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久生十蘭﹁藤九郎の島﹂論

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︵三五︶

久生十蘭﹁藤九郎の島﹂論

        勝   倉   壽   一

一  はじめに 久生十蘭の短篇小説﹁藤九郎の島﹂は︑昭和二十七年︵一九五二︶の﹃オール読物﹄二月号に発表された︒﹁藤九郎﹂とはアホウ鳥の異名であり︑その生息地として知られる伊豆諸島の最南端の孤島﹁鳥島﹂を舞台とした歴史小説である︒同年一月の﹃小説公園﹄に発表された﹁重吉漂流紀聞﹂︑六月の﹃別冊文藝春秋﹄に掲載された﹁海難記﹂に次ぐ海難事件に取材した作品であるが︑この作品を漂流記ものの歴史小説として見るとき︑史実・史料との関わりで多くの疑問点も存在する︒すでに指摘されているように︑この作品は江戸時代の享保・元文年間︵一七一九│一七三九︶と︑天明・寛政年間︵一七八五│一七九七︶に鳥島に漂着して帰還を果たした二組の漂流の史実を基に︑一組の鳥島漂着・帰還のストーリーを構成したものである︒この特徴についてはすでに中野美代子氏の指摘があり ︶1

︵︑須田千里氏の詳細な考察によりこの作品が吉岡永美著﹃漂流船物語の研究﹄︵一九四四年︶を主な典拠としたものであること︑およびその細部にわたる受容の方法が明らかにされている ︶2

︵︒本稿ではこれらの所説を踏まえながら︑史料に基づく実在事件との関わりにおいて︑作品の構成︑火山島の強調︑自殺者の扱い︑切支丹問題の削除などの諸点に注目するとともに︑漂流記ものの歴史小説として少しく作品の評価の問題にも触れておきたいと思う︒ 二  構成

﹁藤九郎の島﹂は歴史小説として編年体の記述を取っている︒その年次に従って作品の荒筋を挙げておくと︑次のようになる︒①享保四年︵一七一九︶秋︑遠州新居の筒山船︒船頭左太夫以下十二人乗り組みで宮古港を出航し︑時化のために九十九里浜沖で漂流︒②享保五年正月二十六日︑鳥島に漂着︒神籤により上陸︒③享保六年二月︑山焼け・噴火︒三日三晩︑首まで海に浸かって熱気を防ぐ︒年末︑水夫の今助︑小三郎︑亀吉死亡︒④享保七年冬︑破船の百石船漂着︒七十俵の米俵を運び上げる︒芽を吹いている籾俵一俵︑楫取甚八の反対あるも︑左太夫の提案で荒れ地に籾を蒔く︒毎年二︑三斗ほど収穫︒⑤享保九年︑五年目︒山焼け︒⑥享保十二年︑八年目︒山焼け︒⑦享保十四年︑十年目︒五人死亡︵船頭左太夫︑楫取甚八︑水夫仁一郎︑平三郎の四人残る︶︒⑧享保十五年正月︑沖に船影を発見するも到らず︒平三郎自殺を口走るも左太夫に諫止される︒左太夫︑平三郎に生還の希望を託して死亡︵甚八︑仁一郎︑平三郎の三人残る︶︒⑨享保十六年四月︑山焼け︒⑩享保十七年︵一七三二︶正月︑土佐船漂着︒船頭長平︑水夫源右

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︵三六︶ 衛門︑長六︑甚兵衛の四人乗り組み︒三日後︑源右衛門死亡︒八月︑長六死亡︒九月︑甚兵衛死亡︵船頭長平のみ残る︶︒⑪享保十八年︵一七三三︶︑十四年目︒正月︑大阪船漂着︒船頭儀右衛門以下十二人乗り組み︒⑫享保十九年︵一七三四︶正月五日︑日向船漂着︒船頭栄右衛門︑水夫八五郎︑総右衛門︑善助︑重次郎の五人乗り組み︒秋︑大阪船の五兵衛︑忠八死亡︒⑬享保二十年春︑大阪船の忠助︑日向船の善助死亡︒甚八の提案で大阪船の久七︑日向船の八五郎を中心に船造りにかかる︒⑭元文元年二月︑船を造り上げる︒⑮元文四年︵一七三九︶六月十日︑遠州船組三人︑土佐船組一人︑大阪船組八︵九?︶人︑日向船組四人︑総計十六人で鳥島を脱出︒七月上旬︑青ヶ島に到着して八丈島に送られ︑九月上旬︑江戸に到着︒このうち︑①から⑨が遠州新居の筒山船の二十一年間にわたる鳥島漂着・在島部分に相当し︑⑩とのあいだに元文四年︵一七三九︶の江戸堀江町の宮本善八船の鳥島漂着と︑四月の遠州船組を伴っての鳥島脱出︑江戸帰還の史実が存在する︒江戸堀江町宮本善八船は沖船頭富蔵以下十七人乗りで︑元文四年三月二十九日に鳥島に漂着︒遠州船組の三人を加えた総計二十人が︑四月二十七日にはしけで鳥島を脱出して八丈島に渡り︑幕府の御用船で五月二十二日に江戸に着いた︒六月三日には遠州船組の三名と宮本善八船組の三名が将軍吉宗の上覧を受けている ︶3

︵︒宮本善八船組の史実は鳥島在島が一ヶ月弱に過ぎないので︑藤九郎の島︵鳥島︶での長年にわたる苦闘を綴るという作品の構想に外れたために採用されなかったかと思われる︒作品における鳥島在島年数を見ると︑遠州船組  享保五年︵一七二〇︶正月二十六日から元文四年︵一七三       九︶六月十日の二十年四ヶ月余土佐船組

ことは︑日向船の漂流を語る史料﹁鳥島物語﹂に見られる 4︶ の水死を覚悟した乗組員らが死骸を繋ぐために袖を紐で通して結んだ その他の漂流記録類にも詳しい記載は見られない︒そのうち︑作品① 流体験については︑主たる典拠とされた﹃漂流船物語の研究﹄をはじめ︑ 遠州船の九十九里浜沖合における遭難から鳥島に漂着するまでの漂 着により生還への道が開かれる構図となっていることがわかる︒ 中心に一定のバランスが保たれ︑土佐船︑大阪船︑日向船の相次ぐ漂 となっており︑十二年にわたる遠州船組の単独在島時のストーリーを 日の六年五ヶ月余   日向船組享保十九年︵一七三四︶正月五日から元文四年六月十 約七年五ヶ月   大阪船組享保十八年︵一七三三︶正月から元文四年六月十日の 約八年五ヶ月   享保十七年︵一七三二︶正月から元文四年六月十日の

︵︒久生十蘭は﹃漂流船物語の研究﹄の該当記事を援用したと思われる︒一方︑土佐船組の鳥島漂着の史実は︑遠州船組の甚八︑仁三郎︑平三郎らが故郷で生涯を閉じたのちの︑天明五年︵一七八五︶の事である︒同年正月三十日︑土佐国赤岡浦の松屋儀七船四人乗りが漂流して︑二月十三日に鳥島に漂着した︒九月五日に親父の源右衛門死亡︒翌天明六年八月二十九日水主の長六死亡︒九月十七日炊の甚兵衛死亡︒水夫の長平︵二十五歳︶のみ生き残る︒天明八年︵一七八八︶二月一日に大阪船が漂着するまでの一年四ヶ月余︑長平は絶海の孤島に一人で生き抜いたことになる︒作品⑩においては長平を船頭に設定しているが︑人名︑死亡月日の設定は典拠の﹃漂流船物語の研究﹄を踏まえている︒しかし︑遠州船組の三人との共同生活に設定したために︑長平は﹁すつかり気落ちして︑︵略︶岩穴の奥にひつこんで︑念仏ばかりとなへてゐ﹂る影の薄い人物

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︵三七︶ となっている︒次に︑大阪船組の鳥島漂着の史実は︑土佐船の漂着から三年後の天明八年︵一七八九︶二月一日のことであり︑沖船頭儀三郎ら十一名が鳥島に在島した土佐船の長平と合流した︒乗組員のうち五兵衛は同年六月四日︑忠八は寛政三年︵一七九一︶六月二十三日に病で死去し︑儀三郎らは鳥島に漂着してから九年間を鳥島に在島した︒作品⑪における﹁久七といふ鍛冶の心得あるもの﹂は典拠とした﹃漂流船物語の研究﹄に拠ったと思われるが︑吉蔵が﹁指物師﹂︵家具職人︶であったとする記述については同書にも︑大阪船︑日向船の史料である﹁無人島談話 ︶5

︵﹂﹁鳥島物語﹂にもみられず︑出典は不明である︒日向船組の鳥島漂着の史実は︑寛政二年︵一七九〇︶の事である︒寛政元年十二月二十六日に日向国志布志浦を出港した住吉丸六人乗りが翌年正月三十日に鳥島に漂着した︒六月二十九日に水主の惣右衛門が死亡︒寛政五年七月二十九日に水主善助が死亡︒大阪船組の水主三之助が頭取となり︑日向船組の楫取甚右衛門︑水主八五郎らが船造りを担当して︑一艘の船を完成した︒その後︑水・食糧の準備︑船を海に運ぶ道路普請などを経て︑寛政九年︵一七九七︶六月八日に鳥島を脱出︑十三日に青ヶ島に到着した︒乗組員は土佐船組一人︑大阪船組九人︑日向船組四人の十四人である︒作品⑬では遠州船の船頭左太夫の遺志を受け継いだ楫取甚八を中心に︑鍛冶の心得がある大阪船組の久七︑造船の経験を持つ日向船組の八五郎らが船造りに当たったとある︒関係史料に八五郎が造船技術を有していたという記述は見られない︒鳥島脱出時の乗組員の内訳を遠州船組三人︑土佐船組一人︑大阪船組八人︑日向船組四人の十六人と記しているが︑大阪船の漂着者数と生存者数に違いがあるために総人数に齟齬が生じたのであろう︒ 三  火山島のこと

鳥島が火山島であることは︑作品③に次のように記されている︒

  翌年の二月に山焼けがあつた︒島が箕 みを振るやうに震動し︑焼山から火を噴いて︑三日の間︑灰と岩石を降らした︒みな東の入江に逃げ︑三日三晩︑首まで海に漬 つかつて熱 ︶6

︵傍線引用者︑以下同じ︶︵気をふせいだ︒鳥島の特徴として﹁おそろしげな焼け島﹂﹁噴火で押しだされた軽石が︑雨風に晒 さらされて白骨のやうに落 らくらく々と散らばつてゐる︒﹂など︑火山島であることが強調されている︒久生十蘭は︑典拠とした﹃漂流船物語の研究﹄に見られる次のような記述を組み合わせて︑漂流者の火山島体験に転用したと思われる︒・神火にて度々焼けたためか︑樹木は更になく︑・在島二十一年の間三度の焼けで︑右の茅や葭の類さへ一本も残らず焼け失せ︑・暑熱強き所ゆゑ︑夏の暑さは︑海へつかつて磯辺へ上ると︑火煙の立つが如くおぼえて︑誠に焦熱地獄の有様も斯うかと思ふばかりである ︶7

︵︒このうち﹁在島二十一年の間三度の焼けで﹂という記事は︑神沢貞幹の随筆集﹃翁草﹄巻之三十七﹁無人島漂流船の事﹂に﹁二十一年の間三度の焼に ︶8

︵﹂とあるのに拠るが︑その根拠は不明である︒なお︑右の酷暑の記述はそのまま作品③にも用いられている︒一方︑﹃八丈実紀  第二巻 ︶9

︵﹄の第四編﹁青ヶ島略記﹂によれば︑鳥島より三十里離れた青ヶ島においては承応元年︵一六五二︶に噴火があり︑以後安永九年︵一七八〇︶六月二十七日︑同十年︵一七六一︶四月十一日︑天明三年︵一七八三︶三月五日︑同五年︵一七八五︶三月十日などの噴火が記録されている︒とくに安永九年には﹁水中より湯水涌き上り﹂︑天明三年の事例では︑池之沢一面ニ火穴吹出シ火石島中え吹登せ右火石ニ而在家六十壱

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︵三八︶ 軒即時ニ焼失仕候︑其節池之沢ヘ農業ニ罷出野宿仕居候男女十四人同時ニ焼埋リ申候︒とあって︑悲惨な状況が記されている︒また︑天明五年三月の青ヶ島大噴火では島民﹁大凡一百三四十人ノ死亡ト覚ヘタリ﹂と記されている︒鳥島にも同様のことが起こりえたと想像されるが︑無人島であるためか同書第五編鳥島の項に噴火の記載は見られない︒﹃日本庶民生活史料集成﹄所収の資料﹁遠州船無人島物語 ︶10

︵﹂には︑鳥島は﹁一体やけ山にて︑殊の外嶮岨にて︑勿論山の頂きは︑平生燃へ候と相見へ︑煙りなと立申候︒﹂とあるが︑筒山船組の在島中における山焼け︑噴火の記載は見られない︒また︑作品では③享保六年︑⑤享保九年︑⑥享保十二年︑⑨享保十六年と四度の山焼けが設定されて︑火山島であることが強調されている︒この山焼けのことは遠州船組のみが在島した十三年間の経験として配置され︑土佐船組︑大阪船組︑日向船組らと鳥島脱出まで在島した八年余の間には山焼けの設定は見られない︒しかし︑生命を脅かされる火山島に暮らす漂流者たちの死の恐怖や不安感︑生存意欲の喪失などの心理内面に関わる記述が見られないため︑作品としての効果には疑問が残る︒一方︑地震のことは﹁遠州船無人島物語﹂に﹁一度よほとの地震と覚へ申候様にゆれ申候︒其の頃はいつと申義は覚へ不申候︒﹂とあり︑二十一年間の在島中に一度の火山性と思われる地震記録があるが︑﹃漂流船物語の研究﹄に記載がないためか︑作品では取り用いていない︒

四  自殺者のこと

作品⑧では︑享保十五年︵一七三〇︶正月︑鳥島の沖に船影を発見するも島に到らず︑失望した平三郎が自殺の意志を口走ると︑病身の船頭左太夫が平三郎に生きて国に帰還する望みを捨てないように諫め︑ ﹁御朱印と浦賀奉行の御判物﹂を平三郎に預けたという︒典拠とした﹃漂流船物語の研究﹄には︑次のように記されている︒其の内一両人の者などは︑どうせ此島で死ぬるとも︑魂だけはせめてあの船に乗らうと︑岩の上から身を投げやうとするのを︑船頭左太夫色々となだめすかす事︑誠に親が自分の子を制するやうであつた︒典拠では自殺を口走った者の名は不明であるが︑作品では平三郎の行為とすることで︑左太夫の遺言の場と関連づけている︒遠州船組の自殺者については︑﹃江戸漂流記総集﹄に所載の﹁無人島漂着八丈島浦手形ほか﹂に次のような記述がある︒十一人の中︑三人は思ひ切り︑とかく存命︑この島に住居候ても︑日本へ帰る事叶 かなふべからず︑餓死するも無念成る事と︑海中へ飛入り相果て申し候︑残り八人の中︑五人は段々病死仕り候︒また︑﹃南部叢書﹄所収の﹁無人島漂着物語 ︶11

︵﹂における宮本善八船の船頭脇庄兵衛の証言によれば︑宮古から筒山船に便乗した権次郎は前途を悲観して岩穴に入り︑断食死したという︒また﹁頭を岩え打付果し﹂という凄惨な自殺の事実も存在した︒これらの事実は﹃漂流船物語の研究﹄に触れられていない︒作品では鳥島に在島中の死者について︑③享保六年三人︑⑦享保十四年五人︑⑧享保十五年一人︑⑩享保十七年三人︑⑫享保十九年二人︑⑬享保二十年二人の計十六人の死が記されている︒いずれもおおむね遠州船・土佐船・大阪船・日向船のそれぞれの史実を踏まえているが︑③の水夫今助︑小三郎︑亀吉の名︑および⑬の大阪船の忠助の死は史料にも典拠とされた﹃漂流船物語の研究﹄にも見られず︑創作であろう︒しかし︑遠州船組の漂流者は十二人中九人が︑土佐船組は四人中三人が死亡している︒苛酷な無人島生活に適応できずに死んだ者たちの最期の様子や︑岩山における弔いの工夫︑残された者たちの心理などは史料に詳述されているが︑作品では遠州船の左太夫︑土佐船の源右衛門︑

(5)

︵三九︶ 甚兵衛のエピソードを語るにとどまっている︒

五  切支丹のこと

自殺を口走る水主の平三郎に生きて故国に帰還する願いを託した船頭の左太夫は枯れるように生涯を閉じた︒作品⑧には次のように記されている︒﹁︵略︶いい折だから言ふが︑四人の中ではお前が年下だ︒順序からいつても︑この先いちばん長く生きるのはお前だから︑いまのうちに御船印と⑯浦賀奉行の御判物を預けておく︒馬鹿な考へをおこさずに︑ふんばりかへつて生きるだけ生き︑国へ帰つて︑たのしく山川の姿を眺めてくれい﹂

  さういふと︑寝たまも離したことのない御判物の袋をとつて平三郎の首にかけた︒

  その年の暮︑左太夫は腹を腫らし︑食物が咽喉を通らなくなつて︑枯れるやうに死んだ︒該当部分は︑典拠とされた﹃漂流船物語の研究﹄に次のように記されている︒扨て同船の者ども五七年のうちに段々死亡して残り少なになつた︒けれども万一故郷へ帰へられないものでもないと︑下田御番所の御切手︑並に金子二両銭百文︑算用帳の類は︑是等をなくしては︑⑰若し切 キリ支 シ丹 タン︵禁教の耶蘇教徒︶などかと御不審もあるべく︑その時のためとて︑大切に保存しておいた︒このうち︑作品の⑯﹁浦和奉行の御判物﹂については︑﹃漂流船物語の研究﹄に﹁下田御番所の御切手﹂とあるように︑披見しえた関係史料は﹁下田御番所の御切手﹂または﹁下田御関所御証文 ︶12

︵﹂となっている︒﹁判物﹂とは花押のある文書の総称で︑この場合は航海公認証明書︑﹁切手﹂は通行証の意である︒一方︑その発給者が史料では﹁下田御番所﹂ ﹁下田御関所﹂であるのに対して︑作品では﹁浦和奉行﹂に変えられている︒その事由は明らかではないが︑山下恒夫氏の次のような解説が参考になる︒

  大鹿丸︵注︑筒山船︶は︑下田奉行所で船改めをうけ︑船切手を発給されている︒船切手は︑漂流民が帰還帰国した時の身分保証ともなる︒したがって︑不慮の出来事︵略︶がない限り︑漂流民は船切手を︑肌身離さず保管し続ける︒ただ︑大鹿丸の乗組み員が漂流中だった︑翌享保五年十二月に︑下田の船番所は浦賀に移っていた︒浦賀は︑江戸湾の咽喉部を扼する要地︒江戸出入の廻船管理には︑絶好の場所にあたっている︒この浦賀奉行所への移転新設も︑享保改革の一環だった ︶13

︵︒この作品を書くにあたり︑久生十蘭が右の史実を踏まえていたかは不明であるが︑﹃漂流船物語の研究﹄の﹁尾張船頭重吉の太平洋漂流物語﹂に﹁浦和奉行の御判物﹂と見えるから︑それに拠ったと考えられる︒次に︑傍線部⑰の切支丹に関わる記述は︑﹃翁草﹄﹁無人島漂流船の事﹂に︑万一故郷へ帰る間敷物にも非ずと︑下田御番所の御切手并金子二両銭百文算用帳類︑是等を失ひ候ては若し切支丹抔歟と御不審も可有︑其時の為とて大切に所持致候︑とあるのに拠る︒八戸市立図書館に所蔵の﹃湊村八右衛門物語﹄には次のように記されている︒或時佐太夫申候ハケ様成遠キ嶋尓助命い多し候内若  御上ゟ御尋も有之節ハ切子丹同所御さ候間下田御番所ゟ被下候御切手大切可仕候 ︶14

︵

﹃翁草﹄に記されているように︑下田番所発給の回船業の通行証︑所持の金子︑商取引の算用帳などは︑故国に帰還しえた漂流者が密貿易への関与︑切支丹への接触などの嫌疑を晴らす証拠の品として︑常時携帯していた物である︒漂流者は到着地の番所の取り調べを始め︑幕

(6)

︵四〇︶

府ならびに下げ渡された各藩における厳しい審問に対処せねばならなかった︒なかでも切支丹洗礼への尋問は厳しく︑漂流者たちの最も警戒し苦慮するところであった︒﹃湊村八右衛門物語﹄では切支丹詮議への対応のみが強調されている︒作品において︑⑰切支丹の嫌疑への対応の文言を削除したことは︑漂流記ものの作品の重要な要素を欠いたものと言わなければならない︒

六  評価の問題

﹁藤九郎の島﹂は︑江戸時代の海上輸送船である四組の廻船の鳥島漂着と帰還の史実・史料を踏まえて︑一編の歴史小説を構想したものである︒漂流者たちは天候の急変による漂流という自己の意志を越えた自然の猛威にさらされ︑飢餓と渇に苦しみ︑絶海の孤島に漂着してのちも生死に関わる逆境に葛藤を重ねることになる︒作家は漂流者たちの遭遇する稀有な体験に目を凝らし︑そこに人間の虚飾を離れた真の姿を捉えることが求められる︒この作品の評価に関わって︑須田氏は次のように説いている︒本作は﹃漂流船物語の研究﹄の﹁遠州船﹂に依拠しつつ︑﹁土佐・大阪・日向船﹂を巧みにはめ込むことで︑漂流・漂着生活足かけ二十一年︑造船期間足かけ五年という漂流譚となった︒︵略︶前掲中野文が言うように﹁苛酷な生活のエッセンスのみを抽出﹂すべく︑二つの漂流譚を組み合わせた点には独自性が認められる︒︵略︶ロビンソンの孤独な奮闘に対し︑本作の主眼は無人島に漂着した人々がリーダーの下で協力し合い︑生還を果たすことにあった︒土佐船の長平ではなく︑遠州船の左太夫を主人公とした点に︑それがよく表れている︒遠州船の船頭左太夫が生還への強い意志を持ち続け︑孤島における漂流者らの苛酷な生活をリードする︒作品では貴重な籾米を荒地に蒔 いて収穫を得るアイデアと︑平三郎の自殺を翻意させる左太夫の説得力が強調され︑籾米を蒔くことを批判した過去を反省した楫取の甚八が左太夫の遺志を継承し︑漂流者らの手製の船で孤島を脱出し︑帰還することになる︒二十年をかけて絶海の孤島に生き抜き︑生命をおびやかす火山島からの脱出に成功し︑無事に帰還を果たしえたという冒険談が意図されたと解されよう︒一方︑これを漂流記ものの歴史小説として見るとき︑いくつかの問題が浮上する︒その一つは作品における水夫平三郎の位置づけの問題である︒﹃南部叢書﹄所収の﹁無人島漂着物語﹂における庄兵衛の証言によれば︑平三郎は鳥島在島中もアホウ鳥の羽根による衣類の調達︑洞穴の入口の障子︑水桶︑木の皮を織った夏帷子の工夫など︑﹁細工人﹂として多くの働きをなしている︒宮本善八船による帰還にあたっても︑﹁平三郎細工人ゆへ帆柱梶共に能揃候て﹂とあり︑主導的な役割を担っている︒また︑作品においても船頭の左太夫が自殺を図ろうとした水夫の平三郎を説得し︑船切手以下の所持品が託されたことになっている︒関係史料に平三郎が自殺を図ろうとしたとする記述は見られない︒したがって︑死期を覚った左太夫が平三郎に船切手以下の所持品を託したことは︑若い平三郎に残された漂流者たちの生還のための主導的な働きをなすことが求められたことになる︒しかし︑作品の構図では左太夫から平三郎への流れが甚八に移動してしまい︑平三郎は作品の後半部には登場していない︒その二は︑孤島に一人生き残った土佐船の水夫長平に関わる史実の大半を削除したことである︒関係の史料には︑孤独の境涯に置かれた長吉が火を持たない恐怖を抱えつつ︑仲間の衰弱死の原因を突き止めて体力保持の方策を見出し︑心念仏を友として生還の日を待ち続けた強靱な精神の働きを認めることができる︒作品全体として︑史料調査と分析の不足ということは指摘されなければならないと思われる︒

(7)

︵四一︶ ︵令和二年三月九日受理︶

︹注︺︵

1︶

︵    中野美代子﹁あたまの漂流藤九郎の島﹂︵﹃一冊の本﹄二〇〇〇年一〇月号︶︒

2︶

︵ 二〇〇八年五月︑清水堂︶︒  須田千里﹁漂流︑無人島︑楽園幻想│久生十蘭論Ⅳ│﹂︵﹃説話論集﹄一七集︑

︵ 阪船︑日向船の史実の概要も同書を参照した︒  3︶小林郁著﹃鳥島漂着物語﹄︵二〇〇三年︑成山堂書店︶に拠る︒土佐船︑大

4︶

︵ 社︶所収︒   ﹃   石井研堂これくしょん江戸漂流記総集第一巻﹄︵一九九二年︑日本評論

5︶ ︵

︵ 4︶に同じ︒

6︶

  ﹁藤九郎の島﹂の本文の引用は︑﹃定本久生十蘭全集

︵ 刊行会︶に拠る︒ 8﹄︵二〇一〇年︑国書

7︶

︵ 島漂着物語﹂︒   吉岡永美著﹃漂流船物語の研究﹄︵一九四四年︑北光書房︶﹁遠州船南方無人

8︶

︵ 行会︶に拠る︒   ﹃   日本随筆大成第三期第十一巻翁草上巻﹄︵一九三一年︑日本随筆大成刊

︵  9︶ ﹃八丈実紀第二巻﹄︵一九六九年︑緑地社︶︒

︵ 10 ︶ ﹃日本庶民生活史料集成第五巻・漂流﹄︵一九六八年︑三一書房︶所収︒

︵ 11  ︶ ﹃南部叢書第十冊﹄︵一九二九年︑南部叢書刊行会︶所収︒

12︶ ︵

︵ 4︶所収の﹁無人島漂着八丈島浦手形ほか﹂︒

13︶ ︵

︵ 4︶の﹁解説﹂︒

を参照した︒ 蔵されている︒岩尾龍太郎著﹃江戸時代のロビンソン﹄︵二〇〇六年︑弦書房︶ 語︵複写本︶﹄﹃湊村八右衛門物語︵解読文︶﹄︵遠山家旧蔵本七│二〇七︶が所 14︶ 八戸市立図書館には八戸古文書勉強会資料︵別冊︶として﹃湊村八右衛門物

A study of “To¯kuro¯ no shima” by HISAO Jyu¯ran

KATSUKURA Toshikazu

Contents

 1. At the outset  2. Constitution   3. Volcanic island  4. Suicides  5. Christian

 6. Interpretation of valuation

参照

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〈右

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「右御請申上候とて市御返し被下候ゆへ、開被申仕、

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四五 左右近衛府 宮城警衛と行幸供奉を任とする六衛府︑ 即ち宮城内裏内郭の警衛担当の左右近衛 府︑内裏外郭の左右兵衛府︑内裏外の宮

一六︸%