トップPDF アントニー・スティーヴン・ギブズ先生 ―仰ぎ見る存在として― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

アントニー・スティーヴン・ギブズ先生 ―仰ぎ見る存在として― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

アントニー・スティーヴン・ギブズ先生 ―仰ぎ見る存在として― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

竹 内   理  ギブズ先生と初めて言葉を交わしたは、もう 20 数年も前ことになる。2 m はあろう細 身・長身先生仰ぎ見るようにして、15 分程度、他愛ないお話をさせて頂いただが、今 でもその時ことを鮮明に覚えている。その理由は、先生使われた日本語流ちょうさに、 ただただ舌を巻いた強い印象があったからである。日本語が母語私たちでも、決して真似 できない、折り目正しい言葉使いであった。あれから 20 年以上も経っただ。年月流れ速 さを感じるとともに、強い寂しさを感じずにはいられない。
さらに見せる

2 さらに読み込む

アントニー・スティーヴン・ギブズ先生のご退職によせる想い 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

アントニー・スティーヴン・ギブズ先生のご退職によせる想い 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

3 アントニー・スティーヴンギブズ先生ご退職によせる想い 福 井 七 子  私が初めてギブズ先生にお目にかかったは、関西大学文学部頃でした。先生は英文学科 に属しておられました。文学部時代はあまりお話をする機会もありませんでしたが、教授会 折、物静かな口ぶりでお話される先生を、いつも私は羨望まなざしで見ていました。  直接お話する機会をもったは、外国学部にお移りになってからでした。私はその時、英 で論文を書かねばならないという、まったく荒唐無稽な仕事を抱えていました。まがりなり ではありましたが、一応英語で原稿は書いておりました。手を入れてくだされば有難いという 思いで先生にお願いしました。先生は大学前喫茶店にほぼ時間通りお出でになりました。お 聞きすれば京都から新幹線をお使いになったということで、大いに恐縮したものです。しかし、 この恐縮は始まりに過ぎませんでした。一文一文、誠に丁寧に修正してくださり、最初は遠慮 がちに聞いておりましたが、だんだん厚かましくなり、「それとこれとニュアンス違いは何 ですか?」など先生にとってはあまりに稚拙すぎる難儀な質問を何百回もしてしまいました。 ギブズ先生は一つひとつ本当に丁寧に教えてくださり、無事論文は仕上がり、それは後にジョ ンズ・ホプキンズ大学出版から出版されました。残念ながら編集段階で若干修正がなされ ましたが、骨子については私も譲るわけにはいかず、何回も、何度も編集人とやりとりをし、 出版までこぎつけることができました。
さらに見せる

2 さらに読み込む

キルギス語とロシア語のコード・スイッチングに関するパイロット研究 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

キルギス語とロシア語のコード・スイッチングに関するパイロット研究 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 以上ように、個々 CS 機能が特定できる場合がある一方で、CS 発生頻度が最も高い C は、3.1 文内 CS 例③ように、母体言語が不明で複雑な CS が多数見られ、個々 CS 機能は必ずしも明確ではなかった。Poplack ( 1980: 588 )が指摘するように、安定的な二言語 併用コミュニティにおける特定発話状況では、CS 自体が規範となる事例もある。その場合、 話者は CS を通して混合アイデンティティを表現していると考えられ、前掲 6 つ機能のう ち「表現機能」に該当する。よって、安定的な二言語併用環境である首都ビシュケク市に生ま れ育ったインフォーマント C にとっては、キルギスとロシア CS に満ち溢れた会話様式 がありふれたものであり、CS を通して、キルギスが優勢な地方在住キルギス人とは、異な るアイデンティティを表現していると考えられる。
さらに見せる

12 さらに読み込む

ビセンテ・ウイドブロ『北極の詩』(抄) 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

ビセンテ・ウイドブロ『北極の詩』(抄) 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 ウイドブロがこの詩集に載せた詩編は、「額絵」として鑑賞されることを意識してか、どれも が短い。比較的に長い「急行列車」でも、2 ページに収まってしまう程度 40 行に過ぎない。 そのことが、本質的に斬新な詩を、新しい手法に不慣れな読者にとっても分かりやすいものに している。またグリスが指摘していることだが、用いられる単語も、観念的で日常になじまな い、奇を衒ったようなものではなく、より詩人身の丈に応じた平易な言葉になっている。キ ュビスム画家が『北極詩』美点であるとするこの特徴は、パリとは違い、この種詩に 対して一切免疫を持たなかったスペイン詩人たちあいだに熱心な支持者を得た一因とな った。そうしたなかで誕生したが、スペインにおける最初前衛主義ウルトライスモである。 彼らは、シュルレアリスムがその中心に常にブルトンを抱いたようにはウイドブロをその懐に 迎えることをせず、むしろ反力を高めていったが、1922 年に機関紙「ウルトラ」が廃刊となり 運動が解消した後も、スペイン詩底流にその反響を残した。
さらに見せる

16 さらに読み込む

ある肖像画の物語 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

ある肖像画の物語 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

にとって、彼は信じざるを得なかっただが、愛は趣味悪い気晴らしに過 ぎなかったのだ。彼は激しい気性男性だった。彼はすぐ要点に触れた。  「マリアン」と彼は言った。「君は僕を欺いていたんだね。」  マリアンは彼が何ことを言っているかよく分かっていた。彼女には、自分が自分婚約 にうんざりしていることがよく分かっていた。そして、ヤング氏やキング氏に対する彼女振 る舞いがどんなに無邪気なものであっても、それはバクスターに対する重大な裏切りだった だ。彼女はダメージを受け、二人婚約はすっかり破棄されたと感じた。スティーブンが中途 半端な言い訳や否定に納得しないことは分かっていたが、彼女にはそれ以外に伝えられるもの がなかった。いくら言葉を費やしても完全な告白にはならなかっただろう。そこで彼女は、気 に揉むことをやめてしまった「将来」を守ろうとはせず、単に自分威厳だけを守ろうとした。 生まれつき半分冷笑的な落ち着いた性格によって彼女威厳は当面間十分守られた。しか し、同じ品ないこの落ち着きために、冷酷で浅はかだという印象がスティーブン記憶 中に残った。そしてそれは、少なくともその記憶中では、真実重みと価値あるものを求め る彼女にとって永遠に致命的であることが宿命づけられていた。彼女に説明を求め、彼女振 る舞いに介入しようとするスティーブン権利をマリアンは否定した。婚約を解消しようとい う彼提案を彼女はほとんど予期していた。彼女は涙という単純なロジックを使うことさえ否 定した。当然、このような状況では二人話し合いは長いものではなかった。
さらに見せる

30 さらに読み込む

アディナ ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

アディナ ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

重くのしかかってくるようだった。私たちはあれ以来アンジェロ姿を見ていなかったので、 私はどんな形でもいいから彼ことを知りたいと思っていた。しかし、彼姿を見ることなく 数週間が過ぎ、あの異例取り引きあと彼側に何が起こったか分からないままでいた。 クリスマスがやって来て、それとともにいつも儀式季節到来だった。スクロープと私は 精力的に必要な方策を講じた ─ つまり、それは拳や肘や膝問題で ─ システィーナ礼拝堂 で行われる真夜中ミサに出席する二人女性ため場所を確保することだった。ワディン トン夫人が私特別任務だったが、外出するやいなや私たちは人ごみ中であと二人姿を 見失ってしまった。私たちはしばらく柱廊で待っていたが、通り過ぎる人たち中に二人姿 を見かけなかったので、彼らは勝手に帰宅すると決めて、相手も私たちに同じことをするよう 期待しているに違いないと考えた。しかし、ワディントン夫人宿にたどり着いても二人姿 はなかった。こんなにも長い間二人姿が見えないということは、彼らは聖ペテロ教会に行っ てあの広大な暗い空間中で細いろうそく輝きを眺めているではないかと思った。若い女 性があれだけ「魅力に欠ける」若い男性と午前三時に歩き回るというは通常あまり見かける ことではない。しかし、「まあ、あの娘は彼従姉妹みたいなものだから」とワディントン夫人 は言った。二人が戻って来たとき、彼女はそれ以上ものだった。私は家に帰り、ベッドにも ぐり込んで、クリスマス鐘で目が覚めるまで寝ていた。私は起き上がって、クリスマス 挨拶をするためにスクロープ部屋戸をノックしたが、戸を開けに出て来た彼は、それが いかにもその場に相応しくないことに気づいた。彼は身支度を半分整えただけで、部屋に戻る とベッド外側に身を投げ出した。私が思ったとおり、彼はアディナとサンピエトロ寺院へ行 き、きらきら輝く美しいろうそく光を見つめていただった。彼は落ち着かない様子で部屋 中を歩き回っていた。何か言いたいことがあるだということが分かった。そしてとうとう 彼はそのことに触れた。 「実は、受け入れられたんだ。婚約したんだよ。いわゆる果報者という やつかな。」
さらに見せる

37 さらに読み込む

吉田健一と英文学 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

吉田健一と英文学 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

量、すなわち、外国教育と深く関連する母語・早期英語教育・ネイティヴスピーカー等問 題に寄せる気概と厳粛な認識、そしてその志操には敬服せざるをえない。  月刊雑誌『新潮』〈2009 年 1 月号〉「特別対談:日本危機とウェブ進化」において水 村美苗は、インターネット専門家である梅田望夫と対談し、その場で日本語将来に対する 強い危機感を吐露している。「西洋ロゴスに地球が支配されないために、非西洋国語と して日本語を維持していく。それこそが人類的ミッションではないか」(水村美苗/梅田望夫  347)と揚言する水村美苗は、対談者梅田望夫相手に深い焦慮に駆られつつ、「グローバリゼ ーションというけれど、その一方にはグローバリゼーションに回収できないローカルというか、 個別的なものがある。それは人間が地球さまざまな土地に住み、さまざまな母語を話してい る限り、必然的に存在するものですよね。だから、ローカルであることを意識しつつ、そのロ ーカルな環境で生きる運命をどう引き受けるかということを、日本で書くことでもって人類 に向けて示していかなければならない。すべて人が人類に向って直接書くを目指す必要は ない。あえて言えば、人類という抽象的な対象に向けて書かれたことと、ローカルな人間に向 けて書かれたことがちがうを日本人が日本語で読み書きして示すことが、人類へ貢献にも なると思うんです。すべて人が英語という人類で書いてしまったら、世界はとても退屈な ものになってしまう。…………………グローバルなものに回収しきれない世界存在を訴え続 けることこそ、パブリックな行為だと思うんですよ」(水村美苗/梅田望夫 355)と、持論を ぶつ。英語支配という問題に敢為精神で立ち向かう水村美苗肩肘張らない率直な意見を 傾聴するに如くはないだろう。新たな主体性確立を希求して日本語世界に帰って行った吉 田健一と水村美苗決断勇気は、筆者心に漣が立つ。
さらに見せる

19 さらに読み込む

社会科学の目的と「自由」に関する考察 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

社会科学の目的と「自由」に関する考察 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 文化人類学者は自分社会よりもなるべく違う社会を研究しようとするため、様々な集団 データを持っている。そして西洋文明影響範囲からはずれたところで発展したシンプルな社 会を特に研究する。文化人類学者はある集団が特定価値観に基づいて実現した方略を研究す ることができる。その価値観とは自由という価値観なか、社会統一という価値観なか、権 力に屈するという価値観なかを研究することができる。文化人類学者にとって部族役割は、 科学者が細菌生死を研究する実験室役割と同じなである。文化人類学者実験室は研究 者が自分で設定するではない。それは原住民が何世代にもわたって、何千年もかけて生き方 詳細にいたるまで設定したものである。しかしフィールド・ワーカーはその部族なかに存 在する私たち時事問題を、たとえそれが違った姿であったとしても認識することができる。  フィールド・ワーカーが研究している裸プリミティブ・ピープルはもちろん社会保障条 例について話すわけではない。しかし彼らは老人や飢えた人をどのように扱うべきかはっきり している。年寄りや飢えた人を守る部族もあれば、守らない部族もいる。そして文化人類学者 はそれがもたらす帰結を研究することができる。原住民は黄金率について語らないが、オース トラリア原住民からカラハリ砂漠原住民にいたるまで、黄金率が働いていることは見受け られる。たとえば、「他人に施しを与えなければ、誰が自分に施しを与えてくれるだろう」、「他 人を敬わなければ誰が自分を敬ってくれるだろう」といった教訓は、若者頭にたたきこまれ、 南洋島々人からティエラ・デ・フィエゴ冷たい霧にすむ人に至るまで、それを実践して いる。同時にこのような黄金率がまったくない原始社会があり、文化人類学者は黄金率が存在 する結果と、しない結果を研究することができる。黄金率は人を支配するだろうか?プリミ ティブ・ピープルなかで黄金率に縛られた人間関係しか知らない人もいれば、相手を強いる 状況に立たされたことがないプリミティブ・ピープルもいる。
さらに見せる

16 さらに読み込む

オズボーンの復讐 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

オズボーンの復讐 ヘンリー・ジェイムズ 著 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 表向き反感を示した最初振る舞いあと、ヘンリエッタ・コングリーブは、友人かつ姉常連客としてとても喜んでオズボーンを迎えるようになった。彼は、自分が次ように考 えても馬鹿げていることにはならないと考えた。つまり、読者がどう考えようと、自分行動 全体が浮かれた愚か者それだとオズボーンが考えていないは言うまでもないこと、そして、 彼女を取り巻くほとんど若い男性よりもヘンリエッタは彼に好意を持っていると考えること である。オズボーンは自分持って生まれた資質を正しく評価していたし、感情的なことに厳 しく制限しなくても、より洗練された社会的な目的ために、ひとかどの人物になる素質も備 わっていることが分かっていた。彼はささいな事には関心がなかった。しかし、ウィルクス夫 人客間ではささいな事はほんのわずかな役割を果たすに過ぎなかった。ウィルクス夫人は単 純な女性だったが、愚かなわけでも軽薄なわけでもなかった。そして、コングリーブ嬢はさら に優れた理由でこれら欠点から影響を免れていた。グラハムがかつて多少苦々しさを込 めて次ように言うを聞いたことを思い出した。 「女性は本当は自分に何か言ってくれる男性 だけが好きなんだ。女性はいつも何かニュースに飢えているんだ」オズボーンは、コングリ ーブ嬢が通常あつめられる以上ニュースを自分がもたらすことができることを考えて満足し た。彼は素晴らしい記憶力を持っていたし観察力も鋭かった。その点についてはコングリーブ 嬢も同じだったが、社会についてオズボーン経験はもちろん彼女それよりも十倍広が りを持っていたし、彼は常に彼女不完全な推論を補足し、間違った憶測を正すことができた。 彼女憶測は素晴らしく如才がないように思えることもあったし、無邪気で愉快なこともあっ た。しかし彼は、まったく新しい事柄が持つ魅力について事実を彼女に提供できる立場に自 分がいることにしばしば気づいていた。彼は旅行をし、男女を問わずさまざまな人物に会って きたし、もちろん、通常女性が読むべきではないと考えられている多く本を読んでいた。彼 には自分強みがよく分かっていた。しかし、彼知的な資質を披露することによってコング リーブ嬢が大変楽しんだとしても、一方で、彼女関心が彼知性に非常にさわやかな影響を もたらしているようにも思えた。
さらに見せる

36 さらに読み込む

「日本の英文学研究」考 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

「日本の英文学研究」考 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

Another is for there to be more ‘original’ or ‘creative’ writing. English continues to focus on enabling you to respond to the world around you. (Robert Eaglestone 133 )  私たち日本英文学専攻者にとって有意義だと思われる箇所を、本稿論旨である実践知性 として英文学研究視点からまず引用したが、実は著者ロバート・イーグルストンは第 1 部 第 1 章 ‘Where did English come from?’ 中で、英文学という学科目がどのような歴史的背景 もとでイギリスに設置されるに至ったかを詳述している。英文学本家であるイギリス事 情を知っておくことも大切であろうから、以下に、簡潔にまとめてみる:「元々英文学研究なる ものはイギリス大学では受け入れられず、特に古典学教授たちにとっては無用長物であ った。ところがこの英文学は 1835 年、一つ正式な学科目としてインドにおいて誕生した。当 時インドを統治していたイギリスは、英文学研究を通して現地インド人をイギリス化させよ うと目論んだである。そしてやがてこれがイギリスに逆輸入されることになる。そうした逆 輸入者代表的人物が、詩人・思想家マシュー・アーノルド(Matthew Arnold)であり、 彼は当時イギリス人に文学的教養を身につけさせようと思ったである。具体的には、有益 で文明的な道徳的価値観修得が目標とされた。これに対して、英文学を研究してもほとんど 意味がないと考える一派も存在し、彼らは、教養ではなく、むしろ言語研究として英文学を 志向した。こうしたせめぎあい中、1893 年オクスフォード大学に英文学学位コースが導入 されたが、英文学専攻は主としてフィロロジー研究を意味した。この流れが変わるは 1917 年 以降である。ケンブリッジ大学講師たちが中心となって、主としてフィロロジーから成り立 っている英語専攻コース抜本的改革を進め、やがて言語研究だけではない、今日私たちが 知っている豊潤な英文学基礎が作られたである」。
さらに見せる

22 さらに読み込む

岐路に立つルクセンブルクの3言語主義 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

岐路に立つルクセンブルクの3言語主義 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

ンスを保つべくルクセンブルク会話力がこれまで以上に求められることになろう。  一方、国語であるルクセンブルクが、ルクセンブルク国内でしか使われない言語であり、 学問をするにも十分でないという状況が、ルクセンブルク教育強化に踏み込めない理由に なっている。外国統合に国語を利用できないルクセンブルクは、3 言語間バランスを調 整することでアイデンティティを守る他ない。そのために、ルクセンブルク在住ポルトガル 人やイタリア人は、自分母語以外に 3 言語を学ばねばならなず、これに英語も加えると学ぶ べき言語が 5 つになってしまう。そもそもルクセンブルクは、欧州主要言語であるフランス とドイツによる言語インフラを整備することで、EU 中心的な都市として発展してきた。 ルクセンブルクが国際都市として繁栄し続けるためには、この言語インフラは不可欠だ。現在 枠組みでは、ルクセンブルク在住外国人はインフラを提供する側、通勤者はインフラを利 用する側に組み込まれているといえる。こう考えると、ロマンス系言語を母語とする外国人は、 ロマンス系言語をベースとする複言語能力を身につけることで、ルクセンブルク人とは異なる 言語インフラを提供できるようになり、ルクセンブルク言語インフラを豊かにする潜在力を 持っていると考えられるだろう。国家権限を吸収しながら深化する EU 都市機能と、国家 に基盤を置くアイデンティティー保持という必ずしも相容れない要求を満足するは難しいが、 前者を損ねない形で緩やかな 3 言語主義にシフトしていくが現実的な方向であろう。
さらに見せる

14 さらに読み込む

Business Presentations Course Results 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

Business Presentations Course Results 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 現代社会において、人々活字離れが進む一方で、オーディオヴィジュアルコミュニケー ションは、情報やエンターテイメントを提供したり、説得力を有し分かち合えたりできると いった面で重要な役割を果たしている。  この研究では、学部生対象プレゼンテーションコースについて述べている。学生による フィードバックを基に、⑴情報源 ⑵新しい経験 ⑶新しい知識 ⑷将来に向けて、といっ た4つエリアに分けられる。またその結果を受け、本研究ではこのコース長所を評価し、 改善すべき分野について提案している。
さらに見せる

10 さらに読み込む

トーマス・ロッカー絵本の整理と展望 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

トーマス・ロッカー絵本の整理と展望 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

  , by Thomas Locker. New York: Harcourt, Inc., 2001.  「大自然が踊る」というテーマ第三弾で、前二作構成を踏襲している。テキストは三人称 視点から書かれおり、様々な偉大な山々姿を映し出している。巻末に載せられたクリスチ ャンセン、および地理学者ドナルド・フィッシャー(Donald Fisher)による科学的説明に助け られ、それら山々がどのように作られたか、また変化していくかを読者は知る。アメリカ合 衆国内よく知られた山々が例として挙げられており、地学、地理テキストとしても読める、 面白い趣向絵本である。短い時間で変化する水とは異なり、山々が何万年かけてダンスを踊 っていると捉えられているところがユニークである。最後見開きでは、たくさん星がきら めく群青色空を背景にした山々姿を描き、“Beneath the stars, / mountains dance their slow dance / that goes on and on / in the endless beauty of the universe.” というテキストが配され ている。読者を悠久彼方へと誘い、宇宙神秘を感じさせる。
さらに見せる

23 さらに読み込む

国際交流におけるコンフリクトの解決スキル 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

国際交流におけるコンフリクトの解決スキル 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

Key words international collaboration, conflict resolution, facilitation skills 1 .ASEP 教育効果  毎年 12 月最終週、中華民国高雄市において、AJET (Advanced Joint English Tele commu- nication)と WYMC (World Youth Meeting Committee)が主催し、高雄市政府、國立中山大学、 高雄高級中学、他後援により ASEP (Asian Student Exchange Program)が開催されている。 そこでは、アジア各国(台湾、日本、韓国、インドネシア、マレーシア)から中学・高校・大 学生が集い、ICT を活用した事前交流、2 カ国協同英語プレゼンテーション、対面交流を通じ た国際交流活動が行われている。(昨年度で 11 回目:[http://www.kageto.jp/asep/2010/]参照)  この ASEP による教育効果とは、一言でいうと「実践による学び奥深さ」である。このこ とは、ネイティブ・アメリカンが遙か昔に気づいており、次ような諺として先祖代々語り継 がれている:
さらに見せる

7 さらに読み込む

at Workにみるルース・ベネディクトの肖像 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

at Workにみるルース・ベネディクトの肖像 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 癇癪発作もこの間ずっと続き、ひどい時には嘔吐をしました。しかし、嘔吐と癇癪を結び つけることはありませんでした。この二つはあまりにも異なるものに思えました。どちらにも 共通するシンボリズムは、「否定」ということかもしれません。  子ども頃にタブーとし、それを生涯ほとんどを通してタブーとしてきたことが 2 つあり ます。かなり小さい頃から感じていたことで、6 歳秋に牧場を去る前に植えつけられたもの です。1 つは人前で絶対に泣かないこと。人前で泣くということは、私にとって最悪こ とで最も屈辱的なことでした。癇癪がおさまって、暴力罪が「私」世界なかすべて タブーを圧倒した時に人前で泣いたとしても、それ以外時に決して泣くことはありませんで した。でも夢中で人前で泣いていました。人前で暴露される典型的な夢は、よく知ってい る顔ぶれ人たちが、じっと私を見ている部屋なかで泣き出してしまう状況を詳細に表わし た夢でした。このタブーは結婚したあとも、頑なに長い間守り続けました。そのころ落ち込ん でいる時に、それまで経験したことがないような、素晴らしく美しい白昼夢を見ました。 「白昼 夢」ということは、どんな夢よりも現実味を帯びた、特定夢を指しています。タブーに対す るそれ以降変化は、その白昼夢につながっています。その夢なかで、私は砂漠なかにい て、その砂漠には素晴らしいエジプトスフィンクスがありました。そのスフィンクス顔に あらわれた知性と皮肉は、言い表せないもので、私はスフィンクスに近づき、前足に顔を埋め てひたすら泣きました。うれしさと確信を感じながら。そしてスフィンクス前足は、子猫 ように柔らかく、ふわふわしていました。(「私」世界前で泣くことによって、その後、そ タブーを守らなければならないという衝動は無くなりました。)
さらに見せる

28 さらに読み込む

外国語教育における「翻訳」の再考 ― メタ言語能力としての翻訳規範 ― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

外国語教育における「翻訳」の再考 ― メタ言語能力としての翻訳規範 ― 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

3 . 7  歴史まとめ  ここまで言語学習教授法歴史を主に Richards & Rogers(2001)および Cook(2010)に 沿って概観してきたわけだが、文法訳読法から CLT まで変遷中で、幾つか 2 項対立的な キーワードを巡って振り子が動いているが分かる。1 つは、形式 vs. 意味である。文法訳読法 や直接教授法では形式を重視するに対して、CLT では意味重視になる。もう 1 つは、無意識 的 vs. 意識的振り子である。直接教授法から CLT 一部まで、無意識下で学習がおこなわれ ていると考える傾向は強いようであるが、フォーカス・オン・フォームでもみたように、最近 では学習者に意識的な気づきを促したり、注意を向けさせることが必要であると考えられてい るようだ。無論、この議論は本来チョムスキー言語学から受け継がれる議論であり、言語知識 はほか人間技能とは異なり教育影響を受ける度合が小さい、という第二言語習得論命 題と深く関係するものではあるだが、本稿目的はこの是非を論じるものではい。むしろ、 特筆すべきは、これまで見てきた歴史中で揺れ動く二項対立軸に対して、フォーカス・オ ン・フォームように近年アプローチは、そのどちら極に振れようというものではなく、 その中間に収まろうというような傾向が見られるということであろう。そうであるならば、言 学習に大切なは、形式か意味どちらかではなく、形式も意味も、両方ともが大事なので ある。つまりその両方を、言語「機能」と「コミュニカティブ」であることを考慮して、意 識的であろうと無意識であろうと、それはあまり問題とせずに達成できるであれば、言語学 習目標は当面は果たせると考えるわけである。この立場に立てば、後述する翻訳(規範)を 基軸とした翻訳教育は、現在外国教育教授法が目指す目的と真っ向から対立するもので はないと考えられるだ。
さらに見せる

22 さらに読み込む

有余年の大学生活を振り返って 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

有余年の大学生活を振り返って 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

27 30 有余年大学生活を振り返って 福 井 七 子  関西大学時間は、学問を中心として生活に彩りを添えてくださった人々おかげで、 非常に恵まれた期間だった。30 有余年にわたって、まったく波風がたたなかった時期がなかっ たとは言えない。ルース・ベネディクトという複雑な女性を研究テーマ中心にしたことで、 彼女思想・文化捉え方、また彼女異文化理解に迫ろうともがき続けた年月であった。  研究性質から、私は常に一次資料を求めようとした。資料集めがうまくいき、というより 納得いくまでやり続けたというべきかもしれないが、そして多く人々に助けられ、これまで あまり研究がなされていなかった分野を少しは明らかにできたではないかと思っている。  アメリカには 6 回ほど調査旅行をした。第一回目調査旅行は実に不安な気持でいっぱいで あった。プキプシーにあるベネディクト・コレクションを中心に、エール大学や議会図書館に も出かけた。ニューヨーク図書館では思いもかけなかった資料を得ることができた。結果的 に私心配は杞憂に終わっただが、資料収集だけでは何も発信できない。収集以上に努力が 求められるは、それを読み解き、まるでジグゾーパズルように時間軸を中心に埋め込んで いかねばならない。
さらに見せる

2 さらに読み込む

碩学 平田 渡先生へ感謝を込めて 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

碩学 平田 渡先生へ感謝を込めて 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 先生碩学ぶりは尋常でなく、ご専門であるイスパニア文学・文化話はもちろんこと、 日本文学・文化話、言語や教育話、さらには趣味海釣話や車、ワイン話まで、周り にいるものを圧倒する。読書量はおそらく大変なものだと推察される。ただ、先生は読書に使 われる時間と同じくらいに、若い教員と話す時間も大切にされた。その中で、文学面白さに 気づいたもの、日本意識を高めたもの、新たな視点を得たものがいることを見ると、人 を育てる際「対話大切さ」を、他誰よりも認識されていたではないかと思えてくる。  また、先生は人に感謝する言葉を惜しまない方でもある。作業をご一緒させていただいた 8 年前外国学部開設にかかる各種行事で、自ら様々に差配を振るわれたにも関わらず、「我 が勲なきがごとく」振る舞われ、下支えしたものに感謝をされていた。その姿を思い出すと、 ともすれば自らことばかり考えがちな大学教員中にあって、周りへ配慮を欠かさない先 生存在は希有なものであり、そして見習うべきものであると感じる。
さらに見せる

1 さらに読み込む

「ボアズの片腕としての歳月」に見るミードの想い 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

「ボアズの片腕としての歳月」に見るミードの想い 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

 その間、年月はボアズにとって厳しいものとなった。1925 年 10 月、二番目娘が小児麻痺 で亡くなり、二番目息子は交通事故で亡くなり、ボアズ夫人は 1930 年 12 月に車に轢かれて 亡くなった。その時、ボアズはシカゴ大学社会科学学舎落成式ためシカゴに行っており、 ボアズ夫人が埋葬される前一晩だけしか彼女側で過ごすことができなかった。シカゴから ニューヨークまで長い列車つらい時間をボアズはサピアともに過ごした。1931 年と 1932 年、ボアズは深刻な病いを患っていた。そうした時、すべてことがベネディクト双肩にか かってきた。ボアズがもう原稿を見ることさえしなくなり、様々な課題に取り組むことがなく、 色々なことから退くと思われるようになり、手紙はベネディクトに宛てられるようになった。  その頃ヒットラーが政治的成功をおさめた。それはボアズが生涯戦ってきたすべてものを 象徴するようなこととなり、普遍的な人間価値観と自由を否定することと結びついた。生涯 最期何ヶ月か間に、ボアズは非常に大きな怒りによって奮い立たされ、世界とまた関わ るようになった。文化人類学仕事にも復帰し、人種テーマのみならず、反ナチ軍事的活 動、書物、そして地下組織資料を収集したり、追放された人たちために活動するようにな った。疲れも厭わず、ボアズは一度なくなりかけた力を、彼が第一次大戦でドイツ系アメリカ 人として直面した戦いとは逆戦いに注ぎ始めた。
さらに見せる

18 さらに読み込む

北村 裕先生との四半世紀 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

北村 裕先生との四半世紀 外国語学部(紀要)|外国語学部の刊行物|関西大学 外国語学部

竹 内   理  我々が敬愛する北村 裕先生が、65 歳定年を迎え、本学をご退職になられる。言葉では言 い表せない、強い寂しさを感じずにはいられない。  北村先生とは、お互い前任校時代から数えて、もう 25 年を越えるおつきあいとなる。私が まだ 20 代後半、先生が 40 代前半時であった。学会でお会いしたが初めてであったが、そ 素晴らしい英語力には感服するしかない、と印象を覚えた。その後、先生が長期留学経 験を一切持たず、日本でのみ英語を学んできたという話を聞き、ふたたび驚いた次第である。 また、ご研究面でも、パソコンという言葉がまだ一般化していない時代に UNIX ワークス テーションを駆使して、まさに外国教育工学という言葉にふさわしい業績を打ち立てられて いた。その後も、ベルギー著名な心理学者 G. d’Ydewalle 先生と共著で眼球運動に関する認 知心理学的研究を行われたり、米国 CNN 社と契約して英語教育教材を開発されたりと、常に フロントランナーとして、面目躍如たる活躍を続けられていた。これらに加えて、恩師大西 昭男先生関西大学元学長・理事長)薫陶を十分に受け、幅広い分野で深い教養をお持ちで もあった(更にフルート名手でもある)。このように、私からすれば、北村先生は真に仰ぎ見 るような存在であった。その先生と、国際研究大会実行委員会メンバーとして、またその後 は、(先生が愛してやまない)関西大学同僚としてご一緒させていただき、間近に接する機会 が持てたことは、後研究者・教育者として人生に大きな影響を与えたことは言うまで もない。
さらに見せる

2 さらに読み込む

Show all 10000 documents...

関連した話題