研究』(Études sur la phonologie chinoise)では、舌尖が 調音に関与する母音を舌尖母音、舌尖が調音に関与しない母音、すなわちほぼ現行のIPA に収録される母音を舌面母音と名付けて大別した。前者についてカールグレンは
舌尖母音はヨーロッパで珍しいが、中国の言語においては発達している。その一種 は舌尖と歯茎前部との母音である。発音方法としては子音zを発音する際に舌と歯茎 との隙間を広げ、口腔の摩擦を減らすということで容易に発せられる。(原著:294、 訳本:197)
と述べ、さらにそれを調音位置(歯茎前部と歯茎後部)と円唇性(円唇と非円唇)によっ て四つの母音に分類した(表 1)。その後、『中国音韻学研究』の中国語版の出版により、
チ・ヂ:[ti][di] 渡り摩擦音の添加 [tɕi][dʑi]
ツ・ヅ:[tɯ̈][dɯ̈] 渡り摩擦音の添加? [tsɯ̈][dzɯ̈]
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これらの音声記号は中国語学に定着し、広く使用されるようになった。
【表1】
舌尖母音 非円唇 円唇
歯茎前部 ɿ ʮ
歯茎後部 ʅ ʯ
ところで、カールグレンは母音[ɿ]が中国語だけでなく日本語にもあると、次のように述 べている。
ɿは舌尖と歯茎前部との母音で、高くて緊張し、唇は開き、あるいは広く張る。こ の母音は官話や揚州、呉語、粵語、汕頭(恐らく)6、日本にある。(原著:295、訳 本:197)
さらに
日本語の音節tsɿは「tsu」と写されている。旧式の英語の綴り方(例えばヘボンの 綴り方)も現在普通に使用されている新式の羅馬字会の綴り方もそのように綴る。こ のローマ字綴りは英語の風味を帯びている。「tsu」という綴り方は先に批判したウェ ード式7に由来したものである。音声学者のエドワーズさえも日本語の「mu」の母音 と「tsu」の母音が異なることに気付かなかったのは不審である。パーカーはこの二 つの日本語の音節を正確に写している。彼は自分なりの綴り「mu, tsz」を用いた。(原 著:296、訳本:198)
とある。引用箇所は本来はカールグレンが主に中国語の舌尖母音の音声記号に関して、ウ ェード式ローマ字の不適切を指摘したところであるが、日本語のツも(ス・ズも同様)舌 尖母音[ɿ]を持つと観察した彼は、ヘボンやエドワーズのローマ字綴りを批判し、パーカー の表記8を評価した。パーカーの表記では[ɿ]を zと写している。それは母音[ɿ]の調音が[z]
に近いからである。
3.3. ス・ズ・ツの母音の舌尖性について
過去ス・ズ・ツの母音について論じた先行研究は多いが、その舌尖の調音に言及したも のは少ない。ここでは、舌尖性に言及したものを取り上げたい。
まず佐久間鼎1929が「[s]と[ɯ̈]との調音域や仕方に相似たものがある」9と述べて子音 と母音の近似性を指摘した。次に有坂秀世1936が、中国語の母音[ɿ]はス・ズ・ツの母音 に比べ、舌面が前寄りで緊張しており、摩擦も強いと指摘した。服部四郎1951もそれに 近い指摘をしている。両氏の指摘はス・ズ・ツの母音と中国語の母音[ɿ]との差に対する厳 密な記述であるが、その差をIPAで表記することは難しいであろう。
服部はさらに
東京方言などの[sɯ̈](ス),[dzɯ̈](ズ),[tsɯ̈](ツ)の母音[ɯ̈]の舌の形は[s]のそれ に近いが,舌端と歯茎との間の狭めは[s]のより広い(β34fe)。声を伴った呼気が送られ てくるときは著しい摩擦音を生じないが,「息」が送られてくると(即ち[ɯ̥̈̈]の場合)
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[s]に似た鈍い噪音を生ずる。(1951:97/1984:80-81)
と述べた。ここでは服部がイェスペルセンの非字母的記号10で書いた「β34fe」に注目した い。ここのβ は調音器官が舌尖、34は狭めの度合いが3~4、fe は調音位置が歯と歯茎の 中間で歯茎に近い部分を示す。この非字母的記号において、摩擦音を形成する狭めは 1 と2であり(例:ドイツ語[s] β1fe)、母音を形成する狭めは3~8である(例:ドイツ語[u]
γ3j)。従って、服部のこの記号はス・ズ・ツの母音が子音[s]と同様な口構えの調音であり、
狭めが[s]よりも広く、母音の範囲に入るということになる。これはまさにカールグレン のいう舌尖母音[ɿ]にほかならない。
次にX線撮影により日本語の各音節を観察する上村幸雄・高田正治1990もある。それ によれば、音節ス・ズ・ツは、子音に続いて母音を発するときに、舌尖が歯茎に向かって もち上がったまま、母音の調音に関与しているが、それは他のウ段の音節と異なるところ である。それゆえ、上村・高田は音節ス・ズ・ツを[sɿ][dzɿ][tsɿ]と表記した。
また、上村1992は「舌の最高点が第1から第4までの基本 母音の前に来る母音が実際に存在する」と、舌尖の調音関与が ある「A領域」の母音という概念を提唱した11(図2)。
なお、舌尖が調音に関与する母音は宮古方言においても観察 されている。この母音は、標準語のイ段と音節ス・ズ・ツに対 応するところに現れる。少数ではあるが、先行研究には、崎山 理 1963 と上村 2000 が、それを[ɿ]で表記している。されに[ɿ]
は摩擦音[s][z]の他に破裂音[b][k]などにも音節主音として現れ(例:多良間「海老」[ibɿ]、
「来る」[kɿː])、また単独で音節を作ることもあるという(例:多良間「飯」[ɿː])12。
以上の諸研究から、一般的に「中舌母音」と呼ばれるス・ズ・ツの母音は、実は中国語 学でいう母音[ɿ]と近似し、舌尖の調音関与のある母音であることを認めるべきである。こ のような母音は標準語だけでなく、宮古方言にも存在することが報告されており(上村 1992によれば秋田方言にも)、今後の研究が期待される。
3.4. IPAによる舌尖母音の表記
カールグレンの記述からも分かるように、[ɿ]は[z]の摩擦を減らし、舌尖と歯茎の隙間 を広げるように発音する。この調音特徴から、それを[ɨ]、[s͡ɯ]のようなIPAで表わした先 行研究13もある。また成節的な[z̩]で表わすこともできるかと思われるが、しかし、これら の IPA 記号には表記上の不便、舌尖性を表せないこと、摩擦性が強く感じられることな ど様々な難点がある。また、IPA によって他の舌尖母音[ʮ][ʅ][ʯ]を表記するのもさらに困 難であるため、中国語学においては[ɿ][ʮ][ʅ][ʯ]という音声記号を使用し続けている。
一方14世紀中国の韻書『中原音韻』では、[ɿ]は一韻目(支思韻)として立てられ、現 代中国語でも[ɿ]は音節主音としてかなり発達しており、音節[pɿ][mɿ][tɿ][nɿ][lɿ]を持つ方言
(安徽方言(績渓、蕪湖)、山西方言)の存在も報告されている14(この点において、上 に述べた宮古方言と同じである)。それゆえ、音韻論的な処理の面から見ても、[ɿ]は中国 語学では必要な母音記号である。
日本語学においては、従来の[ɯ̈]([ɨ])を使ってきたが、上の諸先学の研究から確認で
【図2】(上村1992:44)
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きたように、ス・ズ・ツにおいて舌尖と歯茎でつくった狭めが、奥舌と軟口蓋のそれより、
ずっと狭いことが分かる。「舌と口蓋との最狭点」という母音の分類基準から、ス・ズ・
ツの母音を[ɯ̈]で表わすのは決して適切なことではない。[ɿ]という記号の使用によって、
この母音の調音に対する認識を変えることは、外国人に対する日本語教育にとっても、重 大な意味を持つのである。
3.5. IPAにおける接近音と母音の配置
次に舌が調音に関与するIPA記号を見たい。表2はIPA(2005)における同じ調音位置 の摩擦音、接近音、狭母音を示したものである。
【表2】(舌が調音に関与するものだけを載せる。( )は円唇を指す)
歯音 歯茎音 後部歯茎音 そり舌音 硬口蓋音 軟口蓋音 有声摩擦音 ð z ʒ ʐ ʝ ɣ
接近音15 ɹ ɻ j (ɥ) ɰ (w)
狭母音 i (y) ɯ (u)
表2の配置が不均等であることは見て取れる。周知の通り、接近音[j ɥ ɰ w]は半母音と も言われ、その狭めがさらに狭くなれば、それぞれの摩擦音[ʝ ɣ](円唇のものは円唇記号 を付ける)になり、狭めが広くなれば、狭母音[i y ɯ u]になる。この位置での接近音は子 音と母音の性格をともに持っているわけである。それに対して、接近音[ɹ ɻ]は半母音とは 言わない。対応する狭母音が IPA に収録されていないのが一つの理由と考えられる。し かし、そのような母音は上述のように調音が可能であり、中国の諸方言にも実在している。
従って、舌尖母音[ɿ ʮ](歯茎)と[ʅ ʯ](そり舌)でIPAのその空欄を埋めることに何の不 合理もない。
4. 日本語の無声化と母音[ɿ]
日本語における母音の無声化現象はアクセントや音環境、母音の狭めなどの条件が関わ ることがよく知られている。ここでは、狭母音に起こりやすい理由について一つの可能性 を提示したい。
無声化が起こりやすい音節16を見ると、シ・チ・ヒ・キ・クの子音と母音は調音位置が 一致しており、ス・ツの子音と母音は調音位置が離れていることに気づく。
子音、母音(硬口蓋): シ[ɕi]>[ɕï̥]、 チ[ȶɕi]>[ȶɕï̥]、 ヒ[çi]>[çï̥]、 キ[kʲi]>[kʲï̥]
([ci]>[cï̥])
子音、母音(軟口蓋): ク[kɯ]>[kɯ̥̈]
子音(歯茎)、母音(軟口蓋): ス[sɯ̈]>[sɯ̥̈̈]、ツ[tsɯ̈ ]>[tsɯ̥̈̈]
こうした音節の無声化が一種の同化現象(声の同化17)であると考えれば、子音と狭母 音の調音位置の一致、すなわち子音と狭母音の舌構えの近似は同化作用が発動しやすい条 件であると考えることができる。