近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人--穢多
・弾左衛門専管磔刑公役の未刊資料から-2-著者
荒井 貢次郎
雑誌名
東洋法学
巻
17
号
2
ページ
35-71
発行年
1974-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006080/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人ー
iー薇多・弾左衛門専管礫刑公役の未刊資料からーー
荒 井 (二)貢次 郎
目 次 端緒 を ー 碓氷関所・関川関所と関所破りと擬律 日 碓氷関所と横川関所の関係と同一性 とが 口 関所破りの科 國 本件の擬律 2 資料︹文政三年︵一八二〇︶自十一月・至十二月・碓氷・関川の両関所破り仕置一件︵帖・一冊︶︺ ー以上・前号︵第17巻・第1号︶収ー 3 関所破り処刑の比較傍証資料・文献︵東海道仙石原関所・同今切関所・江戸の礫刑など︶ H 東海道・仙石原関所除け・山越え・傑刑の例と行刑役人︹天保十一年︵一八四〇︶の事件︺ 目 東海道・今切関所除け・山越え・礫刑の例と行刑役人︹天保二年︵一八三一︶の事件︺ 日 江戸などの礫仕置と行刑役人 ーー以上・本号︵第∬巻・第2号︶ー 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人ー口 三五東洋法学
三六 3 関所破り処刑の比較傍証資料・文献︵東海道仙石原関所・同今切関所・江戸の礫刑など︶ 前章の碓水・関川関所の両関所破り仕置一件文書を理解するため、この章では.これを補う意味で、比較傍証資料 ・文献について老察を重ねることにした。それで、この章では、諸資料のうち.東海道仙石原関所・同今切関所および 江戸の刑罰史などに関する諸書・古文書などをなるべく原文の形を損わないで正しく理解するため.できる限り原文 体のままで収録した.しかし.古文書については.解読の便をはかつて私なりで、返り点.旬読点などを施した. ラ ∞∞ ・仙石原関所除け・山越え・礫刑の例と行刑役人︹天保十一年︵一八四〇︶の事件︺ ︵ 東海道仙石原関所︵相模国足柄下郡仙石原村︶関係史料のうちで.天保十︸年︵一八四〇︶五月付の﹁仙石原御関 ︵i︶ 所山越一件﹂を次に示そう。 ︵表紙︶天保十一年
仙石原御関所山越一件
庚子五月 ︵A・甲・1︶天保十養子年五月十五日、御関所御要害山越仕候者人別帳御吟昧二付、 ︵法印︶ 生国上野之国勢田郡前橋村・宝印 同国・同郡・同所 生国奥州会津米汲村・宝印 ︵佐久︶ 江戸神田作間町出生・宝印 出生房州・所不二知申一、幼少之節・品川江参居申候、三ヶ年修行 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人⋮口 申口、 ︵祭文︶ 但し さいもん読 年三十四才 活柳 年廿七才 女房 活柳・弟子 ︵本︶ 年廿三才 岩元 但し 参現之下参読 年廿六才 善教 年廿壱才 女房
轡肇才 竜山
三七 ミつの はる東 洋 法 学 三八 ︵捕︶ 右六人之者共.五月十五日御・要害山越候二付.同鷺・御関所様6早速・取方二御出被〆成候由ヲ・早々・村役入江御 沙汰御座候蒲御取方御役人申様方.定御番人・石村五郎左衛門様.御先手・原沢金治郎様・富永啓次郎様、外二当 村6村筒壱人. 御召徒〆四人御出被〆成. 其跡・御関所様江追々・村筒相勤申候処.同月十八日・御厨佐野村江 シ ノダ 泊り誌.夫6廿獲・神山村継一濡.御殿場村昼認メ一蒲御先触参り候得共.小田原6御先手組御間二合兼候故.当村 江嫉 仰付︸村筒不翻残罷出、御殿場村江参り、御取方御役人と同道為識堅ゴ仕参り候.囚人山篭論六挺.此人足拾八 人、外凱雑物持人足共御厨人足皿需当村泓持越.廿鷺七ッ頃.当村 蒲講取.囚人宿・長安寺江御座候.同鷺朝・於晶 ︵心︶ 御関所卵 棚囚人壱人宛御呼出シ御吟味御座候. 同灘・小醗原濤手がね御持参論御同身方御三人御出被冨成.讃璽・編御 取方衆御弐人鱒二村筒九入.其外当村申不“残.宮城野村不ゼ残参り、両村役入立合昼夜番仕候処.同廿一購・小田 原6御物頭・篠窪虎之丞様御馬顧皿御召御出被〆遊候.御先手組小頭様共拾人.御召徒・御伸間拾壱入.〆廿壱人. 暮六ッ時頃・御関所江御入.御関所江御泊り.馬典.翌廿二日四ヅ時・右囚入講取被y遊.御引払二相成申震。 一.湯本村番人弐人.廿一醸参り、そと見廻り為ゼ致申候。 一.御関所候・番士御当番・川添惣之助様.定御番人・石村五郎左衛門様、同・杉田佐右衛門様.御番士・村山清助 様.小田原6御登り.同月廿譲・惣立合誌候・御吟味被〆為〆在候。 一、同日五ッ時頃.御趣法・山口栄三郎様.小田原β御出被〆成、当村・宮城野村両村江手退無〆之様.夫々江御世話被 遊被二成下一候。 ︵A・甲・2︶ 御注進次第
一、仙石原 御関所御要害山越御座候と、五月十五日・御掛様江凱上詣御届ヶ奉命上一候。 一、右之山越六人、廿八日・沼津宿手前二而被一一召捕一候次第、御掛り様江口上二禧御届ヶ奉篇申上一候、十九日に、 ︵A・甲・3︶ 届書之拍 乍〆恐以書付一御届ヶ奉南上一候御事 仙石原 御関所御要害山越仕候囚人六人、内男四人・女弐人、今日昼七ッ時頃・仙石原村江御差置被〆遊、私共両 村江昼夜共、番被二仰付㎜候二付奉財畏、役人共附添、小前之者共代々仕候、此段乍ゲ恐以書付一御届奉二申上一候、以 上。 千石原村 惣役人連印 宮城野村 同 断 小川 共蔵様 男沢茂大夫様 小立 順助様 ︵A・甲・4︶ 御引払之御注進書之掬 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人−口 三九
東洋 法 学 乍〆恐歩書付一御届ヶ奉篇申上一候御事 去ル廿一霞β当村江御差置被〆遊候囚人六人. 書付一御届ヶ奉二申妻候、以上。 天保十養子年五月廿二臓 四〇 今廿二譲四ッ時・御召下リ候二付、村方引払二相成申候、此段乍〆恐以二 仙石原村 役 宮城野村 同 人 連 印 断 小川 共蔵様 男沢茂大夫様 小立 順助様 同月廿八鷺・当村・宮城野村両村惣役人.御目付所江御呼出シ有〆之候難山越え様子御尋被y遊候処.御尋之儀鷲.当 村.喬山越之者共を見附候者無有〆之・御尋、而役人壱人吟味二御座候処、役人共申上候奮、於一当村藩見附候者壱人茂 無二御座一と申上候、然ル処・御関所様6山越之者有〆之候と御沙汰篶よぴ相驚、早速・小前之者相集メ、あやしき儀 見聞、驚よび候哉と申候得共、壱人茂無識御座皿候と申上候.右之通り申上候衡両村・廿九醸・罷帰り申候。
其後・六月十四田・惣役人・当村・宮城野村両村御呼出シ有〆之候処、 此日.口書と相成候、 口書之下書左二附置 申候。 ︵A・甲・5︶ 仙石原村 御吟昧二付、乍〆恐以書付一奉南上一候御事 当村御関所ヲ除キ由越仕候・無宿・活柳外三人拝女共両人、被〆為二召捕一御吟味被〆為〆在候処、温泉筋俳徊仕、去月 十五日御関所七・八町手前6左之方江這入・山越候段・奉二申上一候、膏其節・私共一同怪敷儀見聞およぴ候儀無〆之哉 第一私共守方之儀ハ、兼々・厳重被二仰付一置儀も御座候処、右様之儀出来仕候段、平蔭等閑二相心得居候儀と御察問之 上有躰奉二申上一候様被〆為二仰聞一候。 此儀・去月十五・六日頃は当村稲作仕附最中、得、私共始一同田場江日々罷出居、夫々世話仕、御要害之内見渡り候 処も御座候得共、怪敷儀見受候儀は猶更・一同何之心附候儀も無二御座一候処、御関所様β山越之者御座候二付、罷出候 様御沙汰二付、私共一同相驚キ早速・小前共相集メ追々・相詰、御番士様江相伺、夫々御差図ヲ受、姥子辺ヲ始メ其外 ・御要害之山々無二残所一相尋候得共、 一向相知レ不〆申、 彼是心配仕候内、 同月十八日・沼津手前.誘修験之者四 人.女両人被ゲ為一召捕一候趣二而彼等申口一薮、御関所七・八町手前一蒲沢水二添参り候由、右二付、同所見分仕候得ば、 往環道・字・大窪と申、沢有〆之、右6少々左、一入、木の葉ヲ相敷・相休ミ候様子も相見江、金沢水通り大ヶ獄二相懸リ 姥子江罷出候儀二も可グ有二御座一哉一羅、尚・御沙汰、一寄、夫々・御〆リ薄キ場所等御〆リ筋被二仰付一、尚.小前一同 ・十五日之儀、篤と相尋候処、右様不﹃容易︷儀出来候上者、全ク平黛申談薄ク守方不二行届︸候段、御察問之上者不調法 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人⋮目 四一
東洋法学
至極奉鼠心入一候。 右・御吟味喬.少茂相違不一申上一. 天保十一庚子年六月十四躍 以上。 四こ 仙石原村役
人 御麟付所様 天保十一庚子年六月 仙石原村与頭 嘉兵衛
同 田左衛門同 丈右衛門
同 次郎左衛門 百姓代 清 八小川共蔵様
男沢茂大夫様 右之通口書御掛リ様江茂奉ニ差上候。小立 順助様 以上の資料︵甲類︶により天保十一年︵一八四〇︶五月十五日に、東海道・箱根山の仙石原関所が破られた。 この事件の犯人は、修験者︵法印︶四人と既婚女二入である。いずれも、人別帳による︵資料・甲・第1号︶と無宿 となつている。つまり、生国などは判明しており、かつて人別に登載はあつたが、犯行当時は、人別帳から省ぶかれて いた。上野国︵現・群馬県︶出生・法印・活柳︵諮才︶は、 ﹁祭文語り﹂を兼業している、下層芸能宗教者というこ とになる。上野国出生・活柳の妻・ミつの︵解才︶、奥州・会津︵現・福島県︶出生・活柳の弟子・法印・岩元︵岩本・ 邪才︶は修験専業、法印・善教︵聡才︶は、修験者ではあるが、﹁参現之下参読﹂とあるから活柳の祭文語りのとき曲師 なども担当した芸能の補助者ではなかろうか。善教の妻・はる︵餌才︶は、房州︵現・千葉県︶出生・修験の道は三 年修業している。善教の弟子・竜山︵嶋才︶の計六人である。両部神道修験者は、有髪の宗教者であり、江戸時代の 僧侶が女犯の禁を受けたのに対し、末端修験者は妻帯することも許され、その妻も、祈疇呪術に補助者として参加し ていた。祭文読りは、また﹁でろれん祭文﹂という道もたどり、説教節とも関係している。 山越えの六人は、箱根山を越えて沼津宿に入る手前のところで、五月十八日に召捕られた︵資料・甲・第5号︶。こ の山越えの経路につき、仙石原村役人が、囚人の口述にもとずき.実地検証した結果、事実と認められたので、その ﹁口書﹂を同村与頭・四入、百姓代一連名・印の上、所轄役所役人・三人連記宛名として、提出している。 次いで、宮城野村・仙石原村の両村役入から目付所に提出された天保十一年︵一八四〇︶付の﹁仙石石原御関所御 ︵2︶ 要害山越一件御譜書弁御注進書控﹂の一冊を示そう。 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人−口 四三
東洋 法 学 ︵表紙︶ 四四 天保十一庚子年
仙石原御関所御要害山越一件
御請書升御注進書控
︵A・乙・業︶ 一.御仕置者誇御用 御越被疑成候・御役入中様被黒仰渡一候趣.急度・相守可〆申候御事。 一.右御仕置者晒し有翻之内.火之元等鋼灘入念可〆申候御事。 一.穣多・非入共番致候儀、一候得臼、 ﹂.御道具茂有〆之候儀.羅.随分入二念グ昼夜・御仕置場見廻勢.火之元等迄 心附可〆申候御事。 但.箋火茂有炉之候御事.随分其段可和心得一候御事。 一.穣多・非人共往来之人二対し非分成事申候茂有〆之候鰍.又者夜申杯懇大勢相集メ申候様成儀有〆之候ハ、、急度・相番 可〆申候御事。 右之趣・急度・擁一仰渡㎜候.暮、奉〆畏候.若し異変等有〆之候得ば、当村方役人共ハ勿論、百姓共迄、何分之越度二可二 相成︸哉茂難〆計候二付、其旨・随分相心得.諸事入〆念可〆申候.価証文為一後β.如〆件。 御請書証文之事天保十一年庚子十二月 宮城野村 名主 組頭 同 百姓代 仙石原村 組頭 国 国 国 百姓代
新太郎
五右衛門 権左衛門 又左衛門嘉兵衛
丈右衛門利兵衛
小左衛門 ︵滴︶ 溝 八 御目付様 ︵A・乙・2︶ 乍〆恐以篇書付︸御注進申上候御事 ︵元︶ 数・三日晒相済、則・昨廿八日七ッ時・右死骸・捨札・柱共二非人共取片附井非人番小屋引払相済申候、符、此段・ 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人ー目 四五 一、去ル廿六日・仙石原村江礫御仕置被二仰付一候・無宿・活柳・善教・岩本・竜出、右四人死骸之儀、昨廿八日迄・賃東洋法学
乍y恐以一書付一奉上一候. 天保十一庚子年十二月 以上。 四六 宮城野村名主新太郎
︵以下・同前.略す︶ 仙石原村組頭嘉兵衛
︵以下・同前.略す︶ 御麟付所様 ︵3︶ この資料・乙・第2号によると.公事方御定書・第二十条に擬し、破つた千石原関所において.男囚の無宿・活柳 ・善教・岩元・竜山の四入が.天保十一年︵一八四〇︶十二月二十六賑に.傑刑に処せられている。 そうすると.同じく関所を破った同行の女二入はどうなったか。これを定法に照らすと.これに相当する規定は. ハ墨︶ 公事方御定書・第二十条・但書に. 但.男二被二誘引轍一.山越致・女ハ奴 とあるから.男囚は傑刑に当るが、女囚は﹁奴﹂にされるにとどまる。 礫刑執行後は.死骸は、礫刑用の粧︵罪木︶に結びつけられたままで晒定法に従い.衆入に礫仕置が公開されたと 同じく.引き続き公開刑としての﹁晒﹂が執行される。その間・仕置の場所に仮設されてある非人番小屋に非人は誌め、交替で、晒物見張番を勤めなければならなかった。 この所定の期間が終わる二十八日・七ツ時︵午後四時︶になると、非人たちは、刑死した死骸・捨札・罪木を取り 片ずけ、非人番小屋を引き払い、以上をもって処刑万端が完了し、ここに非人専管の行刑公役は終わる。 そうした処理済みの報告は、箱根山の宮城野村・仙石原村の村方役人によって目付所に宛てて書類で行われる。 この事件の犯入召捕になったとき、定番につくために仙石原村・百姓・茂兵衛が沼津の辺まで出張しているので、 その報償として酒代・三貫文が与えられている。このことについては次の資料がある。 ︵A・乙・3︶ ﹁別紙﹂ 御酒代三貫文 仙石原村 百姓茂兵衛 先般・其村御関所ヲ除ヶ・山越致候・無宿・活柳外五人之者召捕二相成候節、其方儀定番入相附、沼津辺迄罷越、 彼是・骨折候段、大義二候、依〆之御酒代三貫文雛一下置一候。 右・於二地方一申渡。 ︵A・丙︶ ︵仮題︶︵5︶ 仙石原関所関係文書類︵二︶ 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人i口 四七
東洋法学 四八
一・仙石原御関所山越仕候・無宿四人共・従篇御領主様一礫之御仕置禄一仰付一.私共江穣多役被二仰付一候.薇.諸事入〆 念相勤可y申候事。 一.三ッ道具.従二御領主一御鑓御渡被〆為〆遊候.右・御鑓、ぞ御仕置藩相勤可g申候事。 一.御仕置者昼夜之番.私共仕.昼六人・夜八入・番可翻仕候事。 右之遥御仕鷹者・仙石原村・濡晒レ有“之節.私共番仕候内.往来之人、だ対し、鳥麟其外・ねだりヶ間敷儀.仕間敷候 事。 一.往来之人二笠・ 無用可グ仕候事. 一.番仕候内.近在之藏多・非入之場へ寄集参申間敷候事。 一.私共艸非人共御仕置取扱諸事.不手廻り無〆之様可〆仕候事。 ︵差︶ 一.御仕置もの有〆之節溝.其場江罷出可〆申段.御仕置者渤ジ一一罷在候節者.大小さし.鑓為〆持候候も、先例之通り・ 勝手次第可y仕候事。 一.御仕置場前後之仕廻可〆仕候事。 一.御仕置もの・さらしハ凡三鷺晒し、御仕置もの相片付・取払仕廻可〆申候事。 一、簿焚番仕.右・簿真木之儀は、其所御林一爺被〆下候儀・先例御座候事。 一、御仕置者二付.私共江非入共番仕候内.仙石原村・宮城野村御役人申様被二仰付一候趣、相背申間敷候事。 右之通按廊付一候趣、奉〆畏候.少茂相背おゐ天.私共何分之越度一ζ可二仰付一候.為一一後P、りう如〆件。天保十一庚子年十一月 山王原村 御地方様 右之通、私共迄・当村革作共差出申候間、 天保十一庚子年十二月 写書ヲ以恐奉一差上一候、已上。 革作頭 太郎左衛門 同小頭 儀 助 同 儀右衛門 印 印 印 山王原村 名主 惣右衛門 組頭 平 蔵 百姓代 八 蔵 同 与次右衛門 御目付所様 前記資料によると、処刑の穣多役総取締を勤める小田原城外・山王原村の革作頭・太郎左衛門から行刑について遵 守心得方の誓約書を、同人および革作小頭二名連印をもって、居村地方役人に差出している。これを受けた同村名主 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人ー目 四九
東洋法学 五〇
・組頭一人・百姓代二人連記の奥書をして、目付所に差出しているのがこの資料・丙号である。 こうした行刑役の.直接執行は、穣多・非人が当る。礫刑で囚人たちを突き差し.死に至らせる鑓は.領主︵小国 原藩︶から貸与されてるのである。 薇多・非人は.革作頭・太郎左衛門直属支配の輩下たちであって.これらを引率して仙石原刑場に出役する。 仕置者番人は.昼番六入・夜番八入で詰めて当る、晒番で監視串は.公役を誇って往来の庶民に笠・頭串を脱が せ.これをもって庶民を一段下に視るような行為をしないように監督すべきことを革作頭に誓約きせている。また. この公役に就かない近在の穣多・非人をζの晒場に寄むつかせないように心得えさせてい撫。勤番申.往来の庶民に 金晶を乞い・ねだることを禁じさせている。この仕置・晒場には、簿火が焚かれる。この焚木は.官有林木を薪とし て下げ渡きれるのである、 これらの禁止事項は餐をもqて処断されるものとしている。また輩下の違反行為は.革作頭以下小頭の越度とな る。 ︵二︶ 東海道・今切関所除け・山越え・礫刑の例と行刑役人︹天保二年︵一八三一︶の事件︺ ︵6︶ 東海道・今切関所︹遠江国敷知郡︵現・浜名郡・三河・吉田城主︺関係史料により天保二年︵一八三一︶の傑刑事 件を老察してみよう。 関所を破り.囚人申病死・死骸は塩詰の上、礫仕置を受けたのは房州︵現・千葉県︶朝夷郡青木村・百姓・与七 ︵魂才︶である。同人の妻・せい︵2 7才︶は.前節で擬律を示したように.定法に従って奴刑に処せられるべきであるが男に誘引され、 な例である。 ︵B・1︶ 本人磯 ︵7︶ 全く犯意なく関所を破った。 これは特に宥るされて答を受けず数日の入牢で済んだ稀れ 本多近江守宿割給人附中間 当時・房州朝夷郡青木村・百姓 与 七三+二 塩諸一濡御関所近辺需礫二行ふ者也 長崎二而小商ひ致、当時・本多 近江守宿割給人付中間、房州 朝夷郡青木村・百姓・与七・ 病死、右・与七妻 せ い 一早七 此者儀、武家方中間・与七と密通致、母の勘当ヲ受、知ル人方へ立廻り居候内、妊娠致候処、与七儀・長崎表出立 致候二付、此者儀、彼地致一欠落一、豊前国小倉辺二蒲同人二追付候間、御当地へ召連・妻二致呉候様・相歎候二付、順 礼姿二成リ、道申筋・跡より大坂表迄罷越、同所二而同人二落合、同所β同道二而ニタ川宿迄・山道ヲ召連参候問、 右道筋・今切御関所辺需山越致、 一向・不〆存・御当地へ出、猶又・小岩・市川御関所ヲ除候儀と存、是又・不二 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人i口 五一
東洋法学 五二
相弁一舟誌房州へ与七召連罷越候段、女之儀とハ乍ゼ申・右始末不届二付、急度答可命付一処.数繕致二入穿候間、 この資料によれば.武家に申間奉公申の与七と密通し.母から勘当を受けた女・せい・は妊娠の身であつて.男恋 しさの余り、長崎に出立した与七に連絡し.示し合せて.大坂︵現・大阪︶で落ち合い.同伴してニタ川宿まで行 く.この間・山道傳いで.今切関所を除けて山越えしたが.この行為については犯意はなかった。それより武蔵国葛 飾郡小岩と市川にある小岩関所・市川関所︵天領・御料︶を除けることになるにもかかわらず.これもまた.犯意な く舟に乗って与七と同伴にて房州に戻った事件である。両入の犯行が露顕し.入牢となる。与七は牢内で病死したの で塩諦に3れ.今切関所の近辺で礫刑に処せられた。これは公定方御定書・第二十条所定の処分である. 与七の刑執行までの経緯を﹁東海道新居宿書上帳﹂︵自・天保元年.至・弘化二年︶によると.本多近江守宿割給入 二二輪弥十郎の申間・与七は.囚人として入牢申の天保二年正月.老中・青山下野守から江戸町奉行・筒井伊賀守に 対し闇合せがあった。それは.処刑の場所についてである。公事方御定書によれば. ﹁於識其所︸礫﹂と規定きれて ︵7︶ いる。しかし、具体的場所を何処に設定するかは不明である。この件につき江戸町奉行からの上答 ︵B・2︶ 御書面の趣.致承知一.則・松平伊豆守殿江及一郵合∫候処.別紙通・挨拶被講申越一候.然ル上ハ・猶亦・御代官 御糺之上.弥・最寄御仕置場所無〆之候ハ、少々・離候所、蒲茂御取極.絵図面を以被二御申闘候様致度.依〆之・伊豆 守殿江之懸合書・絵図面共、本紙懸篇御目一、御挨拶労・猶・及一一御掛合一候。 ︵正か﹀卯五月
ここに、伊豆守とあるのは、今切関所は、三河・吉田城主・松平伊豆守所管であるからである。 ︵8︶ さらに、勘定奉行・曽我豊後守の意見を徴し、再び・青山下野守に上答している。 ︵B・3︶ 御下札二而御挨拶之趣・承知仕、右之趣・曽我豊後守江及二掛合一候処、 一躰・平岡清三郎御代官所者、今切御関所与者 海上を隔居、御関所地続二御料所無〆之候段申越候、就更実二御関所続二御仕置場所無〆之候ハ・、少々・離候二而茂為一 見立二絵図面ヲ以稼勧聞一候様仕度、左候ハ・、御関所脇江科書捨札相立候様、相伺可〆申与奉ゲ存候、依罪之・豊後 守江之掛合書御廻申、猶・及一懸合一候。 卯正月 筒井伊賀守 かくして、新居関所の最高責任者・松井伊豆守信順、遠三州代官・平岡彦兵衛、勘定奉行・曽我豊後守の意見を聴 き、新居宿の南部の松山村に定められた。 天保二年七月十九澱、新居宿・問屋・飯田武兵衛、庄屋・六郎右衛門、年寄・平六、当番船頭・頭次平の四人は、 新居関所に呼び出され、四月・評定所によつて確定判決のあつた罪人・与七に対する礫刑の執行と海辺の村むらが守 るべき関所法度について厳重な訓令を発している。 ︵9︶ ︵B・4︶ 今度・囚人死骸塩漬之倦、礫御仕置後一仰付一候儀、銘々・及〆承候事二者存〆之候得共、右・御仕置之者、先達而長崎 表6女を連致二外越一、依〆之・御吟昧之上、御関所を破り候二付、右様之趣・相守居候事員有〆之候得共、此以後・格 近世碓氷関所除け山越え科人と行刑役人⋮口 五三
東洋法学 五四
別・御関所御法度向・厳重二守.聯心得違無〆之様、小前之者共江急度・可二申渡一候、万一心得違之者有〆之、難訟捨 置一風聞等有〆之候節ハ.男女二不y限・此度之御仕置同様二被二仰付一候間.此旨・深ク相心得可〆申候、以上。 卯八月 今切御関所 添 書 従 御関所様一御廻状壱通.箱入御渡被財遊候間.御順達申候.墨付汚等無蹉之様・御大切轟被ド成.脳紙・帳面轟庄 量・組頭前書入.御請印被グ成.早々・御巡達.留村孟御返し可騨被賦成候.以上、八月 新居宿問屋
武兵衛 新居町 橋本村初夢 無坂町迄 右・村々 御庄屋申 近藤恒次博士は﹁東海道・新居宿書上帳﹂によって. 八月十五日、塩詰めにした与七の死骸が.御小人目付二名.八丁堀同心二名付添いのもとに、江戸表から新居 宿へ送られて来た。宿所は御用宿当番の泉町太兵衛方である、吉田表からは、立合人として町郡奉行柳本杢之亟、代官久野幸八、町小頭一名、町同心三名、郷同心四名が出張 した。 翌十六日五ッ時︵午前八時︶与七の礫は予不通り執行された。遠州方の番非人六十八名、話計八十八名がこれに 当った。 ︵鎗︶ と、行刑の公役人にたいても述べている。 ︵三︶ 江戸などの礫仕置と行刑役人 ︵イ︶布施弥平治教授の記述 ︵11︶ 布施弥平治教授は﹁日本死刑史﹂ ︵昭和八年刊︶で、江戸の礫刑につき述べている。 礫は罪状によりては引廻しをなすものとなさぬものとありしも三日間だけ晒して処刑を衆人に見せたり。刑場 は鈴ケ森と小塚原及び在所にては犯罪地にて之を行ふ。 この方法は罪人刑場に至れば非人数人にて馬上より下し直ちに罪木の上に仰臥せしめて手足を結びつけ、罪人 の衣服を左右より腰間に至るまで裂き破りて之を左右より胸間にまきていぼ結びにすること三ヶ所胴縄、腰縄を かけて罪人に縛し、手傳非人数人にて罪木を起して地上に立つ、検使即ち同心に命じて罪人の名簿を検査し、弾 左衛門の手代に指揮すれば弾左衛門が突手非人に指揮し非人数人が槍をとりて左右に分れ其中の一人大にさけび 槍鉾を罪人の面前に突き出す。之を見せ槍といふ。その槍をひき了りて右側の一人罪人の脇腹槍鉾肩を貫き、其 鉾の出ること一尺余りに及び、其槍を捻り引き抜き其後は代る代る突きて槍数は大抵三拾筋に至り然る後に止槍 近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人ー昌 五五
東洋法学 五六 とて左右より囚人の咽喉を刺す。 ︵御定書百ヶ条、古事類苑法律部、刑罪書︶ 罪木とは即ち礫柱のことなり。礫になるべき罪人が獄申にて死亡せる場合には主殺し、親殺し.関所破り、重 謀計の四に限り死骸を塩詰として生存者の通り晒し引廻をなして礫をなす。 ︵御定書百ヶ条︶ 例えば文政三年岡崎町忠兵衛店.文蔵召使万蔵なるもの主入の妹きんを殺して自殺したる一件は主殺しの条文に あてはめ死骸を塩詰とし.二日晒.一鷺引廻しの上.鋸挽きの上礫の極刑を施したるが如き生存者と何等差異な かり蓉.右の場合は主人の妹なれども宝暦四年の御首付に ﹁向後主人妻.或は主人江手負候もの御仕置之御定同 様可申付﹂とあるものを適用したるものなむと. ︵御仕置例類集︶ 引廻しの例を同書にみると. 引廻しとは鞍の上へ菰一枚うちかけた馬に囚人を乗せて馬添の非人左右より両人にて縄をとり囚人を動かぎる 様にし︵重罪人は曲録と云ふ木に結付、鞍もしばる︶裏門より出て先払非人五人幟持ち.捨札持ち、手代り共六 人の非入.槍二本.捕道具を持つ者.手代りの者は何れも穣多頭輩下の谷のもの八入にてそれぞれ分担し.四人 の非人が囚人につきそひ宰領は穣多頭弾左衛門輩下の谷のもの二人.宰領小屋頭非人二人にて行列を作り定めら れたる道筋を引廻すものなり。 捨札とは長さ六尺幅一尺五寸の縦板を以て作り.長さ九尺にして二寸角の札串の先につけ囚人の罪状を書した るものなり。 ︵刑罪大秘録︶ ︵口︶石井良助教授の記述
︵12︶ 石井良助教授﹁江戸の刑罰﹂ ︵昭和三九年刊︶は、礫刑にっいて、 関所破りをした者には、その所で礫に処することが﹃御定書﹄に定められている。田畑、家屋敷、家財とも闘 所になるが、引廻は附加する場合としない場合とある︵中略︶ 刑の申渡しから刑場に着くまでの段取りは、火罪の場合と異なるところはない。 科人が刑場に到着すると、下働きの非人六人でこれを馬より下ろし、罪木に仰向けにねかせ、両足を左右の横木 に結びつける。つぎに二人ずつ左右に廻って、高腕を横木に結びつけ、科人の衣類を左右腕の下から腰の下まで切 り破って、胸板のところに左右から巻きつけ、三所ほど縄でいぼ結びにする。これが古くからのやり方であるが、 幕末になると、馬より下ろして丸裸にし、下帯一つで罪木に縛りつけた。女も丸裸にして二布ばかりで縛りつけた。 つぎに胴縄、たすき縄をかけ、手傳人足が十人余づ罪木を起こし、根を穴の申に三尺余埋めこみ、土で周める、 しっかり固まれば、弾左衛の手代が検使の与力に準備が整った旨を報告する。 ただ 検使は同心に命じて囚人の名前を糺させ、弾左衛門の手代に突き掛けるように命じる。すると、下働きの非人 ヤ ヤ ヤ が槍を持ち、左右に分かれて囚人の眼前で槍先を交える。いわゆる、見せ槍である。つぎに科人の顔から二尺ほ ど退いて左右より﹁アリヤ ァリャ﹂と声をかけて見せ槍を引き、ただちに科人の左脇腹から肩先に槍の穂先一 尺余を突き出し、一っひねって槍を抜く。ひねるのは流血が槍の柄に伝わらぬためだという。そのあとは、左右 りんり かわるがわる二十本から三十本ぐらいまで突く。突くたびに、藁で槍の血を拭う。このとき鮮血が淋潤として流 ほとばし れいで、臓騎から食物も逆りでる。これを見ては、いかなる剛胆者も顔色を変じない者はないという。最後に検 近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人−口 五七
東洋法学 五八 使に伺ったうえ、咽喉に左右より﹁止めの槍﹂を突いて終る。 以前、見せ槍は一入が突き出し、脇腹から肩先へ突き抜いたが.幕末では見せ槍は左右から突き出し.囚人の 顔を二尺隔てて合わせ.左の方から﹁アリヤアリャ﹂と声をかけて.科人の左腹から右の脇腹へ突き通し.穂 先の.太刀打まで二尺余も突き出し.一っひねって槍を抜き.右も同様にして二っひねって槍を抜き.その後. 左右よりかわるがわるに声をかけて突くようになった.突槍は弾左衛門方より出すのである。 検使は止めの槍を改めて.晒の儀は例のとおり心得べき旨弾左衛門に申し渡して.退散する.晒はこのままで 三購二夜行われる、番入その他は火罪.獄門の晒と異なるところはない、 存命ならば礫に処せらるべき者が.欝書に押印したのち牢死せるときは.誤、の死骸を塩詰にしておき.本刑を 宣告して礫にする。その手続きはふつうの場合と同じであるが.牢屋より刑場への途中は.桶に入れたまま.首 を表に出して.非人がかついていくのである。 この場合の拾札と引廻につき同書によると. すじかいばし 前記五ヵ所︵日本橋・筋違橋・赤坂御門・両国橋・四谷御門︶に捨札が建てられる。すなわち五ヵ所引廻であ るが.そのほかに・御仕置場にも捨札は建てられるから.合計六ヵ所である。 牢舎から引き出すまでの手続きは.死罪と異なるところはない。牢舎から出すと.牢屋見廻の町与力の所につ れていく。死罪の場合と同じように、検使による判決の申渡しがあり、検使から火罪の検使役である町与力に科 人を引き渡すと.非人人足が取り囲んで裏門から出し.非人たちがこれを抱えて馬に乗せる。
こも 馬へ乗せ方は、鞍の上に菰を一枚打ち掛け、科人が乗ると三筋の縄を取って動かないようにする。馬に縛りつけ さよくろく もっ.﹄、 ることはない。重病人の場合には曲録という木に結びつけ、鞍も縛りつける。乗馬に堪えないときは書でになう。 ︵中略︶ もっとも浅草で処刑なるものは、最終に、遊女の投込寺として有名な浅草の西念寺で休憩するが、ここでは本人 の望みの食物を与え、親戚の人が最後の別れを告げたという。鈴ケ森に行く際も途申に同じようなものがあったで あろう。 なお懐胎女にっいては、寛保二年︵一七四二︶には、礫に代えて獄門を科したが、前記寛政二年︵一七九〇︶ に、死罪の女囚が懐妊しているときは、出産後死罪を申し付けることを定め、同じ法令は、礫についても同様に取 り扱うことにしている。 もつこ さて、以上の記述のうちに春に乗せられることで思い出される俗諺がある。 おだ 煽てと番にや乗りたかあねえ これは、江戸っ子のよくいった言葉であった。今では、ほとんどいわれないであろう。番に乗せられ刑場に行くこと おだ は、死刑の場につれて行かれてしまう、道中の乗りものである。それで、うっかり人の煽てに乗っていい気持でいる と、飛んでもない結果をみるぞという警旬であるわけである。 ︵ハ︶ 礫仕置人足行列についての傍証としての死罪仕置入足行列の例 ︵欝︶ 荒井貢次郎教授の論文﹁甲斐・武蔵国の近世賎民管轄﹂ ︵﹁法制史学の諸問題f布施弥治博士古稀記念論文ー﹂ 近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人ー口 五九
東洋法学 六〇 ・昭和四六年・日本大学法学会刊・収︶に甲斐国の死罪仕置人足行列のことについての記述がある。 明治維新の刑囚取扱いの過渡期に、幕府行刑の名残として地方資料に現われてきた﹁明治三年十一月・死罪御仕置 人足行列名前帳﹂ ︵甲州下谷村小頭連印︶をみると、 先払 組下 弐人 三ツ道具持 組下 三人 囚人 壱人 尻縄取手下 壱人 年番 小頭 伝 蔵 棒突弐人 加番 小頭 市十郎 同断 旧三郎 右警固人足 名前 一 先払 羽織帯刀 忠 平 喜十郎 〆 弐人 一 三ッ道具持 羽織帯刀
一 一 一 〆 囚人
定留治
蔵八郎
三人 甲州都留郡 上野原無宿 安五郎 棒突 羽織帯刀又徳
八平
〆 弐人 羽織帯刀 十手 小頭 傳 蔵同断 市十郎
同断 旧三郎
近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人1⇔ 六一東洋法学
御検使 大佐官 佐藤唐十郎様 両谷村 藤右衛門殿 清左衛門殿 孝 平殿 忠 平殿 郡申惣代 三右衛門殿 代 助殿一太刀取 組下 仙吉
一 介錯 小屋頭代松五郎 一 尻縄取 小屋頭抱 亀 吉 右囚人、下谷村・字・土取場において死罪御仕置被一勧付一候.則・死骸之義潔. 場江取り埋メ.其段.谷村御役所江御届ヶ申上.一同.罷帰り申候。 六二 字・道正堀下迄、私共三人附添.右右之通り少茂相違無二御座一候、 明治三年十一月 以上。 右小頭 傳 蔵 ⑳ 同 市十郎 ㊥ 同 旧三郎 ⑳ 東京 御役所様江 ︵M︶ この場合に行刑役人が羽織帯刀している。これを既出の﹁仙石原関所関係文書類ω﹂によると、 一、御仕置もの有〆之節は、其場江罷出可〆申候、御仕置者計リニ罷在候節は、大小きし、鑓為〆持候儀も先例之通り 勝手次第可〆仕候事。 とあるように、天保十一年︵一八四〇︶十二月二十六日に、礫仕置執行当時までに、既に帯刀の先例が存在したこと になる。 ︵二︶ 高柳金芳氏の記述 ︵1 5︶ 高柳金芳氏﹁江戸時代・非人の生活﹂ ︵昭和四六年一月刊︶に、 礫刑と非人 礫刊は主殺し、親殺しなどの極悪人に科せられた極刑で、必ず前述の引廻しが付加された。それ故、 引廻しの罪人で刑場につくと、下働きの非入六人が囚人を馬から降し、いったん縄を解き地上に横たえた礫桂の 上に仰向けに寝かせ縛りつけた。 近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人ー目 六三
東洋法学 六四
礫柱は罪木︵つみぎ︶ともいい.男子用のものは五寸角︵一説には八寸角ともいう︶の長さ十二尺程の柱に、キ の字形に二木の横木を通した。上の横木を腕木︵うでぎ︶.下の横木を足木︵あしぎ︶といい.いずれも幅三寸. 厚さ二寸.長さ六尺の角材であった。腕木は柱の上から一尺ほどの所に通し.それから二尺ほど下に前方に向かっ て幅三寸.厚さ二寸.長き七寸の腰掛木︵こしかけぎ︶が突き出していた。 腰掛木からさらに九寸ほど下がって.腕木と同じく幅三寸.厚さ二寸.長さ六尺の足木が通っていた、 女子用の礫桂.すなわち罪木は五寸角長さ十二尺の角材に.腕木が一本通り.誰続れから三尺ほど下に直径一尺の 円形の台が前方に突き出していた。この台の上に女の囚人は.足をそろえて立たされたのである。 きて礫柱の上に仰向けに寝かされた男子の囚人は.胸の前でX字型になり.背後は桂と腕木にかけて結ばれる ﹁たすき縄﹂と.腕の辺りで桂に縛りつける﹁腰縄﹂をかけられた。その上.両手は高腕と手首のところで一所ず つ.腕木にしっかりと縛りつけられ.両足は広く用いて足首のところで足木に縛られた。さらに左右の脇から腰縄 までの間の着物を縦に切り裂き.左右から胸の中央に絞り寄せ.これを三所で縛った。こうすると.左右の脇から 腹にかけて肌が露出するようになった。 かくして囚入を縛りつけた礫柱を.非人十人ほどで起こし.柱の下部をかねて掘った穴に埋め.周囲を突き固め た柱を動かねようにした。このさい.柱は地下に三尺四寸埋めるのが定めであった。このため桂の高さは地上八尺 六寸となり、足木の高さは四尺七寸となった。 礫柱の前方十二.三間のところに検視与力が陣笠・野羽織・野袴姿で床几に腰をおろし.その背後に草履取り・槍持・挾箱持ちの若党が控えた。さらにその右に副検視役の与力が同じく若党を従えて位置した。また反対側に は下役の町同心・穣多頭弾左衛門の手代・非人頭・非入小屋頭が並び、谷の者・棒突非人が周囲を固めた、 さて用意が整うと、弾左衛門の手代が検視与力の前に進み出てその旨を報告した。与力は同心に命じて、囚人 の姓名を呼び本人に相違ないことを確認する。ついで検視与力が、弾左衛門の手代に処刑の開始を命じると、手 代の控合図により白衣・股引・脚絆・尻端おり姿の非人六人が縄だすきで進みいで、二人が処刑に当たり四入は えとなった。 礫に用いる槍は非人槍ともいい、弾左衛門方から差し出した穂先の長い特殊な槍であった。すなわち穂先は二 尺五寸から二尺七寸もあり、幅は狭く七分か八分に過ぎず、平三角造りの粗末なものであった。 槍を構えた二人の非人は礫柱の左右に立ち、まず囚人の眼前二尺ほどのところで、二本の槍の穂先をがっちりと 交叉させた。これを﹁見せ槍﹂といい、これがすむと、一人が﹁ありゃ、ありゃ、ありゃ﹂と掛け声もろともに横 腹から肩先にかけてカいっぱい突き上げた。磨きすされた長い穂先は、肩から上へ一尺ほども突き抜けたという。 一入がひと捻りして、さっと引き抜くと、間髪を入れず他の一人が反対から同様に突き上げた。これを繰り返し て左右から三十回も突き上げた。大抵の囚人は﹁見せ槍﹂で気を失い、一突きされると大声をあげて泣き喚き、 多くは二突き、三突きで絶命した。しかし非人はそれに構わず、三十回ほど突くのが仕来りであった。 ︵中略︶ さて絶命したと見るや検視与力の合図により﹁竜睡︵りゅうた︶﹂という三爪または二爪の長は熊手を持った 非人が礫柱に近づき、がっくりと塗った囚人の髪︵もとどり︶に熊手を引っ掛け首を上にむかせた。そして﹁非 近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人ー昌 六五
東鯉洋法学
六六 人槍﹂を持った非人の一人が.囚人の咽喉を右から左上に一槍さし通した。一説には二人の非人が左右から同時 に囚入の咽喉を突くともある。これを﹁止めの槍﹂といった。 かくて礫刑が終わると.その屍体は柱に掛けたまま.捨札幟とともに三日二夜晒して置くことは.獄門と同じ であった。 傑刑の費用については.幟一本銀二匁八分.縦六尺板.釘添木共銀七匁五分二厘.番小屋一ケ所銀四十三匁二 分五厘.藷薪二夜分七十把七匁八分二厘となっていて.礫柱が費用に計上されていない。これはおそらく弾左衛 門の仕事の一つである﹁御仕置物一件御役﹂として.無料で勤めたのであった。 なお.獄門晒の番役などについての記述をみるに. 獄門台から少し離れたところに.莚でおおった番小屋を設け.番人九人が交替で.昼夜番をした。番人は谷の 者六人と非人三入で獄門の期間は三日二晩と定められ.夜は盛んに焚火して守った。 三贋間に晒し首は取り去り定めの場所に埋めたが. ﹁捨札﹂は三十欝間そのまま立てておいた。 これら獄門の用具は.一般の者は嫌って作らなかったので.すべて穣多頭弾左衛門に命じ、その配下が作って 牢屋敷に納めた。これがききに述べた﹁御仕置物一件御役相勤候事﹂の一つである。 この獄門に当時どれ程の費用を要したかというに、沢田撫松氏薯﹁変態刑罰史﹂によれば、六尺の縦板一枚釘 とも銀七匁五分二厘.獄門釘二本︵晒し首を安定させるため台板の裏から釘二本を打ち出した︶銀一匁四分三厘. ﹁かすがい﹂十本銀八匁四分五厘.番小屋一ケ所銀四十三匁二分二厘.簿薪七十把二夜分七匁八分二厘.紙幟代銀一匁、計銀八十匁八分二厘とする。 これらの費用は穣多頭弾左衛門に下げ渡されたが、なお弾左衛門の負担したものに蝋燭十二挺代銀十一匁八分、 醤油樽一個︵夜間に晒し首を蔽したもの︶銀一匁、計十二匁、計十二匁八分があった。 しかも小屋番で三日二晩勤めた谷の者︵穣多︶非人九人に対しては日給も手当もなかった。これがいわゆる﹁御 仕置御役﹂であった。 この記述のうちで、蠣燭の記事があるが、これは、弾左衛門の支配地では、専売権をにぎっていた。 礫刑の死骸は、これらの死骸の、捨てられた後に、それらの行刑役人に、身寄りのものが、頼んで内密で持ち去る ことは困難であったろうが、獄門首の場合は、首だけであるから、案外、容易であったろう。しかし、二十一回猛士 ・吉田寅次郎︵松陰︶の場合の遺骸は、弟子たちが、密かに非人に頼んで、刑場から持ち出し、現在の世田谷区内・ 松陰神社境内に仮埋葬し、きらに、現在の由口県萩市に運んでいったということである。きて、上野国・大戸関所近 辺で、関所破りで礫刑になった国定忠治の死骸を埋めた地には忠治地蔵が立っている。しかし、この遺骸・遺骨をも ち去ったという話は聞かない。 ︵ホ︶斬刑死骸の行方と行刑場の追求 明治元年四月二十五日に、三十五才で斬刑になった近藤勇は、捕われる前に甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道を西に 向って進んだ。この甲陽鎮撫隊の総員数については、諸説があって二月二十六日現在の金銭出入帳には七十人となっ ていた。これは弾左衛門の配下も加わっての数であろうと思われるが、その後、さらに春日隊三十余名その他が加わ 近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人ーー目 六七
東 洋 法 学 六八 って百五.六十名ぐらいだったという。 とにかく.勝沼の柏尾の戦いに敗れ.転じて流山を経て.板橋駅.官軍本営に出頭し.近藤勇であることが見破ら れ捕えられた。 近藤勇が斬に処せられる前後の様子と死骸の行方を今川徳三氏の﹁近藤勇﹂ ︵昭和四八年十月・新入物往来社刊︶ により☆追ひてみよラ、 島田日記は びい ぎお 二十五檬.板橋駅外にて被置害. 公の死に臨む時.顔色平常に異ならず.従容として死に就く。 見る者.流涙して惜しまぎる者なし。 勇.時に三十五才であった。 板橋宿平尾の名主で脇本陣の豊田市右衛門方の一室に.軟禁の形で預けられたが、近藤はここで訊閥きれていた もので.隊士の日記に謹慎を言い渡された.と記されているように.わりと自由な生活であった。 処刑前鷺の二十四鷺になって.石山家に移きれたもので.この石山家の出である石山亀二きんは.現在.神奈川 県相模原市淵野辺に住んでいるが、曽祖父.祖父、父と三代にわたって語り継がれている当時の模様を伝承してお り、墓地が改築された際に.勇の骨を拾った一人でもあるが、石山さんは.豊田家から移されたのは.処刑場が近 かったであろう.といっている。
勇が処刑されたのは、通称馬捨て場といわれた、馬の死体や病馬、時に行き倒れ人なども埋められたところで、 小さな馬頭観世音があり、当時は今の駅前の広場から千川という小川が流れてきて、罵捨て場のふちを通ってい た。その片側は少し低くなっていて、櫟林であったという。 その場所は、今の墓のあるところから二百メートルほど申仙道に寄った辺りだそうで、近藤の処刑はこの櫟林の 中で行なわれ、首は焼酎漬けにして京都に送り、胴体は馬捨て場の一角の穴に埋めた.のだが、夕方になって、急に 本陣からの命令だといって、寿徳寺、石山、豊田両家の者の手で掘り出されて、石山家の庭先に運ばれ、現在地に 埋め直された。これは近藤の関係者に、遺体が持ち去られるのを警戒しての措置であったという。 のちに石山家で菩提寺の寿徳寺の和尚に頼んで戒名を、 勇生院顕光放運居士 とつけてもらって供養し、墓石も建ててやった。いま残っているのがそれであるが、明治の末に同所をそっくり 寿徳寺に寄贈したので、寿徳寺の管理になっているが、永倉が墓石を建立したのも、勇の骨が同所に埋められてい ることを、知っていたからであるという。 昭和四年になって、会津若松家から勢津子姫が秩父宮家に輿入れと決ったことから、近藤の墓が新たに整備され ることになって墓が掘り起されたのだが、首のない胴体だけの骨が出て来て、腐った着物の一部が、骨にからみつ いていたという。 石山さんが、それを確認しているわけで、近藤は首を刎ねられた後、着衣のまま葬られたのである。骨は大きな 近世・碓氷関所除け・山越え科人と行刑役人ー目 六九
東洋法学 七〇 ︵絡︶ 壷に納めて埋め直された。 一般に法規・法慣習では.刑死人の死骸は.正式に葬儀を営み.供養をすることは認められない。近藤勇は斬首き れ.首は、京都の河原で桑首されたが.何者かに盗み去られ.その首の行方は不明となっている。近藤勇の処刑地に ついては.板橋の庚申塚の辺ともなっているが.たまたま.こうした聞き書が出版されたので.刑死体の行方を追っ て不明の点がやや分明瓢なウてき九ので.一応・申間報告とみてここに収録し.今後の研究の手がかむにしたいと思 う娘 注 ︵i︶ 箱根関所研究会編讐東海遠箱根関所史料集土ご ︵昭和欝八年三月・吉川弘文館刊︶・鶏∼八ー四 二頁参照。 ︵2︶ 疑書・四二二ー三頁参照、 ︵3︶、︵鑑︶ 司法省版・石井良助校訂﹁徳川禁令考・後集第一丁巻十こ ︵創文社刊︶二一五頁参照。 ︵5︶ 前揚・箱根関所史料集・四二六⋮七頁参照。 ︵6︶ ﹁天保風説見聞秘録﹂ ︵﹁未刊随筆百種・第九巻し・収︶。近藤恒次コ果海道新贋関所の研究﹂昭和四閥年・五月・橋良 文庫刊︶・二九八頁・引矯。 ︵7︶.︵8︶ ﹁東海道・新居宿書上帳﹂。近藤・前掲書・三〇五頁参照。 ︵9︶ ︵⑳︶ ︵n︶ ︵鴛︶ ︵B︶ 前書・三〇六⋮七頁。 前書・三〇七頁。 布施弥平治﹁日本死刑吏﹂ ︵昭和八年五月・日本書院刑︶・二二九!一四七頁。 石井良助﹁江戸の刑罰﹂ ︵昭和三九年二月・申央公論社刊・申公新書二一三︶・閥九ー五六頁。 荒井貢次郎﹁甲斐・武蔵国の近世賎民管轄﹂ ︵昭和四六年九月・欝本大学法学会﹁法制史学の諸問題⋮布施弥平治博士古
稀記念論文集i﹂・巌南堂書店刊・収︶・一九一−四頁。 ︵蟄︶ ﹁東海道箱根関所史料集二こ・四二七頁。 ︵お︶ 高柳金芳﹁江戸時代・非人の生活﹂ ︵昭和四六年一月・雄山閣刊︶二六二ー六頁。 ︵絡︶ 今川徳三﹁近藤勇﹂ ︵昭和四八年十月・新人物往来社刊︶・二一六二些二頁。 ︹追加参考資料︺ 司法資料・第二七三号・昭和一七年一月・司法省調査課刊・﹁徳川時代裁判事例・続刑事ノ部﹂収録の嘉永 三年︵一八五〇︶十二月十六日・国定町・無宿・忠次郎礫の件︵五八九⋮五九一頁︶。文政三年︵一八二〇︶十二月五日・ 越後国頚城郡高田寺町・曹洞宗妙照寺・祖海、無宿・嘉兵衛・事・五兵衛の両人礫の件︵五七九⋮五八一頁︶。双川喜文﹁江 戸幕府法と裁判からみた関所の本質﹂ ︵日本歴史学会﹁日本歴史﹂・第二七一号・五八⋮六六頁︶。渡辺和敏﹁江戸幕府の 関所制度の確立と機能﹂ ︵﹁臼本歴史﹂・第三〇九号・二八−四四頁︶。 1本稿未完ー 七一