近江商人の経営形態に関する一考察
i日野の豪商中井源左衛門家の場合i
原
田敏 ﹁丸
は し が き ① ,② 近世における近江商人の経済史的研究は菅野和太郎博士の研究以来多数の黒々によって試みられて来た。然し乍ら個 ③ 々の商業経営の内容を具体的に明らかにした論考は宮本乱言教授のものを除いては未だ極めて少い。とのような欠を多 少なりとも補いたいと考え、本稿では蒲生郡日野の豪商中井源左衛門家の場合について、特に中井源左衛門光武︵良砧︶ 創業の享保十九年以後幕末に至る中井家盛時の経営形態を対象とし、主として中井家経営の発展過程における資本の調 ④ 達に関する考察をなす事とする。 二 本家について 江戸時代の商業資本は一般に自己資本を基礎としていた。中井家もまた創業当初はその例に洩れす、初代良筆の店卸 帳によると僅か二両の﹁元手金﹂即ち当初盗本から出発して、四百九両の身代を有するに至る延享二年迄は預り金︵借入 近江商人の経営形態に関する一考察︵原田︶ 五一五二 金︶の記載がなく、正味身代と期末資産の区別もなかった︵︹附表こ参照︶から、概ね自己盗本の廻転によって得た利潤 のみに基く経営の拡大が行われたらしい。 処が延享三年目店卸帳では三百九十三両の面懸代物と百十五両三分の合薬仕入高の合計五百八両三分︵期末資産︶から 三十両の﹁清水清左衛門殿借用﹂金高を差引いて四百七十八両三分が﹁有物﹂︵正味身代︶となって、前年度の正味身代 四百九両との差額六十九両三分が﹁延金﹂︵利益︶という事になっている。爾来各年度の店卸帳面に預り金の記載が見 られるが、そのうちの多くは日野におげる借入金であ抄、これらに対しては毎年利足を計上していたり 翌延享四年には貸〆高︵期末資産︶六百二十四両のうち百三十六両、寛延元年には七百五十七両二分のうち百五十六 両、宝暦五年には干五百三十三両二分野うち二百二十五両、同七年には二千六百三十二両の5ち五百六十三両二誉の夫 々預り金︵借入金︶を記載している。その後資本増加と共に借入金も漸増して、天保六年以後の店卸帳では﹁預之部﹂に 良砧以来遺された自己資本と目すべきもの︵前年度繰越高︶を含んでいるが、これらを除いてもかなりな額に達する借入 金が記載されている。そこで幕末の店卸帳の預之部に例年現れてくる項目を列挙すると︵下段は嘉永五年の数字︶ます、 理哲様 寿宝様 貞寿大姉 於里賀 近江屋源左衛門 日野屋源左衛門 中井屋岩之助 日野屋定兵衛 銀一四貫八五九匁一分七厘 金二四八両二分・五匁四分 同一四八両一分・一三匁五分六厘 同一〇三両 同四八四両二分・九匁四分八厘 同三四一二両一分・一〇匁八分 銀三〇五貫二二五匁↓分九厘 金一五六九両・九匁九分九厘
中井宗兵衛 井田叉兵衛 井田久右衛門 山村+蹄右衛門 近江屋五兵衛 同 三郎兵衛 同 善兵衛 同 杢兵衛 日野屋覚兵衛 同 等があり、 半助 −市助 まつ 卯兵衛 同コ 三七両一分・三匁七分九厘 同九だ一二︸両・ 一分山ハ厘 同五六両一分・五匁三分六厘 同五一七両・一〇匁一分二厘 同八三両一分・八匁七分 同三三両二分・一四匁六分五厘 同二七一両二分・九匁四分四厘 同一五九両二分・五匁六分二厘 同五両三分・八匁八分 同四一両二分・九匁六分八厘 この中には親類﹁族や出店の名も見えている。更に、 等は下男・下女等の使用入からの預り金であった。 ような形での被.雇傭⋮者の経営参加が見られるのは注目すべき事であるQ 田村常夜燈料 大聖寺祠堂金 頼母子積金 とれらは当座不必要な金を中井家に預けていたもので、 していた事が窺われるQ 近江商人の経営形態に関する一考察︵原田︶ 金七〇両 同三九両・二分二厘 同二三両三分・七匁八分七厘 金一〇〇両 同=︸O両二分 同一一四両一分・一二匁三分四厘 1 これらは恐らく給金の積立によるものと思われるが、僅少乍らとの この外、 中井家が銀行の預金業務類似の形で遊休資金を吸収し、資本化 「 五三
五四
三支店について
⑤ かつて宮本教授は、一般に﹁近江商入の経営形態は行商及出店を最も特色としてみた﹂と指摘されたが、中井家商業 経営の拡大過程も前節に於て述べた如き本家資本の増大を背景として、全国各地に出店を増設するという形態をとって⑥
いる9即ち寛延二年太田原にその支店を開設して以来、多数の支店︵︹附表二︺参照︶を次々と談け、これらを基地として 各地の物貨を転軽流通せしめ、その間に莫大な商業利潤を車借積した。日野本家はこれら轟轟を総元締する立場にあ り、たこの足の如く延びた各地諸店に実際の商業活動の重心は移っていった。更にこれら各地諸店は若干の枝店 ︵︹附表三︺参照︶を夫々持っていて中井家商業経営の枝葉となった。そこでとれら各地支店のうち、今日史料によってそ の存在を明らかになし得るものは︹附表二︺に示した如くであるが、これら支店の成立に際してその必要な盗本が如何に して調達されたか、という観点から三つの類型に分ち得る。夫々に属する主要な店と共に掲示すれば左の如くである。 ㈲合資した場合・::・仙台店・後野店 ㈲投資関係から支店化した場合⋮⋮押立店・尾之同店・天童店・杵築店・名古屋店・香良洲店 爾中井家の盗本のみで設立した場合⋮⋮相馬店・京都︵日野源︶店 以下右の各々の場合についてその開店事情を略述しよう。 ω ます合資により共同企業の形をとるものである。この形態は初代良砧の店舗経営の初期に見られる。恐らくその資本 が単独では到底各地の出店を大規模に維持してゆく事が出来なかつ充中井家初期の資産状態に適応するものであったろ うo例えば仙台店は中井源左衛門の外矢野・井田・杉井・脇村四家の共同出資を仰いで明和六年に開設された。 資金額と持分割を仙台店店卸帳には左の如く記載している。 各自の出 一、三千三百七拾五両也 一、金五百両也 ㎝、金五百両也 一、金三百拾弐両弐分 一、金三百拾弐両弐分 〆都合弐拾分ノ割合也 中井源左衛門殿 矢野新右衛門殿 井田助右衛門殿 京都一文字屋 杉井九右衛門殿 脇村宗兵衛殿 拾三分五厘持 武分持 蔵分持 壼分球厘五毛持 壷分武厘五毛樽 合計欄干両、二十分として、出資額に対してはその利足︵利子︶が支払われ、その持分割に応じて徳用 がなさ・れた。安永元年の仙台店店卸帳の記載の︸部を表示すると左の如くになる。
含薯名内訳辰歳分利足
両分朱 三〇三、三 四上、 翌、 衰、O、二 二八、O、二 四五 Z、 辰歳分店御之徳用割合
両分 二〇二、二 三〇、 三〇、 天、三 天、三 三〇〇、 合 計 両分朱 五〇六、一 蓋、 蓋、 四六、三、二 四六2、二 七五〇、 ︵利潤︶の配当 申井源左衛門殿分 矢野新右衛門殿分 井田助右衛門殿分 松井九右衛門殿分 脇村惣兵衛殿分 合 計 爾後天明元年に至る例年の店卸勘定の出資者各入についてとの利足と徳用の合計額が左表の如く記載されている。 近江商入の経営形態に関する一考察︵原田︶ 五五五六
蓬一罪源奮旦矢野碧衛旦道芝右衛旦杉井碧衛門脇村宗兵壷合
計 安永元年同同同同同同同同
九八七六五四三二
年年年年年年年年
天明元年 雨分 五〇六、一 四巻、二お 3 四八六、 五三ハ、二 四八六、 四八六、 垂穴、二 三六四し二 三六四、二 話六四、嵩 雨分 七五、 室ハ、三 七ご、 茨、 望、 七二 A 某、 茜、 五四、 茜、 雨分 蓋、 爽、三 ゼニ、 七八、 豊、 七ご A 七八、 五四、 五四、 五四、 四六十哲 四﹁二㎜ 四五 A 四八、三 四五 A 竪、 四八、三 三三、三 三三、三 三三 A三 四六韮螺 四一A屍
四五、 四八、三 竪、 四五、 四八、三 三三 A三 胃」 、O
三三、三 雨分 蓋﹃ 六六七、ニ ゼニO、 七八O、 豊O、 七δ、 七八O、 五四R 五四〇、 五四〇、 ︹備考︺ 安永二年のアラビヤ数字は端数を銀価で示したものである︵小数点は匁の位︶。 同様な共同出資の形態は丹後方面に対する生糸の販売取引にも見られる。元来丹後の﹁糸商内﹂に於ては当初から共同 で出資が.なされていた。この事については享和三年二月の﹁、脇村指引二付元来男望﹂なる文書にその由来が記されてい るQ即ち、 ︸、丹後糸巻内相企殊節、無人二而ハ相成不申怖故、京都二子一文字工面右衛門殿井両かへ大黒屋善兵衛殿・脇村惣兵衛・木村与左 衛門・竹岡徳右衛門右前人数仲間二仕相当メ由−稀事、其糊日野三人♂金弐百両宛出金為致、京都両人♂五百両宛出金、其余之所 ハ中井♂持出し、商売則良砧福島表江罷下り買方仕曲事、︵中略︶一、京都両人ハ跡立故徳用有之由二而晶相鷹野得共、日野三入ハ金腹故徳用相見へ不申殊二付、仲間はなれ申度趣二丁、木村・竹岡 両入ハ右之差入金相戻し婚合仕協、 ︵下略︶ とあり、京都の商入手家と口野の商入三家の共同出資を以て田図が始めたが、金融の日野と銀立の京都の間の利害が衝 突して、程なくとの組織は解体し、更に新たなる共同出資によって与謝郡後野に出店を構える事となった。その際の取 極証文を次に掲げよう。 為取替証文之事 、 金七千五百両 、金千両 、金千両 、金五百両 合壱万両也 源左衛門出金 九右衛門出金 善兵衛出金 新右衛門出金 〆弐拾歩也 拾五歩 弐歩 弐歩 壱歩 右之通此度望料金割合を以致出金、青苧商内井丹後表糸再思其外各ヒ相談之上相始怖二付、伏見表井丹州後野と申所二致出店商売致 相続処相違誠恐峰、尤宗兵衛・助右衛門・徳右衛門・達次郎差入之者そ源左衛門歩割興内二相加へ申協事、 一、伏見表店 名代 苧屋惣兵衛 一、丹後後野店 名代 糸屋彦左衛門 一、奥州筋仕入場 名代 中井源三郎 一、丹後筋売場 名代 近江屋源左衛門 一、出金歩合日廻し銀壱貫目二弐分五厘ッ・相当貸し借り差引壁上事、 一、惣勘定モ十二月二壱度、新糸前五月二壱度ト両度相舅可申事、 一、両度惣勘定之上出金利足井徳用之儀そ歩高割合を以配分可致事、若損金有之与国・右割合を以テ出金興趣協事、 右脳半商内之儀協措く万一御呼被成度仁在陣咋ハ・組合相談之上相除可申鳳、難心得筋播ヘハ相互得心不仕峰、母樹通相立協上そ違 ︵俺︶ 乱申間敷協、商売出惰相互ユ世話可致埣、為後日取為替証文循如件、 近江商入の経営形態に関する一考察︵原田︶ 五七
五八 伏見店名代 苧屋宗兵衛 明和六年丑五月 杉井九右衛門㊥ 寺田善兵衛㊥ 矢野新右衛門㊥ 中井源左衛門殿 これによると源左衛門以下冤名の共同出資によってはじめられ、出金の利足︵利子︶・徳用︵利潤︶は﹁歩脚割﹂で以て 配分し、損金ありし場合は文同じくこの割合で負挺するという事になった。 @ 支店増設の第二の形態は次の如きものである。即ち本来現地に他入の経営する企業があってその経営に対し、資金の 一部を援助叉は元手金全部の出資をなす︵例えば天童店・名古屋店.杵築店︶か、 或は当初より現地の業者と相はかつて彼 等に実際の運営を任せ、中井家自身は資本の大部分叉は全部を引受けて出資者の地位に立つ︵例えば尾野道店・押立店.香 良洲店・京都中正店漆器・太田原質店︶。右のような関係のままで中井家の出店としての機能を果したものも多かった︵例え ば尾之道店・香良洲店︶が、店によっては更にこれより進んでその運営自体をも全く中井家自身の手に掌握するに至った 事が史料によって明らかにされ得る場合もある︵例えば天童店︶。 要するにこの形態に於ては出資資本家としての中井家 と機能資本家としての現地運営者との共同によって店舗の経営が行われた。以下史料の比較的明瞭な二・三の例につい てその設立事情を明らかにして見よう。 ます羽前の天童店であるが、との店は元来日野今町の住入植村長右衛門が経営する所であった。との店に中井家が関 与するに至った事情については中井源左衛門﹁万覚帳﹂に享和四年三月前記植村長右衛門より中井源左衛門宛差出され
た﹁︼札﹂の写があるのによって概ね明らかにされる。即ちこの﹁一札﹂によると、植村長右衛門の天童店が享和三年経 営困難に陥った。而も同店の﹁有物しらべ﹂によると、それまで中井家一統の方々から資金の融通をうけていた事が分 るが、当時は既に有物どころか借財しか残っていなかった。とれに対し中井源左衛門が﹁中間店﹂として﹁元手金﹂を 融通し、店の恢復を図る事となったのである。その仕法は中井家その他の出金に対しては利足を月忌朱二毛と定め、植 村家は年中の賄として僅か十二両を麦給されて中井家の手代同様の取扱をうけるとととなった。又この一札中には、 右諸勘定引落し過上金そ、貴丈様井御目代甚八殿、私鉱主十次郎・吉蔵〆五人江、貴丈様御目鏡を以御嶽当選被成下怖段、是叉難有 仕合二曲存砿、︵中略︶万︸喰込勘定二引合不申怖面ぞ何時二而も御勝手二三取仕舞店家屋敷諸道具等不嚢虫売払御引取可被下怖、 と記されているから成功した場合の利潤の配当や万一不成功の場合の店の閉鎖等については、何れも中井家に一任し、 その代り損失はすべて中井家負担という事になったようである。給し乍らかかる仕法による仲間経営によつても頽勢は ︵金︶ もはや如何ともし難かったとみえ、その後添化三年の店卸帳には他の出店と並んで﹁一、同弐千両 天童耐性かししと なっており、殆んど申井家の支店化した事が窺い知られる。 杵築店の場合も同様であるQ即ち同地にかねて合薬商いをtていた中井与左衛門が文化二年元手金に不足を生じ、光 昌より﹁年二六歩之利足﹂を以て五,拾両借りたQ処が翌文化三年正月中井与左衛門が中井源左衛門に対して差出した ﹁一札﹂によると、杵築領分に合薬を販売しようとすれば城下に居住せざるべからす、為に佐々屋宇右衛門家屋敷及び 暫∵油・青莚買亀屋株を借りて営業せんとし、中井源左衝⋮門に﹁伸間﹂にて金主になって貰う事となった。その際望性 金︵資本金︶は年八歩の利足とし、﹁右利凶年≧御渡申上、雑用引落シ、徳用分半高歯年≧御渡申、残塁宣旨拙者方江申 受協事、﹂と記されているから徳用︵利潤︶は折半という事になったわけである。 次に尾墾道店の望興銀︵資本金︶或は元手金に関しては寛政十年及び享和元年の中井良幡羅の預り証文がある。これら 近江商入の経嘗形態に関する一考察︵原田︶ 五九
六〇 の見計によると、尾当道店の資本金は中井良蕨㌔山村十郎右衛門・脇村長左衛門の三人置り出で、就中中井良砧の出資 額が最大であった。右三名中昔村長左衛門は和泉屋源十郎・金屋辰次郎等と共に現地で酒造・酢醸造等の経営に直接当 っていたようである。かくて尾之道理は出資者たる中井家其他と経営担当者たる前記の国々との共同によって経営され たと考えられる。 同様に太田原質店は同地の塩屋勘右衛門、押立店は押立近辺に於て醤油醸造業を開いていた小谷次郎右衛門、香良洲 店は天保三年より同地に於て酒造を営んでいた一志郡矢野村卯兵衛等が夫々運営に直接当り、中井家は主に出盗者とし て共同する事によって開始されたものであった。 以上各地諸店に対する出資が中井家の出店となる発端となった用例に於て、特に注意を惹くのはその場合の徳用︵利 潤︶の分配に関する取極である。前述天童店の如く利潤の分配については一切を中井源左衛門に委ねる場合もあるが、 概ねこのような形での共同企業に於ては杵築店について前述した如く徳用折半が多かった。かかる例は樹太田原店につ いても見られる。即ち寛延二年太田原に質店を開くに当って中井家より同地の塩屋勘右衛門に宛てた﹁質店引替証丈し には次の如ぎ記載がある。 一、金子之義ハ諸方より才覚致指出し黒影、当地質物方世話之義戦貴殿引受世話可被致協筈、元金利息丁張ハ壱ケ年壱割弐分之勘定 二而金主へ相渡し、相残響之利分ハ何程御座怖共弐つ豊北、貴殿私壱つ宛わけ取可申、もし損金御座埣共貴殿私両方より指出し 可申協事、︵中略︶ 一、火事盗入其外如何様成義二而損金御座塩橋、弐つ割二仕損金指出し・可申協、尤右質物情義二塁如何様成出入物入等出来仕埣共、 両入二而指出し可申怖事、 即ち﹁金子﹂は中井家より才覚し、太田原における﹁質物方世話﹂は塩屋勘右衛門が引受ける事とし、資金については 年利一割二分を支払い、残った利分︵利潤︶は﹁弐つ割﹂にして両者﹁壱つ宛わけ取﹂という事になった。損金が生じ
た場合も両入等分に負担する定めであった。叉寛政七年京都︵中正︶店に於て、正治右衛門が漆問屋株を買入れるに際 しては、その口入入であった東洞院蛸薬師下ル町白銀屋惣治露なる者をしてその営業に当らせた。その時の定約証によ ると利益の半分は惣治郎に与える事にしたようであるが、とれもその一例である。 ㈲ 次に中井家の資本のみで支店を創設した場合もあるQ例えば相馬店の開設については天明二年十二月の円満院宮に対 する願書及び天明三年二月相馬家に対する請書の控がある。これらによれば中井源左衛門単独で質・古手・繰綿等の営 業を円満院を通じて願出で許可された如くである。その望性金︵資本金︶については相馬店面目に左の如き規定がある。 一、店望性金千両也 利息月六朱 但t閏月も掛り峰事、 一、店歩割廿歩 内十歩 仙台持 叉九歩 中井持 叉壱歩 支配入 是ハ出情金二遣ス、尤損金之参り協節ハ十九歩二可仕忌事、 一、紺利息年ヒ本店へ為差登可申怖重甲、 ﹁ 徳用之分ハ右利足勘定三ア店二預リ置可申事、 即ち望性金は干両、利足は月割朱であったが、この店については中井家一統の聞で歩割が決っている。仙台持とは仙台 店の事であり、中井持とは本家の事であろうと思われるが、夫々十歩・九歩となっていて、残りの一歩は支配入徳兵衛 に対し、利益のあった時のみ出精金︵賞与︶として与えられた。而して右巻性愛の利足は年女本店へ送られたが、徳用 近江商入の経営形態に関する一考察︵原田︶ 六一
六二 ︵利潤︶は右利足を勘定して、 あとは店に預り置く事となっている。つまり前述ω∴回の場合の如き共同企業にあって は既述の如き歩弓か又は折半によって現実に利潤が分配されたわけであるが、この店のように一応豆油があってもそれ らを中井家︼統で占めている場合はその都度利潤を実際に分け取らなくても、店の預り金として勘定して幽いてよかっ たのであろう。 ⑦ とσように中井家資本単独で支店を開設した例は良相馬面の外、京都︵日野源︶店があげられる。尤もこの店の開設事 情については史料乏しく確実には分らないが、開設年代と推測される嘉永二年の本家店卸帳に千二百四十九両余を以て ﹁京日野源貸﹂として以来毎年の店卸帳に見え、幕末慶応三年には習性其他合せて約三万両に達する金額が本家店卸帳 の貸之部に記されている所からしてとの店は本家単独の出資による経営と見てよかろうQ 四 枝店について 以上は直接本家の傘下にある支店について述べて来たのであるが、これらの支店は更に各地に於て耳目枝葉ともなる べき店を出していた。現存の中井家丈書によって知り得る所は恐らく曾て開設された各地枝店のうちの一部にすぎない であろうが、ともあれ知り得る限りを表示すれば︹附表四︺の如くである。とれら魚店の詳細について十分には明らかに なし難いが、太田原店の枝店たる小泉店については、左の如き史料があるQ 相定申一札事 一、小泉酒店之義、此度拙者仲一二被成輩下、此後引浮世話可墨田、尤仕入金之義者、入用次第御取替可被運営、利足之義者壱ケ年 二壱割勘定と相定申怖、私世話として金五両宛年ヒ宿本江御渡し里下、則店諸入用二相成申協、諸入用利息等指引、損徳有之協 分ハ弐割二可仕妹、 一、蔵敷之義ハ相定之通り貴殿方江御請取可被成怖、
右之通り相定、右蔵有物相改請取申怖処相違無御座協、然上ハ出盛仕世話可標野、為後日一札如件、 明和五年
子四月十四日 . 辻 次郎七㊥
申井源三郎殿
即ちとの店は太田原店と辻次郎七なる者との﹁仲間﹂店であって、仕入金は中井源三郎︵太田原店︶が年一割の利足定で 出翻し、諸入用としての五両その他利足等指引して損徳あらばコ弐割L即ち均分という事になっていた。恰かも本家と 支店の関係就中前節㈲に於て述べた形態に類似している。次に奇話二年十一月日野屋儀兵衛より中井新三郎宛の別家証 丈には、 依之大町三丁目近江や定四郎様名前之御屋敷金百弐拾両二軸買求、御屋鋪私へ御軍、外二相馬郡二而六ケ年之聞後見料利倍相掛井二 店徳用之内壱歩通塗配分藤下、都合元利金百八拾五両三分七匁弐分六厘也御専断下、御屋号暖簾迄も御猪屋下置、御別家寛政九年巳 十一月被為仰付、重ヒ難有仕合二厳存昨、︵中略︶依之年ヒ店卸勘定之劒ぞ御手呼量中之内御壱人諸車二物正月掘立♂御附被下、諸勘 ︵マ・︶ 定御立合二て御改店卸勘定帳面相仕立、年ヒ可奉尊覧入獄、勿論被仰付切仕来商売体外磐少分之儀二怖共致自分勝手里余商売仕間敷 怖、其時御窺奉申上御下知之上何共可奉御請申上協、︵下略︶ とあり、叉丈化三年正月日野屋林兵衛より同じく中井新三郎宛の証文には、 叉以御当地木町借宅仕、昧噌商売井二尊家取次富商売仕度之直江願上協之処、御聞済被成下、其上格別之出御慈悲、御大切之御屋号 御免、殊二御暖簾等迄茂御壷被下血、御別家二被為重付園長段、露ぞ徹心骨二難有仕合二塁存怖、然ル処輔弼二二渡世不行届二付、 幸二柳町二而斎藤屋権三郎殿家屋敷井田質株共此度相舞リ度由世話入有之継目付、右家屋敷質三共尊家江山買取、二重借屋二御差置 被成下峰ハ玉、場所茂宜埣二付、商売繁昌立身可園圃之聞、何卒御聞済被衣下露之段御願申上怖之処、早速御許容被下、右権三郎家 屋敷金百十五両ユ而御買取、御名前も日野屋市太郎と被相盛、私江御借聖慮下、商売手広二相続仕難有仕合二奉存埣、二叉元手金之 儀入用次第年壱割之利足切而御借渡鳥成下、御出店御同様之思召御取立重こ徹心盗難有仕合二粉面協、依之年こ店卸勘定之瑚そ正月 蔵三代呂物鼎立♂御手代衆上之内御壱人御改立合人雷雲被下、諸勘定一式御立合御改可被下訳、尤尊家♂御入金井二家屋敷買求金惣 近江商人の経営形態に関する一考察︵原田︶ 六三六四 金高年壱割之利足相納、残金徳用之処そ一宇私江戸下津怖之毅、是叉御壁懲之御取立之御仕方難有奉存殊、勿論景仰付怖仕来商売之 外、縦少分之儀二指扇致自分勝手二女商売仕搬出砿、其時御伺罷申上御下知之上何ぞ共可奉御請申上怖、︵下略︶ とある。これらの丈書によって、この両人が別家たる事は明らかであるが、同時に両胸繋毎年の期来資産勘定について は、中井家の手代衆による厳重な監督を受けていた事が知られる。儀兵衛の場合徳用︵利潤︶の中﹁分通配分されると いうのは前述相馬店の支配人徳兵衛の地位に似ている。その上仕来りの商売以外は少しも自分勝手の商売は許されなか った。勘兵衛の場合も元手金は入用次第年利一割で貸渡され、林兵衛の方は徳用全部を下し置かれたが、やはり自分勝 手の商売は出来す、﹁御出店御同様﹂と右証丈に記されている如く仙台店の枝店として取扱われていたようである。 丈化三年開店の石之薬店は天保十一年に閉店したが、その後別家日野屋万兵衛なる者が嘉永二年再び石巻に開業する こととなった。同年四月﹁日のや万兵衛﹂宛﹁本家・本店﹂よりの申渡書には左の如き記載がある。 此度向十ケ年之間此方より致開業、其方支配役申渡怖聞、開業中家内諸共彼之地へ引越し出精取引可申此段急度申渡砿、併表名前是 迄通り二而ハ差麦怖聞、其方家守二差遣候条飽迄其方出搾名目二可致怖、此墨型付而ハ深キ趣意在季夏二砿、事理ケ条左二、 一、御公儀様御法度之趣急度相守可申夏、 一、諸隻万端家掟通り急度相守可申憂、 一、店卸之節本店汐立会申受相改メ可申痘困 附月と月〆為相登可申隻、︵中略︶ 一、其方為給金拾両ッ・差遣殊条可為損金憂、 一、質物之外相庭二抱咋蔓、宗而余商販行砿蔓急度法度、 附呑込貸一切不相成啄、万一有之時ハ其方貸二いたし峠隻、 一、損徳共積金之蔓、 一、損徳弐分割壱ツ分其方持二いたし遣妹喪、
窪窪義ハ格別之勘弁ヲ以致右様遣咋条、厚相心得無油断可致出精協夏、且無嫁自分入用有之節ハ理財汐挙用可申隻、 一、屋号之鎌晒申井鞭源左衛⋮門留主︷居岸・本屋万丘ハ衛︸ト相名乗可由甲蔑、 附奉公人ハ其方之召抱ト相心得可申夏、 ︵下略︶ この申渡書によると、との店の仙台との関係深かりし事が窺われ、仙台店の枝店として元手金千両を以て再開されんと したらしいことが分るのであるが、この場合中井家より開業し、万兵衛は置賜名目の支配役たるに止った。損徳は均分 される定めであり、店卸に際しては本店︵仙台店︶から立会申卿相改める事となっている。 以上仙台店の枝店は別家店に関する史料ばかりである。宮本教授は別家に三種あり、第一は別宅を許され、通い奉公 をなす終身奉公人、第二は別宅通勤を許され、別家の待遇を導くるもの、第三は主家より若干の資本と暖簾とを分たれ ⑧ φ 独立の商人即ち一個の独立企業者になったものであると述べておられる。上述仙台店の別家はこの宮本教授の分類によ れば第三種に属するが、然し店卸勘定に際して本店の厳重な監査を、受けたり、損益を本家と等分にしたりずる点は枝店 としての機能を果していたと考えてよいであろう。 五 む す び 土屋喬雄氏が﹁古い時代即ち株式会社の企業が存在しなかった時代においては、自己資本を以て経営する企業家のみ ⑨ であったと考えてもよい位である、﹂と述べておられるように従来幕末の商社設立以前の我国に於ては純然たる共同企業 形態が存在しなかったと考えられていた。ところが菅野和太郎博士はかつて近江商入の中に共同企業によって発展した ⑩ 例がある事を指摘して、八幡の富商西川伝治の経営する松前煎海鼠の長崎移出︵二十一名︶・近江屋惣兵衛名義の経営に よる北海道択捉の場所請負︵市名︶及び呉服問屋稲西商社︵二名︶が夫々の入数の共同出資に基き、損益の分配志文その 近江商人の経営形態に関する一考察︵原田︶ 六五
六六 出資額に応じた事を挙げておられるQ 本稿では近江日野の豪商中井源左衛門家の経営につき、特にその資本調達の問題を中心として、本家.西諺及び枝店 の夫々の場含を概観してみた。もとよりその商業経営発展のいかなる過程に於ても中井家自身の自己資本が主体をなし ていた事は否定できない。然し中井家の場合も本論に於て述べた如き種女なる形態を以て、他人資本の吸収利用叉は他 の出資者や経営者との共同経営が中井家経営の拡大発展に重要な役割を持っていた事も無視できない.のである。これは 中井家の経営技術の進歩した﹁側面を物語るものであるといえよう。 @@
@@
@ (v5) ⑦@@
菅野和太郎氏著﹃近江商人の研究﹄。 近江商人の経済史的研究に関する論著を網羅せんとすれば枚挙に逞がないので省く事にするが、主要な人々としては前記菅野博士 の外、宮本又次・江頭恒治両教授、中川泉三・牧野信之助。福尾猛市郎等の諸氏がある。 宮本叉次教授﹁近江商人の遣直について﹂経済史研究二十二巻二号、同﹁近世に於ける店制の一例﹂経済史研究二十二巻五号。 近世における中井家の業態については、既に江頭恒治教授がその概要を明らかにされ︵﹁封建制下における商業資本の在り方﹂野村 博士還暦記念論文集﹃封建制と資本制﹄所収︶、又本論文集に立て、その家憲についても究明しておられる︵﹁近江の豪商中井家の 家憲﹂︶ので参照されたいQ 宮本教授前掲論文﹁近江商人の店制について﹂八三頁。 寛延二年太田原に開店以来、従来の行商申心形態から店舗中心形態に転じた事については江頭教授前掲論文﹁封建制下における商 業資本の在り方﹂二七七頁参照。 相馬店については仙台本町和泉屋卯左衛門との問に、特に古手に関して共同経営によっていたのではないかと思われる点が史料に 散見せられるが、然しこの店全体の性格を共同経営によるものと断定する程のものではないように思われる。 宮本教授著﹃近世商業経営の研究﹄=二五頁。 土屋喬雄氏著﹃日本資本主義の経営史的研究﹄一頁。⑩ 菅野氏著前掲書二三九一五〇頁Q ︹後記︺本稿は昭和二十九年度及び昭和三十一年度文部省科学研究交付金による研究の一部である。ここに記して感謝の意を表する 次第である。 筒この機会に貴重な家蔵史料の長期借覧を許され,何かと研究上の便宜を与えられた中井家に対し、深甚の謝意を表したい。
︹附表一︺中井本家資産増加略年表
年 次当主
年令
享保一九年
同 二〇年天安明宝延元
交元
享三
十六
和 三十五
明六
年年年年年年
才 光武一九 二〇 一= 一三 四一 五一 六一 七一利益
両分 六δ 三、〇 六九、ゴ 三柔、︸ ゴ三〇、〇 二、 ?オ﹂ 五、 X三、ゴ 正味身代 両分 二、O 八、〇 二〇、O 署八、三 一、ロ九、〇 五、=一、二 一ご A八二九、一 署、固著、○ 期末資産. 両分 二八、三 二、 ワ五四、一 六、三四ゼ、O 量、〇二五、二 五一 A四一四、二 年. 幕明慶安弘天文同寛
治二会化保化 政
四元二二六三九八
年年年年年年年年
当主
年令
光 光 基 昌六六五四三五四八
八二二二ニーニ…オ
利益
両分 五、lワ、一 一、六九三、二 △四、三八四、二 七二2 五、一六七、O ﹁、四=ゴ、︻ 九四五、ゴ 正味身代 両分 八七、二五〇、〇 三一 A七九三、二 四〇、五七ゴ、O 期末資産 両分 八九、九二九、二 =O、七〇〇、一 西四、九三、︼ 三五、六八六、二 二圏、九空、曽 二六二、六三八、二 ︹備考U ①当家各代︵但し三代光熈代は不詳︶の明らかにし得る最初と最終の年、及びその他は十年毎に掲示し、特に初代光武の初年は三箇年連馨して掲げた。 ②寛政豊年に著しく身代が減少しているのは二代光昌が、分家となった正治右衛門・源三郎・市左衛門と共に良蕨から逡奮の分配を受け、本家たる光品は三万百両 を相続してこの年より経営に当ったからである。 ③金の輩位分以下は便宜上省略した。また利盆の項中△印を施した天保六年の数字は損を示す。 近江商人の経営形態に関する一考察︵原田︶ 六七六八 ︹附表二︺ 中井家支店一覧 開店時 申井家 当主 所 在 地 下野国那須郡太田原 岩代国安達郡本宮 山目城国囲伏見︷恩町山ハ丁目[ 陸前国語台大町一丁目 丹後国与謝郡信疑 磐城国相馬郡中村 山城国京都柳馬場押小路 武蔵国豊多摩郡押立 陸前国宮城郡今市 備後国尾直道 武蔵国勢戸小網町一丁目 羽前国天童三日町 店 名 初代 光武 ︵良心V 中 井 源 三 郎
箪’彦㍉鍵
糸屋彦左衛門
近江屋源左衛門 ︵前︶近江屋正治 ︵後︶申闇屋正治 中 井 市 蔵和泉屋源+円
滑陣屋彦太郎
︵前︶日野屋伝三郎 ︵後︶日野屋精一郎 開店年代 閉店年代 寛典 輩 他大文三三
考
年三 明和二年 明和六年 同右 同右 筆明三年 天明八年 同右 冤政元年 寛政二年 寛政三年 文化元年明和五年
天明八年
京都へ 明治十七年 寛政年間︵?︶天保十年
文化二年分家 明治五年閉 寛政十一年寛政九年
以後天保二年
冤政+三年交久元年
業種
取引商品
日野売薬・青苧・生糸・古手・木綿・真綿・麻・大豆 米・紅花。質昌?︶。 生糸︵奥州汐丹後へ︶。 生糸・青苧・紅花・蝋・大小豆・漆・海産物︵京坂へ︶。 ︵京坂江戸其他♂︶綿・古手・近江麻布。質.. 生糸︵丹後縮緬機業へ原料糸供給︶。 古手・繰綿。質。名目金︵円満院官︶貸付。 奥州♂の生糸・青苧・紅花・最h蟻・大小豆の販売。綿.太難厭舞歳鑑酬灘臥W観焔篠騨難
醤油醸造。 諸産物買入。質。 呉服・目薬の彗胴売。鋳物製造。清酒醸造︵寛政八年♂︶。麟平坦強聴∼鎌嶽物.興大阪.善
大小豆・蟻・青苧・漆・紅花の買集。大阪店汐の繰綿 販売。︵後︶質及び各種油製造。一一代 光昌 三㈹ 寺詣 摂津国選阪塩町三丁目. 中井屋岩之助
豊後国漢郡蘂
鶴礁霧雨附
陸前国牡鹿郡石巻 日野壷鐙左衛門 夙に開業文 化三年開店 同右 同右暴国名書面彬蕗購
四代 光基 伊勢国一志郡香良洲山城国京都璽饗重藤
日野屋
︸ 治兵衛文化+年 }天田屋嘉
日野屋・源左衛門 勢保六年 嘉永二年文久三年
文化十一年 天保十一年弘化三年
嘉永三年
昭和十四年置蓋鎌購講噂.繰聾入。奥州窒糸.
油・合薬・青莚。質。酒造︵文化六年汐︶。蛇鵠轍鰐離輪前置。黙難”購微著驚
南部縄・菱灰。 ︹別家店︺、淺留縞・太物・呉服古手。綿買入。 酒造。 木綿・繰編の買入。奥州生糸の売却︵丹後・西陣へ︶。 ︹備考︺ ︹附表三︺ 蜥壁 太田原 ①本表及び次表の俸戊に際しては中井家文書及び稿本中井家書に依拠した。未だ詳かになし得ざる所は空欄のままにしておいた。 ②畳初の出店は恐らく下野国巡堀町のものであって、この店は延享二年には既に存在した事が知られるが、殆んどその内容が不明なのでこの表には省略した。 中井家枝店一覧 ﹁ 所 在 地 店 名 [開店年代閉店年代 一 磐城国西白河郡白河 上野国邑楽郡小泉十日和
業種・取引商品
一野泉
屋屋屋
仙台 陸前国仙台南材木町日野屋林兵衛
同 北材木町 日野屋金兵衛同 奇二百 ・野屋繕繍
近江商入の経営形態に関する 考察︵原田︶ 宝暦七年 酒造。 質。味噌・茶。 質。木綿・酒。 京・大坂の呉服及木綿。関東絹・江州布・其の他織物・ 古手。 六九七〇 尾之道 石之巻 同 大町二丁目