• 検索結果がありません。

PDF 多友会だより2022 - Tohoku University Official English Website

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2024

シェア "PDF 多友会だより2022 - Tohoku University Official English Website"

Copied!
48
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

材料・計測ハイブリッド研究拠点シンポジウム 東北大学多元物質科学研究所イノベーション・エクスチェンジ2021。

新任教員紹介

所属:生体分子動力学研究部(高橋聡研究室)所属:ハイブリッドナノシステム研究部(蟹江研究室)

寄稿

表1:エコール・ド・パリに属する主な画家. との衝突による火花が炸裂し、さらには各々全く異なる画風の交差(クロスオーバー)は、互い の個性と独創性とを更に高めるのみならず、全く思いも寄らない新規性までを産み出したので す。それは、まるで高温にした坩堝の中で異なる成分が溶融し、ゆっくり冷却することで、新物 質が産まれてくる様とよく似ています。表を一見して分かるように、もはやフランス人・非フラン ス人という枠組みを超え、互いに入り混じり、切磋琢磨することで、燦然と輝く独創的作品群を 産み出したという点で、そして、現在に名を残す巨匠を多数輩出した点において、エコール・. ド・パリは空前絶後の時代を築いたのです. 画家名 パリ滞在当時の国籍 生年-没年. それでは、なぜ当時のパリが彼ら、彼女らを引き付けたのでしょうか?画家を目指す才能あ る若者たちにとって、故国に留まり、安定した芸術活動を繰り広げるチャンスを捨て、異郷の地 で、生死を彷徨うほど極貧の生活(5)を強いられても、なおも強く働くパリの引力とは何だったの でしょうか?そして、なぜエコール・ド・パリの画家たちが、それぞれ独自の画風を確立し、一見 してただちに作者が分かるほど、各々の個性を際立たせることができたのでしょうか?. 2】 外国人は外国人でなければならない. 前項で提示した疑問への回答は、米国出身の文学者で20世紀の文学の母と讃えられたガ ートルード・スタイン(1874-1948)の自著『パリ フランス −個人的回想−』(6)に見出すことがで きます。ガートルード・スタインは1903年にパリに移住し、芸術家が集うことのできるサロンを開 くとともに、パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、ジョルジュ・ブラックなど、才能豊かな画家達の初 期の絵画を収集し、彼らの支援活動を行っていました。そうした彼女のパリでの長い体験に基 づいた貴重な証言を、その著書の中から引用してみましょう. ガートルード・スタインは『フランス人にとって、外国人であることと居住者であることの違いは あまり重大なものではありません。(中略)フランス人にとってほんものである外国人は、パリとフ ランスに居住する人びとだけです。その点でフランス人は他の国の人びととは違います。他の 国の人びとは、外国人が自国にいるときのほうがいっそう本物だと思いますが、フランス人にと っては、外国人はフランスにいるときだけ本物となるのです。』と説き(7)、さらに続けて『外国人 たちがフランスに所属しているというのは、彼らがいつもフランスにいて、そこでしなければなら ないことをして、そこで外国人のままでいたからです。外国人は外国人でなければなりませんし、. 外国人が外国人でありながら必然的にパリに、フランスに住んでいることはすてきなことです。』. と述べています(下線は筆者による)(8). エコール・ド・パリの画家たちは、単に、最先端の美術の知識や技術を身に着けるためにパ リにやって来たのではありません。自らのアイデンティティを保持しながら、異国的なものとフラ ンス的なものが混ざり合った、個性的な画風の確立をフランス人が望み、そうした画家が育つ 舞台を提供してくれる都市がパリだったからなのです。ガートルード・スタインは『20世紀のパリ は、外国人の文学者・芸術家たちが才能を着床させ、大きく育てていくために存在していた. 子宮的大地」にほかならない。』と述べています(9)。エコール・ド・パリの画家たちが、フランス 美術の伝統に飲み込まれず、自身の個性に基づく独創的な画風を確立できた背景には、当 時のパリだけが有していた独特の空気があったのです(10)。重要なことは、ガートルード・スタイ ンが指摘しているように、異郷の画家がパリで認められるということは、パリ画壇の伝統やパリ 社会そのものに同化するということではなく、異郷の人としてのアイデンティティを自覚し、それ をオリジナルな画風として確立させることなのです(11)。そのことこそが、異郷の地からパリにや って来た外国人が画家として、フランス人画家と共存するための必要条件だったのです(11). 藤田嗣治が極貧から脱し、1920年代にエコール・ド・パリの寵児として輝かしい存在になっ たのは、独自の画風をひたすら模索し、そこに心血をそそいだからなのです。1925年にはフラ ンスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を授与されるなど、その名声が. 不動のものとなった藤田嗣治を訪ねる若い日本人画家たちに、『今まで日本で学んできたこと を全て捨てよ。そして自分のオリジナリティをつかみだせ。』(12)と諭したのも、上述した必要条 件を強く自覚していたからなのです. 藤田嗣治は、1913年6月、26歳の時に日本を発ち8月にパリに着きました。到着しほどなく、. チリの画家マヌエル・オルティス・デ・サラテ(1887-1946)に連れられて、パブロ・ピカソのアトリ エを訪れる幸運に恵まれました。そして、そこにあったアンリ・ルソー(1844-1910)の《詩人に霊 感を与えるミューズ》という作品に衝撃を受けたとされています。ルソー絵画の自由奔放さに圧 倒され、日本で教えられてきたこれまでの画風(東京美術学校(現東京藝術大学)のK教授が フランスで身に着けた印象派由来の「外光派」(又は紫派)と呼ばれた画風)を全て放棄するこ とを決意したのです。藤田嗣治は自著の中で、『その日即座に私は(東京美術学校教師指定 の)絵具箱を地上に叩きつけて、一歩から遣り直さねばならぬと考えた』と語っています(13)。こ れは藤田嗣治の骨太で激しい性格の一面を示していますが、同時にその後の人生で、終生 変わらず、彼が貫き通した、ぶれない信念の原点がここにあることを物語る、興味深いエピソー ドです. 話が前後しますが、藤田嗣治のパリ行きは、実に皮肉なことがきっかけになって実現しまし た。藤田嗣治が、東京美術学校の卒業時に制作した自画像は悪い画風の代表的例として教 室で紹介され、教師にこき下ろされました。また、1910年の卒業後、展覧会に多数の作品を出 展したのですが、当時、美術界の権威の影響下にあった文展(14)などでは全て落選しているの です。こうした理不尽な仕打ちを受け、藤田嗣治は、日本における様々な制約を伴うしがらみ や保守的・閉鎖的なアカデミズムからの解放を求めてパリに赴いたのでした. 1) 第一次世界大戦中の藤田嗣治と困窮する画家を支えたカンティーヌ(簡易食堂). 前項に記述したように、藤田嗣治は1913年に単身渡仏し、生涯に渡って交友関係を築いた パブロ・ピカソのアトリエで出会ったアンリ・ルソーの絵に大きな衝撃を受けました。同時に、パ リで独立した画家として生きていくことの困難さを強く認識したのです. 不幸なことに、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると、エコール・ド・パリに属する 画家たちはパリに留まることができなくなり、大半が故郷に戻るなど霧散します。一方、藤田嗣 治は、日本大使館からの帰国勧告に応じず、戦禍のなか、一時的にロンドンに逃避するもの の、パリに留まり続けたのです。しかしながら、藤田嗣治は『絵が売れなくて収入の道がないの で、冬になっても寒さをしのぐストーブの薪も買えず、飢えをしのぐ一片のパンさえ買えないと いう状態の日も珍しくなかった』(15)と当時を述懐するように、生きるか死ぬかのような過酷な生 活を強いられることになるのです. 大使館の勧告に従って帰国した他の日本人画家と一線を画してまで、なぜ藤田嗣治は危 険な環境に身を置く決意をしたのか、少し長くなりますが、彼自身が書いた随筆「大成へと志し て」(16)からその理由を探ってみましょう. 運悪く欧州大戦争が突発した。(略)自分の理想とか計画とかは容赦なく壊されて行くと いう事が初めてよく分かった。(略)嘗(かつ)て自分が今まで過去に一度も見なかった、ま たこれから将来に容易に現れ出ないような作を生む事を希った。人の模倣を退け独創独 案の画風、ただいい画家になりたいという希望であった。(略)最初から名前とか金銭など を欲する人は、たとえ一時の成功はあっても到底永続すべきものではない事は明瞭であ る。私こそパリに土着して、この世界の修行の本場で命を棄ててもという覚悟が十分と心 に堅固に出来たので、一切その日暮すというような考えとなって、将来の大成を夢みたり するような事は念頭に置かなかった。』(下線は筆者). 藤田嗣治は、アンリ・ルソーがそうであったように、誰の真似でもない、そして誰も真似のできな い、自分だけのオリジナルな画風を確立したいと望み、ひたすら、ただいい画家になりたいと 自ら希求し、それが実現できる場所がパリだけだと確信し、あえて困難な道を選んだのです. 戦時下、パリの一般市民ですら食料が欠乏しているなか、困窮するエコール・ド・パリの画家 たちに救いの手を差し伸べたのが、カンティーヌ(cantine)と呼ばれる簡易食堂を開設した慈 善事業団体でした。安価で、時には無料で食事を提供したこのカンティーヌの存在は、芸術 家の生活を支え、エコール・ド・パリが消滅することを回避したのです(17)。第一次世界大戦の 終結1918年11月11日の後、一旦は散り散りになった内外の画家たちが再びパリに戻ってきま す。そこに、再び活気が蘇り、1920年代にエコール・ド・パリが全盛期を迎えることができたのは、. カンティーヌで育まれた、画家たちの連帯感があったからだ、と言えるのです(17). 2) エコール・ド・パリの寵児となった藤田嗣治~乳白色の下地の発明~. 戦時下のパリでは絵が売れず、困窮を極めた藤田嗣治でしたが、転機が訪れたのは、1917 年3月にカフェで出会ったフランス人モデル・画家のフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey との結婚でした。藤田嗣治の才能を見抜いたフェルナンド・バレエの協力により、. 少しずつ絵は売れ始め、1917年6月には藤田嗣治最初の個展が開かれることになりました。藤 田嗣治は、風景画や人物画、静物画などを描きながら、前述した「大成へと志して」の中で述 べているように、人の模倣を退け独創独案の画風を確立するために孤軍奮闘していました. その高い志を絶やすことなく、数年の歳月を経て、1921年、「乳白色の下地」と呼ばれる、藤 田嗣治オリジナルの技法がついに完成されたのです。「乳白色の下地」の技法の本質を明ら かにするために、日仏に跨り組織された総勢15人の修復家(日本人11人、フランス人4人)が、. 2000年7月17日から10月17日までの3か月の歳月を費やし、複数の絵の修復をパリで行いまし た(18)。その際、採取したサンプルから得た地塗層の研究調査から、藤田嗣治は、硫酸バリウム. BaSO4)を下地に用い、その上に炭酸カルシウム(CaCO3)と鉛白(19)を混合した白色層を塗っ ていたことが判明しています(20)。さらに、下地表層からタルク(21)(天然鉱物に含まれ、シッカロ ールなどに使われてきました)が検出されています(20). この「乳白色の下地」の技法の発明は、絵画制作に際し、次の2つの革新的効果をもたらし ました. ① キャンバス(画布)の下地そのものを使って人の肌などの白色を表現したことにより、光沢 のある乳白色と、滑らかな質感(マチエール)を実現することができるようになりました. ② 藤田嗣治は、日本画で用いられる水墨と面相筆(22)を用いて、対象(人)物の輪郭や毛髪 などの細い線を描きました。西洋画の油絵の技法に立脚している限り、油は水を弾くことか ら水墨を利用することはできませんでした。したがって、非常に細い線を描くのに適した面 相筆を使用することはあり得なかったのです。一方で、藤田嗣治が発明した「乳白色の下 地」の技法による滑らかな下地を持つキャンバスであれば、水墨が定着しやすくなり、面相 筆での運筆が容易になり、細く長い輪郭線や毛髪などの細い線を自在に描くことができる ようになったのです. 藤田嗣治の偉大な「乳白色の下地」を実現させたキーマテリアルがタルク(シッカロール)であ. ったこと(23,24)、この事実は非常に興味深いところです。タルク(シッカロール)なくして上記の2. つの革新的効果を作画において発揮できないのです. の役割について『象牙のような肌のキャンバスを発明した藤田さんは、その上にどうしたら日本 の毛筆で、日本の墨で、毛髪のように細い線をかくことが出来るだろうかと考えた。油絵具の下 塗りの地は水で溶いた墨をはじいてしまう。タルクをキャンバス全面にふりかけて、油っ気を取 り去ることに成功したのである。』と述べています(25,26)。修復家のアン・ル・ディベルデルは、藤 田嗣治の「乳白色の下地」の乳白光及び透明さは、最上層にタルク(シッカロール)を加えたこ とによりもたらされたことを立証しました(23). 乳白色の下地」技法は、1920年代の藤田嗣治の作品に駆使され、人の肌の色に透明で優 美な美しさを与え、また、人の毛髪や藤田嗣治が特に好んで描いた猫の毛の微に入り細に及 ぶ驚嘆すべき精密な描画を可能にしたのです。これらの一連の作品群は、当時のパリに一大 センセーションを巻き起こし、藤田嗣治はエコール・ド・パリの寵児となったのです。「乳白色の 下地」技法で生まれた画肌と繊細な線描を駆使した画風は、日本的な美意識の伝統的西洋 画への反映であり、藤田嗣治のオリジナルとしてパリで高く評価されたのです。そして、藤田嗣 治は、おかっぱ頭にロイド眼鏡、チャップリン風の髭といった個性的な風貌で、爆発的な人気 を呼ぶスターになります. 藤田嗣治の国際的成功は、彼の能力と不断の努力に負うところ大ですが、ガートルード・ス タインが述べたように(【2】項を参照下さい)、その成功の背景に、当時のパリと言う都市の特殊 性が関係しています(6-9)。鹿島茂は、自著の中で、『彼ら、つまり外国人の芸術家や文学者た ちは、パリにやってきて、「外国人性」を喪失してパリジャンに「なってしまう」のではなく、反対 に、パリにいることで自らのうちにある「外国人性」を自覚し、それを育てることで、独自の文学 や芸術を確立することができたということだ。パリには、彼らが外国人のままでいる寛容性があ ったのだ。』(27)と述べています。「外国人に自国文化や生活習慣の同化を求めず、外国人の ままでいることを許す」国(都市)は、世界広しといえども、我が日本を含めて、エコール・ド・パ. リ時代のフランス(パリ)以外に他に類例を見出すことが困難です。藤田嗣治を育て、その天才 を開花させたのは、エコール・ド・パリ全盛期のパリであったのです. 藤田嗣治を筆頭に、エコール・ド・パリに属する画家は、鹿島茂が論考するように、パリが、. 異邦人が異邦人のままでいることを許す都市であったからこそ、初めて自らの芸術と対峙する ことを強いられ、自らを変容させ、新たな画風を創造したと言えるのではないでしょうか(28)。美 術に限らず、芸術全般、そして自然科学においても、本当に独創的な成果というものは、エコ ール・ド・パリ時代のパリのような背景が必要だという点で、私たちが『エコール・ド・パリ』から学 ぶことは大きいのです. 1929年10月に発生したウォール街の株式市場大暴落の影響でパリの画壇も狂乱から覚め て、市場は冷え切りました。これは、エコール・ド・パリの終焉を意味し、藤田嗣治にとって転機 となりました。同年17年振りに短期間日本に帰国、翌年米国経由で一旦フランスに戻るも、す ぐにブラジル、アルゼンチン、ペルー、キューバ、メキシコなど中南米を歴訪し、エキゾチックで 原始的な明るい色彩の画風に変わります。1933年に日本帰国後は、日本を拠点として活動を 続けます. 1) 戦争記録画を描いた藤田嗣治~戦時下の日本、そして敗戦~. 日中戦争勃発の翌年の1938年、海軍省嘱託となり従軍(29)したことが藤田嗣治の第2の転機 となります。1939年5月に再びパリに赴きますが、ドイツ軍によるパリ陥落寸前の1940年5月、パ リを逃れて3度目の日本帰国をします。トレードマークだったおかっぱ頭を切り、角刈りにし、陸 軍省/海軍省の命を受け、敗戦の年まで戦場の取材と作戦記録画(戦争記録画)の制作に精 力を傾けます。画家として世界的に著名だった藤田嗣治を筆頭に、多くの画家がシンガポー ルや南方などの戦地にて現地徴用され、数多くの戦争記録画が生まれたのです(30). 日本が敗戦後、戦犯指名を恐れた日本画壇から、藤田嗣治への戦争責任の追及が及び、. 理不尽なことに、彼は一人で画家として戦争責任を負うことになり、1949年3月、なかば永久追 放のような形で出国を余儀なくされたのです(結局、美術界からは誰も戦犯指名はされません でした)。藤田嗣治は、戦争記録画をディエゴ・ベラスケス(スペイン;1599-1660)の《ブレダの 開城》、ウジェーヌ・ドラクロワ(フランス;1798-1863)の《ポワティエの戦い》や《キオス島の虐 殺》などの戦争画に匹敵する芸術の域まで高めようとしました。東京国立近代美術館に保管さ れている、有名な《アッツ島玉砕》や《サイパン島同胞臣節を全うする》など、それまでの藤田嗣 治のイメージとはまるで異なり、一面暗い茶褐色で覆われています。様々な見解がありますが. 31-34)、戦意高揚のためというよりは、私には“戦争のリアル”として描かれているように見えます. 藤田嗣治は、「美術」誌1944年5月に発表した「戦争画制作の要点」で『或る戦争画の傑出せ る作品は絵画の史上に於いての傑作であり得るのである。ありと凡ゆる画題の総合したものが 戦争画である。風景も人物も静物も、総てが渾然として其処に雰囲気を起す。』と述べ、例え ば、凄惨極まる戦闘の場面に描かれた小さな花(《アッツ島の玉砕》)や稲妻(《血戦ガダルカ. ナル》)などは、戦争画を単なる記録に終わらせず、まさに藤田嗣治の意図を体現させるため に、そこに無くてはならない要素だったのです(35). 藤田嗣治と深い親交を結んだ田淵安一(1921-2009)は、1968年1月、藤田嗣治が入院して いたスイスの病院を訪問し、藤田嗣治の肉声を手帳に記録していました(36)。そして、これまで 訊くことのできなかったこと、すなわち「なぜ戦争記録画を描いたのか」と、臨終の藤田嗣治に 訊ねたのです。なぜに対する直接の回答を得られなかったものの、藤田嗣治はかすれ声で次 のように話したとされています(37). 戦争というのは本当に悲惨なもので、あの絵を見てもらったらわかるけど、あそこには将 校は一人も描いていない。死んでいく兵隊がかわいそうで…兵隊しか描いていない。』. この言葉には、前線での苦闘を強いられた兵士に対する藤田嗣治の衷心(ちゅうしん)からの 哀悼の念を表現しているように感じられ、胸が痛みます. 2) 最晩年の藤田嗣治:総合芸術作品としての礼拝堂の建立. 藤田嗣治は1949年3月に米国に向けて出国する際、記者に向けて次の有名な言葉を残し て日本を去り、その後、二度と日本の地を踏むことはありませんでした. 絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないでください。日本画壇は早く世界 的水準になって下さい。』(藤田嗣治;1949年3月10日). そして、1950年2月に10年振りのフランスへの入国を果たし、1955年にフランス国籍を獲得(日 本国籍を抹消)、1959年に(シャンパンで有名な)シャンパーニュ地方のランス大聖堂でカトリッ クの洗礼を受け、以後「レオナール・フジタ」と名乗りました. 平和の聖母礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ペ)の建立. カトリック教徒となった藤田嗣治は、自ずとキリスト教の主題を制作の中心に据えることになり ます(38)。1964年6月、パリで最後の個展をポール・ペトリデスの画廊で開き、その際にも、《礼 拝》などの宗教画を展示しました。その翌年1965年、洗礼時の代父であったシャンパン製造会 社の社長ルネ・ラルーの協力を仰ぎ、ランスに平和の聖母礼拝堂(La Chapelle Notre-Dame-. de-la-Pai(仏語), ノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂)を建てる計画に着手しました。この礼拝堂. の全て、建物の設計から始まり、ステンドグラス、扉、内部装飾に至るまで、建築家モーリス・ク ロジェ及びガラス職人シャルル・マルクと協働しながらも、藤田嗣治によって検討・着想されま した。その際、藤田嗣治は『礼拝堂は、永遠不変の作品でなければならず、慎ましく、簡素で いて威厳があり、人が何度も訪れたくなるような安らぎを覚える場所になければならない。』と述 べました(39)。礼拝堂の建物は、内部のフレスコ画制作を残し、1年後の1966年5月末に完成し ます. 藤田嗣治は、続いて、同年6月~8月までの約3か月、礼拝堂内のフレスコ画制作に全身全 霊で臨みます(藤田嗣治は、この時すでに癌を患っていました)。藤田嗣治にとって初めての 経験となる、フレスコ(40)技法を用い、《キリストの磔刑》、《ぶどうの聖母子》、《受胎告知》、《東 方三博士の礼拝》、《聖母子像》、など聖書の主題を、凡そ100 m2に及ぶ壁画として完成させた のです. 藤田嗣治はなぜフレスコ技法を採用したのか?. 藤田嗣治は、最晩年、命を削ってまで、なぜ自身にとっては未知の技法であるフレスコ技法 を採用し、壁画を描いたのでしょうか。また、フレスコ画においては、失敗した場合には、漆喰. フレスコ画で使う下地材料(40))を搔き落とし、やり直すしかないので、80歳になろうとする藤田 嗣治にとっても、それは大きな精神的・肉体的負担であったことでしょう。藤田嗣治がフレスコ 画を描く決意をした、その理由を論考してみましょう. まず、フレスコ画は長期保存安定性に優れ、耐候性、耐光性ともに他の画法を遙かに凌駕 することに着目します。フレスコ画は、水酸化カルシウム(Ca(OH)2)と炭酸カルシウム(CaCO3) を主成分とする漆喰(石灰ともいいます)を壁に塗り、硬化する前に、表面に耐アルカリ性の顔 料を水または石灰水で溶いたもので描きます。顔料は水酸化カルシウム粒の内部に染み込み、. 一方、水酸化カルシウムは空気中の二酸化炭素と徐々に化学反応し、透明な炭酸カルシウム 膜を形成します。その透明膜の中に、顔料が閉じ込められることから、劣化しにくいのです。基 本的に顔料と水だけで描かれることから、油絵で起きる有機溶剤による劣化(色変化など)が ないことになります。1508年から1512年にかけて、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂に描いた フレスコによる天井画は、現在も画面の色彩は鮮やかに維持されているのです. 藤田嗣治は、フレスコ画用の絵具の調達に当たり、協働者の建築家モーリス・クロジェに『使 用する絵具は、石灰の作用に耐え、保護膜を形成しながら容易に固着するもので、光に晒さ れても変質しないものでなければなりません。ですから土を使いましょう。有機的な原料やアニ リンを用いた絵具は排除しなければなりません。』と条件をつけています(41)。さらに『あらゆる混 色の基本になる、最も美しい石灰乳(水酸化カルシウム(Ca(OH)2)の水懸濁液)は、2か月前 に消石灰(水酸化カルシウムの俗称)のペーストから製造し、中性の炭酸カルシウムを得るた めに太陽光に晒さなければなりません。次にそれを非常に細かく砕き、水を加え、使用する絵 具を作るのです。』(括弧内は筆者による)と続け(41)、藤田嗣治がフレスコ技法の特性を理解し、. 作品の保存性向上のために徹底した姿勢で臨んでいたことがよく分かります. 作品の耐久性への藤田嗣治の執念. 前項で述べた、フレスコ画制作でのアプローチから分かるように、藤田嗣治は、自身の作品 を歴史に残したい、という願望がとても強い画家だったのではないでしょうか. 実は、エコール・ド・パリ時代に一世を風靡した「乳白色の下地」は、藤田嗣治の独創的な画 風の確立に欠かせない技法でしたが、その一方で、保存安定性に難がありました。そのことは、. 藤田嗣治と交流の深かった、画家の宮本三郎(1905-1974)が『戦時中、藤田の画室で、いま パリの近代美術館にある傑作《わが個室》が、見るも無残に地塗りがバリバリに割れて、めくれ 上がっているのを見たことがある。数日後、それがあざやかに元に復していて、二度びっくりさ せられた。藤田は「うまく修復できたろう…」と軽く言っていたが、私には新しくもう一枚が描か れたとしか考えようが無かった。』(42)と言及していることからも窺い知ることができます. 戦争記録画制作手法について、藤田嗣治は『先づキャンヴァスに下塗りを、而も三回施して 居る。主に茶褐色で十分乾燥させて、其の期間も三ケ月は掛ける。何の為かと言えば、記録. 画の耐久性を考へて、永久に不変な強靭さを獲得したいからである。数年を出でずして退色 したり消えるような戦争画では、後世に残し得ないからである。十分に下塗りが出来た場合、別 に基盤割もしない。色彩に於いても、変色しない色を選んで居る。特に油に於いては、最も良 質の油を五六種は混用して居る。絵具が画布に密着して、後世に落剥しない様に、または何 度も何度も透明色を重ねて、色の美しさを失わない様にやって居る。』(43)と述べています。ここ でも藤田嗣治は、作品を恒久的に残したいという強い欲求を吐露していますが、そのためには まず対象とするジャンルで最高の傑作を制作する計画をたて、そのうえで、保存安定性に優れ た画法は何かを常に考えていたと推察されます. 死期の迫る生涯の最後の時期に、ルネサンス期に使われたフレスコの技法に関心を寄せ、. その技術を身に着け、そして壮大な宗教画を、新しく建設された礼拝堂の壁に残したいと考え たのも、前述したように、細心の注意を払えば、フレスコ画は何世紀にも渡って、制作時の新 鮮さを維持できることを知っていたからでしょう. 天然フレスコ現象の洞窟画との若き日の出会い. 藤田嗣治は、第一次パリ滞在(1913-1929年)中の1915年に、フランス南部のレゼジーという 小さな村に疎開し、同い年の画家川島理一郎(1886-1971)と生活を共にしていました。そこで 藤田嗣治は、先史時代の洞窟壁画と出会うのです。洞窟壁画は天然フレスコ現象、すなわち、. 洞窟内の炭酸カルシウムが人工フレスコと同様の働きをすることにより、壁画の保存効果を高 めたと考えられるのです. 第一次世界大戦中、戦禍を逃れて滞在したレゼジーでの洞窟壁画との出会いが、半世紀 後の平和の聖母礼拝堂での藤田嗣治のフレスコ画の制作にシンクロナイズしたかのようです. 画家としてのスタートライン(1915年)に天然フレスコによる洞窟壁画があり、画家としてのエン ディング(1966年)に宗教的フレスコ画の制作が位置し、そして、その間(1917年(初の展覧会). 1929年(日本への一時帰国))のエコール・ド・パリ時代に最も輝かしい活躍を繰り広げたの が藤田嗣治でした. 6】 平和を希求した藤田嗣治. 1966年10月1日、藤田嗣治の思い通りに、平和の聖母礼拝堂が完成しました。1966年10月 18日、礼拝堂の落成式が行われ、フランスの文筆家を代表し、国際ペンクラブ会長イヴ・ガン ドンが印象的なスピーチを行っています。それを以下に紹介しましょう. ヒロシマの原爆記念館から礼拝堂ノートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母)には、密かな 絆が紡がれているように私には思われる。友情という絆、あらゆる人種そしてあらゆる環境に ある人間同士の友愛という絆である。力の限り信じよう。平和の虹がこの礼拝堂の上で、人 間の地上と雷を落とす天との間に、暴力という不吉な幻影から国々を守る守護のアーチをか けて止まないことを。』(44). 前述した通り、「La Chapelle Notre-Dame-de-la-Pai(仏語)(ラ・シャペル・ノートル=ダム・. ド・ラ・ぺ)」は「平和の聖母礼拝堂」を意味しますが、藤田嗣治は「平和」という言葉に拘り、自 ら命名しました。この礼拝堂には、ヨハネの黙示録第16章のハルマゲドン(世界の終末におけ. る最終戦争)を彷彿とさせる4枚のステンドグラスがあります。イヴ・ガンドンのスピーチからも推 論できるように、藤田嗣治は、恐らく、黙示録のハルマゲドンと広島長崎の原爆の惨事とを重 ね合わせたのでしょう。その意味において、これら4枚のステンドグラスは、第二次世界大戦後、. 凡そ20年の歳月を経て描かれた藤田嗣治最後の「戦争画」と見なすこともできます(このステン ドグラスは、その下絵を藤田嗣治が描き、ガラス職人シャルル・マルクと協働して制作しました). 藤田嗣治は、この人類の滅亡に導く核兵器の使用は未来永劫、いかなる理由があっても許さ れないことを、このステンドグラスに永遠の平和の継続の想いを込めたのでしょう。これが、世 界にとって最後の戦争画となり、今後、新たな戦争画が生まれないことを祈りながら…. 平和の聖母礼拝堂完成後、藤田嗣治は入退院を繰り返し、1968年1月29日午後1時15分、. チューリッヒ州立病院で死去しました。81歳と2か月の生涯でした。フランス国営放送は、『フジ タがピカソ、モディリアーニらと両次大戦間の“パリジャン”として、いかにモンパルナスを愛し、. いかに芸術の都パリを活気づけたか、そして“モンパルナスの歴史は、こうして少しずつ死んで ゆく”』と深い哀悼のニュースを流しました(45). 平和を希求する想いは永遠でなければならず、『「平和の聖母礼拝堂」建築研究会』が「没 後40年 レオナール・フジタ展」記念図録で述べたように、平和の礼拝堂、その名称がフジタの 日本名である、「平和の継承者」を意味する「嗣治」を思い起こさせます(46)。平和の聖母礼拝 堂の主祭壇の下に眠る、彼の名前、「嗣治」は、平和の想いを永遠に発し続けるのです. 謝辞:本稿を、美術をこよなく愛した父垣花秀武と妹の垣花(藤盛)理恵子に捧げます. 2) 佐伯祐三は画家としての短い活動期間の大部分をパリのモンパルナス等で過ごし、フラン スで客死した。佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが 多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板 等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景 だが、人物画、静物画等もある。(ウィキペディアより。). 3) 藤田嗣治は、尊敬してやまないレオナルド・ダ・ビンチ(イタリア;1452-1519)にあやかり洗礼 名にレオナールを選びました。レオナルドのフランス語読みはレオナールなので、一般的に はレオナール・フジタという標記が多用されますが、藤田嗣治は、レオナルド・ダ・ビンチへ の尊崇の念から、手紙などの署名ではレオナルドを採用しています(矢内みどり『藤田嗣治 とは誰か−作品と手紙から読み解く美の闘争史(「美」の人物伝)』、p. 4) エコール・ド・パリ(フランス語:École de Paris)は、「パリ派」の意味で、20世紀前半、各地か らパリのモンマルトルやモンパルナス(区域)に集まり、ボヘミアン的な生活をしていた画家 たちを指す。厳密な定義ではないが、1920年代を中心にパリで活動し、出身国も画風もさま ざまな画家たちの総称。(クロード・モネやオーギュスト・ルノアールに代表される)印象派の ようにグループ展を開いたり、(パブロ・ピカソに代表される)キュビスムのようにある芸術理論 を掲げて制作したわけではなく、「パリ派」とはいっても、一般に言う「流派」「画派」ではない. ウィキペディアより;括弧内は筆者による。). 5) 実際、藤田嗣治は1913年に渡仏したものの、「上野の美術学校を出て渡仏してから、約8年 間というもの、私は貧乏の味を、いやというほどなめさせられたものである。」と述懐していま す(近藤史人編『腕一本・巴里の横顔 藤田嗣治エッセイ選』(講談社文芸文庫2005年)p. 73)。極貧生活を送ったのは何も藤田嗣治だけではなく、かのパブロ・ピカソですら例外では ありませんでした。20世紀初頭に、パブロ・ピカソ、アメディオ・モディリアーニ、ジョルジュ・ブ ラックを初めとするエコール・ド・パリの画家の一部が活動の拠点とした、通称『洗濯船』と言 われる集合アトリエ兼住宅がありました。カーンワイラーという画商が『洗濯船』のピカソを訪 れ、貧乏のどん底の恐るべき悲惨なアトリエを目撃しています。そのような劣悪な環境下で、. 若きピカソは不朽の大作『アビニヨンの娘たち』(1907)を制作中だったのです(瀬木慎一、. エコール・ド・パリの現実と神話』(「藤田嗣治とその仲間たち 青春のエコール・ド・パリ展」. 10)紫勤『異邦人のパリ』(「北海道立近代美術館・札幌芸術の森美術館コレクションによるエコ ール・ド・パリ −パリに咲いた異邦人の夢−」図録、発行:平成27年度市町村立美術館活性 化事業第16回共同巡回展実行委員会、p. 12)岩尾徳信『自由な制作、独創を追い求めた藤田嗣治 −第一回渡仏を中心に−』(「北海道 立近代美術館・札幌芸術の森美術館コレクションによるエコール・ド・パリ −パリに咲いた異 邦人の夢−」図録、発行:平成27年度市町村立美術館活性化事業 第16回共同巡回展実 行委員会、p. 13)藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔』、近藤史人編、藤田嗣治エッセイ選、p. 14)文展は文部省美術展覧会の略記であり、1907年に第1回の展覧会が開催されました. 15)藤田嗣治『腕一本・巴里の横顔』、近藤史人編、藤田嗣治エッセイ選、p. 17)紫勤『異邦人のパリ』(「北海道立近代美術館・札幌芸術の森美術館コレクションによるエコ ール・ド・パリ −パリに咲いた異邦人の夢−」図録、発行:平成27年度市町村立美術館活性 化事業 第16回共同巡回展実行委員会、p. 18)林洋子『はじめに−シンポジウム開催に至るまでの、かくも長き道のり』、木島隆康・林洋子編. 藤田嗣治の絵画技法に迫る:修復現場からの報告」、p. 19)鉛白(えんぱく、White Lead)は古代から使用されてきた白色顔料で、塩基性炭酸鉛 2PCO3・Pb(OH)2のことです. 20)山領まり『パリ日本館所蔵 藤田嗣治《欧人日本へ到来の図》《馬の図》の修復報告』、木島 隆康・林洋子編「藤田嗣治の絵画技法に迫る:修復現場からの報告」、p. 21)タルクは滑石(かっせき)と呼ばれ、ケイ酸マグネシウム系粘土鉱物の一種で、Mg3Si4O10. OH)2のことです. 22)「面相筆」とは、非常に細く鋭い穂先を持つ日本の線描筆のことで、歌舞伎役者が眉や鼻梁 を顔に入れるために使ったり、人形師が人形の面相を入れたりする際にも使われてきました. 面相筆の穂の付け根は二段になっているのが一般的で、しっかり握って細かく穂先を動か せるのが特徴。髪の毛のような細い線から曲線まで自由自在に描けるため、人物の表情や 動物の毛の柔らかさ、植物や風景を生き生きと描写できます。(ウィキペディアより。). 23)アン・ル・ディベルデル(訳:松岡秋子)『フジタの絵画技法の理解のために-未公開作品《構 図》《争奪》の修復』、木島隆康・林洋子編「藤田嗣治の絵画技法に迫る:修復現場からの報 告」、p. 24)木島隆康・渡辺郁夫・宮田順一『パリ日本館所蔵作品を中心とする1920年代の藤田作品の 調査研究−再現制作の成果報告』、木島隆康・林洋子編「藤田嗣治の絵画技法に迫る:修 復現場からの報告」、p. 29)藤田嗣治の父嗣章(つぐあきら;1854-1941)は陸軍軍医であり、森鴎外の後任として最高位 の陸軍軍医総監(中将相当)まで昇進した人です。そのような地位の父を持つことから、陸 海軍から、藤田嗣治に戦争記録画の作成の命があったことは自然なことと考えられます. 30)将官待遇の藤田嗣治を首班に、伊原宇三郎、中村研一、宮本三郎、寺内万次郎、猪熊弦 一郎、小磯良平、中山巍、田村孝之助、清水登之、鶴田五郎、川端龍子、山口蓬春、福田 豊四郎、吉岡堅二、堂本印象の画家が同行、別に向井潤吉、鈴木栄二郎、高光一也、田 中佐一郎、南政善の5氏が報道班員として現地徴用され合流しました. 32)林洋子『藤田嗣治−2つの世界大戦を経て』(村田真編:「いかに戦争は描かれたか」、p. 36)山地治世『戦争画を語る、フジタの肉声−田淵安一の手帳』(佐藤幸宏監修 別冊太陽「藤 田嗣治 腕一本で世界に挑む」、p. 38)藤田嗣治は、青年時代そして第1次フランス滞在時(1913-1929年)にキリスト教や教会に強 い関心をもっていました。14歳の中学生時代には通学途上にあった東京の教会に立ち寄り、. また数多くの旅の途上、必ずと言っていいほどその土地の教会を訪問し、スケッチを残して います。「乳白色の下地」の発明がパリでセンセーションを巻き起こした時期 においても、キリスト教を題材とした優れた宗教画を多数残しています. 39)「平和の聖母礼拝堂」建築研究会(中山久美子訳)『キリスト教徒フジタ、ランスとシャペル・ノ ートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母礼拝堂)』、図録 没後40年レオナール・フジタ展、p. 40)フレスコは、まず壁に漆喰(水酸化カルシウム(Ca(OH)2)と炭酸カルシウム(CaCO3)を主成 分とする水懸濁材料)を塗り、その漆喰がまだ「フレスコ(新鮮)」である状態で、つまり生乾き の間に水または石灰水で溶いた顔料で描きます。やり直しが効かないため、高度な計画と 技術力を必要とします。逆に、一旦乾くと水に浸けても滲まないことで保存に適した方法で す。フレスコ画はルネサンス期に盛んに描かれ、ラファエロ・サンティ(イタリア 平和の聖母礼拝堂」建築研究会(中山久美子訳)『キリスト教徒フジタ、ランスとシャペル・ノ ートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母礼拝堂)』、図録 没後40年レオナール・フジタ展、p. 44)ダヴィド・リオ(三谷理華訳)『シャペル・フジタ、一つの総合芸術作品』、図録 没後40年レオ ナール・フジタ展、p. 45)夏堀全弘『藤田嗣治芸術試論 藤田嗣治直話』、p. 46)「平和の聖母礼拝堂」建築研究会(中山久美子訳)『キリスト教徒フジタ、ランスとシャペル・ノ ートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母礼拝堂)』、図録 没後40年レオナール・フジタ展、p. 滞在先の研究室はセラミックスやミネラルプロセッシングに関する研究を行っているGeorge Franks先生のグループです。出発当時は大学や政府からの渡航制限はまだなかったものの、.

令和3年度の主な研究成果

エネルギーデバイス化学分野(本間研究室)

令和3年度の表彰・受賞

八代教授の放射光イメージングの研究がNHK総合テレビ「テレ正宗」で紹介されました。 (2021年。ディープテックグランプリ2021「最優秀賞」「リアルテックファンド賞」受賞)。

令和3年度の訃報

参照

関連したドキュメント

本ポストは名古屋大学大学院理学研究科と素粒子

42 Ⅳ 研究活動 栄養クリニック研修員 土岐田小百合

  ALMA は,現在サイクル 1 科学運用が行われ ており, 2014 年にはサイクル 2 に進む予定です.

学べ」を研究室のモットーとして研究室運営にあたりたいと考えています。

日本私学振興財団学術研究資金による研究

堀 耕治 教 授 山中 淑江 准教授 日高 聡太 准教授     松永 美希 准教授     山田 哲子 特任准教授   中山 真里子 特任准教授  

計測研究部門 DIVISION OF MEASUREMENTS 奥西 みさき Misaki OKUNISHI 強光子場中での電子・分子ダイナミックス Electron and molecular dynamics in intense laser fields 山𥔎 優一 Masakazu YAMAZAKI 電子線コンプトン散乱を利用した

研究室だより(2020年春号) 研究室だより 卒業生・修了生の皆様におかれましては、益々ご清祥のこととお慶び申し上 げます。同 窓会員の皆様に、2019年度の西洋史学研究室の近況をご報告させていただきます。 2019年度の教員スタッフに関しましては、岡崎敦教授(フランス中世史・アーカイブズ 学・資料学)、今井宏昌講師(ドイツ現代史)の二人体制となりました。