所説にふれて
著者 関口 徹
雑誌名 新島研究
号 102
ページ 60‑92
発行年 2011‑02‑28
権利 同志社大学同志社社史資料センター
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000013033
1.韮塚一三郎氏と『埼玉の女たち』
新島襄の母を探究するには、明治23年に彼女が養孫公義に筆録させた
「とみの口述」を抜きにしては進められない。そこには彼女自身の生い立 ちと経歴、結婚にいたるまでの経緯がつづられているからである。その内 容を最初に活字化したのは、昭和30年森中章光による「新島家の家系」で ある。しかし、その中で森中は「とみ女に関しては、遺憾ながら充分の資 料が未だ見出されていない」(『新島研究』3号p.8)と訴えている。
この言葉が発せられてから、本格的な新島の母についての著述を得るま でに30年が経過した。森中の叫びに呼応したのは、関西人でも、同志社人 でもない、生粋の埼玉人である韮にら塚づか一いち三さぶ郎ろう(1899−1993)であった1)。氏 は、学校長、図書館長、教育長に就任し、郷土の地理、歴史、人物、民俗 の研究に努め、多くの著作を残した。県郷土文化会長、同文化団体連合会 長を歴任し、地元では現在も敬意をもって韮塚先生と呼ばれている。
筆者は長年書籍印刷にたずさわり、韮塚氏の畢生の高著『埼玉県伝説集 成』上巻・中巻・下巻・別巻4冊のお手伝いをした。出版は昭和48年から 52年のことなので、その前後数年を入れ10年ほど、幾度となく与野市(現 さいたま市)のご自宅にお伺いし、親しく交わりをもたせていただいた2)。 この間、韮塚氏は昭和54年12月に『埼玉の女たち 歴史の中の24人』を 上梓した。この本は古代から近代までの日本の歴史の中に生きる、埼玉の 女性24人を取り上げたものである。出来上がったばかりの本を、氏は見返 しに「甘酸是人生」と揮毫して、当時36歳の筆者にくださった。それは昭 和55年1月22日のことである(資料1)。近代では渋沢栄一の夫人千代、日
新島襄の母とみと浦和宿の中田家
─籠谷次郎氏の所説にふれて─
関 口 徹
本の女医第一号の荻野吟子など取り 上げられているが、しかし、浦和を 生地とする新島の母親とみは見あた らないのである。そこで筆者は恐る おそる韮塚氏に、同志社創立者新島 襄の母堂が浦和の出身であることを お話してみると、このことはご存知 であった。新島の伝記、同志社の刊 行物も読まれ、同志社に問い合わせ をされ、調査を進めておられるようであった。しかし氏は浦和宿の本陣と 名主を務めた星野家は没落してしまい、史料が散逸して残っておらず、浦 和宿でのとみが捉えられないということであった。この話を聞いて筆者に ひらめくものがあった。
その頃、同志社校友会の「一府県一支部づくり」が始動し、埼玉支部も 昭和55年9月に亀井直人3)、長野武4)、関口朗の3氏が世話人となり準備 委員会が結成された(『同志社タイムス』334号)。この準備の動きは実兄の 関口朗から聞いており、京都から遠く離れた埼玉で、かつて先輩たちがど のようなつながりを持ったか、支部総会のときに配る資料作りをするよう に言われていた。日常業務をこなしながらの調査と纏めで、四苦八苦して 作成したのが後述する「埼玉と同志社」(資料2)である。B5判3頁の小 文に筆者なりの判断で、徳富猪一郎、大久保真次郎、漱石の『坊ちゃん』
のモデルといわれる弘中又一、そして「とみの口述」にふれ、明和3
(1766)年、玉蔵院家老宮崎喜六が著した『短才見聞録』(玉蔵院文書4、
指定文書扱い。『浦和市史』3巻近世史料編Ⅰp.31−94に掲載。以下頁数は 同市史からを示し、書名等は省略する)に記された中田伝十郎、中田善五 郎が、とみの父中田六之丞の祖先につながるのではないかと推論し載せて いた。
浦和宿におけるとみについて参考になればとの願いから、この小文「埼 玉と同志社」を韮塚氏に差し上げところ、氏は「そうか、玉蔵院文書があっ たか!」とひとこと発せられ、感謝されたのを覚えている。それから氏は
資料1 韮塚一三郎氏の揮毫
玉蔵院文書ばかりでなく、玉蔵院の過去帳までご覧になった。
やがて5年ほど経過して、昭和60年1月1日に新たな『埼玉の女たち 歴史の中の25人』が出版された。これは昭和54年の24人から、増補版と して25人目にとみが加えられたのである。その表題は「25 同志社の創設 者新島襄の母とみ」とある。
過去帳からの記録は目新しいものであった。とみの父、六之丞の父は伝 兵衛であり、伝兵衛の父は伝兵衛が亡くなったとき97歳、母は93歳で両者 とも健在であった。とみの母の没年月日、とみの兄金蔵の没年月日、さら にその金蔵の妻の没年月日、とみの甥にあたる金蔵の子富蔵の没年月日な ど詳しく記されていた。またアメリカに勉学中の襄に送ったとみの手紙 が、文面とともに写真まで掲載されていた。襄の妻八重と記念写真に納ま る晩年のとみは、いままで図録などで見るよりはるかに気品を湛えてい る。これまでとは異なる新しい内容の新島の母像であり、新鮮に感じる六 之丞の娘とみ像であった。
さらに嬉しいことに、筆者が提供した「埼玉と同志社」が活用されてい たことであった。とみの父中田六之丞につながるとみられる史料として、
『短才見聞録』の「鹿嶋神主寺之事」の個所を、筆者が引用掲載した部分を そっくり載せていた。そして「中田伝十郎、中田善五郎がとみの父六之丞 の祖であることは疑う余地がない」とはっきり表記していることであっ た。とみの祖先につながる史料を浦和宿において最初に発見したのは筆者 だ、という喜びを感じたのであった。
韮塚氏は増補版の参考文献に「埼玉と同志社」を採り上げ、筆者の名を 掲載している(p.299)。なお時間的経緯を記すと、「埼玉と同志社」は昭和 57年7月2日、第2回埼玉支部総会のときに参会者に配付され(『同志社タ イムス』350号5面)、増補版『埼玉の女たち』は『新島研究』71号の「最近 の新島襄文献(1987年10月現在)」(p.72)に採録されている。
2.私家版「埼玉と同志社」
ところで今回、籠谷次郎氏は『新島研究』101号で「鍵屋六之丞考」と題
してとみの父およびその祖先について論究された。その論述の中で「とみ の口述」にふれられ、さらに韮塚氏の論点に言及、疑問を呈しておられ る。先にあげた『短才見聞録』の「鹿嶋神主寺之事」も図版入りで掲出さ れた。これは韮塚氏の『埼玉の女たち』(増補版をさす。以下同じ)に掲載 された部分と同じであり、それはまた筆者の「埼玉と同志社」に載せたも のと同じなのである。したがって韮塚氏に向けられた疑問は、筆者に投げ かけられたものと受け取っている。
籠谷氏は「史料は一次史料によることが望まし」(『新島研究』101号p.6、
以下頁数は同書を示す)く、「確かな史料に基づく史実の確認」(同p.17)
にこだわるとおっしゃる。この点は筆者も同感なので、極力それに添える ように、活字化されていないものは写真で示したい。
さて次頁に掲載した「埼玉と同志社」は校友会埼玉支部という限定され た集まりのときに配付したものなので、いわゆる私家版扱いである。つね づね筆者は私家版、個人蔵版を論拠に使うなら、可能な限りそのものを公 にされることが望ましいと考えるものである。よって「埼玉と同志社」は 韮塚氏の論拠のひとつになっており、しかも分量が少ないので本論に関係 ない部分もあるが、記録に残すという趣旨ですべて載せることにした。
ここでお断りすることが2点ある。ひとつはこの小文を配付したあと、
前述の長野武氏からお叱りの電話をいただいた。記事のなかに徳富蘇峰の 筆で「天然記念物桜草自生地」の碑が建っていると記してあるが、蘇峰研 究者が尋ねてみたところ、蘇峰の筆跡ではないと指摘してきた、というの である。確かに蘇峰翁の筆跡ではないことが分かり独り赤面した。多分蘇 峰会の方と思われるが、その方をはじめ長野氏に大変申し訳ないことをし てしまったのである。この忠告によって、現在手元にある「埼玉と同志 社」の当該部分は取り消し線が引かれている。
もうひとつは浦和宿の記述のなかで、二・七の市場趾から調神社までが 宿往還の範囲であったという記述はまったくの誤りであることである。30 年前の出鱈目な知識でいいかげんな印刷物を配付したことを謝罪したい。
今回掲出するにあたって、ミスある資料も資料なので、当時のまま掲載し た。しかしこの2点について断りなく載せるわけにはいかないので、この
資料2 第2回同志社埼玉県支部総会で配られた「埼玉と同志社」(全3頁の1)
資料2 「埼玉と同志社」(全3頁の2)
資料2 「埼玉と同志社」(全3頁の3)
場をお借りした次第である。
3.記述された史料名の統一
韮塚・籠谷両氏の論文の中で、同じ史料(絵図)でありながら別々に表 記されているのが見られる。筆者も今後これらにふれることになるので、
理解を正しく深めるため、表記を統一しておきたい。
①韮塚氏が『埼玉の女たち』で表記している「玉蔵院付近図」(p.277)
と籠谷氏が表記している「玉蔵院絵図」(p.7など)は、いずれも『短才見 聞録』から採録したもので同じものである。もとの『短才見聞録』では、
本文はその表題がない(p.84)が、目次(p.35)には「玉蔵院境内図」とあ り、ここではもとの表記にあわせ「玉蔵院境内図」としたい。
②同じく韮塚氏では「江戸期(弘化前後)古地図」(p.277)と表記され たものが、籠谷氏は「弘化年間浦和宿並絵図」と表現している。これも同 じ史料である。この元図には「瀧沢元吉作 小島熙之写」と作成者名が残 されているが、籠谷氏が注36(p.20)で説明されているように、この図に は正式名称がない。『浦和』5号(浦和㊀名店会編集部、1966年)と『浦和 市議会史』下巻後編(浦和市議会、昭和39年)には、いずれも図の写真版 が掲載されているのみで、文字での名称は見られない。さらにこの宿図を 写しとった当事者の小島熙著『浦和の今昔物語』(昭和42年10月、草土社)
にも名称がないのである。
この宿図の活字化は、本年(平成22年)3月、さいたま市立博物館発行の
『さいたま市立博物館研究紀要』9集に、秦野昌明氏が「浦和宿商売往来」
と題して行われているが、この論文での名称は副題でも示すように「弘化 期の浦和宿商売細見」としている。秦野氏によると、この宿図は「昭和20 年代に小島熙氏が模写したもの」(p.40)という。
ところで、筆者は、元図には「弘化時代浦和宿」と記されているのであ り、これを参考にして、名称を「弘化期浦和宿図」としたい。籠谷氏が「絵 図」というほど、この宿図には「絵」は見られない。「宿並図」とすべきか とも思うが、次の文化八年には「並」が付いていないので、それに合わせ
ることにした。
③籠谷氏が表記する「文化八年浦和宿絵図」は、平成2年に発見され、
同4年3月に「浦和市指定有形文化財浦和宿絵図」と指定されたものであ る。この指定名称を参考に年号を付して、筆者も籠谷氏と同じ「文化八年 浦和宿絵図」としたい。いろいろな宿図が登場するので、年代を表記に付 したほうが正確にとらえられるからである。
なお韮塚氏がこの絵図をご覧になったかは不明である。この絵図は平成 4年5月に一般公開された5)が、ちょうどその1年後に韮塚氏は死去され た。長らく入院されておられたことは承知している。『埼玉の女たち』に は、一切この絵図のことはふれられていない。
以上3点の成立年代は、①「玉蔵院境内図」『短才見聞録』明和3(1766)
年8月下旬以前、②「文化八年浦和宿絵図」1811年4月、③「弘化期浦和 宿図」1844−48年である。
さらに史料の価値は、①「玉蔵院境内図」、②「文化八年浦和宿絵図」は
「ある事件が起こった時、ないしある行為がなされた時点で書かれたもの」
(山本博文『日本の一級史料』p.8)となるので一次史料といえるが、③「弘 化期浦和宿図」は後世になって作成されたものなので二次史料に該当す る。二次史料は扱いに注意して用いることといわれている。韮塚氏も籠谷 氏もこの「弘化期浦和宿図」を論拠のひとつとして使用しているので、筆 者も注意して用いたいと考える。
4.籠谷氏が指摘する疑問点と氏の見解
『新島研究』101号で籠谷氏が掲げる疑問点と氏の見解を列記する前に、
理解の共通している部分を取り上げ、確認しておきたい。
文化4(1807)年にとみは生まれたが、新島家過去帳によると、とみの 父六之丞の項に「天保十二辛丑年二月八日 実相明影清信士 俗名鍵屋六 之丞 行年七十二才 武州浦和宿玉蔵院葬」(『安中市史』5巻、p.905)と 記されている。一方、玉蔵院の過去帳を見た韮塚氏の『埼玉の女たち』に は「六之丞の死は天保十二年(1841)二月八日である」(p.285)と書かれ、
戒名の記述はないが、六之丞の没年月日 は新島家過去帳と同じである。さらに韮 塚氏は玉蔵院過去帳に次のような記載が あったと記している。「享和三癸亥年五 月十七日 鍵屋六之丞親 七十一歳 俗 名伝兵衛事 右伝兵衛父ハ九十七歳 存 命中 母九十三歳ニテ 存命也 楽定頓 円清信士」(p.278)。
この異なる過去帳から次のことが分か る。
①とみの実家の菩提寺は玉蔵院であるこ とに間違いはない。
②父六之丞は明和7(1770)年に生まれ、
38歳の時とみを得、天保12(1841)年 2月8日に死去した。享年72歳。
③父六之丞の戒名は「実相明影清信士」である。
④祖父伝兵衛は享保18(1733)年に生まれ、38歳のとき六之丞を得、享和 3(1803)年5月17日に死去した。享年71歳。
⑤このとき曾祖父と曾祖母は存命で、それぞれ97歳、93歳であった。
⑥曾祖父は宝永4(1707)年に生まれ、27歳のとき伝兵衛を得た。
⑦祖父伝兵衛の戒名は「楽定頓円清信士」である。
これらの事項は史料に基づくもので、籠谷氏も認めて論拠を進めておら れる。
さて、籠谷氏が指摘する疑問点と氏の見解は、要約すると次のようにな るかと思われる。
A.韮塚氏は、玉蔵院蔵『短才見聞録』の「鹿嶋神主寺之事」(資料3)
にみえる寛保年間(1741−1744)の中田伝十郎、明和年間(1764−
1772)の中田善五郎をあげて、この両人を六之丞の祖であることは 疑う余地がないというが、なぜ六之丞の祖といえるのか。韮塚氏の 説明がない。
資料3 鹿嶋神主寺之事
『浦和市史』3巻近世史料編Ⅰより
B.中田伝十郎と中田善五郎の続柄も明らかでない。両人は鍵屋の系譜 のなかで、どの時期の人か。善五郎は鍵屋の系譜の中では伝兵衛、
六之丞の時期と重なる。したがって善五郎が鍵屋の人として入り込 む余地はない。善五郎は鍵屋六之丞家とは別家と思われる。伝十郎 と善五郎も別家の可能性が高い。
C.韮塚氏は『短才見聞録』の玉蔵院境内図に「鍵屋善五郎」の名が見 えるとし、同所を中田善五郎(鍵屋善五郎)の住まいとみる。しか し韮塚氏が「鍵屋善五郎」と読んだ個所は「鋤や善五郎」と読めて も「鍵屋善五郎」とは読みにくい。「玉蔵院境内図」に見える善五郎 の住まいと、「弘化期浦和宿図」に見える「鍵六穀問屋商」の位置が 同じであることから、中田家鍵屋説を提示しているが、同位置であ ることから当該住民を継続同一住民(家)と考えるのは早計であ る。明和期の人物とみる善五郎と弘化期とは約80年の隔たりがあ る。米穀問屋は「明和年間」にまでさかのぼることができるかどう か。断定には疑問が残る。
D.鍵屋が商家として繁栄したのは六之丞時代と思われ、商家として繁 栄した六之丞時代に転じたと思われる。どこから転じたのか。文化 八年浦和宿絵図には六之丞の住まいは見えないが、父伝兵衛の住ま いが浦和宿下町南端の「新屋敷」の一角に見えるので、同所が伝兵 衛時代および六之丞初期の住居と思われる。鍵屋は「穀問屋」と伝 う。市の繁栄、商いの活発化とともに中市場の中町、玉蔵院門前街 道向かいの元善五郎の地に移ったと考える。
E.鍵屋には弘化期「鍵六」の呼称がある。鍵屋金蔵時代の呼称であ り、鍵屋が六之丞時代に繁栄したことを物語る呼称である。玉蔵院 過去帳にみる伝兵衛の記載を「鍵屋六之丞親」として六之丞に基準 をおいて記すのも六之丞の繁栄を物語る。
F.とみの実家は、近世文書には鍵屋の名で登場しても中田姓ではな い。「とみの口述」で、とみ自身が中田六之丞の娘と称したのは明治 23年の時点でのこと、過去の記憶を新しい記憶の中で語ったがため であろう。
5.三界万霊塔の存在
籠谷氏の疑問点A・Bにかかわる部分である。私見を述べたい。
浦和宿の玉蔵院(資料4)は宿並 の中心に位置し、長年、町並みを 作ってきたといわれる。真言宗の古 寺で平安時代の創建と伝え、徳川家 康から10石の所領(朱印地)を賜っ た。その広さは、青木義脩氏『玉蔵 院』(p.12)に「鹿島台 一町二反五 畝一歩、別所裏畑 九反歩、島畑八 反州 一町二反歩」と記され、玉蔵 院西方に位置する埼玉県庁は、かつての玉蔵院所有の土地の上に建ってい る。
玉蔵院墓地は、同『玉蔵院』(p.27)によると、昭和10年から10年くらい かけて浦和市東部の太田窪(現原山)に
移転し、その跡地は中央公園となり境内 に隣接している。境内は南北に道路が走 り、とみが遊んだであろう昔日の面影は 失われたが、当時の伽藍の一部は現在も 残り、かつてのケヤキも今は大木となっ て樹齢幾百年の時を刻んで立っている。
車騒の中山道から西へ、とみの子供の 頃は既に建立されていた表門(山門)を くぐると、町の中心部にもかかわらず境 内は森閑としている。南にひときわ目を 引く一基の石造物(資料5)が立つ。正 面に梵字を配し、「三界萬靈」と一画ずつ 極太に彫られている。背面に回ると「享
資料4 玉蔵院中門と本堂
資料5 三界万霊塔(玉蔵院境内)
和三癸亥年七月造立之」と刻まれ、1803 年であることが分かる。右面には当代一 流の連歌師と評され、塙保己一とも交流 のあった当院24世無相の句が読める。
「等志乃波也美津能佐加以農多麻満都李 武左宇」(としの端はや三みつの界さかいの霊たままつり 無む相そう)。この石造物は死者の霊を弔う 供養塔なのである。浦和市教育委員会
『石の文化財』(p.78)では「三界万霊塔」
と紹介している。
さて、三界万霊塔の正面、台石中央に は、右から「上町 中町 下町」、その下 に「講中」と刻まれている。もっと近づ
くと、中央の左右に細かに文字が刻まれているのが見える。上部には故人 の戒名などが彫られ、その下には施主の名が刻まれている。台石の両側に も、浦和宿の住人と近隣4村の住人のそれぞれが彫られていた。その数71 人、宿住人は58人、4村民は13人である。200年以上も陽光風雨にさらさ れ、すでに欠けたり摩耗したりして、残 念ながら判読しにくい部分がある。
この71人(その氏名は後注6に記す)
の中に、籠谷氏の疑問を解消させる人物 が彫り込まれていた。とみの娘時代に中 田と称したか否か、重要な歴史的証拠と なる一次史料といいたい。
資料6の写真は三界万霊塔の正面、左 下の台石の部分である。戒名などの下方 に数人の施主名が刻まれている。資料7 はその部分の拓本である7)。これによっ て、施主の名は、はっきりと、土屋政治 良、住吉屋吉兵ヱ、中田善五良、小泉又 資料6 伝兵衛の戒名と中田善五良
資料7 右から7列目に中田善五良
四良、板倉冨助と読むことができる。「良」は「郎」に通じる(後注6に は、このほか多くの例が見られる)。ここに刻された善五郎、又四郎、冨助 は、8年後の「文化八年浦和宿絵図」(1811年)の宿並に、隣り合って記さ れている(資料15参照)。
いま我々は、享和3(1803)年に建立された近世史料の石塔に、とみの 祖先が中田姓を名乗っていた証を見ている。刻石された戒名「樂□頓圓清 信士(台石は「女」を「士」に修正し、風雪で再出したとみる)」は、4章 で確認したとみの祖父の戒名「楽定頓円清信士」に近く、韮塚氏が過去帳 を見て『埼玉の女たち』に発表した伝兵衛の戒名とほゞ同一である。施主 は「中田善五郎」なのである。「中田」の名字をしっかり刻して三界万霊塔 は立っている。
明和3(1766)年に完成した『短才見聞録』のうち「鹿嶋神主寺之事」
の条に書かれていた内容(資料3参照)と、玉蔵院過去帳の伝兵衛の項に 記載されていた内容(4章参照)、そしてこの三界万霊塔に刻字された内 容、これらの一次史料をまとめると次のようになる。
①三界万霊塔は享和3(1803)年7月に建立された。
②戒名「楽定頓円清信士」は俗名の伝兵衛を指している。
③伝兵衛の死去は享和3(1803)年5月17日で、三界万霊塔は伝兵衛の死 後2カ月前後で造立された。この短期間の慌ただしさが「信士」を「信 女」と刻ませたか。その施主は中田善五郎である。
④過去帳に記された「伝兵衛父ハ九十七歳 存命中」は、善五郎を指す。
⑤伝兵衛が71歳で死去したとき、子の六之丞は34歳であった。父の善五郎 は97歳で存命で、一家の当主を意味する家督はまだ善五郎にあった。
⑥「鹿嶋神主寺之事」の条に、風水害除けと五穀豊穣を鹿島大神宮に祈願 した本紙が「中田伝十郎殿方」に保管され、代がかわって、「今ハ中田善 五郎殿事也」と記されている。伝十郎と善五郎は親子関係で、『短才見聞 録』が成ったとき、家督は善五郎に相続されていた。
⑦以上のことから、六之丞の父は伝兵衛であり、伝兵衛の父は善五郎であ り、善五郎の父は伝十郎である。『短才見聞録』における伝十郎も善五郎 も中田姓を名乗り、玉蔵院過去帳と三界万霊塔は、善五郎と伝兵衛が親
子関係であって、中田姓を名乗っていたことを証している。
これらを整理すると、資料8のように、とみから見た中田家五代の系図 が得られる。これに嫁ぎ先の新島家の系図を添えてみた。両家の関係がよ り明らかになったようである。
6.中田伝十郎と五穀豊穣祈願
中田家の人物を関連する史料で見てみよう。まず、とみから見て高祖父 の中田伝十郎である。ただし、史料に掲載されているからといって、ただ ちに当人とは限らない。
①元禄13(1700)年8)4月の日付で、町中が困窮のために町中抱えの定 使屋敷を「金四拾五両ニ伝十郎方ヘ」売却し、その代金を町中の百姓で高 下なく分配したという浦和宿文書「町中困窮につき定使屋敷売渡証文」が 残っている(『浦和市史』3巻近世史料編Ⅲp.536)。この128人の中に「伝十 郎」が現れている、しかも主役で。
②宝永8(1711)年1月の日付で「問屋場賄所敷地引替証文」の浦和宿 文書がある(『浦和市史』3巻近世史料編Ⅲp.537)。この史料には135人の名 を記し、連判されている。その一人に「伝十郎」の名がある。
籠谷氏は注41(p.21)で、この2点の史料をあげて、この伝十郎が寛保 期の中田伝十郎につながる人物か、現在のところ判定できないと結論付け ておられる。筆者は推論になるが中田伝十郎につながる人物とみたい。
宿場の使い走りや廻状の配達、問屋場の雑事に従事した定使屋敷を買い 取り、町中困窮から救うために45両を差し出したという「伝十郎」は、な かなか魅力ある記録である。かりに中田伝十郎だとすると、何歳くらいの
高祖父 曾祖父 祖父 父 本人
中田伝十郎 善五郎 伝兵衛 六之丞 とみ
義曾祖父 義祖父 義父 夫
中島磯八 忠 七 新島弁治 民治
長男 襄 他5人 長男 襄 他5人 資料8 とみからみた中田家・新島家の系図(新島家は『新島襄全集』8巻p.3より)
行為なのか。善五郎は27歳のとき伝 兵衛を得、伝兵衛は38歳のとき六之 丞を得、六之丞は38歳のとき第4子 のとみを得ている(4章②④⑥参 照)。この例を参考にすると、伝十 郎が38歳のとき善五郎を得たとした ら、伝十郎は寛文10(1670)年の生 まれで「町中困窮」のときは31歳で ある。
籠谷氏が注32(p.19)で紹介した
森安彦『古文書が語る近世村人の一生』によると、「成人式は、…昔は、男 十五歳、…一人前の労働力として働けること」(p.64)とある。31歳は働き 盛りの力漲る壮年とみてよいであろう。家督を継ぎ一家の当主になってい た伝十郎は、力量を発揮していたと推論する。それは「とみの口述」の「相 応ノ身代也、人望家」と重なる。今後、中田伝十郎につながる人物と判明 できる確実な史料、あるいは説明できる確たる史実が発見できることを願 いたい。
③次に、元文4(1739)年9月25日、玉蔵院文書2「月読月山寺修覆ニ 付岸村浦和宿及出入」に、浦和宿が隣村の岸村と調神社境内にある月山寺 修復についてもめごとがあり、その書状の10人のなかに「伝十郎」の名が 見える(資料9)。
玉蔵院門前に居住していた中田家はしばしば『短才見聞録』に登場す る。次の史料は中田家の伝十郎であることは分かっているので、年次から 考え上記の伝十郎とは同一人物とみてよいだろう。
④寛保2(1742)年11月、『短才見聞録』「三十 鹿嶋神主寺之事」に「中 田伝十郎殿」がでてくる。資料3に掲出した史料である。寛保2年という 年は関東地方が甚だしい水害に見舞われた。鹿嶋大神宮に風水の害から守 り、五穀豊穣を祈った木札の本紙を伝十郎が保持していた。五穀成就を神 に祈る、ただ祈るのではなく、木札を使う行為にはそれなりの金品の供え 物をされたであろう。玉蔵院の家老宮崎がわざわざ「写し置者也」と記し
資料9 右から3人目に伝十郎
(玉蔵院文書2)
ていることは、通常の行為ではないと思われる。
『短才見聞録』の「四十六 浦和宿市場御朱印之事」(p.67)の条で、浦 和宿市場開設に当たり、天正年間に浅野弾正少弼長吉(後の長政)からの
「禁制」など、御朱印を書き写した家老宮崎は最後に、「御本陣星野権兵衛 殿方ニ有之写置者也」と付け加えている。「写し置者也」と書き記した文書 は『短才見聞録』にあまり見られない。風水の被害にあわぬよう、五穀が 豊かに実りますようにと木札を立て祈った行為、その文面を書き写したと 記すが、それは御朱印を書き写したと等しいほどなのか。筆者には理解で きない。しかし、家老宮崎にはもっと深い意味があったのではないかと考 える。いずれにしろ、この行為は『短才見聞録』に書きとどめておくほど の感銘を与えたのである。だから同書には通常の人物は名のみであるの に、敬意を表し、姓と敬称をそえて「中田伝十郎殿」という表現になった ものであろう。
さらに「とみの口述」によると、中田家は穀問屋を営んできた。鹿嶋大 神宮に「風水除 五穀成就」を、木札を以って祈願したのは、穀問屋商ゆ えの行為からであろう。このことは、筆者はかつて「埼玉と同志社」でふ れたことである。
中田家では宝暦4(1754)年には、すでに家督が善五郎に相続されてい たので(7章②参照)、『短才見聞録』を編纂している「今」、すなわち明和 3(1766)年に、「今ハ中田善五郎殿事也」と記しているのである。玉蔵院 家老の宮崎は宿住人から信頼されている善五郎にも敬意を払い、姓と敬称 をそえて書き残しているのである。ここに筆者はとみの口述「中田氏ハ浦 和ニ於テ相応ノ身代也人望家」を裏付ける事象をみる。
⑤延享2(1745)年2月8日、『短才見聞録』の「三十 鹿嶋神主寺之 事」(p.60)に「伝十郎」が他の宿住人4人と玉蔵院へ書状を差し出してい る。
⑥延享2(1745)年12月、浦和宿文書「割元・年寄・帳付等取極につき 口演覚」(『浦和市史』3巻近世史料編Ⅲp.540)に「伝重郎」の名があり、
64人の一人で連判もされている。この年は上記⑤と同じ年で、他の浦和宿 文書、玉蔵院文書にあたったが、「伝重郎」という表現は他に全く見られな
い。同音を借りて表記するということはよく見られるから、伝十郎とみて よいのではないか。
これ以降の『短才見聞録』には伝十郎の名では一人も、一度も出てこな い。史料における中田伝十郎の期間は、元禄13(1700)年から延享2
(1745)年の45年間である。現在のところ伝十郎の生年は不明であるが、善 五郎が歴史に記録された年、つまり宝暦4(1754)年以前には亡くなって いたものと推測する。
7.中田善五郎と「玉蔵院境内図」
つぎに、とみから見て曾祖父の中田善五郎である。彼はすでに浦和宿の 中町に住んでいた。ここでは籠谷氏の疑問点Cの「玉蔵院境内図」にふ れ、私見を述べたい。
①宝永4(1707)年、善五郎は生まれた。玉蔵院過去帳の記事から逆算。
②宝暦4(1754)年、『短才見聞録』の「卅二 神主寺向ノ今ノ重兵衛小 家始」(p.62)の文中に、「中宿善五郎」と出ている。この年はすでに中田 家では、善五郎が一家の当主であったことを意味する。さらに中田家は浦 和宿の中宿(中町)に居を構えていたことを明示している。「玉蔵院境内 図」も中町であり、「文化八年浦和宿絵図」にもはっきりと、中町の善五郎 が描かれ、符合する。
③宝暦11(1761)年1月14日、『短才見聞録』の「卅三 掃除役」(p.62)
の文中に、宿住人の土地について立合いを依頼され、「中宿善五郎殿」と
「殿」付で記録されている。ここでも中町の善五郎で、彼は町住人から信頼 と人望を得ていた人物に違いない。
『短才見聞録』のなかに描かれた宿住人は(近隣の村人は除いて)130人 を数える。その大勢の町人のなかで、本陣、脇本陣の星野家三人は別格と して、名の前に名字か屋号が付き、最後に「殿」か「様」が付いた人物は 8人9)しか見あたらない。このなかに中田家の伝十郎、善五郎が入ってい るのである。繰り返すが、とみがいう祖先の中田家は人望があったことの 傍証とみてよい。
④さらに明和元(1764)年、『短才見 聞録』の「卅四」(p.63)で文中三人の 住人の一人として「善五郎」の名をみ る。
⑤明和3(1766)年、『短才見聞録』
の、以下3点の事項を、編纂完成の年 にあてたが、本来はさかのぼる事項と 思われる。
そのひとつ、『短才見聞録』「三十 鹿嶋神主寺之事」(p.61)で、さきに 中田伝十郎のところでふれた「今ハ中 田善五郎殿事也」と記されている。
⑥明和3(1766)年、『短才見聞録』
「七十四 玉蔵院御朱印鹿島台惣畑之
図」(p.84)に、「善印ハ善五郎世話」と記され、広大な鹿島台畑の4個所 に「善」印が付されている。これは善五郎が関与していた畑なのであろう。
⑦明和3(1766)年、『短才見聞録』「七十四 玉蔵院境内図」(p.84)、
ここにも「善五郎」は存在する。表題は前述したように、目次(p.35)か ら補った。
この「玉蔵院境内図」(資料10)には玉蔵院門前の「善五郎」の右上に 2文字が存在するが、『浦和市史』では省かれている。読みに苦労したので あろう、判断が難しいのである。こ の文字が、籠谷氏が疑問点としてい る点である。善五郎の右上に筆書き してある2文字(突きつめていくと 1文字)を、韮塚氏は「鍵や」と読 んだが、籠谷氏は「鋤や」と読めて も「鍵や」とは読みにくいと主張さ れる。
この境内図を韮塚氏は埼玉県立文 資料10 玉蔵院境内図(『短才見聞録』)
資料11 玉蔵院境内図(上部拡大)
書館で見られたと思われる。籠谷氏は 先にあげた青木義脩氏『玉蔵院』の初 版(p.4)に「玉蔵院平面図」が載って いると注38(p.20)に記している。筆 者は平成6年に複写した同図を保持し ているので、今回、埼玉県教育委員会 の許可を得て、全図と問題の部分は拡 大して載せた(資料11)。
さて善五郎の右上、「や」の上の文字 をどう理解すればよいか。韮塚氏は
「鍵」、籠谷氏は「鋤」で、両氏とも古 文書の専門家である。児玉幸多『くず し字用例辞典』では「鍵・鋤」を資料 12のように載せている。しかしこの両字を見比べても、納得の結論が出な い。鍵と見えなければ鋤ともいえない。金へんは納得できるが、「建」か
「助」か。最後の筆画の「とめ」が「助」に見えるし、止めた筆跡の「健」
10)もある。書き手の筆の癖もあろうかと思う。『短才見聞録』のほかの個 所に、「鍵」か「鋤」を探してみたが、「建」は散見するが、いずれの文字 も見あたらなかった。
筆者の結論は、「鍵」と見るのも不安だが、「鋤」と読むのも確信がない。
ただ、近世文書の用例に、屋号・店名で、鍵屋は見るが鋤屋があるのだろ うか。また鍵屋六之丞と称したのは
確かなので、その祖父の善五郎が
「鍵や」とも「鋤や」ともとれる筆跡 であるなら、「鍵屋」とみたほう無難 なのではなかろうか。筆者は「玉蔵 院境内図」に屋号のついた「鍵屋善 五郎」が記されていた。そして彼は 中田善五郎でもあると結論する。
⑧享和2(1802)年8月、玉蔵院 資料12 『くずし字用例辞典』より
資料13 右から4人目に善五郎
文書301「神主寺より御本寺へ寄附金 証文写」に8人の宿住人の一人として
「善五郎」の名を見る(資料13)。
⑨享和3(1803)年5月17日、玉蔵 院過去帳 に「伝兵衛父ハ九十七歳 存命中 母九十三歳ニテ 存命也」と ある。善五郎97歳、妻93歳で夫婦とも に存命していることは珍しいことと思 われる。家督が六之丞に譲られた状態 と は っ き り み て と れ る 年 は 文 化 7
(1810)年である(9章②参照)。「97 歳、存命中」の享和3年から文化7年 は7年間あるので、善五郎の生涯年齢 は百歳を超えたのではなかろうか。い ずれにしろ200世帯弱の浦和宿で、夫 婦がそろって高齢で生活していること に、宿住人から人望が寄せられていた ものと想像する。これも「とみの口 述」にあらわれた「中田氏は人望家」
のひとつということができる。
⑩享和3(1803)年7月、玉蔵院境 内「三界万霊塔」に、息子伝兵衛の戒 名とともに、名だけでなく姓のある「中田善五郎」を見る。
⑪文化8(1811)年、「文化八年浦和宿絵図」(資料14)の表面の宿並絵 図、中山道を挟んで玉蔵院前の場所に「善五郎 屋敷五畝廿七歩 藪十八 歩 同七歩 上畑三畝十八歩」(資料15)と記されている。裏面には宿住 民と周辺居住者合計200名以上の署名と押印がなさそれ、その一人として
「善五郎」の名が見られる(野尻靖「文化八年「浦和宿絵図」研究二題
─その成立と「道」の検討─」『浦和市史研究』8号p.21)11)。 この「文化八年浦和宿絵図」は次章でふれることになる。
資料14 「文化八年浦和宿絵図」(一部)
資料15 「善五郎」がとみの先祖地
8.中田伝兵衛と居宅地
さらに、とみから見て祖父の中田伝兵衛である。ここでは籠谷氏の見解 Dの「文化八年浦和宿絵図」にふれ、私見を述べたい。
①享保18(1733)年、伝兵衛は生まれた。玉蔵院過去帳の記事から逆算。
②享和3(1803)年5月17日、玉蔵院過去帳によると、伝兵衛はこの日 に死去した。戒名は「楽定頓円清信士」、玉蔵院に葬られた。
③享和3(1803)年7月、玉蔵院境内の「三界万霊塔」に、戒名「楽□
頓円清信士」が刻まれた。200年以上が経過した今日でも、その塔をみるこ とができる。
六之丞につながる伝兵衛の史料は、なかなか見つからない。しかし次の ような伝兵衛の存在が史料に現わされている。
④『短才見聞録』「七十四 玉蔵院境内図」(p.84)の隣に、「光星代田畑 入作帳に門前十二軒者共名寄」に「伝兵衛」の名を見る。ここには12世帯 が書き出され、そのうちの一世帯に「伝兵衛 権七 今平右衛門」と記さ れている。名字は不明だが「伝兵衛」、「権七」とつづき、今は、つまり『短 才見聞録』を編纂している今は、「平右衛門」の代になっていることを意味 している。伝兵衛の文字が権七、平右衛門より大きく強調しているのは、
伝兵衛が光星代の人物であることを示している。光星代とは玉蔵院住職 十四世光星をさし、玉蔵院に享保8(1723)年12月から元文5(1740)年 12月まで住持した12)。
中田伝兵衛は光星代にはすでに誕生していたが、元文5年のころは、ま だ十代にならない少年である。それゆえに「光星代田畑入作帳」に書かれ ている伝兵衛は、中田伝兵衛とは異なる人物なのである。
中田伝兵衛の生涯は、享保18(1733)年に生まれ、享和3(1803)年に 死んだ。このことは4章で確認してきた。
籠谷氏は注41(p.21)で、元禄13(1700)年「町中困窮につき定使屋敷 売渡証文」と宝永8(1711)年「問屋場賄所敷地引替証文」の二つの史料 に「伝兵衛」が出てくることにふれ、「この伝兵衛が鍵屋六之丞の父伝兵衛
につながる人物かどうか。現在のところ、判定できない」といわれる。し かしこの二つの史料は、享保18(1733)年生まれの中田伝兵衛より20〜30 年前の記録である。中田家の伝兵衛が生まれる前に記録されている伝兵衛 は、中田伝兵衛でありえるはずがないとはっきり判定できる。
同じように、伝兵衛の死後、年数が大幅に超えて史料に記録されている 伝兵衛も、また、中田家の伝兵衛ではありえない。
籠谷氏は「文化八年浦和宿絵図」の新屋敷(新規造成地)に六之丞の「父 伝兵衛の住まいが見える」(p.13)と述べられる。つまり「文化八年浦和宿 絵図」に六之丞につながる伝兵衛が史料として存在するという。しかし、
1803(享和3)年に死んだ中田家の伝兵衛が、8年後の1811年に完成した
「文化八年浦和宿絵図」に記録されるであろうか。この宿絵図の裏には、
「名主年寄惣百姓立合之上」と断って、縦5.21m×横3.41mの大きな絵図上 に、自分の屋敷、田畑、山林などの広さと境界の確認と、今後争い事がな いように200名を超える住民が連判をしているのである。この絵図作成の 動機について、研究者野尻靖氏は「境界争いに類する問題があったからこ そこの絵図が作成され、関係者二百名以上が署名と押印したものと考えた い」13)と報告している。死後8年を経過した者がその場に立ち会えるはず がない。別人がなり代わって為された署名と押印を衆人が承諾するわけが ない。
新屋敷の伝兵衛が六之丞につながる者であるなら、死後8年を経過して 家督は充分に六之丞に引き継がれているはずである。「文化八年浦和宿絵 図」の場所に六之丞の名が記されていなければならない。家督の継承は時 をおかずして速やかに行われる。地域社会の運営に停滞を起こさないため である。この絵図が完成した時、この新屋敷の家督を継いだ者は伝兵衛と 称したが、中田家につながる伝兵衛ではないのである。
したがって籠谷氏が主張する、「文化八年浦和宿絵図」には六之丞の住ま いは見えないが、父伝兵衛の住まいが浦和宿下町南端の「新屋敷」の一角 に見えるので、同所が伝兵衛時代および六之丞初期の住居と思われる。六 之丞の商いの活発化とともに中市場の中町、玉蔵院門前街道向かいの元善 五郎の地に移ったと考える、という論旨は成り立たない。籠谷氏が主張す
る六之丞移動説は存在しないのである。
「文化八年浦和宿絵図」は確かな一次史料である。確かな史料に基づく、
史実の確かな確認が必要と念じる。
とみの実家の居宅地は、今まで検討してきたように、①「玉蔵院境内図」
に記された鍵屋善五郎の居宅地、②『短才見聞録』に住まいの地を現わす
「中宿善五郎」宅、そして③「文化八年浦和宿絵図」に線引きして描かれた 善五郎の屋敷、畑地、藪地合わせて310坪14)の居宅地、さらに伝兵衛を経 て、④9章の史料のなかに住まいの地を現わす「中宿六之丞」宅、そして
⑤「弘化期浦和宿図」に示す「鍵六穀問屋商」の場所がその住まいである。
それらの場所は一貫して、とみがいう浦和宿中町なのである。
伝兵衛が死去したとき、両親が長寿で健在であることはめでたいことで あるが、息子にとっては歴史上不幸なことである。家督を譲りうけていな いかぎり、記録として残らないからである。伝兵衛は寺の過去帳と三界万 霊塔に戒名しか残されていない。
9.中田六之丞と浦和宿の商
あき人
んど最後に、とみから見て父の中田六之丞である。籠谷氏の疑問点Cと氏の 見解E・Fにふれ、私見を述べたい。
鍵屋六之丞の名前は新島研究ではしばしば目にふれる。新島家文書『新 島家祝物到来覚帳』には、大勢の人物が記されており、六之丞もその一人 である。それらの記録に、新たな浦 和宿の史料を追加して列挙してみ た。
①明和7(1770)年、六之丞は生 まれた。中島・新島両家過去帳(『安 中市史』5巻近世資料編p.905)の記 事から逆算。
②文化7(1810)年11月、玉蔵院 文書81「祠堂金貸附帳」の「貸附金 資料16 「祠堂金貸附帳」の中宿六之丞
標目次第」に「金弐両 中宿 六之丞」(資料16)とある。これまで浦和 宿の文書にひとつも現わされてこなかった六之丞が、初めて記された記録 である。ということは、六之丞が祖父善五郎から家督を継いだのである。
あわせて、7年前に97歳で存命だった善五郎は、この年までには亡くなっ ていたのである。そのはっきりした年は分からないが。
しかし、「文化八年浦和宿絵図」には表面に「善五郎」が載っているし、
裏面にはっきりと「善五郎」と署名押印されている。しからば善五郎は文 化7年に死亡したのでなく、8年には生存していたのではないか。上記② と矛盾するのではないか。
筆者は次のように考える。この絵図の成立は文化8(1811)年4月であ るが、前述したように縦5メートルを超える大きな宿並図で、そこには
「宿内の田畑、屋敷山林等を水帳、古絵図等を参考にして、一筆ごとに確認 し、一枚の絵図にして、連判」15)するという作業に200名以上が参加して行 われたものである。相当の手間と時間と忍耐が必要であったと想像する。
そこには絵図製作と実生活とのタイムラグが生ずるはずである。事実、裏 面の署名押印者が表面の宿並図に現 れていない場合が見られる。例え ば、宿の上店、下店と隣接村人を除 いた宿住人のなかで、伊平次、九右 衛門、権四郎、作右衛門、庄之助、
庄兵衛、四郎三、清三郎、政次郎、
豊七、七郎助、松太郎、万右衛門、
万吉、与次右衛門、よつ、利よ、な どは表面のどこにも見当たらない。
その逆の表面に居て裏面に見あたら ない者もある。これらは製作期間内 に死亡したか、家督引き継ぎをした か、改名したかなどが考えられる。
善五郎の場合も、②の時点文化7年 11月以前に、絵図内容の確認と署名 資料17 「祠堂金貸附帳」の利息の払い
押印を済ませていたが、絵図完成時 8年4月には死亡していたのであ る。署名押印が残ったのであろう。
③文化8(1811)年、玉蔵院文書 81「祠堂金貸附帳」の「当院祠堂金 貸附之覚」に「金弐両也 中宿 六 之丞」(資料17)とあり、翌文化9 年から文政2(1819)年まで、年ご とに利息を支払った記録である。
④天保3(1832)年11月18日、新島家文書「於鏵出産之節到来物控帳」(籠 谷次郎「新島民治筆「新島家祝物到来覚帳」」『新島研究』93号p.227)に「金 三百疋 同弐朱 鍵屋六之丞様」とある。
⑤天保3(1832)年11月29日、戸田川積問屋渡船場場所分帳(『浦和市史』
3巻近世史料編Ⅲp.735)に、38人の浦和宿商人仲間の一人として「鍵屋六 之丞」がいる。
⑥天保4(1833)年3月、新島家文書「鏵初節句ニ付」(同『新島研究』93 号p.227)に、「金弐分 鑓〈鍵であろう〉屋六之丞殿」と記す。
⑦天保8(1837)年7月21日、玉蔵院文書21「年中記録(施餓鬼要意私 記)」に、21名の宿住人とともに「鍵屋六之丞様」(資料18)がいる。
⑧天保9(1838)年4月、新島家文書「出火見舞覚帳」(同『新島研究』93 号p.235)に、「金弐分 浦和宿 鍵屋六之丞殿」と記す。
⑨天保9(1838)年4月28日、新島家文書「三四吉出産ニ付」(同『新島研 究』93号p.237)に、「金壱分 鍵屋六之丞様」と記す。
⑩天保12(1841)年2月8日、新島家文書「中島・新島両家過去帳」(『安 中市史』5巻p.905)と、玉蔵院過去帳に「鍵屋六之丞」の死を記している。
享年72歳、戒名は「実相明影清信士」であった。
⑪弘化期(1844−48年)、弘化期浦和宿図(秦野昌明「浦和宿商売往来─弘 化期の浦和宿商売細見─」『さいたま市立博物館研究紀要』9集p.44)に、
中山道を挟んで玉蔵院前の場所に、「鍵六 穀問屋商」と描かれている(資 料19)。鍵六は鍵屋六之丞をさすが、六之丞が死んで、この時期は息子の
資料18 「年中記録」の鍵屋六之丞
金蔵に家督は継がれていた。
籠谷氏は鍵屋金蔵の時代に入っても「鍵六」と称するのは、鍵屋が六之 丞時代に繁栄したからだとおっしゃる。その証拠に、玉蔵院過去帳におい て、伝兵衛の記載を「鍵屋六之丞親」として、六之丞に基準を置いて記し ているのも、六之丞の繁栄を物語ると。
しかし「弘化期浦和宿図」は、元をみると「弘化時代」と表題がうたれ、
前述したように秦野氏によると昭和20年代に模写したものという。した がって時代設定は韮塚氏が記しているように、「江戸期(弘化前後)古地 図」ではないかと思われる。つまり弘化期を中心として少し前後に広げて 見てもよいのではないか。天保の弘化に近い年をその範疇に入れると、六 之丞の晩年と重なってくる。そして死後1〜2年は「鍵六」と長く呼ばれ てきたので、よくあることだが、継続され、呼称されたものと思われる。
さらに鍵六と称したのは、単なる通称ではないかとみる。たとえば、「泉 資料19 「弘化期浦和宿図」(部分)、「鍵六 穀問屋商」がとみの実家。油屋弥右衛門、
伊勢屋元七、泉又、住吉屋、和泉屋平兵衛など、資料20の店も見える。
又 煙草店」、これは「小泉又四郎」の通称である。「弘化期浦和宿図」の 下町・街道東側に「亀倉」というのも「亀屋倉吉」(「調神社社殿再建寄附 額」『浦和市史』3巻近世史料編Ⅳp.427)の通称である。他にもそれらしき は見られる。
実は、この時期浦和宿には「鍵屋亀次郎」16)を名乗る宿住人がいた。宿内 で鍵屋を屋号とする者が二人いたのである。そこで、鍵屋六之丞は「鍵 六」呼称されていたのであろう。「鍵屋亀次郎」は「弘化期浦和宿図」の上 町・街道東側、「上町大門」の斜め南方面にみえる(秦野昌明「浦和宿商売 往来─弘化期の浦和宿商売細見─」『さいたま市立博物館研究紀要』9集 p.45)。
また、過去帳の故人との関係を記すに「鍵屋六之丞親」は自然の表現で はないかと筆者は見る。親が死去した場合、子供を基準に置くのは通常の ことで、故人の子が繁栄しているから、重要視されての表記とは思えな い。むしろ六之丞の力で繁栄したとするのであれば、それこそ一次史料で 示されなければ納得はさせられないであろう。
籠谷氏は、明和期の人物とみる善五郎と「弘化期浦和宿図」とは約80年 の隔たりがある(p.9)。米穀問屋は「明和年間」までにさかのぼれるのか どうか、疑問が残る。名前から判断して同じ住人が継続していると思われ
『短才見聞録』
明和3(1766)年 三界万霊塔
享和3(1803)年 弘化期浦和宿図 弘化1−4(1844−48)年 油屋弥右衛門殿〈中宿〉 (掲載なし) 油屋弥右衛門 酒造商〈西側・中町〉
伊せや元七殿〈下宿〉 (掲載なし) 伊勢屋元七 酒造家〈東側・下町〉
星野権兵衛殿〈本陣〉 星野権兵衛 本陣星野権兵衛〈西側・中町〉
星野三左衛門殿〈中宿〉 星野三左衛門 脇本陣星野三左衛門〈西側・中町〉
中田善五郎殿〈中宿〉 中田善五良 鍵六 穀問屋商〈東側・中町〉
又四郎〈中宿〉 小泉又四郎 泉又 煙草店〈東側・中町〉
松沢弥三郎〈中宿〉 (掲載なし) 松沢弥三郎 菓子店〈西側・中町〉
(掲載なし) 住吉屋吉兵ヱ 住吉屋〈西側・中町〉
(掲載なし) 和泉屋平兵ヱ 和泉屋平兵衛 呉服商〈西側・中町〉
資料20 史料に現された浦和宿の商人たち
るのは又四郎─又四郎─泉又煙草店ぐらいである(p.13)、とおっしゃる。
そこで筆者は、浦和宿住人の弘化期から文化期、明和期までさかのぼれ る人物を史料に基づいて探してみた。一般に江戸期の公的文書は名字なし の名だけであるが、幸いにして、私的文書である『短才見聞録』の名字・
屋号付き人物を後注9に、また「三界万霊塔」の名字・屋号付き人物を後 注6に書き出してあるので、それらを使って一覧にしたのが、資料20であ る。公的文書の「文化八年浦和宿絵図」は名のみだけなのでここでは採ら ない。享和3年の三界万霊塔を文化期に近いので使うことにした。
これは名字・屋号が分かっている人物だけの抽出なので、実際は明和 期、文化期から弘化期へと多くの商売が継続されていったのではないかと 推論する。鍵屋六之丞は穀問屋を、鍵屋伝兵衛、鍵屋善五郎、更に寛保期
(1741−44)の中田伝十郎までさかのぼれる。伝十郎は五穀豊穣を祈った 祖先である。穀物を扱う商あき人んどだから豊かな実りを期待した。六之丞から伝 十郎まで約110年はたどれよう。
近世史料をのぞくと、農間余業として、県史・市史に史料が掲載されて いる。例えば、浦和宿より東、徳川将軍が日光廟参拝のときに利用した、
日光御成道の宿場のひとつ大門宿の史料によると、文政11(1828)年時点 での「組合村々家数人別其外書上帳控」には「百拾五ケ年以前巳年より居 酒度世 百姓弥右衛門」(『浦和市史』3巻近世史料編Ⅲp.445)が記録され、
浦和宿と同じ足立郡の下木崎村には「農間酒造度世仕、去ル百廿ケ年 百 姓ニ而質屋 友八」(同p.461)など、120年、115年をはじめ、50〜80年は それこそ枚挙に暇がないほど散見する。
したがって手元にある浦和宿の史料では、農業に勤しみながら商いを続 けてきた宿町人の姿は、80年そこそこしか拾えないが、実際はもっと長い 歴史をたどることができるものと推測する。しかも資料20が示すように、
居宅地が中宿から中町、下宿から下町と80年間変わっていないのである。
注
1) 韮塚一三郎氏は明治32(1899)年10月16日埼玉県深谷市に生まれる。埼玉県師範学 校卒業。県視学、国民学校長、戦後に埼玉県立図書館長(昭和22年より10年間)、
大宮市教育長(昭和32年より10年間)、埼玉県史編纂委員、与野市史編纂委員長、
埼玉県郷土文化会長、埼玉県文化団体連合会長など歴任。『下忍村史』『桶川町史』
のほか、おもな著書に下記などがある。平成5(1993)年5月11日死去。
『埼玉県伝説集成』上巻、北辰図書出版、 昭和48(1973)年3月初版発行 『埼玉県伝説集成』中巻、北辰図書出版、 昭和48(1973)年9月初版発行 『埼玉県伝説集成』下巻、北辰図書出版、 昭和49(1974)年7月初版発行 『埼玉県伝説集成』別巻、北辰図書出版、 昭和52(1977)年3月初版発行 『埼玉の女たち 歴史の中の24人』、さきたま出版会、昭和54(1979)年12月初版発行 『忘れえぬ人びと ─教育五十年─』、埼玉新聞社、昭和55(1980)年8月発行 『ふるさと埼玉県の民話と伝説』、千秋社、昭和57(1982)年4月初版発行 『埼玉の先人 渋沢栄一』<共著>、さきたま出版会、昭和58(1983)年12月初版
発行
『埼玉の女たち 歴史の中の25人』、さきたま出版会、昭和60(1985)年1月増補発行 『関東を拓く二人の賢者─揖取素彦と小野島行薫』、さきたま出版会、昭和62(1987)
年2月初版発行
2)筆者は韮塚氏との知的な交わりを持たせていただいた。新島の母堂とみが浦和の 出身であることを中心に、とみの媒酌人の話におよび、新島家への贈答の多さと新 島七五三太の烏帽子親である岡田源七郎が、とみの口述にある「親類岡田氏」であ ると申し出た。それを韮塚氏は『埼玉の女たち ─歴史の中の25人─』の「とみの 口述」紹介の注の中で触れた。籠谷氏から『新島研究』99号p.23で岡田源七郎媒酌 人説はすでに韮塚氏から発信されているとのご指摘をいただいた。その指摘で、改 めて『埼玉の女たち』を読み、韮塚氏が脚注に記されていることに気付いた
(p.276)。当初は読み飛ばしていたか、源七郎媒酌人説は筆者自身持っていたもの で、気付かなかったのかも知れぬ。いずれにせよ、籠谷氏から、新島家と岡田家と の双六をめぐる後半の関係を教授していただき、とみの媒酌人は「岡田氏」であっ て源七郎でないと、いまでは理解している。京都から離れた埼玉で、同志社と全く 関係のない韮塚氏と新島先生を話題に交わりを持てることに不思議な気がしたも のである。
3)同志社埼玉支部初代支部長。国民保健会事務長。
4)同志社大学東京事務所長をされ、祐三とも名乗る。
5) 平成4(1992)年5月19日〜7月5日、浦和市立郷土博物館において「特別展 絵 図に見る浦和」が開催され、「文化八年浦和宿絵図」が一般に公開された。
6) 玉蔵院境内現存石造物「三界万霊塔」に刻印された氏名は次の通り。剝脱で不読部 分も見られる。近世町人が名字を使用していた史料である。
〈正面右側〉星野權兵衛 星野三左衛門 亀屋市郎左エ門 同かな 森田 弥市 松沢治右エ門 板倉弥右エ門 煙艸屋喜兵ヱ
〈正面左側〉土屋政治良 住吉屋吉兵ヱ 中田善五良 小泉又四良 板倉 冨助
〈左 側 面〉中田屋仁兵ヱ 伊東長蔵 鈴木さの 松沢庄五良 餅屋弥七 吉野屋金助 大松屋安治良 中田屋弥太良 星野弥兵□
星野甚之亟 三文字屋庄右エ門 同冨右エ門 武蔵屋源兵ヱ 中屋伊平治 和泉屋礒右エ門 同新左エ門 和泉屋傳五良 同平治良 山口屋金治良 同鉄五良 和泉屋平兵ヱ 伊勢屋 惣蔵 鈴木藤助 松□文蔵 安藤治右エ門 同喜四良 油屋与市 江川茂右エ門
〈右 側 面〉森田甚九良 秋本与左ヱ門 秋本清左ヱ門 松屋小兵ヱ 中村平左エ門 加藤權八良 近江屋伊八 石内傳右ヱ門 中村弥四良 小谷野元七 星野惣兵ヱ 松沢治右ヱ門 森田佐兵ヱ 中田善兵ヱ 大工友右エ門 本太村 石塚仁左エ門 落合村兵右エ門 岸村 定七 同 星野太右エ門 同 松屋友治良 瀬崎村 俗名庄右エ門 同 施主 □□俗名さよ 別所村 施主 □兵ヱ 同 施主 久右エ門 同 施主 文左エ門 同 施主 沢右エ門 同 施主 重五良 世ハ人 施主 惣兵ヱ 同 施主 吉左エ門 同 施主 長兵ヱ
7)三界万霊塔の拓本は、浦和市立郷土博物館学芸員(当時)の野尻靖氏の助力があっ てなされた。玉蔵院さんの許可を得て行われたのは、平成16(2004)年4月29日み どりの日で、野尻学芸員にはこの紙面を借りてお礼申し上げる。
8) 籠谷氏もこの資料を採り上げているが(p.21)、元禄3(1690)年4月は誤り。そも そも『浦和市史』の表記が誤りで、史料本文の日付は元禄13年である。ちなみに同 じ史料が掲載されている埼玉県史料集第7集『中山道浦和大宮宿文書』(埼玉県立
浦和図書館)も元禄13年4月となっている。
9)8人は次のとおり。頁数は『浦和市史』3巻近世史料編Ⅰを示す。
座本左兵衛殿(p.47) 中田伝十郎殿(p.61) 中田善五郎殿(p.61)
板倉弥右衛門殿(p.74・93) 釜屋善兵衛殿(p.75) 舛屋伊兵衛殿(p.91)
油屋弥右衛門殿(p.93) 松澤弥惣次殿(p.93)
10) 波多野幸彦監修、東京手紙の会編集『くずし字辞典』(思文閣出版、平成12年4月)
では、「鍵」がないので「健」の項をみると「卓池」の筆跡に止めがみえる。
11) 籠谷氏は「鍵屋六之丞考」『新島研究』101号p.21、注40で表面に伝十郎の住まいが 見えないと指摘されているが、中山道東側、上町に彼の住まいは見られる。裏面の 署名と符合する。
12)『短才見聞録』(『浦和市史』3巻近世史料編Ⅰp.73)「五十七 武州足立郡浦和駅宝珠 山延命寺玉蔵院中興従代々先師入寂日記」より。
13)野尻靖「文化八年「浦和宿絵図」研究二題 ─その成立と「道」の検討─」『浦和 市史研究』8号p.24下段。
14)平成6(1994)年11月27日、同志社精神研究会OB会が同志社中学校のチャペルで 開かれ、筆者は「中仙道浦和宿、中田家について」講演をした。その中で「新島先 生の母堂中田とみの生家は浦和の玉蔵院門前にあり、その敷地は310坪である」と 触れた(千原慎吾「同志社精神研究会OB会」『同志社タイムス』第486号7面)。
15) 野尻靖「文化八年「浦和宿絵図」研究二題 ─その成立と「道」の検討─」『浦和 市史研究』8号p.17上段。
16) 秦野昌明氏は「七次郎」と読むが、筆者は「亀次郎」とみている。
引用文献資料
・「新島家系図」『新島襄全集』8巻年譜編、同朋舎出版、1992年7月
・韮塚一三郎『埼玉の女たち 歴史の中の24人』、さきたま出版会、昭和54(1979)年12 月初版発行
・韮塚一三郎『埼玉の女たち 歴史の中の25人』、さきたま出版会、1985年1月増補発行
・籠谷次郎「新島民治筆「新島家祝物到来覚帳」」『新島研究』93号、同志社大学人文科 学研究所同志社社史資料室、2002年2月