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日本佛教學協會年報 第10号 002藤本了泰「中世に於ける禅宗(臨済禅)と諸宗(天台・真言・浄土三宗)との交渉」

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中世に於げる禅宗︵臨済樟︶と諸宗

ハ 一 ︶ 序 言 合 一 V 禅宗諸師の被郊顕正的著作 ハイ﹀無象静照の奥様記 ハ口一﹀虎閥師錬の宗門十勝論其他 ハハ﹀夢窓疎石の夢中問答及谷響曲最 ハ ニ ︶ 印 刷 禅 定 山 の 綴 正 法 論 ハ 一 一 一 ︶ 禅 宗 主 天 台 宗 主 の 交 渉 ハイ︶停法護国論 ハロ﹀同論の棺永論 ハハ︶達磨高位論等 ︵ 四 υ 蹴宗左民言宗主の交渉 ︵イ︶呆賓の関心紗並藤宗付法績級事 ︵ロ︶呆授の相水論 ハ ハ ︶ 呆 賀 の 州 内 教 諭 つ九︶機前機後の問題 ︵五︶説仲宗主浄土宗主の交渉 ︵イ﹀智演及了零について ハロ﹀智演の相承論 ハ ρ ﹀智演の列激論‘夢中問答との交渉 ハニ﹀了春の相糸論 ハ ホ ﹀ 了 血 骨 の 剣 教 諭

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結 語 中 世 に 於 け る 綜 宗 ハ 臨 済 蝉 ︾ 主 諸 宗 ︵ 天 台 . 区 一 一 員 . 浄 土 コ 一 昨 否 と の 交 渉 以 四 七

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日 本 傍 数 桜 協 合 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 国 子、 2 ︵ 一 ︶

品 一 一 日 日本絹宗殊に臨済蹄の興隆は.柴西禅師の再度入宋後に始まり、結いで締師の門葉幾多の高借を輩出し‘ 複雑なる日支交渉の結果是亦幾多宋元の高借の渡来となって.革新的我岡枇曾的朕勢、殊に武家枇舎の要求に封 一 方 憶して愈々高潮の域に達する事が出来た。との驚く可き岬宗教圏の殻民は.一一員ふ迄もたく我閤文化各般に多大の 影響貢献を興へ、殊に悌敬々国への影響は、中世の教問出品の上に幾多の驚くべき問題を興へてゐる。即ち一固に は締宗教圏の護展興隆に伴って、夜間悌数々固との政教的関係に於て幾多の政治的経済的交渉乃至闘争執喋を惹起 し . 一面に於℃金悌教々閤との問に於て種々の教理的交渉論難を惹起した。 とのこつの創刊機論難は同より確然直則されるものでなく、相関々係にあるは言ふ迩もたいけれども、濁立宗圏 としての硝宗と各宗聞とのる一面的交渉を考ふれば.慨して奮例数々関との闘係に於ては‘勢力の闘争を中心とし ての理論的執様であり、新伸数々固との閥係に於ては、専ら敬叫論的交渉であった所に特色があると考へられる。 前者殊に敬舎の棟梁である叡山との執戦闘争は最も激烈を極め.中世教命日の墜落頒腔の部面を暴露して飴りある。 其等に聞する史皐的研究は従来幾多の論文によって殻表せられ、殊に辻博土の﹁鍬 A M 時 代 の 桝 宗 と 諸 宗 と の 執 酬 明 ﹂ ﹁ 足 利 初 代 蹄 宗 と 天 台 宗 の 恥 蝶 ﹂ p制 問 一 一 一 桝 担 保 ︶ の 二 論 文 は 共 組 ℃ を 論 じ 査 し て ゐ る と 考 ふ る が 故 . 此 の 小 論 に 於 ℃ は北ハ等に慣れる事を避ける。後者即ち理論的交渉に至っては必中しも此期に始ったのではなく.同知の如く我国 に於ては、既に侍敬大師の所謂四︷一不一致の天台宗建立に際し.凶統制戒の交渉が教理的に組織化され、共後智詮 安然等の天台敬風一止於て愈々論議せられ、更に支郊陪唐︷木各時代を通じ℃の数理的大問題であった料敬二教の交

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渉閥係正山山起遡つ℃考ハねばたらねのである。斯かる支那に於て或は我が平安時代に於℃交渉論議を持った開宗と 各宗との交渉が、策西絹師の梢宗の輸入、教圏の開宗に依って.新に亦我岡僻数各ん一不問の教理論争として展開す ろ 事 に た っ た 。 柴西縄師の出家大興.興禅譲園論の護表は共の第一聾であった。而して共後の所謂初期締宗教閤の縄師ば敬園 護展の止む

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符ざる犠牲と、彼等の教養的環境との結果.所靖国密蹄三︷一京併立の道場である事に於て敬聞の地歩 を獲得したと共に.擁て我国に始めて見る蹄密融合の教理が﹁良時融心義﹂によって組織化されて来たのである ︵ は 噌 醐 ⋮ 諸

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一切開胴︶。然し同教聞が嘗て全教圏の棟梁として信仰的世合的経済的絶大な勢力を持った南都北嶺に封し て、封抗し得る地位を獲得した鎌倉末期以降に至れば‘禅宗教圏諸師は所謂か L る安協的態度を教圏的にも教理 論的にも許されざるに至って‘彼等は嘗て支那に於て論議された教理論争を‘重ねて我が全教国並に全世曾に捉 唱する事に於て.蹄宗教事の最高地歩を獲得せんとした。乙の事に釘して各宗教聞が駁論臆酬した事は蛍然であ り・叉数圏外からさへ源有房の野守鏡︵ 4 m M ⋮︶の如き非難攻撃を加ふるに至って.教理論争は種々の意味に於て枇 合各部門に大きた影響を輿へた。特に新興洋土敬圏に輿へた影響は‘奮伸教々闇に行はれた争論が支那に於ける 共等の範聞を出てゐ ιなかったに反して新たるものがあった詰めに、最も影響する所甚大であった。 されば其等鎌倉末期以降に惹超された蝉宗を縫っての諸宗特に天台民主一一津土の一二宗に局限して三宗問に展開さ れた論争交渉が如何様のものであったか、共影響如何の大躍を見ても中世輯︷一万と諸宗との交渉の一端とする。 ︵ ニ ︶

縄宗諸師の破邪顕正的著述

3 中 世 に 於 け る 蹄 宗 ︵ 鴎 務 総 ︶ と 諸 宗 ペ 天 台 、 国 民 一 言 . 浄 土 三 宗 ︶ と の 交 渉 四 九

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日 本 併 数 単 協 合 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 五 0 4 加 盟 川 象 静 照 の 興 絹 記 開宗諸師の中に於て諸宗に封し.営時最も破邪顕正的態度をとったものは、予の寡聞を以てすれば虎闇師錬. 夢窓疎石の雨師吃第一とし、之に前後してん抽象静照、組蹄定山の二師を拳げ得られる。但し後の二師は専ら叡山 の鹿迫に封する止むを得ざる奉に出でた著作であって、必守しも共黙宗義的破邪顕正の話めとは云ひ得ざるも、 天台宗との交渉としては在意せらるべき著作である。かくて営代静宗と諸宗との交渉上種々の問題を提唱するも ︵ イ ︶ のは虎閥夢窓の雨師に局限せらる L の で あ り 、 且 つ 是 佐 一 寸 耐 師 の 諸 宗 に 封 し て 局 局 さ れ た る 論 争 的 著 述 は . 既 に 世 の 周知の事なるを以て、故にと t A に皐ぐるの要たきが如くなるも、論争の中心が如何たる賠に置かれたかを了解す る矯めに、前記四師の著作と共内容の概略を年代的に列奉ずる。 初めに無象静照の著書興時記は、文永九年叡山衆徒の柿ん一市興隆を謡んで朝廷に奏し共宗の鼓破を企てたに封し て、偏に我宗の鹿れんととを歎じて作製されたものである。其内容は初めに﹁俳組正法的々相承﹂の不断正統一を 論じ.故に一切法門の︷一万源、諸怖頂上宗である事を明にし.更に進んで叡山衆徒は、騨侶中或は戒律に誘いて名 利を好み、岡山水の費訴を顧みや、威儀法則華美過差を致すの族多しとして其邪輩を禁んじ−なければたらぬと朝廷 に上奏したけれど、柿宗は叡山の知 H 詮大師既に絹を以て諸法の玉極、諸宗の源、諸宗の奥義なるを明にして居り、 殊に本朝に於ては孝徳四年元興寺道昭停来以来.騨法の停ふる所聖賢出世、庚利群菩‘殊に近来大畳‘冗荏以下 宋土の英傑来朝して悌日を末光に輝し、庚く仔識を照してゐる。されば何んぞ台徒の言ふが如きであらう。とれ を以て宗岨興硝の本来を明にぜんが矯めに本書を著はすと言ふ。叡山の攻撃に封して寧ろ反撃的でなく、穣営す ぎるの観があり‘後の市騨寺の組梢定山の積一止法論の論鋒鋭利たるに比すべくもたいが、諸山一でしの交渉を見る上

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に於て先づ共の故初に奉ぐべきものであらう。 虎闘師錬の宗門十勝諭.外別論.正穿論、元古了耀害等 綿 宗 諸 師 中 最 も 破 邪 顕 正 的 態 度 を 以 て 諸 宗 を 批 判 し た 者 は と の 虎 闘 師 錬 を 第 一 と な す 。 郎 ち ん 一 市 川 十 時 論 ︵ 一 沼 町 内 4 附 ︶ は 、 締 ん 一 京 は 如 来 一 代 之 宗 法 で あ る が 故 . 棉 ん 一 部 の み 之 を 宗 門 と 稿 す 。 余 の 諸 宗 、 例 へ ば 天 台 雑 華 は 支 那 に 建 ち し 私建であり.三論は挺婆龍樹の私建.律は唐の道宜によって品開通せられたが岱めに私建に陥り、特教は昆虚を立 つるも、之れ如来の身授に非守、感授たるが故に王法に非守、かくて絹門のみ婆伽の直下受授嫡聯するが故に之 を一代の公俸と話す。然れば絹門の宗門のみ言設の相を離れ、思議の境ではない。上根大機唯詮印知するのみで ある。けれども且ら︿見行の化連他師の及ばざる所、即ち諸宗に勝過する貼を左の十円に就て述べるであらう。 即ち一竺乾正績、二建磨位高‘三組名通呼‘団派流贋長、五識記遡速、六墳籍収蔵.七規短厳整‘八王臣多人. 九臆化幽賛.十他家推稿この十門に於℃正しく勝劣を判十るととが出来るとしてゐる cA7 共十勝の一々の詳設は 之を略するが、要するに共の全巻の骨子とする所は、相承論を根幹としたものであった。即ち共動に於て勝れた ればとそ、識記遡速の門が建てられ.王臣多入、鹿化幽賛.他家推稿の各部門が建てられる。叉共根源は、建磨 位高、組名活呼であるからであると言ふにある。されば相承論の研討蓋し終れば飴は共影響論に過ぎ向。斯かる 本警の護表は.営時尚非常なる勢力を有した南部北嶺野山等の奮伸敬々固に封する宗義的爆弾的宣言と言ふとと が 出 来 る 。 ︵ ロ ︶ 共 に 師 に は 外 別 論 並 に 正 芳 論 等 ︵ 細 則 4 一 昨 日 一 ︶ が あ る 。 外 別 論 は 禅 宗 を 教 外 別 俸 と 言 ふ は 回 数 の 謂 で は な い か 。 査 し 固敬は寓法合帰し‘諸相混融す、一色一香も中道に非やと一言ふ事たし c 若し共と隔具ありとすれば騨宗は別敬で 5 中 世 に 於 け る 締 宗 ハ 臨 済 制 仲 ﹀ と 諸 宗 ハ 天 台 . 区 一 言 、 浄 土 三 宗 ﹀ と の 交 渉 ヨ王

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日 本 傍 数 墜 協 合 年 初 叫 ハ 第 十 年 υ ."ff. 6 あって未だ最上乗の法門と言ふを得たいであらう.と一言ふ白聞の問題に封して、彼は小別大別の分別を建℃・開 宗は正法体授の故に犬別.諸経は悉く之れ小別.然したがら之れ通迭の所謂国別の判教諭であって‘締︷一店が特に 外別である所以のものは、所調介別計較識情五らざる識外、格量軌轍分持の通せざお格外であるからである。又 コ 一 一 束 は 例 へ ば 江 河 . 綿 ︷ 一 京 は 混 海 、 河 は 小 に し て 海 は 大 且 つ 外 、 之 れ 大 外 . 諸 乗 は 戸 踊 ・ 絹 宗 は 虚 空 . 戸 闘 は 狭 局 にして虚空は蹟通.是れ通外、かくて絹宗以外悉く是れ悶別と一言ふも敬外別停の法門に劣るとなすものである。 京市玄酬は蹄門二十八組を正俸と詩し‘諸宗を穿倖と得し、殊に密教の如き昆車直下に系哀して明岐たるもの L 如 きも.我が絹宗一乗の法を以てすれば.付法に身授あり感授あり・感授を以て末と岱し、身授を以て本と鴬す。 ご十八組停のみ身授であって密敬付法の如き之れ感授である。かくて締宗のみ正法相続と主張するととが出来る と 論 4 7 る の で あ っ た 。 次 に 元 亨 鰐 書 ︵ 刊 4 欣一悌︶であるが、との著作は勿論前記詩書の如き破邪顕正的意固の下に製作されたものでない ととは言ふ迄もない。而して我国情停として共建識通博.共所惑の多数たる到底他の迫随を許さざるもの、早く 入減の輸出回を得、刊版既く用ゐられたとと叉世の既に識る所である。されば本書を誌に奉ぐるの要たきが如くな るも.他宗は兎に角として、調印土宗にとっては黙許する事の出来ぬ多くの問題を提唱されてゐる黙に於て.重大 なる役割を持つものと言ふととが出来る o 印 ち 、 師 錬 は 同 書 廿 七 に 於 て 、 ﹁ 浮 土 二 一 不 或 大 或 小 依 修 者 、 而 然 無 制 ︷ 一 部 之宗系故也、始品早川健主導連子之難如来融市開十六槻想・是所以時土之建也・表出修多羅散見不一喬一刊本朝空也 師偶之猶導之於唐.源信似空耀而助之、難庚行間部而無統系故今筋寓宗、宋地叉彼之ん一不燐.無統系者興我同意﹂ と 一 一 言 。 て . 正統相承なきが故に博士宗は成宜倶舎と共に寓宗たりと批判したのであった。叉同意同廿九には﹁念悌

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者 一 持 諦 之 一 支 也 配 中 元 暦 文 治 之 問 ・ 源 雲 仙 師 建 専 念 之 山 一 示 、 翠 断 水 流 或 資 子 曲 調 柳 揚 一 頓 挫 ・ 流 一 暢 哀 一 腕 、 惑 人 性 喜 人 心.士女柴聞雑存瞬間.可骨川愚化之一端突﹂と許して.押印土宗の敬化は愚化の一端に過ぎたいと酷許を加えたの で あ る 。 之 に 釣 し て 洋 土 ︷ 一 市 側 と の ん 一 万 義 的 論 争 の 惹 起 さ れ た 事 は 営 然 で あ る 。 備 と の 外 諸 宗 特 に 浮 土 宗 に 封 す る 批 評が消北集所収病儲論第九念頭章等を始め.同集の所々に行はれてゐるのであるが、要するに虎闘師錬は鎌倉末 期に於ける積極的宗義宣揚否破邪額五的態度をとった第一人者と言ふべきか。されば諸宗が彼に封して盛んに鹿 酬反駁を加えるとと L なり.故に教理的論争を展開する事となった。 夢窓悶仰の夢巾問答及谷響集 ︵ ハ ︶ 虎閥師錬についで破邪顕正的態度を以て諸宗を批判した者は夢窓疎石であらう。鎌倉北保氏滅亡後其大槽越家 を失った禅門は.一時波落せんかと迄時人に疑はれる朕態であったが︵時一誠︶.師の不出世的風格道光は、上光巌 光明雨上皇を始め奉り‘足利寧氏直議等の厚き蹄伎を得‘立ハの宗光汗一盤石の下に礎き‘天龍寺の棲闘をして荘巌 を極め.園毎に安園寺利生塔の一寺一塔を建立せしめて‘輯門の黄金時代を現出せしむるを得たのである。立な る 哉 、 蹟 智 閤 師 語 録 に ﹁ 仰 惟 一 大 龍 開 山 三 朝 園 師 夢 憲 一 止 畳 大 和 尚 ・ 一 世 定 光 古 悌 再 来 、 一 一 一 界 無 上 正 費 大 雄 配 中 玉 匡 景仰、文武品珠山町割、然則南都北嶺悉蹄降.高僧碩徳、八宗九宗.愛共法流之刷決、得共寝殿之紹隆.宛不興騨迦出 世異云云﹂たる絶讃の存する誠に故ある哉である。夢中問答は斯かる師の著書にして、元来大檀越足利直義の質 疑に封する臆答の矯めに連作せるものなれば、従って甚だ概念的ではあるが、共内容に至つては縄宗と諸宗との 悌性論を始め種々の問題に於て批判し、開宗を以て至極の大法とたし・粂ねて諸宗を非難する所茜しい、特に封 浮土宗の批判に至りでは不了義の故に小一来たりと庇したるを以て、後に論やるが如く.浮土︷一亦側智演を始め、了 7 中 世 に 於 け る 蘇 宗 ハ 臨 済 滞 ﹀ と 諸 宗 ︵ 天 台 . 民 言 . 浄 土 三 宗 ︶ と の 交 渉 五

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日 本 悌 絞 殺 協 品 百 年 報 ︵ 第 十 年 ﹀ 五 四 8 題口等をし℃専ら本書に封ずる臆答反論の幾多著述をなさしめ、惹いては判教諭の改革をも飴儀−なからしむるに至 った。共の影響頗る大たるものがある。向疎石には智演の浮土宗側駁論に封し重ねて谷響集を著はして之に臆酬 してゐる。向夢巾問答は康永三年早くも開版せられて世に流布されたととは共影響繭々大たらしめてゐる。 組禅定山の績正法論 ︵ ニ ︶ 康永四年天龍寺遺替供養についての山門敬評問題治定して間もなく‘南絹寺棲門新遣に首り.北ハ白岩替用誌に 閲する開所並に地域侵害等の問題について、南梯寺と三井寺並に叡山との聞に所謂際安の品川評問題が惹起された。 との重ねての理不輩的態度に劃して正面より雨山を論難し、併せて八宗九宗を批判したものがとの組枠の績

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法 論である。共内存は論械乞虎闘の十勝論にとったのであるが、姑く共一隅一端左奉ぐる事として‘先づ締法は﹁諸 梯之管轄﹂であることを﹁心々相承、器々相承﹂の上に立誰し、+凡で鎌倉五山、京都の南冊、天龍、建仁.東隔、 寓寄の大慶之棟梁として﹁禦無明悪業之風雨也﹂を明にし.縫いで諸宗を批評して、﹁八宗皆非如来的倖之正法﹂ 故 に 五 回 ︷ 一 万 の 一 隅 に も 及 ば ヤ と 論 じ 、 積 い で 叡 山 国 城 雨 衆 徒 を 酷 評 し て ﹁ 特 夫 延 暦 寺 之 法 師 等 者 、 唯 翁 七 枇 之 禰 狭 . ︵基カ︶ 似 子 人 而 非 入 者 也 配 中 復 同 一 望 寸 之 単 位 品 店 主 刊 満 市 三 井 之 蝦 一 時 於 子 畜 尤 劣 者 也 ﹂ − Y ﹂論破し‘痛罵飴離がたい。か くて人非人と罵られ‘三井之蝦基と阿古口せられては.山門寺門衆徒の憤起するも営然と言はなければたらぬ。其 結果は幾多尚折を経て途に組組は述江固に流罪と話り、南禅寺棲門は撤却されて共結末を見た。 か L る論争の一飴波として本書が作製された詰めに‘教理的問貼からすれば.虎闘の主張を端的に然かも激烈 た る 言 献 を 以 て し た に 過 ぎ た い と 一 古 川 ふ べ き で あ る 。 以上絹宗諸師の破邪額五的著書並に共内容の概略を述べた 0 .而して是等に封する諸宗の反響は、中世を通じ℃

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の宗義的諸宗交渉剖宗義的教理的大論争を展開じ‘惹いてとのととは浄土宗にあっては共の︷一不義判教の改訂蟹革 をさへ招来する動機ともなり共影響頗る豆大なものがある。予は是等科宗諸師の著作を通じて彼等の批評論難 の主なる題目が如何なるものであり.共等に封して諸宗は如何たる人々により、如何なる主張の下に、如何なる 著作に於て反駁々論されたかを一目了解し作る便宜のために左に二闘表を掲げる。 貞 虎 2利関

J 島 根 | | | 元

2

完 済 宗 北 集 門 傍 別 所 十

豊勝

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論 論 I 1111 醇 ー無象静照| l 興 徳 治 一 冗 ハ 一 九 三 ︿ ︶ 九 つ 宗 論 基 調 ↑ の 著 書 | I I

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組 観 夢 安時え膝窓 七定と二二疎

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続 谷 夢 9 出 一 。 亨 中 正

護 凶 ℃前プ面 I I ハ 天 。 一 小 一 ︶ ︵ 民 員 4品、 日 樺 記 i l i − − 諸 種 の 訴 状 開 ,i:,

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蒋 ー書 問 答 !|| 響 集 f去 論 中 世 に 於 け る 蕗 宗 ︵ 臨 済 格 ﹀ と 諸 宗 ︵ 天 台 . 国 民 一 一 一 一 回 . 浄 土 三 白 石 ︶ と の 交 渉 出羽︶ r、、 i'fr 土 出 一 む 智

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(10)

日 本 傍 敢 闘 貯 ナ 協 合 年 報 ︵ 第 十 年 ︶ IO ー穏︵本質︸

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悌 性 ハ 宗 義 論 ﹀ ︵ 心 回

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宗 論 の 基 調 | 一 3 ︵ 教 理 論 ︶ ↑ 1 相 r、、 本 賞 、ー’ 相 列 つ禅宗主諸ポハムヘ トし密.浄︶との交渉 用 ー政治.経済.文 化 等 ペ 粧 品 問 的 関 係 論ニ九

J印a I I 機 一 数 論 | | | 大 数 外 五 六 来 論 ︵ 綜 υ11 三 乗 品 調 ︵ 一 一 回 0 h ︶ 承 一 | 公 一 正 4 岡 j l f 三 回 一 ↑ 身

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1 誕 闘 摘 出 生 論 ﹁ 出 解 脱 要 道 論 護 即ち︵一︶に於ては専ら前記禅宗諸師の著作を事げ、之に封して天台.畏一一百.市土三宗の反駁論者の帥名並に著作 の大概を配し.。一︶に於ては是信一寸禅宗諸師の論難批評の中心問題が如何なるものであったかを﹁惜相用﹂の三大 に分類した。との分類が果して安官であるか否か.幾分畑遣いであると考へる予の最も畏れる所なあるが‘兎に 角右の分類に表はれた問題が論争の中心問題であった o 口ハ是等の諸問題中人師により、封諸宗の如何によっ℃必

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中しも同一態度ではなかった。印ち天台良一百等の嘗教圏

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封する場合と.新興博士宗に封する場合とには亦自ら 品一一石具があった。叉是等諸問題を通じて最も重要な題目とたったものは、大問虎聞は相承論を中心として教理論に 及び、夢窓は敬理論を中心として共他に及ぶの蹴あり。叉一面天台宗との交渉の如く・教品開史的幾多の闘争を演 ヒた共根本的論争の題目が、共の教理論よりも寧ろ常に鋲護国家論或は設問済生論.或は位台風敬論と言ふが如 き、所謂布闘の﹁用﹂に首る問題に始絡したと言ム事は. H E 亦例教の負ふ園家、枇合、人類に封する本来の使命 への敬闇的反省の現れであって、従て此の大きたる問題についても是等諸師の著作巾論争の一問題となって表は れ て ゐ る 事 は 一 言 ふ 迄 も な い 。 かくて相承論判教諭を中心として諸積の問題な展開し.裁に一一日ふ所の諸宗交渉の全貌が見られるのであるが. 回より是等の諸問題は各宗の依擁する宗一訟の根本的問題全暗に亘る、従って之を局限された紙敢に於て悉くを壷 すととは到底能はざる所、加ふるに教理的専攻ならざる予の如き向後究を侠つべきものあり、何りて姑く相承論 を中心に其他二三の問題を併せ考へ以て本論の概要とする。 ︵ 一 − 一 ︶

耀宗と天台宗との交渉

停法護閤論について 締宗と天台宗との交渉は.既に辻博土によって論巳蓋されたが如く叉前述した如く寧ろ政治と宗教と言った如 換言すれば一世曾史的論争制札機に始終したのであった。そして其靴轍闘争の根本基調となったものは. ︵ イ ︶ き政教闘係 II 賓に宗教的本質問題である教理的‘哲接的理論闘争ではたく、新興教闇の興隆に劃する反感毘迫であった。然し 中世に於ける締宗ハ臨清輝﹀ i 乙諸宗︵天台.足音.浄土三宗︶ L C の 交 渉 玉 -,f:r

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日 本 例 級 感 協 品 目 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 五 入 12 ながら敬舎の棟梁たる叡山が有も南部の所謂山科透明の如き態度をとることは、瞳面上避けなければならぬが矯 め、共合法的理由として、一には叡山は倖敬大師開宗以来.天子本命之壇場であり‘鎮護国家之雌法を修する唯 一の根本道場であるが故に、止観法門に反して枠法を流布するは仰法王法衰滅の基でるり、朝家亡弊の根源であ るとする事。二つには時借を以て専修念怖の徒と共に﹁異類異形﹂の輩とおり、﹁平和戒律好名利﹂と庇す、殊に借 風異朝に異似らば、我良風を乱すのみたらや既に宋朝締法を流布せしめたが故に、図を蒙古に奪はれ‘日域関東 北保氏﹁師連磨敬之刻‘失運命於片時﹂ではないかと言ふ如き保目が主張された。是等の事は既に日 T く柴西輯師 の場合に於て、或は嘉元寺破却‘降って天龍寺活替.市時寺棲門新造世一寸何れの場合に於てもとられた根本主張で る っ た 。 ︵ 紺 野 時 間 航 融 ︶ 以上の如く天台宗との闘係は.概して教理的論争と一言ふよりも寧ろ教閤勢力闘争に重賠を置かれたのであるが. 然し仮令教撃の同化、教相の頼度‘事相盛興の時代とは言へ、三千の犬家を擁した天台大教圏から、教理的論手 ︷一不義的反駁が加へられたかったとは考へられない。予は共賠について従来少しく詑意する所があったが、僅かに 本朝台組撰連絡部書目︵鵬惟一一︶中に、天台座主良助法親王の撰として﹁天台建磨宗論記﹂の名を見え出したに過ぎ ぬ。然し未だ眼耐の機がない 0 4 んも同宗口倖法門に闘する著述、殊に所前関東天台の教墜と稿せらる L 慧 心 流 、 三章一七筒等の口停書、例へば早くは鎌倉初期の心賀口倖一海註する所の﹁二帖抄︵献附脱会︶.共系統に属する傘舜 法 印 の 倖 書 二 帖 抄 見 聞 ︵ 団 ︶ . 及 貞 和 五 年 六 月 に 類 忠 弘 清 書 功 畢 っ た 、 等 海 口 侍 抄 ︵ 胤 ︶ 等 に 於 て 論 議 せ ら れ た 敬 内 教 外 の 問 題 ‘ 依 経 論 . 倖 敬 大 師 侍 法 相 承 共 第 の 一 帯 、 安 然 の 数 時 持 論 に 制 押 す る 所 の 良 一 ず 一 日 . 叩 料 、 天 台 三 宗 の 茂 探 勝 劣 に 闘 す る 見 解 等 は 、 科 ん 一 京 と の 交 渉 乃 至 影 響 と 見 る べ き で あ る が 、 H X 等は何れも所謂一嫡弟一人之外不可授﹂の秘書で

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あり.且つ著述の意同共白瞳が、各宗悉く天台一家に統一さるべきものと一五ふ教理論の上に論じられてゐるが故 に、未だ禅宗への駁論、と言ふととが出来ぬ。従って、叉臆永九年二月比叡山西塔南尾貧困院佐.近江柏原成菩院 開基貞舜によって作られた天台名目類緊紗︵猷附加全︶の如きも、問 E 勝劣を設かざるに非ざるも.一貫設く所は園 調仰の一致論である。かくて蹄宗の非難に封し未だ駁論的著作を見出すを得なかった。然るに予は近時大谷大墜固 書館並叡山文庫等に於て偶然停法護園論なる一番を借覧するを得て、天台宗側の封梢宗への反駁論の一面を窺ふ ととが出来た。何りて少しく同書によって雨宗の交渉を見る事とする。 偉法護園論は虎闘蹄師の宗門十勝論に封ずる天台宗徒の反駁論である・共序に、 タ テ 世 稀 輯 徒 者 . 宗 挽 ニ 怖 心 一 分 、 不 レ 排 日 一 漸 頓 之 階 梯 寸 道 謂 ユ 無 碍 一 不 レ 拘 ニ 大 小 之 戒 律 一 段 − 3 ヤ 悌 敬 司 而 矯 コ 糟 粕 一 諒 ニ 一 ス タ レ ヨ リ タ ク イ 一 来 法 − 而 得 二 裳 第 一 故 晩 唐 以 来 併 法 漸 慶 ニ 子 支 那 一 建 仁 己 後 正 法 柏 微 ニ 子 本 朝 一 準 備 之 流 莫 レ 不 レ 悲 語 、 此 有 錬 絹 師 難 レ 一 果 二 輯 誠 一 粂 皐 ニ 経 論 一 内 外 史 停 無 不 周 賢 . 大 小 典 籍 無 レ 不 = 窺 看 一 所 レ 匙 章 疏 数 十 飴 軸 ‘ 人 謂 二 時 門 之 領 袖 室 宗 之 目 足 一 予 未 ニ 披 間 一 偉 聞 随 支 目 、 然 有 レ 競 ニ 宗 門 十 勝 論 斗 則 錬 公 之 所 レ 謹 也 ‘ 斯 論 旨 師 、 数 無 ニ 犬 小 ↓ 稿 − 一 之 劣 法 ↓ サ ス ム ネ ガ 島 之 私 建 、 我 一 看 レ 之 三 百 剣 レ 心 、 土 日 間 二 徳 風 − 感 ニ 其 秀 才 一 今 見 ニ 述 作 一 間 二 北 ハ 博 圏 三 調 達 之 堕 苦 、 盤 特 之 詮 聖 、 共 不レ然乎‘像法決疑経一五.是諸比丘亦復自稿ニ我是法師.我是律師、我是禅師一此三種肇人能減ニ我法↓更非ニ飴 人 ↓ 此 三 種 人 法 相 詑 過 法 相 段 持 入 ニ 於 地 獄 、 猶 如 − 一 箭 射 一 嘘 呼 守 レ 玄 欲 ν 哩 川 ・ 額 密 教 旨 将 レ 堕 、 順 レ 世 殻 レ 一 吉 ‘ 自 他 則 非 報 難 レ 兎 . 市 一 復 惟 念 . 法 之 興 鹿 者 困 之 安 危 也 、 話 レ 恩 軽 レ 身 ‘ 今 正 H 疋 時 事 不 レ 獲 レ 己 ‘ 撰 ニ 此 一 論 − 名 H − 一 億 一 法 護 困 論 一 乍 遇 二 敬 一 来 之 欲 誠 一 不 耽 章 句 之 無 文 一 実 13 以て著述の主旨を知ることが出来る。然し共著者並年時等に就いては之を知るととが出来ない。思ふに乙の序 中 位 に 於 け る 静 宗 ︵ 臨 済 禅 ︶ と 諸 心 不 ︵ 天 台 . 岡 県 一 一 一 日 . 浮 土 三 宗 ︶ と の 交 渉 五 九

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日本悌放感協 A M 同 年 報 ハ 第 十 年 ︶

14 よりすれば.虎開輯師の十勝論を見て法の興麿園の安危であると考へ敢て本論を作るとあるから共時代のもの L 如くであるが、果して蹄師の時代に迄遡り得るや否や幾分の疑たき能はざる所たるも.同書第八王匝多人の僚の著 ナラシヤ 者 の 論 中 に 、 ﹁ 至 子 本 朝 興 宗 明 盛 、 肇 − −

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敏 連 日 ・ 中 一 子 桓 武 一 章 二 子 重 朝 − 七 百 飴 歳 、 六 十 飴 主 、 睦 代 日 脚 仰 誰 敢 営 者 云 々﹂の言葉があり.とれが著者の年時とすれば.敏建天皇より聖朝に車んで七百飴歳は.亀山天皇の文永八年より長 慶天皇建徳二年に至る百年間の何れかに相官し.六十飴主は一脚皇正統記等の御歴代数に従へば.三十一代敏建天 皇より九十一代伏見天皇.百一代後固融天皇の十代の御治世に相営する。印ち後宇多天皇弘安四年に生れ.後村 上天皇貞和二年七月に示寂した虎闘師錬の在世中並に残後廿五年間に相営する。換一一目すれば宗門十勝論箸作早々 の時代に於て作製された事になるのである。何れにしても現大谷大皐所蔵本は.共刊記によれば延賓九年八月の 出版に係り.共の論述の時裁は、最初に﹁錬日輯講二人云一五﹂の十勝論の序に封して﹁論日華践之法界一五云﹂と 尋 一 同 ふ が 如 ︿ 直 に 論 難 を 加 へ 、 順 次 十 勝 第 一 俳 一 一 乾 相 績 よ り 次 第 に 第 十 他 家 推 稿 に 及 び . 最 後 に ﹁ 此 一 論 本 第 三 護 法 ﹁ 但 仰 意 難 レ 測 不 可 偏 執 . 求 那 蹴 摩 一 五 諸 論 各 異 端 修 行 理 無 二 . 偏 執 有 ニ 是 非 一 達 者 無 異 詩 . 龍 樹 一 式 自 法 受 染 故 段 ニ 品 日 他 人 法 ↓ 雄 ユ 持 戒 行 人 − 不 レ 兎 ニ 地 獄 背 一 願 一 切 衆 生 拾 レ 邪 師 二 正 道 、 向 入 ニ 和 合 海 一 誰 ニ 無 上 主 口 提 こ と 結 ん で ゐ る 。 倖法議園論の相承論等 健法護問論は前述の如く専ら宗門十勝論に封する反駁論であるが故に、共論争の中心も亦相承論を中心とし加 ふるに組師連磨の位高、臆化幽賛に関聯する。 相承論が何故にかくも嘗代論争の中心となったか c 是については首然支郊に於ける各宗の相承論の護連特にこ の 場 合 に 於 て は 、 唐 末 五 代 越 宋 等 に 至 る 一 六 台 、 開 雨 宗 聞 の 激 烈 な る 論 争 を 考 慮 せ ね ば な ら ぬ 。 一 一 一 ロ ム ま で も な く ・ ︵ ロ ︶

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天台宗の相承識は天台智者大師の摩柿止観に起原し.共で共門弟章安濯頂に依って金口今師桶相決識が提唱され. 六組湛然に至って確立特に建磨締法に封する破邪識は最も痛烈を極め、市も共難貼は一は梢は翠輪斐翼の暗詮に して.無相を以て行かんとするが如しと友す教理論.一は相承の優劣.印ち彼は劣にして此の勝れたるに如やと なす相承論であった。湛然以後の五代越宋に至る百数十年聞は天台宗の暗黒時代であり‘只共の間我停教大師に よって共法門我固に渡来し、こ L に日本天台の成立併せて所謂車授相承諾主相承等の一件組織とたって現はれたが、 支那に於ては共後第十組高論清喋の後螺漢義寂、慈光志凶出て、殊に義寂以後の山家波.志因以後の山外扱等の 分 減 を 生 じ て 主 人 ム ロ 敷 島 一 ・ 復 興 す る や . 殊 に 四 明 と 天 章 子 凝 の 論 難 等 か ら 相 承 論 に つ い て も 評 論 止 ま 4 7 ・ 契 嵩 の 正 ︷ 一 不 記に封し浮島丸の弟子子肪は止説を著はして之を難やる事後越の如くでちり、一方開宗に於ても早く相承の事論議 され特に五組以後南北二蹄の分流するや、所謂南頓北漸の宗風分流に伴ひ血肱の論義盛興した。共結果去来ん一不信 の 固 魔 経 大 疎 紗 . 等 で 越 宋 の 永 明 延 需 の 宗 鏡 録 . 道 原 の 一 景 徳 倖 燈 録 . 契 出 荷 の 傍 法 正 山 一 川 記 に よ っ ℃ 所 謂 西 天 二 十 八 組倖相承が確立されると同時に諸宗相停の洩劣生主張するに至った。 一方叉務教は善無畏金剛智不室三蔵等の支 那入間となって大日経金剛頂経等による正純密教輪入、其伴ふ南天織塔中の密俸が相承論として捧頭し、擁て不 空の金剛頂経義決.地に清河の血相牧の大見虚合那成僻紳嬰加持経序、雲海の同大経相承停法弐第記等によって確 立して我が密教相承論の基礎となったのであるが、如上の相承論、特に一大台糾雨宗間の相承論々争の中心は何 ん で J ρ ったかと云へば、達磨多羅騨経、付法政停等の西天廿四祖師子以後‘果して如来の付法断絶せしゃ否や. 15 師子以後断絶せ中して廿八組連麿に至ると焔す蹄宗の主張に釘して、天台宗は師子に断絶すると雌も.金口向龍 樹 よ り 羅 什 、 議 文 、 都 一 品 忠 . 天 台 と 相 承 し て 今 に 至 る と 矯 す も の で あ っ て 、 と の 附 或 は 付 法 蔵 停 を 依 披 す る の 可 否 . 中 世 に 於 け る 静 宗 ハ 臨 済 梯 ︶ と 諸 宗 ハ 天 台 . 民 一 員 . 浄 土 一 一 一 宗 ︶ と の 交 渉 中 ノ、

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日 本 例 数 撃 協 舎 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 占 / 、 16 及其列組名の問題、殊に小乗有部の列組を翠げて大乗相停に列するの嘗否等の諸問題を中心として‘各優勝海劣 を争ふ事とたった。殊に停教大師は天台数理の基礎とたった所謂今師相承論に加ふるに、龍樹敬皐中心諸経の謹 経主である羅什を入れての所謂詩主相承、南岳天ム口一隅師が霊山の聴衆としての直授相承を完成し愈 1 日本天台の 興 隆 及 章 安 の 意 闘 し た こ 相 承 論 を 正 し く 継 承 し た と さ れ て ゐ る 。 ︵ 湖 町 平 副 戦 時 制 服 ⋮ 以 山 口 監 一 一 軒 同 制 脚 お ⋮ 畑 γ 暗 殺 ⋮ 快 ︶ か L る相承論は宗門の口決としてのみ隼重する債値あって未だ暦奥的に取扱ふべき性質に非中とする忽滑谷博 士の見解は姑く置くも.との相承論々争は支那悌教界の教理的論争と相侠って蟻烈を極め、共影響は我園にも及 び台東南密教々倖相承の特に重脱された平安朝を過ぎて、誌に輯宗の輪入に首って.再び論議されたのは叉官然 と 一 言 は ね ば 怒 ら ぬ 。 然らば虎闘に封する本書の相承に関する駁論は如何たるものであったか。との賠必ヤしも従来支那等に行はれ たる論争根操より一歩も出てゐたいと考へらる L けれども、姑く水害の所論を見れば左の如くである。 虎闘は正宗記を根操として、廿八組相承論を主張した事前記の如くである。之に封し本書も亦摩詞止刷、菩薩 の高戒義記等によって付法絶を主張し、共で同じ廿三組中提婆を以て高祖を岱さや、龍樹を以て金口相承の根源‘ 宗祖と矯す所以を明にし.更に進で虎闘の専ら依操し以て諸︷一川を難中る停法正白川記の著書契嵩の廿八組相承は、 要するに建磨岬経、出三蔵記吐一寸を品目通せるもので、共根操なく且偏聞なり‘従って付法正嫡に非すと主張するも のである。然したがら、共駁論は北ハ字句所論共に後述する H 木質の所論に及ぼ守、かくて相承論の反駁絡れば官然 と L に公倖私建の問題が連関して論ぜられた。との問題について、本書は先づ﹁華殿之法界肇エ子合那一市山之制 教 出 レ 白 ニ 金 口 一 法 相 鰍 レ 依 ニ 六 経 一 深 密 岱 レ ︷ 一 巧 無 相 雌 レ 申 二 代 − 般 若 篤 レ 詮 、 背 是 世 傘 直 詑 也 、 更 非 ニ 像 末 情 謂 日 乎 ﹂

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と言って華巌以下諸宗悉く世隼の直設なる事を主張し.椋いて我真言止観一大国︷一不の諸経第一なる事を法華経並 に天台大師の所牒によって明にし.績いて天台民一一一日の﹁義理冥符﹂の闘係左殺し.然かも虎闘の所謂密教を以て 感授と矯すも﹁於コ平等心地中一而立ニ相承寸於二本不生際巾一而論感臆一若感若授背絶妙不可思議.如此感授有二何 不可こと言って、者無長三蔵の義樺に従って、共故なきる主張し、殊に諸宗が或は繭勅龍樹等の如来滅後の論乞 基とし、賢首.道宣が支那に於て述疏した事を以て私建とするたらば‘達磨の二入同行設.一二組併嘆の信心銘、 六組慧能の六組壇粧等を以て所依とする汝等肺門も亦私建に非やや。霊山所立の岡宗‘秘密英一深の真宗とれとそ ﹁ 併 自 立 公 倖 之 ︷ 一 万 ﹂ で あ る と 論 破 し た 。 ︵ ハ ︶ 連 麿 『埼 位 十勝論によれば達磨は﹁得解語一守口陀羅尼及意生身﹂の故に皆是れ地上の境界.到底他の三蔵並に諸宗の組師の 及ぶ所に非・?と云ふ。印ち南海より金陵に建するの速か怠る事、漢語を皐ばやして良く梁の武帝に示教せし事. 遷化後熊耳山定林寺に塔ずるも三年後片骨泣く只隻履を残す H E れ意生身なる事、等を以て之を読すと話す。本書 は之れに劃して後漢より唐宋の異借姥併悉く雁化紳力借であるが故に何れも方言に油守、殊に聾明を皐ずる者は 中 謹 の 韻 旨 に 遍 く 通 じ 、 諸 趣 の 一 ず 一 同 一 回 目 を 洞 に 暁 む と し て 婆 肯 那 、 達 磨 般 若 等 の 例 を 奉 げ 、 殊 に 南 獄 の 門 人 慧 戚 の 一 切語言三味を得たるを記し・共で建磨の意生身怒るに封し同調の棺中只白衣のみたりし事.聖徳太子は賓に市山総 の後身なりとの設等を奉げて、 一家の敬翻諸家に根絶す.故に能俸の人他の識る所に非やと駁してゐる。 共で第三組名通呼‘以下第十他家推稀に至る各部門に於て.或は達磨初組を始め二組三組以下六組等を名けて 17 賓 珠 山 白 鶴 山 四 組 山 五 組 山 等 の 遇 呼 あ り ・ 或 は 叉 支 那 五 家 七 ︷ 一 部 の 隆 盛 は 、 越 宋 の 時 敬 一 束 の 昌 た る や ム 口 宗 に 如 く は 中 世 に 於 け る 礎 科 宗 ハ 臨 端 例 措 酔 ︶ 主 諸 宗 ︵ 天 台 . 民 言 . 浄 土 三 宗 ﹀ と の 突 渉 ム / 、

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日本傍数場協合年報︿第十年︶ 四 18 なけれども.台敬の世系に出する所臨済の一一況にも及ば守とたし、或は法流の盛んにして一百説室字に遍く・従つ て共番多く大蔵経と並び行はる。加ふるに蹄宗諸師は初組より曹撲に至る閥、律寺の別院たるも規度に合はざる が故に百丈縄師の清規に従って起居す。之れ如来の正法二千年を過ぎて遺範の蹄宗にのみある所以であるとし、 されば王匡多く諸組時師と共に機語投契す.諸宗に間々たきにしも非ざるも是れ唯信施のみである、従って他宗 推賞して止まや.悌組統記は諸︷一万立教者を建つるに時宗を第一とす、とれ蹄宗の大統の明かた所以たりとする等 の虎闘の諸種の論難に封して、前述の如く一々共難賠を指遁し‘博引傍設悉く之を駁してゐる。然したがら十勝 論共自惜が既に云ふが如く洩深勝劣を律する規準が根本宗義に蝿る L 所よりも、進に相承論を中心とした史賓の 上に京きを置くと一五ふ賠に於て、本書反駁の態度も、主として史賓の上に共例詮を見出さんと務めてゐる。故に 列挙する詮操は、或は経典論緯に、或は惜俸に、或は倖設に之を取る.共博覧多識驚くべきものがある。けれど も以上の如き逐次的駁論である矯めに、論旨散漫たるを兎れや。得めに自宗の奥旨を組織的に額五し、併せて破 邪の要に供した浮土宗側諸師の駁論に比して遁に興味を殺ぐ所が多い、共賄又次に越 y A る H 木 賓 の 場 合 に 於 て も 一 五 び得る所であるが‘呆賓の駁論は.必 4 7 しも十勝論一書に限るの態度をとらや、官時騨宗祖師に封し、併せて総 数と柿去との関係を敬珂論上‘額五ぜんことに務めた所に興味ある多くの本質的問題が展開されてゐる。

︵ 四

施宗と其言宗との交渉

︵ イ ︶ 日 水 質 の 関 心 紗 並 岬 宗 付 法 捜 事 に つ い ℃ 調 官 一 示 殊 に 共 敬 圏 初 期 の 諸 師 師 が 統 数 | | 台 密 を も 含 む

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と密接なる関係のあった事は話に大屋徳城氏の﹁鎌

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倉 時 代 の 郁 宗 諸 家 と 密 敬 ﹂ ︵ 明 器 一 ﹂ ﹁ 制 球 鍛 ⋮ 拙 ︶ に よ っ て 明 に さ れ て ゐ る 所 で あ る が 、 と の 宗 論 的 交 渉 開 係 に 就 て は 多 ︿ 欄 る L 所がなかった。蓋し締宗の虞言宗に封する破邪的所論は、是亦前述の如く.虎闘の十勝論.正直 n 論 等 の 諸所に於て論ぜられてゐる。 然らば是等の所論に封して反駁反撃を加へたものは予の寡聞に於ては、彼の東寺の三賓の一人呆賓弘基を置い て他に之を見出すことが出来ね。呆賓の俸記に就いては.今之を略するが、予は先年大日本史料第六編之廿四所 牧、五平十七年︵貞治元年︶七月七日呆寅一不寂の僚を編纂するに首り、従来や L 不明とされてゐた同僧都の行貫 を明瞭にすることが出来、同時に彼の準匠として幾多の宗義的著述、並に諸先徳の筆詰校合.誠に驚くべきもの ある事を知った。呆賓入壇記に﹁積鏑仰之功.事相敷相多年稽古.諸人依勝一共致義、随分名春之人也﹂と許し‘ 呆寅僧都事買には古老停を引いて‘﹁貫患者嘉果之後 E 身 . H 木貧者貫惑之再生也﹂とか斗南山宥快頼瑞得空海之皮肉. 東寺呆費得共骨髄﹂ ξ 鰻仰されたる誠に至営と謂は友ければたらぬ。然らぱ彼の共等多くの著作中如何たるもの が共反撃的著述であったかと言へば、我々は関心紗三巻及時宗付法綾絶之事等の二著を拳げる事が出来る。前者 は観知下院所蔵同書中巻識語によって.貞和五年十二月十七日、即ち虎開入誠三年後.夢憲一不寂二一年前に製作され ︵ 呆 資 ︶ てゐた事が判り、後者は同所蔵延文四年三月五日の弟子賢賓の臭警により﹁右師上網口筆也,依或仁懇請被詑之 一 再 々 ﹂ た る と と が 解 る 、 1 1 1 品 川 彼 に は 破 邪 顕 正 記 一 名 我 慢 抄 一 巻 @ 著 作 を 以 て . 天 台 宗 の ﹁ 横 一 言 忘 陸 、 邪 義 遣 法 ﹂ を反駁したものがあり、其の他相承付法に就いての遺作として‘康永四年に付法偉勘註三帖.延文五年に密敬停 来 脈 諮 .

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説勘決一軸、康安二年に付法体纂要抄問書等があり、叉書寝校合等には翻臆元年に働法和漢年代暦上一 軸等がある。是等は五に是等二番製作の基礎乃至は相関々係にあるものと考へられる。 19 中 世 に 於 け る 締 宗 ハ 鰭 湾 端 科 ︶ ’ P 諸 宗 ハ 天 台 . 民 言 . 担 げ 土 三 宗 ︶ と の ホ ︿ 渉 五

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日 本 傍 叡 準 協 合 年 報 ︿ 第 十 年 ︾ 占 ハ 占 ハ 却 さて関心紗は兵の上巻に於て専ら騨宗に封抗し.中下雨巻に於て庚く三論、法相、華巌.天台等の四ク犬乗に 劃した顛正論である。其故本問題に闘しては上巻を窺ふを以て足りる。郎ち同警に依れば.一瞬密揖属門.二機 教前後門、コ一瞬宗私建門、四擁著徳失門、五本分極不門、六末世相臆門、七謹園済生門、八詮遁唯密門、九心韓 関異門、十秘密修輯門等の十門を以て輯門への駁論とした。 然し此の十門は必やしも十勝論の論難と一致するものでは無く‘

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南 方 論 等 に も 封 し て ゐ る 。 共 難 前 記 倖 法 謹 圏 論 と 趣 を 異 に し た も の と 一 試 は た け れ ば 友 ら ゑ い 。 呆賓の相承論 附絹宗付法績絶の内容 呆賓の相承論は、先づ関心紗上巻の達磨私建門第三に於て、蹄宗が濁り婆伽の直下受授嫡聯たるが故に公俸と 矯 す と 一 耳 ふ に 劃 し て 、 ﹁ 此 詞 胸 臆 之 妄 説 、 愚 人 之 僻 見 也 ﹂ と 第 一 に 反 駁 し 、 騨 宗 と そ 却 っ て 私 建 た る 所 以 を 騨 宗 の 興起に就いて論じ.績いで愈々禅宗の所謂二十八組俸を論駁して其の詮操とした。彼のとの二十八組俸に封ずる 第一の問題は‘締家が以て正統相承とたす二十八組の内、迦葉より師子に絶する二十四組は、結局付法裁停の櫨 承であって、而かも之れは是れ小乗の相承である。其誼操として浬襲経第三‘六波羅密経等を事げ‘然る後に輯 宗は自ら大乗の深法と言ふも、既に小乗相承である以上私建ではたいかと論駁し、第二に‘師子以後付法断絶の 問題に閲して契錯が専ら撞磨耐経並に出三蔵記を引いて付法競俸をとらや、殊に婆合受授付法ありとするととに レ , 、 ス つ い て 、 子 肪 撰 止 説 の 設 を 以 て 難 詰 し て ゐ る . 即 ち 伎 の 言 葉 を 以 て す れ ば 、 子 肪 加 = 難 詰 − 契 嵩 堕 = 負 鹿 − と 庇 し て ゐる、止誌の設とは要するに契嵩が建磨輯経によヲて二十八組を立て付法戴停を謬書とする除、之れ唐智距の貧林 ハ ロ ﹀ 身感爾授の問題

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傍によった事、賓林俸は達磨縄経の第八建磨多羅、第九不若密多羅とあるを・語一晋相近きを以て撞磨多羅を謹磨と 篤し強口提の二字を増して般若多羅の後に据へ、更に他の二名婆合斯多‘不如密多を挿入して二十八組としたもので 誤謬も茜しいと一耳ふにある。さればとの賓林停を依撮する彼れ契嵩は賓に﹁正教を潰飢し絹宗を現砧するもの﹂で 円 マ ノ ア タ リ 般 ︶ ハ グ ツ 多 デ ︶ リ ラ シ ル 1 ハ チ ア あ る 。 と の 賄 に 就 い て 予 ︵ 呆 賓 ︶ は 嘗 て 之 を 破 し 且 つ 契 嵩 を 罵 っ て 、 ﹁ 面 折 レ 之 而 嵩 英 ν レ 娘 一 五 一 疋 ﹂ と 言 ひ 、 更 に こ の 破 警 に 於 て 共 の こ 難 卸 ち ﹁ 一 − 官 磨 多 羅 ‘ 不 若 密 多 羅 師 資 曲 賞 倒 之 難 、 二 一 凄 合 斯 多 . 不 密 多 あ 閥 ユ 二 名 ﹃ 難 ﹂ を 出 し て 悉 ︿之を論破したとし

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、其理由を詳細に説明してゐる。との内に於て特に注意すべきは忽滑谷博士の所論に於℃ ︵ 師 岬 糊 想 ︶ . 契 嵩 の 二 十 八 組 停 の 成 立 が 彼 ︵ 契 嵩 ︶ の 引 用 せ る 出 三 戴 記 集 巻 十 二 ‘ 有 部 の 師 資 目 録 中 、 薩 婆 多 部 奮 記 悌 大 蹴 陀 羅 師 宗 相 承 五 十 三 人 乃 至 五 十 四 人 の 惇 承 に よ る と 品 局 し て 正 宗 記 を 取 ら ざ る 所 以 と し た 問 題 が . 子 肪 ︵ 酬 請 瑚 4 品 〆 ラ ル − 一 方 A J F 一 切 ︶ 撰 止 説 の 設 と 共 に 論 ぜ ら れ て ゐ る 事 で あ る 。 卸 ち ﹁ 止 説 破 レ 之 目 、 叉 撮 − 一 借 耐 三 蔵 記 寸 偉 律 相 承 五 十 三 九 、 最 後 テ ス ノ ト 品 ズ + ガ ハ ス ル チ ー ラ ノ ラ ︵ 智 矩 ︶ ︵ 契 嵩 ︶ 一 テ テ 名 ユ 達 磨 多 羅 一 而 取 矯 = 梁 朝 達 磨 一 殊 不 ν 下 働 問 一 肺 所 レ 記 乃 載 申 小 乗 律 之 人 U 短 嵩 既 隼 レ 騨 翁 ユ 大 乗 一 何 得 下 一 氏 周 = 小 テ ラ ノ ト テ テ 一 ノ セ シ 乗 律 人 − 払

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払 ム 耶 一 試 一 再 此 意 薩 婆 多 部 小 乗 二 十 部 之 一 也 . 何 引 レ 之 矯 ユ 輯 法 相 承 詮 ﹁ 仮 令 有 レ 人 引 ユ 陰 陽 家 系 闘 目 録 ユ 皆 道 相 績 詮 − 宣 非 ユ 愚 者 − 耶 ﹂ と 。 共に相承論に連関して問題とたったものは身授感授の問題である。郎ち彼は駁論を加へて、禅宗諸師は‘密教 は大目躍嘩内感密醸して授受されたるもの、換言すれば人天の見知を離れたるのであるが故に‘韓迦々葉と相俸 − F 7 せる身授たる禅に比すべくもたしと批判するも‘抑々﹁悌予異臆之別↓札札コ顛密之異日﹂・しかも彼等は﹁例=生 フ 身之化儀−疑=法身之境界乙の故にとの問題が起って来るのである。唯悌興悌の境界に就いて設かれたる自詮三密 門の法は、如来加持の致す所によって、龍猛、南天の錬塔に入って薩煙に擢頂を受け、其以来秘戴始めて入聞に 21 中 世 に 於 け る 甜 軒 家 ハ 臨 演 説 肝 U E 諸 宗 ハ 天 台 . 民 言 . 極 げ 土 三 宗 U と の 突 捗 中 ハ 七

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日 本 悌 教 圃 噌 協 晶 胃 年 報 円 借 用 十 年 ﹀ 占 /、 /¥. 22 宣布されたる最上の大法であるが故に.生身悌所設の教は到底,との法に如かざるものであると極めて簡単に取 扱ってゐる。︵附︶綿宗付法績絶事。 本警は前述の如く弟子賢賓の延文四年三月四日附奥書によれば、或仁の懇請に依りて注せられたものであるが ー

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現槻智院蔵本は陪永四年二月十日柴呆が剛徳丸に命じて書話せしめたもの

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共内容は是亦禅宗の論難に封 ずる駁論と見お事が出来る.郎ち巻頭に.﹁問如コ蹄者稿唱者、西天廿八組.東土六組、師資相承子 A 7 不 絶 一 五 一 モ 毘 一 テ 一 二 己 品 ト サ グ ル 品 ラ ラ 一 百 円 ︷ 一 万 意 可 レ 許 此 俸 一 欺 如 何 . 答 此 事 於 − 一 唐 朝 − 騨 敬 相 詩 於 五 口 ︷ 一 ヂ 者 難 レ 無 二 判 韓 日 明 探 ニ 組 意 日 不 レ 可 レ 許 ニ 此 停 司 所 謂 付 法 ナ リ ル ラ 俸日‘生身悌所説教不如是、自迦葉至師子付法結実.巾此宰有等論争拳旗誠職此之由夫、而如ニ彼自稿−者師子付 婆合−依混在何乎、今且按載諸文以示後葉而己﹂とし

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、共で師子以後相績ありと主張する景徳倖燈録、停法正宗 記.宗組園等以下の文献を拳げて、一々之に駁論を加へてゐる。而かも共の根本問題として取扱った所は、婆合 斯多.不如密多.達磨多羅等関心妙に邸中げた是等諸師に関する謬見を子肪撰止説等の設をとって論破するにあっ た。共に断絶に関して付法蔵経第六、止観第一等を奉げて師子に断絶する詮とし、更正是等雨書に封して契嵩志 ユ ノ テ シ 一 一 ハ セ シ ガ ノ ラ フ 1 盤 の 徒 が 、 徒 に 謬 難 を 加 ふ る を 不 都 合 と な し 、 最 後 に 許 し て ﹁ 箆 レ 立 ニ 婆 合 相 承 日 超 レ 徳 鏡 レ 之 借 地 レ 曾 一 般 惇 遺 文 二 五 レ 非 ユ y ト ス タ リ ド ス セ 大 型 法 − 何 是 何 非 ‘ 未 レ 定 レ 取 信 − 然 即 時 者 稿 二 敬 外 別 倖 一 頻 慢 、 珂 仰 勝 ν 敬 、 別 傍 既 絶 . 邪 慢 無 レ 寄 、 須 ν 欲 レ 俸 コ 心 印 − 早 入ニ五口宗−習之市己﹂と結論してゐる。とれが本書の内容であるが‘以上によって之を考ふるに本警は開心紗に於 て、﹁予︵円木賀︶.乙の事︵正宗記廿八組の問題︶に就き破書を作って二難を拳げて論じた﹂とする所謂との破書は 言ふ迄もなく本書でなければならね、印ち本警は、関心紗三巻完成の準備的著作と見るととが出来る。 呆 賓 の 判 教 諭 ︵ ハ ︶

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調 脚 ︷ 一 市 は 常 に 敬 外 別 停 不 立 文 字 を 標 梼 し て 、 ﹁ 国 別 ‘ 二 敬 之 域 外 ﹂ 即 ち 諸 宗 の 所 謂 頴 密 二 敬 に 揖 属 せ や と 一 言 ふ . 故 にとそ諸宗超過の法円であると主張する。との事は真言宗にとっても亦重大た問題で怠ければ怒らたい。於是呆 賓 は 関 心 紗 上 巻 々 一 閥 、 相 内 総 揖 岡 崎 門 第 一 の 僚 に 於 て 、 先 づ 真 言 宗 に 於 て は 頴 且 省 二 教 を 立 て L 一切の悌教を判ずるが 開家をば何れの敢に掃すべきゃと自問して此の問題の解決に営った。彼は自答の形式を以て、此の事は組師の樺 の中に所見なきが故に‘鞭く判捕すべきではたいが、密組の意を仰ぎ愚慮を廻らせば.抑々働法は樫迦大日の二 伸法を以て頼密の一同教と篤す。教に洩深の異りあり、宗に内外の差別はあるが.悌法としてこの二伸法を離れ℃ は有り得たい。然れば輯宗は是れ樺迦の設であるが故に、頴教に属すると言ふべきである。今之を一には依粧に 約し.こには相承に約し、一二には宗要に約して之を明設するであらうとし‘先づ第一に永明寺智費師の︷一部鏡録第 一に依れば‘西天上代二十八組此土六組乃至共以下諸組.何れも博く経論に通じ固に白心を悟る。然も所有を徒 に示すに皆誠詮を引き.絡に妄りに胸臆より出づる回目を指陳ぜ守。かく聖一言を以て定量とすれば邪偶移り難く. 空教を用び℃指南 3押しすれば依愚操ありと言ってゐる。かくて圭峯和尚の語の中に、或は智詮大師の教相同異集、 績高僧俸第十六基可停に於て.更に編年通論第七の中に或は稗家の依経を金剛般若経、維摩経と注し.或は達磨 は閉巻侍伽 h 佐官忠可に授け、或は裏能は金剛経に依って得法し‘宗密禅師は国魔経に依って感悟してゐる。然も是 等縛家所依の経典は.犬師の揮には顕教の契経部に揖してゐる。されば輯宗左額敢に揮する謂あるではたいか。 第二に相承に約すとは、顕教は樺迦如来法戴を摩詞迦葉に付し‘密教は庶那如来秘教を金剛薩涯に授く。二伸敬 詑頴密域を具にし・一二闘の菓承始末や L 分れてゐる。宋の圭堂撰大明録に大賛天王問悌決疑経に日くとして.世 牢破顔徴暁‘正法眼蔵担架妙心寅相微妙法門不立文字数外別偉あり.摩詞迦葉に分付す一五一五。共れより以来西天 23 中世に於ける縛宗ハ臨持続︶と諸宗︵天台.民言.浄土三家 u との交渉

凶 、 ,

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日 本 傍 敏 血 事 情 闘 曾 年 報 ハ 第 十 年 υ 七

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24 コ十八組東土六組弐第相承す。既に樺隼を以℃始凪と訟し、迦葉を以て偉者と議す。誰れか額敬の揖に非 4 7 と 言 ふととが出来ゃうや。第三に宗要に約すとは・犬師の耀に言く・一心の利刀を翫ぷは顕敬、一二密金剛を措ふは密 教 と 。 今 賀 柴 断 際 禅 師 の 惇 心 法 要 に 、 諸 悌 と 衆 生 と 唯 是 れ 一 、 心 、 更 に 別 法 な し 、 此 の 心 無 始 以 来 不 − − 曾 生 一 不 = 曾 披−不脊.不葉、無形無相にして有無に属せ守、不 ν計=新奮−非長非短非大非小二切限量名言雌跡封待を超過す、 営 瞳 便 ち 是 れ で あ る 、 念 を 勤 し て 即 ち 靖 く 一 疋 一 五 と 言 っ て ゐ る 。 既 に 一 心 の 利 刀 を 翫 ぷ 、 未 だ 三 密 の 秘 蔵 を 知 ら 歩 . 額軟に撮する事明である。況んや更に他家の組判を以てすれば悉く騨を判じて顕に揮してゐるではたいかとて演 義抄、国費大抄‘宗鏡録、天台補行論等を拳げて其の誼と詩した。 共に呆賓は縄宗が一切の悌法 b L分って敬内.教外の二種としてゐるが密教は何れに揮するや。或縄者は密教を 以て教内 D 揖ゑりとしてゐるが如何と問を護し、自答して抑々敬内教外と言ふは樺迦の遣法に於て論守る所であ る。締宗既に鱒迦の詑たる以上は、法身所設の密教を批判し、勝劣を論ヒ得られるであらうかと述べ、更に密教 の離言離敬、以心停心、騨家の教外の本分と同じかと言ふ問題に慣れて‘騨宗が所謂本来無一物之魔を自詮の境 とするも、之れは密教の自詮の境とする所とは格別の相違がある。所謂密教法爾の荘厳森羅として柄現し、過去 の功徳自然として輪圏、自受法柴の説法々界に住して常恒、利生方便の妙用三世に亘って費せざる所は到底棉門 の了知する能はざる所であるとしてゐる。 機前機後の問題 との問題に就いても営時の縄宗盛んに論じたる故にか、呆賓は本書第二に於て機敬前後門を建て、諸の欄門の 一試︿.詩歌は皆機の後に起る.漏り締宗のみ機の前にあり、されば大日経にも彼の大乗機の矯めに説き、金剛頂 ︵−

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経も最上乗者の震に演ぷと。されぽ民言宗所依の雨部大経猶ほ機の矯めに演説す。然れぽ密宗は捕宗より下位で は広いかと。之に封しての呆賓の障酬は、先づ輯門が機前にありと談守るは抑々人語か聖語か末だ詳かではない。 然しながら鰐迦如来悲願に催されて、内誰秘密の宮を出て、同生度人の篤に下界雑類堺に現じて‘機を見て身を 示し病を嬰て襲を輿ふが如く教繭二教を説く、然れば縛も同じく機後に起ってゐる。抑々真一言密教雨部秘蔵は、 受用僻と自答属と自受法柴の故に設き給ふ所である。等費十地も室に入る事能は事九二乗凡夫誰れか堂に昇り得 たであらう。大日経は買に自性法身の所設であり、其の同聞衆は悉く皆一相一味。されば大日経には﹁繭時耽虚 ス ノ ハ ナ レ ・ ’ ナ リ − − ク テ 舎那世律興二明諸悌−同共集曾﹂と説き.同樺には﹁三重量茶羅所 ν示種々類形皆是如来一種法門身是故悉名翁 レ 悌 一 古 一 試 ﹂ と 説 明 し て ゐ る 。 即 ち 唯 悌 興 怖 集 曾 . 自 知 自 詮 の 説 法 に し て 、 是 れ 賓 に 大 日 経 一 部 の 大 宗 で あ る 。 と の 事は叉金剛頂経に於ても同様であって.即ち同経は白受用の所設である。彼の悌は本と一切義成就菩薩と名け、 五 相 の 識 伽 を 修 し 方 に 成 費 を 成 し 終 っ て 先 づ 四 悌 を 出 し ‘ ・ 次 に 十 六 大 菩 薩 ‘ 四 波 羅 密 等 の 傘 悌 ・ 次 第 に 現 じ て 後 . 金剛弾指を作して金側王の真言を諦し給ム。時に十方の梯菩薩此の舎に来集して剖ち如来の身に入り、還って叉 出で、出で巴って一備を設て﹁奇哉一切僻属大無始生由一切塵敷獲得伸一性﹂と。かくて諸舎の長茶羅を設き給 ふたのである。かくて爾部の設舎は異れりとするも、人は即ち従心流出の人であるが故に更に未悟の機を揮しも仏 ぃ。法は郎ち自受法業の法たるが故に、曾て随他の設を雑へたい。只と L に一類頓大の人あって、直入.直修. 直浦、直読するものとみ﹄・名付て真言相慮の機と矯すのであって、との貼他の諸教の機に従って教 b E 設︿るが如 きものではない。故に密教とそ﹁機不起前﹂卸ち機前、と言ふべきである。叉時に上根上知の人有って.まま唯働 興怖の境界を領するが故に大乗機とも言ふと駁論を加で更に彼は.反撃詰問して、若し汝等輯門の言ふが如く 25 中世に於ける禅宗n 臨済蹄 U と 諸 宗 ︵ 天 台 . 国 民 吉 . 浄 土 一 一 一 宗 ︶ と の 突 渉 七

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日 本 傍 数 撃 協 合 年 報 ハ 第 十 年 ︶ 七 26 禅宗は機前に在りとするたらば更に相躍の機ある筈たし、若し然りとすれば三園倖来しても何の益がある。若し 機前を領するの人是れ絹︷一京相醸の機たりと言ふたらば.是れ亦要するに機を離る慮の者で‘是れとそ密教相醸の 機である。況んや縛宗の迷と言ぴ悟と言ふも皆目疋れ一念迷情の起る上に相封し℃立てたる随縁の法ではないか。 陣地若し起らぎれば悟は一睡何を封象とすペきや。禅門は直に彼の迷悟未超絶待の本分を一不すが故に、頻りに諸敬 を下し積り貴としとするも・我が密教は迷悟共に賓際に遣し、生悌同じく暗性に層せり。此の中に論やる所の機 教能所とは.秘密職伽之稿競‘法繭加持の事である。是等の深旨は汝等の知らざる所‘堂絹宗の下に堕するもの L ι 一 吉 田 ひ 得 ペ け ん や と 結 ん で ゐ る 。 思ふに以上の機前機後に関する問題は密教々理史上、特に新古雨祇分立の根本的問題である教主論の論争に連 関すると考へられる。抑々教主論の問題は所調臆永の南山大成者として知らる L 宥 快 法 印 の 著 ﹁ 十 九 人 罪 、 義 ﹂ に 述 べ ら れ た 如 く ・ 既 に 昔 時 十 九 種 の ム 口 密 東 密 位 一 寸 の 所 論 あ り と す る 程 複 雑 を 極 め た も の で あ る け れ ど も 、 要 す る に 其の根本問題は、密教秘設は締宗の所謂機前、即ち自詮極位の境地、自受法柴の教円であるが、然らば共の深 々械妙の法門は如何たる形に於て度生の秘法たり得るか。換言すれば令他生勝解せしむる法身説法の国人卸ち機 の有無の論であって、勝慧の機ありとするは古義の主張する所、機たきが故に加持門を建て.依て以て加持世界を 度生するとたすのも新義の教主論である。中性院頼論議杭一一︶は指心紗等の著速によって新義の設を確立し.聖憲 ︵ 棚 蹴 ニ ︶ は 白 詮 説 法 十 八 段 論 草 等 を 著 は し て 之 を 大 成 し た 。 而 し て か L る異義分抵の生起する根本原因は、言ふ迄 もたく大日経の﹁薄伽焚佐如来加持﹂の伺を.大師は鐸して其疏に﹁薄伽焚は師ち良虚遮那本地法身たりとし﹂更に 共本地身極位等を説明して﹁然かも此の自詮の三菩提は、一切の心地を出過し、現に諸法の本初不生を畳る、是

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の蕗は一一言語壷寛し心行も亦寂たり.是故に自在紳力加持三味に住す﹂と述ぺてゐるが震に、設に教主本地身有説、 或は反封に本地無設の問題を惹起し‘加ふるに全剛頂粧に言ふ||四僻.即ち自性、受用、費化、等流等の四身 設並に一法界、多法界説、雨部不二説、台諦華巌等の彰響によって、裁に前述の如き敬主論異設を生むに至った。 今 亮 海 ︵ 4 軸 肘 ︶ の ﹁ 異 説 集 附 指 現 ﹂ ︵ 時 間 畑 一 ︶ に よ れ ば 左 の 如 く で あ る 。 古今異説

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− − ・ : : ・ : ︷ 弦 輪 山 号 、 智 謹 . 安 然 l l o 自 受 用 教 主 超 1 ||他受用教主 臼 苑 | | 他 受 獲 化 二 身 教 主 筆 1 1 他 受 用 加 持 身 教 主 空 i | 一 一 一 将 具 足 傍 身 教 主 日 | | 本 地 ト 他 受 用 加 持 二 身 数 主 義||本地身数主 主 貝 範 溌 混 信 性 f 法 性 道 範 費 阿 義 | | 自 性 加 持 身 数 主 頼 王ila 翠憲 以上の中呆賓の敬主諭は古義遺範の敬主論を継承するものと言はれ.而も道範は共著遍明紗第三に於て自性本 地身の有詑法を主張してゐる。呆賓の所論は彼の著﹁口筆﹂等に於て見らる L 如く是叉同設を連ペてゐる。勿論 是等教主論は更に横堅雨説、理智事三身、法報態三身等に連関して幾多の異設異義を伴ふ事一言ふ迄も友い則であ 27 中世に於ける続宗ハ臨掛締 u − P ﹂ 諸 宗 ︵ 天 台 . 臣 民 吉 . 浄 土 三 宗 ︶ と の 交 渉 七

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日本傍教撃協舎年報ハ第十年︶ 七 四 28 る。以上の教主論構成の下に呆賓が機前機後を論じたであらう事は前記駁論の一端を以て了解されるであらう。 ︵ 制 訟 判 刊 紙 一 輔 献 ︶ 。 然 る に 虎 闘 は 叉 済 北 集 道 衡 之 一 に 於 て 絹 宗 の 依 擦 と す る 拐 伽 経 を 以 て 法 身 設 と 筋 す 主 張 に 連 関 し て密教所依諸経の批判を行ってゐる。即ち如来教設は有情機棋の高下によって、法報躍の三身詑法があるのであ って、法そのものに高下ある事たし。姑く顕教についてみれば‘法設は解深密教であり、報設は華厳経、臨設 は法華経である。之を更に密敢に就て見れば法設は見直遮那加持経佐一すであり、報誌は金剛頂経十八舎であって、 との事は既に不宰の十八合.指蹄等に誰明する所である。膳身設は向指蹄に煙迦牟尼悌閤浮提に降って時現化身八 相成道するととを示してゐる。換言すれば金剛頂経十八曾第一舎に樺迦八相の事あるは密部も亦麿身設の詮でる るとして.密教の法身説法を駁してゐる。との賠呆貿への反駁とも見るを得るであらう。勿論密教が法身説法で は な く 醸 身 説 法 で あ る と の 主 張 は 、 既 に 支 那 畳 苑 ︵ 閥 一 鍔 の ︶ が 大 日 経 義 鐸 演 密 紗 に 於 て ﹁ 如 来 是 悌 加 持 身 と は 臆 身 他 受用たり、一切諸悌説法の儀式の如きは皆店出身に任、予云々﹂として本地法身を教主とするは推功蹄本の沙汰であ って、正し︿説法するは臆身他受身であると主張してゐる所、而もこの事は既に早︿中川の賓範.光明山の重春 等彼を他受用教主論者と見てゐる所を以てすれば虎闘の設必守しも新設とするに足らざるも.呆賓が是に劃して 如何に駁したかは今詳かでは泣いが、自設を曲げざるは云ふ迄もたい所であらう。かくして密教の教主論は機前 機後雨敬の問題として縄宗との一論争の題目と怒ったと考へられる。 尚との機前機後の問題は以上の如き論争 D 一題目たる程、禅宗の慣用語であった結果と見るペきか、営時漸く 確立完成した伊勢外宮紳道論の組織の上にとの語が現はれて来た事は同時に荏意すべき事であらう。即ち檎垣常 国 . 借 慈 遍 に 専 で 同 紳 道 論 を 大 成 し た と 一 言 は れ る 村 松 家 行 の 代 表 的 著 述 で あ る 類 衆 紳 祇 本 源 第 十 五 ︵ 蹴 哨 紅 一 駐 制 4V

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珊 畑 一 ︶ 神 道 玄 義 篇 の 最 初 に 於 ℃ 、 問 、 神 祇 古 典 以 ニ 天 地 開 闇 − 潟 レ 最 欺 . 共 上 無 ニ 子 細 乎 、 答 、 於 飴 巻 者 載 − 一 本 文 時 ﹁ 不 レ 及 ニ 樺 義 ↓ 至 コ 此 各 − 者 就 ニ 問 答 − 専 可 レ 決 − 一 回 目 蹄 − 也 . 偏 作 更 無 ユ 私 曲 寸 冥 翠 定 重 二 詮 知 叶 神 祇 香 典 中 多 以 ニ 天 地 開 闘 司 雄篇最↓紳紙道門風以レ之.不 ν レ 極 殿 、 所 レ 志 者 以 二 機 前 − 矯 レ 法 . 所 レ 行 者 以 ユ 済 浮 ﹃ 矯 レ 先 ﹂ と あ り . 更 に ﹁ 間 以 − − 機 前 − 潟 レ 法 ‘ 機 後 合 レ 徳 之 詮 如 何 、 答 隼 紳 遺 勅 中 伺 天 地 開 闘 之 後 . 雄 コ 寓 物 巳 備 日 英 ド 照 ニ 於 混 沌 之 前 日 因 レ 故 高 物 之 化 ・ 若 レ 存 若 レ 亡 ・ 市 下 々 来 会 自 不 整 丸 、 亦 日 汝 正 明 間 給 傍 人 乃 天 下 紳 物 也 ・ 莫 レ 傷 二 心 紳 円 紳 垂 以 − 一 新 一 瞬 − 箆 レ 先 其 加 以 ユ 正 直 − 翁 レ 本 一 五 々 ﹂ と 設 い て ゐ る 。 郎ち榊遣の玄義、不測の境地、換言すれば一犬地未分の境地は、楠宗の所謂生悌未分以前の心同‘即ち機前の敬 であると設き明してゐるのである。而して本書全巻の要旨はかくて理想は共慮に持つべきであるが、共鹿に至る 遣としては正直‘清海の門より入るべきで.清浮五直乙そは遂に死生を超出する道を教へたものであり、共の矯 めには物慾に捕はれざる清明心を持たたければたらぬ。之を一心の定準大道と一五ふ。かくすれば櫨て機前の詮徹 ぜる心境にも到達し、天地自然の徳も自ら備るべきであると言ふにある。︵館経緯抑制鰐匂壬﹂︶云ふ迄もたく従来 伊勢神道論は天地麗集記等密教の影響による雨部紳道論であるとされてゐるも、以上の如き機前の法を以て天地 未分不測の境地を説明する所、密教の自詮極位、即ち縄宗の生悌未分以前之心田であるとする輯密融合の思想に よって組織大成せんとした白ではたからうか。備後究を侠つ。 以上相承論判教諭機前機後等の問題についての論争の大概を見た。勿論初に関心紗の編目に見た如く、との外 呆資は﹁本分極不門第五﹂﹁末世相膳門第六﹂﹁護閤貫生門第七﹂等に於て、夢窓園師の夢中問答中に事ぐる所の生 悌・禾分以前の本分岡地の問題.真言師析轄の是非の批評.並に営時是等白絹門諸師以外の封印県言宗論難者であら 2ヲ 中 世 に 於 け る 禅 宗 ハ 臨 調 偶 調 停 ︶ と 諸 宗 ︵ 天 台 ‘ 民 言 . 滞 土 一 一 一 宗 ︶ と の 交 渉 七 五

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