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地方行政論の課題

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Academic year: 2022

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(1)

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はじめに一

曰 論

研 究 方 法 口 地 方 自 治 の 歴 史 国 外 国 の 地 方 制 度 四 地 方 自 治 の 理 念

構造的側面

H

総説 口 区 域 口 住 民 四 国 と 地 方 と の 関 係 固 大 都 市 制 度 因 行 政 改 革

地 方 行 政 論 の 課 題

五 文

(2)

昭和ニ︱年の第一次地力制度改革及び昭和二二年の地方自治 法制定により︑都道府県の完全自治体化及び知事・市町村長の 公選制を核心とする新しい地方自治制度が形成されて以来一

・ ‑ 0

数年︑わが国の地方自治は︑制度の改革及びその運営をめぐっ て幾多の論議を重ねてきた︒私もまた︑種々の立場より制度の 企画立案ないし運営の一端に関与してきた︒本稿は︑そのよう な経験をもふまえながらの現段階における私なりの研究課題で ある︒もとより研究途上のメモに過ぎず︑本来ならば公表すべ き段階ではない︒しかし︑学生とともに思索をするという﹁香 川法学﹂刊行の目的にもかんがみ︑この段階で私なりの地方行

政論の体系の一応の整理を試みることとした︒

オf 日本国惣法は︑地方自治の保障について新たな条章を設け︑

戦後におけるわが国の地方自治の研究は︑日本国憲法に現定す る地方自治の理念の解明から出発した︒そして︑戦前における わが国の地方制度の沿革︑諸外国の地方制度及び地方自治に関 する理論の研究の成果のもとに︑日本国憲法の地方自治に関す

る現定の立案の経過ないし趣旨に基づき︑﹁地方自治の本旨﹂と

は﹁住民自治﹂及び﹁団体自治しよりなるとする通説が形成さ

は じ め に

行政に関する科学を︑行政学︑行政法学及び行政政策学に区 2

行 政 学

1

行 政 法 学

地方自治は︑憲法︑行政法等の法律学及び行政学を中心とし︑

政治学︑財政学等各種の研究分野の対象とされている︒

地方自治は︑法律学としては︑憲法は別として︑主として行 政法学の対象とされてきた︒しかしながら︑このことは多分に 沿革的な理由に基づく︒地方公共団体に関する法制のうち︑選挙 は︑公職選挙法という国の選挙と同一の法体系の下にあり︑議 会の組織及び運営に関する理論は︑会議原則をはじめ国会と共

通する分野が少なくない︒

分する学説があるが︑地方自治は︑行政法学と並んで行政学の

研究対象とされてきた︒

他の諸分野におけると同様︑行政学も行政自体の発展に対応 し︑行政の機能が重視された国において発達してきた︒行政学

の起源はドイツの絶対君主制下の宜房学にあるといわれるが︑そ

の後ドイツにおいては︑立憲君主制のもとにおける行政法学に

とってかわられた︒他方︑

アメリカにおいては︑行政機能の増

日 研 究 方

一 六

2 ‑‑1 ‑116 (香法'82)

(3)

地方自治の研究方法に関し︑︱つの示唆を与えるものに︑ については相補うものとみるべきである︒ 大︑猟官制の弊害等の背景のもとに︑な行政ないし近代的官僚制の育成の要請に対応して発展してき わが国の今日の行政学は︑大正末期以後蠍山政道︑田村徳治

両教授達により創設されたものであり︑戦後アメリカ行政学の

影響のもとに発展してきたが︑特に︑地方自治へり関心が強く︑

数多くの研究業績がある︒しかし︑今日なお行政学としての研 究分野ないし体系が確立されているとはいい難く︑発展途上の

学問といわれる︒

地方自治は︑政治学︑社会学その他各方面の学問分野の対象 である︒行政学がもともと政治学から分化したことよりもうか

がわれるように︑政治学と行政学との関係は難しい︒これに対し

て︑行政学と財政学︵地方財政論︶ 3 そ

の 他

こ ︒

は︑地方自治に関する研究 メリカの行政学者ワルドーの提案になるプロフェショナル・ア

プローチという考え方がある︒政治・行政分断論に立つ伝統的 なアメリカ行政学は︑大恐慌と第二次世界大戦の過程において

種々の批判を受け︑﹁混迷の時代﹂であるといわれ︑種々の立場

より新しい方向が模索されている︒ワルドーは︑このようなア

一八

0

年代以来能率的

一 七

メリカ行政学の現状を何が行政学であるかをめぐっての﹁一体

性の危機﹂であるとして︑これを克服する途としてプロフェショ

ナル・アプローチを︑モ張する︒その趣旨は︑行政学のように広

ることは難しいとして︑科学と技術︑理論と実践︑研究と応用

を含む医学との類似において︑多様な関心と日的を包含し︑

の採用を主張する︒

うことである︒ し

このワルドーの提案が行政学においてどのように取り扱われ るかは不明である︒しかし︑この考え方は︑地方自治の研究の

方法論に︱つの示唆を与える︒すなわち︑地方自治の研究には︑

ワルドーの主張するプロフェシコナルな視角が必要であるとい 本稿は︑地方自治に関する私の研究課題で︑主として行政学

的立場により︑行政法学とともに︑地方自治の一般的な構造及 び機能を解明することを目的とする︒その意味において﹁地方

行政論﹂と仮称する︒

地方行政に関する研究は︑従来︑二つの側面からなされてき た︒その一は︑区域と住民からなる地方団体と対象とするもの であり︑地方自治︑地方制度︑地方自治制度等の名において論

じられてきた︒この分野は︑国に対し︑自治権︑地方分権等を かも︑統一の方向と目的感覚を提供しうる広汎で流動的な視角 汎な研究領域をもつ学問分野にあっては︑単一の理論を構成す

(4)

明治維新以前には︑藩及び村落共同体としての村のほか︑古 来の地理的区画としての国︑郡があった︒明治四年に廃藩憤県

0

︵ 三 九︶が行われ︑区︵後に大区︑小区に分つ︶が設けられ

る︒明治︱一年にいわゆる三新法︑すなわち︑郡区町村編制法︑

府県会規則及び地方税規則が制定された︒近代的自治制度の出

発点とされる︒

明治一四年国会開設の大詔が発せられ︑立憲政治の基礎とし 1日本国憲法制定前 (二)

主張し︑制度の面から国の行政と独自の考察を要するものが多

い︒その二は︑国の行政に対応し︑行政組織の営む行政を対象

とするものである︒この分野は︑行政の目的︑政策︑管理︑責 任等国の行政と共通の課題であり︑行政機能の面からの考察を 要するものが多い︒本稿においては︑前者を構造的側面︑後者 を機能的側面として整理することとした︒もとより︑両者の視 点は交錯し絶対的なものではなく︑従来の地方自治の研究の動

向に従った便宜的なものに過ぎない︒

地方自治の歴史

地方自治は︑地域社会を基盤とするものであり︑その歴史は 地域政策と密接な関係を有する︒これがため︑戦後における地

方自治の歴史は︑地域政策との関連において述べる︒

める

2  て地方自治制度の制定に着手し︑明治ニ︱年市制町村制︑明治二三年に府県制及び郡制が制定された︒これらの制度は︑プロイセンを範としたが︑その後わが国情に即し︑数次の改正が行われる︒郡制は大正一

0

年に︑郡役所は同一五年に廃止される︒

さらに︑いわゆる大正デモクラシーの風潮のもとに︑大正一五

年︑昭和四年には地方自治権の強化が図られる︒

しかし︑その後地方自治の危機の時代を迎え︑戦時体制の強

化のため昭和一八年の地方制度の改革がなされ︑終戦となる︒

日本国憲法制定後

① 昭 和 二

0

年代 戦後の都市の戦災復典︑生活必需物資の増産︑インフレが最

大の課題であり︑昭和二三年末の経済安定九原則を契機とする

﹁ドッヂ・ライン﹂のもとに︑経済の再建が漸く緒につきはじ

その中において︑

GHQ

の監視の下に︑地方行政の民主化︑

地方分権の徹底を主眼とする地方制度の改革が推進された︒す

なわち︑昭和ニ︱年の第一次地方制度改革に引き続き︑昭和二

二年に地方自治法が制定され︑さらに税財政︑警察︑教育等の

制度改革も行われた︒次いで︑昭和二四年のいわゆるシャウプ

勧告に基づき︑地方税財政制度の改革が行われるとともに︑昭

和二五年地方行政調査委員会議の行政事務再配分についての勧

2 ‑ 1 ‑118 (香法'82)

(5)

昭和三五年の所得倍増計画を契機とし︑ 告がなされた︒

わが国経済は高度成 昭和二五年の朝鮮事変を契機として︑わが国の経済再建もようやく軌道に乗る︒同時に︑昭和二七年の講和条約の発効を迎え︑国及び地方を通ずる行政制度の再検討が行われる︒即ち︑昭和二六年のいわゆる政令諮問委員会の答申︑さらに昭和二八年の地方制度調査会の答申に基づき︑昭和二七年及び昭和三:年の地方自治法の改正︑昭和二九年の地方税財政制度︑警察制度の改革︑昭和三一年の教育制度の改革が行われる︒そのほか︑この時期において注目すべきものは︑昭和二八年の町村合併促進法及び昭和三

0

年の地方財政再建特別措置法である︒

一方︑地域政策の面においては︑昭和二五年国土総合開発法

が制定され︑特定地域総合開発が推進される︒開発目標は︑資源

開発と災害の防除が中心であり︑開発方式としてはTVA式を

範とした多目的ダム︑電源開発が注目された︒

, ̲︐  

,1 , 

昭和三

0

年代

当初は制度改革が一段落し︑地方自治の近代化の名の下に︑

新市町村の建設︑地方財政再建等自治行政の運営の面に関心が

指向される︒地域政策の分野においては︑東北開発促進法をは

じめとするプロック開発法に対し︑首都圏整備法等の先進地域

の産業基盤整備が課題となる︒

一 九

長期に入る︒所得倍増計画における﹁大平洋ベルト地帯構想﹂

には後進地域に不満が強く︑昭和三七年全国総合開発計画が策

定される︒同計画は︑工業化を開発の軸としつつ︑拠点開発方

式を採用し︑新産業都市建設促進法が制定される︒

このような地域開発及び広域行政の要請に応えるため︑市町

村の再合併︑地方開発公社の設立等が進められる︒

3 昭和四

0

年代

昭和三

0

年代末から経済の高度成長の成果とひずみが現れ︑

地域較差︑過疎︑過密等の地域問題が課題となり︑昭和四

0

年 代前半は︑都市・土地問題と過疎問題が関心の的となる︒昭和

四四年新全国総合開発計画が策定され︑開発方式として︑ネッ

トワーク︑大規模開発プロジェクト︑広域生活隧方式が採用さ

環境問題の深刻化と国民意識の変化に対応し︑昭和四五年末

いわゆる公害国会が開かれ︑関係諸立法が制定され︑環境庁が

設置される︒次いで︑昭和四七年の田中内閣による日本列島改

造論の提唱及び土地プームの混乱に対し︑昭和四九年国土利用

計画法が制定され︑国土庁が設置される︒

この時代の特に後半は︑﹁都市政治の時代﹂といわれ︑﹁革新

自治体﹂が輩出し︑市民参加論が論議の的となった︒

④ 昭 和 五

0

年代

れる

(6)

地方制度の研究には︑外国制度との比較が重要である︒しか

し︑わが国の地方制度の研究にとっては︑外国制度の研究はそ

れ以上の意味をもつ︒わが国の地方制度は︑明治時代にプロイ

センの︑戦後はアメリカの制度の継受のもとに形成された︒外

国制度の研究は︑わが国の地方制度の母法ないし原理の研究の

意味をも有するからである︒

欧米先進国における地方自治については︑住民自治の思想は

主としてイギリスにおいて発達し︑団体自治の思想は主として

ドイツにおいて発達したといわれる︒また︑住民自治の制度の

特色が機関単一主義︑事務の個別的指定主義︑立法監督の重視

にあるのに対し︑団体自治の制度の特色は機関対立主義︑事務

曰 外 国 の 地 方 制 度

行っ

た︒

カウンティ・バラ

︵改

革前

︵ 七

九 ︶

準じた改革が行われている︒ 幻イングランドは︑9

̲︐ 一九七二年の地方行政法等により︑次の

こ ︒ 昭和四八年の石油危機を契機として︑世界的にはアメリカの

時代の終り︑わが国経済の低成長期を迎え︑新しい時代の模索

が始まる︒昭和五二年第三次全国総合開発計画が策定され︑定

一方において︑地方の時代︑地域主義等が叫ばれ︑地方自治

に対する期待が高まると同時に︑国の財政再建︑行政改革が課 の概括的委任主義︑行政監督の重視にあるとする学説がある︒一般的傾向としては認められるとしても︑もとより︑国により︑

正式には︑﹁大プリテン・北アイルランド統合王国﹂と呼称さ

れ︑イングランド︑

ドン・カウンティ︑

ウエ

ール

ズ︑

スコットランド︑北アイルラ

ンド等に分けられ︑各地方は地方制度の上でも異なる︒

により構成されていた旧ロンドン地域を周辺地域と統合し︑大

ロンドン都︑ロンドン市及び三ニロンドン・バラに再編成され

ような改革が行われた︒なお︑

︵改

革後

その他の地方においてもこれに

︵ニ

ニ七

,  

r ‑ ‑ h  

ル ア バ

I  I ラ

ラ バ ル ン

. .  

デ デ イ イ

ス ス

ト ト リ リ ク ク ト ト

四 四ー 四

^  

〇 九

-、~

ロンドン市及び二八メトロポリタン・バラ

田首都ロンドンは︑

一九六三年ロンドン行政法により︑ 題となり︑昭和五七年七月第二次臨時行政調査会は基本答申を 住構想が提示される︒l

イ ギ リ ス

時代により︑多様であり︑一律には論ぜられない︒

︱ 二

0

ロン

2 ‑ 1 ‑120 (香法'82)

(7)

西ドイツは連邦国家であり︑ 2

西 ド イ ツ

決権及び執行権を有し︑それ自身が法人格を有する︒

なお︑改革後における非都市圏のカウンティの平均人口は

ヒ一ガ︵二四五万ー一二万︶︑

であ

る︒

万︵

四︱

︱万

ーニ

・四

万︶

③イングランドの地方団体の組織は︑

委員会︶及び事務組織︵行政各部︶ カウンシル

から

なる

︵本

会議

・ カウンシルは議 議長は︑形式

K

儀礼上地方団体を代表する︒﹁市﹂又は﹁バ

ラ﹂という特別名称を使用することを認められている団体に あっては市長

(M

ay

er

)

という称号を用いる︒

︱︱州︵うち三州は都市州︶か

らなる︒各州はそれぞれ憲法をもち︑地方制度も州により異な る︒行政単位の基本的仕組みは︑連邦ー州ー州政府管区ー郡・

特別市ー市町村であり︑郡以下が地方団体である︒

田郡は︑地方団体と州の行政機関との性格を併せ有する︒郡

の数は約四

00

︑その規模は平均人口約六万といわれるが較差

があ

る︒

ィストリクトの平均人

l l は

九・

郡には︑郡議会︑郡参事会及び郡長がおかれる︒

②市町村は︑約一八︑

000

(一九七二年︶あり︑人口二︑

000

人以下の町村数が四分の三を上廻る︒特別市は約一四

0

市町村の組織は︑州により異なり︑議会・参事会制︑南ドイ

ツ議会制︑北ドイツ滋会制︑首長議会制の五つの類型がある︒

︱ 九 六

0

年代末以来︑市町村の再編成をはじめ郡︑広域団 体︑州と改革が及ぽうとしている︒なお︑市町村の再編成の基

準は︑ほぽ人口八︑

000

人とされている︒︵一九八

0

年現

在八

0

0 )

フ ラ ン ス フランスの地方制度の骨格は︑一八世紀末のフランス革命及 びこれに続くナポレオン一世の地方制度改革により形成された ものである︒その特色は︑伝統的に中央集権的傾向及び官治的

傾向が強いことにあるとされる︒

その行政単位の基本的仕組みは︑レジョン︵二ニ︶ー県︵九

五︶ー郡︵三

0

0 )

ーカントン︵三︑

0 0 0 )

ーコミューン︵三

七 ︑

0 0 0 )

田県の面積は︑概ね六︑

000

平方粁である︒人口は平均約 四

0

万人であるが較差が大きい︒

知事及び議会があり︑知事は中央政府の任命による国の官吏

カウンティ︵三九︶ーディストリクト︵二九六︶

であ

る︒

非都市国 カウンティ︵六︶ーディストリクト︵三六︶ 都市圏

であり︑地方団体は県及びコミューンである︒

(8)

(1)  アメリカは連邦国家であり︑地方団体は法的には州により創

設されたものである︒その地方制度の特色は多様性にある︒

地方団体の分類方式も一様ではない︒ 4

ア メ リ カ

イ ア

に地方長官が置かれる︒ コミューンの行政的後見監督を廃止する︒県については︑県議会の議長を県の執行機関とする︒別

レジョンを地方団体とする︒

9 J  

新地方分権法が成立する︒ 一九八一年ミッテラン大統領が政権を獲得し︑

れた

の中から選出される︒

③首都については︑

︵当時人口八五

0

万 ︶

編成

され

︑ ン

一九八二年

を構成する三県をパリ市及び七県に再 パリ市は県とコミューンの地位を併有することとさ

一九六八年の改革により︑パリ・レジョ

であ

る︒

②コミューンは︑約三七︑

00

0

あり︑極小規模のコミュー ンが大半を占め︑規模の較差が大きい︒人口五

00

人以下約二

四 ︑

0 0

0

00

人以下約一

0

000

に及ぶ︑これがため︑

再編成の提案があるが実現をみていない︒

コミューンには︑長及び議会が骰かれ︑長は議会により議員

市町村

( m u n

i c i p

a l i t

y ) は︑代表的な地方団体であり︑

c i t y

,

t o

w n

,   v

i l l a

g e 等と呼称される︒一九七二年現在一八︑五一

一 ︑

000

人以下五二%を占める︒

市 町 村 に 準 ず る 準 自 治 体 が あ り

w n

s h

i p

) ︑タウン

( t

o w

n )

等と呼称される︒

カウンティは︑州により異なるが︑州の下部行政機構と

しての性格を有し︑法人格︑自治権ともに弱い︒ほとんど︑

全域をカバーし︑三︑

0

四四団体あり︑平均人口約六万︑

平均面積約三

0

0 0

平方粁である︒

0

② 市 町 村 の 設 置 は

︑ 州 が 憲 章

( c h a

r t e r

)

を付与することによ

り行われる︒憲章の方式は︑個別的憲章︑一般的憲章︑階層的

憲章︑選択的憲章︑自治的憲章等に分類される︒

③市町村の組織も︑州により︑規模により︑団体により︑多

様であるが︑主なものは次のとおりである︒

り:'

,1 , 

委員会制

( c o m

m i s s

i o n )

市支配人制

( c i t

y

m a

n a

g e

r )

 

強市長・市会制

( s t r

o n g

│ 

m a

y o

r )

  弱市長・市会制

( w

e e

k │ 

m a

y o

r )

  ア 市 長

・ 議 会 制

( m

a y

o r

, ‑c o

u n c i

l )  

在一六︑九九一ある︒ イ

タウンシップ

一九七二年現

( t o  

七ある︒大半は︑小規模であり︑人ロ一万人以下八九%︑

~

2 ‑ 1 ‑122 (香法'82)

(9)

地方自治の理念

四①

地 方 自 治 と 民 主 主 義 と の 関 係 に つ い て は

︑ 古 来 幾 多 の 論 議 がある︒地方自治は民主主義の揺藍であるといわれる︒また地 方自治は民主主義の学校であるといわれる︒地方自治は︑近代 民主政治の基礎であり︑両者は︑不可分の関係にある︒

四地方自治は︑中央政府と地方政府との間の関係である︒︱︱‑

権分立が同一レベルの政府内の権力の分散︑抑制と均衡の仕組 みであるのと対比される︒その意味において︑連邦制は法的性 質を異にするが︑その制度の機能においては共通する面を有す 中央と地方との関係は︑有名なミル る ︒

( J . S . M

il

l)

の権力の分 権・知識の集権の命題︑新中央集権主義の主張等幾多の論議が あるが︑協カ・機能の分担の面と抑制・均衡の面とがあり︑そ

の関係をどう考えるかが課題である︒

③ 地 方 自 治 権 の 法 的 性 質 に つ い て は

︑ 戦 前 か ら 固 有 権 説

︑ 伝 来説の対立があり︑広い意味の伝来説に属する制度的保障説が 通説となっている︒しかし︑制度的保障説の中核的理念である 地方自治の本旨︑即ち︑住民自治及び団体自治の理念は︑戦後 の地方制度改革期における指導理念としての役割りは果してき たものの︑現時点における地方自治の指導理念又は今日地方自 治に加えられている攻撃に対する防波堤としては疑問が提起さ

構造的側面

れるに至っている︒これがため︑

日本国憲法は︑国及地方公共 団体という二種類の統治団体に政治を信託したとする説が提示

されるに至っている︒

④日本国憲法の地方自治の理念と現実の地方制度及び運営の 実態については︑村松岐夫教授が戦前戦後連続論及び断絶論と 名付けている見解の対立がある︒前者は︑地方自治法をはじめ とする制度改革にもかかわらず︑機関委任事務に象徴される事 務配分︑中央省庁の関与︑財源措置等の面において依然として 中央集権的であるとする立場であり︑今日なお支配的な学説で ある︒これに対して︑後者は︑首長公選︑住民参加︑地方公共 団体の行財政能力の向上等戦後における新しい要素を重視する︒

,:し

地方制度の基本的問題は︑いかなる区域及び性格︵自治・官 治︶の地方団体を設置するか︑その組織及び運営の仕組みをど うするか︑いかなる機能ないし権限を配分するかにある︒地方 団体の設置について国又は地域住民の意思の何れを優先させる かは︑その国の憲法構造の問題であるが︑何れにせよ︑現実の 地域社会の構造を全く無視して地方制度を論ずべきではない

~

(10)

一 五

0

戸 ︶ 旧町村︵七一︑

0

九七・明治一六年︑江戸時代の村︑大字約

と市町村の区域をこえるものとがある︒

府 県 制 度

ロン

ドン

0  0

)  

ー歴史的には例がないわけではないが︒地方制度改革の基本的

課題は︑わが国の地域社会の重層構造をどのように認識するか︑

いずれの階層の地域社会を地方団体の基礎として選択するかに 地域社会の重層構造については︑数多くの研究があるが︑注

目すべきものにドイツの地理学者クリスタラーの行政区域に関

次に

わが国の地域社会の構造についての私の仮説を示す︒

地方・大都市圏︵七ー九︶

都道府県︵四七︶

広域市町村圏︵三二九︶︑定住圏︵二

OOI

0

0 )  

旧市町村(‑五︑八五九・明治二二年︑小学校区約二四︑

0

このモデルによれば︑地方・大都市圏︑すなわち︑ 市町村︵三︑二五五・昭和五七年︶

ブロック

段階に地方団体を設置しようとするのがいわゆる道州制であ る︒広域市町村圏段階に設置されたのが郡制であった︒現在の わが国の地方制度においては︑国ー都道府県ー市町村と一段階 ずつ償いて地方団体が設附されている︒この場合︑問題となる

パリの り︑特に︑大都市の履域において論議されてきた︒ する中心地理論がある︒ あ

る︒

二)

域 のは︑中間あるいは市町麻属玉ー位の地域社会における行政需要に対応する仕組みであり︑出先機関︑共同処理等により対応されている︒広域市町村圏はそのための仕組みである︒イギリスの地方制度改革のように︑広域市町村圏段階に基礎的地方団体を設置すれば︑それとの関連において︑都道府県制度が検討の対象とならざるをえない︒

広 域 行 政 社会経済の発展及び交通通信手段の発達に伴う経済囮︑生活 圏の拡大に対応する行政の広域化は︑世界各国共通の課題であ

広域行政の要請への対応の方式には︑区域の再編成︵合併︶

のほか︑個別的共同処理方式︑総合的共同処理方式︵連合︶︑特

別行政機関方式︑協議・協定方式等がある︒

ように区域の再編成をもって対応した例もあるが︑合併につい ては障害も多く︑連合等の協力方式の工夫されている例が少な

くなし

トロントの都市連合方式は有名である︒

わが国における広域行政論議には︑府県の区域をこえるもの

︱二 四

2 ‑ I ‑124 (香法'82)

(11)

府県は︑明治憲法下においては︑官治と自治の折衷的性格の

組織であった︒一方︑その区域は︑廃藩置県後の統廃合を経て︑

明治ニ︱年三府四三県となって以来変更されていない︒そこで︑

戦後における府県制度の改革に関する論議は︑その性格及び区

域の両側面においてなされてきた︒前者がいわゆる知事官選論

であり︑後者が広域行政論である︒

①地方行政調査委員会議の第ご次勧告︵昭和ー一六年︶は︑人

口お

おむ

ね一

1 0

0

万を目途とする規模の合理化を勧告した︒

②昭和三二年第四次地方制度調在会は︑広域行政の要請及び

市町村合併との関連において府県制度を検討し︑﹁地方﹂案と称

する一種の道州制案を︑少数案として三︑四府県統合案を併記

のうえ答申した︒﹁地方﹂案の骨子は︑①現行府県は廃止する︑

②国と市町村との間に中間団体として﹁地方﹂を置く︑③中間

団体の区域は︑全国を七ないし九ブロックに区分した区域によ

る︑④﹁地方﹂に議会及び﹁地方長﹂を置く︑﹁地方長﹂は﹁地

方﹂の議会の同意を得て内閣総理大臣が任命する︑⑤国の総合

地方出先機関﹁地方府﹂を置き︑﹁地方府﹂の長は﹁地方長﹂を

もってあてる等である︒しかし︑特に長の選任制についての世

論の批判が強く︑政府は採用しなかった︒

③ 昭 和 三

0

年代後半における経済の高度成長の中に︑交通︑

水︑住宅等の大都市問題及び開発行政の要請に対応するため広 地方行政連絡会議︵昭和四

0

年 ︶

この時期︑特に︑大都市圏において︑東海三県︑阪奈和等の

府県合併が財界を中心として研究され︑主張される︒政府は昭

和四

0

年の

第一

0

次地方制度調脊会の答申︵府県合併に関する

答申︶に基き︑昭和四一年以来数次にわたり都道府県合併特例

法案を国会に提案したが成立しない︒その骨子は︑憲法九五条

その他 申 ︶ 地方公共団体の連合︵昭和三八年第九次地方制度調査会答

(イ)

府県合併

都道府県の共同処理 イ都府県の区域の再編成

道州制

(オ) に) (ウ)(イ)(ア)

︱ 二 五

域行政が課題となる︒この時期に実施され︑或いは提案された

中央官庁の設置︵近畿圏整備本部︶

権限の引上げ︵昭和二九年河川法改正︶

地方出先機関の強化︵地方農政局︶

公団︑事業団の設置

﹁地方庁﹂構想︵臨時行政調脊会第二専門部会報告︶

ア 国 の 対 応

主な方策は次のとおりである︒

(12)

の一に減少した︒

市 村

市町村は︑基礎的地方公共団体としての性格上︑その法的性

格についての論議は少なく︑行財政能力︑広域行政の要請等と

の関連で︑その区域︑規模の適正化︑すなわち︑合併が課題と

され

てき

た︒

m

明治一九年当時の町村総数七一︑五七三中住民のいないも

の八

0 1

︑百戸以下四八︑四二

0

であった︒市制町村制施行の

ため三百ないし五百戸を標準に町村合併が行われ︑明治二二年

ニ八年現在︑九︑ 末町村数は一五︑八二

0

とな

る︒

②シャウプ勧告を受けて︑地方行政調査委員会議は︑行政事

務の再配分の受入体制として︑おおむね人口七︑八千程度を標

準として︑町村の規模の合理化を図るべきことを勧告した︒昭

和二八年の町村合併促進法及び昭和三一年の新市町村建設促進

法により全国的に市町村の合併が推進され︑市町村数は︑昭和

五八二から昭和三六年三︑四七

0

とほぼ三分 3 

張が

ある

の住民投票を省略し︑市町村と同様に新しい申請方式を認める

とともに︑合併に係る特例措置を定めたものである︒

④ 昭 和 四

0

年代後半以来知事官選論と道州制論は決定的に後

退したが︑なお︑財界を中心とする道州制論︑連邦制論等の主

(3)  この市町村合併については︑住民自治の形骸化︑合理化ない

し中央集権化︑農政の後退︑諸外国には類例がない等の批判が

あっ

た︒

地域開発及び広域行政の要請に対応し︑昭和三

0

年代後半

より市町村の再合併の動きが起る︒その口火となったのは北九

州五市の合併であるが︑新産業都市の建設に関する政策及び市

町村合併の円滑化のための立法措置等とも相まって︑東大阪市︑

いわき市︑倉敷市等をはじめ都市の発展ないし地域開発の要請

に対応する都市の合併ないし拡大が行われた︒しかし︑昭和四

0

年代後半以後︑広域市町村圏構想との関連もあり︑市町村合

併万能論に歯止めがかかる︒

い市町村の適正規模については︑幾多の調査研究があるが︑

地域社会の構造ないし住民意識︑行政機能及び行財政能力の三

視点が重要であり︑時代により地域に.より重要度が異なる︒

わが国の市町村についても︑大都市周辺︑

はじ

めと

し︑

ニュータウン等を

その区域の合理化の必要性の指摘される地域が少

なくないが︑再検討しようとする動きは少ない︒

4生活圏構想

昭和四

0

年代に入り︑高度成長の成果及びびずみがともに顕

著となり︑生活水準の高度化及び生活態様の都市化︑交通通信

手段の発達と日常生活国の広域化︑過疎・過密対策が課題とな

︱ 二 六

2 ‑ 1 ‑126 (香法'82)

(13)

る︒このような要請に対応するため︑昭和四四年新全国総合計 画における広域生活圏︑自治省の広域市町村圏︑建設省の地方

生活圏の構想が提唱される︒

広域市町村咽構想には︑次の二つの側面がある︒

その一は︑地域政策の側面で︑特別地域政策に対する普通地

域政策であること︑生活圏の階層構造とネットワーク構想︑都 市と農村の相互依存と機能分化に伴う母都市の機能増大等が指

摘さ

れる

その二は︑行政的側面で︑広域行政の要請への対応の方式と

して︑従来の市町村合併万能方式に代えて︑総合的計画及び共

同処理方式︵協議会︑組合︶をもって対応しようとすることで

ある︒このため︑昭和四九年の地方自治法改正によりいわゆる

複合事務組合制度が準備される︒

広域市町村圏構想の仕組みは︑日日常社会生活圏をもって広

域市町村圏を設定し︵人口おおむね一

0

万︶︑口広域市町村圏計

画を策定し︑口関係市町村は広域行政体制を整備し︑四国及び

都道府県が総合的援助措置を講ずるということである︒昭和四

四年から三年間に大都市應周辺及び沖縄県を除き︑全国に三二

九圏が設定された︒︵昭和五五年末三三六︶︒

昭和五四年第三次全国総合開発計画は︑地域開発の基本的圏

域として︑全国におよそ二

00

ー三

00

の定住圏を想定する定

︱ 二 七

住構想を提唱した︒この構想は︑大平内閣の田園都市構想と競

合し︑その間の調整が課題となったが︑この構想を実現するた

め﹁モデル定住圏﹂の整備が進められている︒

広域市町村圏は制度として一応定着をみているが︑定住圏構 想との関係︑圏域設定の困難性︑道府県との機能分担︑住民参 加の間接化︑大都市圏の取扱い等︑地域政策

t

及び行政上の種々

の問題点を指摘する意見がある︒

1

間接民主制

民主政治には︑間接民主制と直接民主制とがあり︑直接民主

制は民主主義の理想である︒しかし︑今日の民主政治は間接民

主制とならざるをえない︒

代表の原理は︑多数決の原理と並んで︑民主政治を支える住

民意思の統合の基本的原理である︒

今日︑間接民主制は必ずしも適切に機能しない︒これがため︑

民主政治に対する批判は︑議会ないし選挙制度に対するものが

多く︑直接民主制が主張される︒しかしながら︑直接民主制は︑

あくまで間接民主制の機能を補完するものであって︑これに代

替しうるものではない︒

選挙制度には︑選挙権︑選挙区等の政治的側面と選挙管理と

(14)

直接民王制 直接民主制の諸制度には︑国民投票

( R

e f

e r   e

nd

 

u m )

︑国民発

( I n i

t i a t

i v e )

︑国民解職

( R e c

a l l )

及び一般投票

( P l e

b i s c

i t e )

があるとされている︒世界的に直接民主制の活用されている国 としスイス及びアメリカが挙げられるが︑アメリカの直接民主

制の制度は︑一九世紀末以来の市政改革運動の所産といわれる︒

わが国の地方公共団体における直接民主制の諸制度は︑戦後

アメリカの制度を導入したものであるが︑不微底な制度と批判 2  案したが取り上げられない︒ いう技術的側面があるが︑

いうまでもなく︑選挙制度の中心的 課題は政治的側面にある︒わが国の選挙制度は︑技術的側面に 着目し︑国及び地方公共団体の選挙を通じ公職選挙法の定める ところによることとされている︒その影響があるかどうかは別 として︑地方公共団体の選挙制度は︑国の選挙制度に関する論

議の陰にかくれた憾なしとしない︒

また︑議会制度についても︑その組織︑権限︑運営︑議員の

地位等について︑制度上運営上多くの批判がある︒

選挙制度及び議会制度の改革は︑議員及び政党の利害に直接 関係するため困難である︒例えば︑昭和五一年第一六次地方制 度調査会は﹁住民の自治意識の向上に資するための方策に関す る答申﹂において︑選挙期日の統一及び議員の半数改選制を提

ヽ~゜ 3機 特に︑直接民主制の制度の中心である住民投票制度については︑憲法九五条の地方自治特別法をはじめとしてこれを採用した例もあり︑れを採用しようとする動きがある︒第一六次地方制度調査会も︑昭和五一年住民投票制度の拡張及び直接請求制度の改善について答申した︒

しかしながら︑直接民主制の諸制度も万能ではなく︑長所も

短所もある︒

わが国の地方公共団体の組織原理の特色は︑長の公選制︵い わゆる大統領制︶と執行機関の多元主義にあるといわれる︒し

かし

︑ その前に指摘する必要があるのは画一主義である︒長の 直接公選制は︑憲法の保障するところであるが︑そのほか︑議 会及び執行機関の組織についても法律による画一的な制度が多

長の公選制は︑周知のように︑GHQの要求によるものであり︑

新しく外より導入された制度が︑

に至った理由は興味ある命題である︒しかし︑

制︑議院内閣制等の組織の優劣は簡単には論じ難く︑特に︑市

町村の組織形態については︑再検討の意見もある さ

れる

関 アメリカの住民投票の事例も報じられ︑事実上こ

わが国民性に適合し定着する

いわゆる大統領

︵昭和五四年

︱二 八

2 ‑ 1 ‑128 (香法'82)

(15)

4  第一七次地方制度調査会答申︶︒

執行機関の多元主義︑即ち︑いわゆる行政委員会制度も戦後 新たに導入されたもので︑その後︑独立に伴う制度の再検討の 過程において種々の論議があったところであり︑今日なお︑制

度上運営上の問題が少なくない︒例えば︑教育委員会の委員の公

選制の主張があるが︑国と地打の教育行政組織には整合性がな く︑教育の政治的中立性を確保する見地よりすればむしろ国の 方が問題ではないか︒また監査委員制度の再検討の意見もある

︵昭和五五年第一八次地方制度調査会答申︶︒

住 民 参 加 参加︑すなわち︑住民参加又は市民参加は︑古くて新しい命 題である︒辻清明教授は︑民主政治において参加を必要とする 要因として距離︑時間及び争点を指摘される︒

一九

0

年 代 に 世 界 的 に 参 加 の 噴 出 と よ ば れ る 現 象 が 起 る が︑わが国における参加論は︑昭和三

0

年代における高度成長

に伴う都市環境の悪化を背景に︑﹁市民直結の市政﹂︑﹁対話の都

政﹂︑﹁都民参加の都政﹂等をかかげた﹁革新自治体﹂と不可分

の関係において展開する︒昭和三八年に横浜市︑京都市︑大阪 市︑北九州市等︑昭和四二年に東京都に革新首長が誕生する︒

﹁参加﹂は︑保守・革新を問わず︑首長の政治姿勢として普遍 化し︑注目すべき研究の成果が数多く公表される︒

第二に議会との関係である︒長と住民との直接の結びつきに ついては︑議会関係者は議会軽視として警戒する︒議会と長と

の関係が改めて問われることとなる︒

第三に︑制度化との関係である︒参加は効率的に行われるた めには︑制度化が必要であるが︑制度化は権力側の﹁包絡﹂の 作用に転化する危険をもち︑新たな運動が必要となろ︒

第四に︑参加の形態である︒西尾勝教授は︑運動︑交渉︑機

関参画︑自主管理の四類型を提示する︒

第五に︑西尾勝教授は︑広義の住民参加の概念には︑市民参 加︑住民参加及びコミュニティ参加の三稲があるとされる

c私 招きかねない︒

︱ 二 九

しかし︑その試みも︑胎動期︑進展期を経て次第に混迷期を 迎える︒そして︑石油危機を英機として︑参加論の推進母体で

あった革新自治体自体が市民の支持を失う︒

今日︑﹁参加﹂は地方行政の基本理念として︑首長の政治姿納

として︑少くとも言葉の上からは定着したかにみえる︒しかし︑

単なるムード的用法に止っている憾なしとしない︒

以下︑若干の問題点を指摘する

c

第一は︑権力ないしリーダーシップと参加の閲係である︒権 力と参加は︑民主主義的政治体制の二つの極であり︑その均衡 が主張される︒無条件の参加礼讃論は︑行政の無責任︑不在を

(16)

コミュニティが地方行政上の菫要課題として取り上げられ

るに至った理由としては︑①地域社会の都市化の中における人

間性の回復の場︑②住民の身近かな生活環境の整備の要請︑③

近隣

社会

に関する対策要綱案﹂にあるとされる︒このよう コミュニティという語は︑共同社会︑基礎社会︑地域社会等

と訳されるが︑欧米諸国においては日常的な用語である︒極め

て多義的な概念であり︑正確に定義することは難しいが︑共同

体という側面と地域社会という側面があるといわれる︒しかし︑

今日わが国においては︑﹁コミュニティ﹂とは︑主として市町村

より狭域の地域社会の問題とされている︒

戦前の町内会︑部落会等が昭和二二年に廃止されて以来︑行 政は住民組織には介入すべきでないとされてきた︒しかし︑住

民組織は形を変えて存続し︑事実上市町村行政の末端組織とし

ての機能を営むものが少なくない︒

今日のコミュニティ問題の起源は︑昭和四四年国民生活審議

会コミュニティ問題小委員会報告﹁コミュニティー生活の場に

おける人間性の回復﹂と自治省の昭和四五年八月﹁コミュニティ 5 コミュニティ あると考えている︒ は︑ほぼこの区分に対応するものとして︑参加の機能には︑代表原理の補完︑多数決原理の補完及び公私の機能分担の合意が 行政に対する住民参加の場としての狭域の地域社会の重要性に

自治省は︑昭和四六年以来三ヶ年に八三地区のモデル・コミュ

ニティ地区を設定するとともに︑コミュニティ研究会を設け︑

賛否両論の中に︑試行的措置として実施に移される︒その発想

自体﹁実験的先例﹂を提示するに止め︑特定の型のコミュニティ

対策を推進しようとするものではなかった︒そして︑この措岡

が引き金となり︑以後市町村はもとより︑関係都道府県及び関

係省庁において数多くのコミュニティと名づける施策が輩出す

コミュニティ形成論議は︑昭和四

0

年代における住民意識の

変化に即応し︑それまで放置されていた狭域の地域社会が重要

課題として認識されるに至った︒問題は︑人間生活のあらゆる

分野にわたり︑

一 三

それぞれの側面からの考察を要するが︑行政的

側面としては︑区域︑住民組織︑住民参加︑公私の機能分担等

国と地方との関係

国と地方公共団体との関係には︑事務・権限の配分と国の関

与の二側面がある︒この二側面は相互に密接な関連があり︑行

政事務の再配分等の名において論じられてきた︵例えば︑国の

(四)

が重要である︒ るに至っている︒ あるといわれる︒

2 ‑ 1 ‑130 (香法'82)

(17)

監督権が強ければ︑事務・権限の配分は重要な問題とはならな

) ︶ ︒

明治憲法下の地方制度においては︑市町村は府県知事及び内 務大臣の一般的後見的監督のもとにあり︑都道府県知事は国の 官吏であった︒これに対し︑地方自治法は︑地方公共団体の権

能を拡充強化するとともに︵例えば︑行政事務︶︑国の一般的後

見的監督権を廃止し︑国の地方公共団体に対する関与は︑立法 権及び司法権によるほか︑行政権によるものは非権力的関与を 原則とした︒ただし︑機関委任事務︑地方事務官︑地方債の許

可等の制度は残した︒

このような地方制度改革︑特に︑都道府県知事の直接公選制 に対する各省の不信から国の地方出先機関が濫設され︑その抑

制・整理が課題となる︒

また︑各行政分野における国及び地方の事務・権限の配分及 び国の関与の方式は︑関係法令の定めるところであるため︑国 の事務・権限の留保︑機関設置等の義務づけ︑許認可等の監督

等の制度が存続され︑また︑その後の立法により新設された︒

さらに︑国庫補助金制度等の税財政面の措囮とあいまって︑

わが国の地方制度及びその運営の実態は中央集権的であると批

判さ

れる

1 現

中央集権的地方制度の現状に対し︑地方分権的立場から改革︑

行政事務の再配分の提言が繰り返し行われてきた︒これに対

して︑社会経済の発展に伴う行政需要の高度化︑均質化︑画一

化︑広域化等を理由とするいわゆる新中央集権主義のセ張及び

根強い地方自治の不信があり︑実現をみない︒

①地方行政調在委員会議は︑ 2経

(4) 

ゥ ィ

ア 財政

税財源の配分 地方債の許可 国庫補助金

ウ イ (3) 

ア ゥ

次に︑国と地方との関係に関する重要な制度を列挙する︒

① 事 務

・ 権 限 の 配 分

② 行 政 組 織 ア 国 の 地 方 出 先 機 関 地方事務官 機関委任事務 国の関与

立法的関与︵行政機関等の設置の義務付け等︶

司法的関与

行政的関与︵許認可等︶

シャウプ使節団報告書の示した

(18)

行政責任明碓化︑能率及び地方公共団体優先・市町村優先の三

原則を指針として︑昭和二五年行政事務再配分に関する勧告を

行った︒この勧告は︑戦後今日までの事務再配分論の出発点と

される︒この勧告は︑独立後の自主自立体制の整備が課題となっ

た時期と競合し︑取り上げられない︒のみならず︑この時期は︑

国の地方への事務・負担の転稼が地方財政の危機の原因となっ

たこともあり︑その抑制が課題となった︒

②昭和︱︱

1 0

年代においては︑地域開発︑広域行政の要請に対 応する国の権限の拡張︑国の地方出先機関の強化︑公団・事業

団の設置等に対する地方の対応が課題となる︒そのような時代的

背景のもとに︑第九次及び一

0

次の地方制度調査会は︑行政事

務再配分に関する答申(昭和三八•四0年)を行い、また、臨

時行政調査会の答申︵昭和三九年︶も︑現地性︑総合性及び経

済性の原則に甚く行政事務の配分に関する改革意見を提出する︒

この時代において注目すべきことは︑行政の高度化︑広域化︑

均質化等の要請に対応し︑国及び地方が機能を分担し︑協力す

る関係であるべきであるとするいわゆる﹁機能分担﹂論の登場

であ

る︒

③ 昭 和 四

0

年代における公害・環境問類を契機として︑革新 自治体による公害防止条例等の制定をはじめとする権限の移譲

が主張される︒ にこれを支持している︒ 3課

~

④ 昭 和 五

0

年代に入り︑地方の時代が叫ばれ︑国及び地方の

事務・権限の再配分が改めて課題となる︒昭和五四年以来広島

県知事の提唱になる都道府県知事の権限の市町村への移譲の試

善及び機能分担の適正化について勧告する︒また︑昭和五七年

第二次臨時行政調査会の基本答申も国と地方の機能分担の合理

化の必要性を指摘する︒

わが国の中央集権的地方制度ないし運営については︑学説︑

マスコミ等は一貫してその改革を主張しており︑表面的には世

論を形成しているとみられる︒しかし︑中央官庁︑財界︑閲係

団体︑政党等の実務側には︑根づより中央集権︑地方自治不信

の念があり︑わが国民の画一的︑中央志向の国民性が︑陰に陽

的である﹁機能﹂を中心とし︑ もともと︑地方自治法二条にいう﹁事務﹂とは︑当該行政目

それを遂行する﹁責任﹂と﹁権

限﹂及びこれらに伴う﹁負担﹂と﹁財源﹂とよりなる︱つの行

政システムである︒その改革は︑当該行政機関のみならず︑関

係住民︑団体等にも多大の利害関係がある︒国の関係各省は︑

権限に固執する傾向が強く︑関係団体︑議会︑政党等もこれを 昭和五四年第一七次地方制度調査会は︑国と地方の関係の改 みが全国的に波及する︒

2  1 ‑132 (香法'82)

(19)

郡区町村編制法により︑東京は一五区︑京都は

一区

︑大

阪は

1

戦前の沿革

自治法施行に際し︑昭和

度が採用されている︒ の三都市は都市州である︒また︑ロンドン及びパリも特別の制 轄であり︑西ドイツの西ベルリン︑ハンブルグ及びブレーメン

支持することが多い︒これに対し︑地方側は︑表面上事務・権

限の移譲を主張するものの具体的問題となると必ずしも一貫し

た態度がとられるとは限らず︑責任と負担を回避する動きもあ

第二次臨時行政調在会の答申が︑表面的には︑地方自治を昨 屯し︑地方分権り方向への改吊り体裁をどりばがら︑その具体

的方策を欠く反面︑地方への合理化の要請が強調されているの

も︑前述のような動向を反映してのことである︒地方の時代の

掛声にもかかわらず︑地方分権の方向への行政事務・権限の再 大都市制度

首都ないし大都市は︑都市の社会経済的実態︑行政機能等あ

らゆる面において通常の地方団体とは異なり︑地方制度におい

ても︑特別の取り扱いをしている例が少なくない︒例えば︑ア

メリカの首都ワシントンD.C︵コロンビア区︶は連邦政府直 四区に分かれていた︒明治二二年市制町村制制定に当り︑三市には特例を設け︑市長及び助役を置かず︑その職務は府知事又は書記官が行うこととされた︒そこで︑この特例の廃止が課題

以後大都市問題は︑繰り返し論議され︑

が提出yれる︒その趣旨とするところは︑何れもこ屯監督︑.一 重行政の撤廃にあるが︑府県的官治行政体制か市的自治行政体 制かの対立があり︑成立をみない︒昭和一八年に発り︑戦時体

なお︑明治四四年市制改正法律︑大正一 しばしば議会に法案

監督二関スル法律等部分的な特例が定められた︒

都制及び特別区

東京は︑明治︱一年郡区町村編制法により旧朱引内一五区︑

旧朱引外六郡とされ︑明治︱二年一五区区会規則により区会が

設けられる︒昭和七年五郡八二町村を編入一二五区となり︑昭和

一八年東京都制が施行される︒

昭和ニ︱年地方制度の第一次改正により区長の直接公選制が

採用され︑昭和二二年の地方自治法においても形式的には市に

その実体は伴わなかった︒なお︑地方準ずるものとされたが︑

一年二三区に再編成された︒

昭和二七年地方自治法改正により︑特別区を大都市の内部的

2  配分の見通しは明るくない︒ 制の強化のため︑東京都制のみ実現される︒

る ︒

となり︑明治三一年に廃止される︒

一年六大都市行政

(20)

部分団体としてその性格に変更を加え︑区長は議会が都知事の 同意を得て選任することとされた︒以後︑区長公選運動が始ま

る︒昭和二八年の区長選任方式についての最高裁判決︑昭和三

九年の地方自治法改正による権能の拡充︑長期の区長不在期間 の発生︵昭和四二\三年練馬区四

0

三日︑新宿区三六三日︶︑昭

和四二年練馬区の準公選条例制定請求代表者証明書交付拒否︑

昭和四七年品川区長準公選条例に基づく区民投票の実施等の経

過を経て︑昭和四九年地方自治法改正により特別区区長公選が

復活

する

︒ 指 定 都 市

昭和二二年の地方自治法制定に当り特別地方公共団体として

特別市の制度が設けられた︒特別市を指定する法律案の住民投 票の範囲をめぐって五大府県と五大市が対立し︑昭和二二年地 方自治法改正により関係府県民の投票に付することとされ︑特

別市の実現は挫折した︒

大都市制度についてはその後も論議が続く︒昭和二五年及び

二六年の地方行政調査委員会議の勧告︑昭和二八年の第一次地

方制度調査会の答申は︑大都市に関する事務配分の特例につい

て答申した︒これを受けて︑昭和三一年の地方自治法改正によ

り︑大都市に関する特例を定める代わりに︑特別市制に関する

規定を削除するという政治的妥協がなされた︒いわゆる政令指 3 

定都市制度である︒

指定都市は︑制度の沿革上大阪︑名古屋︑京都︑横浜︑神戸

のいわゆる五大市を対象とするものであった︒その後︑昭和三

八年に北九州五市が合併した北九州市︑昭和四七年札幌︑川崎︑

福岡の三市︑昭和五五年広島市が指定され︑一〇都市となった︒

なお︑その他の都市においても指定を希望しているものがあり︑

府県制度との関連もあり今後の課題となっている︒

4

大都市制度改革の課題

首都ないし大都市制度については︑その区域︑地方制度の二

重構造を採用するか︑採用する場合の広域及び狭域の地方団体

の性格︑組織︑事務・権限の配分︑国との関係等幾多の課題が

あり︑これまでも幾多の提案がある︒諸外国においては︑ロン

`ドン︑パリ等の改革の例もあるが︑わが国においては︑本格的

には取り上げられない︒

因 行 政 改 革

行政改革とは︑具体的実践目標をもつ極めて多義的な概念で

あって︑これを定義することは難しいが︑一応外的又は内的要

因に基づく︑行政制度ないしその運用の仕組み︑いわゆる行政体

系︑行政システムの創設︑変更又は廃止としておく︒

第一次臨時行政調査会以前

一三 四

2 ‑ 1 ‑‑134 (香法'82)

(21)

方は次のとおりである︒

. 1,  

93

 

第一次臨時行政調査会

第一次臨時行政調査会は︑昭和三七年二月発足し︑委員七人︑

専門委員ニ︱人︑三専門部会と特別部会より構成され︑昭和三九

年一六項目の改革意見よりなる答申を行う︒その基本的な考え 総合調整の必要性とその機能の強化

行政における民主化の徹底

2  人員整理を含む強力な行政簡素化方策の断行である︒

次いで︑昭和二六年のリツヂウエイ声明を芙機とし︑

る政令諮問委員会の答申に基き︑自主自立体制の名のもとに行

政事務の整理と関係行政機構の縮少が行われる︒

昭和三

0

年代に入り︑高度成長に即応する行政体制の整備合 理化が課題となる︒民間における技術改革や経営合理化の急速

な進展に対応する行政の合理化が要請される︒

このような背景の下に︑第五次行政審議会は︑アメリカのフー

バ—委員会の例にならった権威の高い行政診断機関の設置を提

唱す

る︒

いわゆ

終戦に伴う戦時体制の解体と内外の事務処理及び日本国憲法 の制定を中心とする行政体制の民主化のための改革は別とし て︑戦後はじめての行政改革は﹁ドッヂ・ライン﹂の緊縮財政 下︑昭和二四年以来吉田内閣の手で行われた︑戦後最大規模の

行政の過度の膨張と行政事務中央偏在の排除 行政における合理化・能率化の推進 新しい行政需要への対応 公務員精神の高揚 この第一次臨調答申は︑昭和四

0

年代における政府の行政改

革の基本となり︑形式的︑部分的には実施されたものもあるが︑

重要な課題は未解決のまま残される︒

m

行政機構の合理化については︑昭和四三年の一省庁一局削 減をはじめとし︑地方支分部局の整理再編成︑審議会等の整理

合理化が課題となる︒

②国家公務員の定員の合理化については︑昭和四四年いわゆ る総定員法が制定され︑非現業の一般職員については昭和四二 年末の定員に凍結された︒その後︑昭和四三年以来数次の定員

削減計画が実施される︒

③事務・事業の合理化については︑許認可等の合理化︑行政 事務の委任又は移譲︑共管競合その他類似行為の整理統合︑事

務の民間委託︑補助金等の整理等が課題となる︒

④行政の総合調整については︑内閣機能の強化が課題となり︑

昭和四三年以来いわゆる内閣補佐官制度の新設を目的とする

種々の改革の試みがなされたが実現しない︒

⑤新しい行政需要への対応のため︑環境庁︑沖縄開発庁︑国

(6)  (5)  (4)  (3) 

一 三

(22)

石油危機後の低成長時代を迎え︑昭和五

0

年度以来の景気対 策と赤字財政政策の結果︑公債依存度及び公債残高の危速な増 大という事態に直面し︑国の財政再建が課題となる︒その対策

として増税等が主張される反面︑昭和五四年の鉄建公団︑

K D

D等の事件が起り︑改めて行政改革の必要性が認識される︒

第二次臨時行政調査会は︑増税のない財政再建を目標に︑経

済団体連合会名誉会長土光敏夫氏を会長に︑委員九人をもって

構成され︑昭和五六年三月発足した︵設置期間二年︶︒昭和五七

行政改革の理念及び課題

行政改革の課題は︑行政の本質的命題である公正︑効率等の

要請という縦系とその時代︑その組織の個有の命題という横系

とよりなり多様である︒その課題は︑組織の欠陥が表面化した

とき︑最も明白な形で意識される︒パーキンソンの法則の示す

組織の膨脹化傾向に対応する行政の簡素合理化は︑永遠の命題

ではあるが︑唯一の命題ではない︒

行政改革は政策の選択ではないとする意見がある︒しかし︑

行政改革の対象を行政システムに限定するか︑政策問題に介入

するかは︑行政改革の観念ないし理念に係り︑そのこと自体最 4  年七月の基本答申をはじめ数次の答申を行なう︒

がより重要である︒ 場も︑この範疇に属するとみることができる︒ と

する

土庁等の新設がなされた︒

第二次臨時行政調査会

3  大の政策の選択とみることもできる︒その意味において行政改革の理念が問われることとなる︒

第二次臨調の基本答申は︑各種の立場より︑支持され︑

又は

第一は︑これをほぽ全面的に支持する意見である︒この意見は︑

第二次臨調の会長土光氏の推選母体である財界に代表される︒

第二は︑これをほぼ全面的に反対する意見であろ︒この意見

る︒例えば︑第二次臨調のねらいは︑総合安保戦略のための行

政の簡素化︑効率化であり︑労働戦線の右よりの再編成にある

第三は︑行政改革の必要性は認めつつ︑第二次臨調の基本答

申には批判的な︑いわゆる行政改革の批判的推進派といわれる

立場である︒地方分権を主張する学説ないし地方公共団体の立

第四は︑個々の行政分野において︑改革に抵抗する官僚︑労

働団体︑利益団体等の立場である︒

行政改革の障害は官僚の抵抗にあるといわれる︒そのこと自

体事実ではあるが︑民主的政治体制の下においては︑官僚単独

では抵抗できない︒これを支持する利益団体︑政党等との関係 はいわゆる革新ないしこれを支持する学界の立場よりなされ

批判される︒

一 三 六

2 ‑ 1 ‑136 (香法'82)

参照

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