マルコによる福音 61
イエス復活の福音
15:42-16:8 マルコ伝の結びの部分を今朝は読みます。朗読された最後の行―「恐ろ しかったからである」が、原作の結尾だということが、原典の写本を調べる 学者たちの結論です。つまり、年代的に一番古い巻物はこの文で終っている のです。終り方が余りに唐突なので、後代の読者が、マルコ以外の三つの福 音書と使徒行伝から、この次にある四つの単元を編集して書き加えたもので すが、印刷用語で言う「ブラケット」角括弧[ ]がその、後代の付け足しの 部分を示しています。 私たちの関心は、主に 16 章の復活の記録ですが、それへの前置きとして 15 章の 22 節以下、「墓に葬られる」の所を読むことにします。 1.イエスの埋葬 :2-47. 42.既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であった ので、 43.アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピ ラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この 人も神の国を待ち望んでいたのである。 44.ピラトは、イエスがもう死んで しまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうか を尋ねた。 45.そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡し た。 46.ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、 岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。 47. マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つ めていた。アリマタヤのヨセフというユダヤ人貴族が、イエスを埋葬した奇特な人と して登場します。この人の出身地アリマタヤは、預言者サムエルを生んだ地 「ラマタイム」(サムエル上 1:1)と同じと推定されます。このヨセフは、 最高会議の議員でありながら、イエスを処刑するユダヤ人の合議には加わら なかった(ルカ 23:50)という人で、マタイによると、「この人もイエスの 弟子であった」(マタイ 27:57)と言います。恐らくは、身分と立場を考え ての“隠れた弟子”だったのでしょうが、同じく貴族のニコデモと一緒に、 この最後の場面でイエスを丁重に葬る役目を果します。12 人の弟子たちにで きなかった仕事をしたのです。 47 節に出る婦人たちは、次の 16 章の主要人物になります。この婦人たち は何のために来たかというと、前日の日没前に、あわただしく仮埋葬をした だけのイエスの体の布を解いたうえ、香料を巻き込んで、本埋葬をするつも りで来たのです。でも、この人たちが準備した香料は使わずじまいになりま した。十字架の場面で見たように、この婦人たちは、ペトロもヤコブも逃げ 去った後で、十字架の下に残ってイエスのお側にいたという、言わば、最後 まで忠実だった三人の女性です。その選り抜きの少数派も、最後は「墓から 逃げ去った」のですが……。 復活の朝の記事に入ります。「安息日」(:1)はユダヤ教会の安息日で、 土曜日に当たります。「週の初めの日」(:2)は安息日の翌日、現代式に言 うと日曜日です。 2.イエス復活の宣言 :1-6. 1.安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、 イエスに油を塗りに行くために香料を買った。 2.そして、週の初めの日の朝 ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。 3.彼女たちは、「だれが墓の入り口 からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。 4.ところが、
目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかった のである。 5.墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているの が見えたので、婦人たちはひどく驚いた。 6.若者は言った。「驚くことはな い。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの 方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。 「イエスは復活した。ここにはいない。この空っぽの墓を見よ」と伝えた のは、白い衣を着た若者であったと言いますが、聖書に出る描写の型から言 って、これは主の天使(マタイ 28:2)を表わします。そこに起こった驚く べき出来事が、他ならぬ神の手によることを、天使の告知という形で伝えま す。死んだイエスを天の父が、御自分の手で復活させたという驚くべき宣言 です。現代の読者が信じると信じないとに拘わらず、歴史上に一度、聖なる 神が、死んだ者を生かして、墓場から取り去ったというのです。それは単に キリスト信者の妄想だと言う人もいます。私たちの周りの大多数は、そう断 定するでしょう。 復活を妄想とは断定しないで、「死者の復活」の希望は、人間が人間であ るために必要なのだ、という人たちもいます。私は大江健三郎さんのインタ ビューを、テレビで見たことがありますが、大江さんは、復活したキリスト の絵を指差して、死んでいる人間が復活させられる希望を語りました。大江 さんの人間としての深刻な体験からそれが出ていることを、私は感じ取りま した。大江さんはもちろん、死んだイエスが復活したとは信じておられませ ん。復活を描いたその絵画は、人間の切なる願望のシンボルとして、意味を 持つだけです。大江さんの言われる「復活」と、私にとっての復活の違いは、 その復活の原型として、人間の復活のエネルギーの根源として、聖なる父が 本当に神の子を復活させて引上げたというマルコやパウロの告白を、私が単 なる象徴としてではなく、事実として、額面通りに受け止める点です。 コリント書の中に、「死んだ人間を生かすという、神の執念が無かったら、
神はわざわざキリストを復活させたりはしない」(1コリント 15:16)とい う趣旨の言葉がありますが、キリスト者とそうでない「復活願望者」との違 いは、この神のなさったことを本気で受け止めるかどうかにあります。あと の違いは、どっちでも良いようなことです。 一言付け加えますと、キリストは復活したという聖書の証言を信じる人の 中にも、これは必ずしも、歴史上の事実として起こったのではない……とい う考えの人たちもいます。復活の信仰というのは、天の父ご自身が弟子たち の心に「キリストは復活して生きているのだ」という信仰を恵みによってお 与えになったことが、取りも直さず、「キリストは事実として復活しておら れる」ということである、と理解するのです。この体験によって、弟子たち はその日から、一変して力に満たされたのだと受け止めます。学問的な書物 を書いた人では、青野太潮さん(「どう読むか、聖書」朝日新聞社)、荒井 献さん(「問い掛けるイエス」NHK 出版)、田川建三さん(「書物として の聖書」勁草書房)等、すぐれた方たちの理解がそうですし、遠藤周作さん の「死海のほとり」もそうですから、現代の読者には十分アピールしている と思います。 私自身は、コリント書のパウロの真剣な告白や、福音書を書いた人たちの 言葉(例:1コリント 15:20,ヨハネ 20:27)を真正面から受け止めると、 キリストの復活はやはり、生ける神ご自身が私たちのためになされた歴史上 の、現実の、一回きりの出来事として、初めて意味を持つと信じています。 「キリスト信徒の狂信」と言われても、私は恥じません。大江さんは、私な ど足許にも寄れない程の凄い人です。しかし、大江さんのお話を伺っての実 感は、私が復活者キリストから頂いた希望は、大江さんの「復活」よりも、 最終的には遥かに強いのに違いない!……ということです。 その輝く衣をまとった若者は、婦人たちに告げました。「イエスは復活し た。ここにはおられない。あの人は墓場に閉じ込めておける人ではなかった。」
この告知が意味を持つのは、自分が墓場に閉じ込められている人です。その 人は、イエスから命を頂くことによって、墓場から引き出された人になりま す。天にまで引上げられた人になる。 3.弟子たちへの告知とそのショック :7-8. 7.さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたが たより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかか れる』と。」 8.婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失って いた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 27 年前に私が東京でしたスピーチの録音が残っていて、それを鳥取の河口 秀さんが印刷してくださったものもあります。私にとってとても懐かしい作 品です。読んでみますと、その頃のマルコ伝 16 章の講話では、この 7 節の 1 行目の言葉に感動を覚えて、語っています。 「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。」 「ペトロを初め弟子たちに」ではないのです。「行って、弟子たちに告げ よ。そして、ペトロにもだ。」 (and to Peter)という、原文 では最後に付け足したような“念押し”の言葉は、「それから、ペトロにも 忘れずに伝えてやれ」です。ペトロは、イエスのことを「知らない」と言っ て三度否定した“失敗者”です。そのペトロをイエスは愛しているという、 これは愛と信頼の伝言です。 マルコの福音書は、シモン・ペトロの説教を、後輩のマルコがメモしたも のが骨子になっているとされます。恐らく、ペトロはこの天使の口からのイ エスの伝言のことを話す度に、こう言ったのでしょう。「天使は言った。弟 子たちに伝えよと。そしてペトロにもだと。」私はこの「ペトロにも」とい
う一言に、イエスの愛と、ペトロの感動とがこめられているように思います。 復活したイエスは、失敗者や絶望している人を、復活の力で立たせずにはお かないのです。 次の 2 行、ガリラヤでイエスが待っておられる。ガリラヤでお会いできる、 という部分も示唆的です。ガリラヤは弟子たちがイエスと出会った地、そし てイエスと生活を共にした場所です。「同じ釜の飯を食った」所だと言って もいいでしょう。そのガリラヤで、復活のイエスが弟子たちと触れ合って、 力を与えるのだ(14:28)という保証です。 弟子たちがその命に触れる場所が、エルサレムではなく、ガリラヤだとい う点が、私には面白く思えます。イスラエルの神聖な宮がそびえる地エルサ レムではなく、素朴で平凡な生活が待つガリラヤです。 私たちにとっても、イエスと触れ合って本当の生きた信仰を試してみる場 所は、祭壇と宗教儀式があって、威儀を正した宗教家がいる所ではなくて、 日常的な仕事と、家庭の務めが待つ場所であることを、思い出させます。イ エスの力を受けて生きる人は、宗教の枠組みとか、宗教の道具や補助物はな に一つなしの、言わば“体一つ”で、イエスの復活の命を生きる実験をしま す。平凡な家庭の、夫婦のチームを造り上げる。子供を育てる。力弱ったお 年寄りに仕える。条件の悪い仕事もこなす。そういう場が「ガリラヤ」だと 言えば、言い過ぎかも知れません。御使いもマルコも、そんなことは考えて もいなかったかも知れないのですが、これは、私の個人的なインスピレーシ ョンによる勝手な適用だと思ってください。 最後の 3 行……婦人たちが、ただただ怖くて、震え上がって逃げ去ったと いう所は、先ほども申し上げたように、福音書物語の結びとしては異例です。 こんな終り方をする本はまあ無い……だけでなく、すべて未完結の“宙ぶら りん”で終っています。ですから、この後に付けたりの「結び一」や「結び
二」を書いた人たちの気持ちも分かります。 婦人たちが「震え上がり、正気を失った」のは、イエスの復活の告知とい う、魂が仰天するほどの出来事を前にして、霊的感動に呑み込まれたのだと 言えないこともありません。単に怖かったのではない……と。でも、それに しては、「弟子たちに告げなさい」という命令も忘れてしまって、「だれに も何も言わなかった」という失態が不思議です。 最後までお傍にいて、忠実だった婦人たちも結局躓いた……というのがこ の 3 行の趣旨ではないか、と見る向きも(例:L.Williamson)あり、私も同 じ実感でこのくだりを読みます。この話は実は、他の三つの福音書の記事と 一致しないようにも見えます。婦人たちは最終的には弟子たちの所へ行って 伝えたのです(マタイ 28:8,ルカ 24:12,ヨハネ 20:2)。恐らく、恐怖 のパニックが去ってから、またイエスのお姿を見てから(マタイ 28:9)は、 気を取り直して、復活の知らせを弟子たちに伝えたのでしょう。それはとも かく、マルコ伝自体の幕切れは、何とも無様なことに、恐怖と動転で、伝え るべき言葉も、何時間かは伝わらないままでいた……という、大失態の婦人 たちを大写しにして終るのです。 《 結 び 》 マルコ伝のこの奇妙な終り方は、巻物の最後の一枚が外れて散逸したため ではないか……という説もありますが、その外れたパピルスも、ちぎれた羊 皮紙も出て来ない所からみて、これはこの形で終っていたと見るしかありま せん。一番古い写本はみな、「恐ろしかったからである。」で終ります。原 文は二語で です。そしてもし、昔の信徒たちが、これをこ のまま読んで納得していたとすれば、私たちはこれを、この言わば「未完の 福音書」を、どう受け止めるかです。
この福音書は、すべてを「オープンのままにしてある」と言えます。婦人 たちは、果して恐怖から立ち直って、務めを果すのか……。弟子たちは果し て、命じられた通りにガリラヤへ帰るのか……。そのガリラヤで復活のイエ スと真正面から出会って力を受けるのか……。イエスが復活したという驚く べき内容は、これから弟子たちと触れ合うことになる人たちを新しく作り替 えるのか……。イエスの十字架の死は、無駄にならずに罪の贖いを人に与え るのか……。絶望した人や、死んだも同然の人を、イエスの復活の力が生か すか……。そのすべてがオープンで未完のまま、マルコは「答え」を待って います。その「答え」はどこから来るのか? 「答え」と「続き」を、使徒行伝やヨハネ伝から引っ張って来るのなら、 この後の「結び一」や「結び二」が暗示している、取ってつけたような終り 方になるでしょう。私は、マルコが期待している「答え」は、そんな陳腐な 補足ではないと思うのです。 「答え」は、あなたがこのマルコ伝をどう終らせるかにあります。あなた はイエスが復活した知らせを、本気で受けるか。あなた自身が、墓場の暗い 絶望から外に出て、イエスと共に天の命に生きるか。宙ぶらりんのマルコ伝 は、その問題をあなたの前に提出しています。 (1998/07/12) 《研究者のための注》 1. イエスは午前 9 時に十字架につけられてから、午後 3 時を過ぎて絶命されたことにな ります。十字架による処刑者の生存時間は平均十二時間くらいであったと言いますか ら、ピラトが「不思議に思った」(:44)理由も分ります。 2. 十字架の下にいた婦人たち、墓場を訪れた婦人たちが誰々であったかの総合的観察は、 1980 年のヨハネ 19:25 による講話「第四の女」を参照して下さい。 3. ルカによると、墓の中で婦人たちに現われて語ったのは「輝く衣を着た二人の人」で あったと言います。申命記 19:15 に基づいて、証言者としての天使が複数で現われた
ものか、象徴的に複数として記載したものか、二人の内の一人をスポットライト的効 果のために一人として記載しているのか、不明です。 4. 「彼女たちは恐ろしかったからである」 で終る文は、文法的にも、文 学的にも、あり得ない形ではありません。ただ、内容的にこのような終わり方をして いるのは、文書の結尾としては異例です。 5. 結び1の四つの単元……マグダラのマリアに現われる、二人の弟子に現われる、弟子 たちを派遣する、天に上げられる……はそれぞれ( )の中に示された福音書箇所から の編集による補足です。結び 2 は、復活の告知を「弟子たちに告げなさい」に応える 補足で、婦人たちも弟子たちも役目を果したと結びます。 6. 蛇に関する 18 節の言葉は、マルタ島でパウロに起こった奇跡(使徒 28:5)への言及 です。これを「信じる者なら誰でも蛇を掴める」と狂信的に解する一派は、米国の南 部でSnake Handlers の名で知られる宗教団体を造り、取り締まりの対象ともなりま した。「毒」に関する言及の事例と意図は不明です。福音書の中心メッセージを正し く受け止める人なら、偏った適用はしないでしょう。 7. ニコデモの香料 100 リトラ(ヨハネ 19:39)を、安息日の始まる直前に全部使う時間 的余裕があったか……これもまた使わずじまいになったのか……それだけの香料があ るのに婦人たちが香料を買い求める必要があったのか……は不明です。