キ ラ ル 光 化 学
大阪大学・ ER ATO 井上 佳久 1 . キ ラ ル 光 化 学 の 誕 生
不斉光化学の現状と将来を議論するに先だっ て、その誕生とその後の歴史的展開を概観する のは無意味ではないだろう。
にわかには信じ難いことかもしれないが、不 斉光化学の淵源は予想外に古く、19 世紀後半に まで遡る。フランスのle Belとドイツのvan't Hoff が、講演や著書の中で、円偏光を用いる「絶対 不斉合成」の可能性に言及したのは、それぞれ 1874年、1894年のことである。奇しくもイタリ アでは「光化学の父」Ciamician がボローニャ大 学の教授になったころ(1889)である。しかし、
彼らの提案した絶対不斉合成の理論的根拠とな る円二色性が Cotton によって発見されるのはそ れよりも後(1895)のことである。さらに、実際 に円偏光による絶対不斉合成が可能なことが、
ドイツのKuhn(1929)、イギリスのMitchell(1930)、
日本の槌田(1936)によって実証されるのは、le Bel の提案から50年以上もたってからである。
このように不斉光化学の研究は熱的・酵素的 不斉合成の研究よりも永い歴史的背景を有する にも拘らず、その後の展開において後れを取っ てきたのは事実である。しかし、光励起によっ て生じる電子的励起種の物性と反応性に関する 知識の蓄積が進み、電子状態や分子軌道に関す る知見も得られるようになり、基底状態(熱反 応)と励起状態(光反応)の反応挙動の違いを 統一的に解釈する Woodward-Hoffmann 則も提案 され、光化学反応の研究が活発化する1960年代 半ばまで不斉光化学に関しては30年以上のブラ ンクがある。
しかし、1960〜70 年代にかけて不斉光化学の 研究において重要な意味を持ついくつかの意欲
的な試みがなされる。まず、1965 年にアメリカ
の Hammond のグループが、光学活性ナフチル
アミン誘導体を増感剤とする 1,2-ジフェニルシ クロプロパンの光増感エナンチオ区別異性化反 応を初めて試み、6.7%のエナンチオマー過剰率 (ee)を報告した。パイオニア的研究で、得られた ee は高いものではないが、極めて短寿命の活性 種である電子的励起状態において、キラル情報 の増感剤から基質への移動が可能なことを実証 した記念碑的な研究といえる。
円偏光のみを不斉源とする絶対不斉合成につ いても、1970 年代に大きな進展を見た。フラン
スのKaganとアメリカの Calvinのグループが、
ヘリセン誘導体が示す数 1000°という極めて大 きい比旋光度を利用して、その前駆体(ジアリ ールエテン誘導体)からの光環化反応を対象と した研究を競って発表し、絶対不斉合成の新た な方法論を含めて一つの絶頂期を迎えた。
意外にも、比較的容易に高い光学収率を得ら れると考えられる分子内に光学活性基を導入し た基質を用いる光化学的ジアステレオ区別反応 についての研究は、le Belの提案から一世紀を経 た 1975 年にアメリカの Martin らによって初め て報告された。キラル置換基を導入したヘリセ ン前駆体を用いて光環化(とそれに続く脱水素 化による芳香族化)を行ったが、生成物のジア ステレオマー過剰率(de)は 28%と比較的低いも のであった。
上記の歴史的展開やその後の溶液中での不斉 光化学の研究については次の総説に詳しい:Rau Chem. Rev. 1983, 83, 535; Inoue Chem. Rev. 1992, 92, 741; Everitt & Inoue "Organic Molecular Photo- chemistry" Marcel Dekker, 1999, p. 71。
2000 1990
1980 1970
0 5000 10000 15000 0 5 10
15 Chiral x Photo
Chiral
Chiral x Photo Chiral
西 暦 発表論文数 論文数の増加率(1965年基準)
図1 「キラル化学」および「キラル光化学」に関す る論文の実数(下図)と1965年を基準としたときの増加 率(上図)の推移
全体を俯瞰的に見ることはこの分野の歴史的 発展の過程と将来性を予測するのに大いに有効 である。図1にCAS-ONLINEで検索した年度毎 の「キラル化学」(キーワード: chiral, asym?, enantio?
or diastereo?)に関する論文数と、それの中でキ ーワードとして“photo?”を含む「キラル光化学」
に関するものプロットした。図1(下)は実数を、
図1(上)は 1965 年を基準にした相対比を示して いるが、いずれも30年以上の長きにわたって指 数関数的な成長を示している。ただ、「キラル化 学」全般についてはここ2,3年について成長 にやや鈍化の兆しが見えるが、「キラル光化学」
については従来以上の成長率を示しており、学 問的なフロンティアとしての位置づけを如実に 示す。つまり、「キラル化学」全体から見れば今 でも極めて少数派(6%前後)に過ぎないが、
ごく最近になって急速に成長してきていること がよく分かる。今後の大きな発展が期待される 所以である。
2 . な ぜ 「 キ ラ ル 光 化 学 」 な の か ?
1960 年代初頭のサリドマイド禍を一つの契機
に、1970 年代から特に医薬における光学活性体 への需要が高まり、特に1980年代以降は様々な 方法論の開発とも相俟ってキラル触媒や酵素に よる不斉合成の研究が活発化し、今日の不斉合 成の隆盛につながっている。すでに酵素を含む 広義の熱的不斉合成では多くの系で高い光学収 率が達成され、そのいくつかは実際に工業的な 生産に使われている。
このような背景のもとに、「光で不斉合成をす る」目的と意義はどこにあるのか。
「光不斉合成」には熱的不斉合成にはない長 所がある。例えば、1)光励起で生じる電子的 励起状態を経るので熱的には禁制の反応が可能、
2)熱反応では合成困難あるいは多段階を要す る特異な骨格やひずんだ構造を有する (不安定) 化合物、あるいは多くの不斉中心を持つキラル 化合物が一段階で合成可能、3)直接照射、光 増感 (エネルギー移動、電子移動) など多彩な励 起手法を用いて様々な活性種 (励起一重項、三重 項、ラジカルイオン、不安定中間体など)を発生 させ、それらを使い分けることによって反応経 路と生成物が選択可能、4)励起状態反応は一 般に極めて低い活性化エネルギーしか必要とし ないので低温での反応が可能、5)円偏光を用 いることによって、キラル触媒・試薬などの物質 的な不斉源なしに絶対不斉合成が達成可能なこ とである。一方、光励起で生じる励起種あるい は過渡種は、いずれもピコ秒からマイクロ秒程 度のかなり短い寿命しか持たず、励起状態の詳 細な立体・電子構造の解明が難しく、励起状態 における分子間相互作用も弱い。これらの諸因 子は、長い寿命、強い(配位)相互作用、明確な 構造をもつ中間体(錯体)を利用して、遷移状態 あるいは生成物における大きな(活性化)自由エ ネルギー差(つまり高い光学収率)を達成して きた従来の不斉合成の観点からは、致命的な弱 点であると考えられる。
事実、そのような先入観があるからこそ、不 斉光化学の研究にこれまで大きな努力が注がれ てこなかったといえるかも知れない。しかし、
むしろこれらの不斉光化学の欠点を逆手に取り、
長所を活用することによって、これまで熱的不 斉合成において築かれてきた輝かしい成果と既
成概念を踏まえた上で、それとは別の論理と方 法論で研究を展開すべきであろう。その先に、
熱と光を問わないより包括的なキラル化学の新 たなパラダイムを構築できると考えるべきでは ないだろうか。その意味で、現時点でも熱的不 斉合成と光不斉合成を対立概念として捉える必 要はないし、そのような構図に立脚した議論は むしろ有害である。具体的な反応を考えると、
両者はむしろ相補的な関係にある場合が多く、
熱ではできないことを光でやる方向で研究を進 めるべきであり、双方で得られた成果を統合し て、より深い包括的理解に到達することが理想 である。
3 . キ ラ ル 光 化 学 の 方 法 論
では、光による不斉合成にはどのようなやり 方があるのだろう。すでにこれまでに様々な反 応系が溶液中、分子集合系、固体中で試みられ ているが、反応媒体、不斉源、励起様式をもと に分類すると表1のようになる。
液相および分子集合系でのキラル光化学につ いては前掲の総説、固相中の反応については次 の総説がある: Ramamurthy & Venkatesan Chem.
Rev. 1987, 87, 433; Scheffer & Garcia-Garibay
"Photochemistry on Solid Surfaces" Elsevier, 1989, Vol. 3, Chap. 9; Ramamurthy "Photochemistry in Organized and Constrained Media" VCH, 1991; Singh, Singh & Singh Tetrahedron 1994, 50, 6441; Ito
"Organic Molecular Photochemistry" Dekker, 1999, p.
1。
キラル置換基を導入した基質のジアステレオ 区別光反応や、キラルなホスト分子の結晶格子 中での反応ならびにアキラル分子が作るキラル 結晶の光反応では、実用に供しうる 90%以上の 高い光学収率(deまたは ee)がすでに達成され ている。しかし、それ以外の反応系で報告され ている光学収率には50%を超えるものは少ない。
将来的に特に重要になると考えられるのは不斉 源効率が高い(つまり、不斉源/基質比が低い)
ものである。その観点からは、熱反応における 触媒的不斉合成に対応する不斉光増感が可能な 反応系を利用するものが有利と考えられ、その 分野に力を注いでいくべきであろう。
表1 不斉光化学反応の分類 反応
媒体 不斉源 励起様式 不斉源/基質 比 円偏光 直接 0(円偏光) 置換基 直接・増感 1 錯化剤 直接 <1 増感剤 増感 <<1 溶 媒 直接・増感 >>1 消光剤 直接 >1 液相
超分子 直接・増感 <1 液 晶 直接・増感 >>1 ミセル 直接・増感 >1 分 子
集 合
系 高分子 直接・増感 >>1
ホスト分子 直接・増感 1 ホスト格子 直接 >1
結晶格子 直接 1
キ ラ ル 修 飾
粘土 直接・増感 >1 固相
キ ラ ル 修 飾
ゼオライト 直接 1
4.新しい成果
最近、不斉光化学の今後の方向を考える上で 鍵となるいくつかの重要な発見や新しい方法論 の提案があった。まず、円偏光による絶対不斉 合成が、天文学や化学進化という全く違う分野 から脚光を浴びるようになったことである。そ れは、オーストラリアで発見された Murchison 隕石から採取された宇宙由来の(13Cや15Nの同 位体比が地球上のものに比べて高い)アラニン が、18%も L-体過剰であることが Engel らによ って発表され(Nature 1990, 348, 47; 1997, 389,
265)、Bonner らが以前から唱えていた「中性子
星起源説(超新星爆発後にできる中性子星をま わる高速電子からの円偏光シンクロトロン放射 による絶対不斉合成が地球上におけるホモキラ リティーの起源)」というシナリオ (Bonner &
Rubenstein BioSystems 1987, 20, 99) が俄然現実味 を帯びてきたからである。
円偏光による絶対不斉合成で得られる生成物 の ee は、特に反応初期では 1%以下と極めて低 く、それが進化のどの段階でどのような機構に よって現在の生物界(アミノ酸、糖)に見られる
ように 100%ee まで高められたかという点で、
Bonner 仮説の後半にはかなりの無理があると一
般には思われていた。ところが最近、そ合らは・ ・ 1%ee 以下(最も低いもので 0.05%ee)という極 めて低い光学純度のアミノ酸などを、彼らが開 発した自己触媒的不斉合成反応系に 1-2%添加す ることにより、最高 85%ee という驚異的な光学 純度の生成物が得られることを見出した (Soai, Shibata, Morioka & Choji Nature 1995, 378, 767;
Shibata, Yamamoto, Matsumoto, Yonekubo, Osanai
& Soai J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 12157)。この 発見は、ヘリカルアンジュレータから発生する 円偏光シンクロトロン放射光で実際にアミノ酸 の絶対不斉合成が可能なことが実証されたこと (Nishino, Kosaka, Hembury, Shitomi, Onuki & Inoue Org. Lett. 2001, 3, 921) と合わせて、上述のBonner 仮説の信憑性を大いに高めるものである。
さらに、円偏光による光化学反応を記録材料 や光スイッチに応用する試みもいくつかあり、
絶対不斉合成は最近話題に事欠かない(例えば、
Zhang & Schuster J. Am. Chem. Soc. 1994, 116, 4852;
Burnham & Schuster J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 12619; Huck, Jager, Delange & Feringa Science 1996, 273, 1686)。
実際的な不斉合成法としても、基底状態にお ける光学活性化合物とプロキラルな基質との錯 形成と光反応とをうまく組み合わせることで、
より少量の不斉源で高い光学収率の生成物が得 られることを二宮 (Naito, Tada & Ninomiya Heterocycles 1984, 22, 237) や Pete ("Advances in Photochemistry" Wiley, 1996, Vol. 21, p. 135) が明 らかにしている。光化学的ジアステレオ区別反 応におけるdeもその後の精力的な研究により、
90%を超えるものも数多く報告されるようにな り、実用的な不斉合成の一段階として組み込ま れるまでになってきた。
最近、キラル光化学の特長と方向性を示す研 究が不斉光増感の分野で報告された。興味深い ことに、キラル増感剤を用いる不斉光増感反応 において、温度を変化させるだけで逆の絶対配 置を持つ生成物が得られるのみならず、反転温 度以上では高温になるほど光学収率が向上する というこれまでの不斉合成の常識「温度を下げ
れば光学収率が上がる」に抵触する系で見出さ れた(Inoue, Yokoyama, Yamasaki & Tai Nature 1989, 341, 225)。さらに、その原因はそれぞれの鏡像 異性体に至る遷移状態における活性化エンタル ピー差がこれまで考えられていたように零では なく、高温側ではエンタルピー差を凌駕するほ どの値を持つためであることが判明した。この 現象は、当初光反応特有と見なされたが、同様 な温度による生成物キラリティーの反転は、熱 的不斉合成(Otera, Sakamoto, Tsukamoto & Orita Tetrahedron Lett. 1998, 39, 3201) や 酵 素 反 応
(Phillips Trends Biotechnol. 1996, 14, 13)におい ても見出されたことから、光・熱・酵素を問わ ず普遍的な現象であることが明らかになった。
さらに、不斉光増感反応においては、圧力 (Inoue, Matsushima & Wada J. Am. Chem. Soc. 1998, 120, 10687)や基質濃度(Inoue, Matsuyama & Inoue, J. Am. Chem. Soc. 1999, 121, 9877)や溶媒 (Inoue, Ikeda, Kaneda, Sumimura, Everitt & Wada J. Am.
Chem. Soc. 2000, 122, 406)によっても、生成物キ ラリティーが反転する系が見出された。これら の発見は、弱い相互作用に基づく立体区別過程 ではこれらのエントロピー関連因子が極めて重 要で積極的な役割を演じていることを明確に示 しており、エントロピーによるキラル反応制御 の可能性を拓くものである。
Hammond らの研究以来 30 年以上低迷を続け ていた不斉光増感反応における光学収率も、最 近飛躍的な向上を見た。光増感不斉異性化反応 では77%ee (Hoffmann & Inoue J. Am. Chem. Soc.
1999, 121, 10702)、より立体制御が困難な不斉付 加反応でも 35%ee(Asaoka, Kitazawa, Wada &
Inoue J. Am. Chem. Soc. 1999, 121, 8486)まで向上
し、100%eeも十分射程に入ってきている。
5 . キ ラ ル 光 化 学 の 未 来
不斉光化学は古い歴史を有してはいるが、現 実的な研究が始まって30年強、いろいろな可能 性を探る活発な研究が行われだしてまだ10年程 度という非常に若い学問領域である。原理的に は、少なくともこれまで知られている光反応の 多くがキラルな置換基、増感剤、環境を用いる ことによって 不斉化 できるはずである。こ
のことは、キラル光化学の分野の前途が大きく 開け、可能性に満ちていることを明確に示すも のである。さらに、それらの研究を通して新た な原理や概念に至る実験結果を得る可能性も高 く、キラル光化学はまさに未開拓の大きなフロ ンティアと考えられる。本稿で述べてきたこれ までに発見された新現象、新事実はその端緒に 過ぎない。
もちろんキラル光化学には、化学収率と光学 収率の両立、適用範囲の拡大と使用可能な反応 や基質の多様化、励起状態でのキラル相互作用 とその制御因子の解明(その手段も含めて)、新 しい反応媒体の検索など、これから探索・解決 すべき課題も多い。しかし、当初光反応で見出 された温度、圧力、溶媒などの環境因子で生成 物キラリティーと光学収率を制御するという方 法論は、熱や酵素による不斉反応にも適用可能 であることが徐々に明らかになりつつある。さ らに一歩進んで、これらエントロピー因子の協 同効果により、従来の不斉合成でいわれてきた 構造固定や立体障害に基づく「硬い制御」でな く、遷移状態における自由度の違いを活用する
「柔らかい反応制御」へと発展させることが、
今後のキラル化学の発展と、熱・光・酵素を駆 動力とする様々な不斉化学反応全体を統合する 新たなパラダイムの構築には必須であると考え られる。私自身は、その先に見えるものは、「エ ンタルピー化学」から「エントロピー化学」へ のパラダイムシフトであると考えている。
著 者 紹 介
井上 佳久(いのうえ よしひさ)
大阪大学大学院工学研究科分子化学専攻教授
ERATO光不斉反応プロジェクト総括責任者
1972年大阪大学工学部応用化学科卒業、77年同 大学院工学研究科博士課程修了。
1977 年姫路工業大学工学部助手。78-79 年、コ ロンビア大学博士研究員。その後、姫路工業大 学工学基礎研究所・同理学部助教授を経て、94 年大阪大学工学部プロセス工学専攻教授。95 年 より現職。96 年から科学技術振興事業団創造科 学技術推進事業(ERATO)井上光不斉反応プロジ ェクト総括責任者を兼務(現在に至る)。
1983年日本化学会進歩賞、98年光化学協会賞。
編・著書:現代の物理化学 , 朝倉書店 (1987);
Cation Binding by Macrocycles, Marcel Dekker (1990); Liquid Membrane, CRC Press (1990); 分子 認識化学, 三共出版 (1997); Organic Molecular Photochemistry, Marcel Dekker (1999)など。
現在の研究テーマ:有機光化学、不斉光化学、
分子認識化学、超分子化学など。