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日本悌救援協曾年報︵第十年υ

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の著作である決疑紗直牒時舵七︶の設に従へば︑法然上人の戒儀は新古雨本あり︑その中鎮西白旗倖持の戒儀は古

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浮土往生安心決定の人は.三身の性戒内に冥薫し.三業の伸行外に現して︑持戒念僻すれば︑仮令下口問往生人も

上品に往生する事が出来るのでるって︑持戒念併するととは︑浮土宗の肝要たりと力説し︑宗脈と戒脈とを併せ

相傍する理由を述べてゐるのである︒

かくの如くして彼は︑付法倖.宗眠論︑倖戒論の組織大成によって相承論の確立を期した︒之件直しく虎闘に

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然し相承論に比してより以上に了春に劃して興えた料宗の影響は︑教理論殊に判教諭であった︒

との事は︑彼の浄土宗一柳道論を窺ふべき一費料たる鹿島問答一名破邪瀬正義の中に於て︑﹁開門の名匠﹂即ち夢

窓疎石が浮土念仰の行を以て難行道.徒事と庇し或は﹁似レ判ユ属小乗

L

と評した事に封しての駁論に於て共大

要を見る事が出来るのであるが︑更に之をより以上に組織大成した彼の大著述.鰐浄土二賊制義三十巻︑同見聞.

得土略名目等は.其金時系としての駁論と一宮ひ得るであらう︒然らば共判敬論は如何なるものであったか︒之を

詳説するととは是亦今の場合到紙敷の許さざる所︑且つ問師数恩一ゐ研究論として既に幾多世に出てゐるが時め︑

極めて簡単に之を述べるに止め度ぃ︒

彼は従来の判敬たる一代教を大小二乗大乗の内漸頓二敬︑共等の中難行易行の二週︑聖遺浄土の二門の分類

に加

ふる

4初めて聾開菩薩の二臓を以てし︑更に頓敢について性頓相頓に介別し︑天台貫一言輔の一三一草寺をば性頓

敬と銭し.浄土宗のみ濁り相頓敬即ち頓中頓の敬たり・従って大乗巾に於ても捕り超勝濁妙の教であると主張す

るにあった︒との事は前記舗義第十一巻相頓義の保並に同見聞第七︵叩庶↑︶に於て詳説してゐる所である︒印ち

碩義同保に﹁相頓者是博土門也.問問札宣義前己彰克.院言コ色心無二性相r小

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週唯理唯性之頓敬一也.操レ寅而論理事縦横頓中頓也唯此今経事理倶頓﹂と述べてゐる︒換言すれば柿宗にあ

っては直指人心見性成怖と一耳ひ.真言宗にては師事而民.印身成仰と一五ひ︑天台に於ては修性不二.煩悩印笠口提

と説いてゐるが︑是等は只理性平等の謹に約して生成一如の旨を詮にしたに過ぎたい︒例へば雪隠の踏板も併前

の前卓も同じく木であるが如くである︒木たるに於て二者相同じとするも浮織は永︿異であって.互に共の位

置を縛用すべきではない︒かくの如きは唯是れ理の上に於て頓を悟れるのみ︑郎を語れるのみである︒賓際の事

修に於ては生悌懸隔し.夫淵も菅ならざるを如何せんやである︒然るに滞土相頓教は然ら守︑雪隠の踏板は械に

して甚だ厭ふペく︑併前の前卒は浮にして甚だ欣ふべしとたして︑厭欣を設き拾取を論やるも.而も併願たるが

故に見性の営樫そ改めやJ.煩悩の迷本を断せざる凡夫︑無生の本際に轄入し︑忽ちに浬崎県の常柴bL賓詮するとと

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中世に於ける禅宗門臨済禅︶L

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日本 例数 回明 協合 年報

︵第 十年

入 入 42 

間接には望月博士の論中るが如く.恐らく宋以後支那に流行せし柑浮融合の思潮を受くる所ありしならん﹂︵一碑⁝鵬蹴

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教設を破し.浮土宗の頓中頓を額五すぺきかに苦心せしかを察するととが出来る︒尚相頓浮土を説くに内因外総

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かくして浮土宗に及ぼしたる開宗の影響の最も大たりし事は知り得たが︑了春の著作の中には封捕︷一市への駁論

的のもの尚砂くたい︒即ち翻心要決集︵1蹄一むに於て敬外別俸の締門を評して﹁絡事無筋道人﹂となし.集疑問決集

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於て柿門の豪容を極めた欣態を痛撃して﹁受地獄楚毒苦後悔不叶﹂と言ふが如きであって︑以て彼の気塊と彼の

脳中に焼付けられてゐたる封輯概の峻烈さとを窺ふに充分であらう︒

︵ 穴 ︶ 結

三五ロ口

以上甚だ概略ではあるが︑柑︷示諸師の論難に封ずる諸︷一万︵天台︑買言︑浄土︶の反駁的論争を.所前相承論bL

中心とし.判敬論等二三の問題を併せ論じ以て共の大要とした︒既に述べた如く︑是等諸︷一市聞の論難交渉は.主

として相承の正否共形開等に従って.会停私建

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正法

南方

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時間

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宗寓宗等の諸問題が展開され.叉共事

の営否に関連して大小二一来︑教内敬外等の浅探勝劣の判教諭に及び︑其の優劣に従って叉臆化利袋の諸問題が惹

起展開されたのである︒

然し相承論がかく僻教患の上に於て重大であり根本的問題であり得るか何うか︑現代の壊的見地よりすれば論

議さるべきもの多々あるであらろ︒忽滑谷博士の如く之れは宗門の口決であって︑歴史的に取扱ふペきでたいと

の所論は﹁騨と一五ふ経験事賓と︑騨理叉は蹄背墜とも一五ふべきものとの区別を明かに認識するとと﹂の謂である

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叉現代の是等欄門の始組連麿乃至其の相承論等の諸研究に従へば︑如上の諸宗諸師の論争の根操の如き甚だ幼

稚であり.非墜術的であり過ぎるの難はあるであらう︒然しとの相承論が官時諸宗聞の重大たる論争の一中心問

題であった事賓を否定する事は出来ぬ︒

共故天台虞一言雨宗は兎に角︑持土宗に於ては︑との相承論AM争の結果として従米動もすれば宗圏的不統一所兎

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れなかった欣態を縮問不抜の結成に導き.所謂宗脈戒脈停承の開形の確立となったことは重大た影響と見なけれ

ばならぬ︒更に亦判教諭的に見れば小乗であり・寓宗であると一五ふ非難が如何に浮土宗教接をして愈々護建

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