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―演能の〈場〉におけるアイ(間)のはたらきをめぐって―

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Academic year: 2023

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能の「場」における「間」の働きについて。能では「間」はもっぱら狂言方によって演じられます。 「前場」 やがて「他者」との倫理関係が問題となる7)。

レヴィナスにおいては、「語り」という権威的な振る舞いはもちろん重要であるが、狂言方を演じるアイ(間)の「語り」は、この二重の感情に語りかけ、媒介するものとして位置づけられている。暴力で。

年刊『当流間 アイ 仕舞付』全 5 巻のうち巻 4 表紙見返し部分(早稲田大学演劇博物館 蔵)

「katori」という作品は、ある出来事を一度客観化し、ある程度啓蒙された目で検証し、詳細に説明することを期待している。さらに、彼はそれを純粋に第三者的な客観的な視点、つまり高いメタレベルから語っているわけではありません。彼は登場人物の一人として、いわば当事者の視点から言い換えて語る。そして、この二重の困難な立場を可能にするのは、折口の言うところの「模倣」の機能にほかならない。折口はまた、「模倣」について次のように述べている28)。そこに代替と補充の代替機能を見出し、それを自らの批判の用語として積極的に用いたのがイェール大学の主導的学派であった。ポール。私は難しいことが好きです。土田友則『ポール・ド・マン 言語の不可能性』。

「何か別のもの(アロス)を語る」(アゴレウエイン)という意味で、レンズを通して現れるアイ(マ)の「語り」は、まさに「美的価値と詩的価値」の分岐点である。劇の出来事に直接関与しない語り手が出てきて「プロローグ」をするか、観客のところに行きます。登場人物に観客に向かって自分の名前を言わせたり、劇中で観客に直接語りかけたり、劇の流れを中断して歌を歌ったり、突然モノローグを始めたり、幻想を打ち破る方法は様々です。上で述べたように、一見関係のない柳田やデ・マン、さらにはブレヒトの文章が、無理やり「愛(ま)」の「語り」と結びつけられたのには理由がある。 「あい(ま)」の「語り」を通して明らかにされる能のテキストと狂言の対照的な構造は、日本語の「語り」の広範な機能を反映しています。これは、一方の極には「硬さ」があり、もう一方の極には「形状」があるためであり、これが振幅変動の大きさと密接に関係していると考えられます。

日本語はフランス語と違ってまだ文法体系が確立しておらず、確かに日本語の文章には「主語」がありません。言葉の意味よりも、言葉のやりとりを通じて話し手と聞き手が共有する「空間」に焦点が当てられている40)。 このような日本語の特徴を踏まえつつ、能と狂言では少し異なる扱いがなされている。 。舞台は虚構と嘘の世界。能の歌詞は「かたらい」に向かっていくと、嘘の世界が嘘であることを知りながらも、山頂(客席)が嘘の世界と同化・一体化し、シテ(アトシテ)はウシワカに兵法を教え、その物語を面白くユーモラスに語ります。マスクはそれぞれ「宇相吹」と「剣徳」。これが「おかし」の誇りでしょうか?ただし、ほとんどの能本では「語り合い」でのセリフのやりとりが省略されています。

脇にいる旅の僧侶に話しかけましょう。しかし、アーティストたちはステージの真ん中に座り、まったくパフォーマンスをしません。ナクソが出てくると、旅の僧(ワキ)が「若し、熊坂の長羽乗で遊ぶか?」と尋ね、本名を見せる。 「『おかし』の要素が見当たりません。あるかどうか見てください」とお願いすると、相手が「激しく切った」と嘘をつくやりとりが見られる。ここでは「カシ」を参照。

しかし途中から突然「直接話法」に切り替わる。これにより、彼女がサットメイドの霊に取り憑かれていることが示されます。 「武悪」の面(『折口信夫全集』第17巻所収)には、「面の形は新美に似ており、口は閉じているがわずかに開いている。」とあります。 (略)「癋」という字は「琂」と同じで、「琂」は「亦啞」の一部です。日本語でも昔は「おふしす」という言葉が慣用句としてありました。 「今」というときにこの字を使いました。

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