近江商人谷口兵左衛門家の経営
1雇用形態を中心に一
上
村
雅
洋
はしがき 近江商人の雇用形態については、すでに本家外村与左衛門家から文化一〇年︵一八=二︶に分家独立し、江戸・京都等に ︵1︶ 支店を設け、呉服・太物等繊維商品を取り扱った神崎郡五個荘町金堂の外村宇兵衛家をはじめ、仙台等に多くの支店を設 ︵2︶ け、繊維商品・質・醸造等の事業を行なった日野の中井源左衛門家、松前に支店を設け、場所請負で活躍した八幡の西川 ︵4︶ ︵5︶ ︵3︶ 伝右衛門家・岡田弥三右衛門家、江戸に支店を設け、蚊帳・畳表等の商品を取り扱った入幡の西川甚五郎家、高崎に支店 ︵6︶ を設け、呉服・太物・質・鉄血を商った八幡の市田清兵衛家、文化一〇年に神崎郡山本村の稲本利右衛門と蒲生郡市辺村 ︵7︶ の西村重郎兵衛とが共同出資によって創設し、呉服・木綿の販売を行なった稲西屋商店、丁吟と呼ばれ、江戸・京都に支 ︵8︶ 店を設け、繊維商品を取り扱った愛知郡小田刈の小林仁右衛門家などの研究によってある程度明ちかになった。その特徴 としては、近江出身者の雇用と在所登り制度があげられ、それは近江商人のみの特質とは言えず、伊勢商人においても広 く認められた事柄であり、その他の制度についても、いずれも近世から続く商家にとって一般的に見られた現象であり、 ︵9︶ 近世の商家経営にとっては非常に合理的な雇用方法であることが明らかにされてきた。 近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 一近江商人谷口兵左衛門家の経営 二 本稿では、八幡の近江商人である谷口兵左衛門家をとりあげ、奉公人請状の分析に基づく奉公人の供給源の問題だけで なく、在所登り制度・別家制度の実態や奉公人の勤務状況について、単に家訓・店則だけでなく、個々の奉公人の場合や 当主の対応等をとりあげることによって、より生き生きとした近江商人の雇用の実態やその限界も明らかにしょうとした。 また、谷口家の経営における家族・店則・支店・勘定・商圏等の諸側面も必要な限り併せて考えることにした。 ︵1>拙稿﹁近江商人外村宇兵衛家の雇用形態﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第こ三号、一九入九年九月︶。同﹁近世における近江商人外村 宇兵衛家の経営﹂︵滋賀大学﹃彦根論叢﹄第二六二・二六三号、一九八九年一二月︶。同﹁明治期における近江商人外村宇兵衛家の経営﹂︵滋賀大学経 済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第二四号、一九九〇年]二月︶。 ︹2︶原田敏丸﹁徳川時代近江商人の店員組織1日野の豪商中井源左衛門家の場合l﹂︵堀江保蔵編﹃近世日本の経済と社会﹄有斐閣、一九五八年︶。江頭 恒治﹃近江商人中井家の研究﹄︵雄山閣、一九六五年︶。 ︵3︶拙稿﹁近江商人西川伝右衛門家の松前経営﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第一八号、一九八五年一月︶。 ︵4︶拙稿﹁近江商人岡田弥三右衛門家の経営﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第一九号、一九八六年三月︶。 ︵5︶西川四〇〇年社史編纂昇等会編﹃西川四〇〇年史﹄︵同会、一九六六年︶。﹃西川四〇〇年史稿本﹄︵西川産業株式会社、一九六六年︶。 ︵6︶拙稿﹁近江商人市田清兵衛家の経営﹂︵一︶︵二︶︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研究紀要﹄第二一号・第二二号、一九八古年三月・九月︶。 ︵7︶西河太三郎編﹃懐古録﹄︵稲西合名会社、一九二七年︶。 ︵8︶末永国紀﹁近江商人の店貝組織−小林吟右工門家の場合I﹂︵京都産業大学﹃経済経営論叢﹄第一二巻第四号、一九七八年三月︶。同﹁商家奉公人の 給金制度と生活﹂︵京都産業大学﹃経済経営論叢﹄第二一巻第一号、一九八六年六月︶。丁吟史研究会﹃変革期の商人資本1近江商人歯跡の研究1﹄ ︵吉川弘文館、 一九八四年︶。 ︵9︶拙稿﹁近江商人の雇用形態﹂︵安岡重明・藤田貞一郎・石川健次郎編﹃近江商人の経営遺産1その再評価1﹄同文舘、一九九二年︶。 一 谷口家の概略 谷口兵左衛門家については、﹁谷口家の初代は秀次築城の時に入幡へ転居して、商業に従事した。七代目に至りて、仙台 に支店を開き︵宝暦年間︶て大黒屋と称し、綿古着を販売し、九代惣兵衛は弘化年間に大阪に支店を設け、始めは仙台店同
様の商品を商ったが、後には砂糖呉服を取扱ひ、当時は同家の最盛時であった。惣兵衛は書画を善くし、頼三樹との交情 も深く、其他諸芸に達した人である。現今は十三代で九代目の外は皆兵左衛門と称し、入幡では升屋と称す。明治年間に ︵1︶ 仙台、大阪店を閉鎖して、一切商業に関係せず、入幡の素封家として今日に及んで居る。しとあり、他の八幡商人と同じく 秀次の入幡築城にともない、城下に集められ商業を始めたようである。七代目の宝暦年間︵一七五﹁∼ 七六三︶には仙台 に、九代目の弘化年間︵一入四四∼一八四七︶には大坂にそれぞれ支店を設け、綿古着の販売、のちには呉服・砂糖を取扱 い・明治期には仙台夫坂店を閉じた考である・現在残されている谷。家嚢には・同家の概要を覆面す史料は存在 しないのであるが、やや断片的であるが、ここでは雇用関係を除いてその一端を示しておこう。 まず、最初に示すのは、元文五年︵一七四〇︶に死去した四代目の遺言状である。
算四代王
釈政春 元文五年九月廿一日 七十八才往生 最後遺言 其他処置 在中 L 書置覚 聞伝おしえの道を念ずれ者、鳴呼ありし事の南無阿弥陀仏 娑婆の縁づきてかへるなり暇乞、弥陀之浄土に参うれしき 政春︵花押︶仁惣妙
兵兵保
衛衛と
殿殿の
近江商人谷口兵左衛門家の経営 三近江商人谷口兵左衛門家の経営 一銀壱貫目 妙保方へ御渡可被成候 此利足壱ケ月二五匁つ・毎月晦日渡可慰謝候、 ︵享保一七年力﹀ 子四月廿五日 妙保殿 芝之通年兵衛方より踏臼請取富嶽申候 四 政春︵花押︶ ゆつり様 銀弐貫目 京仁兵衛 銀弐貫目 おつき 銀士冒骨貝目 紙屋 士口丘ハ山衛⋮ 右之通ゆつり置申候、我等相果候ハ 元文四年未ノ六月朔日 ︵3︶ 惣四郎殿 ・無相違可被遣候 政春︵花押︶ 最初のものは、四代目が、享保一七年︵一七三二︶四月に妙保へ銀一貫目を譲り、その利息を一か月五匁ずつ谷口家の当 主より支払うという書置であり、もう一つは元文四年六月に子供と思われる仁兵衛とつきに銀二貫目ずつ、紙屋吉兵衛に 銀︼貫目を、自分が亡くなれば譲るように申し渡したものである。実際、この遺言状を書いた一年後に四代目は死亡した のである。嫡男惣兵衛以外に、合計六貫目を妙保・仁兵衛・つき・吉兵衛へ当時譲ったことになり、谷口家の資産額の一 端がうかがえる。 次に、谷口家の家族構成がどのようなものであったのか、天保一四年︵一八四三︶の時点で見てみよう。
︵4︶ 天保十四癸卯年壬九月人別御改之節言上候写 是ハ去る五ケ年以前天保一廻年縁付仕候処、其後離縁仕引取申候軒付、早々御願可奉申上候間、 何卒宗門帳へ御組入被成下置候様奉願上候 是ハのふ文輔方へ妻二参居候内出生仕候処、右一子共不縁仕候二半、何卒宗門帳へ御組入被成下 候様寸土上候 是ハ三ケ年以前天保十二丑九月、京都四条通御旅町一文字屋新七妹妻二聡慧筈二藍、内縁取耳芝内 出生仕候一子二御座候処、右妻二可曲者離縁仕一子此方へ引取申沼間、何卒宗門帳江御組入被成下 置候至急願上候 是ハ多羅尾久左衛門様御支配所野洲郡富波村光円寺娘当卯入月召抱申候 近江商人谷口兵左衛門家の経営 升屋 惣兵衛 当卯四十三 娘 つる 同九才 厄介 治兵衛 同六拾五 同養子 弥兵衛 同三十六 治兵衛孫 菊蔵 同四才 妹 のふ 同四十才 のふ娘 さた 同三才 惇 静二 同弐才 〆 下女 きよ 廿才 五
近江商人谷口兵左衛門家の経営 ︵ママ︶ 是ハ伊井掃舟守様御領分愛知郡愛知川宿岩二郎娘当面閏九月召抱前景 ︵ハ脱力︶ 是伊井掃部守旧御領分神崎郡本庄村助二郎惇去寅入月召抱申候 是ハ三枝宗四郎様御知行所野洲郡中村常八娘去寅十二月召抱申候 六 同 まつ 十七才 下男 己之助 同十一才 乳母 なか 同廿四オ 合十二人 その家族構成は、複雑で、当主の四三歳になる昇兵衛を筆頭に、娘つる︵九歳︶、﹁厄介﹂として叔父と思われる治兵衛︵六 五歳︶、養子弥兵衛︵三六歳︶、治兵衛の孫菊蔵︵四歳︶、離縁となり戻ってきた妹のぶ︵四〇歳︶とその娘さた︵三歳︶、離縁 した妻との間の惇静二︵二歳︶、そして下女のきよ︵二〇歳︶とまつ︵一七歳︶、下男の己之助︵一一歳︶、乳母のなか︵二四歳︶ の合計一二人からなっている。妻には、京都四条通御旅町の一文字屋新七の妹がなるはずであり、京都商人との結びつき をもっていた。下女・下男・乳母は、それぞれ近江国野洲郡無難村、愛知郡愛知川宿、神崎郡本庄村、野洲郡中村の出身 で、いずれもほぼ一年以内に召し抱えられた者である。 次に、仙台店の屋敷売券を見ることによって、仙台での谷口家の足跡を垣間見てみよう。まず、最初に仙台で店を構え た時期の屋敷売券を示そう。
講兵左衛門屋鋪売券状勲L
屋鋪売券状之事 大町壱丁目北側中村屋善四郎半軒屋鋪表長屋井有事家蔵共二裏戸御町並弐拾五間、右家蔵相入、金壱分判六百切口永代売渡 申所実正二御座候、右屋敷二付上意拝借金井御請負之口入等に茂相立不善候、尤何方翠霞書入等号仕再々6構無御座候、若右 屋敷二付何方6如何様之儀申来皿眼、御手前江御苦労相掛不中売親旧証人罷出、急度塒明可申出、為後日之売券状傍如件
宝暦拾三年+月 霰士早月屋善四郎㊥
同売人証人 北村屋喜兵衛㊥ 右之通承届申候、勿論右屋敷二付五人組加判二而何方へも書入早早御座候、三型如斯御座候、以上 五人組 三浦屋平三郎㊥ 同 中村屋安兵衛㊥ 同 三浦屋入兵衛㊥ 同東隣 木地屋茂兵衛㊥ 同西隣 吉田屋幸之助㊥ 同 吉田屋幸之助㊥ 升屋兵左衛門殿 右之通承届申処相違無御座候、以上 同年同日 米川十右衛門㊥元善︵花押︶ 升屋兵左衛門殿 近江商人谷口兵左衛門家の経営 七近江商人谷口兵左衛門家の経営 入 これにより谷口家は、中村屋善四郎から仙台の豪商が建ち並ぶ大町一丁目の屋敷を六〇〇両で手に入れたことが明らか になる。この屋敷には、蔵までつけられており、ここで商業を営むのに適していたようである。したがって、宝暦=二年 (一 オ六三︶頃には遅くとも、谷口家は仙台に本拠をもって活躍していたことが確認できる。 その後も仙台の大町で屋敷を買い集め、店経営を拡張していったようであり、寛政三年︵一七九︸︶七月には、﹁大町二 ︵6︶ 丁目北側渡辺屋弥兵衛半価屋敷表長屋表口三間表口四間組行御町並弐拾五間、金壱歩判三拾入切﹂とあるように、大町二 丁目の屋敷を渡辺屋弥兵衛から三入両で手に入れ、また文化元年︵一入〇四︶一〇月には、﹁大町壱丁目北側木地屋茂兵衛 ︵7︶ 壱軒屋鋪、此度同町升屋兵左衛門方江壱歩判金千五百弐拾切二永代売渡シ申候﹂とあるように、大町一丁目の屋敷を木地屋 茂兵衛から一五二〇両で手に入れていった。文化元年に入手した屋敷は、前述した宝暦一三年半﹁屋鋪売券状﹂と同じく 大町一丁目北側にあり、しかもその東隣にある木地屋茂兵衛の屋敷であり、これにより谷口家は大町一丁目に少なくとも 一軒半続きの屋敷を構えたことになる。しかも、文化元年の屋敷には、五人組として近江国蒲生郡日野の著名な近江商人 ︵8︶ である中井源左衛門家の仙台店名﹁中井新三郎﹂の署名捺印が見られ、谷口家は中井家と軒を並べて営業していたことが わかる。 谷口家は、しだいにその勢力を広げ、中井家とともに仙台城下の有力商人となっていったようで、天保七年︵一入三六︶ 一二月には、中井正次兵衛・岩井八兵衛・小谷庄三郎・谷口惣兵衛の宗匠で仙台藩に対し一万両を調達しており、その割 当は中井家四〇〇〇両・岩井家四〇〇〇両・小谷家一〇〇〇両・谷口選一〇〇〇両であり、その表向き出金先として五〇 〇〇両は﹁尾州様蝋型替金之内拝借﹂、三〇〇〇両は﹁円満院宮様御物成型代金之内拝借﹂、二〇〇〇両は﹁四人手元二而来 酉ノ六月並為替取組﹂としている。返済金はその割合で受け取り、損金の場合にもその割合に応じて分担し、不返済の時 ︵9V の訴訟費用もその割合で分担することを取り決め、中井家・岩井家の連名による谷口家宛の枝証文も発行している。
︵10V さらに、安政二年︵一入五五︶九月の﹁枝手形﹂にも、﹁奥州仙台城下洗野屋新三郎外弐拾六人江尾二様為御替金之内金壱 万弐千両御取組二相富岳﹂とあり、同様に一万二〇〇〇両が調達されており、中井家から谷口家宛の九〇〇両の枝手形が ︵11︶ 残されている。ほかに仙台藩だけでなく、鯖江藩にも近江国八幡の近江商人岡田小八郎家を通じて尾州名目金を嘉永七年 (一 ェ五四︶五月と安政二年二八五五︶]一月に、それぞれ一〇〇〇両と二〇〇両を調達しており、岡田小八郎家から谷 ︵12︶ 口家への枝手形が残されている。これら以外にもさまざまな領主への調達金・御用金・冥加金などの証文が断片的ではあ るが、残存する。 谷口家の経営の推移が明らかになる史料としては、三冊の帳簿が現存する。その三冊を示すと、嘉永二年正月の﹁大平 ︵13︶ 用帳﹂は、表紙に﹁従嘉永二年三酉正月吉辰﹂﹁至明治三年庚午正月吉辰﹂とあり、嘉永二年︵一八四九︶から明治三年︵一 ︵14︶ 八七〇︶にいたる二二年間の本家の算用帳である。安政六年正月の﹁店帝大算用帳﹂は、表紙に﹁従安政六年己未正月﹂﹁至 明治五年壬申正月﹂とあり、安政六年︵一八五九︶から明治五年︵一八七二︶までの一四年間の仙台店の算用帳である。文 ︹15︶ 久元年七月目﹁坂店大算用勘定目録﹂は、同じく表紙に﹁従文久元年辛酉七月吉辰﹂﹁至明治七年甲戌九月吉日﹂と記さ れ、文久元年︵一八六一︶年から明治七年︵一八七四︶までの一四年間の大坂店の算用帳と勘定目録とを併記したものであ る。これら三冊の本家・仙台店・大坂店の算用帳によって幕末から明治初年にいたる谷口家の経営動向の一端が明らかに なる。 そこで、これらの算用帳からそれぞれの資産と勘定目録から大坂店の利益を示したのが、第1表である。ただし、ここ に示した資産は、負債等を差し引いた期末純資産ではない。したがって、前年の資産と当年の資産の差額がそのまま当年 の利益額とはならない。とはいえ、全般的な谷口家の資産動向を把握するのには余り支障がないであろう。まず、本家の 資産動向を見てみると、嘉永二年には一万二〇〇〇両余であり、それが、嘉永五年には二万三〇〇〇両にまで増加したが、 近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 九
・大坂店の資産動向 大坂店資産 8128両 1朱・ 12946両 2朱・ 12618両 ・ 5181両2分3朱・ 30428両 ・ 28245両1分2朱・ 29549両2分3朱・ 18356両1分2朱・ 27038両1分1朱・ 47397両2分1朱・ 45418両3分2朱・ 16567両2分 ・ 53413両3分 ・ 46228両 ・ 19匁8分4厘・ 14貫797匁2分5厘・ 52貫178匁8分1厘・ 29貫459匁9分 ・ 11貫121匁1分3厘・ 22貫385匁1分2厘・ 73貫840匁7分5厘・ 94貫274匁6分1厘・ 18貫161匁7分7厘・ 18貫161匁7分7厘・ 18貫161匁7分7厘・ 30銭 ・ 50銭 ・ 320銭 ・ 57貫804文 155貫233文 413貫425文 332貫476文 282:貫124文 194貫820文 172貫924文 658貫377文 953貫480文 1814貫457文 1588貫241文 700貫974文 710貫150文 537貫832文 大坂店利益 △△
A
A
△△△△ 53両3分・14匁7分6厘 199両1分・ 9分8厘 100両2分・9匁5分2厘 78両 ・8匁2分 8両 ・ 9厘 5両2分・4匁5分2厘 302両3分・1匁1分 3093両2分・20匁8分7厘 492両2分・2匁8分7厘 1570両 ・17匁5分7厘 1401両 ・3匁4分 2443両3分・15匁1分1厘 2099両1分・16匁2分8厘 3136両 ・ 6分4厘 近江商人谷口兵左衛門家の経営 定目録」(滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口兵左衛門古文書)より作成。 一〇 安政期には二万両を割る状態となった。しか し、文久から明治期にかけては五万両を越え る年も見られるようになった。なかには三万 両を切る年もあるが、明治三年には入万一〇 〇〇両余にまで達した。仙台店の資産動向は 安政六年には三万六〇〇〇両余であったが、 その後明治元年の九万七〇〇〇一一に至るま で順調に増加した。しかし、明治元年以降減 少し、明治五年には四万三〇〇〇両余にまで 落ち込んでいる。大坂店の資産動向は、文久 元年には八○○○両余であったが、元治元年 の五〇〇〇両余という落ち込みが見られるも のの、その後は明治元年の一万八○○○両余 と同五年の一万六〇〇〇両余を除けば、ほぼ 三∼五万両で推移し、明治六年には五万三〇 〇〇両余にまで達している。以上は資産の動 向を見てきたのであるが、大坂店については 勘定目録が併記されており、利益額が明らか第1表本家・仙台店
近江商人谷口兵左衛門家の経営 年代23456元23456元元23元元23元234567
永 政 延久 治応 治
嘉 安 万文 元慶 明 本家資産 12215両1分2朱・432匁8分1厘・106貫247文 15055両2分 ・336匁 2厘・130貫950文 20363両2分 ・355匁6分6厘・154貫860文 23604両 ・475匁7分7厘・151貫142文 22938両3分2朱・563匁5分6厘・168貫353文 19786両2分 ・510匁1分1厘・183貫814文 13760両1分2朱・441匁6分4厘・201貫857文 19809両2分 ・468匁6分 ・275貫219文 15133両 ・334匁9分7厘・251貫865文 20412両 1朱・220匁4分4厘・151貫231文 25115両2分2朱・474匁1分9厘・129貫919文 19692両3分1朱・461匁3分1厘・194貫242文 32142両3分 ・388匁7分3厘・216貫183文 50338両1分1朱・307匁8分5厘・194貫729文 28824両1分3朱・253匁5分3厘・285貫81文 35258両1分2朱・359匁9分4厘・227貫614文 31497両1分3朱・358匁2分6厘・262貫286文 53964両2分2朱・618匁4分3厘・529貫429文 54657両1分 ・242匁4分5厘・454貫292文 60997両3分2朱・220匁1分4厘・486貫875文 29502両 2朱・272匁6分 ・1008貫81文 81896両2分2朱・126匁2分9厘・746貫201文 仙台店資産 36242両1分1朱・ 25571両1分 ・ 41261両 3朱・ 44048両3分1朱・ 46371両3分2朱・ 52542両2分1朱・ 56192両3分2朱・ 68383両2分2朱・ 77842両 1朱・ 97035両 3朱・ 77024両2分3朱・ 76468両3分3朱・ 702貫146文 414貫264文 696貫471文 889貫435文 2366貫318文 3976貫988文 3042貫700文 1111貫216文 3127貫570文 11184貫599文 32078貫171文 69213貫781文 63666両1分2朱・130035貫187文 43703両1分 ・131205貫467文 (注)嘉永2年正月「大算用帳」・安政6月正月「店方略算用」・文久元年7月「坂店大算用勘 金札・銀札表示で区別されている場合もそれぞれ金・銀に合算した。 空欄は不明分を示す。△は損失を示す。 仙 一 台 一 店 の 得 意 先 を 示 し た の になる。そこで、同じく第1表によって大坂 店の利益額を見ると、明治三年の一五〇〇有 余の利益を除けば、いずれの年も五〇〇両以 下の利益額であり、しかも一四年のうち過半 数にあたる八年間が欠損を計上している。特 に、明治四年以降は連年一〇〇〇両以上の欠 損を出しており、明治期に入っての谷口家の 店経営の困難さを象徴している。また、資産 規模で支店を比較すると、大坂店は仙台店の 半分程度の規模であったことがわかる。した がって、谷口家の経営基盤の中心は仙台店に あったことが理解できよう。 それでは、谷口家がどのような地域・取引 相手を対象に営業を行っていたのか、仙台店 の得意先が明らかになるので、次に示してお こう。 慶応三年二二六七︶の﹁御得意名前印日 ︵16︶ 下恵﹂によって、仙台店の得意先を示したの近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 一二 第2表 慶応3年谷口家得意先分布 区分 地域(軒数) 奥方(65) 吉岡1、古川2、荒谷1、三本木1、若柳3、金沢5、涌津1、 毎゚3、一ノ関9、水沢10、山ノ梅2、岩谷堂8、金ケ崎1、金 ャ1、岩ケ崎6、岩出山1、大林1、中新田5、田尻1、小牛田 P、一ノ関2 浜方(45) 小野2、柳津1、清水川2、気仙沼8、小泉1、高田7、今泉1、 キり4、津谷3、狼川原2、登米1、涌谷6、矢本1、石之巻4、 槙?Q 南方(3) 岩沼2、丸森1 合計 (113) (註)慶応3年「御得意名前印日下恵」(滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口家文書) 成。 より作 が第2表である。得意先は、奥方・浜方・南方に区分されており、奥方はやや内 陸部、浜方は海岸部寄り、南方は仙台より南の地域を示し、いずれも現在の岩手 県南部と宮城県北部を中心とした地域であった。一=二軒の得意先の内訳は、奥 方六五軒・浜方四五軒・南方三軒で、街道に沿った奥方・浜方が得意先の中心を なしており、仙台より北部地域が谷口家の商圏であったことがわかる。特に得意 先が集中しているのは、奥方の水沢︵現岩手県水沢市︶の一〇軒・一ノ関︵現岩手 県一関市︶の九軒・岩谷堂︵現岩手県江刺市︶の入軒・岩ケ崎︵現宮城県栗駒町︶の 六軒・金沢︵現岩手県大槌町︶の五軒・中新田︵現宮城県中新田町︶の五軒、浜方の 気仙沼︵現宮城県気仙沼市︶の八軒・高田︵現宮城県大和町︶の七軒・涌谷︵現宮城 県涌谷町︶の六軒・盛り︵現岩手県大船渡市︶の四軒・石之巻︵現宮城県石巻市︶の 四軒であった。 ︵1︶滋賀県経済協会編﹃近江商人事蹟写真帖﹄︵同会、一九三〇年︶。また、菅野和太郎﹃近江商人 の研究﹄︵有斐閣、一九四一年︶の口絵説明、宮本又次﹃近世商人意識の研究﹄︵有斐閣、一九四 一年、二三〇∼二三一頁︶のち﹃宮本又次著作集﹄第二巻︹講談社、一九七七年、二三三頁︶に も、谷口家の記述があるが、いずれも﹃近江商人事蹟写真帖﹄の説明を踏襲している。さらに、 江南良三氏は、﹃近江八幡人物伝﹄︵近江八幡郷土史会、一九八一年︶の中で、谷口惣兵衛につい て、﹁宝暦年間︵一七五一∼︶奥州仙台大町一丁目に出店したのは七代惣兵衛である。徳川時代 この辺りは仙台の最豪商街で大店が櫛比していた。屋号は始め堤屋と称したが後に大黒屋と改 めた。店印を角大といい綿、古着等の卸商を営んだ。軍勢は次第に盛業に向い、仙台藩融通組二 十人衆の一人に数えられ、その後安政初年︵一八五四︶には御用達十人衆の列に加わり、同元年 には仙台藩御用金調達に際して五百両を出資して第四位に位している。仙台の谷口別家には、棒
大、カネ大、地紙大の三家があり、棒大は大町三丁目にあって木綿を商い︵のち質屋を営む︶カネ大は同三丁目で繰綿を、地紙大は同二丁目に木綿 を商っていたが、今はあとの両家は没落して浸った。︵中略︶同家の出店は明治十八年頃閉店し、そのあとは藤崎︵エビスヤ︶に買収された。八幡の 本家はいつの時代からか兵左衛門を名乗り、その宅は為心町上にあった。﹂︹一六四頁︶と述べられている。 ︵2︶現在、谷口家文書は、真崎文庫として滋賀大学経済学部附属史料館に保管されており、本稿もそれに基づいて作成したものであるが、前掲﹃近江商 人事蹟写真帖﹄に掲載されている文政五年の﹁家掟条目﹂や文政三年の﹁諸払帳﹂は、残念ながら史料館に存在しない。 ︵3︶元文五年﹁釈正春最後遺言井筐之覚﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口兵左衛門家文書︶。 ︵4︶天保一四年閏九月﹁人別御改之節言上候写﹂︵同右︶。 ︵5︶宝暦=二年一〇月﹁升屋兵左衛門屋鋪売券状﹂︵同右︶。 ︵6︶寛政三年七月﹁屋鋪売券状﹂︵同右︶。 ︵7︶文化元年一〇月﹁屋鋪売券状﹂︵同右﹀。 ︵8︶中井源左衛門家については、江頭恒治前掲書参照。 ︵9︶天保七年一二月﹁仙台調達金之逃口付為取替一札﹂、同﹁枝証文﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口撰文書︶。 ︵10︶安政二年九月﹁枝手形﹂︵同右V。 ︵11︶岡田小二郎家については、近松文三郎]大二印岡田小暇郎家L︵一︶∼︵=二︶︵﹃太湖﹄第三六号∼第三九号・第四一号∼第四二号・第四四号∼第 四入号・第五〇号∼第五一号、一九二九年一月九日∼一九三〇年四月九日︶に詳しい。 ︵12︶嘉永七年五月﹁尾州様名目金加入選手形﹂、安政二年一一月﹁貸付金加入割手形﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口兵左衛門古文書︶。 ︵13︶嘉永二年正月﹁大算用帳﹂︵同右︶。 ︵14︶安政六年正月﹁店方大算用帳﹂︵同右︶。 ︵15︶文久元年七月﹁坂店大算用勘定目録﹂︵同右︶。 ︵16︶慶応三年﹁御得意名前印日下恵﹂︵同右︶。 二 店則と店員評定 谷口家の店則については、 ︵1︶ すでに宮本又次氏によって紹介されているが、 ここで改めて﹃近江商人事蹟写真帖﹄の写真 によって、紹介しておこう。 近江商人谷口兵左衛門家の経営 一三
近江商人谷口兵左衛門家の経営 ︵2︶ 家掟条目 一御公儀様御法度之趣急度相守可申事 一仲間掟相守可申事 日々心掛之事 ︵精︶ ↓商売之事昼夜とも無油断心掛、随分情出し可申事 一商人衆御登之瑚不敬無之様、尤麓末成挨拶仕間敷事 一朝寝すへからす 一身持悪敷衆二つき合不申様 一若年之手代衆呼込咄致居不申様 一くわへはなし不仕様、火鉢二もたれ申間敷事 一商いたしかけ飯喰二這入申間敷事 一飯時又ハ寝てから咄いたし不申様、飯ハ早く喰へて店吐出申様二可心掛 一常々店之売物紛失等無之様心掛、若見へ不申物有之候ハ・店子吟味可申事 一常々無益之費無之様二心掛、倹約いたし可申事 一常々喰養生二気を付可申候、春6秋迄ハ折々灸いたし可申候 文政五年壬午正月 一四 谷口惣丘ハ衛⋮ 保恭︵花押︶ 文政十一戊子六月書改 すなわち、公儀法度や仲間掟の遵守に続き、挨拶・朝寝・応対・食事・倹約・養生・灸など店員としての心得を非常に 具体的に指摘している。この﹁家質条目﹂は、あくまで店員が心得るべき指針を示したにすぎないのであり、実際個々の 店貝に対しどのように適応されたのかわからない。
そこで、天明五年二七八五︶の﹁本店へ申渡し候控井二身店へ申付置僕搬﹂によって、 で行なわれていた日常的な商法について見てみよう。 より具体的な適応状況や谷口家 療肇年巳九月 本店へ申渡し之拍 井二拙店へ申付置候拍L ︵精︶ 一汁店之義舌鼓助言六荒目売之手代元祖二身、其後引続何れ塗輿情相勤被申候骨付、次第く店繁昌いたし、難有事ニハ近 年二刀ハ呉服商売仙台二而二番目下り不品位、夫二戸次第二物事花美二相成奢ケ中敷事も有之、担商二少々油断も相出申 ︵供︶ 候、其上此一両年二善助重助両人共引込、ロバ今支配人勤若年、尤支配人共二三四人ならでハ長敷もの無二、学外皆子共二 御座候、青黛おのつから商売疑義麓略二相成、子共之風義至而悪書、頃日二半ハ薄く世間之評判悪敷事も有之様二相聞得 申候、侃而此節急度相改不申候而ハ甚危き場所二御座候 ︼縦些細成ル事二而も、前々6之仕来り狸り二成り不申様 一少し二而も諸事花美成ル事急度無之様 一振舞事法事音物土産もの等急度気ヲ付可申事 一店中之着類井二仕入登り之道中遣逗留遣之義、伊兵衛、甚六、善助、次助、伊八暗君支配被害候節之通二いたし皇軍候、 尤登り下り共余り延着いたし不申様、春江戸二永逗留無用 初助 一今少し威有て店中之者崇め恐れ申様融いたし山事、今少し気ヲ働らかせ店中之者へ軽くと指図いたし可申事 茂助 一ちよこく他行いたし候義随分相慎、店へすわり居候様 近江商人谷口兵左衛門家の経営 一五
近江商人谷口兵左衛門家の経営 rL. ノ、 一得意衆ヘハ不申及、都而人へ之応対余り利強く無之様 一店中之者引廻し申候二随分気ヲ付、心中より帰服いたし出粗相勤候様二引廻し里中候 嘉助 ﹁大酒いたし候事慎可申候 一惣而店へ御出被下候衆へ挨拶不足二見得申候間、物買衆へ調製而随分愛敬よく挨拶いたし可申越、今少し気ヲ付随分りか う二子共引廻し可申候 源八 一諸事しっかりと物二身ヲ入いたし可申候 ﹁物買衆へ愛敬よく挨拶いたし、気ヲ付子共りかう二引廻し可重肴 〆 一右四人共和合いたし、随分注文方肝入吟味可申遣候 一壷節6改而諸代物吟味いたし直段下直二障古駅候、若鷺入口不格好成ルもの有之候ハ・、縦損いたし資材も売先高直二無 之様二いたし可申候 ︸此節6七軒人々自身こいたし候商ハ不申及、子共之売申託物買衆へも気ヲ付、側6愛敬よく町嘩二挨拶いたし、少しも麓 略なる商挫いたし様、又気ずいケ間敷口上無平様二いたし可申候、尤日々夜二上勘定仕廻候跡二而其日之商之評議いた し、少し二而も不情成ルもの有之候ハ・急度可申渡候 一右之通二支配人6歳入迄四人急度心ヲ合せ、入患いたし候ハ・無程大黒屋之店ハ諸代物宜敷、其上霊徳下直二売り、尤近 頃ハ子共二至る迄殊之外商二情出し、物買衆ヲ甚大事二いたし申候と、世間一統二評判いたし候様二相成可申出 ︸手前店ハ能仕似せ申候故、此方6頼招集共、物買衆御出被成候杯と申事、又ケ様車代ものハ手前店6外二者無恥杯と申 義、ふいかりそめこも口外へ出し申舳敷候、物買衆二悪く申候初り、店衰微之基二御座候 ︼物買衆二より手前店之商之いたし様、甚御気二品不申候共、御望之代もの外歯軸無之候ヘハ、是非なく手前店二二御調可 被成候へ共、最早重而ハ手前ヘハ御出不被成候様二相成可申候
一世間二身頃日肥大黒屋店ハ直段高直成ル之、又秘宝添いたし様気随成ル之と申評判有之よし薄く聞及申候故、如是二肝 入申談候 一前々相勤被申候衆ハ、何とぞ店ヲ仕似せ申度と出情被致候故、次第二店繁昌いたし昏倒二相成候所、此節店ハ十分二仕事 せ代ものハ十分二仕入置候而、不情のミニ店持崩し申候手馴、何業無葱成ル事田無之哉、此段得と勘弁可言成候 一常々賄二今少し気ヲ付、繕言つけ物ハ随分味なく無毒様こいたし、其上︼日置二日置ニ深入百屋物干物豆腐こんにゃく、 又ハ下直成ル肴もの二而も遣ひ可申候 一倹約と田図、家々花美ヲ相止、無益之費ヲはぶき、人々身之奢り不宣遣ひヲ掌骨可申事、無二ヘハおのつから家内和合い たし、子共二至候迄出情いたし候様二相成可申候 口談二而 一讐ハ人二取て申候ハ・未発病ハ不山嶺へ共、死病之気ざし有如く存候故、如是之三相搾る也 一未進之衰ヘハ見得不申候へ共、此節打投語いたし置、衰へ相見得申早上二而心付き申候共、其節ハ取戻し成兼回申候、 去四人共イッチいたし不申候而ハ成就成兼可申候 一先此両三年ハ店卸之勘定三戸か・わり不申、二目之風面相直し、商売繁昌いたし候様ヲ肝要といたし可申候 乍 演ノ秋 一浅仁、年々残金減少いたし申様 一早源、当年ハ仕切高余計二候間、若不廻り二葉ハ・来秋ハ仕切高へらし可面様 一大金、御勘定延引二而ハ、当年之直段ニハ成不申候、屑弐分引導業曝申掻敷候 一竹長へ、当年ハ指引高余計二相成候所、若金子年強二候ハ・去年迄之通より余計ノ指引無用 一菊弥、当年之応対覚居、明年ハ急度金子受取申候テ荷物掛ケ目可申候、尤余計之指引高擶用 一阿部屋喜八江、当年ハ段々御頼二付残合早事不古韻へ共荷物遣し申候、明年ハたとえ壱金二而も適合済切幕申立二荷物遣 近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 一七
近江商人谷口兵左衛門家の経営 入 し申候義無用、縦金子宜敷成候共、仕切高余計ハ無用 一松伊、当年ハ内金も余計二御座候故、仕切高余計二相当世所、当冬明春不廻り二候ハ・仕切高当年6へり申様二可仕候 一平清、当年ハ手前計故、格別仕切高上り申置処、若金子不廻り候ハ・明年ハ急度仕切高へり申候様二可致候 一面惣、去年御類焼故、去年当年金子不廻り二野へ共、其分二いたし遣し、明年右急度金子御迎被下甑様相鋤いたし可申 候、尤御勘定極出まけ隙間敷候、盆前二色物御注文被上貫共、早ク参り不燃成三二ハ然二請合兼早昼二可申談候 一中新田衆之事 一大河原ぼろ直段之事、井二御注文請合申事、七月参り可申事 =局庄之事、金子余計請取候ハ・落高余計遣し可申候 一及川清之事 一小の寺要三郎取之事 一松方小の甚之事 一江戸ほろ仕切之事、井二売方之事 一此度行司δ当番へ願之事 一明年6御勘定際二まけ不申様二相対いたし可申候 ∼大河原須藤注文之内、直高之もの有之候ハ・、当年6壱分方よけ引遣し可申候 一登り之節着替持参之事 一登り之節江戸δ早速書状為登可申事 一江戸上方逗留之内、諸事様子覚可申事 一本店ヘハ随分心安クいたし可申事 一京大坂江戸用向、本店手前同前二覚可申事 一時うりいたし候様之事
一正月礼新七勤可申事 一弥兵衛年始之礼之事 一八幡へ書状為登申事 一注文金子共都而我等方へ為登可申事 一登り之者下着否勘定書為登可申事 明荷弥兵衛本店へ預ケ申事 一店卸之事、大算用之事 一売物遣まけ引之事 一御客衆へ御酒上り候様之事 一客衆上り申候料理之事、井二相伴之事 一請払帳之帳合いたし候様之事 一店卸二入幡へ為登申候利足之事、井二船積王事、井二吉印かし喜惣様給金主事 一店6我等へ為登申候別封之事 一番状ハ名当之者斗披見いたし可申候 一弥兵衛、明年売帳勘定明後年6請払勘定いたし可申候 一明年弥兵衛折々掛取二も廻し可申候 一当分ハ新七も折節掛取二廻り可申候 一明年二月晦日迄金子テキ為登可申候 一吉助居候内二替り之男置可申候 一弥兵衛身持我等二順候様 一仲間ほろ申合之事 一普請之事、膳戸棚中しき入可申候 近江商人谷口兵左衛門家の経営 一九
近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 二〇 一はこはしこ二いたし可申候 一此度行司6当番願申候義成就いたし候ハ・、随分倹約行司初可申候 ︼船手之事杯ハ兎角川長へ直談いたし可申候 一店之者名改我等へ申越候而改可申候 一初助二心安クいたし申間敷候、品ハ時かり売物かり払不申不届之者 一明年ハ弥兵衛随分商人衆之商いたし習可申候 ここでは、宝暦年間に開いた仙台店が天明期には、﹁近年二而ハ呉服商売仙台二而二番と下り不申位﹂とあるように、し だいに繁盛してきたが、それにつれ華美がめだったり、奢りがましくなったりして、商売にも油断が見受けられるように なってきたのにともない、﹁仕来り狸り二成り心音様﹂店員に注意を喚起した。特に、仙台店で指導的立場にあった支配人 の初心以下、茂助・嘉助・源八の四道の者については、個別に注意事項が述べられており、初穂には店下での指導性の欠 如、茂助には落ち着きのなさや応対の悪さ、嘉助には大酒の謹慎や愛想の悪さ、源入には真剣さの欠如や愛想の悪さなど を指摘し、仙台店での自分達の立場をよく認識するよう求めている。また、商売上での心構えを述べ、食事についても﹁飯 汁つけ物随分味なく無之様旧いたし﹂とあり、御飯・汁・漬物だけでなく、一∼二日おきには野菜類・干物・豆腐・碕窮 や﹁下直成ル肴もの﹂を食膳に出すように細かく指示している。そして、﹁ロ談二而﹂として、﹁未店早事ヘハ見得不申子へ 共、此節打投二いたし置、衰へ相見得申以上二而心付き申候共、其節ハ取戻し成上膳申候﹂と戒めているように、早めの対 処という企業経営継続の極意を述べている。さらに、﹁巨鐘﹂﹁早源﹂﹁大金﹂﹁竹富﹂﹁菊弥﹂﹁阿部屋喜入﹂﹁松伊﹂﹁平清﹂ ︵4︶ ﹁雨量﹂などの谷口家との取引先について、それぞれその年の仕切高・勘定・取引状況などを知らせ、個別の対応策を的 確に指示している。最後に、覚書的に店員への注意事項を羅列している。したがって、この史料は一つの完結した店則で
はなく、個々の店員の勤務状況や、店員への注意事項、心構えなどを書き綴った覚書であり、それゆえ業務の内実や店員 のようすがありのままに語られているものと言えよう。 このように、店員に対して一般的な店での心構えを店則によって述べ、その遵守を図るだけでなく、個々の店員の日頃 の言動を細かく評価し、注意を促している点は注目される。そして、このような評価に基づいて、登りの時期をいつにす るのか、継続して雇用するのかどうか、どのような職務に従事させるのかを決定したのである。 ︵1︶宮本又次﹃近世商人意識の研究﹄︵有斐閣、一九四一年︶二三〇∼二三一頁、のち﹃宮本又次著作集﹄第二巻︵講談社、一九七七年︶二三三一二三 四頁。 ︹2︶前掲﹃近江商人事蹟写真帖﹄第二二七図。同じ写真は菅野和太郎前掲書にも﹁谷口家々憲﹂として口絵写真に掲載されている。 ︵3︶天明五年九月﹁本店へ申渡し候控井二三店へ申付置候鳥﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口兵左衛門誓文書︶。 ︵4︶年代はかなり下るが、前掲慶応三年﹁御得意名前印日下恵﹂の中にも、これらの取引先に該当する可能性のある吉岡の浅野屋弥兵衛、若柳の大野屋 豊吉、金沢の菊屋白藍、水沢の大塚屋孫助、山ノ梅の大島屋武治、岩谷堂の菊地屋栄吉・菊地屋庄五郎、涌谷の桜井屋忠七、石帝室の大森屋久兵衛 ・阿部屋忠蔵、岩沼の大友屋寅之助などの名前が見える。 一一
齦公人の形態
ここでは、現在残されている一九〇通余にのぼる﹁奉公人請状﹂や﹁寺請証文﹂を用いて、谷口家に雇用された奉公人 について見てみよう。その年代は、宝暦八年︵一七五入︶から明治一七年︵一八入四︶にいたるまであり、一二七年にわた る。ただし、文政一三年︵一八一六︶から嘉永元年二八四入︶までの史料が欠落している。しかしながら、これによって 谷口家が仙台に店を開いた時期から閉鎖するまでの時期をほぼ覆うことができ、合計=六人の奉公人が把握できる。 最初に、﹁奉公人請状﹂﹁寺請証文﹂の内容の一例を示しておこう。 近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 二一近江商人谷口兵左衛門家の経営 二二
手形彙
一此佐七と申者当年拾壱歳二罷軍曹ヲ此度貴殿方へ手代奉公二息遣シ申候、如何様こも御見立次第二筆遣可被成田、此者先 祖6代々西本願寺宗旨罪囚彦根魚屋町明性寺旦那二御座候而切支丹宗門類書二尊無御座候、尤槌成ル者二而曲物等二も無之 候、此者翼翼如何様之六ケ敷盤罷出候共、何方迄も我々罷出培明言申候、万一取逃欠落仕候共取物之品々活弁其上本人尋 出シ可申候、其癖如何様之悪事仕出シ申候共、我々罷出撃明朗も貴殿方へ御苦労相掛中間敷革、若右佐七儀不奉公二而暇 被成御出シ候ハ・其元御店之御座候仙台ヘハ重目属下シ申間曲候、為後日之手形早川如件 神崎郡簗瀬村 安永五年目ノ上月 奉公人 佐七 親 佐平次㊥ 八幡薬師町 入信為心町上 請人 瓦屋源丘ハ衛 升屋惣兵衛殿 寺請一札鼻 一蒲生郡林村市兵衛弟秀松と申者、宗旨者代々浄土真宗二日当寺門徒二紛レ無御座候、 万一御店方二而病死仕候ハ・彼方二而御取置可期成遣候、為後証手形傍而如件 文政十二年丑四月 八幡為心町 升屋惣兵衛殿 今般貴殿御店江奉公二参り候糊付、 本願寺御門跡末寺 +林寺村 善性寺㊥ ここで注目されるのは、﹁不奉公二二暇言成御出シ候ハ・其元御店之御座候仙台ヘハ重量相当シ申間敷候﹂とあるよう に、中途解雇された奉公人は谷口家の支店のある仙台へ近づけないように定めていることである。これは、松前で活躍した近江商人西川伝右衛門家の奉公人請状においても中妻公不幹候上者貴公様商場へ自身二参申間雛しとい、つ文言が 認められているように、中途退職者との関係をなるべく断とうするものであった。このような﹁奉公人請状﹂および﹁寺 請証文﹂を用いて、以下一一六人の奉公人の動向を見て行こう。 まず、奉公人の入店年代を示したのが、第3表である。機械的に宝暦八年から明治一七年までをほぼ二〇年ごとに区分 したが、文久元年︵一入六一︶以降は六期と七期とに、明治元年を境に二分した。また、文政一三年から嘉永元年までは史 第3表奉公人の入店年代 数人 1 1 3 2 1 3
3221111122
2331333⋮13213121621211 ⋮m
半年 窃①D勿のの萄の田①4555555556照照櫨四四四脚囎佃佃23456元246元永 政 延嘉 安 万 計合 期 4期︵11︶ 5期︵16︶ 6期︵18︶ ⋮ 7期︵27︶ 一 数人2111111111
1 1 1 1 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 1 3 1 1 1 1 1 1 1 1 1 2 1 代年 紛勿紛萄の鋤ω勾納切融η56666677777777777777G∩いd一α臼一臼一d江U三江μ812132357356暦 和 永宝 明 安 b﹁のの縞切の鋤9ウ①D勿④の納切融η紛の0 0 0 0 0 0 0 1 1 1 1 1 1 1 1 18888888888888888んUGq∩一d[二一∩一∩一∩一コ口μ角μ自一∩い∩瞥二一元元2345678910111314元2和化 政寛文 文 期 1期︵11︶ 2期︵14︶ 3期︵19︶ 近江商人谷口兵左衛門家の経営 二三 (註)「奉公人請状」「寺請証文」(滋賀大学経済学部附属史料二二 管谷口兵左衛門家文書)より作成。近江商人谷口兵左衛門家の経営 二四 料が欠落しているため、四期の後半から五期の前半にかけての間には実際一期分二〇年間相当の空白期間がある。この表 によれば、奉公人の採用は、宝暦から享和期頃までは年に一人存在するかどうかという状態であったが、文化期になると 毎年一人の雇用を慣例化したようである。そして、文政期以降には毎年二∼三人の複数の奉公人を採用するようになって おり、しだいに積極的に奉公人の雇い入れを行なったようであり、明治一〇年には最高の六人もの奉公人を採用している。 これによっても、谷口家の経営規模の推移がある程度推測されるであろう。 次に、第4表によって奉公人の出身地を見ると、愛知郡三四人・蒲生郡︵入幡を含む︶二九入・神崎郡二七人・犬上郡二 〇人・阪田郡二人・滋賀郡二人・甲賀郡一人用京都一人であり、谷口家の所在する入幡周辺の愛知・蒲生・神崎・犬上郡 が中心となっている。しかも、同じ周辺でも野洲・栗太郡は全く見られず、八幡の北東諸郡が中心である。また、京都下 立売新町の一人を除いて、残りすべてが近江出身者で占められており、近江商人の雇用形態の一つの特色を示している。 村ごとに見ると、入幡が一入人で最も多く、彦根七人置薩摩村七人・中道村五人・甲崎村五人・青山村四人・南菩提寺村 三人・上岡部村三人・河原村三人・栗田村三人と続く。怪禽では、神崎・蒲生郡は各期とも常に二人以上の奉公人を輩出 していたのに対し、それまで続いていた愛知郡は七期には見られなくなり、犬上郡は二∼四期は見られなかったが、五期 以降数多くの奉公人が採用されたようである。したがって、五期以降奉公人の採用領域が、採用人数の増加にともない愛 知・神崎・蒲生郡からしだいに犬上・阪田・滋賀・甲賀郡、さらには京都へも拡張されていったようすがうかがえる。特 に明治以降の奉公人増加の多くは、八幡と彦根に依っていた。 これらの奉公人は、廿歳から谷口家へ奉公にきたのであろうか。第5表によって、奉公人の出仕年齢を見てみよう。一 一六人のうち六人の不明者を除くと、一二歳三二人・一一歳二九人・一三歳︸四人・一〇歳一二人二四歳入人と続き、 七九%が︸○∼︸四歳の一〇歳代の前半に奉公に出ているようすがわかる。ただし、すべてが一〇歳代の前半に雇用され
諮温良 繍︾>3鞘取誌 醤壽苗草 一避 N蓋 ω盗 軽盗 ㎝濫
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4i 1
12 11 2 4 7 3 82i 3
29 12 5 5 4 6 4i 8: 32 13 3 3 2 131 2
14 14 2 1 1i 4
8 15 1ii
1 16 1i 1
2 17i 1
1 18i 2
2 19il
20 i 21i 2
2 22i
231i 1
2 24 1… 1 25⋮i
26 i 27 i 28 1i 1
2 29以上i1
ユ 不 明 2 1 1 2i 6 1 合 計 11 14 19 11 16 18i 27 1 116 (註)第3表に同じ。 る。それは、七期の明治期になってもあまり変わらず、年間一∼三人程度の奉公人を雇用し、 の方が合理的であった。 最後に、これらの奉公人の出自と続柄、そして宗旨について見ておこう。出自については、 二六 たわけではなく、二〇歳代に七人、三五歳に一 人が雇用されており、中途採用も見られた。し かしながら、四期まではすべて一〇∼一六歳で 占められており、五期以降特に七期になると出 仕年齢が拡散する。六期と七期を比べれば、明 治期にあたる七期の方が、学校教育の普及にと もない出仕年齢が拡散するとともにその重心年 齢がやや上昇している。 第6表は、奉公人の入店月を示したものであ る。最も多いのが四月の二一人で、五月二〇人 ・八月一六人・六月一一人・正月一〇人・七月 九人・二月六人・三月六人・九月五人・一〇月 五人・一二月三人・一一月二人となる。四月・ 五月にやや集中するものの、すべての月が見ら れ、適当な人物がおれば随時採用したようであ 経験的教育を施すには、そ 明確なことが言えないので第6表 奉公人の入店月 月 1期 2期 3期 4期 5期
6期i7期
合計 正 月 ノ 4 1 …i 5 10 2 1 1 11i 2
6 3 2 11i 2
6 4 3 6 4 7 1i 21 5 2 5 1 36i 3
20 6 1 3 1 3i3
11 7 1 1 33i 1
9 8 2 1 2 1 34i 3
16 9 1 111 2
5 10 1 2 i 2: 5 11 1 1i 2 12i 3
3 不 明 1i1
2 合 計 11 14 19 11 16 18i 27 1 116 (註)第3表に同じ。 2期の閏4月・閏5月、 4期の閏4月は、それぞれ4月・5月に含めた。 あるが、近江の農村や八幡・彦根などの地方都市を出身地とすること から推察されるように、農民や商人の子弟からなっていた。特に陸田 出身者は、﹁鍛冶屋吉兵衛惇吉松﹂﹁藤屋多兵衛惇弥三郎﹂﹁油屋庄左衛 門惇六蔵﹂などと屋号が見られ、商家の子弟が雇用されたようである。 続柄は、慶応三年一明治一七年の一部しか明らかにできないが、長男 九人・次男二人・三男二人・四男一人であった。宗旨については、浄 土真宗八○人・浄土宗二一人・禅宗入人・天台宗四人・不明三人であ り、浄土真宗が最も多く、時期的な変化もほとんど見られなかった。 ︵1︶安永五年八月﹁奉公人手形﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口兵左衛門家 文書︶。 ︵2︶文政一二年四月﹁寺請︻札﹂︵同右︶。 ︵3︶拙稿﹁近江商人西川伝右衛門家の松前経営﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館﹃研 究紀要﹄第一八号、一九入五年一月︶八一頁。 四 在所登り制度と別家制度 ら、近江商人によく見られる在所登り制度が存在したであろうことは容易に推測できる。 明らかになる。 谷口家は、本家が入幡にあり、一方営業活動基地である支店を仙台 に設けており、しかもその店員には近江出身者を雇用したのであるか その一端は、次のような史料で 近江商人谷口兵左衛門家の経営 二七近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 一金弐両也 一同壱両也 一同壱両弐歩 一同壱両壱歩 ︼同三両三歩 〆九両弐歩也 内七両 残テ弐両弐歩 右之通 登り遣、伊勢御参宮かけて 上方逗留小遣 下り小遣 在所饅別二遣可申事 用意金 出立之砺、仙店相渡ス 下り之瑚、八幡二而相渡ス 文政十丁亥二月六日 喜入 仙台大町壱丁目 大里⋮屋物心丘ハ衛 ︵1︶ 代 清兵衛 すなわち、仙台から上方への登りは、伊勢参宮という店員の慰安も含めた形で行なわれ、登りの費用として路銀・饒別 ・小遣等合わせて九両二歩を仙台を出発する際に仙台店で七両渡され、残り二両二歩は仙台へ下る時に八幡の本家で渡さ れることになっていた。これによって、在所登り制度が本家と支店との密接な連絡のもとに行なわれ、本家におけるチェ ック機能が働いていたこと、在所登り制度が単なる店員の淘汰システムとして機能していたのではなく、伊勢参宮に見ら れるように店員の慰安的側面も加味されていたことがわかる。 店員は、このような在所登りを繰り返しながら淘汰され、最終的には別家として独立して行くのである。そして、別家 に際しては次のような申し渡しがなされた。
姦雌四辛巳隻月茜日 嘉蔵別家申渡 井二店中披露申渡し
要用舷 L
一八月廿四日吉日二付、別家申渡し之事 ︸目録弐枚相渡し申、尤直々嘉蔵二出しさせ、此方江預り申盃事 一借家吟味之事 一妻縁之儀申渡ス ﹁別家いたし候而も、此方毛人二付日勤相頼申候事 一此方日勤中、自分之商内何二不寄相成不申候事 一金銭之出入自分之儀致間敷事 ︵五力︶ 一当年δ日勤料として金テ十両相渡し可申事 一本目録之利金八幡6年々吉両ツ・相渡し可申事鑛翼衛
保恭L
これは、表紙に記されているように文政四年︵一八二一︶入月二四日に嘉蔵に対して別家を申し渡し、それを店中に披露 したものである。そこでは、後で紹介する別家目録二通を渡し、別宅の借家と妻帯を認めている。しかし、﹁日勤中、自分 近江商人谷口日羽左衛門家の経営 二九近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 三〇 ︵五力︶ 之舎内七二不寄相血温申述事L﹁当年6日勤料として金テ十両相渡し可申事﹂とあり、別家となっても谷口家の経営に従事 しなければならなかったようで、さらに谷口家から別家目録によって貰った金子も八幡の本家に預けてその利息を毎年支 給される仕組みになっていた。このようにたとえ別家になったとしても、当時の谷口家においては、本家から全く独立す るのではなく、別宅となった通勤別家として勤務上の一応の区切りを示す存在に過ぎなかったのである。 そして、別家に際してはこの嘉蔵の場合には、前述したように次のような別家目録が渡されたのである。 ︵3V 覚 一金百両也 右之通此度相渡候、幾久敷相続繁栄可被成候、 文政四辛有年 七月吉日 大黒屋嘉蔵殿 ︵4V 覚 一金五拾両 右者別紙目録之外二心附ヲ以相渡候、 文政笹津巳年 七月吉日 大黒屋嘉蔵殿 以上 幾久敷相続繁栄可被成候、以上 谷口宗兵衛 保恭︵花押︶ 谷口宗兵衛 保恭︵花押︶
第7表谷口家別家一覧 近江商人谷口兵左衛門家の経営 年月 宛名 差出人 別家金・心付 寛政9年7月 谷口惣兵衛 100両・50両 文政4年8月 大黒屋嘉蔵 谷口宗兵衛保恭 100両・50両 文政9年9月 大黒屋利兵衛 谷口惣兵衛保恭 100両・50両 天保3年冬 大黒屋仁兵衛 谷口惣兵衛保恭 100両・50両 天保5年10月 大黒屋林兵衛 谷口惣兵衛保恭 100両・50両 弘化2年8月 升屋甚助 谷口惣兵衛保恭 100両・50両 嘉永7年4月 升屋和兵衛 谷口惣兵衛・兵左衛門 100両・100両 安政4年4月 升屋嘉兵衛 谷口兵左衛門 100両・100両 元治元年9月 升屋小兵衛 谷口兵左衛門回田 100両・100両 明治2年7月 升屋富蔵 谷口兵左衛門保崇 150両 明治2年11月 大黒屋仁兵衛 谷口兵左衛門保崇 200両・100両 明治6年6月 升屋半兵衛 谷口兵左衛門港南 200両・100両 明治13年10月 升屋正兵衛 谷口しな 200円 (註)寛政9年7月「別家二雄心附目録」・文政4年8月「心付目録」・同「要用目録」・文政 9年9月「別家金井心付目録」・天保3年「別家相続金井心付目録」・天保5年10月「別家 相続金井心付目録」・弘化2年8月「別家二付相続金井心付目録」・嘉永7年4月「別家金 目録」・安政4年4月「別家金ヂf心付目録」・元治元年9月「別家相続金ff心附目録」・明 治2年7月「別家金井心付目録」・同年11月「別家金目録」・明治6年6月「別家相続金井 心付目録」・明治13年10月「別家金目録」(滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口家文書) より作成。 これによって、嘉蔵は仙台店での谷口家の屋号である大黒 屋を名乗ることが認められ、谷口家から嘉蔵へ合計一五〇両 が渡されたことになるのであるが、実際には前述したように 谷口家にそのまま預けられ、その利息が毎年支給されたので ある。そのような措置が行なわれたのは、別家になったとは いえ、別宅・妻帯が許されただけであって、実際には通勤別 家として谷口家の経営に従事していたのであり、それらのま とまった資金を当面使用する必要も存在しなかったからであ ろう。 このようにして輩出された別家を現存する別家目録等で示 したのが、第7表である。この表によれば、寛政九年二七九 七︶から明治=二年にいたるまで合わせて一三人の別家を送 り出したことが確認できる。ただし、これらの別家は別家目 録が残存している老のみであって、実際にはこれ以外にも谷 口家の別家は存在したであろうが、現在のところ明らかにで きない。宛名を見ると、﹁大黒屋﹂と﹁升屋﹂とがあり、いず れも谷口家の仙台と入幡での屋号であり、別家に際しては、 その屋号を名乗ることが認められたのである。差出人につい
近江商人谷口兵左衛門家の経営 三二 ては、寛政九年と文政四年︵一八二一︶との間には当主の交代があったのか明らかにできないが、嘉永七年︵一八六〇︶に は谷口惣兵衛と兵左衛門とが列記されており、九代目と一〇代目との相続期に当たっていたのであろう。また、明治六年 と同=二年の間にも世代の交代が見られる。﹁別家金﹂は、﹁相続金﹂とも称されたようで、寛政九年から元治元年︵一入六 四︶までは一〇〇両であったが、明治二年からは二〇〇両に増額された。﹁心付﹂は﹁骨折金﹂とも称され、弘化二年︵一 八四五︶までは五〇両のみであったが、嘉永七年には﹁道具代﹂としてさらに五〇両が増額され、合わせて一〇〇両となっ た。 ︵1︶文政一〇年二月﹁仙店清丘ハ衛在所登支度金覚﹂︵滋賀大学経済学部附属史料館保管谷口兵左衛門家電書︶。 ︵2︶文政四年入月﹁嘉蔵別家申渡井二店中披露申渡し要用之控﹂︵同右︶。 ︵3V文政四年七月﹁要用目録﹂︵同右︶。 ︵4︶文政四年七月﹁心附目録﹂︵同右︶。
五勤務状況
このようにして雇用された奉公人も、在所登りを繰り返し、別家として処遇されるにいたるものは稀であり、むしろそ の間に大多数の奉公人が淘汰されていったのである。ここでは、やや断片的であるが、谷口家に雇用された奉公人につい て、その淘汰の大きな理由となった不將・営業・病死などに対する処遇の実態を数例紹介しておこう。 まず、天明七年︵一七八七︶の奉公人三郎兵衛の丸写への対応を見てみよう。 ︵1︶ 三郎兵衛暇遣し候一件 =二四年以来在所6願被申達者、親三郎平年老相続翼成候二三、三郎兵衛義暇粗筆豊本申候雑言、不本意而已ならす、別而店無人之劒相成かたき段申遣鬼芝処、不得止事強而願被申常世、無是非承知致遣し、去年踏面雪三郎兵衛儀今一年相勤、其 上平遣し可申条同人江申渡し置、侃而此度店より三郎兵衛相登せ、道中無難二九丹十三日上着、一日休足為致十五日二在 所江遣し候、然ル所同日三郎平被参、右暇之義強被出無故障承知三郎兵衛暇遣し候、則目録相渡し候写左目 覚 一銀五拾枚 一同五枚 脇指料 右之通相渡し候、以上 天明七丁未年九月十六日 谷口惣兵衛 一二郎丘ハ衛殿 但し、美濃需ニツ折二而認遣ス、上名封美濃需二て目録之書付遣し候 右之通九月十六日二相渡ス、同十入日二右目録表金子相渡し、則一札請取書取置、且また着替之義者店より登り次第相渡し 可申条申渡し置候、伍而無故障暇遣し幾久目出度出入申渡し候也 天明七丁未年九月十八日 一札藁 =二郎兵衛儀御暇被下黍、栃而御目録表 銀五拾枚 同五枚 脇指料 右二口銀目合テ弐貫三百六拾五匁 此金四拾三両也 右之通御下シ置、恭髄二請取申候、依而一札如件 天明七年未九月 武佐町 三郎兵衛㊥ 近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 三三
近江商人谷口兵左衛門家の経営 入館為翁町 升屋惣兵衛様 三四 親 三郎平㊥ すなわち、奉公人の三郎兵衛は、三一四年前から親が年老いてきたので、谷口家に暇を願い出ていた。ところが、三郎 兵衛が有能な奉公入であったのか、彼が退下したのでは店の経営に支障が生じるというので、退店を一年間延期してもら うことにした。そして、いよいよその期限となり、しかたなく三郎兵衛に暇を許し、銀二貫三六五匁を遣わした。このよ うに、長く奉公する間に自分の親が年老い、おそらく三郎丘ハ衛が嫡男であったため自分の家の相続ができなくなり、別家 にいたる前に暇を願い出なければならなくなった場合も見られたのである。暇に際しては、入幡の本家に登って、そこで 目録が渡され暇を遣わされた。このように奉公人の雇い入れと解雇は、近江の本家においてなされたのであり、在所登り 制度の意味の一つもここに存在したのである。 次に示すのも、よく似た暇願いの事例であるが、この場合は三郎兵衛とは逆で、むしろそれほど重要な地位にはついて いなかったのであろう。
一札嚢
一私悸新吉儀先年御願申上御奉公二差遣置申候、然ル処両親共及老年難渋二付、右新吉母御暇被下脚下御願申上善得共、御 奉公年限中墨御恩之程も御座習得者、甚以本意不成案心得違二付再勤之儀御願申上畳所、容易二融々成之処其許様御執成 被官、此度格別姐御勘弁を以再勤之儀御承知被下昇段難有仕合奉呈候、右二付而ハ以来弥御岳公大切割翻案勤可申候、且 又先年差上置候請状之表無違儀相守可申候、其外新吉二付如何様之六ケ敷儀出来甲唄、我等罷出急度將明少し茂御難辻留 ケ申間鋪候、為其一札傍而如件文政九三四月 新士.親船屋市右衛門㊥
親類 船屋仁左衛門㊥ 桝屋惣兵衛様 御店御支配人 仁兵衛殿 すなわち、新吉も両親が老年になったので谷口家へ暇願を出し、そして一旦許可された。しかし、よく考えれば、まだ 奉公の年限中であり、それは勝手な願いであると考え直し、暇願いを取消し再議を願い出たが許されなかった。そこで支 配人の仁兵衛にとりなしを頼み込み、その御陰で再勤が許されることとなった。ここに見える支配人の仁兵衛は、前掲第 7表で示したように六年後の天保三年︵一入三二︶に別家する大黒屋仁兵衛であろうと思われる。 この新吉の場合は、それほど不將な事態に及ばなかったようであるが、次に示すのは、不着にいたった奉公人に対する 事例である。 拙者事幼少δ罷下り、是迄重キ御高恩被成下難有仕合遺存候、三所去年不届ケ之儀御座雷雨段々御薦申上候而御忍羊雲成下、 其後相励磁勤申筈之所、又候放濫身持、尤御預ケ之内金子等押領仕、誠二重々之押型申上候様も無御座候御古奉黙黙、然拙 者義も何卒御高恩ヲ論叢情仕度存念二御座活間、此後急度相結綴勤可申上候条、何分此度之儀御用赦被成下度奉願上候、若 又此以後少シニ而も放博之廻方発煙ハ・、鬼明神天照皇天神宮熊野権現其外日本六十余州之神々蒙御日討可申候、何分此度 之儀者御用赦被成下、此末之儀如願被成下度、冊而誓紙草占此奉願上候、以上 天明元年丑ノ六月廿五日 喜三郎 ?︶ 谷口惣兵衛様
戴
近江商人谷口兵左衛門家の経営 三五近江商人谷口丘ハ左衛門家の経営 三六 一金七両壱歩也 右金子御預ケ之内押領仕候段、不届之至極単射上様も無御座候、籾又此節如何様も可仕様無御座候間、拙者首尾能相勤其節 ︵精︶ 出情金相渡シ被成下雑事二御座候ハ・、右之内6急度御返金工申上灘、若鷺滞等御座候ハ・着替売払三篶而も、急度御返金 可仕候条、何卒此儀如願望成下度奉存候、右押領仕候義者何分御用赦被成下度、伍而一札ヲ毒筆此奉願上候、以上 天明元年六月廿五日 、 喜三郎 谷口惣兵衛様 一札鍮 一私事喜三郎と申者、先年其元へ手代奉公二単三シ申尊号、去年本月其元御店二而右喜三郎病死仕候、然ル所由同人存命之 内勤方不將、殊二少々金子蓋置込有之候へ共、思召を以此度右同人着替御書付之通、四拾壱品杵二金子五両御渡シ虫下恭 槌二請取申候、為其一札伍而如件 天明弐年寅ノ十月八日 尼子村 八幡為心町 彦七㊥ 升屋物心丘ハ衛殿 すなわち、一年前の安永九年︵一七八○︶に奉公人喜三郎に内容はわからないが﹁不届ケ之儀﹂があり、その際には谷口 家から許しを得た。しかし、その後また預け金の内七両一歩を横領したが、再度容赦願いを提出し、今後悔い改め勤務に 励むことを約束し、首尾よく勤めあげれば出精金のうちから返金し、もしそれが滞ることがあれば、店に預けてある着替 を売り払っても返金する旨願い出て、了承された。ところが、その後二か月ほどして、精勤に励み過ぎたのか、店で病死 してしまい、結局四一品の着替と金子五両が兄である近江国犬上郡尼子村の彦七の元へ渡されたのである。 このように奉公人の不將に対しても、後悔の念が認められれば、軽度のものについては再勤を許可したりして、ある程