はじめに
このノートで論じるのは,漸近的双曲空間(asymptotically hyperbolic spaces) とよばれる,
ある種のコンパクトでない完備Riemann多様体における幾何解析∗である.
以下このノートを通じて,「漸近的双曲空間」のことを「AH空間」と書く.
v AH空間とはどんな空間か
Riemann多様体 X の「漸近的双曲性」をとにかく大雑把に説明するなら,これは「空間 X
に棲む人が,あるコンパクト集合K ⊂ X から離れれば離れるほど,その人のまわりは双曲空 間Hn+1の一部のようにみえてくる」という性質のことだ†(なお,このノートでは基本的に,
空間の次元は2以上とし,これをn+1とあらわす).漸近的双曲性をもつRiemann多様体X がAH空間である.もっとも,われわれは後でもっと技術的な定義を導入することになるし,
それは必ずしも,いま述べたことを直接的に厳密にしただけともいえない.空間の解析的性質 がよいものになるように,もう少し強いことを要請することになる.だがとりあえずこの程度 の理解で先に進む.
基本的な例をあげれば,まず(当然ながら)双曲空間Hn+1はAH空間である.Hn+1のコ ンパクトな部分集合をとり,その上だけで変更を加えても AH 空間であることはかわらな い.また,凸ココンパクト商とよばれるタイプの商空間Γ\Hn+1もAH空間となる‡.Γ\Hn+1 にコンパクト部分集合において変更を加えてもよい.AH空間における解析は,一面として は,そういった空間における解析に適切な視座を与える目的で展開された(具体的にいえば,
Mazzeo–Melrose [30]の意図はこういうところにあったようだ).
一方で,上の例示ではAH空間の枠組みの広がりを説明できてはいない.AH空間の枠組 みはもっとはるかに広い.このことは無限遠境界の幾何を考えるとはっきりする.Hn+1 や Γ\Hn+1(およびそれらをコンパクト部分集合の上だけで変更したもの)の無限遠境界である
∗幾何解析(geometric analysis)というのは2000年ごろ(?)から使われるようになった言葉だが,⻄川[44]によ
れば,これは「幾何学と解析学の統合」を目指したスローガンである.「幾何学の文脈であらわれる微分方程式の研 究」にかぎらず,「解析学的問題を幾何学的にとらえる」という方向性をも積極的に志向する意図が含まれているとい うことだろうか.
†「漸近的 ・ 局・
所
双曲性」とよぶ人もいるが,このノートでは「漸近的双曲性」という言葉を用いる.
‡群ΓがHn+1に左から作用しているものとみて,商をΓ\Hn+1と書いている.
Sn やΓ\Snは次項で述べるように共形幾何の意味で「平坦」なものにすぎないが,AH空間の 無限遠境界は一般には「曲がっている」.無限遠境界が局所的にも非自明だというのがAH空 間の著しい性質である.AH空間X における解析では,X のトポロジーに加えて,この曲がっ ている無限遠境界のもたらす影響を記述することが(唯一ではないにしても)大きな興味の対 象となる.
AH空間の境界は無限遠方にあるが,境界が有限の位置にある場合における解析的結果,す なわち境界つきRiemann多様体におけるChern–Gauss–Bonnetの定理やAtiyah–Patodi–Singer の定理といった結果が,AH空間で解析を行うことの精神的な支えになっているということも いえるだろう.
v AH空間の共形無限遠
Hn+1とその無限遠境界について具体的に思い出し,AH空間の無限遠境界についてイメー ジをもう少しだけはっきりさせよう.
双曲空間にはいくつかのモデルがあるが,われわれが最も重視するのはPoincaré開球モデ ルである.これはHn+1をRiemann多様体(Bn+1,gHn+1)とみなすモデルだった.ここで Bn+1 はRn+1の単位開球であって,gHn+1 はPoincaré計量,すなわち
gHn+1 = 4 (1− |x|2)2
∑n+1 j=1
(dxj)2 (0.1)
である(ここで |x|は原点o∈Rn+1 からx までのEuclid距離をあらわす.正規化定数4は断 面曲率を−1とするためにつけてある).
gHn+1 はEuclid計量の 4(1− |x|2)−2 倍だが,ここで1− |x|2というのは,境界∂Bn+1にお いて,境界までのEuclid距離に ・
漸・ 近・
的・ に
比例する関数であることに注意しよう∗.したがって ファクター 4(1− |x|2)−2 は,境界において漸近的に,境界までのEuclid距離の −2乗のオー ダーをもつ.つまり,PoincaréモデルによればHn+1とは Bn+1なのだが,その世界に棲む人 間が世界の端∂Bn+1に近づくとき,人間のサイズ(体積ではなく⻑さでみたサイズ)は,Hn+1 をPoincaréモデルを通じて Bn+1とみなしている観察者†にとっては,漸近的には∂Bn+1への
Euclid距離に比例するオーダーで小さくなっていくということだ.
双曲空間Hn+1に棲む人間は,(Poincaréモデルを採用する観察者の視点による)世界の端ま での道のりの半分を進むと,(観察者の視点では)サイズも半分に小さくなり,したがって単 位時間あたりに進める道のりも(観察者の視点では)半分になってしまうから,世界の端に有 限の時間で達することができない.これがHn+1の完備性である.Sn = ∂Bn+1はHn+1の住人 が達することのできない「想像上の境界」であり,Hn+1の無限遠境界(boundary at infinity)と
∗x→y ∈∂Bn+1のとき1− |x|2∼c(1− |x|)だということ(具体的にはc=2).ここでA∼BはA/B→1の 意味.
†「神」といっては語弊がある.どんな言葉がいいだろうか.『幼年期の終り』の「オーバーロード上 帝」?
か理想境界(ideal boundary)とよばれる∗.
同様に,一般のAH空間 X にも無限遠境界∂∞X が存在する.これは測地境界である.つま り,AH空間の半測地線(geodesic ray)であってコンパクト部分集合にトラップされない(閉 じ込められない)ものについて,その半測地線が向かってゆく想像上の点を考えて,それらの 想像上の点を集めたものが∂∞Xである.
「技術的な」AH空間の定義によれば,われわれはさらに,Hn+1の場合と同様に「観察者の 視点」が存在することを仮定する.もっと具体的には,まずX = X∪∂∞X がなめらかな境界 つきコンパクト多様体の構造をもつとする.さらに「観察者の視点」による∂∞X までの距離 を ρとするとき,X が備えているRiemann計量gの成分は,ρ→ 0の極限において,ρ−2の オーダーをもつものと仮定する.
さて,ここでいったんHn+1の場合に戻る.よく知られていることだが,Hn+1の無限遠境界 Sn には自然な共形幾何(conformal geometry)があり,Sn の共形幾何はHn+1の幾何と強く結 びついている.これを説明したい.共形幾何というのは,可微分多様体 M のRiemann計量の 共形類にもとづく幾何のことである.ただしM のRiemann計量の共形類とは,MのRiemann 計量全体の集合に
h∼ hˆ ⇔ある正値関数 F ∈C∞(M)が存在してhˆ =F h
によって定義される同値関係∼ を導入したときの同値類のことをいう.さっき「Sn の共形幾 何」といったのは,Sn の標準的な Riemann計量の定める共形類に関する共形幾何のことで ある.
Hn+1の幾何と Sn の共形幾何の強い結びつきが著しい形であらわれているのが,両者の変 換群,すなわちIsom(Hn+1)とConf(Sn)が一致するという事実である―――Kleinのエルランゲ ン・プログラムの立場をとるならば,双曲幾何と球面の共形幾何は ・
同・ じ・
幾・ 何・
の・ 別・
の・ 姿
にすぎな いのだ! それに,等⻑写像のみに執着せず,擬等⻑写像のような誤差を許す概念を導入する ことにしたとしても,たとえばMostowの剛性定理の証明にみられるように,Sn の共形幾何 は引きつづき重要な役割をはたす.
以上はHn+1 の無限遠境界の話だが,一般のAH空間 X の無限遠境界∂∞X にも自然な共形 幾何がある.Hn+1の場合,無限遠境界の共形幾何は次のようにも説明できる―――Poincaré計 量(0.1)からファクター4(1− |x|2)−2を取り除くとEuclid計量が得られるが,その Sn への引 き戻しの定める共形類が,われわれの考えているSn の標準的な共形類である.一般の場合に も同じように,AH空間 X のRiemann計量からファクター ρ−2を取り除いてgとし(これは
X のRiemann計量とみなされる),gの∂∞X への引き戻しの定める共形類を考えることがで
きる.∂∞X をこうして得られる共形類を備えたものとみるとき,その意味での ∂∞X のこと を共形無限遠(conformal infinity)という.
∗「ideal」を「理想」としたのは誤訳だと思うが,この訳が広く通用している.
Sn は共形幾何的には「平坦」である.きちんとした言葉では「局所共形平坦」であるとい う.これは,Sn から1点を除いた集合は,立体射影によってRnと共形同値だからである.し かし前項でも触れたとおり,一般のAH空間の共形無限遠∂∞X は必ずしも局所共形平坦とは ならない.われわれはそういう枠組みで議論を展開してゆく.
もしかしたら,漸近的Euclid 空間と比較することが状況の理解の助けになるかもしれな い.重力インスタントンの理論で出てくる「漸近的局所Euclid多様体(asymptotically locally Euclidean manifolds,ALE多様体)」の概念においては,空間は無限遠方でΓ\R4に近づくも のと仮定する.無限遠境界はΓ\S3であり,これはどの点の周りも局所的には S3 だという意 味で曲がっていない(あるいは「こぶ(lump)がない」と表現したほうがいいかもしれない).
Melrose [32]はその一般化にあたる,「散乱計量(scattering metrics)」という曲がった無限遠境 界を許す漸近的Euclid計量をもつ空間の概念を導入している.われわれが考察する漸近的双 曲空間とは,Melroseの意味での漸近的Euclid空間の双曲幾何バージョンである.この比較に ついては4.6節でさらに詳しく議論する.
v このノートで扱う内容
それでは具体的な問題について述べよう.微分方程式は線型なものと非線型なものに分かれ る.AH空間における線型問題として,このノートではまず以下のものを扱う.
(I) ラプラシアン(関数に作用するもの)に関する固有値問題.
(II) L2調和微分形式の空間の決定.
さらに非線型問題として次の2例を扱う.
(III) AH空間のあいだの調和写像の構成.
(IV) Einstein方程式を満たすAH空間の構成.
ただし,非線型問題(III),(IV)についても,その解の微小変形を考えるならば,これは逆関数 定理ないし陰関数定理を用いることにより,無限小変形の問題(これは線型の問題である)に 帰着される.したがってわれわれは線型問題のリストに,(III)と(IV)に付随する解の無限小 変形を扱う問題をも追加する.
線型問題を扱うにあたり,双曲空間Hn+1では,空間のもつ大きな対称性を利用することが できる.一般のAH空間についての議論は,Hn+1における結果を ・直・接・的・に・応・用・す・る ことでな される.つまりこういうことである.非定数の係数をもつ偏微分方程式を解析する際に,局 所的に定数係数の偏微分方程式だとみなして近似解を構成し利用することがよく行われるが
(frozen coefficientsの方法),これは幾何的には空間を局所的にEuclid空間だとみなしている ことにあたる.この手法は,たとえばコンパクト多様体上では十分に有用である.だが AH 空間はコンパクトではなく,しかも無限遠方の形状が局所Euclid近似を許すようなものには なっていないので,Euclid空間ではなく双曲空間による近似を行うということだ.
線型問題の扱いについて,さらにひとこと付け加える.このノートではそれらを各個撃破す るのではなく,「幾何的線型微分作用素に関するFredholm型定理」とよばれる一般的な定理を 用いて議論する.別のいい方をすれば,このノートにおける線型問題についての議論は,「中 心にある『幾何的線型微分作用素に関するFredholm型定理』と,その個別事例としての諸問 題」というパースペクティブを描くことを目指して行われる.これはLee [26]で実行されてお
り,またBiquard [7](フランス語で書かれている.英訳[8]もある)の第1章にもみられる
考え方である.われわれも大筋でそれらを踏襲する.
非線型問題である(III)と(IV)については,対応する無限小変形・微小変形の問題をすでに 述べたような形で議論したうえで,(III)についてはある程度一般的な構成もできているので,
それを解説する.(IV)については,微小変形の範囲を超えた一般的な構成法はまだ得られてい ない.知られている断片的ないくつかの結果について触れることにする.
特に(IV)のEinstein方程式の問題は,AH空間の研究における一大目標として広く認識さ
れていることを指摘しておこう.もっと詳しくいえば,「共形無限遠が与えられたとき,それ を誘導するようなAH-Einstein空間をすべて決定せよ」というのが一般的な定式化である.し ばしばこれをAH-Einstein充塡(AH-Einstein filling)の問題ということがある.
AH-Einstein充塡の考えは,双曲空間Hn+1の幾何とSn の共形幾何のあいだにある密接な結 びつきを,大きく一般化しようという考えだともいえる.一般のAH空間には等⻑写像はほと んど存在しない(また同様に,一般の共形多様体には共形変換はほとんど存在しない)ので,
変換群の対応を考えることには意味がない.だが,かりに与えられた共形無限遠 M に対して
AH-Einstein充塡Xが一意的に存在するのだとすれば,Mの幾何とX の幾何には,やはり何ら
かの形で関連が見出されるはずであろう.Fefferman–Graham [14]はそう考えてAH-Einstein 充塡の一意的存在の問題を提出した(そして漸近級数解のレベルでの解答を与えた).なお,
これは物理でもAdS/CFT対応∗ないしゲージ・重力対応といった名前で知られた見方である
(ただし物理では不定値計量を考える).
Fefferman–Graham の漸近級数解のレベルを超えた AH-Einstein 充塡の一意的存在の理解 は,そんなに単純ではないということだけはわかっている.具体的にいえば,一意性がない実 例は1980年代にみつかっているし,また最近になってGursky–Han [20]が,ある種の設定の もとで非存在が証明できるケースを発見した.だから問題は「一意性,ないし存在が保証され るのはどういうときか」だとか,「共通の共形無限遠に対するEinstein充塡は,どのくらいの 個数存在しうるのか」といったことになる.完全な理解への道のりはまだ濃い霧に閉ざされて いるが,われわれは何もわからず立ちつくしているわけではない.
v 想定する読者
このノートは二つのタイプの読者に向けて書かれている.
∗AdSは反de Sitter空間(anti-de Sitter space),CFTは共形場理論(conformal field theory).
第一のタイプは,微分幾何学の専門家であって,AH空間というのがいったい何か,ちょっ と真面目に学んでみようという方である.
第二のタイプは,Riemann幾何学,Lie群・Lie環・等質空間の理論,関数解析学の各々に ついていくらかの基礎体力をもっており,これから微分幾何学の深みへと入ってみようとする 方である.必要な基礎体力を身につけるために手にする本を思いつくまま挙げてみるなら,た とえばWarner [41],Cheeger–Ebin [10],小林–大島 [43],黒田[45]がよいのではないかと思 う.ただしこれらを全部読む必要があるということではないし,これらで十分ということでも ない.完全に準備が整うということはありえないので,気負いすぎず挑戦してほしい.