第 1 章 産業集積理論と産業集積におけるネットワークの諸理論
3.4 おわりに
以上,本章では北京における温州企業の集積地として知られる大紅門アパレル産業地域
を事例として,温州出身事業者74人に対するアンケート調査と8人に対するインタビュ ー調査などを行い,温州出身者による企業が,どのような方法で社会的ネットワークを活 用しながら事業を成立させ,産業集積を形成したのかという点を検討してきた.調査結果 は以下の通りである.
大紅門では1980年代から温州出身者によるアパレル製品の工場と販売店の起業がみら れるようになった.事業に成功した先行事業者たちは,さらに事業を拡大するために,親 族や同郷者たちを労働者として大紅門に呼び寄せていった.これらの大量の労働者たちに は,独立して起業する人も多かった.彼(女)らの多くは,縫製工場で働きながら,生産 のための技術や知識などを身に付けていった.また販売職に就いていた労働者の場合は,
業務を通じて取引先との人脈を広げていった.既に事業が軌道に乗っていた先行事業者た ちは,地縁・血縁のある起業希望者たちに資金援助や取引先業者の紹介などの支援を行っ ていった.また,このような支援は,生産や販売面で分業を行うことができ,取引先の確 保にもつながるため,先行事業者にとっても利益があったと推測される.このようにして 大紅門には,地縁・血縁に基づく社会的ネットワークを有する同郷者による小規模事業者 の集積が拡大していった.
同郷者・同業者間での支援の実例として,金融システムが未整備な中国の状況を反映し て,資金調達の手段である標会と呼ばれる互助会的組織が多く組織されてきたことも明ら かになった.標会では,会員間の人間関係や取引先との関係を維持するために,銀行など の一般的な金融機関よりも低い金利で資金を融通し合うケースも確認できた.このような 温州出身者間での強い社会的ネットワークや相互扶助については,従来の研究でもしばし ば指摘されてきた点ではある.しかしながら,本章の調査では,温州出身の同業者の集積 内では,同郷者・同業者の集団内で短期的な利益を度外視した低い金利で資金を融通し合 っており,より強い支援機能が働いている可能性を指摘することができた.
本章では,温州出身者が経営する中小零細企業は,中国の事業環境の変化にともない,
どのように変容していくのかという課題を残している.2005 年以降,中国では都市化が
進むとともに,家賃や人件費も急騰している.このような背景により,多くの縫製工場で は,北京市郊外の旧宮鎮や徳茂庄と呼ばれる地区や,さらに遠郊にある河北省に工場を移 転させている.また,外資系アパレルブランドや他地域出身者を含めた新規参入者の増加 による競争の激化や,金融機関からの融資を受けることが以前よりさらに難しくなってい ることなど,経営上のリスクも増大している.そのため今後は,北京の事例だけでなく事 業者たちの出身地である温州地域などの事例も含めてアパレル産業の集積がどのように 変容していくのかという点やその背景について,研究していく必要がある.一方,温州企 業や温州出身者が形成してきた特徴的な社会的ネットワークは,多くの同郷者に起業を促 すことなどを通じて地域の経済発展に多大な役割を果たしてきた(西口・辻田,2015).
その反面,温州出身者の「結束方コミュニティ」における社会的ネットワークには,「普 遍化信頼」が少ないため,コミュニティの範囲を越えない取引先しかできなく,温州企業 が産業構造の高度化に対応して付加価値が高い製品やサービスを開発・生産していく際に は,逆に拘束性を有すると強調している(西口・辻田,2016).その一方で,温州出身者 たちが有している社会的ネットワークやさらなる発展への制約条件を永続的・固定的なも のとして捉え,その限界だけを論じるのであれば,社会的ネットワークの変容や再編を通 じた新たなネットワーク構築の可能性を軽視する結果をもたらすかもしれない.そのため,
今後の産業集積の変容を論じる際には,このような社会的ネットワークの再編や再構築に よる産業集積の維持や高付加価値化の可能性にも着目しながら検討していきたいと考え ている.次章では,以上の点について論じていく.