・ L l y ,
● I ‑
.●
● 1図
212
和気部落中心部略 図 (現 在 )‑54‑
る ものの歯が抜 けた状態 となってお り.道 に面 した家 で,商店以外 の ものは,新 しく当地 に入 って きた者 ,他 の地域か ら帰 って きた者な どが多 い。 人地 は現在北川病院になってい るが,昭和3 0句≡
頃の火事以前には借尋が立 ち並 んでい た。倍屋が立 つ以前には,大 正時代 か ら風呂屋 があ ったo 当 時は和気部落 は山陽道 の宿場町 ,吉 井 川 水 運 の憂地 としての勢いを保 ってお り,船頭 や,旅人な どを相手に した風呂屋の経営が成 り立 っていた.Bは昭和3 5年頃 に火車 にな ったO この時 まであ った店は この後和気駅前商店街 に移 り,徳永時計店 ,小笠原仏具店,小生原等出店,小笠原 運動具 店に現在 なってい るが,これ らの和気駅前に移 った者は,経営 を維持 す るために移動 したの であ る が ,本和気 に残 った者 との間にはやは り感情のずれがあ り,交流 はない。事実 ,内接 に客 を相手 と す る商売は,和気駅前 に移 って しまい.本和気 では耗常 が難 しくな ってい る0 滴店の中 で も酒店 , ふ とん店な ど,配達 によってまかなわれてい る ものや .特別 な ものが残 っているよ うであ る。 しか し住民の中には
,
「いつか また東栄 を取 りもどす時が来 る 」とい う感情があるよ うLJa(
。
).以前の本和気商店街本和気商店街が最 も栄 えたのは江戸〜 明治初期 であ り.これは 血 潮 何の川港 と旧LEJ陶道の 宿場 町か ら発毒 した もの である。 明治24年 3月 18 日にIL1脱線 が閑適̲してか ら,物資梅送 T:段が した' いに鉄道輸送 にかわ り,和気駅前が発達 す るに したがい,中心が川唐本和気 か ら和気駅前 に移った。
鉄道開通時には10軒 た らす であったが ,別在 は250軒以 上にな
っているO津 山線開胤 片上鉄道開通 によって吉井川 の舟運はほ とん 表2‑7駅 前LB落の発運 どな くな り,川FLiL本和気部落は その勢力をな くしてい くことになる{
次 は,和気駅前 ,本和気に関係す る出来事 を記 した もの であるo 明治 7 本和気に郵便取.扱所 で きる。
'/ 24 山陽線Bil惑 ,和気駅 で きる
・/ 2 6 和気駅 と本和気仔tdに新設道 で きる。
・' // 金剛備 できるO
・, 29 地元資本家共同による和気銀行苛立
・/ 3 1 津 山線開通
〃 3 4 和気町発足
〃 4 0 年市が本和気 曽根 か ら駅前 に移 る。
昭和 4 金剛橋 ,和気儒 で きる。
・' 6 片上鉄道開通
このよ うな経過 をたどり本和気 は通過地点 になって しまった.特 に坪山鍬 ・片 上鉄道 の開胤 よjrf 井川舟運を衰退 させ ,JH8本和気 は不要の ものになった
。
次の図は,ア ンケー トによ る拙 さ取 りをもとに,大正時代 の本和気の様子を復元 した ものである。聞 き取 りの結果 を大 LF.時代の絵 閑上に記 した ものであ るために正確 を期 しが たいが,1ごいたいは このようであった と思われ るCFI二戸時代 には 両替商 を営む与三右衛門 ,与‑右衛門が大商人 で,また として本陣 であ った。前者 は細長 ・現在の 秋山家 であ り,後者 は丸尾 ・現在 の岸本家で ある。 この2軒 は川港 の物 資 をほとん ど一手にひ き受 けていた と言 われる0
‑
\
図2‑ 3 和 気 部 落 中 心 部 略 図 (大正時代 )
‑56‑
● 現在 も摘完をしてい る もの
○ 現掛 ま南岸をしてい'Jt
、
もの写真2‑ 2
写貞 2‑ 3
左 の写舞は大正時代 の もの で木製和気橋 ,素話 は現在の橋本 町通 りであ り,水車 は現在 の県貨物 の建物の西端 あ た りであ
った。
これは舟番所の残影 で 昭和25年頃の撮影 で舟 番所 は楠 の大木の下にあ った. 昭和1 0年頃 ,和 気の川港が港 としての機 能 を完全に失 ってか らは, 舟番所 は廃屋 とな った。
このよ うに川港がにぎわい をみせ た昭和10年頃 までは商人の町 として栄 えていたが ,それ以後 は地域の中心 は和気駅前 に移 った。現在 は本和気 を迂回 し,和気駅前 に至 るバイパ スがつ くられ , 集落 はますます通過 す る1ごりになって しまっている。今後 もこの傾向が強 まると思 われ るd
(中川 革広 ・粟原千可 )
‑57‑
第 5 葦 経 済 構
造1 農 業 は じめに
r
昭和53年岡山県統計 年報J
による と,民有地面取 3837・40haにおいて山林 ・原野は2778 45 haに及 び全体の72・4%を占めてお り ,この ことか らも和知町の地形的特徴が樋像 で きる。この山 地は ,中国 山地 を偶成 する吉備商原面にあた り ,低 平地は この吉備 指原面 を刻み南流 し,町南西部 で西 ‑屈曲する吉井川 と,西流 して吉井川屈曲部 ‑合流 して くる金 剛川 に よ って造 られる谷底平野 に限 られる。このため ,耕地は小 面倒の谷底平野 と山間に点在的 に見 られ るにす ぎない。 しか し,ここにおいても和気町良 薬は展 開 しているo
r和 気弘法 」に よる と,明治39年排地面朝 (旧石 生村 を含まず)の うち田62 2 4反 ・畑 13 9 0 反 を示 し,田が8 I.7%を占めてい ることか ら和気町 における虚業 の中心は稲作 であった と考 えら れ るo しか し,日本農業に とって影響大 であ った昭和3 5年( 19 6 0 )か らの高度経済成長に伴 う都市化傾向 ,及 び昭和4 5年( 1 97 0 )か ら昭和5 0年 (1 9 7 5)までの減反政解 ,昭和5 3年( 19 78 )か ら10ケ年計画の水田利用 再輸対照 な どによ り,その生産構造は少 なか らず変 化 して きているもの と考 えられる。そのよ うな .和気町 艶薬の構造変化 をセ ンサス資料 を中心に , またrLl]じ状況下における個別良家 の経営状闇 を旧石生村 田原上地区 でのア ソケ‑ ト崩盛 をも とに以 下考察 してい きたい。
(1) 和 気町 戯業の変遷
和 気町 は ,岡山県気象月報 (裁 3‑ 1参照 )による と,最前 ・娘低の月平均気温が2 71℃・2.
5℃ ,年平均気温14
4
℃ を示 し,降水丑 は5(如 以下の月が半年 を占め, 投宿 でも6月の2 69m と い う板戸円式気候 の特性 を強 めてい る。轍戸内の寡両地域 に雨乞倍仰 と して多 くみ られ る竜 モ山が ,表3‑ 1 和 気における月別平均気温及び降水
丑
資料 : 「岡山県気象月報 」区分
別 1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 ュo月 lュ月 12月 牢 乎 ‑‑ 平均気温ぐ 3.8 2.5 6.0 12.0 17,7 21.9 27.1 26.8 23,0 15.6 10.5 5▲8 14.4憤別所 :和 気 昭和5 3年 和 知町中央矧 こ存在 していることか らもこの ことが伺われる. このため ,町 一柳 こは多 くのため池 が見 られ
, r
和気部 誌 」匪 よ祉 水面面概一段 歩以上のもので54個を数 えていも この よ うに ため池の 多いのは ,県下三大河川 である吉井川に削 、なが らも .引水 す べ き 用水が十分 でなか った畑 こも 起因 していたが ,現在 では益 原用水 ・大田原用水 など用水鹿 の亜 麻は進 んでいる。しか し
,r
明治中期産業運動資料 ‑段蜂 調香 J岡 山県 の和 気郡 n業備考 ・地質及び 土壌の卿 こ「本部村落 ノ内吉井川 二沿 ヒタル村 落 ‑砂地 ニッチ ‑‑‑南部 ノ内 邑久郡 二接近 シタル地 ‑粘土多 シ,
「59‑
概 スル二本郡 ‑中等以下 ノ地味 ニシテ上等 ノ土壁 トイ ヒ難 シ lとあ るよ うに ,農業に とっての根本 であ る耕地 は , 地 質 上の砂質土顔が大部分 を占め,投薬 に適 した地域 とは言 いがた いoまた ,吉 井 川 ,金剛川沿 いは ,古 くか ら豪雨時における洪水の被苗に悩 まされてお り
.
F和気那誌J によ る と,明治元年 か ら三十五年 の間に十二度 の故晋 を受 け ている。吉井川は天井川化が進 んでお り,この こ とが ,洪水 の一変的 ともなっている 。
この ような和
気
町 における忠業の変遷 を図3 ‑ 1桝地面研及び田畑 面積の推移 をもとに見ていき たいo戦前の昭和5‑ 昭和1 6年 に於ては耕地 は 1,0 0 0haを上回 り,塊分か上昇傾 向にあ った.これは,日華撃変以来 の深刻化す る食糧不足 に対処 す べ く,和気町農業の中心であ る稲作の振興 に 努め た結果 と考 え られ ,田に対 し伽 ;減少 していることか らもその ことが伺 える。 しか し , 昭和
20年第二次世界大槻の影掛 こよ り耕地 は大幅な減少 を示 してお り900haを下回 っている。
昭和2 0、 3 5年 の機敏毅興朋には ,わずかではあるが増加 を示 してお り,特 に昭和2 0‑‑ 2 5 年 の増加 は顕著であるが ,結局軸前 の耕地 を回復す るまでに至 っていない点は注 目に値する。 これ は ,日本曲業構造の
変
革を意味す る農地改革に よるもの と考 えられ る.戦前 における良菜は ,日本 社会 の封建的諸姻係の基盤 とな ってきた地主制に基づ く小作 掛 こ負 うところが大 きか った. しか し, 敗戦 をむかえ ,第一次 と して昭和20年 1 1月段地謡軽法 ・第二次 として昭和2 1年3月 自作 毘創 設特 別法の二法等 をも とに農地改革が推 し進め られ ,これに よ り地主制 は崩壊 し,小作農は大幅に 減少 し,その結果多 くの 自作農 が創設 された。昭 5 11 16 20 25 35
図3‑ 1 耕地 面切及び田畑面額の推移
40 45 50 55
Cl軸 5‑ 6
r
河 山収扶計 昨報j磁軸 20
r
A地等N政策事J鼓J昭如25一し55軽 センサスより
和好丁にお ける幽地 改革の進行 をr農地等開放笑劇調
査
j(表3‑2)・自小作別段家数 (表3‑3) をもとにみてみ よう.昭和20年 における小作地率は36.8%にも及ん でお り,しか も自作地 面柄 に占める売渡済 面闇 が42 6%を示 していることから ,戦前における見地の他主占有 が相当なもの であ った ことが想像で きるが ,昭和2 5年 までに在村3 2 1戸 ,不在村3 2 5戸 ,計646戸 の地‑60‑
表3‑ 2 和 気町腿地改革の進行 単 位 :ha
*
昭和20年 11月 日収 所 管 計 亮痩 昭和25年8月 恩地 を只収 売渡 を常習 村 名
。 自作地23出 地 面 現日 現 在小作也 計 面研防 面研換 面河済 自作̲馳出 地 面 硬1 日 現 在小作二他 計 地主の戸数在村さ れ不在村た 戸うけた数石生村 155.5 43.3 198,8 31.9 31.9 31.9 186.8 l2.0 198.8 52 45 210 頗野村 121.6 82.6 204.2 52.1 4.4 56.5 56.2 176.5 26.2 202,7 92 45 330 本荘村 113.3 93.4 206.7 70.7 2.4 73.1 73.0 196,5 18.4 214.9 141 106 323 和 気町 41.6 42.4 84.0 29.5 3.6 33̲1 32,8 74.2 8.5 82.7 20 36 136
日笠村 125.6 62.4 188ー0 43.5 43.5 43̲5 184.2 13.4 197.6 16 93 292
r出地等開放実概調査 Jよ り 主か ら農地 が買収 され1.2 91戸 が売渡 を うけた結果 .小作地牢は8.8%と大幡に引 き下げ られた。
良家数 においても売渡 しをうけた1.2 91戸は .昭和2 5年世界虚 業 セ ン サ スの総段家数 1.82 5戸の70.7%にあた り,多 くの自作段 が創設 されたこ とを物語 っている。蓑 3 ‑ 3に よる と,昭 和 2 5年 における自作農家は6 8.1男を占め ,自作地 をま った く所有 しない小作 農家 はわずか2.8
射 こす ぎず ,戯地改革がかな り進行 ・定着 した ことを示 し てお り ,昭和3 5年 には この 傾向 をよ り強め 自作農家72 370,完全な小作農家1.4% を示 している。
以 上の ように段地改革によ り何 らかの形 で他人の土地に
表3‑3 日小作別農家数 単位 ‥屍
項
目年 度
自 作 自小作 小 自作 小 作 その他汁
1950(昭25) 1.242 432 97 52 2 1,825 (68.1)(23.7) (5.3) (2.8) (0.1) (100 1960(昭35) 1.345 421 69 26 1.861
世界虚業 セ ンサスよ り 依存 していた小作 盟が念願 の耕地所有を果 た し独立 をとげ ,残存 小作 出 も小作料 の大幅制限 と金納 刺 ,残存 小作地取上げ制限に よ り戦前の ような地王 制下における封 建的小作人ではな くな った こと によって ,独̲V した自作良家 は ′意欲的に 自作地経営に努 め ,その反面 ,地主は所有農地 を経営 し きれず ,他の使用 方法に転換 した とも考 えられ ,この こ とが先の図 3 ‑ 1にあ らわれたよ うに ,戟 rtJてJの耕地面軒 を回復 しきれなか った主愛国と患 われるd
昭和2 5‑ 3 5の変化 において今一つ注 目すべきは ,研地面債 がわず かではあるが上昇 を示 して いるのに対 し,和気町 段業の中心 である稲作地 ・田面群 が減少 を示 している点 であるo これは ,価 面項及 び図3‑ 1には記 されていないが樹園地 かそれぞ れ増加 を示 していることか ら ,田の減少分 が これに囲 ったと考え られ るが ,これが どの ような理 由に よるかは研究 不十分の ため明 らかでない。
しか し,おそ らくは ,この当時の反 当収入 より考 えれl洞 作 か ら他 の有 利 な畑作物 ,果馴 こ作付転 換 され T=もの と推察 されるC
ともか くも,敬後昭和 2 0‑ 3 5までの間耕地面同 は ,わずか ではあるが増加 を示 し,和気町段
‑61‑