序章「休学明けの大学五年目の学生」
これが現在の私の肩書きである。言葉にしてみると、学生の中でも残念なグループに属している感は否めない。休学中の過ごし方が自己の向上を理由としたものであれば、この汚名は一転して勇名になるかもしれない。しかし、私の休学中の生活はそれらとは無縁であった。このことを考えると、大学三年生から「モラトリアム」を主な対象として学んできた私(1)は、つくづく「自分もモラトリアム人間である」と痛感せずにはいられない。 に「フリーター」や「ニート」という言葉が新たに の特徴を指す言葉として使われた。現代ではそれ 心理を指す言葉である。安定成長期の中、若者(2) 大人になるのをあえて踏みとどまろうとする青年 「モラトリアム人間」とは、社会的責任を負った
井守が映画として作り、2008年に公開されたアニメーション映画である。思春期の姿のまま大人にならず、外的要因がない限り永遠に生き続ける「キルドレ」と呼ばれる子供達の物語である。彼らは戦争法人と呼ばれる会社に属し、戦闘機パイロットとして「ショーとしての戦争」を行っている。この世界における「戦争」とは「ショー」であり、人々が平和を噛みしめる為のシステムとなっている。永遠に生きられるが為に「生」を感じる事ができない彼らは、空で戦い「死」と隣合わせの時だけ「生」を感じる事ができる。故に、彼らは退屈な地上ではなく、空で戦うことを選ぶ。しかし、彼らは死んだ後も、何らかの形で新たな肉体が与えられ、名前や記憶は改ざんされ蘇り、また戦いに身を投じていくのであった。
この作品を題材にする理由は三つある。
第一に、映画には「その時代」に生きる人々に対するメッセージが込められていることが多いからである(3)。映像に現代の諸問題が凝縮されているのである。第二に、「キルドレ」たちが現代の「作られたモラトリアム人間」と同じ存在であると考えたからである。第三に、監督である押井守がスカイ・クロラを「モラトリアム」の物語として捉えている一人であり、演出覚書にて「僕は若い人に伝えたいことがある」(4)と述べているからである。 加わった。 それは自分のことだと痛感しながらも、「モラトリアム人間」と呼ばれることに対してどこか違和感があった。また、「ニート」や「フリーター」が世の中で問題視され、様々なメディアで論じられているのを見聞きしながら、世間が言うほど「若者は忌むべき存在なのであろうか」という疑問が浮かんできた。私も含めて同年代の人々は就職しようと必死になっているし、自立したいという意思をしっかりと持っている。しかし、グローバリゼーションがもたらすグローバル市場の拡大と新自由主義の台頭、さらには、世界金融危機などによる不況によって安定な職場を確保することはますます困難になっている。視点を少し変えてみると、若者の「フリーター」や「ニート」の増加には外的要因が関わっていることがわかる。(外的要
森博嗣原作の物語に「モラトリアム」の主題を読み取った人物による、若者へのメッセージが込められた映画を題材とすることで、「現代のモラトリアム」とはどのようなものなのかを客観的に観る事ができると考えた。
以下、本論文では第一章でモラトリアムの一般的な見解を確認し、第二章では若者の社会的状況を考察する。そして、第三章では映画『スカイ・クロラ』を題材として、「作られたモラトリアム人間」と「モラトリアム人間」を比較し、その要因の変化を考察していく。
第一章 モラトリアムの一般的見解
心理学的な意味での「モラトリアム」という言葉を最初に社会に広めたのはアメリカの発達心理学者であり、精神分析家のE=H=エリクソンであった。もとは経済用語として、経済的な非常事態に際しての債務支払い猶予および猶予期間を意味する言葉であった。エリクソンはこの言葉を転用して「大人になるのを猶予されている状態」を規定する言葉、また青年のアイデンティティ形成の特徴心理を把握する言葉として用いた(5)。
人は後期青年期のアイデンティティが形成される途中、社会から与えられるモラトリアム期間を利用し、様々な人間の生き方や思想、価値観に同 因によってこの状態に陥った若者を以下「作られたモラトリアム人間」という新たな概念で捉えたい。)
現代の日本で主流となっている若者論と、若者の置かれている社会的現実とが食い違っている。そのような食い違いの中に置かれた現代の若者にとってモラトリアムとは何なのか。また、本来論じられるべき問題とは何なのか。この論文では、映画『スカイ・クロラ』を題材として、現代に特徴的な「作られたモラトリアム人間」と過去の「モラトリアム人間」とを比較し、その要因の変化を考察する。そうする中で、これらの疑問について考えていきたいと思う。
なぜスカイ・クロラを題材とするか
『スカイ・クロラ』とは、森博嗣の原作を基に押 一化し、また様々な関わりの中で色々な役割を試験的に身につける。これらを通して自分に合うもの、合わないものを取捨選択し、最終的な進路、職業の選択をはじめ、その全てに自分固有の生き方としてのアイデンティティを獲得していく(6)。
モラトリアムとは、本来「大人になるために必要で、社会的に認められた期間」を指している。
しかし、なぜか日本ではマイナスのイメージとして捉えられてしまっている。「モラトリアム」という概念が日本に輸入される際、「ひきこもり」「フリーター」「孤立傾向」などの病理的側面が強調されてしまったことがその原因として挙げられる(7)。 このモラトリアムという言葉を日本に最初に導入したのは小此木啓吾である。小此木は1978年に発表した『モラトリアム人間の時代』にて、「モラトリアム人間」という用語を「社会的責任を負った大人になるのをあえて踏みとどまろうとする青年」という意味合いで用いた。しかし、エリクソンはそういった意味を「モラトリアム」という概念に込めておらず「アイデンティティ拡散症状群」という別の言葉で問題にしている(8)。これに対し、小此木はすでにこの症状は日本の社会的性格になっていると述べている(9)。
つまり、日本における「モラトリアム」という概念は「アイデンティティの拡散」の状態にいつ 外国語学部国際文化交流学科4年
斉藤 慧 作 ら れ た モ ラ ト リ ア ム
― ― 「 ス カ イ ・ ク ロ ラ 」に 見 る 現 代 若 者 事 情 ― ―
までもとどまり続けるという意味で使われているのである。この『モラトリアム人間の時代』により、「モラトリアム人間」という用語は「豊かな社会に育ち、組織に属さない」という、その時代の若者の気質を表しているということで一世を風靡し一般にも使われるようになった(
10)。 小此木によれば、この「モラトリアム人間」の状態に陥ると次のような症状がおこると記載している(
⑦既存社会へのみこまれることへの不安が強い。 ⑥いかなる組織にも帰属することを恐れる。 ⑤人と人の親密な関わりを避ける。 無気力化がおこる。 ④時間的な見通しを失い、生活全体の緩慢化、 ③全てが一時的なものとしてしか体験できない。 全能で完全な自分を夢見る。 ②過剰な自意識にふけり、 アイデンティティの選択を回避、延期する。 ①「自分が…である」という社会的 11)。 これらの症状をみてみると、大人たちが若者を糾弾するのもわかる。では何故、その時代の若者たちは小此木のいう「モラトリアム人間」で居続けようとしたのであろうか。そこには社会的状況が大きく関係している。
バブルの崩壊を契機にその後
417万人にまで増加した( 人であった「フリーター」は、2001年には 上回ることにより、1990年には183万 職氷河期」が続いている。求人数よりも求職数が 20年以上の間「就 に若者たちの首を絞めることとなったのである。 な採用ルートであった「新卒一括採用制度」は逆 しまった。今まで若者が正社員になるための主要 く、彼らは「真っ当な道」への足がかりを失って それでも「新卒一括採用制度」を廃止することな 14)。しかし、社会は
また、企業の経営環境の変化も若者たちを苦しめている。グローバリゼーションによってグローバル経済競争は激化した。そのことにより、人件費削減の必要性と、サービス経済化や生産サイクルの短期化からくる労働力の柔軟化の必要性が重視されるようになった。これらはいずれも、安価で雇用を柔軟に調整できるアルバイト・パート・派遣などの非正規労働者に対する企業の依存を深める結果を招いた(
たちの足がかりを奪っているのである。 繋がり、主要な採用ルートから外れてしまった者 だ何ももっていない若者の昇給抑制や採用抑制に とした場合、中高年の賃下げ・降格ではなく、ま が主流である日本において、人件費を抑制しよう 15)。いまだに、「年功序列制度」
グローバリゼーションはさらに「新自由主義」の 高度経済成長期や安定成長期の中で社会の変化はますます速くなり、「モラトリアム」段階の意義は旧世代からの「古いもの」の継承から、旧世代が身につけていない「新しいもの」の発見と吸収へと、その重点を移していった。また、豊かな社会の中で、まだ現実的に何ものも労働・生産しないで、受け取り、消費することに専念してよい「モラトリアム人間」は、経済的消費の面から重要なマーケットとなっていったのである(
12)。 このことにより、本来であれば「モラトリアム人間」とは、未完成な人間としての立場であったものが、社会的状況の変化の中で、社会的地位を獲得することとなり、一つの人間のモデル形態として認知されるようになったのである。このことは、モラトリアム期間の居心地の良さに繋がり、若者たちは「モラトリアム人間」で居続けようとしたのである。 では、金融危機などの影響を受け、豊かな社会とは一慨には言えない平成大不況の中で、かつての「モラトリアム人間」と同じように、「甘え」や「努力不足」だと糾弾されている若者たちの現実はどのようになっているのであろうか。
第二章 現代の若者の社会的状況
『論座』(2007年・
1月号)にて赤木智弘に
台頭とも深い関係がある。「新自由主義」は日本においても社会保障・福祉政策とその基盤である社会的連帯を急速に解体し、雇用保障・賃金規制の緩和、民営化、減税、社会的中間組織の解体などを促進し、企業の市場における行動をよりフレキシブルにすることを目指した(
を招いた( らず自己責任として排除されてもよいという風潮 バル市場で貢献できない者は国籍や文化に関わ 16)。また、グロー 拡大といった問題へと繋がっていった( 加、セーフティーネットの弱体化、社会的格差の の生きる権利は脅かされ、非正規雇用労働者の増 という「不安定性」の増大を招いた。こうして人々 がいつでも好きな時に労働者を雇用し解雇できる 17)。それは労働者側からすれば、企業
感を与えている。 問題は若者だけでなく、いまや日本人全体に危機 18)。この
このように、現代の若者の社会的状況は経済の不況と同時にグローバル経済競争や新自由主義の台頭によっていっそう過酷な状況に追い込まれているのである。そして、これらの外的要因により自ら望まずして「フリーター」になった「作られたモラトリアム人間」を大量に発生させているのである。にもかかわらず、世の大人たちはいつまでも「甘い」とか「努力不足」と糾弾する。それには「モラトリアム人間」と「作られたモラトリア よる「丸山眞男をひっぱたきたい――
容は次のようになっている。 ター。希望は戦争」という論文が掲載された。内 31歳フリー 働者として放り出されてから、もう きられる人間などいない。〈中略〉我々が低賃金労 可能性は低い。そんな状況の中で希望を持って生 られるが、もがいたからといって事態が好転する なければならないというプレッシャーばかり与え 〈中略〉何をしていいか分からないのに、何かをし 卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。 うに言われる現代社会では、まともな就職先は新 員になることが「真っ当な人の道」であるかのよ どこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社 か」と、世間は言うが、その足がかりはいったい なわない。〈中略〉「就職して働けばいいではない 人暮らしをしたい。しかし、今の経済状況ではか 「できるなら東京の安いアパートでも借りて一
けばこのような不平等が一生続くのだ」( る気がないだのと、罵倒を続けている。平和が続 出さないどころか、GDPを押し下げるだの、や た。それなのに社会は我々に何も救いの手を差し 10年以上たっ 13)。 この主張が若者の総意とは思わない。しかしながら、「作られたモラトリアム」を生きさせられている者たちは少なからず同じようなことを考えているのではないだろうか。
ム人間」とを混同していることに原因があると考えられる。
第三章
『スカイ・クロラ』
にみる作られたモラトリアム人間
本章では、映画『スカイ・クロラ』の主人公たちである思春期から成長しない子供たち「キルドレ」を「作られたモラトリアム人間」として捉え、彼らの映画内での行動・思考パターンで症状が顕著に表れている場面と「モラトリアム人間」の思考・行動パターンとを比較し、症状の一致とその要因の変化を考察していく。
「自分が…である」という社会的アイデンティティ
の選択を回避、延期する。
「キルドレ」=「作られたモラトリアム人間」の象徴
草薙という指令官と函南というパイロットが喫茶店で次のような会話をしている(19)。草薙「私たちどこの誰と戦っていると思う?」函南「さあ、考えたこともない。」草薙「殺し合いをしているのに?」函南「仕事だよ。」
また、基地を見学者に案内している場面でも同じような会話がなされる(
20)。
作られたモラトリアム ―「スカイ・クロラ」に見る現代若者事情―
● 論文中年女性「どんな感じ?」函南「何がですか?」中年女性「空を飛んでいる時のことです。」函南「どんな感じと言われても・・・」中年女性「たとえば相手を撃ち落とした時とか」函南「勝ったと思います」
この2つの場面からは、「自分はパイロットである」「自分は殺し合いをしている」という社会的な役割をきちんと認識していない印象を受ける。これは、「社会的アイデンティティ」が確立していないが為にこのような言動として表れていると考えられる。しかし、これは必然である。「キルドレ」は思春期の姿から成長せず、死んでもなお名前や記憶は改ざんされて蘇らされ、また戦闘に身を投じていく。彼らは自らの社会的アイデンティティを獲得する場を選ぶ権利を奪われ、それを獲得する前に死んでしまう。つまり、彼らは望まずして「モラトリアム」を生きさせられている「作られたモラトリアム人間」と言えるのではないだろうか。
豊かな社会においての「モラトリアム人間」が、モラトリアム期間の居心地の良さに居座り、皆が入るのでなんとなく入社することができた経済状況に由来し、社会的アイデンティティの決定を回避・延期することが許されたのに対して、現代の
おこっていると考えられる。つまり、症状は一見似かよっていても、「モラトリアム人間」と「作られたモラトリアム人間」の要因は大きく異なっている。
既存社会へのみこまれることへの不安が強い。
大人と若者の対立構造 大人たちが若者を「忌むべき存在」として糾弾するように、若者も「既存社会」に対して不信感をもち拒否反応を示している。それは、この映画の中でも強調されて表現されている。例えば、瑞季という少女に「あなた達って大人になれないんでしょ?どうして大人になれないの?」という問いに対して、函南は「なれないんじゃなくて、ならないんだ。」と答えている。ここで使われている「大人」とは「既存社会」を表していると思われる。それは、原作である小説『スカイ・クロラ』の次の二つの文章から読み取ることができる。
と考えたのは、その意味だ。」( それは大人という意味だ。僕が自分は人間でない 間なんだろうか。〈中略〉彼女が人間といったのは、 わからなかった。魅力的に感じなかった。僕は人 「人間として、という意味が、たしかに僕には
23)
だけで社会ができているならば、どうして、こん 結合されているものだという。〈中略〉もしも愛情 「人間の社会とは、「優しさ」や「思いやり」で は大きく異なっているのである。 い状況に追い込まれている。つまり、両者の要因 する場や、選択する権利をそもそも得られていな 様、社会の中で承認されず、自らの価値を証明 「作られたモラトリアム人間」は、「キルドレ」と同
時間的な見通しを失い、生活全体の緩慢化・
無気力化がおこる。
諦めのスパイラル 生活全体の「緩慢で無気力な雰囲気」は映像的な手法によって地上の場面全てを覆っている。生と死が隣り合わせになり、「生」を強く実感できる空は3Dでリアルに表現され、「生」の実感がない地上では2Dで淡々と緩慢で無気力な雰囲気を表現している(
21)。 また、三ツ矢という女性パイロットと函南の二人が部屋の中で次のような会話をする。三ツ矢「どうやって自分の気持ちを整理しているのか。同じことを繰り返す現在と過去の記憶をどんなふうに繋いでいるのか。想像だけどたぶんとても忘れっぽくなって、夢を見ているようなぼんやりした感情が精神を守っているはず。昨日のことも先月のことも去年のことも全然区別がない。同じように思える。違うかしら?」
なに争いが起こるのだろう?〈中略〉みんな自分が満足したい、自分のエゴを通したいのだ。ただし、そのままでは醜いから社会では、生きていけない、けれど、ちょっとそれを隠すだけで、たちまちその醜さが善となる。〈中略〉そういうのが、大人の社会の常識なのだ。」(
24) この二つの文章は「人間」とは「大人」であり、「大人の社会の常識」とは「人間の社会の常識」=「既存社会の常識」ということを示している。そして、この中で描かれている大人とは、社会のルールを作る者達で、自分達の都合のいいように法律を作り、人脈を作り既得権益をむさぼる者達なのである。
このように理解していくと、第一の引用文の「僕は人間なんだろうか」という言葉は、「作られたモラトリアム人間」が、社会的状況によってそこに追い込まれているにも関わらず罵倒され、自分は「落ちこぼれなのか」という心境に陥り、自我の崩壊に至る心境を知ることができる。また、第二の引用文における「どうして、こんなに争いが起こるのだろう?〈中略〉みんな自分のエゴを通したいのだ。」という言葉からは大人達は社会的な力を利用し、既得権益にしがみつき、争いの外側である「仮初めの平和」の立場から「戦争」を見ているという社会的構図によって、「キルドレ」のみが犠 函南「僕のことだったらだいたいその通りだよ。小さい時からずっとこんなふうだった。ぼんやりして起きているのか眠ってるのか分からないってよく言われた。」(
22) この会話は「キルドレ」が時間的な見通しを失い、日々を無気力に過ごしていることを表している。
現代の若者も同じように「無気力である」と言われることが多い。豊かな社会において、飢えというものと無縁で「死」を実感できないが故に日々を緩慢に無気力に生きてしまうというのが「モラトリアム人間」の要因であった。しかし、「作られたモラトリアム人間」に置き換えてみると、先の論文で赤木智弘も述べていたように、「真っ当な道」とされている「新卒採用主義」の中で、一旦道を踏み外してしまった彼らは、元に戻るために何をしていいか分からないのに、何かをしなければならないというプレッシャーばかり与えられ、もがいたからといって事態が好転する可能性は低い状況に追い込まれている。その中で希望を持って生きられる人間などいないのである。つまり、「キルドレ」が、もがいたところで永遠に戦い続ける宿命を変えられないことに絶望し、諦めて生きているのと同様に、「作られたモラトリアム人間」も真っ当な道への足がかりを失い、日々を絶望と共に生きているが故に、生活の緩慢化・無気力化が
牲を強いられているということを暗に訴えかけていると捉えることができる。これは、「作られたモラトリアム人間」が感じ、主張していることと一致するのである。
く異なっているといえる。 に拒否反応を示している。その点で、要因は大き が犠牲を強いられているという立場から既存社会 人間」は大人達が既得権益を守るために、自分達 を示した。それに対し、「作られたモラトリアム を望み、既存社会にのみこまれることに拒否反応 え、社会の中で絶えずお客様的な立場でいること すための「心の豊かさ」を求める単なる手段と捉 を「なりわい」としてではなく、自己実現を果た 「モラトリアム人間」は、豊かな社会の中で職業 このように、映画『スカイ・クロラ』を通して、「モラトリアム人間」と「作られたモラトリアム人間」とを比較することで、前者が豊かな社会で主に内面的要因から生じるのに対して、後者は主に外的要因によって生じているという大きな相違があることがわかった。
安全な立場から傍観する「大人」と、グローバル市場の拡大や新自由主義の台頭の中で「消耗品」として扱われている「作られたモラトリアム人間」との対立や、彼らが感じている絶望感や閉塞感などの空気感を描き出すことで、この映画は現代社
会の「映し鏡」的な役割を果たしているのである。結論 以上、三つの章を通して、現代の若者の置かれた立場は「モラトリアム人間」から「作られたモラトリアム人間」へと変わり、症状の一致は見られるものの、その要因は大きく異なっているということが分かってきた。つまり、現代の若者の「モラトリアム」とは作られたものがほとんどであり、本来論じられるべきは「甘え」や「努力不足」などの個人の内面を対象としたものではなく、非正規雇用労働者に依存している経営環境や、新自由主義に向かおうとしている社会が本当に正しいのか、また、社会の仕組みを変えなくてよいのかという外的問題へとその対象をとらえなおすべきなのだ。
この問題をいかに捉え、どのように乗り越え、社会構造をどのようなものにするかによって、将来の日本の姿は「貧しい社会」にも「豊かな社会」にもなりえる。まさに、転換期である現代で、大人も若者も現代の社会状況を正確に把握し、手を取り合って積極的に解決への道を模索し、新たな社会構造を作っていくことが必要なのではないだろうか。
最後に、押井守が映画を通して現代の若者に送った「希望のメッセージ」を紹介して終わりに である。三年生の頃より、ゼミで「モラトリアム」について学び始める。
小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中央公論新社、1981年、
32頁
押井守編著『アニメはいかに夢を見るか』岩波書店、2008年、
8 0頁
同書、6頁
小此木啓吾、前掲書、
17頁
同書、
19頁
渡辺真『モラトリアム青年論』〈現代のエスプリ〉460、至文社、2005年、6頁
小此木啓吾、前掲書、
33頁
同書、
3 4頁
三省堂辞書サイト「モラトリアム」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/ (1)
(2)
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(
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19)
(
20)
(
21) (
22)
(
23)
(
24) したいと思う。
原作である小説と映画ではラストシーンは異なっている。小説では、函南が草薙を殺し、永遠に生と死を繰り返す運命に閉じ込められてしまう。しかし、映画では、函南は草薙を殺さずに、最後に一言「君は生きろ。何かを変えられるまで」と言い残し、戦場に赴く。戦場で散った函南は、姿や記憶を変えられ基地に戻ってくる。そんな彼に対して、何かを変える事を託された草薙は、僅かに微笑みながら「草薙水素です。あなたを待っていたわ。」と告げる。この場面には、過酷な運命の中でも何かを変えるという決意が見て取れる。ラストシーンをそのように変えたところに、押井守の若者へ向けた「希望のメッセージ」が込められているように感じるのである。
汚名を馳せている私であるが、今を生きる若者の一員として将来自分の生きる社会を「豊かな社会」と呼べるよう、従来の「真っ当な道」とは違う「新たな道」を模索し始めようと思う所存
topic/10minnw/028moratorium.html小此木啓吾、前掲書、
33頁
同書、
26頁 文春新書編集部編『論争 若者論』文藝春秋、2008年、
10頁〜
2 4頁
本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社、2006年、
6 9頁
同書、
74頁
塩原良和『共に生きる』〈現代社会学ライブラリー〉3、弘文堂、2012年、9頁
同書、
9 6頁
同書、9頁
映画『スカイ・クロラ』、
1時間 27分
同映画、
38分
押井守編著、前掲書、126頁 映画『スカイ・クロラ』、
1時間 40分
森博嗣『クレイドゥ・ザ・スカイ』中央公論新社、2008年、226頁
森博嗣『ナ・バ・テア』中央公論新社、 2005年、176頁から177頁参考文献小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』中央公論新社、1981年
本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』光文社、2006年
文春新書編集部編『論争 若者論』文藝春秋、2008年
押井守編著『アニメはいかに夢を見るか』岩波書店、2008年
岩間夏樹『若者の働く意識はなぜ変わったのか』ミネルヴァ書房、2010年
塩原良和『共に生きる』〈現代社会学ライブラリー〉3、弘文堂、2012年
三省堂辞書サイト「モラトリアム」
http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/topic/10minnw/028moratorium.html ●●●●●●●
作られたモラトリアム ―「スカイ・クロラ」に見る現代若者事情―
● 論文参考資料
解説スカイ・クロラTheSkyCrawlers
終わりなきゲームな戦闘の日々を過ごす、永遠の命を持った「キルドレ」たちの日常を描くアニメ大作。森博嗣の原作小説を、「世界の中心で、愛をさけぶ」「クローズド・ノート」の伊藤ちひろが脚本化して、「GHOSTINTHESHELL/攻殻機動隊」「イノセンス」の押井守が監督。ボイスキャストに、「バベル」の菊地凛子、「それでもボクはやってない」の加瀬亮、「嫌われ松子の一生」の谷原章介など。3DCGを駆使した大空での戦闘シーンと、静謐な日常ドラマの対比が見事な効果を上げている。日本テレビ開局
55周年記念作品。 スカイ・クロラTheSkyCrawlers あらすじ
前線基地・兎離洲に配属されてきた函南優一(加瀬亮)。戦争請負会社ロストック社に所属する彼は、戦闘機のパイロットである。優一の前任者は、仁郎という者だった。なぜか優一は、その前任者が気になってしょうがない。兎離洲の基地には、女性司令官の草薙水素(菊地凛子)がいた。優一にとって同僚となった土岐野(谷原章介)は、水素にまつわる数々の噂を披露する。かつては彼女も優秀なエース・パイロットであったこと。妹の瑞季(山口愛)は、実は娘であること。その父親が、前任者の仁郎であること。そんな仁郎を、水素が銃で殺したらしいということ……。ロストック社に所属する優一たちは、永遠に歳をとらない「キルドレ」だった。安定した社会の中で、市民に平和を実感させるための戦争ショーを演出するロストック社は、ラウテルン社との空撃戦を繰り返し、優一もそのコマのひとつに過ぎなかった。昼は戦闘機に乗り、夜はダイナーで食事を楽しんで、つかの間の快楽を娼館でひたる優一と土岐野。変わらない日々を過ごす兎離洲基地のメンバーに、新たな隊員が加わった。そのひとりである三ツ矢碧(栗山千明)は、優一に好意を抱く。しかし、優一はミステリアスな水素に惹かれ、水素もまた優一 の存在を無視できなかった。ロストック社とラウテルン社の戦争ショーは、さらに激しい展開が要求され、戦闘の途中で命を落とすものも少なくなかった。永遠の命を持つ「キルドレ」も、戦闘中の事故では姿を消すことになるのだ。やがて優一は自分が仁郎であり、水素は妻であったことに気がつく。そのとき彼は戦闘機に乗り、最強の敵であるティーチャーへと戦いを挑む。激戦の末、優一は破れた。そんな彼の帰還を仲間たちは待つ。ただ、待つことしかできなかった。そしてある日、兎離洲基地に戦闘機が舞い降りる。新たな戦闘員は、生まれ変わった優一だった。「キルドレ」、それは終わりなき命。
「goo映画」
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD12529/story.html
外国語学部英語英文学科3年
田中 稜平
○はじめに 映画「千と千尋の神隠し」は、宮崎駿監督による、スタジオジブリの長編アニメーションである。
ごく普通の女の子である主人公の千尋は、両親と共に近代日本の古びた建物が立ち並ぶ不思議な街へと迷い込む。千尋は不安に思い、帰ろうとせがむが、両親はそれを聞き入れず、神々のための食べ物を食べてしまい、豚にされてしまう。
奇妙な異世界に一人残された千尋は、手助けをくれる謎の少年、ハクと出会い、両親を救う決心をし、八百万の神々が集う湯屋で「千」という新しい名のもと、働き始める。そして湯屋の下働きとして働きながら、そこで起きる様々な出来事を経験し、千尋は自分でも今まで気づかなかった「生きる力」を解き放っていく。
この作品は、日本国内の映画興行成績において歴代一位の記録を打ち立て、アカデミー賞をはじめとする国内外の様々な賞を受賞し、日本のアニメ映画の代表的な作品となった。 しかし、含意が溢れる宮崎駿監督の映画の中でも、この作品は映画の舞台となる神々の集まる温泉街という世界観、カオナシという正体不明の登場人物など、一筋縄ではとらえられない難解な側面を持っている。 では、そのような難解さを含みながらも、この作品が大人のみならず、子供までも、様々なレベルの人々に受け入れられているのはなぜだろうか。 この論文では、その答えの一つとして、映画「千と千尋の神隠し」のにおける「物語の構造」に焦点を当てる。この作品の内容は極めて異質だが、ストーリーを詳しく分析すると、とても興味深いことに、古代から伝承されてきた英雄神話の構造を発展させたものであるということが浮かび上がってくる。「物語の構造」とは何かという根本的な説明から、それが作品全体にどのように影響を与えるのかという点について、これから詳しく述べていく。 ○物語の構造とは何か
Ⅰ.物語の文法とその習得
物語の構造とは、よりわかりやすく説明すると、物語の文法と置き換えることができる。通常、小説なり映画のシナリオなり、物語と呼べるものは、前衛的な例外を除き、始めから終りまでが一定の論理性をもって一貫していなければならない。そして物語の文法はその論理性のことを指す。
もちろん、物語の文法というあまり日常では聞きなれない概念を知らずとも、優れた物語を書くことは可能である。しかしそれは、物語の文法を自然に習得したということに他ならない。それは小さな子供が親や周囲の人間の会話のなかで、自然と言語を母国語として習得することと同じである。子供たちは周りの会話を意識して学習して身につけたわけではないが、文法にあった言葉づかいを覚える。
では子供たちはどのようにして、物語の文法を習得していくのだろうか。