第 2 節 『書史会要』と『日本国考略』に観察される 呉方言の後部歯茎音
3.2.4. セ・ゼ
セ・ゼに当てる音注漢字は次のようである。
セ:泄1、十1、宣(セン)1、鮮(セン)1 ゼ:前2、善1
寧波西洋人資料では「十」jih[ʒiʔ]、「善」jün[ʒyn]、「宣」shün[ʃyn]とあり、後部歯茎音 である。一方、「前」dzin[dʒin]、「泄」sih[siʔ]、「鮮」sin[sin]が歯茎音である。全体的にセ・
ゼの使用回数が少ないとはいえ、ほかのサ行子音に比べ、歯茎音の割合が高いということ がわかる。これについては、以下の二つの可能性が考えられる。
一つは『日本国考略』の成立時において、セ・ゼの子音が歯茎硬口蓋音[ɕ][ʑ]から歯茎
音[s][z]へ合流しつつあり、そのため二種の子音が記録されたという可能性である。ただ
し、『日葡辞書』ではxeと綴っているので、この可能性は低いであろう。もちろん、『日 葡辞書』が強い規範性を持っていることも考えなければならない。
もう一つの可能性については、寧波方言における後部歯茎音の出現条件を考えたい。つ まり、後部歯茎音に後続する母音は円唇母音でなければならないのだが、日本語セ・ゼの 母音は非円唇母音であり、母音[e]は聴覚的に子音より優位なものであるため、写音する 際、母音要素を優先させたのではないかという可能性である。
二番目の可能性があるとしても、なぜシ・ジの音注漢字においては母音要素を優先させ ないのかという問題が湧いてくる。筆者はシ・ジにおいては、母音より子音のほうが弁別 的機能を担っていたのではないかと考える。そうであればシの母音は無声化、または脱落 しやすくなる。この母音の無声化と脱落は、コリヤード『日本文典』により17世紀にす でに起こっていたことが確認できる。これが16世紀にあった可能性は十分にある。一方、
セでは無声化が一般に起こらない。母音が担う弁別的機能が子音より大きいということも その一つの理由であろう。
4. 終りに
以上、中国資料の『書史会要』と『日本国考略』を通して、呉方言の後部歯茎音につい て考察した。14~16 世紀において少なくとも松江方言と寧波方言に後部歯茎音が存在し ていたことが分かった。また、『南村輟耕録』の射字詩において、B グループの字母にあ る二種の助紐字は、後部歯茎音が舌尖音へ合流する中間段階を反映していることも確認し た。また、『日本国考略』におけるシ・ジにもっぱら後部歯茎音の漢字が使用されている ことも観察された。これは『日本国考略』の所拠言語が寧波方言である一つの重要な根拠 となる。
現在呉方言の中で後部歯茎音を持つ地域は極めて少ないが、寧波市周辺の新碶、霞浦に はそれのあることが胡2001により報告されている。一方、丁2001によれば、呉方言字書 の『同文備考』に反映した 16 世紀崑山方言にも後部歯茎音が存在していたという12。こ こから、明代の呉方言において後部歯茎音は現在より広い範囲にあったことが推測される。
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【注】
1 [ʃ]とも表記されることがあるが、本論文では[ɕ]に統一する。
2 射字詩について蒋垂東2010に詳しい。
3 射字詩では歯音が10声母となっているが、魯によれば、「橙」母と「澄」母とは一つ の声母と見なすべきである。射字詩は七言の形に揃えるために、「澄」という一字を増や したという。確かに「橙」と「澄」は中古音において同音であるから、魯の指摘は妥当で ある。それゆえ、実際の声母は9個と考えられる。
4 澄[dz(ʥi)]は澄[dz(dʒi)]の誤植であろう。
5 京劇ではそり舌音と母音[i]との組み合わせがあると言われている。
6 蒋によれば、『書史会要』の音注漢字には、平声字を使用する規則があり、仄声字を 使用した場合には割注で平声と書いているという。
7 丸山徹1981は中世のサ行音は弱い破擦音を伴っていたと推測している。
8 室町時代においてジ・ゼは鼻音性を伴っていた。それについては次の章に述べる。
9 徐は趙元仁1928の表記を参考にした。
10 寧波西洋人資料では「篩」と「師」は同音である。
11 文読ではse[se]であるが、白読のほうがよく使われている。
12 崑山方言の後部歯茎音は非円唇母音と組み合わせることができる。地域差によるも のであろう。
【資料1】『書史会要』いろは(括弧は本文の割注を表わす)
い以(又近移)、ろ羅、は法(平声又近排)、に宜、ほ波(又近婆)、 へ別(平声又近奚近靴)、と多(又近駄)ち啼(又近低)、り梨、ぬ奴、
る盧、を窩、わ懐、か楷(作喉音呼)、よ籰、た大(平声)、れ倈、
そ座(平声又近莎)、つ土(平声又近屠)、ね尼(縮舌呼)、な乃(平声)、 ら阿頼(頼作平声弾舌)、む謨、う烏、ゐ伊、の那、お和(又近窩)、 く枯、や爺(作喉音呼)、ま埋、け茄、ふ蒲(又近夫)、こ軻、え奚、
て悌(平声縮舌呼)、あ挨(作喉音呼)、さ篩(又近柴)、き欺(又近其)
ゆ由、め乜、み皮(又近眉)、し尸(又近時)、ゑ繄(平声)、ひ非、も摩 せ蛇(又近奢)、す疏(又近徂)
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【資料2】サ・ザ行を含む寄語項目 項目 寄語訂正 解読
5 風 有朱
加前
△△
カゼ
10 霜 名未
碎滿
△モ シモ
16 晚 搖撒田五 ヨウサリ
17 明 挨介水 アカシ
18 暗 骨辣水 クラシ
19 冷 三孛水 サブシ
20 煖 挨掇水 アツシ
22 明日 挨速
亞失旦
アス アシタ
23 後日 亞撒里 アサ△
28 明日来 挨戍打□□俚 アシタ□□レ 29 後日來 挨殺核阿耶俚 アサ△オヤレ
34 石 依水
依水古
イシ イシコ
41 西 義西 ニシ
44 後 吾失利 ウシ△
46 銀 失禄揩泥 シロカネ
48 錢 前移 ぜニ
49 黃銅 中若古 チウジャク
52 好銅錢 姚礼善尼 △△ゼニ
55 百姓 別姑常 ヒャクシャウ
67 子 莫宿哥 ムスコ
69 女 莫宿眠 ムスメ
71 丈人 守多 シウト
72 丈母 守多謬 シウトメ
80 親眷 新雷 シンルイ
84 僕 三孛郎 サブラ
85 小廝 歪皆水 ワカシ
86 和尚 刁老
烏索
チャウラウ オシャウ
89 強盜 六宿鼻惰 ヌスビト
92 你 撫哥了
捘俚
△△△
ソレ
94 誰人 荅梭 タソ
97 生得好 眉眉月失
眉眉姚水
ミメヨシ ミメヨシ
99 長子 難解水 ナガシ
104 生得醜 歪魯失 ワルシ
106 貴 他介水 タカシ
107 賤 那朔
羊碎水
ヤスウ ヤスシ
110 乞丐 寬需計 コジキ
115 拐 科水非計 コシヒキ
116 賊 陸宿人 ヌス△
117 要 坡水水 ホシシ
124 亂說 思量骨多
莫話介歹俚
スラゴト モ△ガタリ
128 嬉 挨梭蒲 アソブ
129 坐 移路 イル
阿捋梭 オリソウ 133 詈 烏論羊埋水
烏爺蛮計
ウラヤマシ オヤマキ
138 不在 論速
持踈
ルス
△ス
146 怕 倭踈路路 オソルル
147 久不見 倭非怕水
何面凸辣水
オヒ△シ オメヅラシ
149 前行 殺鷄 サキ
151 喜 一掇水
姚羅扛步
イトオシ ヨロコブ 154 羞愧 番即皆水水 ハヅカシシ 158 安排 蘇路 ソロ(ウ)
163 添 所有路路 ソユル△
166 痛 一(車亘)水 イタシ
167 教 何水尤路 オシユル
172 吃酒 麻黑晒鷄 △△サケ
175 遊 亞孫步 アソブ
179 暁得 个个俚打失大 ココレータシ ッタ
181 殺 其奴
瞎呾即
キル
△△△
184 不暁得 惜頼路
不失打
シラヌ
△シッタ
190 死 身大 シンダ
193 肚飢 勳大路水 ヒダルシ
194 還了 揩也数 カヤス
203 有情 亞姊吉乃 アジキ△
204 無情 亞姊吉乃乃水 アジキ△ナシ
208 無工夫 一孫𢶷水 イソガシ
215 足 挨身 アシ
217 頭 客戌頼 カシラ
224 身 泄 セ
227 中刀 歪計柴需 ワキザシ
233 磨刀石 依水 イシ
234 砂石 揩路依水 カルイシ
235 硯 孫助俚
尊子力
スズリ スズリ
240 墨 踈煤 スミ
245 鎖 哥索利 クサリ
252 硯箱 孫助利法哥 スズリハコ
254 酒盞 晒加藤計 サカヅキ
255 碟 晒頼
沙頼
サラ サラ
256 傘 隔落隔晒 カラカサ
260 盤 何水鷄 オシキ
261 銀硃 失禄挨揩水 シロアカシ
262 漆 烏論水 ウルシ
263 筯 法水 ハシ
264 香 宣哥 センカウ
266 麝香 射哥 ジャカウ
270 梯 課水飛計 コシヒキ
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273 鞋 水托俚
失其里
シ△レ シキレ
280 被 伏思麻 フスマ
281 茶 鮮索 センサ
282 酒 晒箕 サケ
283 白酒 明東晒箕 ミヅサケ
284 焼酒 隔辣晒箕 カラサケ
285 老酒 福禄晒箕 フルサケ
286 飯 蜜黍 メシ
287 飲酒 晒加乃 サカナ
288 吃飯 蜜黍阿羅俚 メシ△△△
289 塩 失河
收河
シオ シオ
290 醤 弥沙 ミソ
296 羮 水路 シル
298 肉 恕恕 シシ
301 杉 松計 スギ
304 梅子 面婆水 □メボシ
305 芥 恝辣水 カラシ
309 茄子 乃沈皮 ナスビ
310 牛 胡水 ウシ
312 猪 豕豕 シシ
318 蝨 失辣米 シラミ
320 鼠 眠助米 ネズミ
339 好 姚鎖盧 ヨウソロ
342 大 加小思姑奈 何計
カ△スクナイ オオキ
343 小 発蒒 ホソイ
344 多 快都
河河水
△△
オオシ
345 少 踈古乃水 スクナシ
346 遠 多俟 トオシ
348 瘦 牙十大 ヤセタ
351 朽 骨蒒路 クサル
352 厚 挨卒水 アツシ
353 薄 温卒水 ウスシ
354 歪货 不高
歪頼水
△△
ワロシ
355 不是 松田乃係 スヂナシ
360 多有 何何水 オオシ
362 香 干牌水 カンバシ
363 臭 骨蒒水 クサシ
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