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摂政藤原道長の随身員数について : 長和元年大嘗会御禊における随身新加の検討から

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摂政藤原道長の随身員数について

 

─長和元年大嘗会御禊における随身新加の検討から─

 

 

 

「随 身」 と い う 語 は、 古 く は『日 本 書 紀』 雄 略 天 皇 九 年 三 月 条 に み え る。 吉 備 上 道 采 女 大 海 を 紀 小 弓 に 下 賜 し、 「為 二 随 身 一 養」 と あ る か ら、 こ こ で の 随 身 の 意 は 随って 身 辺 の 世 話 を す る こ と、 つ ま り 夫 婦 関 係 を 表 す も の で あ る。 六 国 史 中 に み え る 随 身 は、 単 純 に「身 に 随 う」 の 意 で の 動 詞 と し て の 用 例 も 多 い が、 『続 日 本 紀』 以 降 は「随 身 之 兵」 や 「随身兵仗」というように、武人を示す言葉と合わさり、 「近侍の武人」としての意味を持って用いられる例も多くみえ はじめ る (( ( 。そして、平安時代には、随身=身辺警護の武官たる人々、またはそのような職能をもつ特定の人物を指す言 葉として用いられるようになり、 「随身」という立場・職能が貴族社会において確立した様相を伺うことができよう。 摂関の随身は、藤原良房にはじめて賜与された後、次代の基経で定数化され、以降代々の摂関が賜っ た (( ( 。摂関の職に ある者で随身を賜与されない例はなく、これは摂関の一つの特権として次第に制度化されたものといえよう。十一世紀 55

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初頭に摂政となった藤原道長は、非摂関としてのものを含むと、生涯において六度の随身賜与を受けてい る (( ( 。摂関の随 身の定数には、十世紀後半以降変動がある が (( ( 、道長期にはこれらが昇華され新たな形式が生み出された。そしてこれら は「御堂流」の先例として、院政期の摂関へと継承されてゆく。道長の随身については、摂関就任後ばかりが取り沙汰 されるが、非摂関として随身を賜る四例も影響を与えていることは言うまでもない。摂関制の全盛と評価される道長の 政権期は、摂関の随身のシステムについても、一つの完成を迎えた時期なのである。 随身については竹内チヅ子氏による研究のほか、笹山晴生氏による概説などがあ る (5 ( 。笹山氏は摂関の随身の変遷につ いても言及されているが、道長の随身についてはやはり摂政就任後についてのみ述べられている。摂政就任後の員数は むしろ特殊なものであり、それ以前の随身員数についても検討される必要があるだろう。 本 稿 で は、 外 孫・ 後 一 条 天 皇 の 摂 政 と し て 破 格 の 待 遇 に て 随 身 を 賜 与 さ れ る 長 和 五 年 (一 〇 一 六 ( 以 前 に 目 を 向 け、 院政期との連続性の中で道長期が果たす役割について、随身保有という面から検討する。   道長への随身賜与の諸例 先述の通り道長は生涯において複数回随身賜与を受けており、長和五年の随身賜与は、実に五度目のものであった。 正 月 二 十 九 日 に 外 孫 敦 成 親 王 (後 一 条 ( の 即 位 に よ り 摂 政 と なった 道 長 に、 翌 三 十 日 に 賜 与 さ れ て い る。 そ の 員 数 に つ いて、 『公卿補任』は、 卅日勅。宜 下内舎人二人。左右近衛府生已下各六人 一。以為 中随身兵仗 上。 と 記 す。 内 訳 に 変 遷 は あ る も の の、 基 経 以 降 の 摂 関 の 随 身 の 定 数 は 十 人 で あ り、 【内 舎 人 二 人、 左 右 府 生 各 一、 左 右 近 56

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衛 各 五、 計 十 四 人】 と い う 員 数 は、 そ れ を 大 き く 超 え る も の で、 先 例 と し て は 父・ 兼 家、 兄・ 道 隆 が そ れ ぞ れ 同 数 を 賜ってい る (6 ( 。このことを考えると、内訳も先例に同じく【内舎人二人、左右近衛府生各一、左右近衛番長各一、左右近 衛各四、計十四人】と考えて差し支えないだろう。 さ て、 当 該 の 随 身 賜 与 に 際 し て 人々が 注 目 し た の は、 新 た に 道 長 の 随 身 に 内 舎 人 が 加 え ら れ た こ と で あった。 『御 堂 関白記』当日条には、 卅日、乙亥、 (中略 ( 依 レ皇太后宮 一、同宮大夫 (俊賢 ( 余賜 二随身勅書 一、内舎人新加、自余如 レ元。 とある。新主の宣旨によって新たに随身を賜与される場合、先代に引き続き摂関となる者は、続けて同数を賜与される ことが常であっ た (( ( 。新たに内舎人を加えるという道長への待遇は破格のものである。 『小右記』翌日条には、 一 日、 丙 子、 (中 略 ( 資 平 云、 昨 日 給 二 身 内 舎 人 二 人 於 摂 政 一 勅 書 事、 先 申 二 后 一、 被 レ 卿 一、(中 略 ( 摂 政 以 二 資平 一命云、可八省 一、可 二同道者、 午二剋覧草 、只今午四剋、申二剋可 レ遣於使 一、仍蹔候 レ陣、而摂政参八省 一、 大 納 言 頼 通、 中 納 言 俊 賢・ 行 成・ 懐 平・ 教 通・ 頼 宗・ 経 房、 参 議 兼 隆 与 余 同 車、 ・ 道 方・ 朝 経 追 従、 摂 政 例 随 身 外 今 日 随身内舎人、余頗後参 二八省 一 と、実際に道長が内舎人を具する様子が記されており、周囲の関心の高さを伺うことができ る (( ( 。 ここに一つの疑問が生じる。この時道長に賜与された随身の員数は、摂関が賜る定数を超えたものであることは先に 示したとおりである。しかし、内舎人のことのみが取り沙汰されて、近衛の追加に関して言及がないのはいささか不自 然である。また、道長自身が「自余如元」と記すことからも、このときの変化があったのは内舎人のことのみであると みて間違いはないだろう。では、近衛二人はいつの時点で加わったのか。これを考える上では、長和五年以前の道長の 摂政藤原道長の随身員数について 5(

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随身を確認する必要があるだろう。 道 長 が 衛 府 の 長 官 と し て で は な く、 別 勅 に よ り 初 め て 随 身 を 賜った の は、 長 徳 二 年 (九 九 六 ( 八 月 九 日 の こ と で あ る。 同年七月二十日に左大臣となった道長は、もとの如く左大将を兼官していたが、この日に辞し、童随身六人を賜与され た。 『公卿補任』によれば、これは「九条右大臣例」であるとい う (( ( 。 そして、この二ヶ月後の十月九日に、童随身を止めて、 【左右近衛府生各一、左右近衛各四、計十人】を賜与され た ((1 ( 。 道長は当時内覧とはいえ、非摂関でそれに相当する員数を賜与されてい る ((( ( 。 道 長 へ の 随 身 賜 与 の 三 例 目 は、 長 保 元 年 (九 九 九 ( 三 月 十 六 日 の 一 条 院 行 幸 に 際 し て で あ る。 こ の 前 年 に 病 に よ り 官 職ならびに随身、内覧を辞退していたため、 「下官又如 レ元賜随身 一、即申 レ慶」したという。員数については、元の如く と あ る こ と か ら も、 『本 朝 世 紀』 が 記 す【左 右 近 衛 府 生 各 一、 左 右 近 衛 各 四、 計 十 人】 で あ る と み て 問 題 な い だ ろ う ((1 ( 。 もし員数に変更があったならば、道長自身が殊に記録するはずである。 『公卿補任』は、 【左右近衛府生各一、左右近衛 各六、計十四人】とするが、先述の点に加え、このような員数例は管見では他に見当たらないことからも、誤りである と判断してよいだろう。恐らく、編纂段階で長和五年正月の員数例と混同されたものであろう か ((1 ( 。 四 例 目 は、 寛 弘 八 年 (一 〇 一 一 ( 六 月 十 三 日 の、 三 条 天 皇 の 受 禅 日 の 賜 与 で あ る。 『御 堂 関 白 記』 に の み 賜 与 の こ と が記され る ((1 ( 。員数については、同日条に「勅授余加 二随身等宣旨下」とあるのみで記載はない。但し、代替わりによる 賜与であるため、むしろ特記がないことからも、従来の随身を継承したと考えられる。したがって、これも先の随身と 同数と考えて良いだろう。 以 上 か ら、 道 長 の 随 身 員 数 は 長 徳 二 年 十 月 九 日 以 降、 【左 右 近 衛 府 生 各 一、 左 右 近 衛 各 四、 計 十 人】 で 動 か な かった 5(

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1.藤原道長の随身員数(左大将辞退以降) No. 随⾝賜与年月日 天皇 年齢 位階 官職 内舎人 近衛府生 近衛番⻑ 近衛 兵衛 計 賜与理由 員数出典 備考 ( ⻑ 徳 ( ( (( 6) ( 月 ( 日 一条 (( 正二位 内覧/ 左⼤臣 6 内覧 (辞左⼤将) 補任、愚管 「 童随⾝ 」九条右⼤臣例 (『 補任 』) 。前 年 5 月 (( 日 内 覧、 6 月 (( 日 ⽒ ⻑ 者。 随 ⾝賜与同日に左⼤将を辞す。 (      〃     (0月 ( 日 一条 (( 正二位 内覧/ 左⼤臣 ( ( (0 内覧 補任、紀略、 愚管 (童随⾝止) ( a ⻑保元( ((( ) ( 月 (6日 一条 (( 正二位 内覧/ 左⼤臣 ( ( (0 内覧 (随⾝如元) 世紀 一条院行幸 。元の如く随⾝を賜う (『 御 堂 』) 。前年 、病のため官職及び内覧 、 随⾝を辞す。○史料間の員数にズレ。 ( b ( (( (( 補任 ( 以下員数記載無し 『 紀略 』『 御堂 』『 台 記』 『愚 管』 。「如 元」 と あ り。 ) *『愚 管』の記す日付は誤りか。 ( 寛弘 ( ( (0 (( ) 6 月 (( 日 三条 (6 正二位 内覧/ 左⼤臣 ? ( (0カ) 内覧 御堂 ☆三条天皇受禅日 。『 御堂 』に随⾝を給 うの記載あり(員数なし) 。 5 ⻑和 5 ( (0 (6)正月 (0日 後一条 5( 正二位 摂政/ 左⼤臣 ( ( ( ( (( 摂政 補任 ☆後一条天皇受禅日 。この日新たに内 舎人 ( 人を加えること 、『 御堂 』『 小右 記』に記載あり(皇太后の仰せによる) 。 6      〃     6 月 (0日 後一条 5( 正二位 摂政/ 左⼤臣 ( (( (( (6 褒賞 小右記、紀略、 補任、略記 〇忠仁公例 。兵衛を辞退すること 、『 御 堂』に記載あり。 も の と 考 え ら れ よ う。 先 に も 述 べ た が、 「十 人」 と い う 数 は、 摂 関 の 随 身 の 定 数 と し て 基 経 以 降 継 承 さ れ て き た も の で ある。 『小 右 記』 長 和 元 年 六 月 十 七 日 条 で は、 実 資 が、 道 長 が 病 の た め 辞 退 を 奏 上 し た 随 身 を 用 い て い る こ と を 批 判 し て い る が、 「昨 日、 冠 せ し む る 随 身 十 人 を し て、 厩 の 馬 に 騎 ら し め、 廻 ら せ 見 る。 然 る べ か ら ざ る 事 な り。 辞 表 を 収 め ら る る の 後、 随 身 を 召 し 仕 ふ べ か ら ず。 」 と あ り、 こ の「随 身 十 人」 と い う 表 現 は、 件 の 検 討 を 肯 定 し 得 る も の で あ る だ ろ う。よって、少なくとも長和元年六月段階での道長の随身は、 「十人」なのである。道長に随身近衛が加給されたのは、 これより後の段階であろう。 摂政藤原道長の随身員数について 5(

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  長和元年大嘗会御禊における﹁随身﹂ 前章の検討より、道長期においても常の随身の員数は十人である程度固定されたものであり、新主の宣旨によるタイ ミングで入れ替わったものでもない以上、やはり「近衛二人」はいつかの段階で特別に加わったものであろう。道長へ の随身加給のタイミングを検討するうえで、興味深い記事がある。 『御堂関白記』長和元年閏十月二十七日条 廿 七 日、 辛 卯、 従 二 朝 一起、 催 二 女 御 代 雑 事 一、 巳 時 許 事 具 了、 (中 略 ( 、 事 了 車 駕 還 宮、 建 礼 門 前 神 祇 官 供 二 麻 一、 有 二鈴奏 一、名対面如 レ常、我候御輿後 一、 今日随身二人加 二給我馬副帯刀十人 一、皇太后宮仰、是先公御時例也、毎 レ 二 馬副 一、涙難 レ 、女御代立 二大宮大路 一、其所立 二幄一・平屏幔二条 一、是無 二先例 一、而家儲也、又川原女御代立車所、諸 司 立 レ幄、 而 不 レ 之 由 云々、 家 又 儲 二 丈 絹 幄 四・ 斑 幕 廿 条 一、 頗 非 凡、 件 幄 等 女 方 車 廿 両 料、 又 唐 錦 二 丈 幄 一、 是 立 レ車料、宿所垣代北有車所 一、其丑寅少寄相去七丈許、依 二晩景車、退還、 (後略 ( また、 『小右記』同日条には、 節下大臣・番長歩行、 近衛 同、 ( 中 略 ( 公 卿 唐 鞍 ・ 飾 剣 ・ 魚 袋 、 衛 府 公 卿 螺 鈿 剣 、 是 故 実 也 、 四 位 ・ 五 位 倭 鞍 ・ 杏 葉 ・ 鞦 、 佩 魚 袋、 近 衛 次 将、 馬 頭・ 助 乗 二 馬 一者、 不 レ 尾 一、 不 レ 葉 一、 左 府 騎 馬、 府 生 二 人 騎 馬 在 レ前、 番 長 以 下 歩 行、 供 二 奉 行 幸装束 一、臨暗女御代不幄退帰、左府子息着織物下襲 一、 古伝不 レ 可 レ 然、 ( 中 略 ( 、 次 第 司 長 官 雖 二 府 一 箭 一、 手振不 レ半臂 一、 依 二左府命 一 令 レ 着、近 代例欤、不 レ 聞事也、 天慶、故殿節下大臣、手振不 レ半臂 一、見 二御日記 一、(後略 ( とある。これは長和元年十一月の三条天皇の即位大嘗会の前段儀として、閏十月二十七日に挙行された御禊に関する記 事である。大嘗会御禊は節下の大臣以下、文武百官が従う重要儀式である。節下の大臣は摂関を除く左右もしくは内大 60

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2.摂関期における大嘗会御禊 (官職は『公補任』による。 )☆は、摂関を除く太政官最上席 天皇 年月日 摂関 節下 左⼤将 右⼤将 史料 備考 清和 貞観元年( (5 () (0月 (( 日 不詳 藤原良相 源定 三実、 陽成 元慶元年( ((( ) (0月 (( 日 摂政・右⼤臣  藤原基経 ⼤納言  源多 源多 藤原良世 三実、中右記 光孝 元慶 ( 年( ((( ) (0月 (( 日 不詳 源多 藤原良世 三実 宇多 仁和 ( 年( ((( ) (0月 (( 日 関白・太政⼤臣  藤原基経 ⼤納言  藤原良世 ×( (0/ (( 薨  源多) 藤原良世 御禊日例、範國記、 中右記 ① (0 /( (右⼤臣左⼤将  源多薨ず 「 上達部已下 多在三等親 、然而有宣旨 、同廿八日御禊 、就 吉 所 供 奉 也 者 」( 『 範 國記 』) 。 ② こ の 時 左 ⼤ 臣 に源融。 醍醐 寛平 ( 年( ((( ) (0月 (5日 ⼤納言  藤原時平  ☆ 藤原時平 菅原道真 御禊日例、中右記 ⼤臣なし 朱雀 承平 ( 年( ((( ) (0月 (5日 摂政・左⼤臣  藤原忠平 ⼤納言  藤原仲平  ☆ 藤原仲平 藤原保忠 御禊日例、中右記、 御禊部類 村上 天慶 ( 年( (( 6) (0月 (( 日 関白・太政⼤臣  藤原忠平 右⼤臣  藤原実頼  ☆ 藤原実頼 藤原師輔 御禊部類、御禊日例 冷泉 安和元年( (6 () (0月 (6日 関白・太政⼤臣  藤原実頼 左⼤臣  源高明   ☆ 源高明 藤原師尹 御禊日例、御禊事 「 安和之比 、冷泉院御禊 、小野宮⼤臣不供奉 、 可准例歟」 (『玉蘂』 ) 円融 天禄元年( (( 0) (0月 (6日 摂政・右⼤臣  藤原伊尹 ⼤納言  源兼明   ☆ 藤原頼忠 藤原兼家 御禊日例、中右記 花山 寛和元年( (( 5) (0月 (5日 関白・太政⼤臣  藤原頼忠 右⼤臣  藤原兼家 藤原朝光 藤原済時 小右記、御禊日例、 御禊事 左⼤臣源雅信 「 不耐騎馬 」ため 、右⼤臣兼家 が節下に。 (『小右記』 ) 一条 寛和 ( 年( (( 6) (0月 (( 日 摂政  藤原兼家 右⼤臣  藤原為光 藤原朝光 藤原済時 御禊事 「 左⼤臣不出仕 、不知其由 、若依子少将 ( 時 叙 ) 出 家 事 歟 」( 『 御 禊 事 』) 、 兼 家 乗 車 (『 延 慶⼤嘗会記』 ) 三条 寛弘 ( 年( (0 (( )閏 (0月 (( 日 内⼤臣  藤原公季 藤原公季 藤原実資 御堂、御禊日例、御 禊事 左⼤臣藤原道⻑、右⼤臣藤原顕光 後一条 ⻑和 5 年( (0 (6) (0月 (( 日 摂政・左⼤臣  藤原道⻑ 内⼤臣  藤原公季 藤原頼通 藤原実資 御禊事 ①右⼤臣に藤原顕光 。② 「 後一条院の御禊の 行幸に 、摂政 ( 御堂殿 )供奉し給ふ 、府生 以 下 十 人 、 も と よ り ゆ る さ れ て 召 具 し 給 外 に 、 左右の将監 ・将曹各一人つ ゝ めしわたさる 、 是を一員とも 、又かりの随⾝とも云也 、」 (『源語秘訣』 ) 御朱雀 ⻑元 ( 年( (0 (6) (0月 (( 日 関白・左⼤臣  藤原頼通 内⼤臣  藤原教通 藤原教通 藤原実資 御禊日例 御冷泉 永承元年( (0 (6) (0月 (5日 関白・左⼤臣  藤原頼通 内⼤臣  藤原教通 藤原教通 藤原頼宗 御禊事 後三条 治暦 ( 年( (06 () (0月 (( 日 関白・左⼤臣  藤原教通 右⼤臣  藤原師実 藤原師実 源師房 御禊日例 三実…『日本三代実録』  御禊日例…『⼤嘗会御禊日例』  御禊部類…『⼤嘗会御禊部類記』  御禊事…『⼤嘗会御禊事』  御堂…『御堂関白記』 摂政藤原道長の随身員数について 6(

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臣が務め、該当者不在の場合には最上席の大納言が代役を務める。当該の御禊においては、道長は節下ではないが、女 御代を女威子が務めることから、早朝より準備をするなど、入念な用意がなされていることが伺われる。注目すべきは 傍線部で、この日皇太后彰子の仰せにより、道長に随身二人が加えて供奉したという。また、これは「先公之例」とい うことで、道長は感涙を流している。 「我馬副帯刀十人」とは、恐らく常の随身であろう。 『小右記』を合わせて考える と、騎馬の府生は常の随身であるとして、番長もしくは近衛がこの日二人加わったと考えられる。 山中裕氏は、当該時点での道長の随身員数を八人であるとするが、道長が既に摂関相当の随身の員数を保有している ことは既に述べた通りで、これは誤りであ る ((1 ( 。 随身の加給を考える上で当例が重要な意味を持つ可能性があるが、これが果たして新加であるのか、次章にて検討を 行いたい。   ﹁新加﹂をめぐる検討 1   ﹁権随身﹂の例 摂関に別勅賜与されたり、衛府の大将などがその職により具する随身を「例の随身」や「常の随身」とするのに対し て、儀式などに際して臨時に具する随身は、 「権随身」や「仮随身」 、または「借随身」として史料上にみえ る ((1 ( 。以下に いくつか実例を挙げてみる。 寛 弘 二 年 (一 〇 〇 五 ( 十 月 十 九 日、 木 幡 寺 の 供 養 が 行 わ れ た。 基 経 以 来、 藤 原 氏 代々の 墓 所 で あ る 木 幡 の 地 は、 こ の 時期には荒廃が顕著であったらしい。この日、道長が前年より造営に着手していた三昧堂が遂に完成を迎えたことによ 6(

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り ((1 ( 、左大臣道長や内大臣頼通以下諸卿の参会のもと法要が営まれた。実資がに記すところによると、堂には普賢菩薩一 体がまつられ、扁額には「浄妙寺」の銘があったとい う ((1 ( 。また、 『小右記』同日条には、木幡寺供養において「仮随身」 が従ったことが記される。 十 九 日、 甲 午、 今 日 木 幡 寺 供 養 日 也、 僧 前 高坏十二枚、加 二 折敷□□二具 一 并 諷 誦 布 信 乃 布 百 端 払 暁 送 二 寺 一、 左 兵 衛 督 早 朝 立 過、 同 車 参 入、 召 二寮馬随身等 一、 亦有 二仮随身 一 将監嘉武・将曹 保春・府生保堪 (中略 ( 亥剋許帰 レ家、仮随身以下給禄、 右大将である実資には「常の随身」として【府生一、番長一、近衛六、計八人】がいる が ((1 ( 、この日は〈将監嘉武・将 曹 保 春・ 府 生 保 堪〉 が「仮 随 身」 と し て 加 わ り、 供 奉 し た。 亥 剋 に 至 り 帰 着 し た 実 資 は、 「仮 随 身」 以 下 に 禄 を 給 わっ ている。 同じく『小右記』寛弘五年十二月二十八日条には、荷前使である実資に「例の随身」に加えて「仮随身」が従ってい るのがみえる。 二十八日、甲寅、酉剋許参内、依 レ荷前使 一、 仮随身 、又例随身等騎馬相従、 左寮馬令騎、番長已下皆騎、 (中略 ( 、舁 二立幣物恒、撤了各向山陵 一、 山階使余、柏 原・深草・田 邑 等 使 参 議 懐 平、 後 山 階 使・宇治三所使参議実成、 亥 時 許 自 内 退 出、 給 饗 禄 将 監 有 宗 絹 二 疋、 将 曹 公 方 一 疋 綿、府生武吉一疋、番長以下例禄、 余騎馬参入、丑剋許帰 レ家、召用寮馬七疋、 一疋我騎 料、六疋 随身 料、 口付各給布一端、 この日、山階使の大納言道綱や深草使中納言公任、田邑使中納言時光など、使たる上達部らが障りを申し、使の数が 著しく不足するという極めて非常の事態となった。殿上人をもって荷前使とする例を外記に問うが、そのような例は臨 時 山 陵 使 に し か み え な い と い う。 そ こ で 実 資 が 三 人 の 上 達 部 (実 資 の ほ か、 参 議 懐 平、 参 議 実 成 ( を もって 数 所 を 兼 ね る ことを提案し、勅答と左大臣道長の報により決定した。実資は山階使となっ た (11 ( 。 こ の 日 は「仮 随 身」 で あ る〈将 監 有 宗・ 将 曹 公 方・ 府 生 武 吉〉 、 な ら び に「例 の 随 身」 ら が、 番 長 以 下 で あ る 者 も 全 摂政藤原道長の随身員数について 6(

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て 騎 馬 に て 従った。 左 馬 寮 の 馬 を 用 い た と い う。 ま た、 例 の ご と く 賜 禄 が 行 わ れ、 将 監 有 宗 に は 絹 二 疋、 将 曹 公 方 は 綿一疋、府生武吉一疋、番長以下は例の禄をそれぞれ給わった。 なお、この府生武吉は、寛弘五年十月二十九日の除目の席において、道長に府生の将曹に転ずべき者を問われた実資 が、 第 一 と し て 挙 げ た「武 吉」 で あ ろ う (1( ( 。 こ の 荷 前 使 の 記 事 に お い て は 未 だ 府 生 で あ る が、 長 和 三 年 (一 〇 一 四 ( 五 月 十六日に土御門邸の馬場にて行われた競馬記事には「将曹多武吉」がみえ る (11 ( 。この武吉と同一人物であると考えてよい だろう。なお、同時期に左近衛府にも「武吉」の名がみえるが、これは別人であろ う (11 ( 。 実 資 は、 寛 弘 八 年 に も 荷 前 使 を 務 め る が、 こ の 時 に も「権 随 身」 が あ り、 〈将 曹 正 方・ 府 生 保 方〉 が 従った こ と が 記 され る (11 ( 。 「権随身」の例としては、行事等に際するものの他、以下のようなケースもある。 ⒜     二 十 一 日、 庚 戌、 (中 略 ( 、 不 レ 候 二 幸 一 官 人 等 并 御 馬 乗 者、 亦 随 身 紀 元 武 不 二 上 一 等、 仰 二 監 保 信 一、 各 召 問、 無 レ 可 レ 状 一、 但 紀 元 武 罷 二 但 馬 国 一、 于 今 無 音、 是 父 府 生 保 ( 紀 ( 方 所 レ 也、 至 二 保 方 一、 可 レ 二 会 行 幸 一 過 状 上、 又 欠 二 公 事 一 者、 不 レ 給 物 一 由、 重 召 仰 了、 先 年 起 請 也、 至 二 武 一 召 二 其 身 一、 可 レ 令 レ 庫 一者、 又 留 二 宣 旨 一 也、 不 レ 遣 一、 又 暫 可 レ 場 所 掌 事 等 一、 同 仰 下 了、 (中 略 ( 、 彼 日 事 罪 科 不 レ 者也、 ⒝     二 十 三 日、 壬 子、 以 二 衛 高 扶 明 一 一、 随 レ 永 可 レ 武 替 一、 給 二 明 絹 二 疋 一、 行 禊 日 袙・ 袴 料 也、 他 随 身 等先日給 レ之、 (後略 ( ⒞     二十八日、丁巳、府生保方、番長公方、近衛元武過状、府生公奉申文等、将監保信持来、過状留了、但公方・元武 等全可 レ府庫下之由仰之、 (中略 ( 、親重・義光 戒 (11 ( 、方 二来殊賜過状 一、 (後略 ( 6(

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⒟     二 十 九 日、 戊 午、 (中 略 ( 、 将 監 保 信 進 二 生 公 奉 過 状 一、 相 二 府 生 保 方 過 状 一 給 了、 近 代 以 レ 状 一 息 一、 仍 加 レ戒所免、不給物之由、重仰下了、 以上の史料⒜~⒟は、行幸を懈怠した右近衛官人らの進過状に関するものであ る (11 ( 。この行幸とは、長和二年九月十六 日 の 土 御 門 行 幸 を 指 す (11 ( 。 こ の 日 は、 同 年 七 月 七 日 に 誕 生 し た 姫 宮 (禎 子 内 親 王。 母 は 道 長 の 女 中 宮 妍 子 ( と 三 条 天 皇 と の 初対面があった。実資は該当する官人らの過状を進上するべきことを指示しているが、その中の一人に随身の紀元武が いる。元武は、但馬国に罷り下ったまま音沙汰がなく、行幸にも伺候しなかったという。二十三日には、この元武にか えて近衛高扶明が「権随身」となされている。 「権」のといっても、 「永く元武の替わりと為すべし」とあることから、 先に挙げた二例とは性格が異なり、長期間の供奉をさすものであろう。実際に、この後にも随身として扶明の名がみえ る (11 ( 。 以上、衛府の長官である実資の「権随身」の例を確認してきたが、この他にも寛弘八年四月十五日の齋院選子内親王 の御禊においては侍従中納言行成が「借随身」に賜禄を行っているな ど (11 ( 、当該期における「権随身」の例は枚挙に遑が ない。 では、長保元年の大嘗会御禊における道長の随身が、果たして仮のものであるか。その可能性を検討する際に、確認 しておきたい記事がある。 二 十 二 日、 丁 巳、 今 日 大 殿 引 二 北 方・ 尚 侍・ 最 弟 女 等 一、 被 レ 清 水 一、 明 日 可 レ 御 在 所 一云々、 京 師 上 下 見 物 云々、 仍 密々見 之、 (中 略 ( 、 未 剋 許 被 レ参、 於 二 条 大 路 一 之、 (中 略 ( 、 次 随 身 有 二 権随身 一、猶 不 レ 可 レ 然事也 、 次 内 舎 人、 次 前 駆 六 位・ 五 位・ 四 位、 次 上 達 部 右 大 弁 朝 経・ 左 近 中 将 道 雅 三 位 ・ 右 兵 衛 督 公 信・ 左 大 弁 道 方・ 中 納 言 能 信・ 左衛門督頼宗・左大将教通、或卿 龓 着毛履侍、或近衛官人、又右兵衛督府志 、 次 主 人、 乗 二 車 一、(中 略 ( 、 次 摂 政、 召 二 権 随 身 一、 不 レ 事 也、 大 将・ 諸 衛 督 等 有 二 随 身 一、 近 代 摂 政 召 権 随 身、 失 古 跡 、 (中 略 ( 按 察 大 納 言 斉 信 称 二 忌 一 二 摂政藤原道長の随身員数について 65

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追 従 一、 参 議 兼 隆 称 レ 云々、 通 任 直 不 レ候、 自 余 皆 服 者、 但 下 官 素 不 二 従 一、 又 無 二 色 一、 縦 雖 レ 命 一、 不 レ 候 一也、為許雑役之身 上、還所 二奇思 一、(後略 ( 以 上 は、 『小 右 記』 寛 仁 元 年 九 月 二 十 二 日 条 で あ る。 こ の 日、 前 摂 政 で あ る 道 長 は 室 倫 子 や 女 威 子 (尚 侍 ( ら を 伴 い 石清水八幡宮に詣でた。これには摂政・頼通をはじめ、多くの公卿や官人らが従ったが、実資は追従しなかった。しか し、やはり関心はあるようで、二条大路において行列を見物し、競馬の騎者が道中においてすでに装束を着けているこ とを批判するなど (中略部 分 (11 ( ( 、殊に詳細に記録している。 こ こ で 注 目 し た い の は 傍 線 部 で あ る。 行 列 に お い て 頼 通 が「権 随 身」 を 召 し 加 え て い る こ と が 批 判 さ れ て い る が、 「権 随 身」 は「大 将・ 諸 衛 の 督 等 に あ る」 も の で、 摂 政 が こ れ を 用 い る こ と は「古 跡 を 失 う」 こ と で あ る と い う。 つ ま り、 「権 随 身」 と い う の は、 直 属 の 上 官 た る 衛 府 の 長 官 ら が、 職 務 の 一 環 と し て 当 府 の 官 人 ら を 具 す る こ と を い う の で あり、摂政が別勅にて保有する「例の随身」以外を具することは、本来的ではないのである。また、破線部は道長の随 身 を 指 す と 考 え ら れ る が、 摂 関 を 退 い た 後 も 元 の 如 く 随 身 を 保 有 し て い る と 雖 も、 同 じ く「権 随 身」 を 具 す る こ と は 「然 る べ か ら ざ る こ と」 で あ る。 な お、 頼 通 は こ の 年 の 三 月 ま で 左 大 将 を 務 め て い た が、 摂 政 就 任 の 六 日 後 に こ れ を 辞 し、即日随身十人を賜与されてい る (1( ( 。 これらをふまえてもう一度考えると、長和元年の大嘗会御禊において道長に加えられた「随身二人」は、やはり「権 随身」である可能性は低いだろう。 此時の道長は内覧左大臣で、左大将の任は既に長徳二年に辞してい る (11 ( 。当該時、未だ摂政の任には就いていないが、 別勅により既に摂関相当の随身を賜与されていることは先に述べた通りである。もしこれが「権随身」であるならば、 当該期にこのような認識がある以上、非難されるべき例であったはずである。しかし、そのような評価は管見では見当 66

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たらない。 ま た、 先 掲 の 史 料 に も あ る よ う に、 「権 随 身」 が あった と き に は、 そ の 被 支 給 者 と 随 身 と は 賜 禄 を もって そ の 臨 時 の 関係を締めくくるのが常である。こういった関係性はむろん「権随身」に限ったものではない。 例えば道長は長和五年六月十日に、 「忠仁公例」として、随身【内舎人二、左右近衛各六、左右兵衛各六、計二十六】 を 給 わって い る が、 『御 堂 関 白 記』 翌 日 条 に「左 右 兵 衛 府 随 身 各 六 人 差 文 を 進 る、 饗 を 賜 い て 候 せ し む、 各 疋 絹 を 賜 い て返し遣すこと已に了んぬ」とあるように、兵衛については翌日に本府に返している。この例における兵衛の賜与は、 「忠 仁 公 例」 の 再 現 と い う 象 徴 的 意 味 合 い を もった も の で あ ろ う が、 や は り 斯 様 な 関 係 性 の 解 消 と も い え る よ う な 状 況 においては、必ず賜禄が伴うのであ る (11 ( 。 な お、 こ れ が 常 の 随 身 へ の 賜 禄 を 無 視 す る も の で は な い こ と は 注 意 し て お き た い。 た だ、 「権 随 身」 の よ う な イ レ ギュラーの存在への処遇は、やはり何らかの記載があって然るべきであろう。 以上より、長和元年の大嘗会御禊における「随身二人」は、御禊の後にも引き続き従った可能性が高く、これはやは り常の随身への新加であると評価できよう。 2   先公例の検討 それでは、長和元年大嘗会御禊記事にみえる「先公例」が具体的にどの事例を示すのか、以下に検討する。 道 長 の 父 で あ る「先 公」 = 家 が、 御 禊 に お い て 特 に 随 身 を 賜った 記 録 が み え な い こ と は、 既 に 山 中 裕 氏 に よって 指 摘されてい る (11 ( 。但し、山中氏は当該時と状況の似た寛和二年十月二十三日の一条天皇の大嘗会御禊が、これの指す例で ないかとす る (11 ( 。しかし、斯様の記述がない以上、なおの検討の余地があるのではないか。 摂政藤原道長の随身員数について 6(

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兼家が賜った随身の員数が、破格のものであったことは先に述べた通りである。兼家は、花山天皇の退位、一条天皇 の 即 位 に と も な い、 寛 和 二 年 (九 八 六 ( 六 月 二 十 四 日 に 摂 政 と なった。 外 祖 父 が 摂 政 と な る の は、 実 に 良 房 以 来 の こ と である。翌月二十日に右大臣を辞して無官の摂政となると、二十二日には一座宣旨を被り、遂に独立最高官となっ た (11 ( 。 ここに摂関の権力拡大があったことは言うまでもない。 さ て、 こ の 兼 家 は こ の 約 一 か 月 後 の 八 月 二 十 五 日 に (11 ( 、「忠 仁 公 故 事」 と し て、 准 三 宮 年 官・ 年 爵 な ら び に 随 身 を 賜 与 されてい る (11 ( 。 『公卿補任』准 二三宮年爵年官 一。併賜 二左右近衛各二人 一。 『日本紀略』准 二三宮并以内舎人近衛等随身兵仗 一。如 二忠仁公故事 一。 随 身 賜 与 に つ い て の 記 載 が あ る 史 料 の う ち、 員 数 が 明 記 さ れ る の は『公 卿 補 任』 で あ る。 【左 右 近 衛 各 二 人】 が 兼 家 の 随 身 の 総 数 で あ る と は 考 え 難 い か ら、 こ れ は 既 に 保 有 す る と こ ろ の 随 身 へ の 新 加 で あ る 可 能 性 が 高 い。 一 方、 『日 本 紀 略』 は 員 数 こ そ 明 記 し な い も の の、 『公 卿 補 任』 が 記 さ な い「内 舎 人」 の 語 を 含 む。 た だ、 恐 ら く こ れ は 従 来 保 有 す る 常 の 随 身 の 内 舎 人 を 指 す も の で あ ろ う。 『日 本 紀 略』 の 記 述 は、 今 回 の 新 加 後 の 兼 家 の 随 身 の 総 体 を 指 す 表 現 で は な かろうか。よって、当該例は兼家への随身の新加であると評価する。また、これが正しければ、当該例は摂関への随身 追加賜与の初例となる。 斯様な恩賞の賜与は、むろん幼帝の意思によるものではないだろう。摂政である兼家、そして国母となった詮子の浅 からぬ関与を想定し得るもので、当該例にも大きな影響を与えていることは間違いないであろう。こうした、いわば権 力 誇 示 の パ フォーマ ン ス と し て の 恩 賞 賜 与 は、 「皇 太 后 之 厳 親」 で あ る 外 祖 父 兼 家 の (11 ( 、 外 戚 地 位 獲 得 が 可 能 に し た も の である。 6(

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3.藤原兼家の随身員数 No. 随⾝賜与年月日 天皇 年齢 位階 官職 内舎人 近衛府生 近衛番⻑ 近衛 兵衛 計 賜与理由 員数出典 備考 ( a 寛和 ( ( (( 6) 6 月 (( 日 一条 5( 正二位 摂政/右⼤臣 ( ( (0 摂政 紀略 ( b ( ( ( ( (( 補任 (  〃      ( 月 (5日 一条 5( 従一位 摂政 ( ( ( (( (( ? 褒賞 補任 〇准三宮、随⾝新加カ 後に道長が「忠仁公例」として、莫大な恩賞の賜与をうけることは既に述べた。本稿ではその詳細に立ち入ることは しないが、道長・頼通父子がこれらを可能にした背景には、少なからず兼家の当該例の存在があろう。道長・頼通は、 封戸や随身の員数を含め、文字通り「忠仁公例」を再現したのであるが、それには及ばないとはいえ、皇太后の関与と いう点からも、やはり此例には後の発展の端緒となる要素が多分に存在するのである。 本章における検討の結果より、改めて長和元年大嘗会御禊における「随身二人」について考えてみよう。まず、この 随 身 は 当 該 期 の 古 記 録 に 見 え る よ う な「権 随 身」 と は 異 な る も の で あった。 「権 随 身」 と 表 記 さ れ る 者 に も、 近 衛 高 扶 明のように長期間の供奉を前提とする者もあったが、何より必要に応じて臨時に派遣されたという性格が、道長の「随 身二人」にはなかった。また、衛府の高官でないものが権随身を召すことは然るべからざることである。 よって、 こ の 日 を もって 新 た に「随 身 二 人」 が 道 長 の 常 の 随 身 に 加 わった。 道 長 の 随 身 の 総 計 は、 【左 右 近 衛 府 生 各一、左右近衛各五、計十二人】となり、次に新主の宣旨により随身を賜与される長和五年正月卅日まで、この員数を 維持したものと思われる。そして、その際に内舎人が加わったことにより、道長の随身は父や兄が摂関であった際の随 身員数【十四人】に達した。 皇太后仰による随身新加の先例となったのは、寛和二年八月二十五日における兼家への随身賜与であろう。ここで問 摂政藤原道長の随身員数について 6(

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題となるのは員数ではなく、母后の関与についてである。女を入内させ后とし、その子である外孫が東宮や天皇となる、 その関係性の中でのみこれらの実現が可能となったのである。 冒頭で触れた、 「随身」の名詞としての独立の問題は、 『日本三代実録』の元慶年間に「賜随身并兵仗」や、 「為随身」 といった表現がみえはじめることから、あるいはこの時期を端緒とするものなのかもしれない。いま挙げた二例は、奇 しくもそれぞれ元慶二年・六年の基経への随身賜与記事においてみえるものである。平安貴族社会における「随身」の の確立には、摂関への随身賜与の開始が少なからず影響しているのだろう。 長和元年の大嘗会御禊行列において加わった随身二人は、当日の行列のための権随身ではなく、常の随身への新加で あったと評価することができよう。長和五年の摂政就任時点で更に内舎人が加えられた際に、そのことのみが取り沙汰 されたことは、むしろ示唆的であった。長和元年及び五年の随身新加には皇太后彰子が関わるところが大きいが、摂関 たる父と后たる女の政治的な営為において、そのロールモデルが兼家と詮子に求められたであろうことは、言うまでも ない。道長政権期は、こうした経験の集積の上に独自の繁栄を築き、次代へと続く規範を生み出したのである。 道長期以降における随身賜与のシステムもまた、様々の変革の総体として道長期に確立したパターンが応用・継承さ れてゆくのであるが、それについては稿を改めることにしたい。 (0

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( (( 天 平 三 年(七 三 〇 ( 十 一 月 廿 八 日 条 や 天 平 宝 字 元 年(七 五 七 ( 六 月 九 日 条、 神 護 景 雲 二 年(七 六 八 ( 十 二 月 四 日 条 ほ か。 ( (( 基経期における随身員数の定数化や、以降の変遷に関しては別稿にて。 ( (( 長 徳 二 年(九 九 六 ( 八 月 九 日、 同 十 月 九 日、 長 保 元 年(九 九 九 ( 三 月 十 六 日、 以 上 一 条 朝。 寛 弘 八 年(一 〇 一 一 ( 六 月 十 三 日、 以 上 三 条 朝。 長 和 五 年(一 〇 一 六 ( 一 月 三 十 日、 同 六 月 十 日、 以 上 後 一 条 朝。 な お、 長 徳 の 二 例 に 関 し て は 非摂関にてこれを賜る例であるが、摂関相当のものであるとの判断から、これに含む。詳述は別稿にて。 ( (( 貞 元 二 年(九 七 七 ( の 関 白 藤 原 頼 忠 に よ る 内 舎 人 辞 退(→ 替 え て 近 衛 府 生 ( に よ り、 基 経 以 来 の 随 身 の 定 数 及 び 内 訳 にはじめて変更が加えられた。なおこの員数内訳は次の兼家やその嫡子の道隆には採用されなかった。 ( 5( 竹 内 チ ヅ 子「随 身 に つ い て」 (『九 州 史 学』 (、 一 九 五 七 年 (。 笹 山 晴 生「随 身」 (『国 史 大 辞 典』 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 七 年 (。 ( 6( 兼 家 は 寛 和 二 年 六 月 二 十 八 日 に「賜 二 身 内 舎 人 二 人、 左 右 近 衛 府 生 各 一 人、 番 長 二 人、 近 衛 各 四 人 一。」 (『公 卿 補 任』 寛 和 二 年 (、 道 隆 は 永 祚 二 年 六 月 一 日 に「給 二 身 内 舎 人 二 人 左 右 近 衛 府 生 番 長 各 一 人 近 衛 各 四 人 一。」 (『公 卿 補 任』 永 祚 二 年 ( を そ れ ぞ れ 賜って い る。 な お『日 本 紀 略』 は、 こ の 兼 家・ 道 隆 の 随 身 員 数 を 基 経 以 来 の 定 数 で あ る【内 舎 人 二、 左 右 近 衛 各 四、 計 十】 と す る( 『日 本 紀 略』 寛 和 二 年 六 月 二 十 八 日 条、 正 暦 元(永 祚 二 ( 年 六 月 一 日 条 (。 本 稿 で は 確 定 は 行わないが、のちの道長につながる要素であることからも、 『公卿補任』の説を支持してよいかと思う。 ( (( 代 替 わ り に よ る 賜 与 の 例 は、 天 慶 九 年(九 四 六 ( の 村 上 天 皇 の 関 白・ 藤 原 忠 平、 安 和 二 年(九 六 九 ( の 円 融 天 皇 の 摂 政・藤原実頼、永観二年(九八四 ( 花山天皇の関白・藤原頼忠など。 摂政藤原道長の随身員数について ((

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( ((『小右記』長和五年二月一日条。 ( ((『公 卿 補 任』 長 徳 二 年。 ま た、 『河 海 抄』 巻 第 七   第 十 一「澪 標」 に は、 『源 氏 物 語』 の「河 原 の お とゝの 御 れ い を ま ね ひ て わ ら は す い し ん を 給 は り 給」 に 対 す る 注 釈 と し て、 「河 原 左 大 臣 融 賜 二 随 身 一 所 見 未 レ 出、 中 右 記 云 御 堂 入 道 殿 令 レ 随 身 一 条 殿 例 云々 /今 案 御 堂 関 白 長 徳 三 年 給 二 随 身 六 人 一 云々 」 と い う 記 述 が あ る。 こ の 長 徳 三 年 は、 二 年 の 誤 り であろう。 (『紫明抄・河海抄』角川書店、一九六八年 ( ( (0(『公卿補任』長徳二年、 『日本紀略』長徳二年十月九日条。 ( ((( 十 世 紀 後 半 に は、 非 摂 関 へ の 随 身 賜 与 が 発 生 し、 次 第 に 拡 大 す る 様 相 が あ る。 ま た、 当 該 例 は 道 長 期 以 降 の 員 数 定 着 において重要な位置を占めるものであるが、これらについては稿を改める。 ( (((『本朝世紀』長保元年三月十六日条。 ( ((( 長 和 五 年 正 月 例 は「左 右 近 衛 府 生 以 下 各 六 人」 で あ る が、 当 例 は 府 生 を 別 記 し た 上 で 左 右 近 衛 を 各 六 人 と す る。 内 舎 人を含まずに総計が十四人となり、他に例を見ない。この員数例が後世にみえないという点は示唆的であろう。 ( (((『御堂関白記』寛弘八年(一〇一一 ( 六月十三日条。 ( (5( 山中裕『御堂関白記全注釈』長和元年(高科書店、一九八八年 (、註一八〇、一八一。 ( (6( こ れ ら の 使 い 分 け に つ い て、 圧 倒 的 に 用 例 が 多 い の は「権 随 身」 で あ る。 但 し、 管 見 で は『小 右 記』 に の み に 確 認 で き、 こ の 点 は 留 意 す べ き で あ る。 実 資 は、 「仮 随 身」 と い う 表 現 も 用 い る が(本 文 中 寛 弘 二 年 十 月 九 日 条、 十 二 月 二 十 八 日 条 (、 両 者 に は 明 確 な 区 別 は な い よ う に 思 う。 一 方、 「借 随 身」 は そ の 時 点 で 衛 府 の 長 官 な ど の 任 に な い 者(行 成: 『権 記』 寛 弘 八 年 三 月 十 日 条、 四 月 十 五 日 条、 道 長: 『御 堂 関 白 記』 寛 仁 元 年 四 月 十 六 日 ( に よ る 用 例 の み で あ り、 こ こ に は 区別があるか。 ((

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( (((『御 堂 関 白 記』 寛 弘 元 年 二 月 十 九 日 条 に、 「木 幡 三 昧 堂 可 立 所 為 定、 到 彼 山 辺、 従 鳥 居 北 方 河 出、 其 北 方 有 平 所、 道 東、 晴明朝臣・光栄朝臣等定也」とあり、陰陽師とともに現地に赴き、三昧堂建立の地を定めている。 ( (((『小 右 記』 寛 弘 二 年 十 月 十 九 日 条。 な お 扁 額 は 行 成 の 筆 に よ る。 十 七 日 に 道 長 が 額 二 面 を 行 成 の も と に 送 り( 『御 堂 関 白記』同月十七日条 (、十八日に南は真書、西は草書にて記された( 『権記』同月十八日条 (。 ( (((『北山抄』大将要抄。 ( (0( 参議懐平は柏原・深草・田邑等、参議実成は後山階・宇治三所の使となった。 ( (((『小右記』寛弘五年十月二十九日条。 ( (((『小右記』長和三年五月十六日条。 ( ((( 恐 ら く、 物 部 武 吉。 寛 和 元 年 正 月 十 八 日 の 賭 弓 に お い て 左 番 長 の 替 人 と なって い る( 『小 右 記』 同 日 条 (。 次 に 見 え る の は『御 堂 関 白 記』 寛 弘 元 年 五 月 二 十 七 日 条 の「左 将 曹 武 吉」 で、 東 遊 に 供 奉 し て い る。 長 和 二 年 以 降 は、 「左 将 監 武 吉」 と し て 散 見 さ れ る( 『小 右 記』 長 和 二 年 二 月 五 日 条、 同 七 月 二 十 九 日 条 な ど (。 一 貫 し て 左 近 衛 官 人 と し て み え、 昇 進 の ス ピード と し て も 自 然 で あ る。 な お、 本 文 中 に 挙 げ た 土 御 門 邸 で の 競 馬 記 事 中 に は、 同 時 に「左 将 監 武 吉」 も み え、 別 人 で あ る こ と は 確 実 で あ る。 多 武 吉 は、 右 大 将 実 資 の 仮 随 身 と なって い る こ と を は じ め、 実 資 に よ り 将 曹 に 推 挙 さ れ て い る こ と、 ま た 当 該 の 競 馬 記 事 か ら も 右 近 衛 官 人 で あ る こ と は 確 定 で あ ろ う。 よって、 同 時 期 に、 左 近 衛 番 長・ 将 曹 を 経 て 将 監 と なった 武 吉、 右 近 衛 府 生 を 経 て 将 曹 と なった 多 武 吉 の 二 人 の「武 吉」 が 存 在 す る。 告 井 幸 男 氏 は、 多 氏 か ら 物 部 氏 に 改 姓 し た 武 吉(好・ 能 ( に つ い て 指 摘 さ れ て い る が( 「摂 関・ 院 政 期 に お け る 官 人 社 会」 (『日 本 史 研 究』 五 三 五、二〇〇七年三月 ( 第三章 (、以上のような検討からやはり両者は別人とみるのがよいかと思う。 ( (((『小右記』寛弘八年十二月二十七日条。 摂政藤原道長の随身員数について ((

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( (5( 告 井 氏 は、 『大 日 本 古 記 録』 や『大 日 本 史 料』 が、 「親 重 義 光 戒 方 来 殊 返 賜 過 状」 の「戒」 を「保」 と 校 訂 す る 誤 り を 指 摘 さ れ て い る。 よって 本 稿 も こ れ に 倣 う。 (告 井 幸 男「家 産 的 処 罰 の 展 開」 第 一 節 註 ((。(告 井 幸 男『摂 関 期 貴 族 社 会 の研究』塙書房、二〇〇五年 ( 所収。初出は二〇〇一。 ( ( (6(『小右記』長和二年九月二十一日・二十三・二十八・二十九日条。 ( (((『御堂関白記』長和二年九月十六日条ほか。 ( (((『小 右 記』 長 和 五 年 四 月 十 八 日 条、 寛 仁 二 年(一 〇 一 八 ( 五 月 十 一 日 条 な ど。 同 じ く 寛 仁 二 年 五 月 二 十 二 日 に は、 資 平 の 従 者 を 傷 害 し た 件 で 実 資 に 勘 当 さ れ て い る が、 二 十 四 日 に 資 平 の 口 入 に よ り 免 ぜ ら れ て い る。 そ の 後、 翌 年 正 月 七 日 条や二月十九日条にも随身として扶明の名がみえる。 ( (((『権 記』 当 日 条。 な お、 帯 剣 や 鞍 な ど の 随 身 の 装 束 は 道 長 よ り 借 り た も の で あ る ら し く、 翌 日 持 参 し て い る 様 子 が『権 記』ならびに『御堂関白記』にみえる。 ( (0(「競馬騎者装束於 二石清水着歟、路間着打懸等 一、不 レ御霊会 一、有目之人必可傾乎、目口無 レ益之世也」 。 ( (((『日 本 紀 略』 寛 仁 元 年 三 月 二 十 二 日 条。 「廿 二 日 辛 酉。 摂 政 内 大 臣 上 表。 請 レ 近 大 将 一。 勅 許 之。 即 日 宣 命。 依 二 和 例 一。 可 レ 右 大 臣 上 一。 又 許 下 車 一 宮 門 上。 賜 二 右 近 衛 府 生 以 下 一。 為 二 身 兵 仗 一。 又 権 中 納 言 藤 原 教 通 卿 蒙 下 レ 任 二大将宣旨 上。」 ( (((『公卿補任』長徳二年。及び『小右記』長徳二年八月九日条。 ( ((( 道 長 は 摂 政 退 任 後 も「随 身 兵 仗 如 元」 で あった が、 寛 仁 二 年 二 月 九 日 に 上 表 し て 太 政 大 臣 な ら び に 内 舎 人 の 随 身 を 辞 している。この際にも内舎人を召して賜禄したことが、 『御堂関白記』同日条(裏書 (、 『左経記』同日条にみえる。 ( ((( 山中氏前掲書、註一八三。 ((

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( (5( 山 中 氏 に よ れ ば、 寛 和 二 年 は 摂 政 が 兼 家、 節 下 右 大 臣 為 光、 女 御 代 尚 侍 綏 子(兼 家 女 ( で あ り、 長 和 元 年 の 左 大 臣 (内覧 ( 道長、節下内大臣公季、女御代尚侍威子(道長女 ( とよく状況が似ているとする。 ( (6( 無 官 摂 政 に つ い て は、 山 本 信 吉「摂 政 藤 原 兼 家 と 左 大 臣 源 雅 信・ 右 大 臣 藤 原 為 光」 (山 本 信 吉『摂 関 政 治 史 論 考』 吉 川 弘文館、二〇〇三年 (。 ( (((『日本紀略』は八月二十七日とする。なお、二十五日条には大嘗会のことを定めたとある。 ( (((『公卿補任』寛和二年、 『日本紀略』寛和二年八月二十七日条。 『公卿補任』によると、兼家は年爵を固辞したという。 ( (((『葉黄記』寛元四年十月十七日条   摂政三公上例。 摂政藤原道長の随身員数について (5

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