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™ƒŒ¡/P1†`20 fic™ƒŒŒ™j fl™ŠL‡è

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Academic year: 2021

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はじめに * 二十一世紀の人類が直面する最大の課題が、地球環境問題であることにだれも異存はないで あろう。とくに二酸化炭素を主因とする「地球温暖化」の問題は、緊急の課題としてサミット の主要テーマにまでなっている。そのほか、酸性雨、オゾン層の破壊、廃棄物(核のゴミから 家庭のゴミまで)の増大、大気や海洋の汚染、異常気象、森林の減少と砂漠化などなど、挙げ ていけばきりがない。よほどの楽天家か、でなければこれまでの甘い夢を捨てきれない者を除 いて、もはや地球環境の破壊がだれの目にも明らかになってきているということである。 これらの問題の解決には、先進国だけでなく発展途上国をも巻き込んだグローバルな視点に 立って、各国間の利害調整の努力が必要であろう。また省エネ対策も国家的規模から個々人の 生活レヴェルまできめの細かい対策が求められるであろう。それぞれの分野・段階での個々具 体的な対処も必要になる。しかしそれが場当たり的な対症療法では、かえって本質を隠蔽して、 いっそう問題をこじらせてしまうおそれがある。これらの問題は、複合的に絡み合っており、 総合的な対策が必要である。たとえば二酸化炭素の削減のために、それが出ない原子力発電を 推進しようとする動きがあるが、そこから出る核のゴミは半永久的な毒性を保ちつづける。ま たアメリカのスリーマイル島や旧ソ連のチェルノブイリにおける原発事故は、地球に壊滅的な ダメージを与えかねない危険性をはらんでいた。現象的で一時的な解決策は、あとでもっと深

宮澤賢治と環境思想 (1)

「狼森と笊森、盗森」の研究

哲学教室

Kenji Miyazawa and the Thought of Environment (1)

――

A Study of《Wolf-wood and Colander-wood, Thief-wood》――

Sueo TANAKA Department of Philosophy

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刻な問題を引き起こしかねないのである。 二十世紀、とくにその後半は大量生産、大量消費そして大量廃棄の時代であった。世界的な 高度経済成長にのって、右肩上がりの成長神話に酔っていたといえる。そのさなかにおいては、 来るべき二十一世紀は、まさに宇宙船が飛び交い、月旅行も夢ではないと思われていた。しか し二十一世紀になったこんにち実状はどうであろう。惨憺たるありさまである。二十世紀の 「宴のあと」といえる。さんざんどんちゃん騒ぎした花見の宴のあと、その翌日に来たのが二 十一世紀の人である。食い尽くされて食べるものは残っていない(資源枯渇)、代わりにある ものといえば撒き散らされたゴミの山(環境汚染)といった光景である。 地球環境問題は、個人や NGO などの組織および国家レヴェルの施策、さらに国際間の調整 といったさまざまな分野での活動を連係して有機的に推し進めていかなければならないことは もちろんである。しかしそれだけでよいのであろうか。これらの諸施策はしょせん「後始末」 対策でしかない。たとえばどうしたらゴミを少なくできるのか。それには「省エネ」、「ゴミの 分別」、「リサイクル」などが有効であろう。だが、これでは大量生産という元凶には手が付け られていない。そんなことをしたら不況になってしまうと、反対されるからである。抜本的解 決にはほど遠いといわねばならない。 この問題を機に根本的に見直すべきことは、自然を「資源」として捉え、人間の欲望の全面 的解放を「進歩」と見なしてきた従来の考え方そのものではないだろうか。「地球の有限性」 の認識をもち、「自然との調和」こそ人類の第一義的な責務として自覚すべきであろう。これ までの人間中心主義からの脱却を迫られているのである。「持続可能な発展(sustainable deve-lopment)」といった主導理念も、結局のところ人間の欲望をそのままにしておいて、どこま で地球(自然)を長持ちさせることができるのかという意図が見え隠れしているのである。現 状において自然は、宮澤賢治の童話における、資本家オツベルに食べ物もろくに与えられず酷 使されつづけ、息もたえだえになった白象のようなありさまである(「オツベルと象」)。この 問題に対処するには、文明論的視座がなければ、たんなる事後処理的なとりつくろいにおわっ てしまうであろう。 ** 人類ははじめ森のなかで生活していた。というよりも人類誕生の頃には、地表のすべてが 木々で覆われ、海辺で生活している人々も、そのすぐ裏は森であったはずである。とくに日本 列島はそのほとんどが広葉樹林帯として、豊かな森の恵みをもたらしてくれていた。木の実や 茸(木の子)を採り、また川や海に出かけては、貝をひろい、魚を捕り、山野では鳥や動物た ちと、時には食うか食われるかの格闘をしながら、広義の共生(食物連鎖)を営んでいたので ある。かれらは狩猟・採集経済といわれる生活様式を営んでいた。日本の歴史でいえば、おそ 2 宮澤賢治と環境思想 (1)

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らく何千年とつづいたであろう縄文時代がそれにあたる。 その後、人類は農耕というものをおぼえ、稲や小麦の栽培を行うようになった。それによっ て自然の恵みをただ受動的に享受するという生活様式から、自然に積極的に働きかけて、そこ から富を収奪するといった生活様式に転換した。これによって人類は原始的な状態から抜け出 ることができるようになった。もともと「文化」(culture)とは、「耕す」(cultivate)ことで ある。文化の源は、「農業」(agriculture)にあるわけである。これにより定住することが可能 となり、もはや食料の獲物や木の実を求めて放浪する必要がなくなったのである。そこで村が でき、やがて都市へと発展していく。さらに穀物の生産を基本とする経済システムにより、保 存・蓄積が可能となり、そこから持てる者と持たざる者との差、すなわち貧富の差が生まれ、 支配者と被支配者の階級構造が成立し、それが国家となっていくのは見やすい道理である。「文 明(化)」(civilization)とは、「(都市)市民」(civis)化することである。その意味でもとも と人間は、反自然的存在でしかないのである。 さらに建物、道路、橋などの都市機能の建設のためには、周りの森林から材木用や煉瓦を焼 くために、膨大な量の樹木が切り出された。都市民を養うためには、河川が下流域に形成した 沖積平野の地帯だけでは足りず、上流部の森林が開墾され農地と化した。文明自体が自然破壊 的である。 だが、この都市文明を支えつづけたのは、後背地としての森であり、これが川を通じて豊か な腐植土を平野に送り、農業のための肥沃な大地を維持してきたのである。自然に支えられて いることを忘れた、あくなき自然侵略によって、結局かえって自らを滅ぼす羽目に陥った文明 も、オリエント文明をはじめ数え切れないほどあった。こんにちこれらのかつて栄華を誇った 多くの地域が、禿山や砂漠地帯になってしまっているのも、「自然破壊」がいまに始まったこ とではないことを如実に物語っている。同じことが、二十一世紀の現代文明においても、しか も空前の規模で地球全体にまで拡大されているのである。 *** 宮澤賢治の生前公刊した最初で最後の童話集『注文の多い料理店』が出版されたのは、一九 二四年である。いまから八十年以上前の作品であるが、ここに収録されている童話の舞台は、 そのほとんどが<森>である。これから問題にする「狼森と笊森、盗森」はもちろん、巻頭の 「どんぐりと山猫」、本のタイトルになった「注文の多い料理店」、「かしはばやしの夜」、「水 仙月の四日」、「烏の北斗七星」それに巻末の「鹿踊りのはじまり」は、森やその周りの野原で 繰り広げられる物語である。全九編のうち、「月夜のでんしんばしら」と「山男の四月」だけ が町や平野部が舞台になっているだけである。むろん町といっても、岩手県すなわち賢治のい う<イーハトヴ>のことであるから、都会ではない。田舎の町であり、だからこそ山男が山奥 田 中 末 男 3

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からのこのこ人里に出てきてひどい目にあうのである。 <イーハトヴ>のホームグランドは、<森>である。そこには「柏」、「楢」、「ブナ」、「栗」 などの樹木が生い茂り、「どんぐり」や「栗」や「くるみ」などの木の実がなり、地面には茸 (木の子)が生えている。そんな森には、鹿や熊や狼たち、あるいは「ひばり」や「よだか」 や「ふくろう」などの鳥たち、いろいろな生きものがいっぱい住んでいるのである。森全体が 一つの大きな生きものである。だから「狼森と笊森、盗森」において、百姓たちがまず森その ものを相手にして、それに向かって呼びかけるのである。 二十世紀が二次にわたる世界大戦とその後東西の冷戦下のイデオロギー対立の時代であった とするならば、二十一世紀の「地球環境問題」の「敵」はだれであろう。なにに立ち向かった らいいのか、なにを克服したらよいのか。正体不明の感がある。ある意味では、「敵」は、人 類自身、したがって自分自身といえるかもしれない。 とはいえ、そういっても一歩も前に進めない。なんらかの手がかりを見つけて、この問題の よって来たる根本原因から探っていかねばならないであろう。その手がかりとして、宮澤賢治 をとり上げてみたい。かれこそこんにちの環境問題を予測し、その危険性を憂い、なんとか別 の可能性を探索したほとんど最初の人であるといってよい。 その一例を挙げれば、宮澤賢治は「注文の多い料理店」において、「食べる/食べられる」 の両義的な注文を出すことによって、若い東京からの紳士二人が、墓穴を掘っていくさまをシ ニカルに描いた。その注文の一つに、「壺のなかのクリームを顔や手足にすつかり塗つてくだ さい」がある。それは「みるとたしかに壺のなかのものは牛乳のクリームでした」となってい る。これは牛乳の生産者でありながら、それを口に入れることができず都会(東京)にもって いかれてしまう飢えに苦しむ農村の現実を踏まえている。しかもその貴重な牛乳が、あげくの はてに当時はまったくの贅沢品であった化粧品にされてしまっている現実があった。だから 「糧に乏しい村のこどもらが都会文明と放恣な階級とに対する止むに止まれない反感です」 (「注文の多い料理店」の「広告ちらし」1 )と書かざるをえなかったのである。 しかし、これはたんに八十年以上前の過ぎ去ったお話ではない。二十一世紀のこんにち、化 石燃料の枯渇とそれに基づく価格高騰から、新たなエネルギー源としてサトウキビ、トウモロ コシ、大豆などを原料にしたエタノール燃料の生産が世界的規模で推進されている。現在、こ うしたバイオ燃料は二酸化炭素の排出が少なく、「クリーンなエネルギー」として脚光を浴び ている。しかしそのためにアマゾンや東南アジアの熱帯林が伐採され、広大な面積が農地化さ れている。他方、いまもアフリカをはじめ飢餓に苦しむ人々は億単位で存在している現実があ る。それが食用可能なトウモロコシなどがガソリン代わりに転用されることによって、いっそ う食糧供給が逼迫させられている。さらに食料が奪われるだけでなく、その絶対量が不足する ことによって、残りの食料の価格も高騰し、ますます飢餓状態が深刻になっている。これがは 4 宮澤賢治と環境思想 (1)

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たして「地球にやさしいエコロジー」であろうか。基本姿勢すなわち車中心の社会システムを 維持しつづけようとする姿勢はなんら変わっていない。バイオ燃料の経済的効率も疑問視され るが、こうした延命策は結局のところ森林の破壊と飢餓の増大を推し進めるだけであろう。 このように賢治がとっくの昔に、岩手県を舞台にして警告したことが、こんにち世界的規模 で展開されている。こうした先見性のさらなる先に、宮澤賢治はなにを見据えていたのであろ うか。それの追究が小論のテーマである。 ここでまず宮澤賢治の童話集『注文の多い料理店』に収められた「狼森と笊森、盗森」をと り上げてみたい。賢治は、「広告ちらし」において、この作品を「人と森との原始的な交渉で、 自然の順違二面が農民に与えた永い間の印象です」2と解説している。人間と森(自然)との関 係性の問題を、そのはじめての出会いの場において探索しようとする意図を込めて書いている のである。 「人と森と原始的交渉」――人類の歴史はすべてこの関係性のなかに収められてしまうであ ろう。森のなかで生まれ育った人間は、やがて森を切り拓き、「はたけ」や「沼ばたけ」(水田) にし、さらに都市を建設していった。まさに賢治が「グスコーブドリの伝記」において、なぞ ったとおりである。この「狼森と笊森、盗森」は、その意味で人類の文明論的射程をもった作 品であり、人類の歴史が凝縮されているといっても過言ではない3 さて、物語はつぎのように語り出される。 小岩井農場の北に、黒い松の森が四つあります。いちばん南が狼森で、その次が笊森、 次は黒坂森、北のはづれは盗森です。 この森がいつごろどうしてできたのか、どうしてこんな奇体な名前がついたのか、それ をいちばんはじめから知つてゐるものは、おれ一人だと黒坂森の巨きな巌が、ある日、威 張つてこのお話をわたくしに聞かせました。 「狼森と笊森、盗森」という物語は、これら三つの「奇体な名前」がどうして付いたのかと いう地名由来譚の体裁をとっている。まず、宮澤賢治の<森>は、あくまで<Wald=wood= 森>であって、<Forst=forest=林>ではない4。ドイツ語においてもそうであるが、森は同 時に山をも意味する5。賢治の世界においても、ここで登場する三つの森は標高二、三百米の 小高い山である。ちなみに『春と修羅』の巻頭詩「屈折率」に出てくる「七つ森」もそうであ 田 中 末 男 5

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る。 一方、「森」という漢字は、「木」を重ねた象形文字で、類似の「林」との規模の大小で区別 も は されている。ところで和語では、森には「盛り」に通じ、林には「生やす」が通じている。森 は、まさしく「うるうるもりあがつて」(「どんぐりと山猫」)いく原生的なものであるのに対 し、林は人工的な植林を意味しているといわれる6 ここにでてくる森などの地名はすべて実在する。そしてこれらの森を囲むように南には「小 岩井農場」が広がり、北には「岩手山」が聳える。まず、このタイトル自体が「奇体」である。 「狼森と笊森、盗森」。よくみると、前二者は「と」で結び付けられているが、「盗森」は「、」 で区切られている。ふつう「狼森と笊森と盗森」か、英語式に「狼森、笊森と盗森」であろう。 ということは、賢治はこの英語式の表現をヒントに、それをひねってこのような「奇体な」表 現にしたのかもしれない。童話集『注文の多い料理店』には、当時の印刷技術の未発達、とり わけ地方都市(盛岡)の設備水準からして、誤字・誤植など印刷ミスが少なくない。だが肝心 のタイトルに関して、著者が不注意で見逃したとは考えにくい。やはり意図的であろう。「と」 は同格を表す接続詞である。つまり同じ次元に置かれているのに対して、「盗森」だけは別の 次元に属するという意味合いがこの「、」には込められているように思われる。したがって、 この「、」の意味を理解することが、著者がこの童話で語りたかったことの核心部分をなすの ではないだろうか。ちなみにもう一つの「黒坂森」は、語り手としていわば中立的な位置にあ り、起源譚には入っていない。それは実在の森の「奇体な」名を主題にしている以上、「黒坂 森」ではあまりに平凡ゆえに外されたのであろう。 この物語にかぎらず、神話的な物語には、地名や事物の起源を伝えるものが多いが、それは 命名することによってその対象を支配する意図が込められている。西洋においても、旧約の神 ・ヤハウェは万物を創造するやいなや、命名行為を行っている。はやく名づけておかないと、 被造物が勝手に成長し、手が負えなくなってしまうのをおそれるかのようである。逆にいえば、 どんな不気味なものでも、それに「名」を与えることによって、与えた者の言語システムのな かに組み込み、それによって「安心」することができるのである7。それが人間ならば、命名 によって「戸籍」が与えられ、「租税」の徴収も可能となる。そこからドロップアウトした者 は、賢治の世界では「山男」などとして、差別をよぎなくさせられてしまうのである。 これはちょうど植民地主義時代のヨーロッパ人が侵略する過程で、原住民を勝手に「インデ ィアン」とか「エスキモー」と蔑称的に名づけたのと同じランク付けである8。侵略される以 前は、名前や位階などを必要とせず、みんな仲良く暮らしていたはずである。ここでは、岩手 山の噴火でできた四つの森には、「まだ名前もなく、めいめい勝手におれはおれだと思つてゐ るだけでした」9と書かれている。それは賢治が住んでいた東北地方、陸奥(みちのく)・蝦夷 には縄文人が先住していて、平安時代以後、坂上田村麻呂などの「征夷大将軍」によって制圧 6 宮澤賢治と環境思想 (1)

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され、「森のもっと奥の方へ」駆逐されていった歴史的事実を背景にしている。賢治も詩篇「原 体剣舞連」において、大和人すなわち弥生人によって滅ぼされた「悪路王」の伝説を感動的に 描いている。「花巻」などの地名は、もともとアイヌの地名からきているといわれている。 ただここで注意すべきことは、作者・賢治はあまりこの地名の由来にこだわってはいないと いうことである。ふつうは「このような理由で、このような名前が付けられました」と最後に その名が明らかにされるはずであるのに、ここではすでに前提にされてしまっているのである。 最初、狼森では狼たちが「狼森のまんなかで・・・・」と歌って、自から公言している。つぎ の笊森のところでも、百姓たちは「笊森の笊はもつともだが・・・」をふと洩らしている。最 後の盗森でも「名からしてぬすと臭い」と決めつけている。入植者である百姓たちがはじめて これらの森に名前をつけたはずなのに、ここにはアナクロニズムがみられる。 賢治がこの童話を書いたきっかけは、かれがもっとも愛したであろう小岩井農場から岩手山 麓にかけての一帯にぽつんぽつんと点在する森を眺めながら歩いていたとき、どうしてこんな 「奇体な」な名前が付いたのだろうか、と思案してひらめいたのではなかったろうか。「狼森 と笊森、盗森」。まさに「奇体な名前」である。このおどろおどろしさに、賢治はまず魅了さ れたのである。 ここに宮澤賢治の森の思想、ひいてはかれの自然観が語られている。かれは東北・岩手の厳 しい自然のなかで生まれ育った。伝統的な日本の花鳥諷詠的な自然観とはまったく異質の自然 観、というより自然感覚をほとんど生まれつきもっていた。かれもその文学的出発点を、伝統 的な短歌にとった。しかし詠嘆とか観照とかいったうたいぶりには無縁である。その自然は、 奈良盆地や京都盆地を舞台にした、いわば飼い馴らされた箱庭のような自然ではない。一歩ま ちがえば、すぐさま生死に関わる事態を引き起こす危険極まりない壮絶な自然である。山は奥 深く、鬱蒼とした森にはなにが潜むのかわからない不気味さが漂うのである。 古来、日本では神道に見られるように、アニミスティックな信仰が根強くつづいてきた。山 たた ノ神、木霊、風神、雷神などなど、あらゆるものが祀り上げられてきた。それらが「祟る」か あがめ らこそ「 崇る」のであろう。川は一度氾濫したらすべてを流し尽くし、地震はいつ起きるか わからない不安がある。灼熱の太陽、身の竦む雷光、凶暴な嵐など天文・気象現象にはまった くお手あげである。獰猛や狼や熊や猪などにもたえず怯えねばならない。こうした「野生の自 然」――この表現自体がすでに「奇体」であるが――を背景にして、この童話は生れてきたの である。 さて、黒坂森が語ったという話の内容は、つぎのようにはじまる。 田 中 末 男 7

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ずうつと昔、岩手山が何べんも噴火しました。その灰でそこらはすつかり埋まりました。 このまつ黒な巨きな巌も、やつぱり山からはね飛ばされて、今のところに落ちて来たのだ さうです。 噴火がやつとしづまると、野原や丘には、穂のある草や穂のない草が、南の方からだん だん生えて、たうたうそこらいつぱいになり、それから柏や松も生え出し、しまひに、い まの四つの森ができました。けれども森にはまだ名前もなく、めいめい勝手におれはおれ だと思つてゐるだけでした。 まずここで岩手山麓の地形の生成史が語られる。つぎに地表の植生の遷移が綴られる。ここ らあたりは、宮澤賢治の地質学や植物学の専門的知識がさりげなく披瀝されているといえよう。 「いちばんはじめから知つてゐるものは、おれ一人だと黒坂森の巨きな巌が、ある日、威張つ て」聞かせたのは、たんに自慢話をしたかったのではなく、悠久な自然史の重みを語りかけた かったからではないだろうか。ここまでくるのにどれほど気の遠くなるような時が流れたかを 思いやるべきであろう。 ここにはまだ「ことばをもつ生きもの」(アリストテレス)としての人類は現れていない。 だからそこにある森たちも「まだ名前もなく、めいめい勝手におれはおれだと思つてゐるだけ でした」といわれている。なにからも限定をうけずに、自由勝手に振る舞い、自己主張できた のである。 ここ岩手山麓は、おそらく宮澤賢治が<イーハトヴ>というユートピアを思い描いた原郷で あろう。その中心には、きっと「ポラーノの広場」があるにちがいない。その広場の周りで、 みんなが、山や川や草や木や熊や鹿やありとあらゆるものが、なんの肩書きもなく、自由に 「歌ったり、踊ったり」することができた。このような楽園を賢治は、太古の生れたままの世 界(原・自然=Ur-Natur)に見る。そこには人間がいたとしても、知恵の実を食べる以前の 無垢なアダムとイヴであっただろう。 そんななかで、ある決定的ともいうべき事態が起きてくる。 ある年の秋、水のやうにつめたいすきとほる風が、柏の枯れ葉をさらさら鳴らし、岩手 山の銀の冠には、雲の影がくつきり黒くうつゝてゐる日でした」(傍点筆者)。 賢治童話では、なにか起きるときは、必ずといってよいほど風が吹いてくる。そして雪を被 って銀色に輝く岩手山の頂が、雲の影によって「くつきり黒く」されてしまうのである。なに 8 宮澤賢治と環境思想 (1)

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か不吉な異変が起きる前触れであるかのように。 四人のけらを着た百姓たちが、山刀や三本鍬や唐鍬や、すべて山や野原の武器を堅くか らだにしばりつけ、東のかどばつた燧石の山を越えて、のつしのつしと、この森にかこま れた小さな野原にやつて来たのです。よくみるとみんな大きな刀もさしていたのです。 物語の舞台は、岩手山麓の四つの実在する森(小山)とそれに囲まれた原野――この表現自 体も植民地主義的であろうが――である。しかし時代はいつの頃であろうか。それに関する記 述はほとんどない。百姓たちがやってくるのは、「ある年の秋」となっているだけである。毎 年、「事件」が起こるが、まず「その年の秋・・・土の堅く凍つた朝」、つぎの年は「ある霜柱 のたつたつめたい朝」に、最後は「ある霜の一面に置いた朝」となっている。いずれも晩秋か 初冬の朝となっている。これは百姓たちが農作物を収穫して、「秋の末のみんなのよろこびや うといつたらありませんでした」というような有頂天の気分に、水を差すような仕方でことが 起きるのである。ほかに四季の循環が告げられているだけである。というよりも、作者はここ であえて時代をできるだけ特定されないようにしていると思える。ここでは「永い間」にわた る「人と森との原始的交渉」の歴史と一般的にしか語られていない。それはとっくの昔に過ぎ 去った出来事としてではなく、人々のこころの奥底に沈殿し、いまもなおけっして働きかける ことを止めない意識の古層とでもいうべきものを発掘しようとしているからである。文献史学 的な時代規定より、賢治も参考にしたであろう柳田民俗学的手法に則ろうとしたものというこ とができる。 時代を画定する手がかりが、意識的に記されてないと述べたが、ここで「山刀や三本鍬や唐 鍬」それに「大きな刀」が出てきて、おおざっぱに、鉄製の道具を使用する時代と限定できる。 日本の歴史においては、弥生時代末期から古墳時代を経て現代にまでつづいている。むろん鉄 が農具として使用されていること、しかも「山刀や三本鍬や唐鍬」と細分化していることを考 えると、古代にまでさかのぼる必要はないであろう。むしろ賢治にも身近な明治から大正期に かけての開拓史の一齣としてみたほうが自然である10 。 かれらは「すべて山や野原の武器を堅くからだにしばりつけ」ているから、農民としての完 な た 全武装をしたいでたちで登場する。「山刀」は山野に生い茂る木や草を切り払う道具である。 そのあと「三本鍬」で土地を耕し、さらに「唐鍬」でならしたり、畝を作ったりするのである。 これらは自然に対する武器である。さらに「大きな刀」までもっていたとすれば、外敵(熊や 猪などの動物や異質な人間など)に対する備えも万全というところであろう。かれらが「のつ しのつしと」やって来るさまは、規模は小さいながら侵略軍が他国を蹂躙するような光景を髣 髴とさせる。 田 中 末 男 9

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百姓たちがここにやって来た理由は、つぎのような会話に示される。 「どうだ。いゝとこだらう。畑はすぐ起せるし、森は近いし、きれいな水も流れている。 それに日あたりもいゝ、どうだ、俺は早くからこゝと決めて置いたんだ。」 そして「地味はどうかな。」ともう一人がいって、土をとって確かめる。それで「地味もひ どくよくはないが、またひどく悪くもないな」として、「よし、さう決めよう。」ということに なる。 ここに農耕の基本的要素が、きちんと挙げられている。まず地味がどうか。つぎに水がある かどうか。もう一つ、日当たりの問題である。大地と水と太陽、この制約のなかで農業ははじ めて可能となり、この良し悪しによって、その形態、種類がさまざまに変容してくる11「森は 近いし」と森への言及も見逃してはならない。森は「きれいな水」を貯え供給してくれるし、 とくにまたこの地方では強烈な北風や吹雪から守ってくれもするからである。 ここで気になることは、「先頭の男」が、いまの提案を「そこらの幻燈のやうなけしきを、 みんなにあちこち指さして」(傍点筆者)語っていることである。それに呼応するかのように、 「も一人が、なつかしそうにあたりを見まはしながら」(傍点筆者)同意するくだりも印象的 デジャヴュー である。「幻燈のやうなけしき」と「なつかしそうに」。はじめて見た景色なのに、 既 視 現象 のように眺めているのである。ここに農耕の、ひいては文化の原風景が語られているように思 われる。遠い過去から開拓の営みが繰り返されるたびに、そのつどこんな気持ちにみなが誘わ れたのではなかったろうか。遠い祖先の記憶が甦ったかのようである。換言すれば、この話は 何度も何度も繰り返されてきた開拓史の一齣を切り取ったものということができる。歴史年表 に位置づけることできる出来事ではないのである。 それでは「地味もひどくよくはないが、またひどく悪くもないな」という所になぜかれらは 来たのであろうか。ここは「小岩井農場の北に、黒い松の森が四つ」ある岩手山の山麓である。 したがって丘陵地であり、水田による稲作は不可能であり、しかも火山活動によって火山灰が 堆積した強酸性の瘠せた土地である。はじめは「蕎麦と稗」しか獲れず、地味が少し肥えてか らようやく「粟」がとれる程度でしかないのである。それに対して、ここでは出てこないが、 少し下れば雫石川も流れ、それはやがてみちのくの大河・北上川に合流し、盛岡の平野部にい たる。そこでは水田耕作が可能であり、げんに行われていたはずである。 こんなところに活路を求めて来ざるをえなかったのも、この農民たちは、じつはもと住んで いた村からあぶれ、この地に追い出されてきたと推測される。これは社会思想史的に見れば、 人口の増大にともなう食糧生産の増強に迫られてのことであろう。明治期以降なら、帝国主義 的な富国強兵政策の一環であり、その末端の出来事であったといえる。世界的に見れば、これ 10 宮澤賢治と環境思想 (1)

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もヨーロッパの植民地主義が、アジアやアフリカそれにアメリカ大陸を侵略していった歴史的 な流れを背景にしている12。いや、これは賢治が生きていた時代において、始まりつつあった 中国大陸進出から「満州国」建国への動きを先取りしているともいえよう13「満蒙開拓団」も まさに「関東軍」に守られた「武装農民」でしかなかったであろう。 この物語は、これらの「武装農民」とその家族によって、森一帯が開墾(=侵略)される話 である。 そこで四人の男たちは、てんでにすきな方へむいて、声を揃へて叫びました。 「こゝへ畑起してもいゝかあ。」 「いゝぞお。」森が一斉にこたへました。 みんなは又叫びました。 「こゝに家建てゝもいゝかあ。」 「ようし。」森は一ぺんにこたへました。 みんなはまた声をそろへてたづねました。 「こゝで火をたいてもいいかあ。」 「いゝぞお。」森が一ぺんにこたへました。 みんなはまた叫びました。 「すこし木貰つていゝかあ。」 「ようし。」森は一斉にこたへました。 これは湯浅泰雄がエリアーデを引用して指摘しているように14 、古代人的心性においては、 なにかを企画する際には、かならずそこの地霊にお伺いをたて、その許しを得てからするとい う儀礼にのっとったものである。これが近現代の人間をモデルにしていたとしても事情は変わ らない。こうした心性は、たえず消えることなく地下水脈のように、現代人のなかにも流れて いるものなのである。 はじめ百姓たちは周囲の森に向かって農耕生活するために、畑を起こしたり、家を建てたり、 火を焚くために木をもらったりすることの許可を請うのである。森はこぞってかれらに「いい ぞお」とか「ようし」と応諾する。そこには「よくみるとみんな大きな刀もさしていたのです」 という者たちに対する、はじめから勝ち目はないという意識が働いていたかもしれない。ここ で「よくみる」主体は、さしあたり語り手の「黒坂森」であるが、ほかの森もじっと百姓たち 田 中 末 男 11

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の様子を窺っていたはずである。こうして開墾をしつづけていって「平らな処はみんな畑」に してしまうのである。 そんななかで「事件」が起きる。最初は「九人のこどもらのなかの、小さな四人」がいなく なる。つぎに農耕の生命線ともいうべき「農具」がなくなる。最後にせっかく収穫した「粟」 がなくなるのである。これらは百姓たちにとってもっとも大切なものである。だからたとえば、 いなくなった子供たちを「みんなまるで、気違ひのやうになつて、その辺をあちこちさがし」 回るのである。 はじめに四人の子供がいなくなったのは、「まづいちばん近い」ところにある「狼森」にい る「九疋の狼」のせいだとわかる。ただ狼たちは誘拐したつもりはまったくなく、冬には「寒 がつて、赤くはれた小さな手を、自分の咽喉にあてながら、『冷たい、冷たい。』といつてよく 泣」いていた子どもたちに、「すきとほつたばら色の火」を「どんどん燃」やし、「歌を歌つて、 夏のまわり燈籠のやうに、火のまわりを走つて」一生懸命歓待してくれていたのである。おま けに「栗や初茸」のご馳走もしてくれている。ほとんど影絵のような美しい情景である。 ここで狼たちが火を焚くのはおかしいということから、じつはそこの百姓による一種の祝祭 行事として――たとえば「なまはげ」のような――理解しようとするむきもある15。しかしそ うした解釈では、「森との原始的交渉」のリアリティーが喪失してしまうであろう。百姓たち は森の自分たちへの対応をかたずを飲んで見守っていたのである。そして「いゝぞ」と返答さ れるとそこの百姓たち、とりわけ自分ではどうすることもできない「さつきから顔色を変へて、 しんとして居た女やこどもらは、にわかにはしやぎだして、子供らはうれしまぎれに喧嘩をし たり、女たちはその子をぽかぽか撲つたりしました」と欣喜雀躍するのである。森に住むもの たちを擬人法的に理解することは、まさしく人間中心主義に陥り、自然(狼)からその牙を抜 いてしまい、ひいては自然の生命力を奪ってしまうことになろう。 では、ここの焚火をどう捉えたらよいだろうか。賢治には同じ頃、病気の妹への思いをうた ったなかに「あいつはちやうどいまごろから/つめたい青銅の病室で/透明薔薇の火に燃やさ れる/・・・」(「恋と病熱」『春と修羅』)というくだりがある。これはおそらく病室のガラス 製の燈火であろうが、ここの「すきとほつたばら色の火」も実際の火ではなく、幻想的な火― ―「狐火」のような、いや「狼火」か――であろう。それが実際の火ではないのは、狼たちが 歌い踊っているところに、「狼どの狼どの、童やど返して呉ろ」と親たちが怒鳴り込んだとき、 だれも消そうとしないのに、「すると火が急に消えて」しまうからである。 もとよりここで狼が代表する自然界には、「盗み」――この場合、子供を盗むこととしての 「誘拐」――の観念はない。だから当時の人々は「神隠し」とよんでいた。むしろいちばん小 さく弱い子供たちを、森の仲間として暖かくしてやり、元気づけ、ひもじい思いを少しでも和 らげてやろうというあたたかいもてなしの心がみうけられる。当の子供たちもおびえたり泣き 12 宮澤賢治と環境思想 (1)

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わめいているどころか、かれらが泣くのは、親たちが怒鳴り込んで火の消えたあとであり、「そ こらはにわかに青くしんとなつてしまつたので火のそばのこどもらはわあと泣き出」すのであ る。はじめは無心に狼たちの余興を楽しんでいたのである。だから百姓たちは、狼たちのあた たかな心づくしに気づいて「みんなはうちに帰つてから粟餅をこしらへてお礼に狼森に置いて 来」(傍点筆者)るのである。 つぎになくなるのは「道具」である。それは「笊森」の「黄金色の目をした、顔のまつかな 山男」のせいだとわかる。百姓たちがそこへ行くと「あぐらをかいて座つて」いた山男が、「み んなを見ると、大きな口をあけてバアと云」って迎えるのである。ここにも「悪意」はなく、 「宝探し」や「かくれんぼ」的なゲーム感覚か、せいぜい「いたづら」でしかない。だから百 姓たちに「山男、これからいたづら止めて呉れよ」と叱られて、「大へん恐縮したやうに、頭 をかいて立つて居」るだけなのである。 この笊森の住人は、賢治童話においてたびたび登場する山男である。「山男の四月」がこの 同じ童話集にも収められている。賢治はすでに柳田国男の『遠野物語』を読んでおり、そこに 登場する「山人」の存在も知っていた。というよりかれ自身、岩手の山々を渉猟するなかで、 山窩とかマタギとよばれる山の民とたびたび出会ったこともあったであろう。とくに山窩とよ ばれる人々は竹細工を作り、それを生業にして山地を渡り歩いていたから、この「笊森」の住 人もそれに類する人かもしれない。ただ賢治の「山男」は、柳田の「平地人をして戦慄せしめ」 るようなおどろおどろしい存在ではなく、ここでのように小心で愛嬌のある人間であったり、 「山男の四月」の山男のように、騙されて六神丸に変えられてしまったり、あるいは「祭の 晩」のように、村人にいじめられ、差別されたりする哀れな者たちとして描かれている。 ここでの百姓と山男は、そのもつ道具から力の差が歴然としている、すなわち鉄製の「山刀 も三本鍬も唐鍬」も持っている百姓と竹細工の笊しか持っていない山男とではてんで勝負にな らない。ただ、この童話での百姓のステータスは、いわばこの中間にあることも忘れてはなら ない。生れた村を「口減らし」的に追われ、米ができない山裾を切り拓いてなんとか「蕎麦や 稗」を、それから「粟」を作付けして生きる場にしようとしたのである。それが失敗におわれ ば、餓死するか、「山男」になるかしかないのである。賢治はここでたしかに「武装農民」で あるが、けっして敵意をもって描いているのではなく、むしろ共感的すなわち悲哀を込めてか れらを描いているのである16 あるいは、この農民と山男の関係を、歴史的観点から、大和朝廷に追われた蝦夷やアイヌの 人々と捉えることもできよう。もっと一般化すれば、先住民としての縄文人とあとからやって 来た弥生人ともいえよう、前者は基本的には、狩猟・採集経済を送っており、森や海でとれる ものは、「だれのもの」ということはなく、共有されていたはずである。ここでの山男の行為 も、かれとしては「他人のものを盗む」という意識はなかったであろう。「窃盗」という観念 田 中 末 男 13

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が成立するためには、その前提として「私的所有」の観念が成立していなければならない17 こ の 観 念 は 当 の 百 姓 た ち が こ の 地 に は じ め て 持 ち 込 ん だ も の で あ る。そ も そ も、私 的 (private)とは、ラテン語の<privatio>(簒奪)に由来する。公的なもの、たとえば共有地 を囲い込んで、自分のもの(eigen)にしたものが、「私的財産」(das private Eigentum)で ある。百姓たちも、この「盗み」が粟餅欲しさのただの「いたづら」だと了解し、かれのとこ ろにも粟餅をもっていってやるのである。 「盗み」がはじめて意識化されるのは、さいごに、かれらが収穫して貯蔵しておいた「納屋 のなかの粟が、みんな無くなって」しまっていたことにおいてである。だれのしわざかを尋ね て、「松のまつ黒な」森に行く。そこには「まつ黒な大きな足」をした、「手の長い大きな大き な男」が住んでいた。この森が「盗森」であるが、この命名そのものは、外部の誰か知らない 者によるものである。当の森が自分にすき好んでそんな名前をつけるはずはない。 土地を囲い込み、そこでとれたもの(収穫物)に対して、この百姓たちのようにはじめて、 「おらの粟知らないかあ」(傍点筆者)と主張できる。だからそれをもっていったものに対し て、強硬に「さあ粟返せ。粟返せ。」と迫るのである。これは以前の同じような状況において は、「狼どの、狼どの、童やど返して呉ろ。」(傍点筆者)とか「山男、これからいたづら止め て呉ろよ。くれぐれ頼むぞ」というようにそれなりに敬意を払い、また依願しているだけと比 べて対照的である。(山男の件ですでに、「おらの道具知らないかあ」と森に向かって呼びかけ ているが、これは明らかにかれらの住んでいた村から持ち込んできた「所有物」だからである)。 こうした位相的違いが、「狼森と笊森、盗森」という題名において、前二者を「と」でひと括 りにして、「盗森」だけは「、」によって隔絶させていることに表れているといえよう。もはや 「自然界(狼)」でも、「未開人(山男)」の世界でもなく、私有財産制度を前提にした「文明 (化)」のなかの出来事なのである。 ただ、この「粟」を「おらの粟」といい切れるであろうか。というのも、これは労働価値の 投入という私的所有制を前提にしてはじめて主張できるにすぎないからである。それに属さな いものたちにとっては、大地や太陽や風などによる「自然の恵み」であり、むしろそれを独り 占めする百姓たちのほうが「盗人」に見えよう。 ところで、この「松のまつ黒な」森に住む、「まつ黒な大きな足」をした、「手の長い大きな 大きな男」とはいったいだれなのだろうか。ここではこれ以上のことはなにも語られていない。 賢治童話には、童話とはとてもいえないようなそら恐ろしさ、不気味さを秘めたものが多いが、 この部分もそれにあたるのではないだろうか18。第一挿話が、「自然」ないしはそれを代表する 14 宮澤賢治と環境思想 (1)

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「狼」、第二挿話が、辺境人としての「山男」、それに対して最後の第三挿話の主体とならば、 狼や山男以上の手ごわい存在になるはずである。事実、「粟返せ」と迫る百姓たちに対して、「ま るでさけるやうな声」で「何だと。おれをぬすとだと。さふ云ふやつは、みんなたゝき潰して やるぞ。ぜんたい何の証拠があるんだ」と居直るのである。そのためみんなは「お互に顔を見 合わせて逃げ出そう」とする始末である。結局、「注文の多い料理店」の結末同様、「機械仕掛 けの神」のように、超越的な「銀の冠をかぶつた岩手山」が登場し、その男の仕業であると証 言することによって一件落着するにすぎない。 この「大きな大きな男」の「盗み」の理由は、岩手山の説明によれば、「盗森は、自分で粟 餅をこさえて見たくてたまらなかつた」からということになっている。つまり悪意があったわ けではなく、好奇心から、さらにいえば森の共同体の一員として参画してみたかっただけで、 それ自体たわいのないものであったのである。そこでみんなは「笑つて粟餅をこしらえて」そ れぞれの森にもっていくのである。「なかでもぬすと森には、いちばんたくさん持つて行きま した」という理由は、いちばん恐ろしかったからにほかならない。 しかし、岩手山がいなかったらどうなっていたであろうか。もちろん百姓たちは泣き寝入り するしかなかったはずである。この黒く大きな男は、自然の侵略者・略奪者である「百姓」た ち以上の存在として、そのかれらから「収穫物」をかすめとってしまう搾取者としてみること もできよう。いわば二乗化された「略奪者」である。その場合、のちに「資本家・オツベル」 (「オツベルと象」)や「町の荒物屋の旦那」(「なめとこ山の熊」)などに具体化されていく存 在の萌芽をみることもできるであろう。また、当時の社会的状況に則していえば、農民から高 い地代でその生産物を収奪していた地主、とりわけ都会に住む不在地主にもつながろう。 しかしこうした社会思想史的な理解とは別に、それを超えた解釈も可能であろう。その一つ は自然論的理解で、百姓(=人間)より強力な存在として、自然そのものが考えられる。自然 は人間にとって都合のよい面ばかり見せてはくれない。天変地異を通して、人間の営為など木 っ端微塵に打ち砕く恐ろしい面をもっている。とくに東北岩手の自然は、農業の営みを干害や 冷害などによって翻弄しつづけることをやめないのである。百姓たちは森林伐採と土地の囲い 込み、さらに生産物の占有、ようするに侵略と略奪を繰り返してきた。このような百姓たちの 忘恩的振る舞いが、自然がもつ「順違二面」の「違」の面を呼び起こしてしまったともいえよ う。 さらにもう一つ、存在論的理解ともいうべきものも可能であろう。「注文の多い料理店」の 「まつくらやみ」に巣食う「山猫」にあい通じるものである。山猫の正体とはと問われても、 山猫自身は最後まで姿を見せないまま終っている。まさにその正体不明性にこそ、不気味さが 潜んでいる。ハイデッガーは、「恐怖(Furcht)」と「不安(Angst)」とを区別して、前者が 特定の対象をもつのに対し、後者はそれがない。それゆえ前者よりもっと根源的なものである 田 中 末 男 15

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と述べている19「注文の多い料理店」の山猫も、まだ退治されず、闇に消えただけで生き延び ている。宮澤賢治はこの闇に巣食うものの正体を生涯にわたり追求しつづけた。それは晩年の 「銀河鉄道の夜」における「どほほん」とあいた「大きなまっくらな孔」にまで通じている。 ただそれを見極めることはできなかった。闇の深さを見据えつづけただけである。しかしその 深淵を深淵として見据えた意義は大きい。それによって立ち向かうべき相手を視野におさめる ことができたからである。 この「狼森と笊森、盗森」は、「人と森との原始的な交渉」を地名起源譚のスタイルを借り て具象化したものといえよう。それは東北岩手の片田舎の物語にとどまらず、文明論的射程を もっている。そもそも文明というものが、どのようにして成立していったのかを跡付けする試 みとみることができる。この物語は、人類誕生以前の太古の時代から、賢治が生きた時代にま でつながっている。聞き手の「わたくし」が語り手である「黒坂森」に対して、お礼に「財布 からありつきりの銅貨を七銭出して」やろうとしても、「仲々受け取りませんでした」とある ように、貨幣経済の今日にまで視野に納められている。それはこの物語が終っていないこと、 歴史の古層として、人々のこころの底流として依然として流れていることを示している。こう した歴史的プロセスは、日本に限ったことではなく、狩猟・採集経済から牧畜・農耕経済への 移行は全世界的に見られる現象である。賢治は悠久な歴史を凝縮し、人類全体の歩みをこの小 さな童話に詰め込んだのである。 それらが深層心理構造のように、あるいは地層構造のように、つぎつぎと堆積して現在に至 っている。これを語ってくれた語り手の「黒坂森」は、それ自身がニュートラルであることに よって、他の構成要素を凝集させる結晶板のような役割を担っているといえよう。さらにこの 森は「わたくし」という人間への語り部であるだけでなく、地上に存在するものを超えた神性 (ここでは「岩手山」)との媒介者(神々の使者=ヘルメス)である。この森は、社の杜とし て、神々のよりしろとなっているのである。 「狼森と笊森、盗森」は、物語を閉じるにあたって、つぎのような嘆息がそえられている。 さてそれから森もすつかりみんなの友だちでした。そして毎年、冬のはじめにはきつと 粟餅を貰ひました。 しかしその粟餅も、時節がら、ずゐぶん小さくなつたが、これもどうも仕方がないと、 黒坂森のまん中のまつくろな巨きな巌がおしまひに云つてゐました。 16 宮澤賢治と環境思想 (1)

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あたかもオツベルが飼い馴らした白象に行ったように、少しずつ粟餅を減らしていくのであ る。こうしてお供えが儀礼的になり、形骸化するのは避けられない。はじめ人間は自然への畏 敬の念をもって接していた。自然は「侵略者」に対しても、鷹揚に受け入れ、庇護までした。 「その人たちのために、森は冬のあいだ、一生懸命、北からの風を防いでやりました」。しか し三度の出来事を通して、しだいに情勢が変化してくる。はじめは狼森による子どもらの神隠 しである。しかしじつはそれがかれらの私心なき歓待であったことがわかる。そこで百姓たち も素直に喜んで、お礼として「粟餅」をささげるのである。ここに交換関係とかギブアンドテ イクの関係を持ち込むべきではない。純粋な私心のない歓待とそれへの感謝の念によるもので ある。 それに対して、農具をもっていってしまった「笊森」の山男のいたずらの意図は、「おらさ も粟餅持つて来て呉ろよ」という催促であった。それで「みんなはあつはあつはと笑つて家に 帰り」、狼森と笊森に粟餅を持っていくのである。この「あつはあつはの笑」には、山男の「い たづら」の意味が理解されていないといえる。百姓たちは、たんに山男のおねだりとしてしか 受け取っていない。山男は森の一員に対する配慮が欠けていることを百姓たちに気づかせよう としたのである。 最後の黒い大きな男に対する粟餅は、かれが粟をみんな「盗んだ」のは「自分で粟餅をこさ えて見たくてたまらなかつた」からである。それならば、この男に粟餅の作り方を教えてやる べきであろう。技術を教えず、製作物だけ与えることによって、相手をいつまでも受動的で従 属的な地位に置いておけるのである20「そして毎年、冬のはじめにはきつと粟餅を貰ひまし お と な た」という叙述には、飼い馴らされたペットが柔和しく餌をご主人から貰うような印象を与え ている。 こうして「森と人との原始的交渉」において、しだいに力関係が逆転し、自然への畏敬の念 はなくなり、あるいは薄れ、人間の自然支配という現代にまで至る趨勢が顕在化してくるので ある。ここにおいては、盗森には大きな粟餅をもっていきながら、それに砂を混ぜたり、やが てだんだん粟餅を小さくしていったりしたことにすでにその萌芽を見せている。これには自然 の方でも、狼森が「今日も粟餅だ」と「フツと笑つて云」ったり、笊森が「あわもちだ、あわ もちだ、」と「にやにや笑つて云」ったりして、シニカルな態度をとるようになっていくので ある。 森には茸や栗の実がある。それらは自然に生え、また成るといえる。それに対して、蕎麦や 稗、そして粟は農産物である。「生えた」ものではなく、「作った」ものである。さらに粟餅は、 粟を加工して「造った」ものである。自然には存在しないものである。これをこしらえる技術 を持ったものは、持たないものに比べて格段の優位性をもつことができる(「鹿踊りのはじま り」の嘉十の「栃団子」もそれにあたるであろう)。 田 中 末 男 17

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人間とくに近代的人間像は「工作人」(homo faber)である。道具とそれを操作する技術を 具えている。「狼森と笊森、盗森」という物語は、反自然的存在としての工作人――ここでは 百姓――が、異質な存在――「狼」、「山男」、「黒い手の大きな男」――を制御して、支配して いくプロセスを描いている。その異質性とは、自然そのもののもつ諸相である。とはいえ「黒 い森」に住む「黒い大きな大きな男」の正体(どのような「顔」をしているかの描写がない) は見えないままであるが・・・。 こうして一応自然を制圧した文明が、その後どうなるかを描いた物語がつぎにつづくはずで ある。すなわち文明の象徴である「東京」の「すつかりイギリスの兵隊のかたち」をした紳士 たちの物語、「注文の多い料理店」がそれである。 註 1 『新校本 宮澤賢治全集』第十二巻、校異篇、筑摩書房、1995年、12頁。 2 同上、11頁 3 小森陽一『最新宮沢賢治講義』、朝日選書、1996年、47頁以下参照。 4 谷川雁は、この森を<forest>と訳している。『賢治初期童話考』、潮出版社、1993年、306頁。 5 たとえば、ドイツ南部の山岳地帯は<Schwarzwald:黒い森>とよばれている。 6 白幡洋三郎「都市における森と林の思想」、『季刊 仏教――森の哲学』、No.28、法蔵館、1994年、101頁。 7 たとえば、「UFO」(未確認飛行物体)でも、こう命名されることによって、それなりに「確認」される。 また「磯・巾着」――ドイツ語では、「海のアネモネ」(Meeresanemone)――も、居場所とその特性(開口 部の伸縮性)から規定されることにより、気味悪さが薄らいでくる。 8 小森陽一、前掲書、14頁。 9 『新校本 宮澤賢治全集』第十二巻、本文篇、筑摩書房、1995年、19−27頁(なお、この「狼森と笊森、盗 森」については、煩雑さを避けるために引用頁数を省略した)。 10 ここで「大きな刀」ということで、谷川雁は、豊臣秀吉による「刀狩」以前の時代と推測しているが、農 民が戦国時代に一向一揆などで刀をもった時期以外はほとんどもっていなかったはずであるから、そんなに 狭く時代限定する必要ないであろう(谷川雁、前掲書、59頁)。 11 たとえば農耕ではないが、杉の成長について、秋田杉とほぼ南限にあたる屋久杉を比較すると、一見する と逆に思えるが、温暖な後者の方より寒冷な前者の方が三倍以上早いという。それは屋久島が花崗岩の塊の ような島で、ミネラル等養分に乏しいためだそうである。ただ成長が早いと、強度が不足し、屋久杉のよう に巨木になることができない。このように条件によって、同一種でもさまざまな順応の仕方を示す。ここに 自然全体のたくましさ、ダイナミズムすら感じさせられる。市川聡「屋久杉の森」『季刊 仏教――森の哲学』、 No.28、法蔵館、1994年、34頁。 18 宮澤賢治と環境思想 (1)

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12 西成彦はこの「狼森と笊森、盗森」を「植民地主義のはじまり」という画期的視点から捉えた。ただ、そ れよりもっとながい文明論的視座が背後にあることも忘れてはならないであろう(西成彦『森のゲリラ』、岩 波書店、1997年、55頁以下参照)。 13 宮澤賢治は少し前の田中智学に心酔していたさなか、書簡のなかでかれの「御命令さえあれば私はシベリ アの凍原にも支那の内地にも参ります」(保阪嘉内宛、大正九年十二月二日、『新校本 宮澤賢治全集』第十 五巻、本文篇、筑摩書房、1995年、196頁)と述べている。 14 湯浅泰雄「密教の修行論とマンダラの心理学」(『講座 日本思想』第一巻、東大出版会、1983年、77頁)。 15 谷川雁、前掲書、69頁。 16 ここの「共感」および「悲哀」という<pathos>の意味については、筆者の『宮澤賢治<心象>の現象学』 (洋々社、2003年)、「終章」(277頁以下)参照。 17 小森陽一、前掲書、65頁以下参照。 18 田中末男、前掲書、207頁、註(30)。 ¨

9 Heidegger ; Sein und Zeit,11.Aufl., Tubingen,1967,S.184f. 20 西成彦、前掲書、53頁。

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参照

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