室代官の事例を中心に
著者 馬場 憲一
出版者 法政大学史学会
雑誌名 法政史学
巻 40
ページ 59‑78
発行年 1988‑03‑24
URL http://doi.org/10.15002/00011016
近世前期における幕領支配は在地性の強い世襲代官に委(1)ねられ、陣屋を通して貫徹されていった。しかし、彼ら世襲代官は江戸幕府の地方支配機構の整備過程において、その存在は否定され、多くは負金・年貢滞納などを理由に処罰ざれ失脚していった。すでに世襲代官の処罰とその歴史的な意義については先(2)学の研究業績によって明らかにされている。本稿では従来ほとんど研究対象とされていない世襲代官の在地支配の実態と土豪的農民を介しての村落支配の動向、および年貢未進に伴う世襲代官の処罰と未進年貢金問題などについて、関東十八代官の一人で武州西北部一帯に はじめに
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場)
近世前期世襲代官の支配とその終焉
l江戸幕府高室代官の事例を中心にI
高室代官の先祖は甲斐国巨摩郡高室村に住した武田氏の旧臣で、始祖は平右衛門家次といい武田信虎に仕えていた。ついで二代目の豊前久家は武田信玄・勝頼父子に仕えていたが、天正十年二五八○)の武田氏滅亡後は徳川氏の摩下に属し慶長七年(一六○二)一一一月一一十七日に死去し(4)ている。徳川氏の家臣に登用ざれ地方巧者として活躍するのは三代目四郎左衛門昌重以降のことであり、四代目金兵衛(喜 支配地を持っていた高室代官の事例を中心に述べ、近世前期における世襲代官の支配とその終焉を具体的に考察して(3)いくことにする。
高室代官の在地支配の実態
馬場憲
五九
一一一郎)昌成の時代には幕府代官としての支配地は判明しているだけでも武蔵国の多摩郡(七九ヶ村)、入間郡(二六ヶ村)、高麗郡(四四ヶ村)、比企郡(二○ヶ村)、大里郡(一ヶ村)、男衾郡(三ヶ村)、幡羅郡(五ヶ村)、榛沢郡(一ヶ村)、秩父郡(二ヶ村)の広範な地域(九郡一八一ヶ村)におよんでいたが、この中でも主として武蔵国西北部の山間地域に集中分布し、支配高の合計は一一一万一三一一五石余に(5)達していた。ここでは幕府の代官職を四郎左衛門昌重l金兵衛(喜三郎)昌成I四郎左衛門(喜太郎)昌久l四郎兵衛昌貞の四代にわたって世襲してきた高室代官の在地支配の実態をそれぞれの人物ごとに限られた史料の中で検討していくことにする。
円高室四郎左衛Ⅲn重『寛政重修諸家譜』では四郎左衛門昌重について次のよう(6)に記している。武田勝頬につかへ、かの家没落の上ち父と人屯に東照宮に拝掲し、めされて御摩下に列し、天正十二年長久手の役に供奉し、のち大番となり、その後御代官に転じ遠江国の郡代をかね、采地五百二十石余をたまふ。 法政史学第四十号
正保二年六月五日死す。これによると、四郎左衛門昌重は大番就任後、代官に転じ遠江国の郡代も兼ねており、江戸幕府成立直後から遠江国を中心とする広域的な地方行政を担当していたことがわかる。その彼が関東、とりわけ武州多摩郡八王子周辺の史料に登場してくるのが、管見のかぎりでは寛永十四年(一六三七)以降のことである。すなわち、甲州道中の宿場町であった多摩郡日野本郷の(7)
「差出シ帳」には「寛永十四丑年鵜篭躍噸鮒御検地」
と記載されており、四郎左衛門昌重の手によって日野本郷の検地が実施されていたことがわかる。さらに彼は同年七月には日野本郷周辺の下田村・万願寺村・新井村で実施し(8)た検地にも関与し、この時期、多摩川中流域の村落支配に重要な関わりをもっていたことが推察できる。その後、彼(昌重)は武州高麗郡高麗本郷の寛永二十年(一六四一一一)と寛永二十一年の年貢割付状の発給人として史料に登場しているが、年貢割付状に記載された名前は(9)「高四郎左⑩同喜一二⑰」となっていて、彼の息子である金兵衛(喜三郎)昌成とともに連名で年貢割付状の発給がなされていた。 六○また、前述した多摩郡万願寺村でも村落の支配は「元和年中より寛永一一十一年までは、高室喜三郎・同四郎左衛門(、)が御代官所にて」という状況下にあった。これらの点から考え、晩年に至ると四郎左衛門昌重は、幕府代官に就任していた息子の金兵衛(喜三郎)昌成とともに親子で武蔵国の幕領支配にあたっていたことは明らかである。ところで、四郎左衛門昌重の武蔵国における幕領支配の拠点となっていた陣屋は、のちの編纂物である『新編武蔵風土記稿』に「高室四郎左衛門は下一分方村の内小名諏訪(、)宿に住す」と記述されており、武州多摩郡八王子町近郊の下一分方村にあったことがわかるが、彼は少なくともここに元和九年(一六一一一一一)以前、息子の金兵衛(喜三郎)昌成とともに居住し、この陣屋を拠点として在地支配にあた
」ロー同室金兵衛(喜三郎)昌成高室金兵衛昌成は高室四郎左衛門昌重の三男で『寛政重修諸家譜』によると「台徳院殿に仕へたてまつり、のち御代官をつとむ。正保二年十二月十九日遺跡を継、慶安三年(凪)死す。」と極めて簡単な記述で紹介されているにすぎない。ところで、管見のかぎりでは彼(金兵衛昌成)に関する 成とともに居住し、こく(、)っていたと考陰えられる。
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) 右村を名主年寄吉野織部之助は戦国期の在地土豪で、天正十八年二五九○)七月北条氏滅亡後、多摩郡下師岡村に土着したが、この廻状はその織部之助が幕府の許可を受けて計画した多摩郡新町村の開拓を促進させるために触れ出されたもので 初見史料は慶長十八年(一六一三)一一月、多摩郡青梅周辺諸(u)村の名主・年寄あてに触れ出された次のような廻状である。此度、西武蔵野一一吉野織部之助致頭取、新田取立候間、一一男三男有之者〈出之、百姓相勤可申侯、且井穿人馬、織部之助差図次第可出候、若於滞可為越度者也、(慶長十八年)丑二月高室金兵衛印青梅村藤橋村黒沢村谷野村成木村木ノ下村北小曽木村塩舟村上師岡村根ヶ布村
一〈一 乗願寺村 西分村
ある。廻状の内容は具体的には周辺諸村からの出百姓と井戸掘り人馬の徴発を命じたものであるが、武蔵野台地開発の先駆となった近世初頭の新田村落の開拓に高室金兵衛昌成が重要な関わりをしていたことがわかる。ついで元和二年(一六一六)一一一月八日、金兵衛昌成から(応)士ロ野織部之助に対し次のような書状が差し出されている。(河)川辺村肝煎嶋田仕そこない候、錐然、猶以御せんさく候へ由、榎九郎兵・下一一一郎左・川惣兵・小半右申候、何屯立合γ百姓と嶋田御引合、双方口御聞候処一一、百姓中沙嶋田一-たいくつ之由申侯段、各け承侯間、彼者(河)相止、川辺村肝煎之儀、其方へ申付侯、向後弥入念、(油)田畑無荒地、万大途役少も無由断可被申付侯、其方を名主一一申付候上、もし百姓中我儘之儀候〈、、我等へ(河)可被申上候、急度自是可申付候、此書状、川辺村百姓中へ見セ可被申侯、具下代衆双方へ可申渡候、恐女謹一一一一口元和弐年高金兵衛辰三月八日(花押)吉野織部助とのまいるこれは高室金兵衛昌成が新町村の南西方向に位置する河 法政史学第四十号
辺村の肝煎役への就任を隣村に居住していた吉野織部之助に命じた書状である。この書状によると彼(金兵衛昌成)は村内の有力農民から意見を徴した上で前任の「肝煎嶋田」某を解任し新たに織部之助を河辺村の肝煎に任じ名主役をも命じている。この時期、金兵衛昌成が初期代官として村落支配にあたって強力な人事権を行使し在地支配を行なっていたことが理解できる。また年未詳であるが、高室金兵衛から次のような書状が(烟)差し出されている。以上御折帯拝見仕候、随而塩船村之杉本坊就死去一一、彼家屋敷貴様へ御請取可被成候由承候、杉本家屋敷之事〈御年貢地二候間、杉木子抱置御百姓役仕候、貴社へ家屋敷渡申儀罷成間敷候、扱又山伏御仕置〈在来侯処一一可被仰付侯、恐慢謹言、極月十一日高金兵衛
力力為直(花押)観音堂御報この書状の内容は死去した武州多摩郡塩船村の杉本坊(修験)の屋敷地の処分方法を命じたものであり、中世以来の権威を有する寺院に対し支配代官として極めて注目ざ 一〈一一
れる対応を示していたことがわかる。元和二年十一月十八日、幕府の留守居役酒井備後守忠利から甲州道中小仏関所の役人に対し次のような道中手形が(〃)発給されていた。此女房上下七人従横山甲州迄路次中相違右間敷候、但近山与左衛門断由、高室金兵衛被断付、如此侯、以上、酒井備後守(黒印)|兀和弐年辰⑩十一月十八日忠利(花押)人改衆中この手形は「女一男」以下七名が武州八王子横山宿から甲州まで旅することを許可したものであるが、この手形発給に高室金兵衛昌成が関与していたことがわかる。また元和九年(一六三一一)四月、小仏関所の関番川村帯刀らは二代将軍秀忠と家光の上洛に際し諸国の関所の警固を厳重にすることを命ぜられると、関所改め番の増員願いを高室金兵衛昌成配下の「御用人衆中」あてに差し出して(旧)いた。このように金兵衛日日成は在地支配とともに交通政策上重要な関所の管理と運営にも直接携わっていたことが断片的な史料の中からも読承とっていくことができる。さらに金兵衛昌成は元和二年五月十一日に発布された撰
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) 銭令の周知方について幕閣の命をうけ担当し経済統制政策(旧)の遂行にも関係し、また、同じ頃、上総国東金付近の蜜柑(卯)ならびに柑子を幕府へ献上する公儀役の徴収にも関与し、一代官としての職務領域を越えた活動をしているが、在地における商業活動にも重要な関わりをしていた。次の史料(皿)はそれを具体的に一不す書付である。平井衆書付写『小宮領之内平井之郷高永百拾六賞五百文之所御座(ママ)侯を、三拾五年先之寅年之四月八日に冷雨ふり百姓退転仕候付、五拾五貫文定納仕候、残六拾壱貢五百文不作仕候付而、大窪石見様へ此由申上候へ〈、則為之検見御出被成、平井之百姓共被召出被仰付侯分〈如何様にも才覚致、此荒地開申侯へと御達被成(斎)候間、我等共申上候分〈、一別女汐平井二市三さい立(転)来り申候を、寅年百姓退伝之時分伊奈へとられ申候間、此市を被仰付御返し被下候二付而〈、不作開可申候与我等共中上侯へ〈、則如前女御返被下候処一一、(寛永七年)(斎)午拾月七日汐伊奈ニ新市を立本宿共ニーハさい立申侯へ〈、小宮領細谷之儀二御座侯間、平井之市二円立不申候二付、百姓迷惑仕候間、此市如前女立申候やうに被仰付可被下候事、
一〈一一一
「右御請申上候とて市御返し被下候ゆへ、開被申仕、只今〈永百拾六貴五百文定納仕候、其外町中其の儀(庚)(巾)も尤かのへさるのとし御改被成、永弐貫八百六拾四(転)文定納申侯、如一別々平井之市退伝不申市二被仰付可被下事、寛永拾年酉五月十一日平井半兵へ与三左衛門次兵へ二郎左衛門弥五右衛門小兵衛利右衛門庄兵へ高室金兵衛様長文であるが、これは武州多摩郡小宮領平井村と同郡柚井領伊奈村との市日争論を平井村の有力農民八名が高室金兵衛に訴え出た訴状で、平井村農民は訴状の中で平井市が伊奈村の新たな市立により衰微することを恐れ、今後平井市が成り立っていくようにしてくれることを高室金兵衛に願い出ている。ここに承られるように、この時期、高室金兵衛昌成は在方における商業活動を監督する権限を有し、 法政史学第四十号
白高室四郎左衛門昌久四郎左衛門昌久は高室金兵衛昌成の長男として生まれ、慶安三年(一六五○)十二月十一日に家督を継ぎ代官に就任し、十七年間代官職を勤め、寛文七年(一六六七)に死(妬)去していた。彼(昌久)は武州高麗郡高麗本郷の年貢割付状では「喜(妬)太」(喜太郎の略称)を名乗り、家督を継ぐ二ヶ月前の慶安三年閏十月付で高麗本郷の名主・百姓中あてに年貢割付(町)状をすでに発給しており、家督を継ぐ以前より代官職に就 (犯)通常の代官以上の職務を課せられていたjものと思われる。ところで前述したように四郎左衛門昌重の時以来、高室代官は武州多摩郡八王子や青梅の陣屋を拠点に武州西北部諸村の在地支配を行なっていたが、金兵衛昌成は寛永元年(一六二四)から寛永九年まで遠江国中泉陣屋を拠点とし(羽)た北遠江阿多古地方にJも支配地をjもっておh/、彼の支配地域が極めて広範囲におよんでいたことがわかる。また武州西北部地域のうちでも高麗地方を支配地としたのは、高麗本郷に陣屋を構え、金兵衛昌成が着任した寛永十九年(|(別)六四二)八月以降であh/、この時期支配地域の移動と拡大が図られていたことが窺われる。
六四
いていたものと考えられる。四郎左衛門昌久の在地支配に関する史料は乏しくその実(配)態を明らかにすることはなかなか難かしいが、ここでは限られた史料の中から彼の在地での動向を簡単に紹介しておくことにする。四郎左衛門昌久は寛文元年(’六六一)五月、武州多摩郡高尾山の秣場をめぐって起された争論で相手方の村落(椚田村)を支配する八王子代官岡上次郎兵衛景能と書状を交(羽)換し問題の解決にあたっていた。また寛文五年三月には野州芳賀郡山本村と田野村との間で溜池をめぐって起った出入でも四郎左衛門昌久は訴え出た百姓から「絵図目安」を受理し、相手方の領主である幕府代官熊沢彦兵衛と「相談之(釦)上御返事可被成候由」を答』え、紛争の解決に務めている。以上のようにこの時期、小農民自立という社会的情勢を受けて全国各地で農業経営にかかわる利害が対立し紛争が多発化してくるが、四郎左衛門昌久も自らの支配地農民が関わる争論には江戸幕府の一代官として対応し、その処理にあたっていたのである。
画高室四郎兵衛昌貞四郎兵衛昌貞は金兵衛昌成の次男であったが、兄の四郎
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) 左衛門昌久の養子となり、寛文七年(一六六七)十二月十日高室家の家督を継いでいる。「寛政重修諸家譜』では家督を継いだ昌貞について「御勘定無役となり、御料の地三箇年のあいだ預けらる上により、其ばからひよろしぎにを(皿)いては御代官を命ぜらるべぎむね仰をかうぶる」と記述されており、はじめは代官としてではなく勘定方無役として在地支配にあたっていたようである。彼(昌貞)は代官職在任中の寛文十二年(一六七二)、武州入間郡小谷田村の検地を同じく代官の市川孫右衛門と一(犯)緒に実施したり、寛文十一年十月には武州多摩郡一円梅の金剛寺に同寺所蔵の「絹本着色聖如意輪観音画像」を幕臣の(調)妻木頼熊らと表装修理して奉納するなど、武州の支配地域にその足跡を残している。また寛文十一年十月には野州芳賀郡大郷戸付と同郡山本村の間で起った「新堀用水」設置に伴なう出入においても「御代官様御支配所御近所之儀ニ侯」という理由で、両村の訴訟に関係して済口証文の裏書に署名し紛争の調停を図(弧)っていた。だが、彼は後に詳述するように天和三年(一六八三)一一一(弱)月「俄二役儀被召上」れ、貞享四年(一六八七)十二月十一一一日に小普請入りとなり、元禄二年(一六八九)四月二
六五
前節では江戸幕府に代官として四代にわたって仕えてきた高室代官の在地支配の実態をゑてきたが、そのような在地支配の状況下において高室代官の村落支配は具体的にはどのように行なわれていたのだろうか。ここではこの点について高室代官の下で在地支配を支えていた武州多摩郡下師岡村吉野氏の郷村支配を事例にゑていくことにする。吉野氏が武州多摩郡下師岡村に来往したのは織部之助正清の時からであった。彼は小田原北条氏の支城の一つであった忍城の城主成田氏に仕えていたが、天正十八年(一五九○)七月十一日成田氏が城を開き降伏すると新たに仕官することもなく下師岡村に土着して帰農した。 十一日には代官在職中に「多分の貢金を私して其会計滞りしにより」という理由によって、坪内惣兵衛に預けられ、(妬)同月二十五日に切腹を命ぜられ死去している。同時に彼(昌貞)の長男平四郎は父の罪に連座して伊豆八丈島に流され、次男清蔵と三男源三郎は親族の伊奈安右衛門に召し預けられ、近世初頭より四代にわたって江戸幕府の代官職を世襲して在地支配を行なってきた高室代官はここに滅亡した。
二土豪的農民吉野氏の郷村支配 法政史学第四十号
土着した織部之助は既述したように幕府代官高室金兵衛昌成の助力を得ながら慶長十六年(一六二)一一月以降、武蔵野台地の開発に着手し下師岡村の東方に新田村落である(”)新町村を拓くことになるが、一元和二年(’六一六)一一一月八日には高室金兵衛昌成より書状を得て下師岡村の南に位置する河辺村の肝煎と名主役をも命ぜられ、隣村の支配にも(犯)大きく関わってくることになるのである。その後、彼(織部之助)は隠居し孫娘に養子を迎え新町村の吉野家を継が(羽)せたのである。また隠居した織部之助に代わって下師岡村吉野家を継いで名主役に就いたのは吉野太郎右衛門であ(㈹)り、太郎右衛門の跡は庄右衛門が継いでいたようである。さて延宝七年(一六七九)十月五日、大門村(下師岡村の隣村で北東に位置する村)の六左衛門他四名は次のような手形を作成し同村の名主および惣百姓あてに差し出して(似)いる。手形之事「某共組之内六左衛門、今度御法度之徒老之宿仕、下師岡村汐改御座候二付而、名主太郎右衛門殿汐六左衛門搦捕、五人組〈不及申、村中之者二御預ヶ、御手代様迄被仰上候処一一、報恩寺・塩船寺・宗泉寺・明光院御立合、双方へ御異見被遊、今度之儀〈右之 一ハーハ
C〕 印は村落 近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) (註)
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…C二三s
趨惑
川
武リ'11|青梅周辺図
通〉村二指置申候様二頻二御意二御座候二依り、大
門惣百姓、某共迄伺御意一一、右組申侯通、五人組之内一一指置申侯、以来者主人御座候者、其外如何様成者一一も、一時之宿為致申間敷候、若人宿仕候〈上当人〈不及申二組頭・五人組迄、何様之御仕置二被仰付侯共、少も申分仕間敷候、為其、組加判致シ、名主殿・惣百姓衆へ手形仕置候、価如件、延宝七年大門村未ノ十月五日六左衛門④組頭四郎右衛門④五人組惣右衛門③同名主太郎右衛門殿市丘〈へ⑩同惣百姓衆次丘〈衛、この手形は大門村の六左衛門なる人物が法度に背いて「徒者」を宿泊させた件で本人と組頭および五人組のものが、名主と惣百姓あてに差し出した詫状であったが、この中で「名主太郎右衛門」と記述されている人物が下師岡村の名主役を勤めていた吉野太郎右衛門である。また延宝八年(一六八○)二月八日には新町村の九名の組頭と惣百姓より「御並木、去々年迄者、町一一而番之ものを仕立、大切二仕候所一一、去年、右之番之もの相煩罷在候六七
一一ろ……(中略).:…町中二て一日一夜替二番仕、相番之もの等出合、並木之様子見分仕、請取渡シ致、慥二相守、少も油断仕間敷候」との手形が「名主太郎右衛門」あて(狸)に提出されていたが、ここに記された受取人の名主太郎右衛門は前掲史料と同様、下師岡村の名主役を勤める吉野太郎右衛門で、新町村の名主役も兼ねていたのである。下って元禄元年(一六八八)十一月十一日、河辺村名主利右衛門ら村役人は、下師岡村吉野太郎右衛門あてに次の(蛆)ような聿皀付を差し出している。請取手形之事「御水帳三冊「名寄帳三冊一、御割付是〈卯之年6卯之年迄一一御座侯拾二本右之御帳不残請取申所、慥一一実正也、為後日之、価如件、元禄元年(河)辰十一月十一日川辺村名主利右衛門⑳同断七郎丘〈衛⑩組頭下師岡村十右衛門④同士ロ野太郎右衛門殿次郎左衛門⑳ 法政史学第四十号六八
同惣右衛門④同断与惣左衛門④これは下師岡村が預かっていた河辺村の水帳・名寄帳・年貢割付状など村方把握の上で重要な書類を河辺村で受理した旨の「請取手形」で、これ以前までは河辺村の村落支配が下師岡村の吉野太郎右衛門ひとりの手に委ねられて行なわれていたことが想像できる。そして同様の「請取手形」は、この元禄元年十一月十一日と十二月十日に新町村、今寺村、大門村からも下師岡村の吉野太郎右衛門あてに差し(“)出されていた。また吉野太郎右衛門は延宝四年(一六七六)十二月、次(妬)のような年貢の睾雨取状を作成していた。請取之事大柳野上分里右衛門納永弐拾七文五分下々五十五文取永九文□分口取銭共河辺分永五拾八文下六十三文取永壱文九分口取銭共新町分永百七拾弐文四分中六十文取
永五文四分口取銭共油百七十三文定右〈辰御年貢請取申侯、佃如件、延宝四年吉太郎右衛門辰極月日(妬)これは聿円梅村大柳に住していた農民(里右衛門)の野上・河辺・新町の三ヶ村への川作分の年貢受取であるが、これら諸村の年貢徴収に吉野太郎右衛門が直接携わっていたことを示している。そして、農民から徴収された年貢は、支配代官所に納入され、訪取申金子之辮金八両弐分永百一一一拾五文右〈新町村辰御年貢金うけ取申候、如件延宝四年藤七左衛門⑲辰十二月什一一一日太郎右衛門殿(幻)とあるように、士ロ野太郎右衛門あてに一同室代官の手代藤平七左衛門から年貢受取小手形が発給されていた。これによると一般農民からの年貢の徴収と支配代官への納入に吉野太郎右衛門が年貢請負人的な立場で関与してお
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) り、高室代官の在地支配の中で重要な役割を果していたことがわかる。さらに吉野太郎右衛門は高室代官の手代である藤平七左(蛆)衛門から次のような書状を受け取った。(荷)江戸へ御用――て遣候大門村之八丘〈衛と申者二、少之に物もたせ遣候問、かち伝馬弐人ざし引可被申候、以上、(延宝一一一年)八月十九日藤七左衛門(花押)太郎右衛門殿これば江戸御用のため大門村の八兵衛に荷物を運ばせたので大門村の伝馬役を二人前差し引くように指示したもので、下師岡村の吉野太郎右衛門が代官所手代の命を受け農民夫役の差配に関与していたことが窺われる。この伝馬役は青梅森下陣屋の陣屋役として周辺村落に課せられた夫役で、この時期、青梅森下陣臆の陣屋役としてはそれら伝馬役のほか飛脚・蔵番・陣屋畑の耕作・牢屋入用をはじめ、「麦から」「むしろ」「正月飾り竹」などが課せられていた(伯)が、下師岡・野上・大門・今寺・河辺の五ヶ村では下師岡村の吉野太郎右衛門が「割本」となって陣屋役の差配にあたっていた。以上、中世以来の在地土豪の系譜をひく下師岡村の名主
六九
吉野氏について、いくつかの事例を通してゑてくると元禄以前は大門・新町・河辺・今寺など周辺諸村の名主役を兼務し、それらの村の年貢の徴収や代官所への上納をはじめ、「割本」役として陣屋役の割付けの差配などに関与しており、郷村的な結合を示すこの地域の村落支配に士豪的な性格を残す農民として大きな権限を与えられ、高室代官の下で在地支配に重要な役割を果していたことがわかる。同時に世襲代官として支配地との結びつきを強めていた高室代官の在地支配が、吉野氏のような広範な権限を与えられていた土豪的農民の郷村支配に支えられて貫徹していたことを指摘することができる。
高室代官の武州多摩郡下師岡村周辺の在地支配にあたって、その下で年貢徴収や夫役割などで権限を与えられ大きな役割を果していた下師岡村名主吉野太郎右衛門は天和三年(一六八三)一一月次のような手形を高室代官あてに差し(印)出した。差上ヶ申手形之事金拾六両永百九拾壱文右是〈今寺村・新町村年々御年貢未進仕侯、御用捨を 三高室代官の処罰と未進年貢処理 法政史学第四十号
以当年迄〈相続候ても、身代不被罷成候故、最前書付上候拙者所持候田地屋敷共一一不被残此度差上申候、何分一一も可被遊候、少も御非分成儀〈無御座侯、愛年田作度申度候間、預申候間、慈悲一一田地屋敷被召上被下候様と御訴訟申上侯、為其一札差上ヶ申侯、価如件下師岡天和三年太郎右衛門亥二月御代官様この史料からいくつかの事実がわかる。それはこの時期、下師岡村の吉野太郎右衛門が名主役を兼務していた今寺・新町両村の未進年貢金が十六両氷一九一文に達し、自らの田地屋敷を処分して未進年貢の処理にあたっていたということである。これは土豪的農民吉野氏の年貢請負人的な性格を裏付けるとともに、この時期、年貢上納が大幅に遅れ世襲代官高室氏の在地支配の上でも大きな問題となっていたことを示している。ところで江戸幕府は前女年の天和元年(一六八一)二月十八日、幕政上の大きな問題となってきた代官の未進年貢の処理に対応するため、勘定所の役人四名を選び前年分か(皿)らの全ての代官の未進年一貝の検査を命じていた。そのため 七○
高室代官支配地においても累積する末進年貢の処理が緊急(皿)な課題となっていたものと考些えられる。しかし、この直後の天和三年三月、幕府は突然、高室代(兜)官を罷免した。これは高室代官の年貢未進が摘発された結果と考えられるが、免職後も彼はなおしばらくは未進分の年貢の徴収を命ぜられ、少なくとも元禄元年まで未進年貢(別)の徴収に追われていたのである。だが、未進年貢の徴収は順調に行なわれなかったようで、既述のように代官高室四郎兵衛昌貞は貞享四年(’六八七)十二月十一一一日小普請入りし、元禄二年(一六七九)四月二十五日には切腹を命ぜられ、四代七十有余年にわたって江戸幕府の代官としてその職を世襲してきた高室氏はここに滅んだのである。さて高室四郎兵衛昌貞失脚後、高室代官旧支配地の後任代官と村方にとって大きな問題となったのが高室代官時代の未進年貢の処理であった。以下、引き続き多摩郡下師岡村および周辺諸村を事例にその未進年貢金処理問題について村方の対応を探っていくことにする。高室代官罷免後の元禄二年に下師岡村周辺の幕領に着任(元禄一一年)した代官松平清三郎は未進年一貝について「巳之年より上納(弱)仕候様二と」下師岡村の士口野庄右衛門に命じた。これをう
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) げて元禄一一一年(一六九○)四月、吉野庄右衛門は金一一一両を(妬)上納したが、元禄三年五月現在で高室代官時代の未進年貢額は下師岡村と周辺の諸村から松平清三郎代官あてに提出(師)された「、氷高覚」によると次のような状況であった。永高覚
一、四賞三百四拾壱文五分御書出シ爾鮓湘
此わけ永弐賞六百三拾八文五分野上村湫螂藷噸州両人御末進
八兵衛下師岡村巌郎針衛刑四人御未進
永壱賞七百一一一文弥兵衛今寺村「永拾九賃五百拾七文七分御書出シ爾鮮耐
新町村此わけ永七百三拾七文今寺村惣右衛門御未進此内金壱分鑑六百文元禄三午五月御上納什膜永四賞八百四拾九文四分下師岡村分庄右衛門御夫進永七賃五百拾文弐分野上村分同人御未進永大貫四百弐拾壱文壱分新町村分同人御未進一、永五拾弐賞九百弐拾六文御書出シ下師岡村庄右衛門御未進此内永三貫文元禄三午四月御上納什侯二引残永四拾九貫九百弐拾六文下師岡村永合六拾八賞七百六文七分庄右衛門御未進高七
一
外一一一、漆六盃御書出シ下師岡村右者高室四郎兵衛様御代官被遊候節御年貢御未進金御
書出シ被為下奉拝見、村々一所之御書出シニ御座侯
間、村分仕、右之金高少も相違無御座侯、以上、元禄一一一年午五月三田領下師岡村庄右衛門、長十郎⑰松平清三郎様八兵衛⑳五郎左衛門⑩弥兵衛⑦同領野上村次郎右衛門⑩十右衛門④同領今寺村惣右衛門③特にこの時期、年貢請負人的性格を有していた下師岡村の吉野太郎右衛門から家督を譲り受けた庄右衛門には、下師岡・野上・新町の一一一ヶ村分あわせて未進年貢額は永六八
貫七○六文七分と漆六盃で、他の者に比して極めて高額で 法政史学第四十号あり、この未進年貢金の上納は吉野氏にとってゆゆしき問(昭)題となっていた。
このため同年五月十八日、下師岡村の庄右衛門は「随分
(未進年貢金)精出シ、金子御上納申度奉存候得共、先年相禿し、差上候
得老、金子調法不罷成、殊二当分之御年貢、漸々御上納仕(鋤)儀二御座候而、金子差上申事成兼奉存候」と述べ、未進年 貢の上納が不可能であることを代官松平清三郎に訴えた。
(松平清一一一郎代官)(耒進年貢金)同時に「殿様以御慈悲、右之金子連々御取立被遊被下百姓 一一相募、金子御上納仕候様二御取立被為下候〈、、難有奉
(印)存候」と述べ、未進年一貝金については代官が一般の百姓に 課し村全体から徴収してくれることを願い、未進年貢金を 自らが全額上納することを回避し村方の百姓へ未進年貢問
題を転嫁していく意図を明瞭にしている。その結果、元禄三年の暮れから「壱ヶ年二付、金弐両宛
(い).…:(中略):.…上納」するように決められ、未進年貢の回収が開始されるのである。以後、別表のように下師岡村庄右衛門分の未進年貢金の 上納が行なわれていたが、未進年貢金の受取状は代官手代
、、から「名主」あるいは「名主庄右衛門」(傍点・・・…筆者)あてに発給されており、村方で未進年貢金を引き受ける形で 上納が行なわれていたことが理解できる。また古川武兵衛
七一 一
下師岡村未進年貢金年賦一覧表
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場)
受取状発給日|上納金額|受取状形態|受取状宛名 備 考 元禄3年4月19日
〃3.12.27
〃3.12.27
〃4.12.26
〃5.12.28
〃6.12.20
〃7.]2.27
〃8.12.27
〃8.12.27
〃10.10
〃11.10
〃12.7.晦
〃12.11.19
〃12.11
〃14.正.17
〃14.10
〃15.11
〃16.6.5 宝永元.11
〃2.10
〃4.6
〃7.7.14 正徳元.7
〃元.7
〃元.7
〃元.7
〃元.7.21
〃2.4
〃3.4
〃3.
〃4.4.10
未進金受取手形
〃
〃
〃
〃
〃
〃
〃
下師岡村名主
〃〃庄右衛門
〃〃〃
〃名主
〃〃庄右衛門
〃名主
〃〃
〃〃
〃〃
〃〃庄右衝P7
〃〃
〃圧右衛ドヨ
〃名主庄右衛門
〃名主
〃庄右衛門
〃名主
〃〃
〃〃
〃名主百姓
〃〃〃
〃〃〃
〃〃
〃〃百姓
〃〃〃
〃〃〃
〃〃〃
〃
〃名主百姓
〃〃〃
(〃〃庄右衛門)
〃〃〃
匁
1分分分分分分分分6盃244244
縦薩澱鍬〃〃〃〃
文00 3 7
文氷6氷1
両両両両両両両辨皎Ⅷ撒撒粉粉柵両撒撒撒獅撒撒両撒撒轍鮒啼粉撒撒唾織麺
05永31221221,金文永永金金永2永永永永永永1永永永永1文永永永永4末進漆代金 元禄9年分
〃10年分
〃11年分
〃11年分
〃11年分
〃12年分
〃13年分
〃14年分
〃15年分
〃16年分 宝永元年分
〃2年分
〃
勘定目録
〃
未進金受取手形
〃
勘定目録 未進金受取手形 皆済目録
〃
〃
勘定目録
〃
〃
未進金受取手形 勘定目録
〃
〃
〃
未進金受取手形 勘定目録
〃
(未進金受取手
渠詮金皆済手形
分分分分年年年年3456
鋤〃〃〃
〃7年分 正徳元年分
〃2年分
吉野禎次家所蔵文書(貢租・諸役)をもとに作成。
(註)
七 から三十二年後 代官が免職して れていき、高室 金の回収が図ら 順調に未進年貢 納され、年賦で が幕府代官に上 年二両という額 その後、ほぼ れていた。 の取扱いがなさ の村年貢と同様 目が加わり、他 未進」という項 室四郎兵衛様古 目録の中に「高 同村の年貢勘定 七)十月以降は 禄十年(一六九 官に就任した元 が下師岡村の代
以上、高室代官の在地支配の実態や高室代官の下で郷村支配を行なっていた土豪的農民吉野氏の動向、および年貢未進に伴う高室代官の処罰と未進年貢金処理問題などを通して、近世前期における世襲代官の支配とその終焉の様子をゑてきた。ここではそれらを簡単に要約し若干の考察を加え結論とする。高室代官は近世初頭より四代七十有余年にわたって江戸
幕府に仕え代官職を世襲し、時には一代官の職務領域を越 え交通・経済・商業などの行政にも携わり多岐にわたる職
務を担当しながら在地支配を行なっていた。そのような高室代官の在地支配を武州多摩郡青梅近郊の支配地に住し支えていたのが、中世以来、在地士豪の系誹をひく下師岡村名主吉野氏であった。同氏は周辺諸村の名
主役をも兼ね、それら村落の年貢徴収や代官所への上納、陣屋役の割付けなどに関し広範な権限が与えられ、高室代
官の下で一一代にわたって土豪的・年貢請負人的な性格を有する農民として郷村支配にあたっていた。 の正徳四年二七一四)四月に至り、高室代官時代の未進(⑪)年一貝金が清算されることになったのである。おわりに 法政史学第四十号
そして高室代官の在地支配は吉野氏のような士豪的農民との強い結びつきによって支えられていたのであるが、延宝年間以降に至ると高室氏の支配村落においては年貢未進問題が発生し、これを原因として世襲代官高室氏は失脚、ここに近世初頭以来続いてきた世襲代官高室氏による在地支配は終りを告げることになった。そして、その失脚に前後して高室代官の在地支配を支えていた多摩郡下師岡村名主吉野太郎右衛門も家督を譲り、兼務していた周辺村落の名主役も退き、土豪的農民としての影響力を次第に弱めていった。代って家督を譲り受け下師岡村の名主に就任した吉野庄右衛門は、自らの手では回収が不可能となった高室代官時代の未進年貢金について、村が直接年賦で上納していくことを幕府代官に願い、自らが未進年貢金を上納することを回避した。その結果、高室代官時代の未進年貢金は二十五年の歳月をかけて村全体で完納することになった。ところで以上の経過から考察して、高室代官の失脚は従来から有してきた勘定奉行I世襲代官(高室氏)l土豪的農民(吉野氏)l小農民という重層的な支配関係の解消を迫るもので、世襲代官の処罰、土豪的農民の否定へと発展し、代って未進年貢の処理過程の中で勘定奉行I 七四
吏僚代官11小農民という支配関係をつくり上げていく契
機になったのである。すなわち、天和~元禄期には幕府の方針にもとづき世襲 代官の粛清が図られ代官の吏僚化が進められていたが、在 村においては世襲代官の消滅に伴い、この時期土豪的な性 格を有する農民が否定され、フラットな農民関係にもとづ く近世的な村落へと移行しつつあったことが指摘できる。
註(1)村上直「関東幕領における八王子代官」弓日本歴史』一六八号。論集日本歴史7『幕藩体制l」収録)、大舘右喜「地方支配と陣屋役」(『地方史研究」三四号。同『幕藩制社会形成過程の研究』収録)。なお本稿では近世前期に関東・東海地方を中心に世襲で年貢請負人的性格をもって陣屋支配を行なった代官を〃世襲代官〃と呼ぶことにする。(2)辻達也「『天和の拾』について」(『史学雑誌』六九編二号)、森杉夫「代官所機構の改革をめぐって」(『大阪府立大学紀要』一三号)。(3)管見によると近世前期幕府代官支配を具体的に取上げて検討した最近の研究業績としては佐藤孝之「近世前期幕領における代官経営の実態l遠州川井代官宮崎氏の事例を中心にI」(『国学院大学大学院紀要」第一二帆)がある.また本稿で研究対象とした高室代官の在地支配については武田庸
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) 一郎「近世初期、武州多摩郡新町村の開発について」(「東京都古文書集』第二巻)の中で若干紹介されている。(4)『新訂寛政重修諸家譜』第四一九三頁。(5)村上直前掲註(1)論文。(6)『新訂寛政重修諸家譜』第四一九三頁。(7)『日野市史史料集地誌編』一四一頁。(8)『新編武蔵風土記稿』の下田村の項には「検地は寛永十四年七月藤平七左衛門た堂せり」、万願寺の項には「検地は寛永十四年七月什二日藤平七左衛門た図せり」、新井村の項には「寛永十四年七月藤平七左衛門と云もの検地すと、想ふに別に奉行せし人ありて、七左衛門はその手に属せし人なるべし」とある。ところでそれら諸村で検地を行なった「藤平七左衛門」なる人物についてはこの時点では高室代官との関係は明らかではない。しかし、同姓同名の人物が時代は下るが後述する東京都青梅市師岡町の吉野禎次家所蔵文書の中に幕府代官高室四郎兵衛昌貞の手代として記載されて出てくる。その点から類推して考えると、この藤平七左衛門なる人物もこの時期に四郎左衛門昌重の手代かそれに近い関係にあった者と判断して間違いないものと思われる。そのために寛永十四年に下田村他一一ケ村で実施された検地にも高室代官の関与が考えられる。また日野本郷の東南、多摩川を狭んだ対岸の多摩郡中河原村では「寛永十四年近山与左衛門・岩沢又兵衛検地して貢租を定む」(『新編武蔵風土記稿』)とある。近山与左衛門は寛永十三年に武州八王子町奉行を勤めているが(「新編
七五
武蔵風土記稿』第五巻、一六六頁)、岩沢又兵衛は寛永十二年五月十日発給の多摩郡小河内村御成箇受取目録S南関東近世初期文書集仙』)においては、代官を勤めていた高室喜三郎昌成(四郎左衛門昌重の三男)の手代として記されていて、この多摩川中流域の検地が代官高室親子によって推し進められていたことがわかる。なお前述した藤平七左衛門は寛永十四年六月、多摩郡青梅近郊の塩船観音寺へ大般若経二巻を補写し寄進しているが、その奥書には次のように記されていた。(武)□州杣保内一二田谷塩船村千手堂之大般若経二百余巻近来紛失之処塩船寺、U法師調之令全部刻二巻書写令寄進畢寛永十四暦丁巳六月日生国上総国久留里郷当時三田谷青梅住藤平七術門尉政信為二世安楽也二巻之内(『西多摩文化財総合調査報告』第一分冊一三一一一頁)これによると彼(藤平七左衛門)は誇を政信といい、上総国久留里郷の出身で、当時青梅(森下陣屋力)に住していたことがわかる。ところでこの大般若経の寄進は検地などの実施によって在地勢力との間に軋繰が生じることに配慮したためと考えられ、高室代官の在地支配にあたっては在地勢力の一翼をになう有力寺院に対しては宥和策をとりながら進められていたことが窺われる。(9)堀口家文書(埼玉県立文書館蔵)。(川)『新編武蔵風土記稿』第五巻一二六頁。(Ⅱ)「新編武蔵風士記稿』第五巻一五一頁。 法政史学第四十号
(、)高室四郎左衛門の武川八王子町周辺の陣屋について「新編武蔵風土記稿』ではこのほか下一分方村の隣村である大楽寺村小名千本木を上げているが定かではない。ここでは下一分方村の古刹諏訪明神社と高室代官との次に示すような関わりに基づき、高室代官の陣屋の位置を下一分方村として断定的に取り扱った。、、、、、、、、、、、、、、、元和九年当所の御代官高室金兵衛の子息、病に榧り療養の験なかりしに、当社に祈りしが病洞忽愈たれば、奇異の恩ひをなし、当社を再興せり、(傍点:…・筆者)(『新編武蔵風土記稿』第五巻二六九頁)(B)『新訂寛政重修諸家譜」第四一九三頁。(M)「仁君開村記」(青梅市新町吉野徳太郎家所蔵文書)。(咀)青梅市師岡町吉野禎次家所蔵文書、書状肌1。(旧)『埼玉の中世文書』一六一頁。(Ⅳ)『東京府史蹟保存調査報告書』第六冊第十一図版。(旧)『東京府史蹟保存調査報告書」第六冊一六~一八頁。(旧)『東武実録』巻第一(内閣文庫蔵)(別)『千葉県史料中世篇諸家文書』一一一六一~一一一六二頁。(Ⅲ)西多摩郡五日市町伊奈石川尚志家所蔵文書。(麺)『武蔵田園簿』(慶安一一~三年作成)によると平井村は幕府代官福村長右衛門、伊奈村は幕府代官岡上甚右衛門とによって支配されていたが、ここに示した平井市に関する訴状が作成された寛永十年頃も両代官の支配に変わりはなかったようである。そのためこの高室金兵衛昌成あての訴状は支配
七六
代官として金兵衛昌成が受理したものではなかったと考えられる。(羽)『史翰』第一八号一七二頁。(別)『埼玉県史資料編Ⅳ』近世8四五七頁。(妬)『新訂寛政重修諸家譜』第四一九三頁。(妬)承応一一年(一六五三)十月からは「四郎左衛門」を名乗り、以後変わることはなかった(堀口家文書)。(〃)堀口家文書。(肥)管見のかぎりでは四郎左衛門昌久が発給した武州高麗郡高麗本郷、同多摩郡小河内村、同多摩郡大船村の年貢割付状計十八通がある。なお寛文六年(一六六六)八月武州多摩郡青梅の金剛寺では銅鐘を鋳造しているが、この鐘の銘文の中には「当所代官高室四郎左衛門尉源昌直」をはじめ、彼の手代である「藤平七左衛門尉政信昌岩沢又兵衛尉正興昌藤平武左衛門尉貞信」などの名前が「助縁」「勧縁」として刻まれており(『東京府史蹟名勝天然紀念物調査報告」第四冊八~九頁『高室代官が在地支配を円滑に行なうため青梅地方の寺院勢力との結びつきを強めていたことが窺われる。(羽)『武州高尾山史料集』一六~一七頁。なお同書では書状を年次未詳として取り扱っているが、内容から判断し「寛文元年」と比定して間違いないものと考える。(別)『栃木県史史料編』近世一一一一一一七九~三八○頁。(弧)『新訂寛政重修諸家譜』第四一九四頁。(胡)『入間市史近世史料編』一一二二頁。
近世前期世襲代官の支配とその終焉(馬場) (羽)『東京府史蹟名勝天然紀念物調査報告書」第四冊二~五頁。(弘)『栃木県史史料編』近世一一一三八四頁。(弱)吉野禎次家所蔵文書支配恥4。(妬)『新訂寛政重修諸家譜」第四一九四頁。(町)前掲註(u)に同じ。(銘)前掲註(旧)に同じ。(羽)滝沢博「新町村開拓に関する二、三の覚書」(『多摩郷士研究』五十一号)。(側)青梅市師岡町の吉野禎次家に現存する「吉野略系図」によると、織部之助の跡を継いだのが次男の庄右衛門であり、庄右衛門の息子の太郎右衛門がそのまた跡を継いだことになっている。しかし、現存する吉野禎次家所蔵文書八七○三点を詳細に検討していくと「吉野太郎右衛門」の名前が登場する史料の上限は正保四年(一六四七)二月二十九日で下限は元禄元年(一六八八)十二月十日であった。また「吉野庄右衛門」の名前が掲載されている史料は上限が元禄二年(一六八九)五月十三日、下限が享保二年(一七一七)十二月晦日であった。以上の点を踏え考えると下師岡村吉野氏の家督は織部之助l太郎右衛門l庄右衛門と引き継がれてきたものと思われる。(似)吉野禎次家所蔵文書治安M1。(蛆)同右村政・村況肌3。(紐)同右村政・村況肌6。
七七
(仏)同右村政・村況肌5,7,8。(妬)同右貢租・諸役肌⑬。(妬)『新編武蔵風土記稿』第六巻C八六頁)には「大柳」は多摩郡青梅村の小名として記載されている。(灯)吉野禎次家所蔵文書貢租・諸役胸5。(州)同右支配M1。(⑲)同右交通肌1。なおこの史料を詳細に分析した研究に大舘右喜前掲註(1)論文がある。(印)吉野禎次家所蔵文書貢租・諸役MⅧ。(別)『徳川実紀」第五篇四○一頁。(兜)天和三年(一六八三)段階で多摩郡下師岡村の延宝四年(一六七六)分の年貢金は六年以上、延宝六年と延宝七年分の年貢金は三年以上の延納が生じていた。詳しくは拙稿「近世前期幕領村落の年貢上納の実態」(『学芸研究紀要』第五集掲載予定)参照のこと。(昭)吉野禎次家所蔵文書支配M4。(別)武州高麗郡高麗本郷へ天和二年十一月に発給された年貢割付状の差出人は「高室四郎兵衛」であったが、翌三年十二月からは代官「大久保平兵衛」の名前に代っており、明らかに高室代官の失脚が裏付けられる。また多摩郡下師岡村では(元禄元年)未進年一貝について「去辰ノ年に四郎兵衛様御取被成候付一一……(中略)……漸々金子弐拾両上納仕候」(吉野禎次家所蔵文書貢租・諸役肌川)とあるように、高室代官が免職してから七年後の元禄元年時点でも高室前代官によって未進年貢 法政史学第四十号
の取立てが行なわれていたことが確認できる。(弱)吉野禎次家所蔵文書貢租・諸役肌朋。馬)同右貢租・諸役MⅢ。(町)同右貢租・諸役MⅢ。(肥)吉野太郎右衛門は高室代官が切腹した元禄二年四月から遡って、約五ケ月前の元禄元年十二月十日から以降は史料上に名前が登場してこない。また元禄元年十一月十日と十二月十日には太郎右衛門が所持していた河辺・今寺・大門・新町など四ケ村分の基本帳簿(水帳・名寄帳・年貢割付状)がそれぞれの村に返却されている(吉野禎次家所蔵文書村政・村況肌5,6,7,8)。これらのことから元禄元年末以降に年貢未進の責任をとらされて家督を庄右衛門に譲ったものと考えられる。その結果、土豪的な農民であった吉野氏の周辺村落への影響力も急激に弱められていったものと思われる。(開)。(N)吉野禎次家所蔵文書貢租・諸役M価。a)同右貢租・諸役M川。③)同右貢租・諸役肌加。(付記)本稿は東京都教育委員会が昭和五十九年度から三ヶ年計画で実施した青梅市師岡町吉野禎次家所蔵文書の共同調査(調査団長・村上直法政大学教授)で得た成果をもとに作成した。また本稿で引用した高室代官関係史料の一部は澤登寛聡・武田満一郎の両氏からその所在についてご教示をいただいた。ともに記して謝意を表する次第である。 七八