井上円了の人間像…
著者
世良 民平
雑誌名
井上円了研究
巻
1
ページ
43-74
発行年
1981-03-19
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006748/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止
http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja
井上円了の人間像
世 良 民 平
目次 一、 ヘじめに 二、伝記からの考察 三、辞典なとからの考察ーー一般的な人間像ー 四、追悼文などからの考察ーー個人的な人間像ーー 五、おわりに一、はじめに
本日、この研究会に初めて参加させていただいたばかりか、これまでの研究会の方向、内容などについても、充分
承知しないままに、標記テーマでリポートすることをお引受けして、いまずいぶん軽卒なことをしてしまったものと、 いたく反省いたしております。しかしここに到っては、せっかくの機会を与えていただいたことでもあり、蛮勇を振って、平素考えていることを、このテーマに向って喋らせていただき、ご批判を頂戴する以外に為す術はないと観念い
たしております。まず最初に、私が井上円了に係わる動機と問題意識ならびに研究課題について、若干ふれさせていただきたいと思
43います。 私は東洋大学︵以下本学という︶に学び、卒業と同時に職員として本学に残り、今日に到っております。 勤務当初、大学の職員として生活する以上は、 ﹁大学とはなにか﹂を充分認識している必要があろうかと考えまし
て、一般論と同時に、本学の歴史を調べ、併せて本学の社会的位置付けと役割を考えるなかで、私立学校とその設立
理念との関係の重要性を認識いたしました。設立の理念といえば、本学の場合はその創立者たる井上円了の設立の理念でありますが、これを識るために井上円了の諸著作や井上円了について書かれたいろんな資料にもめぐりあうことに
なりました。その後も、職務の必要からと個人的関心としてのサイドワークとして、細々とではありますが、上述に関連する資
料をあさり、あれこれと考え続けてまいっております。したがって私の場合も、井上円了の研究が課題ではございま
せんで、本研究会への参加も、本学の歴史と組織運営との係わりのなかでの、その方向からの井上円了へのアプロー
チということになろうかと考えております。この辺りのことにつきましては、昭和四十七年十↓月に開催されました
︵1︶ 本学校友会の学祖研究会で、さらにくわしく述べさせてもらっております。 さて、 ﹁井上円了の人間像﹂ですが、井上円了︵以下井上︶が亡くなってからすでに六〇年を経過いたしておりまして、生前の井上を知っている人もほとんどいなくなっている現在、井上の人間像を探る手掛りは文献資料と聞き伝
え資料しかありません。この両者につきましては、この研究会などのご尽力で、これまでにない統一的な資料の収集
と整理がおこなわれ、紹介されていることを知り、心強くも有難く思っております。したがってこれら井上に関する資料から、井上の人間像をスケッチしていく以外に方法はありません。そこでこの
資料をまずおよそつぎのように分けて、みてみることにいたしました。 44⑤④③②①
そして本日は、 が、③∼⑤についてはこれを補備的にして、 的、文学的、 ます。自伝ないしは井上に関する伝記
井上についての人物評論︵紹介記事を含めて︶ 井上自身の著作③に関する他者の著作
その他この分類によって、主として①および②をとりあげ、それも極く限られた範囲のものになります
考えてまいりたいと思います。準備、勉強不足から、報告内容が直観
非実証的なものとなり、お聞きとりにくいのではないかと思いますが、しばらくご容赦をお願いいたし
二、伝記からの考察
一般的に伝記と申しますと、ある人物の生涯のありのままを多角的に記述したものということになりますが、その
対象になります人物は、世に知られた人であり、これが場合によっては悪名高い人のこともあることはご承知のとお
りです。いずれにいたしましても非常に興味深い人間であることは間違いありません。そしてその人の人間性を追求
するということが、伝記の主題であり、対象人物の生涯の行為のありのままを描きながらも、単なる事実の集積を越
えた、一個の人間像を創造するところに伝記の特徴があるものといえましょう。そして、自伝ないし自叙伝と申しますと、自分自身で書いた自分の伝記ということになりますが、井上には自伝は
もとより伝記もつい最近まで一冊もありませんでした。それが昭和四十九年になってはじめて、それも突如として平
45︹2︶ 野威馬雄氏によって書かれました。平野氏は、この時すでに﹁くまくす外伝﹂ ︵昭和四十七年、涛書房︶を著し、こ
れは当時の南方熊楠ブームを支える作品の一つとして評判になりまして、多くの人びとに購読されたといわれており
ます。この平野氏が、なぜ井上の伝記を書かれようとしたのか、いまだにその真意はわかりませんが、この伝記は﹁井上
円了ほどの人が、今日まで一冊の自伝も、伝記ももっていないということは、ちょっと信じられない。﹂ という書き出しではじまっております。たしかに井上の自伝がないことは前にも述べたとおりですが、伝記はこれに近いものが
小冊子のかたちで本学関係者によって書かれております。すなわち、東洋大学甫水会編﹁井上円了博士の人と業績﹂
︵昭和三十二年頃刊︶と柳井正夫編﹁学祖井上円了博士と東洋大学学術の一班﹂ ︵昭和三十四年刊︶などがそうであ ります。そして平野氏はこの伝記を通じ、その多彩な活動から﹁とらえどころのないほどの大人物﹂といわれている井上の
人間性の追求を試みられ、神格化されている﹁悠遠な哲学者、宗教家、大教育家﹂井上を、﹁人間井上円了﹂に格上げ しようと大変なご苦労をされております。 さらに井上の無慮数百冊といわれる著作のなかから、これまであまり注目されていなかった﹁日本周遊夢談﹂や﹁南 半球五万哩﹂から“ユーモアと自由な行動”を、 ﹁改良新案﹂や随筆から”興味つきないもの”を、 ﹁星界想夢﹂から’ひそかに抱いていた社会と体制秩序への風刺と女性観”などというような、これまでに未発見の井上の側面を見
出して、新しい井上円了像を創造されようとしています。しかし、平野氏のこのようなさまざまな努力にもかかわらず、当時の書評に﹁井上円了という完全無欠な人間か
ら、むしろ玉にキズのようなものを発見しようとした平野氏の最初の意図はみごとに失敗している。けれどもその失
46敗を知りぬいていることによって、円了の実像を画くことに成功したともいえるだろう﹂ ︵阿部正路、 ﹁日本読書新 聞﹂、 昭和四十九、九、二十三号︶と述べられたような、なんとも皮肉な伝記となったように思われます。
いずれにいたしましても、平野氏がこの伝記を作成されるにあたっての、私もその取材に協力した一人でもあった
関係で、氏の資料調査が、井上の常識的理解‖﹁井上ほどの人﹂から、前章で述べました第②分類の資料に移り、さ
らに第③、第④の資料に到る過程を見聞しておりましたが、当初の印象も、調査の進行に応じまして、大巾に変った
ように記憶いたしております。 後日、平野氏がある席で、 ﹁井上円了という人はほんとに面白くない人だったねえ﹂と述懐されていたのを覚えております。この感慨はどうも真実のようで、この伝記についで、井上の妖怪研究を追求する姉妹篇を著わすという予
告が、この伝記発刊の折になされておりましたが、現在に到ってもいまだ公にされておりません。以上申し述べましたように、世間一般からはほとんど忘れ去られている井上が、平野氏によって﹁井上ほどの人⋮
⋮﹂という仮説のもとに、伝記という方法論で、その人間性の追求がなされ、はじめて公刊されたわけですが、いく
つかの新しい側面を発見するにとどまって、従来の井上の人間像﹁明治の偉い人﹂という常識を修正するまでには到
らなかったように思われます。これまで長い間、伝記が書かれなかったことと思い合わせますと、やはり井上は偉い
人ではあったが、 ﹁非常に興味深い人﹂ではなかったのではないかとも考えられるのではないでしょうか。三、辞典などからの考察
つぎに、井上の一般的人間像 ます。一般的な人間像ー
﹁明治の偉い人﹂とは、いったいどのようなものなのか、 すこし考えてみたいと思い 47一般の人なり、学生なりが、はじめて井上のことを見聞いたしまして、井上とはどんな人だったのかを知るため
に、調べはじめるといたしますと、まずその手掛りは辞書、それも人名辞典であろうと推察いたしました。そこに記
述されている内容が、ほぼ現在の一般的な井上の人間像を形成しているとみてよいのではないかと考えたわけであり
ます。そこで白山の図書館のレファレンス・ルームにある大きい辞典の﹁井上円了﹂の項を片端しから当ってみましたと
︵3︶
ころ、 ﹁井上円了﹂の項目を掲載している辞典ないし事典とその記述は、つぎのとおりでした。ω 仏教哲学者または哲学者とし、その活動内容についての記述
③②①
⑤④
⑦⑥
⑧ 哲学者。 仏教僧侶の覚醒と東洋学術の復興を唱え、世道啓発の警鐘を掲げた中心人物。 キリスト教を批判、西欧の観念論哲学、エネルギー論などを利用し、仏教に哲学的基礎を与えようとした。 仏教と東洋哲学の啓蒙につとめた。 西洋哲学を背景にして仏教の新解釈を試み多方面に多大な影響。仏教哲学者 哲学の通俗化につとめ、哲学がひとり西欧にあるばかりでなく東洋にもあることを力説、日本
の哲学研究の揺監時代に寄与貢献。 哲学者 仏教哲学に西洋哲学を結びつけて説いた。西欧哲学︵ヘーゲル哲学︶を研究してみて、はじめて自分が幼いころに捨てた仏教の中に真理があることに
気付き、西洋哲学の方法をもって仏教の学説の改良と体系化を図ろうとした。仏教と哲学を結びつけ、キリスト教や唯物論を排撃、哲学の通俗化を試み、出した著書多数。現象即実在論
48︵真理金針︶の考え方はこの種の最もはやいもの。
⑨ 仏教哲学者 仏教はじめ神道、儒教、西洋哲学の研究普及につとめ、政教社を結成し、仏教的国粋主義によ
りキリスト教の排撃に尽力。 ② 著作活動についての記述 ② ﹁仏教活動﹂、﹁破邪新論﹂など遺著百三十余部︽宗教十九、哲学十七、倫理十四、心理二十五︵内妖怪学十 三︶、 国民教育六、時論六、その他四十余︾近来稀有の健筆家。 ③ ﹁東洋哲学﹂創刊、﹁破邪新論﹂など精力的に執筆活動、 ﹁真理金針﹂、﹁宗教教育関係論﹂ ④ ﹁破邪新論﹂、﹁仏教活論﹂、﹁仏教哲学系統論﹂、﹁哲学新案﹂、﹁仏教心理学﹂、﹁仏教理科講義﹂ ⑤ ﹁仏教活論﹂、﹁真理金針﹂など著述百二十二部 ⑦﹁哲学一夕話﹂、﹁仏教活論﹂、﹁妖怪学講義﹂ ⑧ ﹁仏教活論﹂、﹁破唯物論﹂、﹁哲学新論﹂、﹁哲学一夕話﹂、﹁哲学要領﹂など著書百二十冊余。 ⑨著書多く、代表作﹁真理金針﹂、﹁仏教活論﹂③ 学校教育活動について記述
① 哲学館の創立 京北中学校の設立
② 哲学館の設立 京北中学校の創立 京北幼稚園の創立
③ 哲学館の創設
④ 哲学館の創立 京北中学校の経営 京北幼稚園の経営
⑤ 哲学館の創設 仏教哲理を中心とする哲学の教授を行った
49⑥哲学館の創設
⑦哲学館の創立
⑧ 哲学館の創設⑨哲学館の創設
④ ﹁哲学堂﹂についての記述① 国民教育を旨とする精神修養的公園を経営
② 造立の趣旨は精神修養の公園、社会教育の道場、哲学実行の根本中堂、之を個人の有となさず挙げて国家社
会の恩に酬いんとす。④哲学堂を建てた
⑥哲学堂を建設した
⑦哲学堂を創立
⑨ 哲学堂を創設し、釈迦、孔子、ソクラテス、カントの四聖を祭り、哲学の実践道徳化に着手した
⑤ ﹁妖怪学﹂についての記述① 創見は学界の称賛をえる
② 妖怪学の創始者、妖怪学研究会を創始、同学講義録を発刊し独自の学壇を建設、大いに衆愚を啓蒙
④ 迷信排除のため妖怪についての研究を遂げ、妖怪博士の称がある。⑤同時代の迷信に興味をもち、これを集めて分類整理し、合理的解釈を試み、大著﹁妖怪学講義﹂を著す
⑧ 妖怪研究会を組織
50⑨ 妖怪研究会を組織して迷信打破
⑥ ﹁教育家﹂ ︵社会教育活動︶についての記述 ② 半世を通俗社会教育に捧げる︵日本全土、満鮮各地を教化遊歴︶④実際的教育活動に専念
⑤ 教育家⑧ 終始、野にあって特異な活動
⑨ 教育家、終生民間学者として異彩ある活動をなす
m 哲学書院についての記述
① 出版活動を通じ、哲学の普及に努力
以上、九種類の辞典および事典に記載されております﹁井上円了﹂の項の井上に関する記述内容を事項別に分類、それぞれを同類項としてまとめてみたものです。この順序は記述内容の事項の多いものω﹁仏教哲学者または哲学者
とし、その活動内容についての記述﹂から、少ないものm﹁哲学書院についての記述﹂まで、まったく機械的に配列
したものです。これを一覧しますと、ほぼ一般的な井上の人間像が浮かびあがってきていると思います。しかし辞
典、事典の限界でしょうが、ここには井上の気質、性格といった人間性の側面の記述が、どの辞典、事典にもほとん
どといっていいほどみられず、いわゆる﹁面白くない、冷たい人﹂という記述になっておりまして、井上の活動の客
観描写の中から、各自がそれを構想する以外に術はないわけであります。 しかし例外的に②﹁大人名辞典﹂だけが、この点についてつぎのように記述しております。すなわち﹁資性剛健、風貌温乎、堅忍能く之に堪へ不抜能く初志を遂げざれば罷まず、しかも思慮周密、意図常に人の意表を出ず﹂この側
51面については、あとでさらに精しくみることにいたしまして、以上の分析の範囲で井上の人間像をまとめてみますと
つぎのようになると思います。井上は大きく分けて二つの側面をもっています。すなわち仏教哲学ないし哲学の研究者の側面と、この研究成果を
教育・啓蒙家として実践する側面であります。そしてこの両者が相互に密接に結びつき、さらにその対象と活動が広
範なために、非常に規定しにくくしているように思います。この点がまざに伝記を書きづらくしており、つい最近ま
でそれが出なかった原因の一つでありましょう。明治初期に活躍した人間像はおおむね井上のように百科全書的なと
ころがありますが、井上はそのような人間群像の最後を形成する一人ではないでしょうか。したがって、一つの側面だけをみますと、のちに述べますような批判も生まれて、すべてが中途半端でその業績の
底を浅薄なものにしています。これは井上の個性、能力にも起因すると思いますが、大きくは明治の初期という激動
の時代が、社会の潮流が井上のような人材を生産したとみるべきだと考えます。そして前者の研究者としての活動は、前に述べましたω﹁仏教哲学者または哲学者とし、その活動内容についての
記述﹂および②﹁著作活動についての記述﹂のとおりとなり、これに﹁哲学会﹂などの学会を組織する活動が加わっ
て、その内容を構成するといえましょう。 また後者の教育・啓蒙家としての活動は、③﹁学校教育についての記述﹂、 ω﹁哲学堂についての記述﹂、 ⑤﹁妖怪学についての記述﹂、 ⑥﹁教育家︵社会教育活動︶についての記述﹂およびm﹁哲学書院についての記述﹂の諸事
項が、これを構成いたします。この両者を統一する適当な名称、これはまさに井上の人間像を象徴するものですが、大変難かしい問題ですが、私
はこの段階で仮説的に、 ﹁明治の異色啓蒙主義者﹂として提示し、井上の人間像をつぎのように図解しておきたいと 52思います。 井上円了 明治の異色啓蒙主義者
A 仏教哲学︵哲学︶の研究者
a著作活動 b 講演活動
B 教育・啓蒙家
a 学校の設立・経営活動 b
究・宣布、講演巡遊 d
C学会などの組織活動
教育活動 c
著作・出版活動社会教育活動︵哲学堂の設立・経営、妖怪学の研
四、追悼文などからの考察ー個人的な人間像
このような井上の一般的な人間像に対して、井上と直接面識のあった人たちは、井上をどのようにみていたか、こ
れを井上の逝去後、間もなく出た追悼集︵﹁東洋哲学﹂第二十六号、大正八年︶のなかから、選び出してみていきた
いと思います。もちろん故人を追悼する文章であり、談話であるため、井上の功績を称賛するものが、そのほとんど
ではありますが、その行間に井上に対する本音も出ており、意外に井上の実像がつかめるものと思われます。さらにこの作業は、前節でみました井上の客観描写を、気質とか、性格とかをみていくことに重点をおくことによ
って、肉付けすることにもなり、これまでみてきましたように、果して井上が﹁面白くない、冷たい人﹂であるのか、 私も平野威馬雄氏の試行をここでもう一度やってみたいと思います。 ①谷本富︵文学博士︶﹁井上円了君を弔す﹂︵P三三六︶ 53井上の東京大学の後輩、哲学館開設式典に陪席、 ﹁哲学雑誌﹂の初刊以来の会員、山口高等学校を経て、東京高等 師範学校教授、その間本学の非常勤講師も歴任。井上と公私に亘る交際あり、西洋倫理、教育学専攻。
谷本は、その出世にあたって井上からかなりの援助を受け、谷本もまたこの恩顧に応べく井上へ尽力したと自ら述
べているように、長年に亘る交友があったと推察されます。しかし、親しい後輩という立場にありながらも、井上の学術上の業績にはつぎのような厳しい評価を下しておりま
す。 ﹁西洋哲学に関する知識の分量は、何程贔負目を以て之を観るも、嘘にも該博とか豊富とか深遼とか称する事は出来ず。 ﹁西洋哲学特に印度文物に関しても亦禅ながら今日よりしては多く言ふに足るものありとは思い難し。 ﹁当時花形役者として売出しの﹃仏教活論﹂の如きも、自分は逸早く僅に﹁八宗綱要﹄程度の仏学に、スペンサー一流の西洋 哲学を加味して作り上げたるに過ぎずと罵倒せしこともあり。その他扁々たる小冊子続出せられたりしも、敦れも固より多く言 ふに足らず。 ﹁禅宗哲学﹄の如きは只その道の人の物笑たるに過ぎざりし様なり.否梢々後れて学位申請論文として提出せられ たりと云わる、﹃外道哲学﹄の如きも、多年苦心の作とは看受けたれども、然かもこれを木村泰賢氏の﹃六派哲学﹄の近著に対 すれば雲泥の差ありと謂って可ならん。 一、その得意の妖怪哲学の如きも、君が曽て大学在学中始めて手にしたりしカーペンター一流の無意識心理を基とし、その該博 なる見聞と、源々渡々流れて尽きさる底の傾智とを以て妙にこね上げたるものたるに止まり、最近の潜在意識の学説などについ ては禅ながら福来友吉氏などの後進には、三舎も四舎も避けざるを得ざるべし。 ﹁例の破邪顕正にて頻りに基督教の事を笑殺し罵倒したるも所謂高等批評などのことになると多く知らさし様にて、自分が明 治二十七、八年の交﹃哲学雑誌﹂に連載したりし﹃邪蘇教駁議﹄だけのものさえ、終に無かりし。 54なんとも痛烈きわまりない記述ですが、井上の井上たる天分は、このような学術上の業績にあるのではなく、 ﹁事 業の才に富み、好個の実務家たり﹂とみています。 ﹁これに由って哲学を通俗的に普及し、仏教の革新をも事業の上に鼓吹して、哲学会を組識し﹃哲学雑誌﹂を創刊したる外に、 君臼身の業務としては、之を小にしては哲学書院を設けて、斯学の書籍を出版し、之れを大にしては哲学館を開き、東洋大学と 改称して、各詮自称真に日本における東洋学術研究の唯一の私学たる概あり。幾多道俗の英俊を育成して、本邦文化の進歩に貢 献したる偉績は、誰人も容易に企及すべからず。 ﹁勉斗尚ほ奔走尽力、家門を過ぎて入らず、専ら倫理道徳の振粛に意を用ひて、忠誠人を動かさずんば止まさりしは深く深く 敬服に堪へず。 ﹁井上君の功績は、少くも陳勝呉広丈けの事はありと確信して疑はず、井上君の此斯道に於ける盛名は、永く竹吊に伝って鎖 滅せず。 ②三宅雪嶺︵文学博七、本学前教授︶︵P二〇四︶
三宅は﹁政教社﹂の中心的人物であり、井上をかなりよく知っていた一人と思われます。三宅も談話のかたちです
が、谷本同様に井上を批判的にみています。それによると井上は、大学在学中から﹁世馴れ﹂た人であり﹁在学中にも既に哲学館設立に努め、卒業後直ちに
﹃仏教活論﹄の著作に従事し、次いで哲学館を設け、哲学書院を設け、雑誌﹃日本人﹄の発刊に関係した。﹂ そして この時期が井上の最も活躍した時代であるとしております。 しかし、井上のこの活動はいずれも中途半端のかたちで終り、 ﹁仏教活論なり哲学館なりは、社会及び文明を対照とし、而して一身を其の犠牲と迄為るかの観があったが、妖怪学なり哲学 55堂なりに至っては其の意全く消滅したのでは無いにせよ、柳道楽趣味を混じ、個人的にならうとし、年と共に愈其の傾向を強う した。
そして、当初に保持していた諸活動の社会性、客観性は、主観的、独善的、自己中心的になっていったことを指摘
し、その原因を ﹁氏は他に多く類を見る程の才識に富み、勢力に富んで居たが、出発に望んで専ら之を侍み、自ら修養する力を用いなかった 嫌い無しとせぬ。 ﹁氏は何事にも眼が利いたが、兎角過去に標準を置き、而も之に依らんとする性癖があった。 一.此虚︵東洋大学︶を退く時、 ﹃独力経営二十年、喜看校運幾回新、自今退隠成可事、朝汲泉流夕拾薪﹂の﹁絶を賦して知友 に配布して辞任の挨拶をしたが、この﹁独力経営二十年﹄と云う様な語が即ち学校経営者として結構でない。⋮⋮⋮関係者に対 して、柳か思遺りの欠けて居る点がありはせぬか。 ﹁哲学書院と錐、種々の人々の賛成によって開創せられたものである、然るに後全く捨て・省みなかったという有様⋮⋮⋮自 ら顧みる事の重くなったと言ふべきか。 ﹁人は氏の責任の観念に対して疑を挿む、けれども尋常に越えた事業を成し遂げる者は幾分の欠点あるを免かれぬ。 ③村上専精︵文学博士、本学顧問︶﹁円了博士の卦音に接して﹂︵P五四︶﹁円了博士と吾輩との交際は、実に三十有余年間である。尤も近来円了博士は多く地方を巡回し帝都に居らる、こ
との稀なるところよりして、何となく疎遠にな﹂ってはいたようですが。この村上が﹁明教新聞﹂に掲載されていた
論文︵のちの﹁真理金針﹂︶で井上を知り、南条博士を通じて、交際をえ、 ﹁円了其人を敬服して居た﹂と述べています。井上の初期の著作には多くの識者が影響を受けたと云われていますが、これはまさに村上もその一人であった
56ことを明らかにするものです。
その後間もなく、村上は上京の機会をえて、井上と初めて面会するわけですが、その時ちょうど井上は﹁仏教活論
序論﹂の執筆中であり、その時の模様をつぎのように述べています。 ﹁その門戸に﹃仏教活論編集中なれば面会を遮絶す、よし特別の用事なる者と錐も長談は断る﹄という意味の貼紙がしてあっ た、吾輩之を見るや−・⋮胸に釘をうたるるような気がして、何らの談話も交換することが出来ず、倉皇立ち去った⋮⋮。 この部分は、三宅の批判的指摘にも通ずるものがあります。そして井上から受けた影響を、 ﹁識らす知らず、冥々裏に指導せられたことが多い、誘導せられたことが少なくない。そして年令的に先輩である村上は、明治二十年前後の井上のスター的な活躍とその後の活動を暗示するように
﹁帰するところ円了博士は時勢の子である。吾輩もまた時勢の子である。共に時勢の産児なるも円了博士は吾輩に比するに二十ほども前の時勢が産み出した子である﹂と述べておりますが、これも三宅、谷本にみられた井上の後半生
の活動についての疑問と相通ずるものがあるように思えてなりません。 ④井上哲次郎︵文学博士、本学顧問︶﹁井上円了博士﹂︵P=二九︶円了は大学時代に哲次郎の講義を聞いた人であることは、ご承知のとおりです。教えるといっても、晩学の円了と
の年令差はわずかで、後には、師弟の間柄というよりは、同行の士といった関係で、円了については最も理解のある
一人と思われます。両井上に関係の深い﹁哲学雑読﹂ ︵第三八九号︶にも、 ”故文学博士井上円了氏に就て”と題す る追悼文を寄せていますし、ここでみているものもまさにその抄録の感じがいたします。 そして辞典などの記述も、哲次郎の円了観なり評価がその根拠になっているように思われます。 辞典に記述されていないようなものを当該文から抜き出しますと、 57﹁仏教の立場から多くの著作をせられたが、何慮までも尊王愛国の精神で書かれたのである。少くとも仏教と愛国を調和]致 せしめる態度をとられたのである。 ﹁井上円了博士は余程創意に富んでおられた。即ち色々なことを工夫するに勝れてゐられた。一寸他人の思いつかぬことを計 画するというやうなことは功妙であった。哲学堂を建てられたことも其一つである。又中年以降は各地方を広く歴遊して、講演 や揮毫をせられた。揮毫も余程達者になられ、講演も中々上手であった。真面目であるかと思えば随分願をとくやうなことも言 われた。常識に富んだ抜目のない人であった。人は随分博士を奇人のやうに考えてゐるけれども、決して奇人ではなく、ただ奇 妙なことを考え出されることはあったが、普通に云ふ奇人とは選を異にしてゐる。 ⑤棚橋一郎︵郁文館中学校長、前教授︶ ︵P二六﹂一︶
棚橋は、井上の大学在学中からの友人で、哲学館創立にあたっては井上の相談役の一人であったといわれておりま
す。この棚橋が、大学寄宿舎に同栖した頃の想い出として、 ﹁在舎の同人数名吟味に耽りたること有之候ひしが、其際兄所作中の転結に﹃向人不用向前路沙際一條縫跡鮮﹄の名句ありし ことは、小生が今に至るまで忘る、こと能はざる程感吟したる所に有之候が、爾来兄の行年を通観するに⋮⋮⋮兄の施設が悉く 自己一人の創意と決行とに成り他の意志も交へさりしことは、正に此転句の意を実行したる者、而も能く前賢の遺跡に鑑み決して 無謀無算の挙に出でず辿るべき津路を辿りて之を遂行せらしめるは結句の意義を表明して余りある者と申すべく、実に兄の一生 涯程多趣味多方面にして偉大の勢力を発揮し、而も主義の一貫せるは世間稀に見る所と確信、小生の敬服措く能はざる所に有之 候。これはまさに三宅が自己中心的とみていた点でありましょう。同じ友人でありながら、棚橋にとってはこの側面こ
そ敬服の対象だったようであります。棚橋と井上の晩年の交際状況が、いま少し解れば面白いのですが。 58⑥前田蕪雲︵文学博士、前学長、顧問︶︵P九二︶ ﹁井上さんが平常﹃巳れは他方から月給を貰はないで、︸っ人間一生どの位の事業が出来るか試して見よう﹄と云われてゐ た。 ﹁井上さんは金の慾があるようで、無いやうな、無いやうであるような雅俗兼帯といふ面白い性格をもっておられた。 ﹁井上さんは哲学館当時多くの人を頼んだり使ったりしたが、井上さんはそれらの人に対して少しも偏頗がなかった。つまり 毛嫌ひといふことを非常に嫌っておられた。これは井上さんの度量の大きかったことを示して居る一つであらう。 一,哲学館に学び井上さんの感化を受け乍ら実際井上さんの様な仕事をしてゐる人を見受けないが、これは一寸考えると変であ るが、わしはこれは井上さんの時代と今の時代との時代的差異から起ったことなので、つまり形式の上で井上さん採られたそれ と門弟のとったそれと異るといふ丈けなので、本質とか内容とかに於ては別に変った事はあるまいと思ふ。 ⑦中島徳蔵︵教授︶﹁井上円了先生を悲しむ﹂︵P一九四︶
中島は、例の哲学館事件の当事者の一人であることはご承知のとおりでありますが、井上の信奉者としての面目躍
如、井上に対する悪世評をことごとく弁護して反論、本学における井上の神格化のはじまり、その根源がここら辺り
にあるのではないかと推察可能な記述をしております。 ﹁実行に短であるのは住々智者の病とする所である。然るに先生の或る立案を為すや、沈思熟慮の後、一旦其れと算定った以 上は、決然断行して感情に捉らはれず、俗誉に妨げられず、必らずや其の為さんとする所を為に遂げられぬことはなかった。先 生にありては、意は必然智に従い、行は必然意に伴うたのである。余は曽て先生の行動が、一挙手]投足の微も、其の自由意志 の裁下を経ぬらしきを見たことがない。先生の目的遂行に対する故障妨擬とては、少なくとも内面的にはなかったのである。 此の点に於て先生は宛然意識あり、意志ある偉大なる機械であった。 59このような井上の為すことですから、井上の手を下した事業に対する俗世間の評価は当っておらず、失敗の様に見
えるのも、井上の理想が高かったこと、有道有徳の為であると述べています。性格面についてはさらに
﹁平生の風采挙動は、喜怒色に現われずで、冷静はやがて冷澹とも見られたようであるが、其中自ら温厚篤実な愛情を湛えて 居られたことは、最も不時突然の寄信によって知り得ることが出来る。井上は揮毫をよくしたように、便りもよく書いたようですが、この書および便りの研究も、井上の人間性の探究に
欠くことのできないものであると考えます。しかし中島の記述どおりといたしますと、この書画や便り類も、俗人に
とっては”面白くない”もののように思えます。 ﹁先生の情的生活は、一時的爆発的でなくて、徹底的に平静で、深源であった。太平洋の最深所に、千古に澄み渡った水に も、微動はないことはあるまい。飽く迄合理化された先生の感情は、恐らく其微動に似て居たと言えるであろう。是れ故に先生 には絶えて常人に免れぬ女々しさがなかった、また過失もなかった。 ⑧高島米峰︵卒業生︶﹁恩師の面影﹂︵P一一六︶高島は、学生時代から直接井上の指導を受け、井上の私生活をも伺った数少ない弟子の一人であろうと思います
が、それだけにこの追悼文も、これまでみてきたどの記述よりも具体的に、情感豊かに書かれていると思います。こ
の記述はもとより、高島の井上についての評価は、井上の人間像の形成に重要な役割を果しまして、後に出る井上に
関する記述の到るところに引用されています。 それだけに、高島の井上観はもっとも一般的、常識的であると云えましょう。高島は井上の特性として、第一に﹁先見の明﹂を挙げ、次ぎに﹁寛宏の人﹂であったと述べ、第三に﹁理智の人で
あって、感情に激して、盲動するやうな人でな﹂く、決断力も併せもつ人であったといっております。さらに﹁精力
60絶倫の人﹂これは今風に云えば非常にエネルギッシュな人であったということになりましょうか。ついで﹁自ら奉ず
ること頗る倹にして、且つ遜﹂の人であり、 ﹁何時死んでも差支えないだけの用意と覚悟﹂をしていた人と、いかに も直弟子らしく、行間にいささかの欠点をも感じさせない井上観になっております。 高島は﹁現代仏教﹂ ︵昭和八年六月﹁井上先生を想う﹂︶にも精しく記述しておりますが、ここで注目されますの は、井上自から云った言葉として、井上の信仰について紹介していることであります。すなわち、 ﹁終りに余の信仰について一言して置きたい。其の信仰を自白すれば、表面には哲学を信じ、裏面には真宗を信ずるものであ る。人或は信仰に二途あるべからずといふであろうも、余は信仰其の物にも表裏両面があると思ふ、己に我心に智情両面がある が如く、信仰にもやはり此の両面が出来るやうになる、之と同時に其の体は一つであるから、哲学の立て方を裏面より眺むれば 勿ち真宗となりて現はれて来る、もとより真宗に限るという訳ではない。一つの哲学宗が裏面の眺め方によりて、禅宗ともなれ ば浄土宗ともなり、真宗ともなれば日蓮宗ともなる。其の中余は生来の因縁により、幼時に信仰の根底を真宗の地盤に植付けて あるから、我心眼の前には真宗となって現はる、のである。斯る次第なれば禅宗の人は禅宗として眺むるであろう、浄土宗や日 蓮宗の人は皆各眺め方が違ふであろう。 高島は以上の井上の発言に、多くを語っておりませんが、 ﹁先生の信仰は仏教に立脚して居るが、又先生の哲学説 と深い交渉を持ったものであるといふところに、重大な意義を発見しなければならない﹂、﹁先生の学説は仏教と西洋の哲学と調和しようとせられた点に特色を持って居るのであった﹂と述べています。井上の合理主義的な考え方の表
われと思われますが、専門の方のご見解を是非伺いたい点の一つであります。 ⑨島地大等︵教授︶ ﹁井上先生と予﹂ ︵P三三九︶大等は黙雷の養子で前田慧雲の弟子といわれている人ですが、井上の著作から影響を受けた人から井上を知り、人
61を介して井上との面識をえたという点では、村上と相通ずるところがありますが、年代も後であるため、それほど強
烈なものではないように感じられます。 井上の第一印象を﹁意志の人格者であるな﹂と感じたが、親しく交際するようになって、 ﹁何時も感ずることは私の様な後進の者を、誠に優しく御親切になして下されて、マルデ真の友人に対する様な温情の溢る、 態度で何時でも、何処でもお話下されたことである。 井上の先見性、進取性の一例としてつぎのような話をしています。 ﹁仏教を古来の術語を用いること無く完全に現代語にて説き現わすこと、次には有志の学者が毎月一、二回にても相集り、仏教の術語を欧訳すること、及び西洋哲
学に用いられる術語を仏教古来の術語中より成るべく多くその適訳を見出すことの研究が必要である﹂ので、 ﹁不肖 我等にそれを実行せよとのお考えであったが⋮⋮﹂大等もまた井上から便りを受け、痛く感激している一人で、ここでも井上の筆マメな側面、すなわち温厚篤実、温
情深い人が談話されております。 ⑩咲堂隠士﹁井上円了氏﹂ ︵中央公論16−1、明治四十四年︶これまでみたものは、みな東洋大学︵その前身を含めて︶に関係して井上と直接面識のある人たちですが、最後に
匿名ではありますが、井上の生存中の、それもサイドからの井上観という意味で標記をみてみたいと思います。これ
は中央公論誌上に﹁教界の人物﹂という人物評論欄の新連載記事であります。 ﹁真理金針の始て世に出るや文学士井上圓了の名は哲学の名称と共に宗教界殊に地方僧侶界を風動し電撃したり、爾来十五六 年代が漆の如き頭髪は梢く霜意を点したるの今日、氏は夫れ如何なる道途を行歩し居るか、始め地方僧侶か期待せしが如く氏は 仏門の勇将として人目を驚かす程の事業の見るべきなしと、難も、着々として歩一歩社会に於ける地位と声望とを占取せり、学 62者として時に或は投機学者と称せらる、も、其講義は梢々陳腐にして哲学館の学生にすら歓迎せられずと云はる、も、兎に角其 言論文章は一種の意見を発し、尚社会の耳目を打つに足る、其文学博士となりたる、実に論文を提出して得たるもの、嗜矢、学 者として極めて光栄あるものと云はざる可らず。 ﹁然れども氏は学者と云はんより寧ろ事業家と云ふべし、その秒たる一書生を以て哲学館を始めたる、哲学書院を始めたる、 大学出身の学士千有余名殊に文学士の中、その事業的手腕に於て誰か又氏の右に出るものある、哲学書院は今や氏の関係を離 れ、従て大に振はざるか如きも哲学館は基礎梢々固く、都ド私立学校の間に於て己に薪乎たる一角を露はせり、而して是れ率ね 氏が南船北馬地方人士を揺かし寄附金を把握したるの結果なりといふ、誰かその手腕の敏慧に偲服せざるものぞ。 ﹁吾人は氏を事業家なりと称せり、然れども未だ必ず教育家なりと許す能はず、氏は学校を製造するに堪能なれども、人物も 陶冶し人才を作成するに於て果して良工なるや如何、哲学館創立己降己に十有余年を歴たり、人物を輩出せる素より済々として 数ふべし、然れどもその人物なるものは果して氏が鉗鎚を蒙りて出でたるものなりや否や、蓋し氏は人物を酒養するに於て余り に冷かなり、教育者としては火に乏し、涙に乏し、冷水の如く事に当て、能く利害の終始を察するは事業家の事にして、教育家 としては尚別に要するものなからざる可からず、天は人をして二物を私せしめずと称すと云へども此人にして是の如し.抑も亦 惜しむ可きの至りならずや。
以上十人の井上観を人格の形成要素と思われるA学識・能力、B主義・主張、C性格︵性質.気質︶、 D体質、E
容貌、F趣味・趣好に分けて、みてみたいと思います。○印を付した数字は、前述の人を番号で示したものです。
A、学識・能力について
この側面でもっとも注目されるのが、井上の学識は十分認めつつも︵一人は全然これを評価していないが︶、﹁事業 の才に富み、好個の実務家たり﹂①、 ﹁事業的経営の才の秀でて居り﹂②、 ﹁経営の才があったし④、 ﹁学者という 63よりは、事業家と云うべし﹂⑩など、事業家または経営者としての才能を七人が強調していることであります。さ
らに、事業家にもっとも必要な能力と思われる創意性、先見性、決断︵判断︶と実行力、それらを支える常識の豊か
さについて認めるものが、創意性について四人、先見性について三人、決断︵判断︶と実行力について六人おり、常
識︵学識・才識を含む︶に富むが四人など、つぎにみる学者または研究者としての能力評価よりも圧倒的に多いこと
であります。つぎに学者または研究者としての観点をみてみますと、その記述は、あるいはその前提ないしは当然視しているの
かもしれませんが、常識的でしかありません。前にも述べました創意性などの能力は、学者にとっても必要なもので
すが、これらの能力に何が加われば学者といえるのか、これを考察すれば、明らかになるはずです。その第一は専門
性ではないかと考え、これに関する記述を探しましたが、井上の場合どうも明確でないことがわかりました。明治の
初期という時代を考慮に入れても、実践したことが広範でありすぎますし、一貫性、追求性が拡散して、その底を浅
いものにしています。井上の﹁生涯の事業は実に著しいものである。然れども彼の才識及び其の精力とも以てして而
も此辺に止まったことは、或は遺憾とすべきであろう﹂②や、 ﹁少なくとも陳勝呉広丈けの事はありと確信して疑わず﹂①などの評価は、学者としての評価というより、井上の専門性の欠如を指摘することができるかと思います。
さらにもう一点、井上の仕事に付帯する営利性であります。学問、研究をする者の使命は、営利が目的でないこと
は当然ですが、井上の場合は﹁抜け目のない人﹂④、 ﹁目が利く﹂人②といった金銭または営利に関係する話題が多く、井上の仕事が学問研究というより、やはり事業経営の方へ傾斜していることがわかります。逆にこれらを否定す
る記述は全然ありません。 また、この十人の井上についての記述で驚くことは、 ﹁学者﹂という言葉はだいぶ使われておりますが、﹁哲学者﹂、 64﹁仏教哲学者﹂は勿論、これ以外の﹁学者﹂を限定するものも全然出てまいりません。これだけ近い人たちの間に
も、井上の学者としての評価は明確ではなかったということの実証であり、前節でみた常識的な人間像も、﹁A‖B﹂
から、﹁A︿B﹂の人間像に修正する必要があるかも知れません。
B、主義・主張について
この側面に関する記述は、それとみられるものを列挙してもつぎのとおり少ないのですが、考察不足のきらいもあ
り、詳細は後日にゆずりたいと思います。井上の事業は当初、社会性、客観性をもっておりましたが、後年、主観的、独善的、自己中心的なものになってき
たこと。②井上は﹁何事にも眼が利いたが、兎角過去に標準を置き、而も之に依らん﹂としたこと。②
﹁尊王愛国、仏教と愛国を調和一致せしめる態度﹂④
﹁主義の一貫せるは世間稀にみるところ﹂、 すなわち井上の事業はすべて﹁自己一人の創意と決行とに成り他の意 志を交えさりしこと﹂、 および﹁能く前賢の遺跡に鑑み決して無算の挙に出でず辿るべき津路を辿りて之を遂行せら しめる﹂こと。⑤﹁独立不鋸、自尊自重﹂⑦
﹁自ら奉ずるところ頗る倹にして且つ遜﹂、﹁常に死に面して事を処す﹂こと。⑧C、性格︵性質・気質︶について
この側面については、七人それぞれがさまざまな記述をおこなっているが、明確な共通項はありません。しかし、 何人かに共通するものをあえて挙げるとすると、 65﹁喜怒色に現われず﹂⑦、 ﹁合理化された感情﹂⑦は﹁激した盲動なし﹂⑧の﹁冷静﹂⑦な人となりますが、これ が反面において﹁冷淡﹂③に見え、 ﹁想いやりに欠ける﹂②人となって映る人と、 .智・情・意・体が並はずれて調 和的に発達した円満な人格者”⑦、 .温情溢る、態度が何人にも一様な意志堅固な人”⑨、 ”何人に対しても少しの 偏頗のない、度量の大きい人”⑥、 .寛大な人’⑧とに分れます。さらに少人数の意見ではありますが、 ﹁名利の念 きわめてうすく﹂⑧、 ﹁俗誉に妨げられず、必ず其れをなし遂げる﹂⑦人と評価する意見があります一方に、 ﹁責任
の観念がうすい﹂②とするものまであり、井上の観方も、井上の業績の評価と同じように多様であることを裏書きし
ております。D 体質について
この側面は、観察が容易なせいもあって、健康な人という点で一致し、病弱であったとの記事は全然見当らず、﹁精力絶倫﹂⑧⑨の人といった表現でエネルギッシュであった井上を記述しています。外国旅行七回、国内は訪問しない
場所が少ないといわれるまでの巡遊ですから、並の体力の持主ではなかったようです。 ただ井上が明治三十九年、四十九歳で、 ﹁病ヲ得テ私立哲学館大学並二私立京北中学校長ヲ辞ス﹂ ︵東洋大学創立五十年史︶とありますが、井上の体力とその後の行動を考えますと、とても記述どおりにこれを信じることは出来
ず、辞職の本当の事由は別のところにあったと考えるのが順当でしょう。この点は、今後、調査・検討すべき重要事
項と考えております。E、容貌について
この側面については、それが年令とともに変るものであり、限定が必要と思われますが、容貌はその人の性をあら
わすといわれる位ですから、無視はできないと思います。 66ここでは二人が、つぎのように述べております。
﹁服装、所持品などすべて実用にさえなればよいという程度にとどめ、まつどう高く評価しても山奥の村長か、収
入役位にしかふめない﹂⑧風貌で、明治四十四年当時︵五十五歳︶は﹁漆の如き頭髪は梢く霜意を点し﹂といった容
貌で、決して若い時からこの辺りに関心のある人ではなかったようであります。F、趣味・趣好について
囲碁、酒、書は若い時から好きだったようで、学生時代から﹁楽しみは碁を以てし、交際は酒を以てし、名を残す
には書を以てす﹂②という三ケ条を口ぐせのようにいっていたといいます。煙草もまた同様で、一時は三禁と称して
﹁禁酒、禁煙、禁筆﹂⑧を掲げたことも記述されています。そして書については、全国各地に揮毫したものが残って おり、漢詩の素養とともに、 ﹁巧みな方﹂②で、 ﹁揮毫も随分達者になられ﹂④、 ﹁詩に歌に、又た書に、才藻極めて豊富であったこと﹂⑦からも、素人離れの域に達したといわれておりますが、井上の筆まめなことと合せて、第四
部会の研究成果に期待するところ大であります。五、おわりに
長々と述べてまいりましたが、第三節で仮説として掲げました井上の人間像、すなわち﹁仏教哲学︵哲学︶の研究
者﹂というA側面と﹁教育・啓蒙家﹂というB側面が密接不可分に相互関連して、明治の異色啓蒙主義者が形成され
ているという見解が、第四節を経ることによって途中でもちょっと触れましたように、B側面に重点を置くものに修
正を必要とするのではないかと考えはじめております。そしてB側面に重点を置きかえるなかで、その側面自体のなかに、すなわち井上の個人的資質のなかに、それが単
67に井上の人間像を補備する以上の問題が潜んでいるのではないかとの疑問を抱くにいたっております。
この疑問を、これまで述べてきましたなかに若干の問題を提起いたしてきているものと併せ、私の研究テーマに照
応させて考えるとき、つぎの点について、さらに検討をすすめる必要を痛感いたしております。その第一は、何故井上には明確な後継者がいないのかという点であります。この点については、前節で登場願った
人のうち二人が言及いたしておりますが、そのうちの一人は、 ﹁哲学館に学び井上さんの感化を受けながら実際井上さんの様な仕事をしている人を見受けないがこれは一寸考えると変であ るがわしはこれは井ヒさんの時代と今の時代的差異から起ったことなので、つまり形式の上で井上さんの採られたそれと門弟の とったそれと異るといふこと丈なので本質とか内容とかに於ては別に変ったことはあるまいと思ふ。⑥読みとりようによっては、真の感化を受けたかどうか怪しいという主張ですが、井上が教育者であれば、活動分野
が多様であっただけに、ある場合は反面教師的な役割を果して、もっと多彩に人材が輩出してもよいのではないかと
思われます。それがないというのは、単に時代の相違だけでは片づけられない、井上の本質的部分に係る問題がある
のではないでしょうか。他の一人は井上の教育者としての能力を否定して、 ﹁哲学館創立己降己十有余年を歴たり、人物輩出せる素より済々として数うべし、然れどもその人物なるものは果して氏が鉗鎚 を蒙りて出でたるものなりや否や。⑩前者の発言に先立つこと九年前に、このような厳しい批判がなされていたのですが、哲学館の後継者に問題を限定
いたしましても学問的にそれがみられないどころか、経営者としても人材を出しておりません。後の東洋大学の歴史
を辿るとき、井上の責任の重大さを考えざるをえません。井上が後継者の養成に無関心であったと思われる例として
挙げられますのは、井上自身は外国巡遊を七回も重ねておりますが、臼分の教え子を一人も外国に派遣しておらない
68こともその一つであります。当時の他私大は、その多くが後継者の養成を兼ねて、かなりの人材を外国留学させてお
ります。また井上は、東洋大学を辞めるとき、東洋大学の出身者のなかからできるだけはやく学長を選出するようにといい
残したといわれていますが、その具体的な手段を準備したという資料も見当りません。本人自ら、門徒であると宣言
していることは前にも述べましたが、清沢満之とも親しい交際があったことを考え併せるとき、それにしては人間性
の理解が浅薄であり、基本的なところに、重大な欠陥をもっていたのではないかと思われてなりません。その第二が、さきにもちょっと触れております、井上の東洋大学を引退する理由であります。その理由が、当時事
情からして、判然としない。歴史的に、誰れもが納得のいくような理由︵真の理由︶が、なにか外にあるのではない
かと思います。ここら辺りにこれまで、井上の批判論の排除と神格化を生み出す原因があって、井上の正当な評価を
阻害しているのではないでしょうか。これに関連して、私が常に疑問に思っているものに﹁学祖﹂という、創立者井上の冠称の存在があります。この広
辞苑にもない言葉を、哲学を尊重しなければならない学園が、その意味も、由来も理解しえないままに、こぞって日
常的に使用している様は、一歩東洋大学を離れてこれを眺るとき、どのような環境にみえるのか、それが井上の妖怪
研究の対象として耐えうるものを持っているとしたら、大変なことだと考えます。いずれにいたしましても、井上の東洋大学引退の理由は、井上研究に重要な意味をもつだけでなく、東洋大学の歴
史研究にも重要な意義をもっていると考える次第です。 69本稿は、去る昭和五十四年−へ月卜一日、当研究会で同じ標題のもとにリポートしたものを再録、 て加除筆したものである。 ︵一九八一年二月︶ それをさらに整理し 70 ︵1︶ ﹁東洋大学創立者・井上円了研究﹂の必要性と諸問題ー大学運営においてー ︵2︶ ﹁伝円了﹂︵草風社・昭和四十九年七月刊︶ ︵3︶ 本稿作成のために閲覧した辞典および事典名およびその記述 ①大日本人名辞書︵大日本人名辞書刊行会、大正十五年刊︶ 哲学者、安政五年二月新潟県三島郡浦村慈光寺︵東本願寺未︶に生る。明治十八年東大哲学科を卒業し爾来妖怪研究に没頭し その創見は学界に於て称賛を博す、廿九年文学博士の学位を授けられ東洋大学の前身なる哲学館の創立者として自ら同館にて純 正哲学の講義をなし、更に哲学書院を設け斯学の書籍を刊行して哲学の普及に努力せり。借四年高等教育会議員を命ぜられ、後 哲学館に附属せる京北中学を設立し我中等教育に尽さんため欧米を漫遊し升六年帰朝、滑九年哲学館を東洋大学と改称し前田博 士を推して学長とす。肝九年校務を辞して日本全国周遊の途に上り、国民教育を旨として豊多摩郡和田山に哲学堂を興して精神 修養的公園の経営に着手す。大正八年五月支那漫遊の途に上り、六月五日満洲大連東本願寺別院にて講演中脳溢血を発して卒倒 し、翌六日逝く。年六十二。 ②大人名辞典︵平凡社ー昭和三十二年︶ 文学博士。幼名岸丸、甫水と号す。非僧非俗道人、不知歌斉、無芸拙筆居士の別号がある。また四聖堂、不思議庵、妖快窟な どの異号を用ひた。妖怪学の創始者として著はれ、また哲学館即ちのちの東洋大学の設立者として功績長も顕著。安政五年二月 新潟三島郡来迎寺村慈光寺に生る。父は井ヒ圓悟、母は大渓氏。幼時同郡片貝村の石黒忠徳︵のちの男爵忠恵︶に学び、また長 岡藩学に入って英語を修め、十七才にしてその助教授となった。明治十年京都に上って本山教校に学び、まもなく薦奨を受け留
学生として東上、十八年東京大学哲学科を卒業、文学士の称号を授けられた。これより先、明治新政後、欧化の風ヒ下を圧し、 儒佛二教萎微振はず、国基また危からんとするものがあった。圓了夙に之を慨し、率先これが挽回を謀らんと欲し、﹁破邪新論﹂ ﹁佛教活論﹂などを著はして佛教僧侶の覚醒と、東洋学術の復興を首唱し、﹁護国愛理﹂、﹁王法為本﹂を説いて国体聞明の急務 なるを絶叫した。時に加藤弘之、西村茂樹、外山正一らの諸家あり、三宅雄二郎、井上哲次郎らの新進学徒を糾合、﹁哲学会﹂、 ﹁国家学会﹂などを組織して、世道啓発の警鐘を掲げたが、これが中心謀首は当に先生の与かるところであった。越えて二十年 九月、東京本郷区龍岡町麟祥院内に哲学館を開創、勝海舟その他多数諸名士の援助あり、天下の学徒嘉然来聚、のち駒込蓬莱町 に移り、三十年七月更に地をトして新校舎を小石川原町に建てた。これ即ち現今の東洋大学の前身である。これより先、二十一 年一月哲学館講義録を発行して、館外員の研学に資したが、また夙に国民普通教育奨励の要あるを痛感、二十三年教育勅語の降 ドと共に聖旨の宣布にカめ、更に中学講習会を設けてこれが実行に着手し、三十二年に至って京北中学を興し、越えて三十八年 京北幼椎園を創立、翌年一11、病と称して皆その長を辞し、江古田村和田山に哲学堂を建てて此処に退隠、その半世を通俗社会 教育に捧げ、爾後、大正七年に至る満十三年間、遍ねく日本全土及び満鮮各地を教化遊歴、足跡の及ぶ処、五十四市、四百八十 一郡、二千二百六十一町村、講演実に五千五百三席、聴衆百三−﹁八万八千六百七十五人に達したと注せらる。初め先生、大学を 卒業するや、直ちに命を受けて印度哲学の研究に従事、爾後、学事、宗教、教育その他百般の活事業に嫉掌しつつなほ研鎖を棄 てず、遂に﹁仏教哲学系統論﹂を大成して文学博士の学位を受けたが、のち民間の迷信を排除勒絶するの要あるを信じ、妖怪研 究会を創始して独自の学壇を建設、妖怪学講義録を発刊して大いに衆愚の蒙を啓くことに努めた。世人先生を﹁おばけ博士﹂、 ﹁妖怪博士﹂と呼んだのはそのためである。先生資性剛健、風貌温乎、堅忍能く乏に堪へ、不抜能く初志を遂げざれば罷まず、 しかも思慮周密、意図常に人の意表に出づ、和田山の哲学堂、地積一万六千余坪、中央に四聖堂あり稗迦、孔子、ソクラテス、 カントを奉崇して、南無絶対無限尊を本尊とす。その他、皇国殿、六賢台、三学亭、三祖苑、宇宙館、梵天台、水月亭など、み な先生独自の考案に成り、その他、万有林、幽霊梅、理想橋、直覚径、星界洲、造化澗、倫理淵、認識路など総て七十七名勝に 71
及び、一径↓路、一石一樹悉く哲人の理想を具象化したものならざるはない。若しそれ当苑造立の趣旨が、精神修養の公園、社 会教育の道場、哲学実行の根本中堂として、之を個人の有となさず、挙げて国家社会の恩に酬いんとする意に出でたものなるに 至っては、真に敬服に価するものがある。大正八年五月、先生、支那漫遊の途に上り、上海、漢口、北京、天津を過ぎ、営口よ り大連に達し、六月五日夜同地幼稚園にて講演中、病急に発し、翌日遂に逝去、享年六十二。墓は和田山蓮華寺墓地に在り、因 に、先生は実に近来稀有の健筆家で、生前の遺著大小凡そ一百三十余部、うち宗教に関するもの十九部、哲学に関するもの十七 部、倫理に関するもの十四部、心理に関するもの二十五部︵うち妖怪学十三部︶、国民教育六部、時論六部、随筆詩文日記その他 凡そ四十余部、 一々その書目を列記せず。︵井上円了先生行状 同譜略 樹ド︶ ③コンサイス人名辞典︵三省堂−昭和五十一年︶ 明治時代の仏教哲学者。⇔新潟県。⇔幼名は岸丸、号を甫水。㊥︶東大。真宗大谷派の寺に生まれ、一八八六年︵明治十九︶ ﹁真理金針﹂、一八八七年﹁仏教活論序論﹂を刊行して、キリスト教を批判し、西欧の観念論哲学・エネルギー論などを利用して 仏教に哲学的基礎をあたえようとした。 一八九四年雑誌﹁東洋哲学﹂を創刊、一八九九年には﹁破唯物論﹂を刊行するなど精力 的な執筆活動をつづけ、仏教と東洋哲学の啓蒙につとめた。一八八七年にかれが創設した哲学館は、後に東洋大学となる。一九 一九年︵大正八︶中国巡遊中に大連で客死した。 ⑧﹁真理金針﹂一八八六年、 ﹁宗教教育関係論﹂一八九三年。②東洋大学友 会編﹁井上円了先生﹂一九一九。 ④教育人名辞典︵理想社ー昭和三十七年︶ 哲学者。号は甫水、新潟県三島郡浦村慈光寺に生まれ、長岡洋学校、大谷派本願寺教師教授などを経て、一八八五年︵明治十 八︶東大哲学科卒業、 ﹁破邪活論﹂、 ﹁仏教論﹂を刊行し、西洋哲学を背景として仏教の新解釈を試み、仏教界のみならず、あ らゆる方面に多大の影響を与えた。また著作の外に、 一八八七年︵明治二十︶哲学館︵のちの東洋大学︶を創立し、晩年東京 市外和田山︵現在中野区江古田︶に哲学堂を建てた。以後、斯学の発達に努める傍ら京北中学校、幼稚園などを経営して、実際 72
的教育活動に専念し、各地を遊説し、欧米に三回遊学、中国にも渡ったが、その帰途、大連幼稚園で講演中に発病して客死し た。なお迷信排除のために妖怪についての研究を遂げ、妖怪博士の称がある。 ︹著作︺上記のほか﹁仏教哲学系統論﹂、﹁哲学新 案﹂、﹁仏教心理学﹂、﹁仏教理科講義﹂など。 ⑤世界大百科︵平凡社ー昭和四十八年︶ 明治時代の仏教哲学者、教育家。新潟県に生まれる。幼名を岸丸、のち得度︵とくど︶ して円了と改めた。 甫水と号す。長 岡洋学校、東本願寺教師学校、東京大学予備門に学び、一八八五年︵明治十八年︶東京大学文科大学を卒業。一八八七年に東京 本郷麟祥院内に哲学館を創設して仏教哲理を中心とする哲学教授を行った。この哲学館は一八九七年に小石川原町に移転して今 の東洋大学の基をたてた。哲学の通俗化につとめまた哲学がひとり西洋にあるばかりでなく東洋にあることを力説して日本の哲 学研究の揺藍︵ようらん︶時代に寄与貢献した。晩年、和田山に哲学堂を建てた。欧米に遊ぶこと三度、大連において客死し た。著述は一二二部におよび、そのうち︿真理金針﹀︿仏教活論Vなどが知られている。 ︵古田紹欽︶ ⑥ブリタニカ国際大百科事典︵T・B・Sブリタニカー昭和四十九年︶ 安政五年︵一八五八︶二月四日、新潟∼一九一九・六・六 大連 哲学者。↓八八九年に﹁仏教活論序論﹂を著わし、仏教哲学に西洋哲学を結びつけて説いた。また一八八七年に哲学館 ︵東洋大学の前身︶を創設し、一九〇三年には東京中野に哲学堂を建設した。 ⑦社会科学大事典︵鹿島出版ー昭和四十一年︶ 新潟県に、浄土真宗の寺の長男として生まれた。東京大学哲学科を卒業。一八八七年︵明治二十年︶に哲学館︵現在の東洋大 学︶を創立した。数ある著書の中﹁哲学一夕語﹂︵一八八六年︶などは、ようやく内省的傾向の生じた明治中期の青年に好んで読 まれた。 ﹁仏教活論序論﹂ ︵一八八七年︶は、西洋の哲学とくにへーゲルの哲学を研究してみてはじめて、自分が幼いころに捨 てた仏教の中に真理があることに気づいたことを述べて、西洋哲学の方法をもって仏教の学説の改良と体系化を計る。かれはま 73
た同時代の迷信に興味をもち、これを集めて、分類整理し合理的に解釈しようと試みた。その結果が﹁妖怪学講義﹂︵一九一六年︶ という大著である。かれは全国いたるところに出かけていって講演して歩き、満州・朝鮮におよんだ。講演旅行中に大連でなく なった。 ︵鶴見俊輔︶ ⑧哲学辞典︵平凡社ー昭和五十年︶ 越後の真宗の寺に生まれる。東本願寺教師学校に学び、同寺留学生として東大哲学科を一八八五年卒業。一八八七年哲学館 ︵東洋大学︶を創設。 ﹁仏教は基説く所真理に合するのみならず、世の開明を進め、国家の独立を助くるの益あり﹂として仏教 と哲学を結びつけ、オストヴァルトのエネルギー論なども取り入れて、キリスト教や唯物論を排撃した。 ﹁哲学一夕話﹂ ︵一八 八六ー一八八七年︶にみられる現象即実在論の考えは、この種の論の最も早いものである。哲学の通俗化を試みて出した著書は 百二十冊余に及び、 ﹁哲学要領﹂ ︵一八八六ー一八八七年︶、﹁仏教活論﹂ ︵一八八七ー一八九十年︶、﹁破唯物論﹂︵一八九八年︶ ﹁哲学新案﹂ ︵一九〇九年︶などが知られている。一八八八年政教社の結成に参加、一八九一年妖怪研究会を組織。終始、野に あって特異な活動をしてきたが、大連で客死した。 ︹参考文献︺船山信一:明治哲学史研究、ミネルヴァ書房、 一九六五年。 ⑨日本近現代史辞典︵東洋経済新報社ー昭和五L﹁三年︶ 仏教哲学者、教育家。文学博士。越後の慈光寺に生まれる。号は甫水。幼時石黒忠恵に学び、東本願寺の留学生として一八八 五年︵明治十八年︶東大哲学科卒業。一八八七年哲学館︵のちの東洋大学︶を創設。護国愛理を標傍して仏教はじめ神道、儒教、 西洋哲学の研究、普及につとめ、翌年三宅雪嶺、島地黙雷らと政教社を結成、仏教的国粋主義によりキリスト教排撃に尽力し た。一八九一年妖怪学研究会を組織して迷信打破をはかり、 一九〇三年哲学堂を創設、鐸迦、孔子、ソクラテス゜。oζ巴。°。° カ ントH°民①己の四聖を祭り、哲学の実践道徳化に着手するなど、終生民間学者として異彩ある活動をなした。中国漫遊中、大連 で病死。著書多く、代表作、真理金針、仏教活論 参考:開国百年記念文化事業会、明治文化史四 学術編、同六、宗教編、 一九五四年、東洋大学学友会、井上円了先生、 一九一九年︵時野谷勝︶ 74