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三木清のドイツ留学生活 利用統計を見る

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三木清のドイツ留学生活

著者名(日)

柴田 隆行

雑誌名

井上円了センター年報

6

ページ

85-104

発行年

1997-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002831/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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三木清のドイツ留学生活

柴田隆行

§忘ミミ栖○§∼ 一、ヘじめに  マールブルクは、ドイツ中部ヘッセン州に位置し、フランクフルト・アム・マインから北へ列車で約一時間の 距離にある。﹁北のハイデルベルク﹂と呼ばれ、ハイデルベルク、テユービンゲン、ゲッティンゲンあるいはミ ュンスターとならび﹁ドイツ四大学都市﹂に数えられる。いまでも地図で大学関連施設に赤く印を付けたら、全 面真赤になるほど文字通りの大学都市、都市というより小さな町で、その光景は古城と教会と石畳に象徴され る。  この小さな大学町で学んだ日本人留学生の中で最も著名な人物と言えば、哲学者の三木清︵一八九七ー一九四 五︶ということになるだろう。彼は、一九二二年︵大正一一年︶六月二四日から翌年一〇月までハイデルベルク で学んだのち、マールブルクに移り、二五年八月二〇日にパリへ向け出立するまでマールブルクでおもにハイデ ガーのもとで学んだ。  一九二〇年代のドイツといえば、第一次世界戦争敗北後のワイマール体制の中で、あらゆる希望とあらゆる絶 望とが入り乱れた、ドイツ史上まれにみる激動の時代である。それは、﹁敗戦の中で生まれ、狂乱の中で生き、 85 三木清のドイツ留学生活

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悲惨の中で死んだ﹂︵ピーター・ゲイツ︶時代と言われる時代である。だがその一方で、少なくとも思想の問題と して見れば、一九二〇年代は﹁きわめて多産的な、いわば﹃現代思想の柑塙﹄ともいうべき時期﹂︵生松﹃人間へ の問いと現代﹄=ー一二︶と位置づけられる。このような時期に留学生活を送った三木清にとって、とりわけ彼 のマールブルク時代は、﹁思想家三木清の誕生の日付﹂、﹁﹃哲学的人間学﹄の基本的枠組が﹃増渦﹄のなかで煮つ められつつあった﹃実験室﹄での一年﹂︵荒川二八、三六︶だった。三木自身、田辺元宛書簡で﹁マールブルヒへ 来てから私はハイデッガー、それと関係してディルタイから非常に強い影響を与へられました。この影響は恐ら く何等かの形で私の学問上の一生を決定し、支配するだけの力をもつていさうに思はれます﹂と書いている二 九/二六七︶。  この小論は、三木清のハイデルベルクならびにマールブルクにおける留学生活に焦点を絞り、彼が書いた当時 の文章とそれに関する諸文献とを対比させ、二〇年代ドイツにおける一日本人留学生の生活を浮き彫りにするこ とを課題とする。紙数の関係で、三木がそこで何を学び、それをどう育てたかについての詳論は別稿に譲らざる を得ない。 86 一」 Aハイデルへ夕ての留学生活    ﹁その頃ドイツには日本からの留学生が非常に多くいた。私の最も親しくなつたのは羽仁であつたが、私   と同時に或ひは前後して、ハイデルベルクにいて知り合つた人々には、大内兵衛、北昨吉、糸井靖之︵氏は   遂にハイデルベルクで亡くなつた︶、石原謙、久留間鮫造、小尾範治、鈴木宗忠、阿部次郎、成瀬無極、天野   貞祐、九鬼周造、藤田敬三、黒正巌、大峡秀栄、等々、の諸氏がある。﹂︵一/四一三︶

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 滝川幸辰の回想によると、一九二二年にハイデルベルクを訪れた際、リッケルトの顔だけでも見ようと哲学の 講義室を覗いたら、前の方の二列ばかりに黒い頭の日本人留学生がずらりと並んでいるのに驚いてしまったとい う︵生松﹃ハイデルベルク﹄二二八︶。阿部次郎が、一九二二年八月八日、友人の林久男と連れだってベルリンか らハイデルベルクへ移ってきた際、駅に出迎えたのは石原謙だった。ホテルへ向かう途中、彼らは日本大使館の 矢野正雄夫妻と出会い、同時に一高時代に同級だった吹田順助とも一緒になり、五人の一高同窓生が図らずも二 〇年を隔ててハイデルベルクの街頭で顔を合わせるということになった︵石原﹁阿部次郎全集月報﹂第九号︶。  これらの逸話は、当時の日本人留学生の数の多さをよく表している。この状況はハイデルベルクに限らず、フ ッサールのいたフライブルクでも同様で、伊藤吉之助、山内得立、木場了本、藤岡蔵六、小山靹給らがそこで学 んでいた。留学ばやりを椰楡した田辺元は﹁海上で四〇日も五〇日も空費するくらいなら、それだけの金を出し てもらって、こちらで勉強させてもらおうと言って、留学をことわってるそうだよ﹂、と出隆が伝えているが ︵出二二六︶、その田辺もフライブルクでフッサールとハイデガーに学び、これを伝える出隆もまた二五年一月 ベルリンへ向け旅立っている。    ﹁ラテナウ暗殺事件以来マルクは急速に下落を始め、数日後には既に英貨一ポンドが千マルク以上になつ   た。やがてそれが一万マルク、百万マルク、千万マルクとなり、遂には一兆マルクになるといふやうな有様   で、日本から来た貧乏書生の私なども、五ポンドも銀行で換へるとポケットに入れ切れないほどの紙幣をく   れるのでマッペ︵鞄︶を持つてゆかねばならないといふやうな状態であつた。﹂二/四一三︶。  一九二〇年代初頭のドイツは、第一次世界戦争の敗北で経済的に破綻し、さらにラーテナウ暗殺など政情不安 が続き、人びとは紙幣をリヤカーで運ぶほどの非常なインフレに苦しんでいた。阿部次郎が、床屋の職人から家 87 三木清のドィッ留学生活

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賃を尋ねられた際のことを次のように伝えている。﹁僕は山の上にいるので下よりは高い、間代と食料で一日二 千馬克︹マルク︺つつ払つていると云つたら、私は食事つかずで月に千馬克貰ふだけですと驚いていた。二千馬 克と云つても日本の七十銭である。あれだけの部屋とあれだけの食事で月に二一円ですむとは、私から云へば気 の毒に堪へぬほど廉いのである﹂︵阿部四四六︶。三木に言わせれば、 ﹁私ども外国人にとつては天国の時代であ つたが、逆にドイツ人自身にとつては地獄の時代であつた﹂︵一/四一三︶。三木の留学費用は波多野精一の紹介 で岩波茂雄が支払った。羽仁五郎は、大学を出たあとの進路に迷い、四〇円か五〇円あればドイツで毎日勉強が できる、東京で勉強するのとほとんど違わない、という理由で一九二一年九月にドイツへ向け旅立っている。出 隆の場合は官費出張のため、月額三六〇円支給されている。阿部は月額二一円で豪勢な生活をして恐縮してる が、時期が二、三年遅れるとはいえ、出はかなり裕福な生活ができた筈である。天野貞祐は、﹁二三年春より夏 にかけて国民の窮乏はすでに極度に達していたに拘らず、少なくともこの地方では世間が比較的平穏であった。 私も夏学期には落ちついて大学生活を楽しんだ﹂と回想しているが︵天野二〇四︶、ドイツ人にとっては平穏とは 言えず、学者といえども貧窮にあえいでいた。  三木は、資金援助を兼ねて、ホフマン教授の論文を数篇翻訳し﹃思想﹄に掲載して原稿料をホフマンに払った り、ハイデルベルクではマンハイムやシンチンゲルら、マールブルクではガーダマーやレーヴィットらを家庭教 師にして勉強したりした。ヘリゲルもハイデルベルクでは演習のほかに日本人留学生のために大峡や北蛉吉の下 宿で読書会を開いていた。この時の縁で、シンチンゲルは一九二一二年来日、旧制大阪高校、東京帝国大学などで 講師を務め、ヘリゲルは二四年から二九年まで東北帝国大学教授、レーヴィットも三六年から四一年に同大学講 師になっている。一時はハイデガーを日本に招聰する計画も立てられ、三木清がマールブルク滞在中ハイデガー 88

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にその意向を打診している。ハイデガー自身、経済的理由と勉学条件の良さに惹かれて、それを受諾したい気持 ちがあることをヤスパースに伝えている二九二四年六月一八日付書簡︶。    ﹁私がハイデルベルクに行つたのは、この派の人々の書物を比較的多く読んでいたためであり、リッケル   ト教授に就いて更に勉強するためであつた。﹂︵一/四=二︶    ﹁私は教授の著書は既に全部読んでいたので、その講義からはあまり新しいものは得られなかつたが、こ   の老教授の風貌に接することは哲学といふものの伝統に接することのやうに思はれて楽しかつた。﹂二/四   一四︶  三木と同時期にハイデルベルクで学んだ天野貞祐も、リッケルト、ヘリゲル、グロックナー、ファウスト、ホ フマンらの講義ならびに演習に出席した。当時リッケルトとその周囲の人たちがいかにも親密で相互に切磋琢磨 する学問的交友関係はまことに美しく感ぜられた、と述懐している︵天野一九五︶。天野の伝えるところによる と、ホフマンの近世哲学史の講義は午前八時より一〇時までで、﹁朝の買い出しの野菜籠を教室の隅において講 義を聴いてゆく主婦も居れば、いつも一冊の哲学小辞典を手にして出てくる老人も居た。澄刺たる女学生達の存 在もこの大学の↑o亘o⇒°カロ警⑦を思わせた﹂︵同前二〇五︶。  ドイツへ来て、著名な教授の風貌だけでも見ておこうというつもりで講義に出席した阿部次郎の報告は興味深 い。阿部は=月二〇日朝、リッケルトの﹁カントからニイチェまで﹂とグンドルフのコ九世紀独逸大学史﹂ とカール・ノイマンの﹁デュウラー及び彼の時代﹂の三つの講義に聴講料を払い、夕方に始まるリッケルトの講 義を聴講した。阿部は、自分の印象が決して客観的なものではなく、その時の自分の気分の反映であると断った 上で、つぎのように書いている。長くなるが、雰囲気がよくわかるので、そのまま引用する。 8g 三木清のドイツ留学生活

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 ﹁正五時に電灯がついて人々は次第にはひつて行く。︵中略︶極めて緩慢な階段のついている部屋だつた。 壁は白いのだがそれが薄黒く汚れて、下半は鼠色に塗りつぶされている。姐になつた長い机は一杯に名刺を 張つて占領され、しかもその上にナイフで処嫌はず名前や落書を刻んである。︵中略︶そのうちに人がだん だん込んで、一杯になつてしまふ。真つ白になつた髪の真中が禿げて、その禿かくしに黒の寝帽子みたいな ものをかぶつたお爺さんが、第一列の一隅に席を占めている。若いのや年寄つたのや、大抵は美しくもない 尖つた顔をした女たちが、ちよいちよい男の間にまじつている。今年始めて高等学校からやつて来たらしい 利口さうなユーデの学生もいれば、日本人に似て日本人ならぬどこかの外国学生もいる。私はこの不思議な 混ぜこぜの中にいて、この教室でへーゲルが講義をしたことを想ひ起していた。そこに、せかせかと教場に はひつて来ていきなり教壇に上る白髪の老人があらはれた。彼こそ教授リッカートである。︵中略︶引き締 まつた、落ちついた、痩せた人であらうと想像していたのとは反対に、豊頬の皮がゆるんで無駄な肉のつい ているやうな、少しブカブカな感じのする老人である。彼は張りのないせかせかした調子で草稿を読みあげ た。もとよりこの朗読には多くの手の運動が随伴する。しかしそれも神経的な忙しさの印象が勝つて、その 思想を深く人心に刻み込むための、多きにすぎず少なきにすぎぬ力を欠くといはなければならぬ。椅子に腰 をかけたま﹀彼は時々教壇の下をのぞき込んで講義に強調を置かうと試みる。︵中略︶おしまひに近く、時 間の切迫が彼をせき立てるらしく、彼は私のいる第四列目からは顔が見えぬほどの高い教卓の陰に隠れて暫 く原稿の棒読みを続ける。禿頭に黒頭巾の老人は居睡りを始める。︵中略︶最後に教壇の上の声は再び高く なつて、この次の講義で重要なことを云ふべきことを予告する。私はこれを聴いて、講釈師のあとは明晩を 想ひ出すほど敬度を欠いた気持になつていた﹂︵阿部四四七︶。 90

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 現在でも通用する話だ。講義とはドイツ語でくo﹁一〇。。已コ゜Qつまり原稿を学生の﹁前で読む﹂という意味だから、 このような講義風景は一般的だった。もっとも、リッケルトは老齢のため哲学演習は自宅で行っていた。そこで はマンハイムやヘリゲル、グロックナーらも参加し、マックス・ウェーバー夫人も出席していた。ウェーバー家 はリッケルトの自宅の近くにあり、テキストにウェーバーの﹃科学論論集﹄が使用されていた。ウェーバーとリ ッケルトとは両親の代から親交があり、とくにフライブルクで同僚となって以来緊密な交わりを結ぶようになっ ていた︵生松﹃ハイデルベルク﹄一五八︶。  一九二二/二一二年冬学期のリッケルトの演習で三木は当時の日本人学生としては初めてドイツ語で報告︵﹁個 別的因果律の論理﹂︶を行っている。二三年夏学期、リッケルトは認識論および形而上学の入門の講義︵月、火、 午後五時∼六時︶、芸術哲学の講義︵木、金、午後五時∼六時︶、直観の概念についての演習︵水、午前一一時∼午後 一時︶を行い、私講師のヘリゲルは論理学の根本問題についての講義︵月、木、午後三時∼四時︶と論理学上の比 較的難解なる問題についての演習︵土、午前一〇時∼一二時︶を行っていた。この時のリッケルトの演習で三木が 行った報告が﹁真理性と確実性﹂であり、ヘリゲルの講義で行った報告が﹁論理学における客観主義﹂である ︵二/四八一︶。  以上で当時の大学の雰囲気と日本人留学生の動向が概略わかったので、われわれはハイデルベルクに別れを告 げ、三木の次の留学地であるマールブルクへ移動することにしよう。 三、マールブル久ての留学生活    ﹁私は来月の中葉までここにいて、 マールブルヒへ移ります。マールブルヒへ引越の際には、出来れば自 g1 三木清のドイツ留学生活

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  分の書物も片付けてしまふつもりです。こちらの状態は悪くなるばかりです。今日もハイデルベルヒでは一   般のストライキがあつて軍隊が出たりしました。夜も何処のレストラーンも閉まつてしまつて食事が出来   ず、閉口しました。在留の日本人も減つてゆくやうです。ハイデルベルヒでは医者の人もこの冬は二人だけ   になります。﹂︵一九/二二〇︶  一九二〇年二月二四日ドイツ労働者党、ホーフプロイハウス大集会で国民社会主義ドイツ労働者党と改名。同 三月一三日ベルリンでカップ一揆。二一年八月前蔵相エルツベルカー暗殺。同一一月四日ナチス党突撃隊強化。 二二年六月現外相ラーテナウ暗殺。二三年一月フランス・ベルギー軍ルール地域占領。同一月二七∼二九日ナチ ス第一回全国党大会。同九月一∼二日﹁ドイツの日﹂。同一一月九日ヒトラーによるミュンヒェン一揆失敗。  西田幾多郎の﹃善の研究﹄を読み大学で哲学を専攻することを決心したという三木は、大学では歴史哲学を研 究課題としていた。それは、当時日本でも流行していた新カント派、とくにヴィンデルバントとリッケルトの影 響を強く受けたからである。その頃は和辻哲郎に代表される文化史と坂口昂に代表される世界史とが歴史哲学の 中で活発に議論されていた二/四〇三︶。前者の傾向は、明治期以来の啓蒙思想に対する反動から始まった、大 正時代の教養主義、文化主義の反映でもあった。    ﹁あの第一次世界戦争といふ大事件に会ひながら、私たちは政治に対しても全く無関心であつた。或ひは   無関心であることができた。やがて私どもを支配したのは却つてあの﹃教養﹄といふ思想である。そしてそ   れは政治といふものを軽蔑して文化を重んじるといふ、反政治的乃至非政治的傾向をもつていた。それは文   化主義的な考へ方のものであつた。あの﹃教養﹄といふ思想は文学的・哲学的であつた、それは文学や哲学   を特別に重んじ、科学とか技術とかいふものは﹃文化﹄には属しないで﹃文明﹄に属するものと見られて軽 92

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  んじられた。﹂︵一/三八九ー三九〇︶  このような学問風土の中で育った当時の三木にとって、ドイツの厳しい現状に対する意識は、前述の石原宛書 簡に見られるように、ドイツの現実に生ける生活者、哲学者としての意識であるというよりは、裕福な留学生と しての意識の域を出ない。なるほど目前で繰り広げられる政治状況の変化は、三木にとってもそれ相当に衝撃で あったと思われるが、三木が関心を抱いていたという﹁歴史﹂も、彼が目の当たりにしている現在のドイツの歴 史というより、あくまでも新カント派の影響による歴史哲学であり、したがって、それは﹁主として歴史的認識 に関する方法論、認識論の形式的論理的問題﹂であった二/四〇五︶。この認識論的傾きから出て、時代の持つ 不安を一身に担った歴史哲学、すなわちディルタイやハイデガー、そしてニーチェやキルケゴール、ドストエフ スキーなどの哲学に三木が目を開かれるようになるのは、彼がマールブルクに来てからのことである。  たしかに、三木は京都帝国大学在学中から﹁ライプニッツ哲学と個性概念﹂二九一九年︶、﹁個性について﹂ (一 纉〇年︶などを発表し、卒業論文では﹁批判哲学と歴史哲学﹂を書き、個性の独一性を強調している。﹁個 性の評価は直ちにその全体に向ふべきであつて﹂、そのためには﹁特殊的なもの、非合理的なものの理性必然性 の演繹されることが必要﹂である︵二/三六︶。そこで働いているものは現実的自由であり、善をも悪をも為す 自由であり、その意味で﹁悩しき自由﹂ではあるが、それは﹁何等か新しきものを産まうとして健康に孕める者 の悩しさ﹂である。そのような現実的自由、創造的自由こそ歴史的自由と呼び得るものである︵二/四五︶と三 木は結論づけている。  内田弘は、このような三木の個体概念の自立性に関する問題意識をつぎのように説明している。﹁明治国家と して実現した﹃社会的普遍﹄はおおよそ﹃個体の自由﹄を実現する場ではなく、逆にそれを圧殺する権力構造で 93 三木清のドイツ留学生活

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あった。そこに、三木が執拗に、普遍者の自由に対して個体の自由の可能性を要求するリアリティがあったので ある。普遍者の自由と個体の自由との結合はいかにして可能かという、抽象的な哲学的問いで三木が設定した問 題は、その裏に明治国家の︿統治の正統性﹀を問うという﹃幸徳問題﹄が潜んでいたのである。三木はこのきわ どい問題を自覚していた。この問題意識をもってドイツ留学に赴いたのである﹂︵内田﹁ハイデルベルクと三木清﹂ 六二︶。だが、内田が指摘することはあくまでもマールブルク以後のことであるように、私には思われる。    ﹁ハイデルベルクにいた頃、私は日本を出てまだ間もないことで、京都以来の論理主義を離れず、カント   やゲーテのドイツ以外を深く理解することができなかつた。ハイデルベルクにはリッケルト教授と並んでヤ   スペルス教授がいて、ニーチェやキェルケゴールを講義していたが、私は二三度出席してみただけであつ   た。︵中略︶要するに私のハイデルベルク時代は哲学的には京都時代の延長であつた。私の集めた本にも論   理学や方法論に関するものが多かつた。﹂︵一/四一六︶  一九二三/二四年の冬学期が始まる一〇月中旬、三木清はハイデルベルクを去ってマールブルクへ移った。当 時のハイデルベルクの人口が約七五〇〇〇人であるのに対し、マールブルクの人口はその三分の一の二三五〇〇 人であり、冒頭で触れたように、ここは文字通りの大学町で、人口の一割が学生である。当時、ドイツが空前の インフレ状態だったこともあって、ドイツ各地に日本人留学生がいた。三木は、日本人の友人が大勢学んでいる ハイデルベルクを去って、単身でマールブルクに来たが、彼の予想に反し、ここにも多くの日本人留学生がい た。彼がマールブルクで知り合ったのは、鈴木弘、守屋貫教、四宮兼之、長屋喜一、山下徳治らであった二/ 四一八︶。マールブルクは、コーエン、ナトルプらにより新カント派の居城として日本でも知られ、二〇年代に 入ってもナトルプは教育学の方面で、ハルトマンやハイムゼート、ハイデガーらは哲学で、宗教学では﹃聖なる 94

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もの﹄の著者ルドルフ・オットーと弁証法神学のブルトマンが活躍していた。    ﹁私自身はハイデッゲル教授を目標としていた。といふのは、ちやうど私がマールブルクへ行つた学期に、   ハイデッゲル教授はフライブルクからマールブルクへ招聴されたので、私は主として氏に就いて学ぶために   ハイデルベルクから転学したのであつた。﹂二/四一九︶  三木のこの証言を読むと、あたかも三木は、ハイデガーがフライブルクからマールブルクに移ったのにあわせ て、ちょうどガーダマーやレーヴィットらがさらにハイデガーのもとで学ぶためについてきたのと同じように、 マールブルクへ来たかのようである。しかし、ハイデガーがたとえ後に二〇世紀最大の哲学者と呼ばれるように なったとしても、当時はまだ教授資格論文のみが唯一の業績と言える無名の私講師にすぎなかった。たしかに、 フライブルクでは独自の講義方法で学生たちを夢中にさせていたとはいえ、旅行もせずハイデルベルクでひたす ら勉強に励んでいた三木清が無名のハイデガーを目指して来るというのは不自然である。まして、ハイデガーが ﹁独逸における唯ひとりのアリストテレス学者﹂二/四四六︶だとする三木の報告も、また初めてハイデガーに 会った際に三木が、自分はアリストテレスを勉強したいと語ったというのも、腋に落ちない。  プラトン研究者の田中美知太郎はこの点についてかなりしつこく追究している。田中によれば、もしハイデル ベルク時代が三木の言うように京都時代の延長というのであれば、そこでは結局何も新しいことは起こらなかっ ただろう。ドイツの学生なみに次の学期を別のところで学ぶことにして、それがたまたまマールブルクだったの が大きな変化を結果することになった。三木がマールブルクへ行ったのは、そこがコーエンやナトルプら新カン ト派のもう一つの中心地であり、日本でもなじみの土地であるから、﹁何気なく第二の勉強の場所として、そこ を選んだのではないか﹂。三木自身コーエンの著書を抄訳しているし、西田幾多郎や田辺元がリッケルトよりも 95 三木清のドイツea学生活

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コーエンを重んじていた京都の学問的雰囲気なども若干の作用をしているだろう。三木の﹃読書遍歴﹄には、あ たかもハイデガーを目指してマールブルクへ行ったように書かれているが、これは後からの回想にすぎない。そ もそも、三木がマールブルクへ行く前にハイデガーについてどれだけの知識をもち、どうしてハイデガーを目標 とするようになったのか、その点のプロセスはほとんど何も説明されていない。むしろ、ハルトマンこそコーエ ン、ナトルプの正統の後継者であり、マールブルク大学の代表的哲学者はハルトマンだった。当時の三木がハル トマンを全く無視して、まだあまり仕事の知られていないハイデガーを目指してマールブルクへ行ったとは信じ られない。実際はむしろ、ハルトマンに多くのものを期待してマールブルクへ行ったのだ。あるいはハイデルベ ルクの三木はリッケルトのもとからフッサールのもとへと移って行ったこの未知の哲学者について、何か内輪の 批評なり噂なりを聞いて、かなりの好奇心をもっていたかも知れない。しかし、三木がハイデガーについてどれ だけの予備知識をもっていたか疑わしい。アリストテレスを勉強するために、わざわざマールブルクのハイデガ ーのところへやって来るなどということは、どう見てもおかしい。三木が京都時代から考えていた歴史哲学に、 ハイデガーが特別の興味を持つとも考えられない。ハイデガーが当代ただ一人のアリストテレス学者であるなど ということをホフマンやフリードレンデルが本気で言ったなどとは信じ難い。三木が﹁直接聞いた﹂というの は、あまり古典的教養が深いとは言えないリッケルトなどとの比較において、中世哲学に興味をもち、プラトン とくらべてアリストテレスについて知ることの少ない当時の哲学畑の人たちのうちで、ハイデガーがアリストテ レスもよく読んでいるということを、いわば珍しい存在として唯ひとりの人というように呼んだのではないか。 しかしたとえ聞き違いだったとしても、三木がそう信じてマールブルクに行き、ハイデガーを訪ねて、その志を 述べたということは事実として認めなければならない。三木の主観においては、その後もハイデガーとアリスト 96

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テレスはかたく結びつくところがあったのかも知れない︵田中三四ー三九︶。  おもしろい推測であり、しかもそれなりに説得力がある。とくに、三木がマールブルクへ来たのはハイデガー ではなくハルトマンを目当てにしてのことではないかとの推測は、三木が森五郎や田辺元などに繰り返しハルト マンに失望したとか﹁世間の評判など案外当てにならぬ﹂︵一九/二二九︶と悪評ないし苦言を述べていることか ら逆に考えられることである。しかし、田中の推測がすべて当たっているとはもちろん言えない。それはとくに フライブルクならびにマールブルク時代の情報が近年多く入手できるようになったハイデガーについて言える。 著名なギリシァ哲学研究者である田中がハイデガーをアリストテレス研究者として認めたくないという意地が、 ここでの推測を歪めたと言えなくもない。  まず、三木がハイデガーに関してあらかじめどれだけの知識があったのか、という疑問だが、三木自身の証言 としては一九二四年一月一日付の﹁消息一通﹂の中に﹁或る日私がリッケルトと話しましたとき、リッケルトが ﹃ハイデッゲルは非常に天分の豊かな男であるから、彼の思想はこれから後もまだまだワンデルンするでせう﹄ と云ったのを覚えています﹂二/四四六︶という一節がある。マールブルクへ移った後に三木がハイデルベルク でリッケルトに再会するのは二四年三月下旬か四月上旬だから、これは三木がまだハイデルベルクにいたときの 話である。ハイデガーはフライプルクではリッケルトに学び、リッケルトのもとで教授資格を得たのだった。し たがって、リッケルトが一八九四年にハイデルベルクへ移籍した後もハイデガーとは何かと連絡をとりあってい たと思われるし、またハイデガーは就職先を求めてあれこれと運動をしていたので、自分の指導教授だったリッ ケルトに対しても自分の最近の仕事を逐一伝えていたと思われる。  また、フライブルクではフッサールの現象学を学ぶために、伊藤吉之助、山内得立、木場了本、藤岡蔵六、小 97 三木mのドイツ留学生活

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山靹給、田辺元などがいたが、そこでの彼らの勉学ぶりは三木の京都での指導教授である西田幾多郎にも伝えら れていた︵西田二五八︶から、それは三木にも間接的に伝えられていたかもしれない。また、ハイデガーにも関 説する﹃現象学に於ける新しき転向﹄︵二四年︶や﹃認識論と現象学﹄︵二五年︶などを発表した田辺元はフライ ブルクで直接ハイデガーから学んでおり︵茅野三三一︶、三木は田辺元と文通を交わす間柄であったから、田辺か らハイデガーについて一定の情報を与えられていた可能性も十分ある。ハイデルベルクには大勢の日本人留学生 が頻繁に出入りしていたから、ドイツ各地の大学情報も相互に交わされていたにちがいない。  ハイデガーの業績が一九一五年の教授資格論文以外ほとんどなかったのは事実であり、それが彼の就職を困難 にしていたのだが、一七年にマールブルクからゲッティンゲンに転出したミッシュの後任にハイデガーを迎えた いとの意向をナトルプはフッサールに伝えており、二〇年のヴントの後任人事の際にも同様の趣旨を伝えている ことからすると、ハイデガーの評判はフライブルク内にとどまっていたわけではないようである。二二年=月 一九日付のハイデガーからヤスパース宛の書簡にこう書かれている。﹁私を待ち受けていたのはフッサールの次 の知らせでした。すなわち、マールブルクではみんなが私のアリストテレス講義その他について情報を持ってい るということ、そしてナトルプが、私の企てている研究について具体的な説明を得たがっているということ、こ れでした。それで私は、この三週間ほど机に向かいっきりで、自分で自分の書きものから抜き書きを作り、それ に﹃序論﹄を書きました。その全体を私はそれから口述筆記させ︵六〇頁です︶、フッサールをとおして一部ずつ マールブルクとゲッティンゲンに送りました﹂。当時、この論文をナトルプから読むよう指示されたガーダマー は、その時の気持ちを次のように回想している。﹁ハイデガーの噂はもうだいぶ前から学生の間にひそかに広ま っていた。︵中略︶ハイデガーがナートルプ宛に送ってきて、彼のマールブルク招聰の基となった論文原稿を読 98

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んだとき、私はたちまち呪縛されたようになった。そこではアリストテレス釈義の解釈学的状況の確定作業が積 み重ねられ、ルターとガブリエル・ビール、アウグスティヌスと旧約聖書がいきいきと蘇り、それとともにギリ シァ的思惟の特性と原初性が明瞭に現れてくるのであった﹂︵ガーダマー二七︶。ハイデガーに感激したガーダマ ーはその後二三年夏学期にフライブルクでハイデガーに直接学ぶことになり、秋にハイデガーがマールブルクに 赴任すると彼について再びマールブルクへ帰っている。ガーダマーのようにハイデガーについてくる学生は、レ ーヴィットほか大勢いたようで、ハイデガーはヤスパース宛書簡の中で、ハルトマンの鼻をへし折るためにコ 六名の学生から成る特別攻撃部隊が、私と一緒にマールブルクに移るのです﹂︵二三年七月一四日付︶と自慢げに 書いている。このような証言をもとに考えると、ハイデガーに関する一定の評判を三木がマールブルク来訪以前 にあらかじめ聞き知っていたことは十分ありうる。  ハイデガーが﹁今の独逸における唯ひとりのアリストテレス学者﹂であるという話については、ガーダマーの 証言を信じる限り、もはやこれ以上詳説する必要はないだろう。一九一五/一六年冬学期にハイデガーはフライ ブルクで私講師として﹁古代哲学史﹂を講じ、一六年夏学期にはクレーブスと協力してアリストテレスについて の演習を行っている。一一三年にフッサールがナトルプへ書き送った推薦状でもハイデガーのアリストテレス研究 の独自性が讃えられ、マールブルク大学哲学部がプロイセン文部省に提出した報告書でもとくにアリストテレス に関する彼の業績が称賛されている。ハイデガー自身アリストテレス研究は決して片手間のことではなく、彼の 現象学研究に必須のものであった。ハイデガーは後に﹁私は、現象学的に見ることと親しむ度合いが増し、アリ ストテレスの著作の解釈が判然とするだけ、ますますアリストテレスやその他のギリシアの思惟者たちと離れら れなくなった﹂︵N烏Q力8冨色①ωO。昇mコ。。°弓已日ぬ自一ΦΦρQ。°°。①︶と回想している。このことは、三木清の森五郎宛 gg 三木清のドイツ留学生活

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の多くの書簡でも縷々報告されている。当時ハイデガーはアリストテレスの研究者として知られていたのであっ て、田中美知太郎の評価は間違っている。むしろ疑問なのは、ハイデガーにとってのアリストテレスではなく、 三木清にとってのアリストテレスなのだ。なぜ三木はアリストテレスを勉強するつもりでマールブルクへ行った のか。むしろ、ハイデガーに感化されてアリストテレスを勉強するようになったのではないか。    ﹁マールブルクに着いてから間もなく私は誰の紹介状も持たずにハイデッゲル氏を訪問した。︵中略︶何を   勉強するつもりかときかれたので、私は、アリストテレスを勉強したいと思ふが、自分の興味は日本にいた   時分から歴史哲学にあるのでその方面の研究も続けてゆきたいと述べ、それにはどんなものを読むのが好い   かと問ふてみた。そこでハイデッゲル教授は、君はアリストテレスを勉強したいと云つているが、アリスト   テレスを勉強することがつまり歴史哲学を勉強することになるのだ、と答へられた。そのとき私には氏の言   葉の意味がよくわからなかつたのであるが、後に氏の講義を聴くやうになつて初めてその意味を理解するこ   とができた。即ち氏に依れば、歴史哲学は解釈学にほかならないので、解釈学がどのやうなものであるかは   自分で古典の解釈に従事することを通じておのつから習得することができるのである。﹂︵一七/二七四︶  歴史哲学は解釈学であり、したがってアリストテレス解釈をやることが歴史哲学になる、というのはすごい推 論だが、とにかく三木はハイデガーの指示に従いアリストテレス研究を続けた。三木はハイデガーから紹介され たガーダマーの指導の下で、アリストテレスの﹃形而上学﹄と﹃ニコマコス倫理学﹄を読んだ。  マールブルクで三木が何を学んだのかは、森五郎や田辺元宛の数多くの当時の書簡、一九二四年一月の﹁消息 一通﹂、四一年の﹁読書遍歴﹂などから知られるが、そこで名前の出てくるアリストテレス、アウグスティヌス、 トマス、デカルト、フッサール、ディルタイ、さらに言語哲学や﹁具体的事実の研究﹂、No三﹂090︷で No一合oP 100

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白Dリ日ひo一一〇霧Φ一ロ.、一6古已コαご∋≦o一⇔.、などはいずれもハイデガーの講義内容に対応したものである。講義要綱で ﹁近代哲学の始まり﹂という題名で予告された一九二一二/二四年冬学期の講義は実際には﹁現象学研究入門﹂と いう題で行われ、その内容は現在﹃ハイデガー全集﹄で知ることができる。それによれば、ハイデガーは最初に アリストテレスに即して現象とロゴスとの関係を問い、さらにそれをフッサールの問題提起に従いつつデカル ト、さらにはトマスに遡って追究している。三木がアリストテレス研究に打ち込み、その後言語哲学に興味を示 し、﹁原始的なる理解の構造﹂と題する論文の執筆に着手し、その後このためにはもっと包括的な範躊としての 歴史的存在を解明しなければならないと言い、また歴史的発展を辿っていってデカルトに戻ったと書き送り、つ いには﹁フランスへ移らうかと考へる﹂ようになって行く、その遍歴は、あえて言えばハイデガーの講義の進展 そのままである。ガーダマーが証言していたように、ハイデガーのアリストテレス研究はきわめて独創的なもの であり、それに触れた学生たちを惹きつけずにはおかないものだった。  ハイデガーの講義もまた、阿部次郎が見聞したリッケルトの講義とは比較にならないくらいに斬新なものだっ た。夏の講義は毎朝七時開始だった。ハイデガーはいつも、 ﹁黒い目の、背の低い山岳農民の体で、その気性は どんなに抑制し律しても何度も表に出てくる﹂︵ガーダマー二五八︶というタイプの人で、背広を着ることはな く、﹁画家オットー・ウベローデのデザインになる、ちょっと農民服風の新しい紳士服﹂︵同前二五九︶を着てい た。ハイデガーの講義は、﹁研究と著作に主力を傾注する教授の﹃授業という名の催し物﹄ではなかった。ハイ デガーによって、いわば著書が口をきく長大なモノローグの優位は失われた。ハイデガーが与えたのはそれ以上 のものであった。それは革命的思索者の全力のーそれもなんという天才的な力のーー占兀全投入であった﹂︵同 前二五七︶。授業が始まると、息もつかせぬ問いの連続で、聴講者たちはその問いから発する電光に撃たれ、半 101 三木清のドイツ留学生活

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ばしびれて動けなくなった。このようなハイデガーに直に触れて、三木がハルトマンへの興味を失ったとしても 不思議ではない。三木はハイデガーの語るままに自らの関心を次々と広げていったのである。  最後に、マールブルクで三木が知り合った人の中で、もう一人忘れてはならない人がいる。カール・レーヴィ ットである。    ﹁マールブルクにいる間、そしてその後も時々文通によつて、私の読書を指導してくれたのはレーヴィッ   ト氏であつた。私は氏によつて単に哲学のみでなく、広く精神史の中に導き入れられた。ディルタイとか、   更に遡つてシュレーゲルやフンボルトなどに対して私の眼を開いてくれたのはレーヴィット氏であつた。特   に氏によつて私は当時の多くのドイツの青年をとらへていたあの不安の哲学とか不安の文学の中へ連れて行   かれた。私も二ーチェやキェルケゴールなどを愛読するやうになり、殊にドストイェフスキーの小説を耽読   した。その頃のドイツは全く精神的不安の時期であつた。﹂二/四二四︶  ドイツで二年間学んだ三木は、迫り来る時代の不安とニヒリズムを身体で感じつつ、とりわけハイデガーとレ ーヴィットからその哲学的・思想的背景を学ぶことによって、日本を発つときに抱いていた﹁歴史哲学﹂の中身 を大きく転換させることになった。それは、歴史の論理、歴史の認識論的基礎付けではなく、歴史的存在の生の 実態であり、生の解釈としての哲学である。それは、内田弘が指摘する﹁ハイデガーの存在論の非実践性・非社 会性・非歴史性﹂︵内田﹁三木清の自由主義思想と創造的社会論﹂一〇四︶ではなく、レーヴィットが指摘する﹁デ ィルタイの歴史的相対主義を極端に推し進めて、各自的な有限的な現存在の無条件な歴史性へ還元してしまっ た﹂︵レーヴィット八五︶ハイデガーの実存的存在論の持つ危険性への直観によるものである。    ﹁ハイデッガーひとりのために冬をここで過ごすことは私には多少疑問である。それに日本へ帰るまでに 102

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独逸の学問に対しても勺o誘Ooζ﹂<をもつて反省してみることも私には必要に思へる。︵中略︶暫く遠ざけら れていた美や道徳に関する反省が再び私の中に頭を撞げつつあることも今度の移動の決心に対する一つの動 機である。﹂︵ 九/二六五︶ 一九二五年八月二〇日、三木清はマールブルクを発ってパリへ向かった。 ︻引用文献︼ ﹃三木清全集﹄全一九巻、岩波書店、一九六六∼六八年︵文中、一/一二三とあるのは本書第一巻一二三頁を意味する︶ 阿部次郎﹁游欧雑記・独逸の巻﹂﹃阿部次郎全集﹄第七巻、角川書店、一九六一年 天野貞祐﹁忘れえぬ人々﹂﹃天野貞祐著作集﹄W、細川書店、一九四九年 荒川幾男﹃三木清﹄紀伊国屋書店、一九六八年 生松敬三﹃人間への問いと現代﹄日本放送出版協会、一九七五年 生松敬三﹃ハイデルベルク﹄講談社学術文庫、一九九二年 出隆﹁出隆自伝﹂﹃出隆著作集﹄七、勤草書房、一九六三年 内田弘﹁ハイデルベルクと三木清﹂、石塚他編﹃都市と思想家H﹄、法政大学出版局、一九九六年 内田弘﹁三木清の自由主義思想と創造的社会論﹂﹃専修大学社会科学年報﹄第二四号、一九九〇年 ガーダマー﹃ガーダマー自伝 哲学修業時代﹄︵中村志朗訳︶未来社、一九九六年 茅野良男﹃初期ハイデガーの哲学形成﹄東京大学出版会、一九七二年 田中美知太郎﹁時代と私﹂﹃田中美知太郎全集﹄第=二巻、筑摩書房、一九八七年 ﹃ハイデガー・ヤスパース往復書簡 一九三〇∼一九六三﹄︵ザーナ編、渡辺二郎訳︶、名古屋大学出版会、一九九四年 羽仁五郎﹁わが兄・わが師三木清﹂﹃回想の三木清﹄三一書房、一九四八年 レーヴィット﹃ハイデッガー﹄︵杉田泰一・岡崎英輔訳︶未来社、一九六八年 呂①﹁晋=①己。ぴqひq。﹁−○。°・①ヨ[宕ω∞Q書ρ一一゜﹀ぴ[豊旨卵q”<。﹁一①ω旨ひq窪 一㊤G−一・⊃軽偶゜ぽえ一べ.因己己≡編ぎユ一。 103 三木清のドイツ留学生活

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参照

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