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『はなれ瞽女おりん』における女性の表象

家父長制を中心とした社会では、女性には妻や母としての役割、そして男性の性幻想に対 応する性的身体となる役割が期待されている。ところが、『はなれ瞽女おりん』には「主婦」

「妻」「母」といった従来の役割を担う女も、男の性幻想の対象である娼婦も登場しない。

これについて、神田由美子は、作品に描かれている<兵役忌避者>と<はなれ瞽女>の間に 築かれた「世俗的男女関係を無視」する「不思議な縁」には、「女を嫁か妻か母か玩具とし か考えなかった、あるいは抽象的な恋愛賛美によって男女関係を偽善的なものにしてしまっ た日本近代への、痛烈な諷刺」が表されていると指摘し、「子を成す営みを避け家を持たず、

兄妹として放浪の日々を送る男女」を「日本近代からの真の解放者」と捉えている(神田 76)。ここでの世俗的男女関係とは、恋愛、結婚、子供を作って家庭を作るということであ り、女性にとってそれは、性(セックス)、生殖、出産、育児、家事を意味する。つまり、

女性は女性に求められる、「家族」に象徴されたシステムに定められたすべての義務を果た さなければならない。前章の遊行性の節で指摘したように、おりんは定住を否定し、あるい は定住を否定されており、一般的な女性の運命から逸脱している。これもまた、彼女が「家 族」あるいは「結婚」という制度に徹底的に拒否された存在の印である。

〈子供、家庭を持たないこと〉=〈結婚という制度に定められた権利義務を負わないこと〉

とする近代的な価値観から判断すれば、おりんは「日本近代からの真の解放者」だと言える かもしれない。世俗的な男女間係を無視するということは、妻や母という役割を拒絶するこ とにつながると考えられるが、それは本当に女性の解放と言えるのだろうか。妻や母になる ことを望んでいた女性に対して「世俗的男女関係を無視」することは、女性の解放どころか、

むしろ女性に対する強い抑圧ではないだろうか。当時の社会的背景やおりんの主観的願望を 無視し、〈子供、家庭を持たないこと〉という結果を考察するだけで、「日本近代からの真の 解放者」というような結論を出すのは、不十分である。

本章では、『はなれ瞽女おりん』におけるセクシュアリティをめぐる描写を取り上げ、水 上文学における女性表象を検証する。おりんの人生を遡って、「平太郎と出会う前」、「平太 郎と出会う後」「ある意外な事件によって二人の分離及びその後」という三つの時期を分け て分析していきたい。

1 平太郎に出会う前のおりん

『はなれ瞽女おりん』の時代的背景は、大正 7(1918)年 4 月から大正 10(1921)年 6 月 に設定されている。おりんの生まれた時代では、たとえ「健康な者でも、出稼ぐし、丁稚奉 公を余儀なくされた」が、「厄介な盲女ができれば、高田や長岡の瞽女屋敷へ弟子入りさせ る」のが慣習であった(水上『はなれ瞽女おりん』425)。これらの記述から分かるように、

当時の農山村では、盲目の女子が瞽女屋敷に行かされることは、大して珍しいことではなか った。

しかし、瞽女屋敷に行かされるということは、おりんが一般女性と異なった人生を送らな ければならないことを意味する。なぜなら、瞽女屋敷に所属すると、「生涯独身」32という掟 を守らなければならないからである(同 417)。瞽女屋敷にそのような掟がある 2 つの理由 が作品の中で挙げられている。一つは、「盲目ということから、人なみの結婚生活がいとな まれない」こと、もう一つは、「集団生活であるから、女性独特の嫉妬からくる争い」を防 止するためである(同 417)。しかし、本来、性欲は人間がもつ健全な欲望である。作品で 述べられるように、瞽女であっても、女性として、彼女らが「年まわりがきて、性の目ざめ があれば、自然と男を恋うる心が出てくる」のは当然である(同 416)。したがって、瞽女 屋敷に入ったばかりの時に、おりんは瞽女屋敷の掟を破った「一人の薄幸な瞽女」を見たこ とがあっても(同 416)、彼女は、助太郎という男に夜這いされた時に、拒絶しなかった。

ここには、彼女がもともと自分に課されている瞽女の掟を認めていなかったことが表されて いる。女になった初夜のことについて、作品にはおりんの語り調という形で、以下のように 記されている。

ほうして、おら、寝るときは、まさか、助太郎さが入ってきなあるとは思うていなか ったです。おらわきにトミ枝さまが寝なァっていなある。安心していだすけ。だども、

いっち下手の部屋から、すうっと襖さあいて、おらが床へ助太郎さが入ってきなった。

助太郎さじゃと思うたときは、手の早いお方だ、おらの軀をねじりあけ、口さふたいで いいなさる。おまん、はじめてかって。おら、いやだと思いはしたス。けどもふりはら う気はしなかったです。いちど、男というもんを知ってみたい、男の人に抱かれてみた い、そげごとは若い娘さんなら、目あきだってめくらだって、夢さみてくらすものだす

32作品に使われている「生涯独身」は、現在理解される 1 人で生活することだけではなく、瞽女として、男性と交わらないことも意味す

け。親方さんのいいなるわるい女じゃと思うこころはちいともながったですでのう。(同 439〜440)

おりんは目が見えないが、性に関しては一般的な女子とは違わない。つまり、おりんは自 ら妻や毋の役割を放棄したのではなく、社会文化によって、目が見えないという欠陥を理由 に、瞽女がその役割を果たすことを不可能だと判定されたのである。「めくらといえども、

人なみの幸福な家庭にすわりたい夢はあったはずである。なぜか、この人なみの夢を、親方 はあたえなかった」という叙述には(同 417)、水上の瞽女の掟に対する不満が感じられる。

この水上の態度は、掟を破った者を世間の「荒波へ放り出してしまうという厳罰」に対す るおりんの気軽な態度の描写に読み取ることができる(同 417)。以下は、おりんが瞽女屋 敷を放逐された後の気持ちに関する描写である。

思いまするにひとり旅も気楽にござりました。仲間のおりますれば、掟はあり、親方さ まも姉さまもおられるのでござりますから、たとえ無人堂に泊まりましても、下弟子は 走りつかいに追われますが、一人だけの旅は気ままで、病気さえしなければ毎日が楽し ゅうござります。(同 445)

ここでは、生活の保証を失ったおりんが 1 人旅で感じるものが、悲しみや不安ではなく、

気楽さと自由であるとされている。そして、瞽女屋敷を放逐された後、おりんは性的開放性 を付与されるようになった。以下は、おりんが自分の思うままに男との交わりに関する描写 である。

男の夜這いの相手をいたしましたことも再々で、おらその男らを、拒んで去なした夜さ りはござりませなんだ。拒んだとてめくら女ゆえ、男衆の大力にはすぐ組み伏せられて、

いいなりになるしかしかたござりませなんだから。寝てけれやといわれれば、さからわ ずに、軀を委せますと、いくらかの銭を下さる方もござります。また、おらには、板倉 の助太郎さと寝た夜さりのぬくもりはわすれておらず、淋しいひとり寝の夜は、こちら から門付けに歩き、冗談などいいかけてくる男とゆきあえば、どこそこの地蔵堂に泊ま っておりますゆえ、訪うてくださりまんせと、拝んだこともござりまする。男さまは若 衆が多うござりましたけれど、なかには、掌をあて髪を撫でてみて、つるつるにはげあ がった爺っさまの、しわばんだ顔とわかって、たまげる夜さりもござりましたわいな。

目あきの世界とちがい、かなしいことに、またそのような、手間かけるより好みはない

のでござります。ただ、ひとり寝て軀が凍てこちければ、朝もあけぬ間に死んでいるや もしれぬという恐怖がござります。その身を、たとえ、年寄りさまのなぐさみなりと、

ぬくめて下さればありがたく、冬の嵐の吹き込む堂では、すすり泣いて、帰ってくりゃ るな、帰ってくりゃるな、と足とめ申して拝みましてござりました。(同 445〜446)

ここに描かれるおりんには、来る者を拒まず交わるという性的な開放さが見られる。しか し、セクシュアリティを商品化する遊女の肉体を売る行為と異なり、おりんの男性との交わ りは、厳しい環境の中で生きるための止むを得ない行為だと感じられる。このような描き方 には、少なくとも三つの役割があると考えられる。①おりんに対する読者の同情を喚起する ことによって、彼女を卑しい劣った娼婦と見なす<被差別>の表象から解放すること。②お りんの開放的な性行為を、彼女の人間性であると肯定することによって、自然に生まれる性 欲を抹殺する瞽女屋敷の掟を批判的に捉えること。③おりんが性的無垢と性的放縦を同時に 備える存在であるがゆえに、彼女のセクシュアリティにおいて、むしろ男の身体を使用価値 があるものとみなして利用すること。以上三つの役割を見ると、言い寄るすべての男をおり んが受け入れることは、女性を性的な身体とし従属化させモノ化させる男性中心世界にとっ て、反道徳的で反秩序的な、いわば野生的な行為である。

以上の分析によって、平太郎に出会う前のおりんは社会秩序への挑戦者であることが分か った。彼女は瞽女屋敷に所属する瞽女として、その掟を守るべきだと知っていても、自分の 心に忠実に生きるために、その掟を破った。言い換えれば、彼女は、瞽女としても、一般的 な女性と同じような生活を憧れていたゆえに、はなれ瞽女になって放浪生活をしても、彼女 は苦しい、悔しいという気持ちを感じず、むしろ束縛から解放された自由を感じたのだと分 かる。

2 平太郎に出会ったおりん

ブーバーの哲学思想におけるオリジナル概念としての「出会い」は、深く、厳しく危うい ものである。なぜなら、人々は、出会いによって、それまでの馴染み深い安定した世界を揺 さぶられるからである。ブーバーによると、出会いの瞬間は、「安定した便利」な「人生の 筋書き」の中に、「突然に挿入される予期せぬ叙情的で劇的な出来事であり、その魅惑的な 魔力によって、常軌をはずした行動に出てしまう危険」がある。言い換えれば、出会いとは、