多友会だより2022
東北大学 多元物質科学研究所 多友会
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多友会だより
多元物質科学研究所長・多友会会長 寺内 正己
コロナ禍で日常生活が制限を受けるようになってから、2年が過ぎました。はじめはオンライ ン会議もぎこちないものでしたが、すでに日常の一部となりました。オンライン会議の便利さを 満喫すると共に、その限界にも皆が気づき、早くリアルな人との交流ができないかと待ち望ん でいるようです。新規感染者数は、最初の頃に比べればかなり高いレベルが続いていますが、
少しずつ減少しております。何よりもワクチン接種が進んだことで重症化リスクがある程度抑え られるようになったのが大きいと思います。コロナによるパンデミックが想定外だったように、今 年の2月からヨーロッパで大惨事が勃発しています。このように、世界、社会の活動が従来通り に行かなくなる激変の時期を体験することで、「明日は今日の延長ではない」という事を思い知 らされると共に、物質科学は進歩しても人間はなかなか進歩しないなと実感しております。
昨年度の多友会は、コロナの影響により、感染拡大防止のため役員会及び総会のみの開 催となり、役員全員マスクを着用の上、対策の施された会場にて、会員はオンラインで参加し ました。学内の状況分析から、きちんと対策をとっていれば職場でのクラスター発生は抑えら れているとの報告を受け、今年度は多友会総会後の講演会を3年ぶりに開催しようと準備し始 めました。早く、講演会とそれに続く懇親会を皆様と楽しく過ごせるようになることを願っており ます。
今年度も多元研を支えてくれる新しい人材を、多く迎えることができました。また、新年度に 入り新たな学生を迎え入れ、コロナ蔓延防止対策下での多少不便な環境ではありますが、研 究・教育活動が活発化してきております。
さて、この「多友会だより」では、皆様に令和3年度の多元研の近況をご報告させて頂きます。
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1. 多元研行事報告
みやぎ県民大学2021
2021年7月2日、9日、16日、30日、8月6日の5回にわたり、みやぎ県民大学開放講座「材料 科学と素材製造プロセス」を開講しました。新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に配慮 して受講者数を制限し、感染対策を徹底して開催しました。
第1回講座では、材料分離プロセス研究分野の柴田浩幸教授が「高温冶金プロセスのその 場観察−非金属介在物の不思議な振舞と凝固−」と題して講演し、18名が受講しました。第2回 講座では、原子空間制御プロセス研究分野の小俣孝久教授が「元素の個性を知り、機能材料 を設計、創製する」と題して講演し、18名が受講しました。第3回講座では、放射光可視化情報 計測研究分野の高橋幸生教授が「放射光を使って材料の機能を可視化する」と題して講演し、
19名が受講しました。第4回講座では、基盤素材プロセッシング研究分野の植田滋教授が「身 近な素材「鉄」の作り方とリサイクル」と題して講演し、21名が受講しました。第5回講座では、金 属機能設計研究分野の亀岡聡教授が「資源・環境・エネルギー分野に貢献する触媒材料と化 学プロセス」と題して講演し、20名が受講しました。5回講座終了後には、4回以上受講した18 名の受講者に修了証が郵送により授与されました。
県民大学の講座風景。熱心に参加する受講者らの様子。
多元研サイエンス・デイ2021
2021年7月18日、学都「仙台・宮城」サイエンス・デイ2021の一環として、多元物質科学研究 所において「多元研サイエンス・デイ2021」を開催しました。新型コロナウイルス感染症の感染 拡大防止に配慮してオンラインで実施しました。
第2回東北大学材料科学ウェビナー
2021年9月6日、材料科学研究アクティビティの結集と有機的連携を目指した学内関係者向 けの材料科学ウェビナーを開催しました。講演者3名ごとの4セッションに加え、東北放送の熊 谷望那アナウンサーを司会にむかえて特別パネルディスカッションを行いました。本ウェビナ ーは新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に配慮してオンラインで実施しました。
- 3 - 多元物質科学研究所同窓会「多友会」第10回総会
2021年9月24日、多元物質科学研究所において、東北大学多元物質科学研究所同窓会
「多友会」第10回総会を開催しました。寺内正己会長をはじめとする理事ら12名が全員マスク を着用の上、対策の施された会場にて、会員44名はオンラインで参加しました。
総会参加者らの記念撮影の様子。背後に映っているのはオンライン参加者ら。
マテリアル・計測ハイブリッド研究センターシンポジウム
2021年10月5日、2021年度に発足した、「マテリアル・計測ハイブリッド研究センター」の概要 と各研究分野の紹介を行うと共に、学内外の招待講演者を招いた発足シンポジウムを開催し ました。シンポジウムは対面とオンラインのハイブリットにより実施されました。
多元研片平まつり2021
2021年10月9日、東北大学片平まつり2021の一環として、多元研一般公開をオンラインにて 開催しました。「鉄〜身近な材料のよもやまばなし〜」、「電子を使ってミクロ・ナノの世界を観 る」、「物質科学研究を支える技術職」の3本の動画のほか、部局企画による手作り動画集を公 開しました。
宮城第一高等学校が多元研を見学しました
2021年10月19日、宮城第一高等学校から理数科2年生81名が多元研を訪問し、研究室見 学を行いました。新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に配慮して2組に分かれて来訪、
さらに少人数のグループに分かれて実施しました。寺内正己所長から多元研の概要について 説明があった他、学生らは福山博之研究室、村松淳司研究室、蟹江澄志研究室、山根久典 研究室、山田高広研究室を見学しました。
金属資源プロセス研究センターシンポジウム
2021年10月19日、資源・素材学会東北支部と共催で「非鉄製錬技術とリサイクル」をテーマ としたシンポジウムを開催しました。新型コロナウイルス感染症の感染拡大防止に配慮してオ ンラインで実施しました。
- 4 - 防火・防災訓練
2021年10月28日、多元物質科学研究所の教職員及び学生等を対象とした「防火・防災訓 練」を実施しました。仙台市内において震度6強の地震が発生したと想定し、多元研BCPに基 づいて一連の対応プロセスを確認しました。災害対策本部を設置し、トランシーバを用いた緊 急時の連絡方法の確認、職員や学生の安否確認と避難方法の確認、火災発生への対応、危 険物及び放射線施設の状況の把握と対処、建物の損壊状況の確認等を行いました。今年度 は、新型コロナウイルス感染症対策を徹底し、3密を避ける形で実施しました。
防火・防災訓練の実施風景。
島根大学長が来訪しました
2021年10月28日、島根大学の服部泰直学長が多元研を見学しました。多元研の寺内正己 所長から、研究所の概要説明を受けた後、多元研展示スペース、高温材料物理化学研究分 野(福山博之研究室)、エネルギーデバイス化学研究分野(本間格研究室)を見学しました。
宮城県仙台第一高等学校化学部3名が多元研を見学しました
2021年10月30日、同年7月18日に完全オンラインで開催されたサイエンスデイ2021「東北 大・多元研・賞」を受賞した宮城県仙台第一高等学校化学部の3名が多元研を訪問し、和田 健彦研究室、永次史研究室、南後恵理子研究室、寺内正己研究室を見学しました。
第8回東北大学若手アンサンブルワークショップ
2021年11月15日~17日にかけて、東北大学附置研究室若手アンサンブルプロジェクトによ るワークショップが開催されました。オンサイトとオンラインのハイブリッド開催となり、様々な分 野の若手研究者が研究発表・聴講・議論を通じて活発に交流しました。
アライアンス5研究所+台湾国際シンポジウム
2021年11月16日~18日にかけて、アライアンス参画5研究所と台湾の国立陽明交通大学理 学 院 と ア カ デ ミ ア シ ニ カ 応 用 科 学 研 究 セ ン タ ー 間 に お い て 、 「5+2 International Joint Symposium」を開催しました。2020年度は、コロナ禍のために中止となりましたが、今年度は、
アカデミアシニカ応用科学研究センターが世話役となりオンラインで実施しました。
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マテリアル・計測ハイブリッド研究センター(MMH)若手フォーラム
2021年11月19日、若手研究者同士の意見交換や共同研究のきっかけ作りを目的として、
「マテリアル・計測ハイブリッド研究センター」の研究分野の紹介および学内外の招待講演者を 招いた研究フォーラムをオンライン開催しました。
東北大学-台北科技大オンラインジョイントシンポジウム2021
2021年11月30日、今回で4回目となる東北大学多元物質科学研究所と台北科技大学工程 学院とのジョイントシンポジウムを開催しました。将来研究ビジョンを意識したKeynote講演、新 進気鋭の中堅・若手研究者によるプロジェクト報告や話題提供講演、両大学の学生による Flash Presentationが行われました。なお本シンポジウムは新型コロナ感染拡大防止のためオ ンラインにて実施されました。
第21回東北大学多元物質科学研究所研究発表会
2021年12月9日(木)~10日(金)の2日間、片平さくらホールにおいて「第21回東北大学多 元物質科学研究所研究発表会」を開催し、多元研内外から250名の参加者を集めました。昨 年に引き続き、新型コロナウイルスの影響により会場への参加者は少人数に制限し、オンライ ン開催を併用して行いました。会場への参加者には感染防止のため、マスクの着用・手指のア ルコール消毒・ソーシャルディスタンスの確保などの対策を徹底して行いました。
9日の午前中には、区分A、Bと2回に分けて「多元物質科学研究所所長賞」の応募者30名 を含む合計69名がオンラインでポスターセッションを行い、活発なやり取りが見られました。客 員教授特別講演では、中田昌宏氏(日本製鉄株式会社執行役員)より「鉄鋼分野におけるデ ジタルトランスフォーメーションの取り組み」と題して、田村隆治先生(東京理科大学先進工学
中田昌宏氏 田村隆治先生
濵地格先生 岩崎憲治先生
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部教授)より「ハイパーマテリアルとその磁性」と題して、濵地格先生(京都大学大学院工学研 究科教授)より「分子夾雑の化学で生命現象に挑む」と題して、岩崎憲治先生(筑波大学生存 ダイナミクス研究センター教授)より「クライオ電子顕微鏡の利点を活かした構造解析」と題して ご講演いただきました。
10日には、新任教授講演が行われました。西堀麻衣子教授が「放射光を利用した機能材料 科学」と題して、山田高広教授が「活性金属を活用したプロセスと化合物で拓く物質・材料科 学」と題して、矢代航教授が「非平衡系の4D時空間領域のフロンティアの開拓」と題して講演し ました。
左から西堀麻衣子教授、山田高広教授、矢代航教授。
2021年度「籏野奨学基金」、「科学計測振興基金」、「多元物質科学研究所所長賞」授賞式 2021年12月10日、片平さくらホールにおいて「籏野奨学基金」第16回多元物質科学研究奨 励賞、「科学計測振興基金」科学計測振興賞・多元物質科学奨励賞、「多元物質科学研究所 所長賞」の授賞式を行いました。昨年に引き続き、新型コロナウイルスの影響により会場への 参加者は少人数に制限して行いました。会場への参加者には感染防止のため、マスクの着 用・手指のアルコール消毒・ソーシャルディスタンスの確保などの対策を徹底して行いました。
左から「籏野奨学基金」第16回多元物質科学研究奨励賞、「科学計測振興基金」科学計測振 興賞・多元物質科学奨励賞、多元物質科学研究所所長賞の受賞者ら。
東北大学多元物質科学研究所イノベーション・エクスチェンジ2021
2021年12月10日、東北大学多元物質科学研究所とみやぎ高度電子機械産業振興協議会 の主催によるイノベーション・エクスチェンジをオンラインで開催しました。地元企業だけでなく 全国から117名が参加しました。次世代放射光をテーマに、施設に関する解説、研究に関する 講演、自治体や企業からの報告の他、パネルディスカッションを行いました。また、実行委員が
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事前に次世代放射光施設の建設現場見学の動画を作成し最新情報の説明をした他、多元研 や農学研究科の拠点形成・構想などが紹介されました。
左:オンラインで開催されたイノベーション・エクスチェンジの様子。
右:実行委員が作成した次世代放射光施設の紹介動画の1コマ。
八戸工業高等専門学校の学生が多元研を見学しました
2021年12月17日、八戸工業高等専門学校から機械科コースの4年生31名が多元研を訪問 しました。寺内正己所長より、多元研の概要について説明がありました。その後、学生らは桐 島陽研究室、雨澤浩史研究室、矢代航研究室を見学しました。
蟹江澄志教授が出前授業を行いました
蟹江澄志教授が小学6年生を対象に、2021年12月6日に上杉山通小学校でオンライン出前 授業を、2021年12月14日に荒町小学校で対面による出前授業を行いました。この出前授業は、
第21回東北大学出前授業(サイエンス・スクール)の一環として行われたものです。
運営協議会
2022年1月24日、令和3年度多元物質科学研究所運営協議会を開催しました。運営協議会
は、本研究所の組織及び運営について協議し、学内外の学識者から提言を受けることを目的 として設置されたものです。
寺内正己研究所長から「多元研の現状の概要及び今後の展開」について、共同研究担当 副研究所長の芥川智行教授からは「ネットワーク型共同研究拠点」について説明がありました。
続いて、主な研究トピックスの紹介として本間格教授と稲葉謙次教授が講演を行いました。ま た、最近の若手研究者の成果紹介として小澤祐市准教授と夏井俊悟准教授が講演を行いま した。最後に自由討論の時間が設けられ、紹介された研究内容に関する質問や、多元研の運 営に関して活発なディスカッションが行われました。
令和3年度東北大学材料科学世界トップレベル拠点賞授賞式
2022年2月22日に令和3年度東北大学材料科学世界トップレベル拠点賞授賞式が開催さ
れました。5名の受賞者にそれぞれ拠点賞と拠点奨励賞が授与されました。それにつづいて5 名の先生から受賞記念講演がありました。
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東北大学材料科学世界トップレベル拠点賞の授賞者らの記念撮影の様子。
中央に映っているのは多元研の中村崇司准教授。
ソフトマテリアル研究拠点第2回シンポジウム
2022年3月7日、ソフトマテリアル研究拠点第2回シンポジウムをオンラインで開催し、東北大
学だけでなく全国の企業等から128名が参加しました。今回は「量子アニーリング」をキーワー ドとしてソフトマテリアルにどう適用できるかについて5つの講演とディスカッションを行いました。
実演付講習会「RIETAN-FPとVESTAの連携による三次元可視化と粉末構造解析」
2022年3月8日、三次元可視化ソフトVESTAの開発者である門馬綱一氏による三次元可視
化と粉末構造解析に関する実演付講習会を、金属資源プロセス研究センター主催によりオン ライン開催しました。
仙台高等専門学校の学生が多元研を見学しました
2022年3月15日、仙台高等専門学校の学生23名が多元研を訪問しました。多元研副所長 の福山博之教授より、多元研の概要や行われている研究について説明を受けた後、4つのグ ループに分かれて米倉研究室、秩父研究室、加納研究室、村松研究室、蟹江研究室、西堀 研究室を見学しました。
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2. お知らせ
第2期(2016~2021年度)拠点/アライアンス事業がS評価を獲得しました
文部科学省により、国立大学の共同利用・共同研究拠点及び国際共同利用・共同研究拠 点について、第3期中期目標期間における期末評価が実施されました。その結果、2021年10 月29日に、本拠点・アライアンス事業が最高評価のS評価を受けました。以下に評価コメントを 示します。
「5大学5研究所による物質・デバイス領域における拠点ネットワークとして、各研究所の研究 の卓越性と優れた施設・設備を生かしつつ、5研究所間の事務連携体制の強化等、拠点ネット ワークとしての体制整備や研究支援・技術支援体制も強化されるとともに、ネットワークを通じ た若手育成支援の充実や学際的な研究の芽が出始めるなど、関連コミュニティへの貢献が非 常に高く評価できる。」
第3期拠点/アライアンス事業がスタートします
2022年度から第3期の物質・デバイス領域共同研究拠点およびアライアンス事業が開始さ れます。マテリアルイノベーションを促進するため、物質・光・生命・数理・バイオ・AIなどの異な る研究領域のクロスオーバーを新たな目標とし、ネットワーク共同研究をさらに異分野融合へと 展開します。また、拠点構成研究所の研究力強化と質の向上を通じた連携・共創により、国内 外の研究者コミュニティー全体の活性化、多様性の尊重、未来志向でチャレンジングな研究 の支援活動を目標とします。なお、第3期事業の開始に伴い「物質・デバイス領域共同研究拠 点ホームページ」がリニューアルされました。
(ウェブサイト、https://five-star.sanken.osaka-u.ac.jp/)
マテリアル・計測ハイブリッド研究センターが発足しました
多元研の研究体制の変更に伴い、2010年に設置された「高分子・バイブリッド材料研究セン ター」が廃止され、新たに「マテリアル・計測ハイブリッド研究センター」が2021年4月に発足しま した。本センターでは、物質創成の学理及び計測評価による材料開発研究を行うことにより、
新機能高分子材料及び有機・無機ハイブリッドナノ材料の開発並びに応用研究を推進すると ともに、材料開発ニーズと連携した新たな計測技術開発およびそれらの融合研究をすることを 目的とします。
(ウェブサイト、http://www2.tagen.tohoku.ac.jp/lab/mmh/html/index.html)
- 10 - 多元研20周年記念事業について
2021年に東北大学多元物質科学研究所は創立20周年をむかえました。これを記念し南1
号館のエントランスホールに展示スペースを整備しました。また、2021年12月9日付の日刊工 業新聞紙面、および12月20日~1月14日にウェブページにて、「多元物質科学研究所創立20 周年特集」と題された特集記事が掲載されました。さらに2022年3月23日に多元研20周年を記 念して広報誌を発行しました。
左:南1号館の展示スペース。右:多元研20周年記念誌の表紙。
特集記事が掲載された日刊工業新聞の紙面。
- 11 - 多元研事務部棟と南1号館が登録有形文化財に
2021年10月14日に、多元研事務部棟と南1号館が登録有形文化財として登録され告示され ました。登録有形文化財建造物は、50年を経過した歴史的建造物のうち、一定の評価を得た ものを文化財として登録し、届出制という緩やかな規制を通じて保存が図られ、活用が促され ています。
左:多元研事務部棟。右:南1号館。
福島県沖地震の被災状況
2022年3月16日発生の福島県沖を震源とする地震により、多元研の多くの建物に被害が生
じました。多くはひび割れ等の軽微なものでしたが、小俣研究室では広範囲にわたって内壁 が欠落するなど、一部では大きな被害が出ました。一方で、幸いにも重大な人的被害は報告 されませんでした。
被害の大きかった科研南棟311号室の被災直後の様子。
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3. 新任教員紹介
所属 研究戦略・共同研究拠点/アライアンス推進委員会 特任教授 髙島 正(たかしま ただし)
2022年4月より、多元研のアライアンス本部に特任教授として着任いたしました、
髙島と申します。横浜生まれの静岡育ち、東京農工大学工学部卒、大阪府立大学 大学院工学研究科にて修士・博士の学位を取得いたしました。薬学系のポスドク から民間企業、ベンチャー、NEDO、私立大学、国立大学と、業種も業界も多岐に 渡り歩いている浮浪者!?です。アライアンス専任ではありますが、広く多元研の 皆様と関わっていけたらと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
所属 研究経営戦略室
特任教授 根本 靖久(ねもと やすひさ)
4月から新設の研究経営戦略室に着任しました首席URAの根本靖久です。これ まで本部URAセンターで、研究戦略マネジメント、URA業務全般、URA協議会で URA質保証と人材育成プログラムも担当し、既にご存じの先生方もおられるかと存 じます。製薬企業での研究企画やベンチャー起業・経営支援など多様な経験を生 かして、拠点形成から予算獲得・産学連携・契約・知財戦略までカバーして、多元 研の多様な魅力とプレゼンスの発揮に邁進します。医療ライフ等、異分野学際融 合も積極的に進めて参ります。遠慮なくご相談ください。
所属 生物分子機能計測研究分野 教授 米倉 功治(よねくら こうじ)
東京の谷中で生まれ育ちましたが、東京工業大学大学院卒業後、関西地方に 就職しました。渡米後も兵庫県のSPring-8に勤務しています。この度は、久しぶり の東日本の大学となります。真偽は定かではありませんが、先祖が仙台藩に仕え ていたとも聞かされており、縁を感じます。この地で、既に、いろいろな専門性を持 たれた先生方との幸運な出会いにも恵まれました。
私は、大学の学部の学生から30年以上もクライオ電子顕微鏡を使った研究を続 けてきました。その間、多くの方に支えられてきたと実感し、感謝の念を抱いてい ます。片平キャンパスの多元研に導入されたクライオ電子顕微鏡システムを使っ て、生命科学に加え材料科学への展開と次代を担える人材育成に努める所存で す。高さ4メートル近い大きな装置で、見学もできますので、ご興味がある方は気 軽にお声がけください。リモート接続とAIを使った自動測定により、時間と場所に 縛られない環境が手に入りました。放射光との相補的利用でさらなる広がりも期待 しています。
所属 光機能材料化学研究分野(中川研究室)
准教授 押切 友也(おしきり ともや)
2022年3月1日付けで光機能材料化学研究分野の准教授に着任致しました。こ れまで、金属ナノ構造が示す局在プラズモンを用いた光化学反応に取り組んでき ました。今後は、ナノ構造の形状・配列を精密に制御可能なナノ加工技術を開発 し、新規光化学反応場の開拓を行うとともに、光-物質相互作用系における各素過 程の理解に向けて研究に取り組む所存です。ご指導、ご鞭撻のほど、何卒よろしく お願い申し上げます。
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所属 量子ビーム計測研究分野(百生研究室)
准教授 關 義親(せき よしちか)
2022年4月1日付けで百生研究室の准教授に着任いたしました。これまで、中性 子干渉計を中心とした中性子光学デバイスの開発やそれを利用した基礎物理実 験、イメージング研究を行ってきました。多元研では、さらにX線による位相イメー ジング研究も推進していきたいと考えております。今後とも、ご指導ご鞭撻のほどよ ろしくお願い申し上げます。
所属 生命分子機能計測研究分野(米倉研究室)
准教授 濵口 祐(はまぐち たすく)
2022年4月1日付で生物分子機能計測研究分野の准教授に着任しました。これ まで生化学、分子生物学、微生物学を背景にクライオ電子顕微鏡を用いた生体分 子の高分解能、高精度イメージングに取り組んできました。クライオ電子顕微鏡で は様々な物質を低温下で観察でき、その可能性は生体分子の観察だけにとどまら ないと考えております。東北大・多元研では生体分子以外にも自身の研究の幅を 広げ、多様な物質の構造解析に尽力したいと考えおります。どうぞよろしくお願い いたします。
所属 生命分子ダイナミクス研究分野(髙橋(聡)研究室)
助教 伊藤 優志(いとう ゆうじ)
2022年4月1日付で生命分子ダイナミクス研究室の助教に着任いたしました。東 北大学大学院理学研究科にて博士(理学)の学位を取得した後、博士研究員とし て東北大学と国立遺伝学研究所に勤務し、再び東北大学で研究をする機会をい ただきました。着任後は、一分子蛍光観察装置の開発、及び一分子観察を用いて タンパク質のダイナミクスを解明する研究に取り組んでおります。タンパク質の運 動や機能を解明し、分子レベルでの生命現象の理解に貢献することを目指してい ます。ご指導ご鞭撻のほど宜しくお願い申し上げます。
所属 ナノ・マイクロ計測化学研究分野(火原研究室)
助教 玄 大雄(げん まさお)
2022年4月1日付で火原研究室の助教に着任しました。エアロゾルを中心とした 大気化学の研究を行なっております。今後は火原研独自の分析手法を私の研究 に取り入れ、エアロゾル研究の幅を広げていく所存です。今後ともご指導ご鞭撻の ほど、どうぞよろしくお願い致します。
所属 細胞機能分子化学研究分野(水上研究室)
助教 髙嶋 一平(たかしま いっぺい)
2022年4月1日付にて細胞機能分子化学研究分野水上研に着任しました助教 の髙嶋です。京都大学卒業後に化学系企業に勤めたのち、九州大学にて博士
(薬学)の学位を取得いたしました。その後は京大化研やNCSU、神戸薬科大学 においてポスドクを経て今に至ります。合成分子とタンパク質を融合した分子ツー ルによるイメージング技術の開発を行っています。どうぞ今後ともよろしくお願いい たします。
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所属 光機能材料化学研究分野(中川研究室)
助教 新家 寛正(にいのみ ひろまさ)
2021年11月1日付で中川研究室の助教に着任しました。これまでは、金属ナノ 構造体の表面プラズモン近接場を駆使したキラル結晶化制御や、高圧下の氷/水 の非平衡界面に生成する未知の水に関する研究を行って参りました。現在は、ナ ノインプリントリソグラフィによるナノ構造体作製プロセス、ナノ構造体を駆使した自 己組織化制御と物性計測技術の開発に取り組んでおります。今後ともご指導ご鞭 撻の程、何卒よろしくお願い申し上げます。
所属 物質変換無機材料研究分野(加藤研究室)
助教 吉野 隼矢(よしの しゅんや)
2022年4月付けで加藤研究室の助教に着任いたしました。東京理科大学の 工藤昭彦研究室のもとで博士(理学)を取得しました。半導体光触媒による物質 およびエネルギー変換の研究を通して、資源・エネルギー・環境問題の解決に 貢献できるよう精進していきます。どうぞよろしくお願い申し上げます。
所属 量子フロンティア計測研究分野(矢代研究室)
助教 梁 暁宇(りょう しょうう)
My name is Xiaoyu Liang, and I obtained a doctoral degree from the Department of Materials Science and Engineering, Tohoku University in March 2019. Since then, I have joined in Yashiro Laboratory at IMRAM. My research focuses on “Development of Millisecond X-ray Tomography with Super Compressed Sensing”. We are rising to the challenge of developing new imaging techniques in the 4D Spatio-temporal domain by exploiting high-energy quantum beams such as X-rays. I am looking forward to the continued guidance and encouragement in the future.
上記の新任教員らに加えて、下記2名の特任研究員(教育研究支援者枠)が着任しました。
所属 ナノ・マイクロ計測化学研究分野(火原研究室)
Grasianto(ぐらしあんと)
所属 ハイブリッドナノシステム研究分野(蟹江研究室)
沈 晨(しん ちん)
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4. 寄稿
『エコール・ド・パリ』から学ぶこと
東北大学名誉教授(現大阪大学産業科学研究所特任教授)
垣花 眞人
『藤田さんをエライと思う。あの人には欲がある。ああでないとイカンのかも知れん。でも俺 は、藤田はきらいだ。ああは生きられん。』(1)
これは、30歳でパリに客死した夭折の天才画家佐伯祐三(2)(さえきゆうぞう1898-1928)の亡 くなる年、1928年5月2日に友人吉薗周藏に宛てた書簡の一節です。ここで佐伯祐三が個人 見解を述べている“藤田さん”とは、藤田嗣治(ふじたつぐはる1886-1968)のことです。藤田嗣 治は、1955年にフランスに帰化し、1959年にカトリックの洗礼を受けてレオナール(レオナル ド)・フジタと改名(3)しました。
私は佐伯祐三の画業に深い尊敬の念を抱いていたので、佐伯がきらう藤田嗣治に対し、特 別な関心を抱くことがありませんでした。むしろ、おかっぱ頭、ロイド眼鏡の真ん中にある大きな 黒い瞳、金色のピアスを耳につけ、己の筋肉美を露わにする奇矯な男、それが藤田嗣治の印 象でした。しかし、後述する“あること”をきっかけに、私は藤田嗣治の生き方そのものに深く共 鳴するようになり、それは自然科学者としての生き方にも通じるのではないか、と考えるようにな りました。それ以降、私の藤田嗣治への尊崇の念は膨らむばかりで、同時に彼の作品と語らう ことで、無上の歓びを得るまでに至るようになりました。81年の生涯を全うした藤田嗣治の画風 は創作時期に応じて大きく変化しました。それが、藤田嗣治を一つの像に結ぶことを困難にし、
彼の芸術の本質を見えにくくしているように思われます。しかし、画風の異なるそれぞれが第 一級の芸術価値を有し、彼の人生の数奇な旅路と波乱に満ちた時代を、標石のように浮かび 上がらせているのです。
それではこれから、彼の作品と残像とを手掛かりに、「藤田嗣治とは誰だったのか」を探って みたいと思います。
【1】 自由を求めてパリを目指す芸術家たち『エコール・ド・パリ』
20世紀前半にパリで活躍した『エコール・ド・パリ』(4)(パリ派)とは、今でこそ、華やかな芸術
の都パリの代名詞ですが、当時は、爪に火を灯すような貧しい生活を送りながらも己の魂をか けて創作に挑んだ芸術家群を指します。『エコール・ド・パリ』に属する画家が活動したのは、
1920年を中心に、前後合わせて、わずか25年程度の短い期間でした。
『エコール・ド・パリ』に属する代表的画家を表1に示します。ジョルジュ・ルオーを筆頭に、高 名なフランス人画家に加え、パブロ・ピカソや藤藤田嗣治など、非フランス人の画家や画学生 が外国からパリと言う一都市に集結し、カフェ、サロン、ギャラリー、アトリエを活動の場とし、美 術史上、後にも先にも類例のない“溜まり場”を形成しました。この“溜まり場”では、個性と個性
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表1:エコール・ド・パリに属する主な画家
との衝突による火花が炸裂し、さらには各々全く異なる画風の交差(クロスオーバー)は、互い の個性と独創性とを更に高めるのみならず、全く思いも寄らない新規性までを産み出したので す。それは、まるで高温にした坩堝の中で異なる成分が溶融し、ゆっくり冷却することで、新物 質が産まれてくる様とよく似ています。表を一見して分かるように、もはやフランス人・非フラン ス人という枠組みを超え、互いに入り混じり、切磋琢磨することで、燦然と輝く独創的作品群を 産み出したという点で、そして、現在に名を残す巨匠を多数輩出した点において、エコール・
ド・パリは空前絶後の時代を築いたのです。
画家名 パリ滞在当時の国籍 生年-没年
アンリ・マティス
フランス
1869-1954
ジョルジュ・ルオー 1871-1958
モーリス・ド・ヴラマンク 1876-1958
アンドレ・ドラン 1880-1954
ジョルジュ・ブラック 1882-1963
モーリス・ユトリロ 1883-1955
マリー・ローランサン 1883-1956
エルミーヌ・ダヴィッド 1886-1970
キース・ヴァン・ドンゲン オランダ 1877-1968 パブロ・ピカソ スペイン 1881-1973 アメディオ・モディリアーニ イタリア 1884-1920 ジュル・パスキン ブルガリア 1885-1930 藤田嗣治(レオナール・フジタ) 日本 1886-1968 ディエゴ・リベラ メキシコ 1886-1957 マルク・シャガール ロシア 1887-1985 アレキサンダー・アーキペンコ キエフ 1887-1964 レオ・マイケルソン ロシア 1887-1978 ファン・グリス スペイン 1887-1927 ペール・クローグ ノルウェイ 1889-1965 オシップ・ザッキン ロシア 1890-1967 モイーズ・キスリング ポーランド 1891-1958 ハイム・スーティン ロシア 1893-1943 潘玉良(パン・ユイリャン) 中国 1895-1977 常玉(サンユー) 中国 1895-1966
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それでは、なぜ当時のパリが彼ら、彼女らを引き付けたのでしょうか?画家を目指す才能あ る若者たちにとって、故国に留まり、安定した芸術活動を繰り広げるチャンスを捨て、異郷の地 で、生死を彷徨うほど極貧の生活(5)を強いられても、なおも強く働くパリの引力とは何だったの でしょうか?そして、なぜエコール・ド・パリの画家たちが、それぞれ独自の画風を確立し、一見 してただちに作者が分かるほど、各々の個性を際立たせることができたのでしょうか?
【2】 外国人は外国人でなければならない
前項で提示した疑問への回答は、米国出身の文学者で20世紀の文学の母と讃えられたガ ートルード・スタイン(1874-1948)の自著『パリ フランス −個人的回想−』(6)に見出すことがで きます。ガートルード・スタインは1903年にパリに移住し、芸術家が集うことのできるサロンを開 くとともに、パブロ・ピカソ、アンリ・マティス、ジョルジュ・ブラックなど、才能豊かな画家達の初 期の絵画を収集し、彼らの支援活動を行っていました。そうした彼女のパリでの長い体験に基 づいた貴重な証言を、その著書の中から引用してみましょう。
ガートルード・スタインは『フランス人にとって、外国人であることと居住者であることの違いは あまり重大なものではありません。(中略)フランス人にとってほんものである外国人は、パリとフ ランスに居住する人びとだけです。その点でフランス人は他の国の人びととは違います。他の 国の人びとは、外国人が自国にいるときのほうがいっそう本物だと思いますが、フランス人にと っては、外国人はフランスにいるときだけ本物となるのです。』と説き(7)、さらに続けて『外国人 たちがフランスに所属しているというのは、彼らがいつもフランスにいて、そこでしなければなら ないことをして、そこで外国人のままでいたからです。外国人は外国人でなければなりませんし、
外国人が外国人でありながら必然的にパリに、フランスに住んでいることはすてきなことです。』
と述べています(下線は筆者による)(8)。
エコール・ド・パリの画家たちは、単に、最先端の美術の知識や技術を身に着けるためにパ リにやって来たのではありません。自らのアイデンティティを保持しながら、異国的なものとフラ ンス的なものが混ざり合った、個性的な画風の確立をフランス人が望み、そうした画家が育つ 舞台を提供してくれる都市がパリだったからなのです。ガートルード・スタインは『20世紀のパリ は、外国人の文学者・芸術家たちが才能を着床させ、大きく育てていくために存在していた
「子宮的大地」にほかならない。』と述べています(9)。エコール・ド・パリの画家たちが、フランス 美術の伝統に飲み込まれず、自身の個性に基づく独創的な画風を確立できた背景には、当 時のパリだけが有していた独特の空気があったのです(10)。重要なことは、ガートルード・スタイ ンが指摘しているように、異郷の画家がパリで認められるということは、パリ画壇の伝統やパリ 社会そのものに同化するということではなく、異郷の人としてのアイデンティティを自覚し、それ をオリジナルな画風として確立させることなのです(11)。そのことこそが、異郷の地からパリにや って来た外国人が画家として、フランス人画家と共存するための必要条件だったのです(11)。
藤田嗣治が極貧から脱し、1920年代にエコール・ド・パリの寵児として輝かしい存在になっ たのは、独自の画風をひたすら模索し、そこに心血をそそいだからなのです。1925年にはフラ ンスからレジオン・ドヌール勲章、ベルギーからレオポルド勲章を授与されるなど、その名声が
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不動のものとなった藤田嗣治を訪ねる若い日本人画家たちに、『今まで日本で学んできたこと を全て捨てよ。そして自分のオリジナリティをつかみだせ。』(12)と諭したのも、上述した必要条 件を強く自覚していたからなのです。
【3】 藤田嗣治のパリ行き(1913年)のきっかけ
藤田嗣治は、1913年6月、26歳の時に日本を発ち8月にパリに着きました。到着しほどなく、
チリの画家マヌエル・オルティス・デ・サラテ(1887-1946)に連れられて、パブロ・ピカソのアトリ エを訪れる幸運に恵まれました。そして、そこにあったアンリ・ルソー(1844-1910)の《詩人に霊 感を与えるミューズ》という作品に衝撃を受けたとされています。ルソー絵画の自由奔放さに圧 倒され、日本で教えられてきたこれまでの画風(東京美術学校(現東京藝術大学)のK教授が フランスで身に着けた印象派由来の「外光派」(又は紫派)と呼ばれた画風)を全て放棄するこ とを決意したのです。藤田嗣治は自著の中で、『その日即座に私は(東京美術学校教師指定 の)絵具箱を地上に叩きつけて、一歩から遣り直さねばならぬと考えた』と語っています(13)。こ れは藤田嗣治の骨太で激しい性格の一面を示していますが、同時にその後の人生で、終生 変わらず、彼が貫き通した、ぶれない信念の原点がここにあることを物語る、興味深いエピソー ドです。
話が前後しますが、藤田嗣治のパリ行きは、実に皮肉なことがきっかけになって実現しまし た。藤田嗣治が、東京美術学校の卒業時に制作した自画像は悪い画風の代表的例として教 室で紹介され、教師にこき下ろされました。また、1910年の卒業後、展覧会に多数の作品を出 展したのですが、当時、美術界の権威の影響下にあった文展(14)などでは全て落選しているの です。こうした理不尽な仕打ちを受け、藤田嗣治は、日本における様々な制約を伴うしがらみ や保守的・閉鎖的なアカデミズムからの解放を求めてパリに赴いたのでした。
【4】 エコール・ド・パリ時代(1913-1929年)の藤田嗣治
(1) 第一次世界大戦中の藤田嗣治と困窮する画家を支えたカンティーヌ(簡易食堂)
前項に記述したように、藤田嗣治は1913年に単身渡仏し、生涯に渡って交友関係を築いた パブロ・ピカソのアトリエで出会ったアンリ・ルソーの絵に大きな衝撃を受けました。同時に、パ リで独立した画家として生きていくことの困難さを強く認識したのです。
不幸なことに、1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発すると、エコール・ド・パリに属する 画家たちはパリに留まることができなくなり、大半が故郷に戻るなど霧散します。一方、藤田嗣 治は、日本大使館からの帰国勧告に応じず、戦禍のなか、一時的にロンドンに逃避するもの の、パリに留まり続けたのです。しかしながら、藤田嗣治は『絵が売れなくて収入の道がないの で、冬になっても寒さをしのぐストーブの薪も買えず、飢えをしのぐ一片のパンさえ買えないと いう状態の日も珍しくなかった』(15)と当時を述懐するように、生きるか死ぬかのような過酷な生 活を強いられることになるのです。
大使館の勧告に従って帰国した他の日本人画家と一線を画してまで、なぜ藤田嗣治は危 険な環境に身を置く決意をしたのか、少し長くなりますが、彼自身が書いた随筆「大成へと志し て」(16)からその理由を探ってみましょう。
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『大成へと志して
運悪く欧州大戦争が突発した。(略)自分の理想とか計画とかは容赦なく壊されて行くと いう事が初めてよく分かった。(略)嘗(かつ)て自分が今まで過去に一度も見なかった、ま たこれから将来に容易に現れ出ないような作を生む事を希った。人の模倣を退け独創独 案の画風、ただいい画家になりたいという希望であった。(略)最初から名前とか金銭など を欲する人は、たとえ一時の成功はあっても到底永続すべきものではない事は明瞭であ る。私こそパリに土着して、この世界の修行の本場で命を棄ててもという覚悟が十分と心 に堅固に出来たので、一切その日暮すというような考えとなって、将来の大成を夢みたり するような事は念頭に置かなかった。』(下線は筆者)
藤田嗣治は、アンリ・ルソーがそうであったように、誰の真似でもない、そして誰も真似のできな い、自分だけのオリジナルな画風を確立したいと望み、ひたすら、ただいい画家になりたいと 自ら希求し、それが実現できる場所がパリだけだと確信し、あえて困難な道を選んだのです。
戦時下、パリの一般市民ですら食料が欠乏しているなか、困窮するエコール・ド・パリの画家 たちに救いの手を差し伸べたのが、カンティーヌ(cantine)と呼ばれる簡易食堂を開設した慈 善事業団体でした。安価で、時には無料で食事を提供したこのカンティーヌの存在は、芸術 家の生活を支え、エコール・ド・パリが消滅することを回避したのです(17)。第一次世界大戦の 終結1918年11月11日の後、一旦は散り散りになった内外の画家たちが再びパリに戻ってきま す。そこに、再び活気が蘇り、1920年代にエコール・ド・パリが全盛期を迎えることができたのは、
カンティーヌで育まれた、画家たちの連帯感があったからだ、と言えるのです(17)。 (2) エコール・ド・パリの寵児となった藤田嗣治~乳白色の下地の発明~
戦時下のパリでは絵が売れず、困窮を極めた藤田嗣治でしたが、転機が訪れたのは、1917 年3月にカフェで出会ったフランス人モデル・画家のフェルナンド・バレエ(Fernande Barrey;
1893-1960)との結婚でした。藤田嗣治の才能を見抜いたフェルナンド・バレエの協力により、
少しずつ絵は売れ始め、1917年6月には藤田嗣治最初の個展が開かれることになりました。藤 田嗣治は、風景画や人物画、静物画などを描きながら、前述した「大成へと志して」の中で述 べているように、人の模倣を退け独創独案の画風を確立するために孤軍奮闘していました。
その高い志を絶やすことなく、数年の歳月を経て、1921年、「乳白色の下地」と呼ばれる、藤 田嗣治オリジナルの技法がついに完成されたのです。「乳白色の下地」の技法の本質を明ら かにするために、日仏に跨り組織された総勢15人の修復家(日本人11人、フランス人4人)が、
2000年7月17日から10月17日までの3か月の歳月を費やし、複数の絵の修復をパリで行いまし た(18)。その際、採取したサンプルから得た地塗層の研究調査から、藤田嗣治は、硫酸バリウム
(BaSO4)を下地に用い、その上に炭酸カルシウム(CaCO3)と鉛白(19)を混合した白色層を塗っ ていたことが判明しています(20)。さらに、下地表層からタルク(21)(天然鉱物に含まれ、シッカロ ールなどに使われてきました)が検出されています(20)。
この「乳白色の下地」の技法の発明は、絵画制作に際し、次の2つの革新的効果をもたらし ました。
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① キャンバス(画布)の下地そのものを使って人の肌などの白色を表現したことにより、光沢 のある乳白色と、滑らかな質感(マチエール)を実現することができるようになりました。
② 藤田嗣治は、日本画で用いられる水墨と面相筆(22)を用いて、対象(人)物の輪郭や毛髪 などの細い線を描きました。西洋画の油絵の技法に立脚している限り、油は水を弾くことか ら水墨を利用することはできませんでした。したがって、非常に細い線を描くのに適した面 相筆を使用することはあり得なかったのです。一方で、藤田嗣治が発明した「乳白色の下 地」の技法による滑らかな下地を持つキャンバスであれば、水墨が定着しやすくなり、面相 筆での運筆が容易になり、細く長い輪郭線や毛髪などの細い線を自在に描くことができる ようになったのです。
藤田嗣治の偉大な「乳白色の下地」を実現させたキーマテリアルがタルク(シッカロール)であ
ったこと(23,24)、この事実は非常に興味深いところです。タルク(シッカロール)なくして上記の2
つの革新的効果を作画において発揮できないのです。
1925年、パリに留学し、藤田嗣治に師事した岡鹿之助(1898-1978)はタルク(シッカロール)
の役割について『象牙のような肌のキャンバスを発明した藤田さんは、その上にどうしたら日本 の毛筆で、日本の墨で、毛髪のように細い線をかくことが出来るだろうかと考えた。油絵具の下 塗りの地は水で溶いた墨をはじいてしまう。タルクをキャンバス全面にふりかけて、油っ気を取 り去ることに成功したのである。』と述べています(25,26)。修復家のアン・ル・ディベルデルは、藤 田嗣治の「乳白色の下地」の乳白光及び透明さは、最上層にタルク(シッカロール)を加えたこ とによりもたらされたことを立証しました(23)。
「乳白色の下地」技法は、1920年代の藤田嗣治の作品に駆使され、人の肌の色に透明で優 美な美しさを与え、また、人の毛髪や藤田嗣治が特に好んで描いた猫の毛の微に入り細に及 ぶ驚嘆すべき精密な描画を可能にしたのです。これらの一連の作品群は、当時のパリに一大 センセーションを巻き起こし、藤田嗣治はエコール・ド・パリの寵児となったのです。「乳白色の 下地」技法で生まれた画肌と繊細な線描を駆使した画風は、日本的な美意識の伝統的西洋 画への反映であり、藤田嗣治のオリジナルとしてパリで高く評価されたのです。そして、藤田嗣 治は、おかっぱ頭にロイド眼鏡、チャップリン風の髭といった個性的な風貌で、爆発的な人気 を呼ぶスターになります。
藤田嗣治の国際的成功は、彼の能力と不断の努力に負うところ大ですが、ガートルード・ス タインが述べたように(【2】項を参照下さい)、その成功の背景に、当時のパリと言う都市の特殊 性が関係しています(6-9)。鹿島茂は、自著の中で、『彼ら、つまり外国人の芸術家や文学者た ちは、パリにやってきて、「外国人性」を喪失してパリジャンに「なってしまう」のではなく、反対 に、パリにいることで自らのうちにある「外国人性」を自覚し、それを育てることで、独自の文学 や芸術を確立することができたということだ。パリには、彼らが外国人のままでいる寛容性があ ったのだ。』(27)と述べています。「外国人に自国文化や生活習慣の同化を求めず、外国人の ままでいることを許す」国(都市)は、世界広しといえども、我が日本を含めて、エコール・ド・パ
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リ時代のフランス(パリ)以外に他に類例を見出すことが困難です。藤田嗣治を育て、その天才 を開花させたのは、エコール・ド・パリ全盛期のパリであったのです。
藤田嗣治を筆頭に、エコール・ド・パリに属する画家は、鹿島茂が論考するように、パリが、
異邦人が異邦人のままでいることを許す都市であったからこそ、初めて自らの芸術と対峙する ことを強いられ、自らを変容させ、新たな画風を創造したと言えるのではないでしょうか(28)。美 術に限らず、芸術全般、そして自然科学においても、本当に独創的な成果というものは、エコ ール・ド・パリ時代のパリのような背景が必要だという点で、私たちが『エコール・ド・パリ』から学 ぶことは大きいのです。
【5】 エコール・ド・パリの終焉とその後の藤田嗣治(1929-1968年)
1929年10月に発生したウォール街の株式市場大暴落の影響でパリの画壇も狂乱から覚め て、市場は冷え切りました。これは、エコール・ド・パリの終焉を意味し、藤田嗣治にとって転機 となりました。同年17年振りに短期間日本に帰国、翌年米国経由で一旦フランスに戻るも、す ぐにブラジル、アルゼンチン、ペルー、キューバ、メキシコなど中南米を歴訪し、エキゾチックで 原始的な明るい色彩の画風に変わります。1933年に日本帰国後は、日本を拠点として活動を 続けます。
(1) 戦争記録画を描いた藤田嗣治~戦時下の日本、そして敗戦~
日中戦争勃発の翌年の1938年、海軍省嘱託となり従軍(29)したことが藤田嗣治の第2の転機 となります。1939年5月に再びパリに赴きますが、ドイツ軍によるパリ陥落寸前の1940年5月、パ リを逃れて3度目の日本帰国をします。トレードマークだったおかっぱ頭を切り、角刈りにし、陸 軍省/海軍省の命を受け、敗戦の年まで戦場の取材と作戦記録画(戦争記録画)の制作に精 力を傾けます。画家として世界的に著名だった藤田嗣治を筆頭に、多くの画家がシンガポー ルや南方などの戦地にて現地徴用され、数多くの戦争記録画が生まれたのです(30)。
日本が敗戦後、戦犯指名を恐れた日本画壇から、藤田嗣治への戦争責任の追及が及び、
理不尽なことに、彼は一人で画家として戦争責任を負うことになり、1949年3月、なかば永久追 放のような形で出国を余儀なくされたのです(結局、美術界からは誰も戦犯指名はされません でした)。藤田嗣治は、戦争記録画をディエゴ・ベラスケス(スペイン;1599-1660)の《ブレダの 開城》、ウジェーヌ・ドラクロワ(フランス;1798-1863)の《ポワティエの戦い》や《キオス島の虐 殺》などの戦争画に匹敵する芸術の域まで高めようとしました。東京国立近代美術館に保管さ れている、有名な《アッツ島玉砕》や《サイパン島同胞臣節を全うする》など、それまでの藤田嗣 治のイメージとはまるで異なり、一面暗い茶褐色で覆われています。様々な見解がありますが
(31-34)、戦意高揚のためというよりは、私には“戦争のリアル”として描かれているように見えます。
藤田嗣治は、「美術」誌1944年5月に発表した「戦争画制作の要点」で『或る戦争画の傑出せ る作品は絵画の史上に於いての傑作であり得るのである。ありと凡ゆる画題の総合したものが 戦争画である。風景も人物も静物も、総てが渾然として其処に雰囲気を起す。』と述べ、例え ば、凄惨極まる戦闘の場面に描かれた小さな花(《アッツ島の玉砕》)や稲妻(《血戦ガダルカ
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ナル》)などは、戦争画を単なる記録に終わらせず、まさに藤田嗣治の意図を体現させるため に、そこに無くてはならない要素だったのです(35)。
藤田嗣治と深い親交を結んだ田淵安一(1921-2009)は、1968年1月、藤田嗣治が入院して いたスイスの病院を訪問し、藤田嗣治の肉声を手帳に記録していました(36)。そして、これまで 訊くことのできなかったこと、すなわち「なぜ戦争記録画を描いたのか」と、臨終の藤田嗣治に 訊ねたのです。なぜに対する直接の回答を得られなかったものの、藤田嗣治はかすれ声で次 のように話したとされています(37)。
『戦争というのは本当に悲惨なもので、あの絵を見てもらったらわかるけど、あそこには将 校は一人も描いていない。死んでいく兵隊がかわいそうで…兵隊しか描いていない。』
この言葉には、前線での苦闘を強いられた兵士に対する藤田嗣治の衷心(ちゅうしん)からの 哀悼の念を表現しているように感じられ、胸が痛みます。
(2) 最晩年の藤田嗣治:総合芸術作品としての礼拝堂の建立
藤田嗣治は1949年3月に米国に向けて出国する際、記者に向けて次の有名な言葉を残し て日本を去り、その後、二度と日本の地を踏むことはありませんでした。
『絵描きは絵だけ描いてください。仲間げんかをしないでください。日本画壇は早く世界 的水準になって下さい。』(藤田嗣治;1949年3月10日)
そして、1950年2月に10年振りのフランスへの入国を果たし、1955年にフランス国籍を獲得(日 本国籍を抹消)、1959年に(シャンパンで有名な)シャンパーニュ地方のランス大聖堂でカトリッ クの洗礼を受け、以後「レオナール・フジタ」と名乗りました。
■ 平和の聖母礼拝堂(ノートルダム・ド・ラ・ペ)の建立
カトリック教徒となった藤田嗣治は、自ずとキリスト教の主題を制作の中心に据えることになり ます(38)。1964年6月、パリで最後の個展をポール・ペトリデスの画廊で開き、その際にも、《礼 拝》などの宗教画を展示しました。その翌年1965年、洗礼時の代父であったシャンパン製造会 社の社長ルネ・ラルーの協力を仰ぎ、ランスに平和の聖母礼拝堂(La Chapelle Notre-Dame-
de-la-Pai(仏語), ノートル=ダム・ド・ラ・ペ礼拝堂)を建てる計画に着手しました。この礼拝堂
の全て、建物の設計から始まり、ステンドグラス、扉、内部装飾に至るまで、建築家モーリス・ク ロジェ及びガラス職人シャルル・マルクと協働しながらも、藤田嗣治によって検討・着想されま した。その際、藤田嗣治は『礼拝堂は、永遠不変の作品でなければならず、慎ましく、簡素で いて威厳があり、人が何度も訪れたくなるような安らぎを覚える場所になければならない。』と述 べました(39)。礼拝堂の建物は、内部のフレスコ画制作を残し、1年後の1966年5月末に完成し ます。
藤田嗣治は、続いて、同年6月~8月までの約3か月、礼拝堂内のフレスコ画制作に全身全 霊で臨みます(藤田嗣治は、この時すでに癌を患っていました)。藤田嗣治にとって初めての 経験となる、フレスコ(40)技法を用い、《キリストの磔刑》、《ぶどうの聖母子》、《受胎告知》、《東 方三博士の礼拝》、《聖母子像》、など聖書の主題を、凡そ100 m2に及ぶ壁画として完成させた のです。
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■ 藤田嗣治はなぜフレスコ技法を採用したのか?
藤田嗣治は、最晩年、命を削ってまで、なぜ自身にとっては未知の技法であるフレスコ技法 を採用し、壁画を描いたのでしょうか。また、フレスコ画においては、失敗した場合には、漆喰
(フレスコ画で使う下地材料(40))を搔き落とし、やり直すしかないので、80歳になろうとする藤田 嗣治にとっても、それは大きな精神的・肉体的負担であったことでしょう。藤田嗣治がフレスコ 画を描く決意をした、その理由を論考してみましょう。
まず、フレスコ画は長期保存安定性に優れ、耐候性、耐光性ともに他の画法を遙かに凌駕 することに着目します。フレスコ画は、水酸化カルシウム(Ca(OH)2)と炭酸カルシウム(CaCO3) を主成分とする漆喰(石灰ともいいます)を壁に塗り、硬化する前に、表面に耐アルカリ性の顔 料を水または石灰水で溶いたもので描きます。顔料は水酸化カルシウム粒の内部に染み込み、
一方、水酸化カルシウムは空気中の二酸化炭素と徐々に化学反応し、透明な炭酸カルシウム 膜を形成します。その透明膜の中に、顔料が閉じ込められることから、劣化しにくいのです。基 本的に顔料と水だけで描かれることから、油絵で起きる有機溶剤による劣化(色変化など)が ないことになります。1508年から1512年にかけて、ミケランジェロがシスティナ礼拝堂に描いた フレスコによる天井画は、現在も画面の色彩は鮮やかに維持されているのです。
藤田嗣治は、フレスコ画用の絵具の調達に当たり、協働者の建築家モーリス・クロジェに『使 用する絵具は、石灰の作用に耐え、保護膜を形成しながら容易に固着するもので、光に晒さ れても変質しないものでなければなりません。ですから土を使いましょう。有機的な原料やアニ リンを用いた絵具は排除しなければなりません。』と条件をつけています(41)。さらに『あらゆる混 色の基本になる、最も美しい石灰乳(水酸化カルシウム(Ca(OH)2)の水懸濁液)は、2か月前 に消石灰(水酸化カルシウムの俗称)のペーストから製造し、中性の炭酸カルシウムを得るた めに太陽光に晒さなければなりません。次にそれを非常に細かく砕き、水を加え、使用する絵 具を作るのです。』(括弧内は筆者による)と続け(41)、藤田嗣治がフレスコ技法の特性を理解し、
作品の保存性向上のために徹底した姿勢で臨んでいたことがよく分かります。
■ 作品の耐久性への藤田嗣治の執念
前項で述べた、フレスコ画制作でのアプローチから分かるように、藤田嗣治は、自身の作品 を歴史に残したい、という願望がとても強い画家だったのではないでしょうか。
実は、エコール・ド・パリ時代に一世を風靡した「乳白色の下地」は、藤田嗣治の独創的な画 風の確立に欠かせない技法でしたが、その一方で、保存安定性に難がありました。そのことは、
藤田嗣治と交流の深かった、画家の宮本三郎(1905-1974)が『戦時中、藤田の画室で、いま パリの近代美術館にある傑作《わが個室》が、見るも無残に地塗りがバリバリに割れて、めくれ 上がっているのを見たことがある。数日後、それがあざやかに元に復していて、二度びっくりさ せられた。藤田は「うまく修復できたろう…」と軽く言っていたが、私には新しくもう一枚が描か れたとしか考えようが無かった。』(42)と言及していることからも窺い知ることができます。
戦争記録画制作手法について、藤田嗣治は『先づキャンヴァスに下塗りを、而も三回施して 居る。主に茶褐色で十分乾燥させて、其の期間も三ケ月は掛ける。何の為かと言えば、記録
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画の耐久性を考へて、永久に不変な強靭さを獲得したいからである。数年を出でずして退色 したり消えるような戦争画では、後世に残し得ないからである。十分に下塗りが出来た場合、別 に基盤割もしない。色彩に於いても、変色しない色を選んで居る。特に油に於いては、最も良 質の油を五六種は混用して居る。絵具が画布に密着して、後世に落剥しない様に、または何 度も何度も透明色を重ねて、色の美しさを失わない様にやって居る。』(43)と述べています。ここ でも藤田嗣治は、作品を恒久的に残したいという強い欲求を吐露していますが、そのためには まず対象とするジャンルで最高の傑作を制作する計画をたて、そのうえで、保存安定性に優れ た画法は何かを常に考えていたと推察されます。
死期の迫る生涯の最後の時期に、ルネサンス期に使われたフレスコの技法に関心を寄せ、
その技術を身に着け、そして壮大な宗教画を、新しく建設された礼拝堂の壁に残したいと考え たのも、前述したように、細心の注意を払えば、フレスコ画は何世紀にも渡って、制作時の新 鮮さを維持できることを知っていたからでしょう。
■ 天然フレスコ現象の洞窟画との若き日の出会い
藤田嗣治は、第一次パリ滞在(1913-1929年)中の1915年に、フランス南部のレゼジーという 小さな村に疎開し、同い年の画家川島理一郎(1886-1971)と生活を共にしていました。そこで 藤田嗣治は、先史時代の洞窟壁画と出会うのです。洞窟壁画は天然フレスコ現象、すなわち、
洞窟内の炭酸カルシウムが人工フレスコと同様の働きをすることにより、壁画の保存効果を高 めたと考えられるのです。
第一次世界大戦中、戦禍を逃れて滞在したレゼジーでの洞窟壁画との出会いが、半世紀 後の平和の聖母礼拝堂での藤田嗣治のフレスコ画の制作にシンクロナイズしたかのようです。
画家としてのスタートライン(1915年)に天然フレスコによる洞窟壁画があり、画家としてのエン ディング(1966年)に宗教的フレスコ画の制作が位置し、そして、その間(1917年(初の展覧会)
~1929年(日本への一時帰国))のエコール・ド・パリ時代に最も輝かしい活躍を繰り広げたの が藤田嗣治でした。
【6】 平和を希求した藤田嗣治
1966年10月1日、藤田嗣治の思い通りに、平和の聖母礼拝堂が完成しました。1966年10月 18日、礼拝堂の落成式が行われ、フランスの文筆家を代表し、国際ペンクラブ会長イヴ・ガン ドンが印象的なスピーチを行っています。それを以下に紹介しましょう。
『ヒロシマの原爆記念館から礼拝堂ノートル=ダム・ド・ラ・ぺ(平和の聖母)には、密かな 絆が紡がれているように私には思われる。友情という絆、あらゆる人種そしてあらゆる環境に ある人間同士の友愛という絆である。力の限り信じよう。平和の虹がこの礼拝堂の上で、人 間の地上と雷を落とす天との間に、暴力という不吉な幻影から国々を守る守護のアーチをか けて止まないことを。』(44)
前述した通り、「La Chapelle Notre-Dame-de-la-Pai(仏語)(ラ・シャペル・ノートル=ダム・
ド・ラ・ぺ)」は「平和の聖母礼拝堂」を意味しますが、藤田嗣治は「平和」という言葉に拘り、自 ら命名しました。この礼拝堂には、ヨハネの黙示録第16章のハルマゲドン(世界の終末におけ