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コミュニティ政策学会 第12回シンポジウム - 福島大学

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プログラム

(1) 趣旨説明

(2) シンポジスト報告

1.住民の帰村と新たな村づくり 双葉郡川内村復興対策課長 井出 寿一 氏

2.5 年間帰らないことを選択したまち 双葉郡大熊町企画調整課課長補佐 幾橋 功 氏 3.地域分断からの都市再興 南相馬市復興企画部企画課長 牛来 学 氏

4.帰還と復興のはざまでコミュニティを考える コメンテーター 山川 充夫 氏

(福島大学うつくしまふくしま未来支援センター長/福島大学経済経営学類教授)

(3) 会場全体でのディスカッション

コーディネーター 牧田 実 氏(福島大学人間発達文化学類教授)

コミュニティ政策学会 第 12 回シンポジウム

開催日時 : 2012 年 12 月 22 日(土) 13 時 30 分~17 時

開催場所 : 福島大学(共通講義棟M棟 1 階M-2教室)(会場案内は裏面参照)

参加費(資料代として) 500 円

※ 当日会場にて、徴収させていただきます。

コミュニティ政策学会事務局

(愛知学泉大学地域社会デザイン総合研究所内)

〒471-8532 愛知県豊田市大池町汐取 1 TEL:0565-35-7031 E-Mail:a-compol@gakusen.ac.jp

HP:http://www.gakusen.ac.jp/commu/a-compol/

原発事故によって住民の域外避難を余儀なくされた福島県の被災自治体。帰還への思いは切実ですが、事故 発生から 1 年半以上が経過し、ある自治体は「帰還宣言」をし、ある自治体は「5年間帰れない宣言」をする など、復興計画の方向は大きく分かれています。また国による避難指示区域指定が複雑に分かれた自治体もあ ります。各自治体のコミュニティ政策にみられる共通性と差異とは何でしょう。それらはどのような要因から 形成されてくるのでしょうか。福島の現場から、住民の帰還、そして自治体とコミュニティの再建といういわ ば極限のコミュニティ政策を考えます。

なお、このシンポジウムは、福島大学との共催であり、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター設立 2 周年シンポジウムの一環として開催されます。学生、教職員、自治体職員、避難されている方、一般の方な

ど、関心のある方は、どなたも歓迎します。

主催 : コミュニティ政策学会 共催 : 福島大学

福島大学うつくしまふくしま未来支援センター設立 2 周年シンポジウム

(2)

【福島大学 学内配置図】

国立大学法人 福島大学

〒960-1296 福島県福島市金谷川1番地 (JR 東北本線「金谷川駅」下車 徒歩 8 分)

福島大学

◆ 交通アクセス

【電車】

東北新幹線にて「福島駅」下車

「福島駅」より JR 東北本線(上り:東京・郡山方 面)「金谷川駅」下車徒歩約 8 分

【自動車】

*東京方面より

東北自動車道にて「福島松川 PA・スマート IC」下車 約 6km

*仙台方面より

東北自動車道にて「福島西 IC」下車約 10 ㎞

*東北本線は電車の本数が少ないのでご注意ください。シ ンポジウムに参加するためには、福島駅 12:24 発(金谷 川駅 12:33 着)をご利用ください。次の電車は、福島駅 13:31 発となり、開始に間に合いません。帰路について は、金谷川駅 17:19 発(福島駅 17:30 着)または金谷川 駅 17:51 発(福島駅 18:02 着)となります。

*遠方の方は、ぜひ宿泊を!福島を見て感じて食べて飲 んで泊まって、復興にも貢献を!!

10 S講義棟

11 M講義棟

12 L講義棟

19 理工共通棟

20 保健体育棟

22 体育館

23 大学会館(生協・学生食堂)

39 陸上競技場

40 西門警務員室

42 うつくしまふくしま 未来支援センター(ユニット棟)

★ 金谷川駅から案内表示にした がって西門を通って構内に入 り、陸上競技場と体育館を右手 に見ながら進むと、M 講義棟が 左手奥に見えてきます。

正門

西門

JR 金谷川駅へ

(3)

コミュニティ政策学会第 12 回シンポジウム記録

2012.12.22

牧田:コミュニティ政策学会第 12 回シンポジウムを開催します。このシンポジウムは、福島大学う つくしまふくしま未来支援センター設立2周年記念第3回シンポジウムと同時開催となっ ております。私は、本日の進行とシンポジウムのコーディネーターを務めます、福島大学の 牧田と申します。それでは最初に主催者挨拶ということで、コミュニティ政策学会の会長で ある名和田是彦からご挨拶申し上げます。

名和田:名和田と申します。法政大学政治学部におります。主催者でありますコミュニティ政策学 会会長もしております。まずはたくさんの感謝を皆さんに申し上げなければなりません。本 当に大変な状況のところを、わざわざお時間を割いていただきまして、ご登壇いただきます 3つの行政の方々、本当にありがとうございました。それからこういう貴重なシンポジウム を無理に無理をして調整をして、福島大学の関係者の方、どれだけお礼を申し上げても尽く せません。

コミュニティ政策学会は読んで字の如く、コミュニティ政策を大学で研究されている方、

地域で実践されている方、あるいは市町村職員の方、一部都道府県職員もいらっしゃいます けど、そういう学会でございまして、年に1回、7月に行われる大会以外に、12 月辺りに シンポジウムを開催して、年に2回、大きな学術的な会を持っている、そういう学会でござ います。3月 11 日、本当にあの時は私は大学におりまして、帰宅難民だったんですけれど も、本当に大変な事件であって、日本の歴史に残る大事件だったという風に思います。あの 後は絆という言葉が流行語のようになりましたけれども、我々学会としては、絆とは本当は 何なんだろうということを学問的に明らかにしていかなければならないという風に強く考 えまして、この震災に関連する学問的なことをやっていこうという風に議論致しまして、昨 年の学会で特別分科会を震災関係のテーマでやりまして、その後、去年の今の時期にシンポ ジウムを、やはり震災関係のテーマで行いました。今年もまた7月に大会を行いまして、そ こでも震災の問題を考え、今日、正に今度は単に震災のみならず、原発事故という問題を抱 えました福島のことにつきまして、現地で考える機会が出来たようです。今日の午前中に行 われました理事会でも、震災の問題について継続的に考えていく組織を立ち上げて、もっと 研究を深めていくべきではないかという方向性を確認したところです。

私は研究者の立場ですけれども、震災が起こった後、ずっと実は落ち込んでいたんですね。

恐らく学問としては何かを発言しなければならない、しかしデータがないもんですから発言 できない、そういう悶々とした日々を過ごしました。恐らくは学問の立場としては、きちん とした検証をして、きちんとしたことを言っていくという責務があるんだと思います。その ためには組織を立ち上げて、当事者の方々にも協力をいただいて勉強をしていく、かつ実践 的な経験をしていくという責任があるんだと思います。その意味で、今回非常に重要なシン ポジウムで、本当に無理に無理を申し上げて来ていただいた自治体の皆様、本当にありがと うございます。御礼ばっかりで何か芸がない気が致しますけれども、以上で私のご挨拶にし たいと思います。是非、きちんと勉強して帰りたいと思います。ありがとうございました。

牧田:続きまして、うつくしまふくしま未来支援センター長の山川充夫先生にご挨拶をいただきま す。

山川:こんにちは。ご紹介いただきました山川です。福島大学にうつくしまふくしま未来支援セン ター、略称未来センターですけれども、これができましてから約1年半が経ちました。その 間、私たちが何をやってきたかということがいま問われている訳でありますけれども、今日、

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実はここに設立2周年第3回シンポジウムという形で共催させていただくことになってお ります。来年の2月に向けて、いまのところ通し番号で第9回のところまでは確定しており ますが、おそらく2桁の開催になるのではないかと思っています。15 名の特任教員等のス タッフがいろんなところで頑張っております。それを今年度の成果ということで、逐次、小 さな形ではありますけれども、シンポジウムということでやってきております。今日第3回 目ということです。私自身は 3 つの自治体の復興計画に関わっております。計画策定レベル では、全体としては復興計画から総合計画の見直しというところに入っております。総合計 画のなかでどう復興を位置づけるのかということが、地方自治体レベルにおいてはこれから 5年、10 年といったところでは、重要だと思っております。今日、非常に実りのある議論 ができますことを期待いたしまして、私の挨拶に代えさせて頂きます。よろしくお願い致し ます。

牧田:ありがとうございました。それでは早速、シンポジウムを始めたいと思います。まず趣旨の 説明と今日の進行について、私からお話しいたします。

現在、福島県では県外に避難している人が6万人、県内で避難している人が 10 万人といわ れており、それぐらいの人が避難を余儀なくされています。ほとんどは原発事故という人災 に起因するわけですが、いくつかの自治体では、全域が住めない状態になってしまいました。

もといたところに住めなくなっている、そしていま、別のところで仮住まいという形で住ん でいる。そしてすぐに帰ることもできない状態。コミュニティという視点からは、まさに極 限状態です。住み続けることもできないし、その後の展望も描くができないという、非常に 厳しい状況にあるわけです。今日、お招きした自治体の方々は、その最前線で、今後の計画 を立案するポジションにあり、実務で責任を担っている方々です。何が起こり、どういう経 過をたどり、いまどうなっていて、これからどうなるのか、どういった展望を描こうとして いるのか、そういったことを率直にお話し頂きたいと思っています。そうしたなかからそれ ぞれの自治体の違いも浮かび上がってくるのではないかと思います。

川内村は 3,000 人位の人口規模です。原発事故前の数字ですけれども。今年の1月に「帰 村宣言」という形で、みんなで村に帰るという意思を表示しました。その村がいまどうなっ ているかというお話をいただきます。大熊町は、福島第1原発の立地している町です。そし ていま、町民の多くの方が会津若松市に避難しています。今日の演題にもありますように、

町として「5年間は帰れない」という宣言をしました。なぜこういう宣言をしなければいけ ないのか、実際にどういう状況におかれているのか、これから先どういう展望が開けている のか、そういったお話を伺いたいと思います。さいごは南相馬市です。こちらは平成の合併 で3つの町が一緒になった町です。原発事故では当初 20km 圏というのが無条件に避難しなけ ればいけない地域でした。この 20km 圏に合併前の1つの町、いまは地域自治区ですが、これ が入っていました。それから 20~30km 圏、これが屋内退避区域です。家の外に出てはいけな いというこのゾーンにもう1つの町が区分けをされました。そして、もう 1 つの町は指定区 域外になりました。このように 1 つの自治体が地域自治区ごとに3つに区分される形になっ たわけです。そしてその後、何度か避難指示区域の見直しがありましたが、現在もかなりバ ラバラな形になっています。南相馬市はそういう状況におかれている町です。こうした 3 つ の市町村のそれぞれ置かれている状況、いろいろ違いもあると思いますが、これらに共通す るところと異なるところが浮かび上がってくるような機会になればいいと思っています。

さて、地元の方には自明のことなのですが、この学会の会員は西日本の方も多くて、福島 といっても地理がよくわからないという方がいらっしゃると思います。簡単な解説をしてお きますと、いまここにある長方形の紙が福島県だとして、これを三つ折りにします。これを

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地図とすれば、海側から浜通り、中通り、会津という3つの地域にあたるわけです。原発事 故が起きたのは、浜通りの真ん中よりちょっと下のあたりです。今日お招きした 3 市町村は、

いずれも浜通りで原発事故の被害が非常に大きいところに位置しています。放射能は季節風 の関係でいえば、海側に抜けたはずだったのですけれども、なぜか上空で吹き戻される形で 北西に動き、それから中通りを南下していきました。その先にあるのが関東のホットスポッ トということになります。福島県は北海道、岩手に続いて面積が大きく、3 つの地域は気候 的にも全然違います。浜通りは太平洋性側の気候ですし、中通りは内陸性気候ですし、会津 は雪国、豪雪地帯になります。浜通りは津波と原発事故の被害を大きく受けました。中通り に関しましては、放射能汚染は浜通りよりは相対的に低いわけですけれども、やはり強い不 安を抱かせるようなレベルに達しています。会津に関していえば、あまり放射能の問題はな いのですが、いわゆる風評被害を受けています。福島ということで 1 つに括られているわけ ですが、実は福島はいま引き裂かれた状態になっています。そうしたなかで、たぶんいまだ かつてどの自治体も経験したことのないような危機的な状況におかれている、その当事者を お呼びしてお話を聞くという非常に貴重な機会になろうかと思います。少々長くなりました が、以上がシンポジウムの趣旨です。

つぎに進行についてですが、3つの自治体の方から順にお話をいただき、山川先生からは 総括的なコメントをいただきます。その後、休憩を入れますが、休憩時間に、もし質問があ れば、資料集に挟んである質問用紙にご記入いただき、後の方に用意した箱に入れていただ ければと思います。休憩後はいただいた質問に答える形でパネルディスカッションを行い、

時間の余裕があればフロアの方にもマイクを回すという形で進めて行きたいと思います。終 了は午後5時を予定しております。たちまち暗くなりますし、電車の本数も限られています ので、終了時間はきっちり守りたいと思います。円滑な進行にご協力をお願いします。それ では、川内村の井出さんからお願いします。

井出:皆さんこんにちは。川内村の復興対策課の井出と申します。このような機会を与えていただ きましたことにお礼申し上げます。私は住民の帰村と新しい村づくりについて、ご説明させ ていただきたいと思います。

まず右は田園風景、自然豊かな川内村ですが、これは当然震災前の状況です。左の上の方 の山が、原発から 30km の、阿武隈高地の最高峰であります大滝根山で標高 1,193m ほどです。

それから右下、これは川内村役場でして、正面には「帰る川内」ということで、村はカエル がキャラクターになっております。川内村の名誉村民であるいまは亡き草野心平先生がカエ ルの詩人だったことから、カエルがキャラクターとなっています。庁舎の右の方には「負け ないぞかわうち」ということで、これは今年4月に戻って、新たにそういったキャプション をここに掲げたわけです。

それからいま、牧田先生の方から福島県の地理の説明がありましたが、川内村も福島県の 浜通り地方に属します。山の方に葛尾村、川内村があって、浜の方に浪江町、広野町がある のですが、第一、第二の原発ができてからは、約2万人が働いておったわけです。川内村も 原発には 300 人近くが働いておりました。広野町には東京電力の火力発電が6基ほどありま すので、ここがいま稼働しています。そんな関係でやはり我々はずっと浜の方、太平洋の方 を見て生活しておったわけですが、川内村は 30km ラインに入ってしまっています。20km 圏 内が旧警戒区域、当時は警戒区域でしたが、そして 20~30km が旧緊急時避難準備区域でした。

村の中心地は大体こちらの方にあり、人口 3,000 人とすると約1割強が警戒区域でした。我 々の生活も、県道富岡線という道路がありますが、やっぱりこういったインフラの中心地、

いわゆるコミュニティの中心地だったわけです。ですから仕事の場所、食事や買い物、高校、

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病院、介護、レジャー、こういったところが、いまは完全に崩壊しています。富岡から浪江 町まで、ここはまだ一番奥は避難指示が解除されましたけど、警戒区域ということで実際に 通行できませんので、川内村役場は4月に戻りましたけれども、この辺がこれからの課題で す。

村の概要をもう少し申し上げますと、平均標高が 456mですから、まったく津波の心配は ありませんでした。地震も、先ほど阿武隈高地と申しましたが、強固な花崗岩で覆われてい るために、地震の被害はほとんどないといっていいぐらいの地域です。基幹産業はやはり農 林業ですが、これも昭和 40 年代に原発ができる前は、お父ちゃんはみんな出稼ぎをしてお りました。原発ができたらやはり専業農家が減って兼業農家、そして農家をやめる人も徐々 に多くなった地域です。これも後ほどご説明いたしますが、震災前はこのように蕎麦畑した が、現在は仮置き場になっています。村の土地利用ですが、農林業が中心ということで、以 前は稲作と畜産とか、稲作プラス葉たばこ、稲作プラス養蚕、こういった複合系でしたが、

林野が村の 86.2%を占めるといったなかで、村有林を約 8,000ha 近く持っているというの が特徴だと思います。下にも書いておきましたが、やはり原発ができる前は、うちのお父さ んなんかも出稼ぎに出ていましたが、原発ができてからというものはそれがなくなった地域 です。

人口ですが、私は昭和 28 年生まれなのですが、私が小学校に上がった昭和 36 年でしょう かね、その頃の人口 6,500 人がピークです。日本の高度経済成長とともに人口が減少してい きまして、いわゆる過疎地域になり、震災前は 3,028 人です。高齢化率が 34%ということ で、確かに過疎地域でありましたけれども、震災前は交流人口の拡大をしようということで、

地域づくりに取り組んできた地域です。1番新しい情報で、左下は現在の避難者の状況です。

村内に戻っている方ですが、3,000 人から現在は 1,163 人ということで、約 41%です。いま だに 27 都道府県の方に 438 名が避難しています。帰村者の状況ですが、10 月1日現在、1,163 人についてとりまとめた結果では、1週間のうち4日以上、川内村で生活している人が大体 700 人なのですが、年齢別にその比率をみると、小中学生はまだ 10%しか戻っていません。

小学校も中学校も4月に開校して再開したのですが、まだ 10%足らずです。10 代も 10%台 ですね。年を重ねるごとに割合が増えていますけれども、やはり 10 代から 40 代の、こうい った方がまだ戻っていないという状況です。50 代からについては、50%以上戻ってきては いますが、90 代以上は逆にまだ戻っていない。これは入院や福祉施設の方に入っている関 係で帰村率も悪いと。全体的には 41%でございますが、今年の2月にアンケートをとった 時には 3,000 人のうち 1,000 人は帰村する、1,000 人はわからない、1,000 人は戻らないと 答えていますから、やはり村に全体的に戻っても、2,000 人ではなかなか復興できません。

1番下に書いてある問いかけですが、課題としてはそういった小中学生を持つ保護者の皆さ んを戻すためにはどうしたらいいかということです。総合計画も現在、策定中でして、この 辺も年度末にはできるということであすので、この辺をこれからの計画づくりに活かしてい きたいと考えております。

東日本大震災から避難までの経過を若干話しておきますけれども、村の方は3月 11 日、震 度6弱を観測しました。我々のところでもそれまでに相当地震はありましたが、こんなに強 いものではなかったですね。はじめはまた地震か、という感じでしたが、実際に震度6弱が 4分ちょっと続く大きな地震でした。3月 11 日は金曜日でしたが、とくに地震の被害はな かったので、土曜日の午前中に被害調査をしようということで、11 日はそのまま解散しま した。翌日の5時 44 分に第1原発から 10km、第2原発から3km 圏内に避難指示が入ったと いうことで、富岡町、ここは 16,000 人ほどいますが、富岡町長から川内村に避難させてく

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ださいという電話があました。一時は村の 19 の公共施設に 8,000 名ほどが避難しておりま した。富岡町には川内村からかなり人口が流出しており、その関係で、おそらく村内の親戚 を頼った人も 2,000 人はいただろうと思います。ですから富岡町の 10,000 人以上が川内村 にいたということになります。この時点ではまだ富岡町さんも、おそらく原発が収まるまで 2日ぐらい置かせてくれというような感覚でしたが、3月 12 日の3時 30 分頃、建屋が爆発。

そして 20km 圏内も避難指示が入って、14 日、15 日と立て続けに爆発しましたよ。この辺か ら雲行きがかなりおかしくなって、我々も富岡町民の世話をしていたのですが、当時、車の ある人、燃料のある人は早めに関東方面とか新潟方面に避難していったということです。我 々も世話をしていたのですが、極めつけはこれ、15 日の 11 時に屋内待避指示が出ました。

それまでは富岡町さんのお世話をして、婦人会のみなさんが炊き出しなどをしていたのです が、これはもうできないということになりました。当時、この情報については私たちには国 の方から一切、何もありませんでした。県の方からもなかったですね。テレビで知ったんで す。20km から 30km が屋内待避、当時のアナウンスとしては、窓は閉めて下さい、外にいる 人は中に入って下さい、エアコンは止めてくださいと。これはもういてもたってもいられな い状況で、とくに 13 日、14 日、15 日、この辺は川内村も、大体役場の近辺で 25km ですが、

いつ避難してもおかしくないような時期で、本当に切羽詰まった状況でした。最終的には、

16 日に富岡町と避難することになりました。当時私は総務課にいましたが、やっぱり職員 も散ってしまいました。放射能に対する不安もあって、職員 60 人のうち若い人はもう脱落 していきました、職場放棄して。夜9時頃に避難が終わって、郡山市にさいごに私たちが行 くときには、おそらく3年ぐらいは戻ってこられないだろうということを覚悟しました。原 発の安全神話が崩れた状況で、私たちも川内村がどうなるかということがよくわかりません でした。郡山に避難している間も、放射能の影響、今後の産業をどうするか、生活をどうす るかというところでしたが、川内村は偶然にも放射線量が全体的に低かったのです。いわゆ る線量的に低かったということが1つ。もう1つは、昨年の8月に原発事故の第一ステップ が終了して、これ以上爆発する危険性がなくなったということ。実は9月に緊急時避難区域 が解除されて、村は復興計画とか復旧計画とか復興ビジョンを作って、来年3月に戻る計画 を立てました。昨年 10 月に住民懇談会を行ったんですが、村長が戻るよということで住民 の皆さんにお話ししたところ、戻れるはずないだろうと、原発がどうなっているかわかるだ ろうということで、ひどい住民の方からのお叱りがありました。村長は軌道修正をし、戻れ る人から戻りましょう、心配な人はもう少し様子を見てから戻りましょうということで、こ れが1月に福島県庁の記者クラブで行った「帰村宣言」です。村民は日本全国に避難してい ましたので、マスコミを通じて帰村を促したという状況です。4月には行政も全て村で再開 しました。

村の復興課題ですが、私はいつも川内村はたんなる「復興」ではないと思っています。い ままで東の方しか見ておりませんでしたが、双葉郡 8 ヶ町村の2万人の産業をこれからどう するかが課題であり、新しい村づくりが必要です。新しい村づくりに関しての最大の課題は 除染です。いくら川内村の放射線量が低いといっても、やっぱり毎時1マイクロシーベルト 以上あるところが全体の2割ほどあり、住人の 300 人近くがこの地域です。いま、除染が進 んではいます。しかし、年間被曝量で1ミリシーベルトを目標とすると、実際には毎時 0.2

~0.3 マイクロシーベルトということになります。そういう高い目標を掲げた徐染が第一の 課題です。

つぎは雇用の確保です。これには事業所誘致とか定住構想が必要です。先ほど申し上げた ように、2,000 人では復興できませんので、これからは村外からも雇用を求め、定住構想も

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一緒にやっていこうというのが現在の計画づくりの基本ということになります。去年と今年 は水田に作付制限をかけましたが、来年度は作付させる予定です。露地栽培がなかなかでき ない状況で、村の新しい農業の取り組みとして、完全密封型の野菜工場も計画しています。

既に今年、着工しまして、5億6千万円で水耕栽培をやる予定です。これは始まっています が、村には上水道施設がありません。従来通り地下水を利用して、住民の皆さんは地下水を 利用していますので、安全な地下水を活用しての野菜工場です。それから再生可能なエネル ギーということで、太陽光とか木質バイオも現在計画しています。

それから健康に対する不安というのは、住民の皆さんも心配します。放射線対策も検査や 検証をやっていくということです。そして最後にやっぱり教育環境です。先ほど申し上げた ように、富岡とか大熊、双葉、こういったところに県立高校もありましたので、1番は教育 環境の高校の部分です。安心できる教育環境の充実ということで、村は、生活再建のための インフラ、住宅の環境を整備しながら、やはり 10 年先、20 年先に 5,000 人にしようと考え ています。本当に笑われるかもしれませんけれども、やっぱり高い目標を持って、新しい村 づくりに取り組むといった状況です。

これはいま行っている除染ですが、年内に 1,200 世帯ほどの居住空間が完了します。村は 大体 30 億円なのですが、既に 65 億円の除染の経費を国からいただきながら除染作業を行っ ています。居住空間については 12 月で終わって、1月からは生活道路や産業の除染の方に 入っていきます。農地の除染についてですが、村は来年は作付させる方針ですが、水田につ いても 707ha、こういった除染作業を行っているという状況です。これは除染で当然発生す る仮置き場の状況ですが、こういった仮置き場を4カ所設置しています。いずれも公共用地 を仮置き場にしています。

雇用の場の確保ですが、4月に行政が戻って3つの企業がここに名乗りを上げました。菊 池製作所さん、四季工房さん、新たにコドモエナジーさんで、こういったところを合わせて 150 人の雇用が生まれます。そしていま、建設中の野菜工場ですが、これらが今後の村の課 題です。

これは独自のインフラの概念図ですが、インフラを確立しながら、何とか人口を増やして 村づくりに取り組んでいこうというものです。住民の帰村が先ではなくて、インフラが先で す。インフラを整備した後で、住民の帰村を促そうと、11 月、12 月にはいろいろなオープン 式がありました。このように取り組んでいるという状況です。

7月に野田総理、そして 10 月 13 日には天皇、皇后両陛下が来村されたということで、明 るい話題もあります。ということで時間になりましたので、これで私の説明は終わります。

1年と 20 日ほど避難しておりましたけれども、皆さんも含めていろんな方にお世話になった ことへの感謝を忘れることなく、川内村は新しい村づくりに進んでいきたいと思います。こ れからもご支援、ご協力をお願いします。ありがとうございました。

牧田:困難な状況にあっても決して下を向いたりすることなく、ポジティブに進んでいこうという お話だったと思います。それでは続きまして、「5年間帰らない」ことを選択したまち、大 熊町の幾橋さんです。

幾橋:大熊町の幾橋と申します。まず初めに発災以来、福島大学さんを始め、関係機関の皆さんに はいろいろとご協力をいただきまして、誠にありがとうございます。この場をお借りしまし て御礼を申し上げたいと思います。お手元にある3ページものの資料をもとに、私が話せる 内容で話したいと思いますので、よろしくお願いします。

まず始めに大熊町の位置ですが、先ほどの井出課長さんのパワーポイントを見ていただけ れば、大体この辺りかなというのがわかると思います。浜通りの中央部に大熊町がありまし

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て、面積としまして 78,7 ㎢、そのうちの 64%は山林ということになっています。東京電力 の第一発電所を有しておりまして、事故を起こした1号機から4号機、これが大熊町にあり ます。事故当時、平成 23 年3月 11 日、人口が約 11,500 人です。資料のなかに大熊町の状況 というものがあると思います。大熊町のこれまでのおもな動きについて説明をさせていただ きます。23 年3月 11 日に東日本大震災が発生しました。その際、私どもにつきましては沿 岸部を持っておりましたので津波が来たと。津波被害でやはり数人の方が波にさらわれて亡 くなったり、行方不明になったりということがございまして、11 日はそちらの捜索それから 避難所の設営ということで動いておりました。役場の体育館を避難所にしました。そのとき にはもう町の方で災害対策本部を作っておりまして、災害対策本部の方から次の日の朝6時 に捜索と、震災の被害状況を確認するので集まれという指示をいただきました。私が避難所 から災害対策本部に6時に行きましたところ、国から避難指示が来たと。内容としては原子 力発電所の事故によって半径 10km に避難指示が出たと。バスを回してあるので、各避難所か ら避難者を乗せて西に行けというお話でした。具体的に私もどこに行くかという指示はいた だいておりませんで、避難者の方をとりあえずバスに乗せて西に行ってくれということでバ スの運転手さんに話をしました。そのときは情報が入ってこなかったので、田村市か、川内 村か、郡山かと、いろんな噂はあったのですけれども、確かな情報がわからずとにかく西へ 行けということで当町の避難は始まりました。西側は国有林があるので人は住んでおらず、

10km 圏内はすっぽりと人が住んでいるところです。そうすると全町避難という、いままで例 がない、三宅島さんの方ではあったらしいですけど、いままで例のないような避難状況にな りました。翌日、3月 12 日に田村市へ避難が始まりまして、田村市に大熊町の災害対策本部 を設立させていただきました。そこで4月上旬まで田村市を中心に郡山市さん、その近辺の ところに避難所を設けながらやってきましたけれども、4月3日に会津地方へ二次避難をす るということになりました。田村市にいる時に会津若松市さんといろいろと協議させていた だいて、二次避難ということで若松市内にある旅館、ホテル、民宿、それから若松市だけで はちょっと難しかったので、喜多方市さんとか、その近隣の市町村さんのご協力をいただい て、二次避難という形で移動しました。なぜ会津の方に行ったかといいますと、4月は学校 が始まる時期でもありました。会津若松市さんの方から、学校施設を貸していただけるとい う話があったので、当町としては会津若松市さんを中心に今後、とりあえず過ごしていこう ということで決断しまして、4月5日に役場の若松出張所を設置し、そこに新たに災害対策 本部を持ってきました。予定より遅れまして、大熊町にありました幼稚園、小学校、中学校、

こちら全てを若松市内に持ってきて、そこで再開をさせていただきました。4月 22 日に警戒 区域の設定というものがなされまして、それまでは危険はあるものの、大熊町への出入りは 制限されていなかったのですが、警戒区域の設定をされたことによって大熊町への出入りは 一般の方はできないという状況になりました。

6月3日には、第一回大熊町復興構想検討委員会が開催されました。復興構想がいかなる ものかというと、まず委員会のメンバーですが、役場の若い職員 12 名で構成して検討しまし た。役場の若い職員が将来の大熊町を何とかしないといけないだろうと上の方に話しをしま して、上の方から、しからば若い者でちょっと考えてみろ、しっかりと構想案を作ってみろ という話がありました。そこから数回、検討委員会を開いて大熊町の復興構想というものを 10 月 31 日に策定しております。その中身ですが、資料の“ニュー大熊町までの道のり”の 1番下ですけれども、構想のなかに4つを定めています。1つとしては大地の復活、2つ目 として暮らしの復興、3点目として産業の復興、4点目として大熊からの発信。その第1は きれいにして復活させよう、そこに必ず帰って暮らしていこう、そのためにはやっぱりこう

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いうのが必要だよねと、そういったものをまとめた形で、大熊から全国に発信していこうと いうものを構想のなかの基本理念という形で策定しております。

また状況の方に戻っていただいて、平成 24 年1月 17 日には第一回大熊町復興計画検討委 員会が開催されています。基本構想ができましたので、それを具体的にしていきましょうと いうことで、今年の1月から復興計画の策定業務に入っております。こちらにつきましては、

復興構想を作った若手 12 名にプラスしまして一般の住民の方8名、合計 20 名で策定をして います。その8名の方をどうやって選んだのかということなのですが、昨年6月にアンケー トをとりまして、そのなかにまちづくりに関する協議会があった場合は参加したいですかと いうところで手を挙げた方、200 名ほどいらっしゃったのですけれども、そのなかからバラ ンスをとった形で一般の方8名に入っていただいております。その8名の方は専門的なもの を持っている方かというとそうではなくて、本当に普通の方に入っていただいております。

よく町長寄りの人たちではないかといわれるのですが、議論の中身を見ていただければわか るのですけれども、必ずしもそうではなくて、町の考えとはまったく反対の方も入っていら っしゃって、そのなかで議論をしていただきながら復興計画の策定をしております。3月 30 日に復興計画の素案を作りまして、その内容を5月 11 日に町民アンケートという形でとって おります。いろいろご意見をいただいたなかで修正をかけ、9月 21 日に第一次大熊町復興計 画を策定しております。21 日というのは当町の9月議会の最終日になりまして、復興計画に ついては議題として議決を頂戴した形になっています。この復興計画のなかに、当町として は今日の演題であります、5年間大熊町としては戻りませんよというものをしっかり明記さ せていただいて、議決をしていただいています。

10 月1日に二本松市に、中通りの方にも 1,000 人ほどの避難者がおりますので、新たに連 絡事務所を設置しております。こちらの方に記載はないのですが、12 月 10 日、大熊町にか かっていた警戒区域を解除しまして、新たな区域再編ということで、町内を3つ、帰還困難 区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域とする再編を行っております。ただ当町におき ましては5年間は帰還困難区域の見直しはしないので、そこに住んでいる方が当町の 96%と いうことで、ほとんどの方が実質的に5年間は帰れないという状況になっております。

おもな避難先というものがございます。福島県内でいきますと会津地方に 3,064 人、いわ き地方に 3,408 人、県中地域に 989 人ということになっています。県内がいまのところ 72%、

県外に 28%という状況になっています。雪深い会津地方から、気候風土が大熊町と似ている いわき市の方への人の流れがあり、当初は会津地方の方が多かったのですけれども、いまは 逆転しておりまして、いわき地方の方の避難者が増えているという現状があります。

つぎに仮設住宅の状況ですが、当町におきましては会津若松市といわき市に仮設住宅があ り、合計は 1,424 戸です。民間の借り上げ住宅につきましても 2,557 件です。現在も全町民 が避難している状況が続いておりますので、こういった状況になっております。

学校関係においては、園児・児童・生徒の就学状況というところを見ていただきますと、

本来ですと 24 年度に入学すべき子どもたち、幼稚園、小学校、中学校のそれぞれの人数があ りまして、ただ現在のところ会津分校の在籍者数を見ていただきますと、いずれも半分以下 ということになっています。いち早く学校の方は立ち上げて、ある程度人数は確保したので すが、やはりいわき地方へ人が流れているという状況があり、会津の学校の児童、生徒数は 減る傾向にあります。

当町の復興への取り組みということですが、川内村さんの状況を聞かせていただきますと、

うちの町の復興というのはまだまだだなと。当然ながら町内で何ができるかというと、まだ 震災以来の復旧すらできていない、調査すらできていないというような状況です。しかも復

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興っていつだっていうと、なかなかいまはまだお示しできないというような状況で、復興の 取り組みというものをお話しするのはちょっとお恥ずかしい状況です。復興の取り組みのな かで、復興庁、県と町とが合同で住民意向調査を9月に実施しています。結果の概要ですが、

町への帰還の意志については、戻らないという方が 45.6%、これは5月にやったアンケート からすると5ポイントほど伸びています。戻りたいという方が 11%、これは前回やった結果 からすると 30 ポイント近く落ちています。判断がつかないという方、これが 41.9%であり、

以前はここが 20%でしたので、やはり町が方向性を住民の方にお示しできないということか ら、判断に迷う方が増えているというのが当町の現状でございます。

資料の方に“ニュー大熊町への道のり”というものがございます。これはうちの復興計画 のなかに、どちらかというと大熊町をどうしようかというところを書かせていただいている ものです。現在から 27 年頃までは、現在あります会津若松市、こちらの機能を強化していき ましょうと。避難区域の見直しがされましたので、当然居住制限区域は比較的線量が低いと いうところで当町の大川原地区というところになっておりまして、こちらの除染が進む予定 になっているのですが、こちらに除染・治安維持の拠点を作りましょうという状況です。た だ除染をしたからといって、大熊町に人が住めるかといったらそうではないと思うので、い まの段階ではまず基地を作りましょうという考えです。それから3年後、27~29 年頃につき ましては、今後考えられる復興の拠点と町内コミュニティの本拠地を、いわき市もしくはそ の周辺に作りたいということで、その準備を始めたいと思います。それから5年後、29~33 年頃にはいわき市周辺に町内コミュニティの本拠地を置きたいと。ただそちらに置きながら も、当然会津若松市の方におられる方もいらっしゃいますので、会津若松市にも当然、行政 機能の一部を置きながら、住宅環境の充実を図っていきたいということを復興計画の方で示 しております。当町の復興計画ですが、どちらかといいますと、検討委員会のなかで最初に 委員の方から話になっていたのは、まず町民あっての町であるということを忘れるなと、そ れから復興の主体というのはやっぱり町民だよと。行政はそのニーズをきめ細かく把握しな がら、それを力強くサポートしていくことだよというような話が出ています。復興計画はホ ームページにあるのですが、内容的には町をどうこうしようというよりは、いま避難されて いる方の支援をどうしていきましょうというところに重きを置いて作っています。本来の復 興計画は 10 年先、町、市、村はこういう風になっていて、復興を果たして発展しているんだ よという絵を描くことかと思います。しかし、当町としてはいまある状況、町のなかの除染 が本当にできるのかどうか、下がるのか、いま国の方から要請されています中間貯蔵施設、

これを置くのか置かないのか、原子力発電所の安全性は担保されるのか、そういった諸々の 条件がクリアできないと 10 年先の絵が描けないというのが正直なところです。ですからこの 復興計画につきましては、国としても5年後はこうだよというところはある程度示しており ますので、町としてもそれを受けながら、じゃあ5年後まではこうだなということで判断を して書いています。5年帰らないということは、じゃあ5年後に帰るのかというとそうでは ありません。国としていま示しているのは大体5年後ぐらいまでですので、町としてもとり あえず5年は帰らないということです。それ以降は、ということになりますと当然今後の前 提条件によって変わってきます。それは二次計画、三次計画を今後策定していきたいという ことで考えています。当町の課題としましては、先が見えないというところが1番の課題で あって、なかなか復興が進まないというところにあります。長くなりましたけれども、以上 で終わらせていただきたいと思います。ありがとうございました。

牧田:復興への道筋を描こうにも、その前提となる部分の見通しが立たない。原発の安全性、除染、

中間貯蔵施設といろいろな問題があるなかで、「5年帰らない」というのは、さしあたり5

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年間は無理だということであり、6年目に帰るという意味ではないわけです。厳しい現実の なかで実務を担当されている苦労が忍ばれるお話しでした。それでは南相馬市の牛来さん、

お願いします。

牛来:皆さん、こんにちは。南相馬市の、牛が来ると書いてごらいと読みます。皆さまからは福島 大学を始め、いろんな形で南相馬市に対してご支援いただきましたこと、この席をお借りし て感謝の言葉を申し上げたいと思います。ありがとうございました。私の方からは、南相馬 市の復旧、地域分断からの都市再興ということで、お手元の資料の9ページから 11 ページに て、ご説明したいと思います。

まず概況について、11 ページをご覧頂きたいと思います。福島第一原子力発電所から円が 区切ってありまして、20km、30km ということです。先ほど牧田先生からもお話がありました とおり、南相馬市は平成 18 年1月1日に1つの市と2つの町が合併しました。上から 30km で区分されている鹿島区、真ん中が原町区、1番下が小高区ということで、原町が市で他は 町でした。今回の原発事故でちょうど 20km のところが小高区、30km のところは原町区と鹿 島区の境、後は 30km 圏内ということで、旧合併前の町と市が、原発事故によって3つに同じ 形で分断されてしまいました。20km 圏内の小高区は4月 16 日に警戒区域が解除になりまし て、やっと自由に区域内に出入りすることができるようになりましたが、まだ宿泊すること はできない状況です。30km 圏内の原町区につきましては、震災当初は屋内退避で、昨年の9 月 30 日までは緊急時避難準備区域でした。鹿島区においては何の指定もない区域です。緊急 時避難準備区域が9月 30 日まで指定されていたため、この期間中はまず学校を開くことがで きない、病院の入院も制限される、仮設住宅も建てることができない状況から、30km 圏外で あった鹿島区に仮設の校舎や仮設住宅を建てて、全部そちらで対応しました。ただ先ほどの 川内村さん、大熊町さんとの違いは、南相馬市は原町区に市役所の本庁があり、そちらがず っと残っておりました。そういった意味では、何とか役所機能を持ちながら対応してきた部 分はあります。緊急時避難準備区域の解除によって、原町区の学校も再開できるようになり ましたし、仮設住宅の建設もできるようになったということであります。こちらの地図で、

右側の真ん中に国道6号が走っていて、ちょっと黒くなっている部分は津波被災があったエ リアです。これを見ますと小高区の下の方で鉄道まで津波が来ている状況であります。この 11 ページの左側上に人的被害を記載していますが、死者数が関連死を含めて 1,012 人という ことで、福島県内でも1番多くの方が亡くなられています。住宅被害も 4,179 世帯、津波被 害面積も 40.8 ㎢ということで、県内で1番、面積も大きな被害がありました。現在は4月 16 日の旧警戒区域の見直しにより、1番左側に帰宅困難区域、真ん中辺が居住制限区域、海 側が避難指示解除準備区域という設定になりまして、先ほどの大熊さんは 96%が帰宅困難区 域ということですけれども、当市は線量が低く、帰宅困難区域につきましては小高区で1世 帯だけといった状況です。

9ページをご覧いただきたいと思います。これまでの被災の状況は、こちらに記載してあ るとおりです。ただ当市は原町区・鹿島区に職員が残って、ずっと災害対応をしてきました が、先ほどの大熊町さんの話にもありましたように福島第一原子力発電所の3号機が爆発し た時に、みんなパニック状態になりました。じゃあ、どうするとなったときに、避難所にい た方を市外に避難させるのに、県内では、なかなか引き受けていただけない状況下において、

新潟県の泉田知事から当市の市長に「ぜひ新潟県に避難してください」というオファーがあ りまして、新潟県と群馬県を中心にバスで避難させました。こちらにあるとおり3月 26 日頃 には、南相馬市は、合併して 71,000 人ほどの人口が大体1万人ぐらいまで減る状況に陥りま した。昨年9月 30 日にも避難準備区域を解除したことで、現在では約 45,000 人が戻ってき

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ています。ただ、いまだ約 18,000 人の方が市外、あるいは県外に避難されていて、これを機 に転出された方も 5,000 人ほどいて、そういったことから、いかに避難された方々に帰還し ていただくか、それが最大の課題になっています。

続いて 10 ページをご覧ください。これらを進めるにあたって、南相馬市は復興計画を昨年 12 月に策定しました。皆さんのお手元にピンクの概要版があるかと思いますが、簡単に復興 計画をご説明します。まず2ページで、本計画を策定するにあたり、「復興ビジョン」をつ くりました。この計画を策定するにあたっては、山川先生に委員長になっていただいて、市 民会議を設置しました。市民会議の委員は 24 名ほど、有識者の方8人ということで、市民会 議は7回にわたり、たくさんのご意見をいただきました。有識者会議は2回ほど、後は有識 者によるシンポジウムを1回開催ということで、2ページにある「市民意向調査」や、市民 会議の意見の聴取、子どもたちからの意見もたくさん吸い上げたなかで、本計画については 策定しております。

3ページをご覧ください。こちらではスローガンとして、「心ひとつに世界に誇る南相馬 市の再興を」ということで、世界に誇れる南相馬市の創造的復興ということを掲げまして、

基本方針の1番目、「すべての市民が帰郷し地域の絆で結ばれたまちの再生」は、本日のコ ミュニティ政策学会の会員の皆様には大変結びつく部分であると思うのですが、やはりこれ については私どもが今後進めていくにあたって、いかにいままでのコミュニティを維持しな がら帰還していただいて、なおかつ震災前の生活をいかに取り戻しながら更にもっと進んだ 町を作っていくか、これが本当の課題だと思います。また、基本方針の3番目の「原子力災 害を克服し世界に発信する安全・安心のまちづくり」についても、原発被災を機に世界へ発 信していこうという考えで重要であると捉えています。

4ページから6ページでは、土地利用の関係で津波被災の部分をどうするかというところ をゾーニングして表しています。

7ページから 10 ページまでは分野別施策ということで、1番最初に緊急的対応ということ で、市民会議でご意見を聴いた際に市民の皆さんからまず言われたのは、いろんな施策があ りますが、1番最初にやらなければいけないものをまず緊急的対応としてまとめた方がいい ということで、除染関係や市民生活の応急的復旧を掲げています。8ページから市民生活復 興、経済復興、防災まちづくり、人づくり・子育て環境の充実、原子力災害の克服となって いて、特に8ページでは、コミュニティ政策学会に関係しますが、基本施策 2-2 のコミュニ ティ、地域の絆の復活ということで、これをどう進めていくかというのが当市の課題であり ます。

これらを進めるにあたって、資料の 10 ページをご覧ください。まず課題になっていること は、1番目には除染です。先ほど川内村さんの方からもいろんな除染の区域についてありま したが、まずこの除染がなかなか私どもの方では進んでいない状況で、1番は除染で除去し た土壌の仮置き場が正式に決まっていないということです。先ほど説明した小高区は旧警戒 区域のため、そちらは国直轄で、環境省が行うということで、鹿島区と原町区の方に1カ所 ずつ大きな仮置き場を作るということで進めてきました。最初は海側に予定していましたが、

海側は線量が低いものですから、「何でそんなものを海側に持って来るのか」ということで 地元住民から反対があって、なかなかそういった面で総論賛成、各論反対ということで、「他 から持ってくるのは自分たちの地域ではだめ」というのがあって、なかなか仮置き場が決ま らず、除染が進んでいない状況であります。現在当市では、山際の方が線量の高い地区であ ることから、山際の行政区が自分達の行政区内の土壌については、その行政区ごとに仮置き 場を設置するという方針で、いまは8ケ所中、5ケ所は大体決まりまして、進んでいる状況

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です。

2番目としましては、避難している市民の帰還支援に向けた取組みです。先ほど説明しま したとおり、約 18,000 人の方が市外に避難しているということで、これらをどうするかが課 題です。雇用の確保、医療・福祉関係、教育環境ということで、南相馬市の小中学校の児童

・生徒は約 56%しか戻ってきておりません。幼稚園児は 30%ぐらいで、小さいお子さんをお 持ちの世帯がなかなか帰っていただけない状況にあります。たしかに聞いてみますと、放射 線に対する不安が1番でありますが、便利な地域に行って、たとえば塾をはじめとした教育 環境が整っているところに行ってしまって、いまの状況では戻れないという家庭も多いよう です。福島や仙台といった、より便利なところに住んでしまった結果、なかなか戻る気にな らないという話もよく聞きます。雇用の確保では、昨年の4月ぐらいからコンビニエンスス トアは何とか再開していただき、スーパーも再開されていますが、大手のチェーン店、例え ばマクドナルドとか、そういったところが開いていない状況です。それはどういうことかと いいますと、若い世代、例えば高校生とか、パートのお母さん方が外に出てしまって、パー トの人がなかなか戻ってきていないために、そういった雇用の関係で開けないというのが実 態です。全国チェーン店でも、回転寿司や洋服関係のチェーン店とかがまだまだ開いていま せん。医療・福祉に関しては先ほどの話の続きになりますが、若いお母さん方が子供と一緒 に避難されて、医師よりも看護師さんなどのスタッフが不足しているという状況にあります。

3番目としまして生活・交通インフラの整備と復旧・復興事業の推進ということですけど、

当市の原町区と鹿島区の津波被災があった以外のところについては、電気も上水道も大丈夫 でしたが、旧警戒区域の小高区は上下水道関係や、地震の被害が大きくて、整備がなかなか 進んでいません。4月の区域の見直しにより、インフラ関係の整備に着手し、来年3月ぐら いまでには上下水道の整備を進めていく予定です。常磐自動車道関係では、本来ですと 24 年度中の開通予定でしたが、今回の震災で遅れている状況です。JR常磐線も原ノ町駅から 相馬駅間だけが運行再開していますが、他の区間は津波被災、原発事故の関係でいまのとこ ろは不通の状況です。

4番目の再生可能エネルギー基地・工業団地の整備による企業誘致ということでは、津波 被災があったところについては再生可能エネルギーの太陽光、あるいは風力発電等を用いて 進めています。

5番目につきまして、分断された地域コミュニティの再生ということでありますが、先ほ ど申しましたように約 18,000 人の市民が避難しているということで、これらの方々とどう絆 を維持していくか、これが大きな課題になっています。市外に避難されている方に広報紙の 送付や、市民説明会を開催していますが、先ほど申しましたとおり、なかなか帰還していた だけるかどうか、そのあたりが我々としても不安な状況です。防災集団移転ということで、

36 カ所ほど予定していて、いままであった地域コミュニティを維持したなかで移転していた だけるような取組みをしていますし、仮設住宅に入居される際も、いままで住んでいた地域 を考慮してエリアごとに入っていただいたり、また各仮設住宅においても集会施設を設置し て、多様な形でのコミュニティを大事にしていただくような取組みをしています。18 年1月 1日に合併した時に、当市では、分権・分散型の地域自治区制度を導入しまして、地域協議 会を各区に設けて様々な形で住民の意見を市政に反映していこうという取組みをして参りま した。今回の津波、震災、原発事故により、地域が分断された形になって、特に 20km 圏内が 帰れないということでの不満、30km 圏外は同じ市でありながら、東京電力の賠償が十分に受 けられないとか、そういった線引きをされたことによる分断というのがありまして、その都 度、その都度、行政としては対応してきましたが、なかなかその面で同じ市民でありながら

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も各区同士の亀裂が生じてきているということです。復興計画に基づいてどう進めていくか が当市の課題であり、今後、コミュニティ政策学会の皆さんから、様々なご意見やご指導を いただきながら、私どもは復興に向けて取り組んで参りたいと思いますので、よろしくお願 いしたいと思います。

牧田:ありがとうございました。冒頭でひとくちに福島といってもそれぞれの地域で状況が違うと 申しましたが、ひとくちに南相馬市といっても合併した3つの自治区の違いが浮かび上がる お話でした。これをもっと広げていうと、福島では、地域だけでなく、住民や階層の間での 分断がありますし、家族のなかでもずいぶん意識が違ってきいたりするわけです。さらには 問題が長期化することで「心の分断」も出てきているように思います。こうした分断をこえ、

コミュニティの基盤となる土地やインフラが傷ついたところから、どう復興していくのかと いう課題が示されたように思います。では、山川先生、お願いします。

山川:3つの自治体の話をどうまとめるかということだと思います。まず大きな流れをもう1度確 認をしておきたいと思います。いま、地域の分断という話があります。避難区域、計画的避 難区域、緊急時避難準備区域、特定避難勧奨地点、様々な避難指示があります。それがいま、

どう戻っていくのかということで、帰宅困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域と いう形で再構成されてきています。それぞれの市町村によって区域指示が違って来ているこ とが復旧・復興を進める上で、大きな問題です。

大きな流れでいきますと、いくつかの段階の違う被害が重なって見られるということがあ ります。第1は被災地から避難所へということであります。原子力災害避難者はこの避難所 を何カ所も回って避難していくということがあります。震災による被害は主として人的被害、

建物被害で、原子力災害による被害は高線量被爆、強制避難そして自主避難、放射能汚染の 農地、農水産物の汚染、それに関わる経済的実害というのがあります。第 2 段階、避難所か ら仮設住宅へという動きのなかでの被害であります。これは避難所から仮設住宅に移動する 際の被害ということであります。原子力災害による被害というものは、放射線高線量の被爆 から低線量の被爆の方に移ってきています。風評ということであります。これは次の第 3 段 階に関わります。風評の問題もいわば農産物の関係における風評のものから、人に関わる風 評の問題という動きがあります。なぜこれが問題になるのかということですが、人口の県内 外移動、とくに県外への人口流出ということでは、玉突き的な現象というのがあるというこ とです。放射線被曝問題は単に浜通りの人たちに限定されるではなくて、中通り地域からの 方が、実はたくさんの人が出ています。これが今回の原子力災害の問題における深刻さであ ります。第 3 段階では町外コミュニティ形成ということがございます。あるいはつい先日ま では仮の町と呼ばれていました。仮設住宅から復興住宅への移動というなかで様々な問題と いったことがこれから出て来るということでございます。問題の困難さはこういったものが 決して単純な時間経過的な段階論的なものではなくて、前の問題が解決されないなかで新し い問題が付け加わってくるというところが、実は1番深刻なことだと思っております。

今日は3つの報告がございました。私は大熊町さんにはお付き合いがございませんでした けれども、川内村さんと南相馬市さんでは復興計画を作る、あるいは総合計画を作るという ことで直接関わり、いろんな議論をさせていただいてきております。またそれ以外に福島県 の中通りでいいますと白河市、須賀川市、伊達市というところでも復興計画についての議論 をさせていただきました。1週間前でございますけれども、伊達市さんの部長さんが来られ ました。何を目的とされて今回来たのかわからなかったのですが、つぎにまた関わってほし いという布石が打たれたんだなという印象があるわけです。伊達市さんは復興計画を作る時 に当初、3回ぐらいで終わらせたいと思っていました。その案は職員の側で作って、これで

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もって進めていきたいので、よろしくというものでした。私はやってみないとわかりません ね、ということでやりましたけれども、その結果、7回議論するということになりました。

1週間前に来られたとき、部長さんが何を言われたのかというと、やっぱり7回議論してい ただいて良かったということでした。私にとってこれは大変嬉しいと思っております。

これは南相馬市さんも牛来課長が淡々と報告をされましたけれども、牛来さんも七転八倒 のなかで過ごしてきたことを良く知っております。南相馬市の復興計画の委員会は、私は1 回目の議論には、残念ながら学内の用事があって参加できませんでした。けれども、初回の 第1回の委員会が大荒れになったということを聞いております。その後、私が引き継ぎまし た。大体議論は1時間半から2時間を予定したわけですけれども、4時間ぐらいは最低かか りました。議論が終わるためにはここで切り上げたいというと、うまくいきません。けれど も、「夜中までやりましょう」と言いますと、意外と早く、夕方の5時頃には終わりました。

やはりこれは行政の側、あるいは委員会を運営する側が、市民に対してどういう風に向き合 うのかという、その姿勢が問われたのかなと感じております。

南相馬市・伊達市にかかわらずいろんなところで、1回目の会の時に議論に時間をかけれ ばかけるほど、その後スムーズに行くということを経験をしております。この経験から民主 主義のあり方といったものが、福島においても、私はやはり変わって来たなということを実 感しております。それはなぜかというと、他の問題では住民は引き下がりますけれども、こ の放射線の問題については絶対に引き下がれないという覚悟があるということであります。

委員会が、そして市役所がこのことどう向き合っていくのかということ、十分に議論するの だという姿勢が重要だろうと思っております。ですから私も委員長を引き受けましたが、委 員長がどっちの側にいるのかということを委員の方々、そして市民は見ているわけです。加 えて議論が深まった、あるいは大いに議論ができたというのは、公募型の市民の代表の方が 何人か入ってくれたということであります。公募型の方が入りますと、その方だけで1時間 ぐらい時間を使うということがあります。しかしそれによって一体何が問題なのかというこ とが鮮明になるという点では大変良かったのではないかと思っております。

そして時間がございませんので簡単に言いますけれども、放射線の除染ありきだといわれ ております。これは放射能除染ありきというときに、私たち未来センターの経験によります と、やはり細かな情報を、ちゃんとした情報を出すことが重要です。放射能汚染マップも非 常に細かいピンポイント的なものができれば出せればいいというところまでやることです が、しかしそれだけではだめです。私たちの経験ですと伊達市小国地区の例があるわけです が、可能な限り住民の人や農家の方と一緒に自分の田んぼ等の線量を計ってもらう。これは もちろん高線量のところは無理でありますけれども、一定線量以下のところであればこれは 市民協働で計るということであります。それが可能なのはどこでも可能だということではあ りません。伊達市小国地区というのは協同組合発祥の地といわれており、そういう看板が立 っておりますが、私はその専門家ではありませんのでわかりませんけれども、そういったや はりコミュニティが一定、しっかりしているところでこれができるということです。

もう1つの例としては二本松の近くに東和町というのがあります。ここは有機農業が盛ん であります。野菜の問題、お米の問題、しかしお米でそこから 500 ベクレルを超えるセシウ ムが出たということで衝撃が走るわけであります。その後、どうしたのかというと、やはり 1番大きな被害を受けた有機農業の農家の方が、自分達で立ち上がったということでありま す。福島大学もそこにいろいろな形で関わって参りました。そういった面でコミュニティ、

今回も狭間でコミュニティを考えるといったヒントはそこにあると思います。これまで私自 身は、とくに福島県内における安全と安心という言葉がいままではナカグロでつながってい

参照

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