6.1 はじめに
近年、日本において監査人の交代事例が増加している。交代の理由として、従来は監査 法人の組織再編や被監査企業側の企業グループ内での監査法人の統一などが多かったが、
2003年3月期の継続企業の前提(GC:Going Concern)に関する情報の開示制度の導入が 一つの契機となり、以後の監査人の交代が増加したとも考えられる。
日本における GC情報の制度は、まず経営者が GCの前提が適切かを評価して注記によ り開示し、監査人がその開示の適切性に対して意見表明を行う。
企業が GC 情報を注記することは、監査人にとっては被監査企業の監査リスクが高まっ たことを意味するため、そのリスクの程度によっては、監査人は監査契約維持による将来 のリスクを回避することを目的として監査契約を解除すると考えられる。また、被監査企 業と監査人との見解の相違により、被監査企業が GC 情報の開示を避けることを目的とし て、GC情報の注記をしなくても適正意見を出してくれる監査人を選別するために監査契約 を解除し新たな監査人を選任する、いわゆるオピニオン・ショッピングの可能性も示唆さ れている。
以上のように、GC情報の注記の要否が、監査リスクの上昇を通じて、あるいは被監査企 業のオピニオン・ショッピングの動機を通じて監査人の交代に影響を及ぼしている可能性 がある。本研究では、GC情報が監査人の交代に及ぼす影響を実証的に明らかにする。
6.2 監査人の交代の要因
監査人の交代の経緯としては、監査人からの申し出により監査契約が解除される場合と 被監査企業からの申し出により監査契約が解除される場合の2つの場合が存在する。
6.2.1監査人からの監査契約解除
監査人からの申し出による監査人の交代は、被監査企業の監査リスクの高まりに起因す る監査契約維持による将来のリスクを回避することを目的としてなされる1。
監査リスクとは、監査人が、財務諸表の重要な虚偽の表示を看過して誤った意見を形成 する可能性をいう2。監査リスクは、重要な虚偽表示のリスクを構成する固有リスク及び統 制リスクに加えて、発見リスクの3つの要素で構成される3。
企業の GC に疑義を生じさせるような状況が識別されることは、固有リスクを高めるこ とを通じて重要な虚偽表示のリスクを高める。重要な虚偽表示のリスクの高い企業に対し て、監査リスクを一定水準に抑えるためには、監査人は発見リスクの程度を低く抑える必 要がある。このことは、監査人の実施する監査手続、その実施時期や範囲への影響を通じ て監査時間が増加するため監査のコストを増加させる。
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しかし、日本においては、監査リスクを一定水準におさえるために監査時間の増加が見 込まれる場合であっても、その監査のコストの増加が必ずしも監査報酬に反映されていな いという実態がある。よって、重要な虚偽表示のリスクがある一定水準を超えて増加した 場合には、監査人が許容できる監査リスクを超えることにより監査人に監査契約解除への インセンティブを与えると考えられる。
6.2.2 被監査企業からの監査契約解除
2009年3月期のGC情報開示制度の変更前には、日本公認会計士協会[2002b]に例示され ているGCに重要な疑義を抱かせる事象又は状況に該当すれば、GC情報の注記が求められ るという実務が存在していた4。しかし、重要な疑義をもたらず事象や状況が存在したとし ても、当該事象等を受けて企業が策定した経営計画等が当該事象を改善できると評価され れば、疑義が解消されたとして GC 情報の注記を行わないとする対応も選択肢として考え 得る。
さらに、GC 情報の開示制度変更後には、GCに重要な疑義を生じさせるような事象又は 状況が存在する場合であって、当該事象又は状況を解消し、又は改善するための対応をし てもなお GCに関する重要な不確実性が認められるときに限りGC 情報の注記が求められ ることとなった。従って、GC情報の注記の要否に関して、重要な不確実性という新たな判 断基準が追加されることとなり、判断にゆだねられる部分は変更前に比べて拡大したと考 えられる。
GCに疑義があるという状態が継続することは、企業の様々な営業活動や資金調達に支障 を生じさせる。このことから、企業の経営者は GC 情報を注記することに対して抵抗があ るものと考えられる。上記の通り、GC情報開示制度変更前においても制度変更後において も、GC情報の注記を要するかどうかについては、経営計画等ないしは対応策の実施により 当該事象が改善され疑義が解消されたかどうかに対して一定の判断の余地が存在する。
制度変更前後に関わらず、仮に適切な開示がなされない場合には、ほとんどの場合監査 人が監査報告書に不適正意見を付すこととなると考えられるため、被監査企業には経営計 画等ないしは対応策の実施により当該疑義が解消されたという経営者の判断に基づき、GC 情報の注記をしなくても適正意見を出してくれる監査人を選別する、いわゆるオピニオ ン・ショッピングの動機が存在すると考えられる。
165 6.3 先行研究
海外には監査人の交代とオピニオン・ショッピングとの関係を実証的に分析した研究が 多い。Chow and Rice[1982b]は、限定付適正意見を表明された企業ほど、監査人の交代が なされることを実証したが、監査人の交代後に被監査企業は改善された監査意見を受け取 っているという事実はなく、オピニオン・ショッピングを明らかにすることはできていな い。Schwartz and Menon[1985]は、倒産した企業は健全な企業より監査人を交代する傾向 があるが、限定意見と監査人の交代について、統計的に有意な結果は検出されていない。
同様に、Smith[1986]は、限定付の監査意見表明後の監査人の交代、すなわちオピニオン・
ショッピングの疑いのあるものは、ほとんどなかったと結論づけている。
各国の規制における監査人の交代と GC 意見の関係を取り扱った先行研究として、
Vanstraelen[2003]は、ベルギーの規制における監査人交代とクライアントの倒産の損失の 脅 威 を 調 査 し 、GC 情 報 開 示 と 監 査 人 の 交 代 は 強 く 関 係 し て い る と 指 摘 し た 。 Ruiz-Barbadillo et al.[2009]は、監査人の強制的ローテーションが監査人の独立性に及ぼす 影響を検証しており、監査人の交代は監査人の GC 意見の表明を抑制する要因となってい ると報告している。
ガバナンスを絡めた研究として、Geiger et al.[1998] 及びCarcello and Neal[2000]では、
監査委員会が独立性を欠いている場合には、GC報告書を受け取ったクライアントは監査人 を変更する可能性が高いとの結果を報告した。Carcello and Neal[2003]は、GC報告書を受 領したクライアントが監査人を変更する可能性に焦点を当て、監査委員会の特徴と監査人 の解任との関係を明らかにした。
GC意見と監査人交代との関係を直接分析している研究として、Citron and Taffer[1992]
は、イギリスの上場企業を対象に、GC問題に起因する修正意見を出された会社はそうでな い会社に比べて監査人を変更する傾向が強いと指摘した。Carey et al.[2008]では、オース トラリアにおいて1994年から1997年の間に最初にGC意見を受け取ったサンプル企業は、
コントロール企業より監査人交代の比率が高いことを実証した。
海外において、監査人の規模と監査人の交代について取り扱った研究としては、Kaplan and Williams[2012]がある。Kaplan and Williams[2012]は、財務困窮企業の監査人は大規 模監査法人から地域監査法人に移行しており、大規模監査法人は財務困窮企業の監査から 降りて事前の保守主義をとっている一方、地域監査法人は財務困窮企業に対して GC 意見 の表明を増加させて事後的な保守主義をとっていることを指摘した。
日本では、アンケートやヒアリングによって、監査人の交代について監査リスクとの関 係から論じた研究が多い。町田[2003b]は、監査人の変更事例103例を分析し、比較的リス クの高い監査業務が大規模監査法人から中規模会計事務所へと移転していることを指摘し た。また、町田[2003b]は、ヒアリング調査の結果、監査契約の解除を経験した監査人は、
監査リスクとして GC問題を重視しており、過去の監査契約の解除は GC問題を起因とし たものが相当数あったことを報告している5。日本公認会計士協会[2004]は、監査人交代の
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開示をした会社 107 社に対して経緯等に関するアンケート調査を行い、監査人からの契約 解除の場合の理由として、55.6%の監査人が監査リスクが高まったことを挙げ、11.1%の監 査人が監査意見・指導が受け入れられないことを挙げたという結果を公表した。佐久間
[2007]は、上場企業の監査人交代事例を3つの時期に分けて分析し、第Ⅲ期(2003年~2005
年)には、GC開示導入により監査人の訴訟リスクが高まったため、監査人が自ら降板する ことが多くなったと述べている。
日本では、GC 情報と監査人の交代を実証的に取り扱った研究は少ない。町田[2011]は、
大手監査法人が契約を辞退した被監査企業の監査を中小/個人の事務所が引き受けて GC 注記/追記を付すという実務が行われ、実際にそれらの企業が破綻に至る比率も高いこと を実証した。また、「5.2 注記解消の判断」においては、企業がGC情報の注記後に監査法 人を交代すると GC情報の注記を解消しないことが実証され、大手監査法人が GC情報の 注記を解消できる企業に対して監査を継続し、解消できない企業については監査人を交代 していた可能性が示唆された。本研究では、監査人の監査リスクと被監査企業のオピニオ ン・ショッピングとの双方の観点から日本における GC 情報と監査人交代との関係を実証 的に分析する。
6.4 仮説の構築
海外の先行研究においては、Citron and Taffer[1992]及びCarey et al.[2008]のいずれに おいても、GC意見を受領した企業は、そうでない企業に比べて監査人を交代する傾向にあ るという結論であった。日本においても同様に、GC情報の注記は重要な虚偽表示のリスク を上昇させることによって、あるいは被監査企業のオピニオン・ショッピングの動機を通 じて監査人の交代を促す可能性がある。Carey et al.[2008]の仮説が日本においても成立し ていることを検証するため、以下の仮説1を構築する。
仮説1:GC情報を注記した企業は、同様に財務が困窮しているもののGC情報を注記して いない企業に比べ、監査人を交代する。
監査人の規模について、O’Clock and Devine[1995]では、監査法人の規模が大きいほど不 確実な状況の際により保守的に GC に関する疑義を監査報告書に記載する傾向があるとし て、GC 意見の表明に関して大手監査法人の方が保守的であることを示し、Kaplan and Williams[2012]では、大規模監査法人は財務困窮企業の監査から降りて事前の保守主義を とっているという結論を示している。また、町田[2003b,2011]によると、監査人の規模と監 査人の交代にも関連があると考えられる。日本において財務諸表等に GC 情報を注記した 企業に関して、監査人の規模と監査人の交代にも関連があるかどうかを実証的に明らかに するため、以下の仮説2を構築する。