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〈 日 常 〉 の な か の 近 世 ・ 出 仕 へ の 道

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(1)

︿ 日 常 ﹀ の な か の 近 世 ・ 出 仕 へ の 道

││紀州藩家老三浦家文書﹃家乗﹄を素材として││

西 岡 直 樹

はじめに

一︑出仕の向こう側︱一七世紀後半の三浦家家臣団

二︑出仕への道

三浦家家臣団の﹁開かれた門﹂︱嫡子の出仕と召抱・任用

出仕への道︱生菴の選択

むすびにかえて

はじめに

紀州藩家老三浦家家臣︵=陪臣︶を父・長兄にもつ石橋生菴︵一六八二〜一七〇一︶は︑寛文七年︵一六六七︶九月二

三日︑三浦家に中小姓として出仕を果たした︒彼がこの日を歓び迎えたことは︑自らの書きつづけてきた日記に前日

︵=二二日︶で区切りをつけ︑この日から新しい料紙に﹁新たな始まり﹂を刻みだしたこと

︑同じくこの日から﹁一

― 1 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(2)

日﹂﹁一日﹂の出来事を漏れなく書き留めるようになったこと

き綿連︑は日のこ︒るでかがとこる知に分十もらと

﹁小さな波動﹂を繰り返す彼の︿日常﹀のなかで︑﹁大きな波﹂が打ち寄せたときだった︒しかし︑この時点ですでに

二十六歳となっていた生菴は︑どのようにしてこの日を迎えたのだろうか︒

本稿は︑石橋生菴という一人の男が一日一日を生きた︑その日々のあゆみに寄り添って彼の︿日常﹀をみつめるこ

とを出発点とし︑その﹁全体﹂像から︑近世を生きた人びとの︿日常﹀︑さらに﹁近世社会﹂を照らしかえそうとす

る︑日常史の試みの一環をなすものである

これまでみてきたように︑生菴は︑﹃家乗﹄という日記に︑自らの生きる日々と分かち難く結ばれた﹁出仕﹂と

﹁家﹂に関わる出来事を︑生涯︑大切に書き留めつづけた

の仕出﹁︑てっとに記日彼︒たま︑てっとに々日の彼す る﹂

﹁武士として仕える﹂ことは︑その底流を貫く大切な営みだったことは間違いない︒そんな彼にとって︑﹁初出

仕﹂へとむかう道のり︑そこに生まれる﹁小さな波﹂の数々は︑なによりも︑かけがいのない︿日常﹀だったはずで

ある︒

生菴が出仕を許された︑一七世紀後半の三浦家家臣団︵=陪臣団︶とは︑どのような社会だったのだろうか︒召し

抱えられた中小姓とはその家臣団においてどのような位置にあり︑出仕後の自分の姿にどのような展望をもつことが

できたのか︒この家臣団は︑三浦家家臣の三男として生まれた生菴にどのように開かれ︑また彼はどのようにしてそ

こに辿りついたのだろうか︒

近世を生きた人びとの﹁初出仕﹂︵召抱︑仕官︑相続など︶という契機については︑これまでの近世大名家臣団や近

世身分制社会の研究もまた︑大切に扱ってきた

たす象対を︶団臣だ︒︵団士藩る直属は直︑そのく多︑幕藩領主に 近のへ仕出・世日のかなの﹀常︿道

― 2 ―

(3)

とし︑また武士の家督相続者

嫡男を暗黙のうちに扱うものだった

存りよにな︑や況状伝︒の﹂料史﹁︑はれここ れまでの研究史が抱えた課題︵=封建制・幕藩体制・身分制などの解明をめざす研究潮流︶から︑必然的に生まれたものと

いえよう︒

しかし︑近世大名家臣団が︑直属藩士の家臣たち︵=陪臣団︶を一つの﹁下支え﹂として成立していること︑また

武士の﹁家﹂が二男以降の男子たちを多く輩出しつづけることは論を俟たない

団と明解の成編臣︒家の主領藩幕い

った︑いわば﹁上﹂からの視点ではなく︑その藩社会や身分社会に生きた人びと自身に寄り添って︑彼らが自ら﹁体

感﹂し︑日々を生きることによって辿りついた﹁初出仕﹂

﹁武士になる﹂という節目をみつめることもまた︑﹁近世

社会﹂というものを照らしかえす︑大切な視座なのではないか︒

本稿では︑そのような日常史の視座に立ち︑石橋生菴という地点から︑彼にみえていたはずの一七世紀後半の三浦

家家臣団︵=陪臣団︶の姿と︑そこに辿りつく生菴の日々をみつめてみたい

一︑出仕の向こう側││一七世紀後半の三浦家家臣団

生菴が出仕を許された︑一七世紀後半における三浦家家臣団とはどのような社会だったのだろうか︒召し抱えられ

た中小姓とはその家臣団においてどのような位置にあり︑出仕後の自分の姿にどのような展望をもつことができたの

紀州藩家老三浦家に関する文書群には︑管見のかぎり︑これらの問いに迫るために不可欠ともいえる︑これまでの

― 3 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(4)

藩家臣団研究がその形成過程や構成︑職制などを分析する際主な素材としてきた﹁由緒書︵先祖書︶﹂﹁分限帳︵侍

帳︶﹂などといった基本史料は伝存しない︒

しかし︑前稿までに指摘したとおり︑生菴は︑彼の日記﹃家乗﹄に︑三浦家に関する出来事を書き留めつづけた︒

その記事は︑三浦家の年首拝礼席次や江戸往還の﹁供奉之士﹂などの家臣名列記から︑家臣一人一人の初出仕︑加

増︑役職︑昇進︑致仕︑死亡などといった足跡にまで及ぶ︒もちろん︑出仕以前と以後︑紀州在住期と江戸在住期︑

あるいは﹁日記を書く﹂態度の時期的な揺れなどから記事の精粗があり︑また日記の二つの欠落時期や日記という史

料自体の性格から家臣の改名・相続などが連続的に辿れない事例も少なくない

︑にか確に菴生は︒にこそしかしみ

えていた︑三浦家家臣団の姿がある︒ここでは︑彼が大切に書き留めたこれらの記事群から︑一七世紀後半の三浦家

家臣団に少しでも近づいてみたい

生菴が日々書き留めた日記には︑三浦家家臣だけでなく︑紀州藩のさまざまな直臣︑陪臣が登場する︒それらの武

士群から三浦家家臣団を特定する目安となる記事群に︑

.

年首の﹁家臣拝礼之次序﹂︵﹁諸士拝礼之序﹂など︶ b

.

主君が江戸や京都などを往還する際の﹁供奉之士﹂︑鷹狩や別邸などに扈従する家臣名 c

.

三浦家で催される大規模な諸行事︵婚礼︑藩主の三浦家枉駕など︶の際の﹁家中諸士役付﹂や家臣名 d

.

﹁玄猪之拝﹂における﹁諸臣﹂

などがある︒これらのうち︑三浦家の家臣団構成や序列を推しはかる糸口となるのは︑生菴自らが﹁次序﹂﹁次第﹂

などと表題して︑家臣名を列記するaである︒ ︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 4 ―

(5)

この﹁年首拝礼次序﹂は︑生菴が出仕を果たした寛文七年︵一六六七︶から日記

の途絶える元禄一〇年︵一六九七︶までの三十一年間に︑十六年分書き留められて

いる︒拝礼の場による区分と家臣名を列記するのみで︑各家臣の禄高・役職などは

判然としない︒その記載態度も必ずしも一定せず︑列記する家臣数に増減がある︒

最も記載家臣数の多いのは︑生菴の初出仕直後の寛文八年度と︑主君代替わり︵為

時↓為隆︶直後の延宝五︑六年度︵一六七七︑一六七八︶の︑六十六〜六十七名であ

そこで︑延宝五︑六年度の﹁年首拝礼次序﹂をもとに︑各家臣の同年度時点の禄

高・役職などを︑生菴が日々書き留めた家臣たちの足跡記事から推測しうる範囲で

補ったのが︑︿表1﹀である

かあも臣家いなえしにら︒明をどな職役や高禄る

が︑その大概を知ることはできよう︒

まず︑︿表1﹀のうち︑﹁自書院廊拝礼﹂家臣の序列末尾に中小姓群が並ぶこと︑

家臣

7 1

および家臣

7 0

るす場登らか礼拝の度年翌れたさ用任に姓小中れぞれそがこ

序とする家臣団列界であることが﹂境な﹁どから︑この次﹁序﹂が中小姓をわ

かる︒三浦家における年首拝礼は︑中小姓以上の家臣団と︑﹁自東廊﹂別拝礼する

隠居・医師・侍童など

に許されたものだった︒

この年首拝礼に列席を許されない家臣を含めた︑三浦家家臣団の全容を知ること

表1 三浦家における年首拝礼席次と禄高・職(延宝5、6年度)

[自書院廊拝礼]

備 考

80. 9死亡時の遺領

73. 2「家宰」と表記

77. 10家宰 28歳。

80. 9に家臣1の遺領350 石

**72. 12に「玄蕃公之臣」

職 家宰(60. 4〜)

家宰(60. 4〜)

老中(72. 11〜)

小姓頭(72. 12〜)

小姓頭**(70. 6〜)

禄 高

〔350石〕 250石(72. 11〜)

250石(73. 12〜)

150石(70. 6〜)

家臣名 大多和治右衛門 鈴木弥五左衛門 鈴木善兵衛 土肥門左衛門 大多和長右衛門 1

2 3 4 5

― 5 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(6)

46歳。

88. 5死亡時の注記

**72. 12に「玄蕃公之臣」

79. 11放逐時の注記 67. 4に「倍賜五十石」

60歳。

88. 2死亡時に「中小姓 首」と表記

43歳。

75. 12に「権任世子歩行 頭」。77. 11死亡時の注記 に「造作大吏」

50. 2+60. 2+67. 4の禄 高計

**89. 6に「監察」と表記 72. 12に「倍賜五十石」

72. 12に「倍賜五十石」

32歳。

77. 8に「近為監人」

55歳。

77歳。

86. 3に「解幾吏支丹吏」

35歳。

79. 11に「賜五十石為鎗 大将」。87. 10死亡時の注 記に「鎗首・賜百五十石」

23歳。

75. 12に「権任世子歩行 頭」。77. 8に「近為監人」

79. 11に「倍五十石・合 領百石・為小姓首」

74. 1に「仮為足軽長」

29歳。

73. 12に「加賜月俸一石 八斗」

73. 12に「加賜月俸一石 八斗」

51歳。

73. 12に「加賜月俸一石 八斗」

足軽頭**(71. 4〜)

小姓首

中扈従長(61. 12〜)

修造吏、近侍

(ともに74. 1〜)

諸士之監**(63. 2〜)

足軽頭(69. 4〜)

足軽頭(75. 9〜)

足軽頭且代居(76. 1〜)

歩卒長(75. 9〜)

〔幾吏支丹吏〕

玄蕃公歩行組頭

(73. 12〜)

勢州代官(69. 10)

〔200石〕

200石(76. 8〜)

150石(68. 2〜)

200石(71. 8〜)

〔120石〕 150石(69. 4〜)

150石(75. 4〜)

〔100石〕

100石(71. 9〜)

100石(71. 8〜)

〔50石〕 20石月俸3人料

(76. 1〜)

20石月俸3人料

(76. 1〜)

20石月俸3人料

(76. 1〜)

50石(60. 2〜)

20石(71. 4〜) 20石(71. 12〜) 岡 七郎兵衛

小林佐次兵衛 緒方清太夫 崎山理右衛門 佐谷平左衛門

石橋市左衛門 生田伊兵衛 多賀長兵衛 矢部伊左衛門 生田次郎左衛門 二宮忠左衛門 矢部七太夫 根来作兵衛 後藤勘大夫

梅原弥大夫 佐谷平四郎 松田政右衛門 石原木工大夫 小林清兵衛 横井藤十郎 沢井新八 松本久左衛門 小出半之丞 石井亀右衛門 佐々木千右衛門 6

7 8

※9 10

11 12

※13 14 15 16 17 18 19

20 21

※22 23 24

※25 26 27 28 29 30

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 6 ―

(7)

73. 12に「加賜月俸一石 八斗」

78. 2に、修造吏

28歳。

39歳。

22歳。延宝6年度兵右衛門

71. 4+74. 12の俸禄計 26歳。

77. 12に、10両 延宝6年度武左衛門

79. 11に「倍賜金二両合 拝七両」

25歳。

77. 12に、10両 55歳。

88. 2に「倍 賜 年 俸・旧 年六両今拝七両」

91. 12に「免歩行首」

75. 12に「倍賜一両」

78. 6に「倍賜月俸2人料」

79. 11に「倍賜金二両合 拝七両」

62歳。79. 2死亡時の注記

71. 4+75. 2の俸禄計 77. 12に、10両

76. 3に「倉部君之臣」。

78. 2に、修造吏 17歳。

79. 12に「倍賜・金一両

・合領五両」

74. 12に「倍賜金一両」

侍童(75. 6〜)

宇 治 足 軽 組 頭(74. 3

〜)

組頭(72. 12〜) 歩卒小長(75. 7〜)

御者(76. 2〜)

中扈従

中扈従(75. 11〜)

中扈従(75. 4〜)

調度吏(76. 9〜)

中扈従(74. 12〜)

20石(71. 12〜)

〔12両〕 5両(76. 1〜)

〔5両〕 2両(71. 4〜)

10両(70. 12〜)

〔6両〕 7両(70. 12〜)

6両(72. 12〜)

8人扶持(76. 2〜) 6両(75. 12〜)

〔5両〕

〔3両〕 5両(76. 1〜)

5両(76. 1〜)

5両(76. 1〜)

5両(76. 1〜)

5両(75. 12〜)

5両(76. 1〜)

〔4両〕 坂本金右衛門

西村四郎左衛門 木村七郎左衛門 嶋村小右衛門 杉本安左衛門 長谷川半左衛門 茂呂伝三郎 崎山善九郎 石橋喜八郎 生田半七郎 津月五兵衛 石井善三郎 太田甚六郎 赤坂十左衛門 立石市兵衛 永田源太左衛門 永原金兵衛 鳥場権兵衛 池村加兵衛 鳥場茂右衛門 星野新七 山本九右衛門 小林晩介 太田市大夫 松本小吉 大田次郎太郎 松田仁右衛門 高田茂兵衛 高田利左衛門 石川木工左衛門 後藤九郎太夫 佐々木孫右衛門 多賀三九郎 按濃小兵衛 中村小兵衛 31

※32 33 34 35 36 37 38 39

※40

※41 42

※43 44 45 46 47 48 49 50 51 52

※53 54 55 56 57

※58

※59 60

※61 62 63

※64 65

― 7 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(8)

80. 8自 殺(不 死)時 に

「中扈従・勢州代官」と注記

80. 11に「倍賜年俸一両

・合拝五両」

80. 11に「倍賜年俸一両

・合拝五両」

80. 12に「倍賜一両・合 領五両」

[自東廊拝礼]

備 考 67歳。

78. 3死 亡 時 の 注 記 に

「旧修造吏・領百五十石」

83歳。

69. 10〜勢州代官

77. 7に「元服、賜二十石 三人料」

78. 4に「賜世禄百五十石」

79. 6に「賜月俸・毎月三斗」

86. 4に「加首服賜五十石」

86. 10に、中扈従

[備考]

1.本表は、『家乗』延宝5年(1677)115日条に記載された「諸士拝礼之次第」の序列を 基本として、同日条にもれた家臣名を同611日条「拝礼諸士」で補い、各家臣の延宝 51月時点の禄高・職を一覧化したものである。

なお、6年度「拝礼諸士」から補った家臣には「※」を付し、序列位置については、他の 年次の年首拝礼次序の序列、および禄高などを勘案して、仮に配置した。5年度と6年度と の間に若干の序列の混乱があるが、補正せず、5年度序列を基本とした。

また、表中の破線は、延宝5年度「次第」に、家臣1〜6のみ「献青蛇竜蹄其価一分」と いう注記があるため、区別した。

2.禄高欄・職欄は、『家乗』にあらわれる当該家臣の加増・昇進記事、あるいは禄高・職に 関する注記などから、原則として、禄高についてはもっとも直近のものを、職については記 載時期の早いものを採り、その年次・月を付記した。従って年次・月は、必ずしも、当該家 臣の加増・昇進などの時点と一致しない。年次・月の表記は、一覧の煩雑化をさけ、西暦下 2桁・月で表示した。旧暦新暦換算は施していない。職名は、『家乗』の当該記事の表記に 従った。

また、延宝5年度時点の禄高・職が不明確な場合や前年までの記事から明示しえない場 合、 」を付して、当該家臣に関する記事群全体や延宝5年度1月以降の記事から想定 した。

3.備考欄には、当該家臣の死亡などにより年齢が判明する者について、延宝5年時点の年齢

を算出した。ほかに、禄高・職欄の想定根拠や参考記事を「」を付すなどして、補った。

中小姓(75. 12〜)

中小姓(75. 12〜)

中小姓(77. 8〜)

中扈従(76. 10〜)

職 致仕(76. 1) 致仕(71. 4)

侍童(75. 12〜)

4両(75. 12〜)

4両(75. 12〜)

〔4両〕

〔4両〕

〔4両〕

禄高など 5人月料(76. 1〜)

月俸5人扶持

(71. 4〜)

20石3人扶持

(73. 5〜)

村井兵左衛門 藤本安兵衛 加住丈右衛門 白井伝次右衛門 岩間伝七郎 宮垣安右衛門

家臣名 石原遊徳 石井怡休 松田見与 伊藤立元 石橋生菴 松田権太夫 佐谷吉平 松田由正 柴山藤太郎 二宮又七 小林山三郎 66

67 68

※69

※70 71

滷 澆 潺 潸 澁 澀

※潯 潛 濳 潭

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 8 ―

(9)

はできないが︑その構成については︑元禄八年一一月二八日条に書

き写された︑江戸往還に際して家臣団に支給される路銀規定︵﹁今

日被仰出覚﹂︶の区分が参考となる︵︿表2﹀︶

︒この区分には﹁勢州

給人﹂など路程による差異も混在するが︑三浦家家臣団の基本的な

序列が︑給人︵五〇石以上と以下︶︱中小姓︱歩行︵=徒士︶︱足軽と

認識されていたことを想定させる

また︑延宝五年度﹁次序﹂に漏れた家臣を六年度﹁次序﹂で補っ

た家臣総数は︑﹁自書院廊拝礼﹂七十一名︑﹁自東廊拝礼﹂十一名︑

合わせて八十二名である︒この家臣数は︑延宝三年一一月五日条の

三浦為隆婚儀時の﹁今日御役人之覚﹂六十二名︑延宝五年一〇月二

八日条の藩主の三浦家枉駕時の﹁家中諸士役付﹂七十二名・病欠三

名と比して大差ない

のらかたかしの記表そ︒は﹂付役﹁のつ二役

割表を書き写したものと思われるが

︑ともに徒士層は﹁御歩行﹂

と記すのみで含まれていない︒江戸・伊勢など在住の家臣やある程

度の漏れはあるとしても︑︿表1﹀の家臣総数は︑この時期の三浦

家における中小姓以上の家臣団の規模をはかる目安の一つとな

表2 三浦家における江戸往還路銀規定(元禄8年)

賜旅籠銭

扶持方 喰捨難為 皆喰捨

(※「役 人」を 含む。勢州給 人は不詳。) 御代官佐々木孫右衛門役領5石。御普請奉行加住丈右衛門3石。宮垣安右衛門・

立石弥市兵衛金2両。金奉行賂3人金1両。その外小役人に「御役金」。

*本表は、『家乗』元禄8年(1695)1128日条に書き写された「今日被仰出覚」をもとに 作成したものである。

路銀金子1両(+50石に2分増)

ただし、立帰りには金子3分(+50石に1分増)

路銀金子1両

ただし、立帰りには金子3分 路銀3分

ただし、立帰りには2分 路銀2分

ただし、立帰りには1分 路銀20目

ただし、立帰り銀10匁 50石以上

50石まで 御中小姓

御歩行 坊主・御足軽 勢州給人

給人

― 9 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(10)

その中小姓以上の家臣団構成は︑︿表1﹀のように︑四両〜一二両の幅におさまる俸金給の家臣三十数名と﹁給人﹂

三十数名に大別され︑禄高と職はほぼ対応関係をもつ︒﹁給人﹂は︑禄高二〇〜五〇石の幅にほぼ十名前後︑一〇〇

石・一五〇石・二〇〇石前後にそれぞれ数名︑最上位に﹁家宰﹂︵=家老︑老中︶クラス三〜六名

といった構成であ

る︒この延宝五年度﹁次序﹂について︑生菴は﹁任記臆而書焉次第可少異矣﹂と注記しているが︑その家臣列記順

は︑鮮やかに禄高の多寡と対応する︒また︑同じく﹁次序応有異矣﹂と小書きする延宝六年度ともその序列に大きな

異同はみられない︒生菴のなかには︑﹁記臆﹂で六十六︑六十七名の家臣序列を書き留められるほど︑三浦家家臣団

内部の序列がほぼ明確な形で﹁可視化﹂されていたのである︒

では︑これらの家臣たちには︑出仕を果たした後︑どのような禄高の加増や昇進の途が開かれていたのだろうか︒

︿一覧A﹀︵本稿末尾︶は︑延宝五︑六年度﹁次序﹂に列記された家臣それぞれの三浦家家臣団内での足跡

経歴を︑

初出仕・加増・昇進・致仕や﹁年首拝礼次序﹂への初見時期などの節目に限って︑一覧化したものである︒

ここでも︑日々日記を書き留める生菴に届いた情報にもとづくため︑それぞれの家臣の足跡が漏れなく辿れるわけ

ではないが

部るみてげ挙からくい︑を姿の内︑団臣家るえがかうらか覧一のこ︒ 衢を1A︵﹂人給﹁るえ越石〇〇一ていおに﹀1表︿〜

.

21ラク石〇二高禄︑でり限るす明判が高禄︑ちうの︶ス

から加増された家臣が二名︵A7・

11︵名二は臣家たし昇上らか給金俸︑︶A

20︑ 21︶であり︑そのいずれもが

三浦家家臣を父にもつ

︒家臣A7・

2 1

を増加な幅大︑りよに仕致・亡の死父たっあで﹂宰家﹁にもと︑は得

る︒

衫二〇〜五〇石の﹁給人﹂︵A

.

22〜 31︑A 32〜 37︵名五︑でり限るす明が判高禄︑ちうの︶詳不はA

23・ 26・ 29・ 30

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 10 ―

(11)

・ 31︵名二に降以度年六宝︑延し昇上らか給金俸が︶A

22・ 23一らか給金俸︒るれさ増加に上以石〇〇一は︶〇

〇石以上に上昇した家臣A

2 3

は︑父︵A

漓=じ同と父に的終最︑料人三俸月石〇二にもとと仕致の︶石〇五一一

五〇石まで加増を得る

︒ 袁俸金給の家臣︵A

.

38〜 71らず︑禄高の判す明る限りで︑中小わかか五︶のうち︑延宝・に六年度以前以後姓

任用以後に加増を得た家臣は二十三名いる︒ただ︑その加増の多くは金給の範囲内にとどまり︑俸金給から二

〇石以上へ上昇した家臣は一名︵A

62︵臣家家浦三は臣の家こ︒るあでみの︶A

3=0二〇石︶の養子となり︑養

父の致仕とともに一五石二人料︑最終的に二〇石に達する︒

衾に団内部から中小姓昇家進した家臣が四名︵臣︑Aに俸金給の家臣のうちはて︑明確な事例に限っ

.

49・ 61・ 65・ 71︶いる︒そのうち︑家臣A

6 = 5

るれさ記明が昇上らのか士徒﹂卒歩﹁は︒ 袞﹁自東廊拝礼﹂家臣︵A

.

漓〜 潭=︵師医・︶居隠︵︶臣家たし仕致︑はA

澆〜 潸︶・侍童などである︒侍童などの

多く︵

澀〜 潭︑︵族親はいるあ父︶を臣家家浦三はA

潭︱A

32︶にもち︑家臣A

澀は父︵A

1=0二〇〇石︶の死亡

とともに﹁世禄﹂一五〇石を賜い︑家臣A

潛最賜を石〇五一に的終︑も石〇五に時同と服元う

これらの禄高の加増が何によってもたらされたかは︑日記の記載の上からは判然としない事例が多く︑︿一覧A﹀

にみる限り︑必ずしも︑職の上昇とそのまま対応するものばかりではない︒ただ︑これらの禄高の加増状況から︑三

浦家家臣団の序列では︑俸金給の家臣と﹁給人﹂との間︑とくに︵五〇石を越える︶一〇〇石以上の﹁給人﹂との間に

大きな﹁壁﹂が存在することは明らかだろう︒俸金給の家臣の多くは︑四両から︑次第に最大一五両︵A

43︶までの

範囲での加増を受け︑一部が二〇石程度の﹁給人﹂まで上昇する︒この︵俸金給から五〇石以上という︶﹁壁﹂を越え

― 11 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(12)

る﹁推進力﹂となるのは︑そのほとんどが三浦家家臣団内部︵の上層︶に父をもつという﹁血縁﹂︵A

20・ 21︑A 23・ 29︶なのである︒

しかし︑その一方で︑年首拝礼を許される家臣団序列の﹁境界﹂であった中小姓への家臣団内部からの上昇もみら

れる︒これらの事例からは︑加増あるいは昇進に対して︑この﹁境界﹂が比較的ゆるやかなものだったことを推測さ

せる︒

︿一覧B﹀︵本稿末尾︶は︑生菴が初出仕した寛文七年九月以降の全期間に書き留めた︑三浦家における家臣の召抱

記事と中小姓への任用記事を拾い︑その家臣名などを一覧化したものである

これらの記事から︑三浦家には中小姓から新規に召し抱える﹁窓口﹂があり︑その多くの場合主君への﹁拝謁﹂︑

あるいは﹁委質﹂という手続きを踏むことがわかる︒この一方︑日記の記載の限りで︑主君との﹁拝謁﹂などを経な

いで中小姓に任用される者がいる︒その多くは︑それ以前に三浦家に召し抱えられており︑﹁歩卒﹂﹁歩士﹂︵=徒士︶

から︑あるいは三両の俸金給から四両に加増されて︑昇進した家臣である︒この︿一覧B﹀を年次別に集計した︿表

3﹀

︑に進する家臣は全期間わしらたって満遍なく存在昇どか用みると︵﹁中小姓・登昇を進﹂欄︶︑これら徒士なし

かもその登用数は二十二名に及ぶ︒中小姓という﹁境界﹂は︑三浦家家臣団の徒士層らに対して︑ゆるやかに開かれ

ていたと考えてよい︒

ただ︑生菴は︑この徒士や足軽の召し抱えをほとんど日記に書き留めていない︒これらの家臣が中小姓に昇進する

際はじめて︑﹁為中小姓﹂﹁転中小姓﹂などと記して日記に書き留め︑以後彼らの加増などを日々書きつづけてゆ

︑の家臣団認︒において中自小姓という職が一つの身識菴家このこ生は︑三浦家のと臣て団た︑まいおに列序 近のへ仕出・世常のかなの﹀日︿道

― 12 ―

(13)

表3 三浦家における家臣(中小姓・侍童以上)召抱および登用数 計

1 0 1 1 4 0 1 3 9 7 2 1 1 3 0 6 0 3 5 3 1 1 1 3 0 0 1 1 59

[備考]

1.本表は、『家乗』に書き留められた、(石橋生菴の三浦家出仕以降の)三浦家における家 臣(中小姓・侍童以上)の新規召抱および登用記事(=〈一覧B〉)にもとづき、その任用 数を年次別に集計したものである。

なお、家臣嫡子の多くは当該の召抱・登用記事を伴わず、日記の記載上は突然「年首拝 礼次序」や俸禄支給記事などにあらわれるため、本表の任用数は三浦家における家臣(中 小姓・侍童以上)任用の全てをあらわすものではない。

また、表中の破線は、日記の欠落期間を示す。

2「家臣」欄には、「為家臣」「為臣」とのみ記されたもの、「許従仕」などと記す役務不詳 のものを参入した。従って、このうちにも、中小姓・侍童への任用の事例が含まれる。

3「中小姓」欄の区分は、左欄=新規召抱数、右欄=「歩卒」「歩士」=徒士などからの)

昇進数である。昇進については、当該家臣の前職や俸禄加増状況、および文脈から判断し た。昇進と明確に判断しえない場合、新規召抱に算入している。

なお、「家臣」「侍童」については、「家臣」1例(寛文11年=侍童より昇進)を除き、

すべて新規召抱による任用(一部、嫡子任用を含む)と考えられる。

侍童

2 1

1

1

1 6 中小姓

登用=昇進

1

2 3 1

1 1 3 3 3 1

2

1 22 新規召抱

1

2 1 1

1 1

7 家臣

1 1 3 1 1 2 4 1 1 2 2

1 1 1 1 1

24 西暦 1667 1668 1669 1670 1671 1672 1673 1674 1675 1676 1677 1678 1679 1680 1681 1684 1685 1686 1687 1688 1689 1690 1691 1692 1693 1695 1696 1697 計 和年号 寛文7 寛文8 寛文9 寛文10 寛文11 寛文12 延宝元 延宝2 延宝3 延宝4 延宝5 延宝6 延宝7 延宝8 天和元 貞享元 貞享2 貞享3 貞享4 元禄元 元禄2 元禄3 元禄4 元禄5 元禄6 元禄8 元禄9 元禄10

― 13 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(14)

﹁格﹂として大きな位置を占めていたことを示すものだろう︒徒士層からの昇進も決して難しいわけではないが︑年 首拝礼を許される中小姓は︑三浦家家臣団を二分する﹁境界﹂

﹁格﹂だったのである︒

では︑新規に召し抱えられ︑あるいは昇進して﹁境界﹂に立ったこの中小姓たちの場合は︑その後どのような行方

を辿るのか︒︿一覧C﹀︵本稿末尾︶は︑︿一覧B﹀の家臣たちについて︑それぞれの三浦家家臣団内での足跡

経歴

を︑︿一覧A﹀と同じ方法で一覧化したものである︒

このうちには︑﹁為家臣﹂﹁為臣﹂とのみ記すものや﹁許従仕﹂などと記して役務不詳のものも採っているため︑侍

童を除いても︑必ずしも中小姓という﹁境界﹂をスタートラインとしない家臣も含まれる︒ここでは︑﹁為中小姓﹂

﹁転中小姓﹂と明記された家臣二十九名に限って

︑その後の足跡を辿ると︑ 衢名た家臣は十一いをる︵C1・5得増・る禄高が判明す限加りで︑任用後に

.

12・ 24・ 27・ 28・ 32・ 43・ 44・ 45・ 461C︵名三は臣家たっなと格﹂給人﹁の上以石〇二︑ちうのこ︒︶・

12・ 46﹂医儒﹁は1臣C家︒るあで︶と

なった生菴自身︑家臣C

は三浦家家臣の養子︵前述A

62︶︒家臣C

4 6

は︑三浦家家臣︵A

18︶の致仕ととも

に中小姓五両二人扶持︑のち父の名を継いで二〇石に加増︒いずれも三浦家家臣を父︑あるいは養父にもつ︒

衫家︑加増された臣うは四名︵C5ちの・ら徒士層などか昇名進した二十二

.

27・ 43・ 45︶のみで︑いずれも俸金

給の範囲内に留まる︒のこりの十八名は︑中小姓のまま︑昇進時に加増された禄高︵四両〜五両︶が維持され

る︒

袁たり﹁官禄﹂を放れにた家臣が三名︵よ置C三中小姓任用後︑浦処家の﹁人馬減少﹂

.

39・ 40・ 48︶いるが︑

いずれも徒士から昇進した家臣である

︒ のへ仕出・世近のかなの﹀常日︿道

― 14 ―

(15)

といった姿がうかんでくる︒中小姓という﹁境界﹂に立った家臣たちは︑その後いくぶんかの加増を得ることはあっ

たが︑﹁給人﹂への上昇には︑家臣団内に父︵あるいは養父︶をもつという﹁血縁﹂を必要とした︒そのうちでも︑徒

士層などから昇進した家臣の多くは︑その後加増されることなく過ごし︑三浦家の財政的緊縮のあおりを直接うける

不安定さを抱えていたのである︒

以上みてきたように︑一七世紀後半における三浦家家臣団には︑給人︵五〇石以上と以下︶︱中小姓︱徒士︱足軽と

いう基本的序列が確立されており︑生菴のなかでは︑禄高︵と役職︶に応じた︑より細部にわたる序列が家臣団の一

人一人に至るまで︑ほぼ明確に﹁可視化﹂されたものとして認識されていた︒その家臣団序列は︑中小姓を大きな

﹁境界﹂として二分され︑生菴の家臣たちをみる﹁まなざし﹂をも規定した︒その序列間の﹁壁﹂は必ずしも閉ざさ

れているわけではなく︑徒士から中小姓︑あるいは中小姓

俸金給から﹁給人﹂への昇進もありえたが︑序列を昇る

につれて︑家臣団内に父︵あるいは養父︶をもつという﹁血縁﹂が﹁壁﹂を越える﹁推進力﹂となる構造を抱えてい

たのである︒

二︑出仕への道

三浦家家臣団の﹁開かれた門﹂︱嫡子の出仕と召抱・登用

では︑三浦家家臣の三男として生まれた生菴に︑この家臣団はどのように開かれていたのだろうか︒

まず︑三浦家家臣の子弟たちの出仕を︑家臣団の家督相続のありかたから確認してみたい︒︿一覧D﹀︵本稿末尾︶

― 15 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(16)

は︑生菴が初出仕した寛文七年九月以降の全期間に書き留めた︑三浦家家臣︵中小姓・侍童以上︶の死亡・致仕記事を

一覧化し︑その家督の相続がなんらかの形で明記される事例を拾ったものである

生菴の日記では︑当該家臣の死亡・致仕記事中か︑比較的近い時期に加増など相続に関わる記事があらわれない場

合︑のちに親の名を襲名しない限り︑同姓家臣であってもその相続関係を確定しえないため︑死亡四十三例・致仕十

七例のうち二十八例の相続しか辿れない︒この一覧にうかがえる限りで︑三浦家家臣団の相続のありかたを子弟たち

の出仕という視点から整理すると︑以下の諸点が挙げられる︒

衢=を親︶が一〇〇石こ臣える﹁給人﹂︵D2︵家・る禄高や職が判明す限たりで︑死亡・致仕し

.

12・ 24・ 28・ 34

41・ 43・ 44・ 47・ 56︵﹂人給﹁のスラク〇石五〜石〇二︑らか︶D

11・ 22・ 48・ 60︶︑俸金給の家臣・中小姓︵D 31・ 40・ 45るれらみが例事続に相れぞれそ︑でま︶︒ 衫にした時点で二男以下も致加増がみられる︵D2仕・・と家臣団の上層クラス︵も亡に家宰︶では︑親の死

.

12

14るれわらあが事記るわ関に続相みにの子一︑は弟子臣家の他︑が︶︒ 袁の場合は扶持米支少給をうける︵の幼Dた死亡・致仕し家だ臣の子弟がいま

.

41・ 44︶が︑家臣子弟︵一子︶の

多くは︑親の死亡・致仕した時点ではすでになんらかの形で三浦家に出仕を果たしており︑当該の時点あるい

は比較的近い時期に跡目相続を認められるか︑禄高の加増をうける︒

衾中︑﹁歩卒﹂から小機姓以上への昇進︵に契Dに家臣子弟のうちはを︑親の死亡・致仕

.

46︶︑あるいは三両の

俸金給から五両への加増をうけた家臣︵D

10︶がみられる︒ 袞家︵かぐ継を﹂跡遺聟﹁の他︑がだ明不は柄続のと臣家D

.

47︵ぐ継を﹂後て﹁しと子養︑︶D

40・ 44・

46︶こ 近のへ仕出・世かのなの﹀常日︿道

― 16 ―

(17)

とを認められる事例がある︒ 衵遺は﹁世禄﹂﹁領臣﹂という表記︵に家Dえ一〇〇石をこるの﹁給人﹂クラス

.

28・ 34・ 56︶︑二〇石〜五〇石

や俸金給の家臣にも﹁賜其跡﹂﹁賜其年俸﹂という表記︵D

45・ 60続相﹂禄の家﹁のへ子らか親︑れらみが︶と

いう認識が中小姓以上の家臣団に共有されている︒

このような相続のありかたは︑中小姓以上の家臣たちに嫡子相続が認められていたことを想定させる︒前章でみた

三浦家家臣団の構造から容易に想像されるところだが︑このことは︑家臣たちの一子︵=嫡子︶の多くに︑三浦家へ

の出仕を果たす道が開かれていたことを意味する︒三浦家家臣の嫡男は年頃になると親とともに出仕し︑親が死亡・

致仕した時点か︑いずれかは﹁家の禄﹂を相続していくのである︒

しかし︑生菴は︑石橋家に三男として生まれた︒すでに︑彼が九歳になる頃には長兄市左衛門は三浦家へ出仕し︑

寛文七年九月の時点で一二〇石の禄高を得ていた

に家は道るす仕出へ家浦三︑彼︒たっましてれま生てしと男三臣

団内の他家を継ぐ︵

袞さかうろだのたいてれこ︶のにうよのど︑に外以︒

そこで次に︑このような親子相続による出仕以外の道を︑前章で触れた家臣の召抱記事と中小姓への登用記事

︵︿一覧B﹀︶から探ってみる︒三浦家家臣の嫡男たちの多くは︑この召抱・登用記事を伴わないで︑日記の記載上は突

然︑﹁年首拝礼次序﹂や主君を供奉する家臣名列記にその名があらわれるか︑俸禄支給の形であらわれる

︒その

﹁嫡子の出仕﹂システムを採らない家臣の﹁出仕を果たす道﹂が︑この召抱・登用記事の中には含まれているのであ

る︒

生菴が書き留めた家臣召抱・登用記事には︑例えば︑

― 17 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(18)

今日梅原弥太夫委質為臣

依小笠原氏之挙而星野新七加住常右衛門委

質而為臣

歩士岡六之右衛門林崎滝右衛門為中扈従

倍賜金一両植松平八賜金子此皆賞鎮浅右衛門争闘之

功也

といったように︑それぞれの家臣に召抱・登用に関わる

とみられる注記などが付される場合が多い︒︿表4﹀

は︑︿一覧B﹀の﹁契機・事由など﹂欄によって︑それ

らを分類したものである︒

この表には﹁嫡子の出仕﹂もいくぶん含まれるため︑

それらを除いた三浦家における家臣﹁召抱・登用﹂のあ

りかたを想定すると︵事例は︿一覧B﹀の家臣名と対応︶︑

衢姓欄﹂童侍﹁﹂抱召規新・小中﹁﹂臣家﹁︵抱召規新︶

.

の場合︑三浦家家臣とのなんらかの﹁血縁﹂を有

するか︵十名︶︑三浦家関係者などの推挙︵小笠原

氏︑真鍋氏︑伊丹氏︑了法寺など︑十三名︶が基本的

表4 三浦家における家臣(中小姓・侍童以上)召抱および登用事由 計 10 3 2 5 13 9 4 20

[備考]

1.本表は、『家乗』に書き留められた、(石橋生菴の三浦家出仕以降の)三浦家における 家臣(中小姓・侍童以上)の新規召抱および登用記事(=〈一覧B〉)にもとづき、同記事 中に当該家臣に付された文言・注記を主に抽出し、集計したものである。

2.1人の家臣に2つ以上の事由記載がある場合、それぞれに算入した。従って、その総数 は、召抱・登用家臣数と一致しない。

3「三浦家家臣との『血縁』」欄の「嫡男」には、「○○男」とのみ記す事例など、二男以 下と特定しえない者をすべて算入した。

侍童 1 1 2 1

1 中小姓

登用=昇進 2

2 1 17 新規召抱

1 1 1 4 1 家臣

6 2 1 2 8 6 3 2 嫡男 二男以下 三浦家家臣を兄弟とする 三浦家家中と姻戚をもつ 三浦家関係者の推挙

「武」の技量

「文」の技量

上記の事由未記載・不詳 三浦家家臣を 三浦家家臣 父とする

との「血縁」

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 18 ―

(19)

な要件となる︒ 衫B二男以下の事例︵1す・6・7︶︑兄弟︵ると︑縁三浦家家臣との﹁血﹂父には︑三浦家家臣をB

34・ 57︶︑そ

の他の姻戚関係︵B

12・ 20・ 30・ 37・ 38︶を有する事例がある

︑量技の﹂文﹁﹂武﹁際︒のえ抱し召のられこが

特記されることはない︒

袁注家家臣との﹁血縁﹂を記三する事例はなく︑﹁武浦に﹂挙三浦家関係者などの推を者受けて召し抱えられた

.

の技量︵B9・

14・ 15・ 23・ 2=8︑善棒火矢︶文﹁﹂の技量︵︑御者︑術槍︑医馬御善︑術銃并鳥善B

15・ 2=1善書俳

諧︑書礼者︶が当該者を特記するものとなる︒

衾を8B︵者いなし記注挙推のどな者係関家浦三・

.

29・ 49・ 52・ 5=38B︵量技の﹂武︑﹁も際のえ抱し召の︶善

御︑B

5=3馬乗︶︑﹁文﹂の技量︵B

5=2茶事︶は特記される

︒ 袞=浦多﹂二十名︶事由は︑く三進場合判然としない︒の昇家か徒士層など家臣団内部ら用の登用︵﹁中小姓・登

.

家臣との﹁血縁﹂を注記する事例はなく︑家臣団内部の争闘時の﹁武﹂功二名︵B

39・ 4=0前掲︶︑﹁文﹂の技

量一名︵B

2=7善書︶が特記される︒

といった︑大まかな姿が浮かぶ︒ここでもやはり︑三浦家家臣とのなんらかの﹁血縁﹂を有することが有力な﹁推進

力﹂となっていた︒﹁血縁﹂をもたない者は︑自らの﹁武・文﹂の技量を磨き︑三浦家関係者との縁故を頼るか︑徒

士層以下への召抱の糸口を探すしかなかったのである︒

三浦家家臣との﹁血縁﹂をもつ生菴は︑家臣団外の子弟たちに比べれば︑はるかに有利な位置にいたのかもしれな

い︒しかし︑家臣団内に二男以下の子弟たちが陸続と生まれていることを考えれば︑その召抱事例数はわずかでしか

― 19 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(20)

なく︑彼らの多くが中小姓以上の家臣団に出仕を果たせないでいた

のるす有を﹂縁血﹁か︒らんなと臣家家浦三者

の召し抱えに︑技量を特記する事例はないが︑他の二男以下の子弟たちから﹁際立つ﹂ためには︑やはり︑召抱・任

用事由に特記される﹁武・文﹂の技量を磨くことが︑なにより大切な準備となったと考えられよう︒

このように︑三浦家家臣の三男として生まれた生菴には︑嫡男たちのような︑三浦家家臣団へスムーズに出仕する

道が開かれていたわけではない︒生菴がこの三浦家の﹁狭き門﹂を入るには︑家臣団内の他家の﹁後﹂を継ぐか︑

︵徒士層の任用状況が判然としないため不明瞭だが︶徒士層から出発するか︑あるいは﹁武﹂や﹁文﹂の技量を蓄積しつ

つ︑三浦家に出仕する親や親族の﹁請官﹂を﹁待つ﹂しかなかったのである︒

出仕への道︱生菴の選択

では︑生菴は︑このような三浦家家臣団の﹁狭き門﹂へどのようにして辿りついたのだろうか︒もちろん︑彼にこ

の﹁門﹂以外への道がなかったわけではない

にだん歩にうよのど︑き描い思う︒よのどを来将のら自︑は菴生の

か︒

前稿までに指摘してきたように︑現在我々が目にすることのできるこの時期︵寛永一九年〜寛文七年九月︶の日記

は︑二つの﹁編修﹂執筆部分︵寛永一九年〜慶安四年=一歳〜十歳︑承応元年〜寛文四年=十一歳〜二十三歳︶と︑﹁日次執 筆﹂部分︵寛文五年〜寛文七年=二十四歳〜二十六歳︶に分かれ︑前者の﹁編修﹂の際手元にあった記録や原﹁日記﹂に

も︑その存否や精粗度・﹁日記に向かう態度﹂などが異なる︑四つの段階がある

日し在存が﹂記﹁︒原︵︑めたのそな

い︶万治二年︵=十八歳︶以前の彼の日々を十分に知ることは難しいが︑生菴がそのそれぞれの段階で書き留めた足 ︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 20 ―

(21)

取りとともに︑それらを書き留める彼の姿をもみつめながら︑生菴の﹁歩んだ道﹂を辿ってみたい︒

寛文四年︵一六六四︶一二月から同五年五月にかけて︑生菴は︑自らの﹁これまでの日々﹂︵十一歳〜二十三歳︶をふ

りかえり︑書き纏めた︒その﹁編修﹂の際手元にあった第一段階の彼に関する記録が︑承応元年︵一六五二︑十一歳︶

から始まる﹁修学に関する記録﹂だった︒この記録をもとにした日記は︑﹁冬十月十九日始学大学于石川氏﹂﹁冬十一

月六日大学終﹂﹁七日学魯論﹂のように︑書目・題目名とその開始・終了日︵一部に教授者名︶を書き留めるだけの形

式で︑読書・学習のありかたは判然としない︒この時期に彼が就いた教授者は︑石川木工衛門・小出半之丞・金龍寺

であり

ゆ部分にあたる︒いわる二﹁四書﹂から始め︑﹁年暦︑は目を通した書目・題目︑明︿表5﹀の承応元年〜古

文﹂・漢詩文などを学んでいるが︑その中心が︑承応二年一一月の﹁始閲大成論﹂

から始まる︑医学書であることは

明らかだろう︒その際の教授者は石川木工衛門だったと思われる

医暦明︑し覧閲を書学の︒冊九間年三︑は菴生二

年︵一六五六︑十五歳︶一月には﹁配剤﹂を始めた

このように︑陪臣の三男として生まれた彼は︑まず医業を修めようとした︒しかし︑この時期の生菴にとって︑

﹁医﹂でどのような活計を得るかまで︑見通せていたわけではないだろう︒その後生菴は明暦三年一〇月に﹁侍官家

習進退之節﹂ようになる

の然としない︒こ後はの彼の歩みからす判らが習︑この﹁出仕見﹂かのありかたも日記れ

ば︑そのまま三浦家への出仕を約束されるものではなかったことだけは間違いない︒

生菴の日々を我々が少しでも辿れるようになるのは︑﹁不闕一月﹂という態度で書き留められた原﹁日記﹂がのこ

る︑万治三年︵一六六〇︑十九歳︶以降である︒この年︑彼は一つの﹁転機﹂をむかえていた︒前年九月に﹁師﹂石川

木工衛門が急死し

め帰が門衛左孫父たえ終を詰︑敷屋戸江の間年六に月一一国

︑この年二月には︑江戸に居る叔

― 21 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(22)

表5 石橋生菴の読書・受講・講義書目(承応元年〜寛文7年)

講義・執筆

孫子澀

W孫子諺解sf

W呉子諺解s

元亨釈書

論語s

論語f 孟子s 受 講

大学sf 論語sf 中庸s

中庸f 孟子sf 古文sf 三体詩sf 錦繍段sf 大成論sf 察病指s 太平記s 正伝或問s 格致s 俗解難経 原病式 本義難経 内経 万 病回春

運気論奥 山谷sf 算数s

〔李衡正〕孝経大義潛

〔榎本浄源〕大学

〔李清軒〕三体詩潭

〔李立卓〕中庸澑

〔李清軒〕三体詩濳

〔李清軒〕杜律集解濛

〔李清軒〕書経潦

〔李衡正〕論語

〔李清軒〕書経炳

〔榎本浄源〕大学潸

〔李清軒〕書経澹

〔榎本浄源〕孟子潺

〔菊原見真〕古文

〔鐵園順菴〕運気論潭

〔鐵園順菴〕運気論潼

〔榎本浄源〕論語

〔李衡正〕論語 読 書

葩経sf 〃下f 杜律sf 書 経sf 礼 記sf 周 易sf 春 秋sf 簡斎sf 四書大全 杜律鰲頭f 膾餘録s 蒙求 先生之中庸 先生潤色之大学

荘子 大成論抄 玉露 徐氏 筆精 白虎通 風俗通 李杜 孤白集 先生所定之古文頭書 東坡三策 孔子通紀 靖節集 正伝或問 蠡海集s

荘 子 東 鑑sf 王 氏 評 林 伝習録 列子 韻鏡開奩 剪 灯新話 韻鏡 手簡 回春序 抄 周易伝義 貞観政要 難 経集註 官職考 方考 続錦 繍段 灯前夜話 論語抄 造 化論 尚理編 尚直編 原人 論 素書 難経頭書 楚辞 陽明文録 類編 無門關 天 命図 遡! 見聞軍書 古暦 寒山詩 七書直解? 文選 本草簡便 一得録 延平問答 陸詩 講述 語録解義 明清 闘記

野 槌 類 聚 国 史sf 職 原 大成抄 左氏 類聚国史s 東 鑑・東 鑑 闕 本sf 宗 簡 斎 詩集 文章軌範 事物紀原 指掌sf 道統小伝 王代一 齢

11 12 13 14 15 16 17 18 19

20

21

22

23

24 西暦 1652 1653 1654 1655 1656 1657 1658 1659 1660

1661

1662

1663

1664

1665 和年号 承応元

〃 2

〃 3 明暦元

〃 2

〃 3 万治元

〃 2

〃 3

寛文元

〃 2

〃 3

〃 4

〃 5

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 22 ―

(23)

孟子澎+炒 三体詩潼 杜律 大学潯 大成論 孝経潘

論語潴 孫子濳

(孟子)

〔榎本浄源〕?

〔平田養理〕三教指皈

〔鐵園順菴〕難経

〔碩菴〕中庸

〔浜田水哉〕徒然

〔鐵園順菴〕素問

〔芦田門之丞〕論語 覧sf 四書講述f 入学 難

経三巻抄 韻会 臨済録 野 客叢書 保赤全書 清正記 語 苑sf 職 原 抄 溯! 湯 山千句 編年互見 古文孝経

sf 孝経大全 小学句読 溯

!鈔 暦林問答 三教指皈抄 論語大全 三教指帰 梅花心 易 群談採餘 感興詩 五老 集 遊仙窟 儒医精要 求是 編 唐詩訓解 軍役儀軌f 句読孝経 尺牘 十四経頭書 銅人経 犬徒然 白雲集 礼 書 武経開宗

白雲集f 原始本草 陽復記 信長記 食物本草 山谷別集 sf 脈 学 (貞 観)政 要sf 楊子 貞和集 土佐日記抄 神 応 経 孟 子 備 考sf 孟 子 問答 孟子蒙引 保赤全書 韻会 師頭書孟子 鷹筑波 宗 派 氷 川 詩 式sf 詩 法 要 標sf 三 教 指 帰 運 敝 註 三 教指皈覚明註 韻会 孟子清 師頭書公孫篇文公篇 清少納 言 (孟子清師頭書)離婁篇 尉繚子 鐵園物語 世説sf 先生之書唐詩綱鑑紀要百将伝

□□□及倭点 入学図説sf 韻会 朱子行状 翰林詩法s 字 体 諺 解sf 運 気 句 解 三 教指皈sf 檻木合戦記s 孟 子大全頭書f 南浦文集 五 音図 中庸頭書 智餒集 事 林広記 遠遊紀行s 薬性論 先生頭書孝経大義及中庸講意 日録問答備考 活所遺藁 大 学備考 大学頭書 孝経大全 先生校定之本記孝経要註 輟耕録 熊氏序孝経大義 法 言 和剤方

五雑組 文公家礼 医学入門 尚直編 局方 運気句解 論 語大全 一陽公評註論語sf 論 語 備 考sf 性 理 大 全sf 徒然槃斎抄 必用 名目 古 文 護法論 紹運図 自讃歌 徒然 徒然大意 顔氏家訓 孫 子 開 宗 十 八 史 略sf 古 今医統 針灸合類 闕疑抄 内経知要sf 四書大全板行之 25

26 1666

1667

〃 6

〃 7

― 23 ―

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(24)

父酒井氏から︑毛利甲斐守︵長府藩︶に仕

える医師矢野家との養子縁組を打診する書

状が届いた

︒自らの将来について︑なん

らかの﹁選択﹂をしなければならない時機

だったのである︒生菴がこの年から﹁不闕

一月﹂という態度にしろ原﹁日記﹂を書き

留め始めたのは︑そのような大切な時期を

むかえているという﹁自覚﹂だったのかも

しれない︒

孫左衛門と生菴父子が選んだ道は︑新た

な﹁医﹂の師に就くのではなく︑紀州藩の

儒者李衡正︵のち梅渓︶と養子川村徳源

︵のち李清軒︶の門生となることだった

︿表6﹀にみられるように︑生菴は︑門生

となった翌々日︵=四月朔日︶から﹃葩経﹄

︵﹃詩経﹄︶を読み始め︑この年中に﹁五経﹂

を読了し

︑また六月には︑

[備考]

1.本表は、石橋生菴が『家乗』承応元年〜寛文7年(922日)条に書き留めた、彼の 読書・受講した書目・題目と、自らが講義・執筆した書目・題目を一覧化したものであ る。書目・題目の名称および配列については、『家乗』の表記・記載順に従った。また表 記が異なる場合、文脈などから同一書目・題目と確定しうるものはそのいずれか1つの表 記で採り、確定しえないものはすべて採ることとした。

なお、承応元年〜明暦2年については、修学の営みの内実が不明瞭なため、「読書」「受 講」の区分をしていない。

2「読書」欄には、生菴のさまざまな読書に関わる営 み(「学」「閲」「沽」「借」「謄 写」

「朱点」など)を一括して、採った。書目・題目名の後の「s」「f」は、当該書目の「読 書」に関わる営みの起点=読書開始日あるいは入手日(s)、終点=読書終了日(f)を書 き留めていることを示す。

このうち、生菴が「謄写」「繕写」「朱点」「渉(獵)「書要于鰲頭」などとその読書行 為を特記する書目については、ゴチック体で表記した。

また、「沽」「買」などと記す書目には下線を施した。ただし、「沽」した書物はのちに 当該の書肆や知人などへ金銭を支払う場合(「償」「遣」など)と返却する場合(「還」な ど)があるため、返却が明記された書目は破線とした。

なお、書目の借用日と返還日が2年にまたがる場合前年のみに採ったが、前年に借用あ るいは購入した書目に対して翌年以降に上記の読書行為を特記する場合はあらためて採る こととした。また同一年中に2度以上同一書目の借用と返還をおこなった場合や借用・返 還と購入をおこなった場合などは、重複をいとわずその都度採ることとした。

3「受講」欄には、生菴が受講した講義の担当者( )と書目・題目名を採った。書目

・題目名の後の数値は、受講総日数を示す。

4「講義・執筆」欄のうち、「講義」には、門生への教授などをも含む、さまざまな講義に 関わる営みを一括して採り、その総日数を書目・題目名のあとに付した(門生への教授の 場合は開始日=sと終了日=f)

「執筆」には、書物の執筆に関わる営み(書写・頭注など上記2の読書行為を除く)を 採り、書目・題目名の前に「W」を付して区別した。

評註f 長明記 四書参考 張美和群書拾唾 本草原始 狂歌集 左氏f 陽復記 中 城 流 婦 人 之 書sf 文 選 人 天眼目 菅文 丹台玉案

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 24 ―

(25)

表6 『家乗』万治3年条における日記記事と修学記事

12月

○●講

○●講

○●講

○●講

○●講

*[各欄左]○…当該日に日記記事を有する日

△…当該日に日付と干支、あるいは天候のみを書いた日

[各欄中]●…生菴自身の行動、営みを書いた日

※…「石橋辰益」の養子縁組協議

[各欄右]生菴の修学に関わる行動を書いた日

謁…「就佐々木氏専衛門初謁李衡正先生川村氏徳源丈而為門生」

学…「学○○(=書目名)「習○○」あるいは「○○始」「○○終」

『葩経』(上4. 01〜4. 28,下〜5. 16)『杜律』(5. 18〜6. 24)

『書経』(6. 25〜7. 03)『礼記』(9. 08〜10. 19)『周易』(10. 20〜10.晦)

『春秋』(11. 01〜11. 06)『簡斎』(11. 07〜11. 25)

講…李衡正あるいは李清軒の講義を聞く(但し、9. 20のみ榎本浄源)

李衡正『孝経大義』(6. 28〜8. 14)、榎本浄源『大学』 李清軒『三体詩』(11. 15〜)

賀…「与先生之諸門生賀李精舎」沽…「沽○○」『四書大全』 11月

○●学

○●学

○●学

○●沽

○●講

○●講

○●講

○●講

○●講

○●学

○●講 10月

○●賀

○●学

○●学

○●学 9月

○●学

○●講

○ 8月

○●講

○●講

○●講

○ 7月

○●学

○●講

○●講

○●講

○●講

○●講 6月

○※

○●学

○●学

○●講 5月

○●学

○●学 4月

○●学

○●学

△ 3月

○●謁 2月

○※

○●

△ 1月

△ 朔日

2日 3日 4日 5日 6日 7日 8日 9日 10日 11日 12日 13日 14日 15日 16日 17日 18日 19日 20日 21日 22日 23日 24日 25日 26日 27日 28日 29日 30日

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︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

(26)

二十二日家君寄書于酒井氏曰将男辰益雖可矢野氏備祭祀吾邦禁家 臣之子弟往他邦故難応諾者也

と︑矢野家との養子縁組も断っている︒これらのことは︑この時の彼ら

父子の﹁選択﹂が︑これまで培った医業修学の蓄積に加えて︑儒学的教

養をより高めることによって︑︵他国ではなく︶紀州藩の﹁︵いずれかの︶

家中﹂へ出仕する道の可能性を求めたものだったことを示していよう︒

︿表6﹀はこの一年間の日記を︑日記記事がある日︑生菴自身の行動・

営みが書かれている日とその内容に区分したものである︒﹁不闕一月﹂

﹁一月の間で起こった大事なことは書いておこう﹂とし始めた最初の

年︑彼自身の営みとして生菴が書き留めたほとんど全てが︑これらの読

書と李精舎で講義を受ける日々であったことは︑︵十九歳の︶この時点

で︑生菴がこの道をいかに﹁大切なもの﹂と意識していたかを伝えてい

る︒

この年以後︑生菴の日々は︑李精舎︵=李氏の学舎︶を中心に営まれ

ることとなる︒︿表7﹀は彼の受講・講義する日々を整理したものだ

が︑万治三年以後初出仕を果たす寛文七年九月までの日々は︑大きく二

つに分かれる︒寛文五年まで﹁受講﹂と李精舎へ通うことをつづけた彼

表7 石橋生菴の受講・講義する日々(万治3年〜寛文7年)

12月 4 12月

5

11月 13

12月 11月

6

10月 1

11月 3 10月

1

9月 7

10月 9 9月

1 閏8月

7

9月 12

1 8月

3

8月 2

8月 7月

5

7月 14

7月 2 1 1 6月

1

6月 3

6月 9 1 5月

5月

5月 4 1 4月

4月 4

4月 1 3月

1

3月 6 2 7 3月

2 5 2 2月

2月

6 2月

12 2 4 1月

1月

3 1月

6 2 万治3

(1660)

19歳 a b c d a b c d 寛文2

(1662)

21歳 a b c d 寛文元

(1661)

20歳

︿日常﹀のなかの近世・出仕への道

― 26 ―

表 3 三浦家における家臣(中小姓・侍童以上)召抱および登用数 計 1 0 1 1 4 0 1 3 9 7 2 1 1 3 0 6 0 3 5 3 1 1 1 3 0 0 1 1 59 [備考] 1 .本表は、 『家乗』に書き留められた、 (石橋生菴の三浦家出仕以降の)三浦家における家 臣(中小姓・侍童以上)の新規召抱および登用記事(= 〈一覧 B〉 )にもとづき、その任用 数を年次別に集計したものである。 なお、家臣嫡子の多くは当該の召抱・登用記事を伴わず、日記の記載上は突然「年首拝 礼次序」や俸禄支給記
表 5 石橋生菴の読書・受講・講義書目(承応元年〜寛文 7 年) 講義・執筆 孫子澀 W孫子諺解 sf W 呉子諺解 s 元亨釈書 論語 s 論語 f 孟子 s受講大学sf論語sf中庸s中庸f孟子sf古文sf三体詩sf錦繍段sf大成論sf察病指s太平記s正伝或問s格致s俗解難経原病式本義難経内経万病回春運気論奥山谷sf算数s〔李衡正〕孝経大義潛〔榎本浄源〕大学〔李清軒〕三体詩潭〔李立卓〕中庸澑〔李清軒〕三体詩濳〔李清軒〕杜律集解濛〔李清軒〕書経潦〔李衡正〕論語〔李清軒〕書経炳〔榎本浄源〕大学潸〔李清軒〕書経
表 6 『家乗』万治 3 年条における日記記事と修学記事 12 月 ○●講 ○●講 ○●講 ○●講 ○●講 ○ ○ ○ ○ *[各欄左]○…当該日に日記記事を有する日 △…当該日に日付と干支、あるいは天候のみを書いた日 [各欄中]●…生菴自身の行動、営みを書いた日 ※… 「石橋辰益」の養子縁組協議 [各欄右]生菴の修学に関わる行動を書いた日 謁… 「就佐々木氏専衛門初謁李衡正先生川村氏徳源丈而為門生」 学… 「学○○(=書目名) 」 ( 「習○○」あるいは「○○始」 ) 、 「○○終」 『葩経』 (上 4

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