い 即 位 し た 清 和 天 皇 は、 翌 貞 観 元 年︵ 八 五 九 ︶、 内 十 二 月、 皇 太 子 履 祚。 明 年、 天 皇 屈 二 円 仁 於 内 裏 一 、 受 二 菩 薩 戒 一 。︵ ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 貞 観 六 年 正 月 一 四 日辛丑条、円仁卒伝︶ ︶、 聖 武 太 上 天 皇 や 光 明 皇 太 后 と と も に 鑑 真 か ら 菩 薩 1 。旧稿では、天皇の受菩薩戒は、聖武の直系 を継承するべき男子の不在の中で即位・在位した、孝謙 の権威を高めるために導入されたと推測した 2 。八世紀の 天皇の受菩薩戒は、聖武の直系の不在という政治的な問 題と大きく関わって行われたと考えたわけである 3 。 しかし清和の時代には、公卿たちの守護の下 4 、天皇の 権 威 は 幼 帝 の 即 位 を 可 能 に す る ほ ど に 安 定 化 し て い た 5 。 しかも清和は、即位以前から文徳の直系皇統の継承者と して認められていたのであり、その点において、女性と して中継ぎの地位にとどまった孝謙と同様に扱うことは できない 6 。 さらに、清和の受戒を考える上で重要なのが、九世紀、
論
文
清和天皇の受菩薩戒について
河
上
麻由子
天皇家の崇仏において密教灌頂が大きな位置を占めてい たことである。九世紀初頭、入唐僧によって本格的に導 入され始めた密教は、王権と密接に関わって展開してい く 7 。唐皇帝の灌頂の師の法脈に連なる空海が、九世紀初 頭の天皇に灌頂を授けていたことは、先行研究によって 繰り返し指摘されてきた 8 。そして、最後の遣唐使に伴わ れて入唐した円仁が、帰国後、同じく天皇の灌頂の師と されたことは﹃日本三代実録﹄などの史料から明らかで ある 9 。 九世紀、天皇家の崇仏に灌頂が重要な位置を占めてお り、かつ、清和のおかれた状況と孝謙を取り巻く状況と に差異が認められるとするなら ば 、なぜ清和は菩薩戒を 受けたのか。これは、清和の天皇としてのあり方、及び、 平安初期の天皇と仏教の関わりを知る上で重要な論点で あろう。そこで本稿は、清和の受戒に込められた意図を 探る準備として 10 、清和の受戒にかかわる基礎的な政治状 況を整理していくこととする 11 。 一、文徳の受灌 清和の受戒について考察する際、まず取り上げね ば な らないのが、清和が受戒時に九歳と幼く、元服も済ませ て い な か っ た こ と で あ る。 清 和 は 即 位 当 初、 ﹃ 日 本 三 代 実録﹄天安二年︵八五八︶八月二九日丁巳条に、 皇 太 子 与 二 皇 大 夫 人 一 同 輿、 遷 二 御 東 宮 一 。 儀 同 二 行 幸 一 、 但 不 二 警 蹕 一 。 先 レ 是 廿 七 日、 奉 レ 迎 二 皇 大 夫 人 於東五条宮 一 。欲 レ 令 レ 擁 二 護幼沖太子 一 也。 と あ る よ う に、 ﹁ 幼 沖 ﹂ で あ る た め、 文 徳 の 母 で あ る、 皇太后藤原順子によって ﹁擁護﹂ されていた。順子の ﹁擁 護﹂は清和即位後も継続し、貞観元年︵八五九︶の四月 一八日に至って停止される。 皇 太 后 遷 レ 自 二 東 宮 一 、 御 二 右 大 臣 西 京 三 条 第 一 。 去 年 八 月 廿 九 日、 与 二 今 上 一 同 輿、 遷 レ 自 二 冷 然 院 一 、 御 二 於 東 宮 一 。︵ ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 貞 観 元 年 四 月 一 八 日 癸 卯条︶ 元服もしておらず、祖母順子に﹁擁護﹂される存在で あった清和が、皇位にありながら受戒するという事を自 ら決定しえたはずはない。清和の受戒は、清和以外の何 者かによって決定されたとみるべきである。この点につ いて考える際、清和が即位の翌年に受戒したことは重要 な意味を持つであろう。清和の受戒は、恐らくその即位
と無関係に行われたのではない。清和の受戒を決定した 人物は、清和は天皇として菩薩戒を受ける必要があると 判断したようなのである。 清和の即位については、文徳の意志に反して決定され たとする説がある。文徳は、立太子していた清和に替え て、長子惟喬親王を擁立しようとしたものの、清和の外 祖父である藤原良房の反対にあい、惟喬の擁立を断念し たというものである 12 。この説に依るとすれ ば 、清和の即 位を見据え、その受戒を決定した人物には良房が最も相 応しい 13 。しかし、良房を父とし、嵯峨天皇皇女の源潔姫 を母とする明子から生まれた清和と比較して、紀氏出身 の女性から生まれた惟喬は、母方の血筋において清和に 劣る 14 。承和の変により恒貞親王を退けて立太子した文徳 が、変による混乱の記憶も新しい時代に、そのような人 物 を 自 身 の 直 系 皇 統 の 担 い 手 に 選 択 し た と は 考 え 難 い。 文徳の惟喬擁立案については、文徳は、惟喬を一代限り の中継ぎに立てようとしたのであり、惟喬の後は清和を 即位させて直系を担わせようとしたが、中継ぎの即位に よって皇位継承に混乱の生じる恐れが源信らによって指 摘され、惟喬擁立案は放棄されたと解するのが穏当であ ろう 15 。 そ も そ も、 文 徳 が 即 位 に 先 立 っ て 円 仁 に﹃ 大 般 若 経 ﹄ の転読を依頼した際、その令旨は良房の同母弟である良 相を介して円仁に下されたのであり、そこには良房と円 仁とが﹁相識﹂であると記されていた 16 。この後も、円仁 と の 関 係 に お い て、 文 徳 ― 良 房 間 に 齟 齬 は み ら れ な い。 なら ば 清和の受戒には、文徳の意思、乃至、文徳朝にお ける崇仏の影響を認めるべきではあるまいか。 ここで注目しておきたいのが、文徳が円仁から灌頂を 受けていたことである。円仁を天皇の師に迎えるという 点で、文徳の受灌は清和の受戒に先行する。そこで本節 では、文徳の受灌についてやや詳しく述べていくことと する。 文徳は、斉衡三年︵八五六︶三月に円仁から両部灌頂 を受けた。 斉 衡 三 年 三 月 天 皇 屈 二 円 仁 於 冷 然 院 一 、 受 二 両 部 灌 頂 一 。︵ ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 貞 観 六 年 正 月 一 四 日 辛 丑 条、 円仁卒伝︶ 円仁は、嘉祥二年︵八四九︶五月、初めて結縁灌頂を 修した際、灌頂について﹁諸仏之智印、国家之鎮護、総
在 レ 此 矣 ﹂︵ ﹃ 天 台 霞 標 ﹄ 五 遍 巻 一 ︶ と 述 べ て い る。 ま た、 国王の灌頂がもたらす功徳について円仁が直接的に言及 した史料は今のところ見出せていないものの、円仁に先 立って天皇・上皇の灌頂の師となった空海は、弘仁元年 ︵八一〇︶ 、唐皇帝が灌頂を受けたことについて、近くは 四海を安んじ、遠くは菩提を求めるものであったと述べ ている 17 。この空海の発言に拠るに、国王が灌頂を受ける ことにより四海は平安になるという見解が、九世紀の日 本には存在していたこととなる 18 。 彦由三枝子氏は、斉衡二年五月に東大寺盧舎那仏の頭 部が崩落し、翌年三月には京師・城南において屋舎が損 壊、仏塔が傾くほどの地震が発生したことに着目、文徳 は、地震の打ち続く中で、精神的な安寧を保持するため に灌頂を受けたのであろうとする 19 。﹁聖武天皇勅書銅板﹂ を用いるなど拠る史料に異論はあるものの 20 、文徳が斉衡 三年に灌頂を受けたのには、基本的には彦由氏がいうよ うな状況が影響していたのであろう。 しかし文徳は、この時ただ一人で灌頂を受けたわけで はなかったようである。 ﹃慈覚大師伝﹄には、 三 年 三 月 廿 一 日、 天 皇 請 二 大 師 於 冷 然 院 書 堂 南 殿 一 、 受 二 両 部 灌 頂 一 。 王 子 法 号 素 延 清原 君 ・ 算 延 多治 比君 、 及 孝 忠 大 法 師 藤 原・ 大 納 言 正 三 位 兼 行 左 近 衛 大 将 藤 原 朝 臣 良 相・東宮亮藤原朝臣良縄・左兵衛佐藤原朝臣基経・ 右 衛 門 佐 藤 原 朝 臣 常 行・ 大 内 記 紀 朝 臣 夏 井 等 同 受 レ 之 21 。 と、文徳と同日に、臣籍降下していた文徳男子の素延・ 算延、及び孝忠・藤原良相・藤原良縄・藤原基経・藤原 常行・紀夏井が円仁から灌頂を受けたとある。 ﹃ 慈 覚 大 師 伝 ﹄ と は、 ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ の 編 纂 の た め に作成され、 ﹁国史所﹂に提出された﹁円仁伝﹂をもとに、 菅原道真が撰した﹁家伝﹂を直接の母体として、道真の 孫である源英明によって天慶二年︵九三九︶までに撰述 されたものである 22 。このほか、 ﹁円仁伝﹂に相当するか、 ﹁円仁伝﹂ の編纂資料に相当するといわれる ﹃慈覚大師伝﹄ が、京都大原の三千院に所蔵されている︵以下、三千院 本 と 略 記 ︶。 三 千 院 本 と 現 行 本﹃ 慈 覚 大 師 伝 ﹄ と を 比 較 すると、現行本﹃慈覚大師伝﹄は、し ば し ば 三千院本の 記述を節略・推敲しつつ、 ﹃入唐求法巡礼行記﹄ ﹃入唐新 求聖教目録﹄といった円仁の著作や、位記・奏状などを 用いて情報を増補していることがわかる 23 。三千院本は嘉
祥三年以降の記載を伝えておらず ― ただし三千院本の書 写対象となった ﹃慈覚大師伝﹄ も、現行本 ﹃慈覚大師伝﹄ と同様、円仁死後年に至るまでの記載を有していたと考 えられている 24 ― 、よって現行本 ﹃慈覚大師伝﹄ は、文徳・ 清 和 朝 の 円 仁 の 事 績 を ま と め た 史 料 と し て は、 ﹃ 日 本 三 代実録﹄を除け ば 、現在までに確認されている史料の中 では最も成立が早く、依拠した史料の由来も明らかにな る も の が 多 い。 そ こ で 以 下 で は、 ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ を 検 討の基礎に据えつつ、史料批判を加えながら現行本﹃慈 覚大師伝﹄によって情報を追加することで、文徳・清和 朝における円仁の事績を考察していく。 傍線部が、前掲した﹃日本三代実録﹄円仁卒伝の記述 と近似しながら、 ﹃日本三代実録﹄ は受灌場所を ﹁冷然院﹂ とのみ記すのにたいし、 ﹃慈覚大師伝﹄は受灌場所を﹁冷 然 院 書 堂 南 殿 ﹂ と す る こ と に 注 目 し た い。 ﹃ 日 本 三 代 実 録﹄の円仁卒伝は、現行本﹃慈覚大師伝﹄の﹁原文﹂を 節略したものと考えられている 25 。よって、右が円仁卒伝 と近似しながらも受灌場所についてより詳細な情報を記 しているということは、 ﹃慈覚大師伝﹄の傍線部は、 ﹃日 本三代実録﹄ の編纂資料となった ﹁円仁伝﹂ や、 ﹁円仁伝﹂ をもとに撰述された ﹁家伝﹂ を参照して書かれたのであっ て、 ﹁ 円 仁 伝 ﹂ や﹁ 家 伝 ﹂ に は 文 徳 ら の 受 灌 に つ い て よ り詳細な記述が残されていた可能性を示唆している。ま た、 ﹃慈覚大師伝﹄が完成するまでに﹁円仁伝﹂に加筆・ 修正が施されたとして、素延から紀夏井に至る人々の受 灌が、史実に反して創作される必要があったかは疑問で ある。以上から、素延以下の人々は、円仁から受灌して いたと推定してよいように思う 26 。 文 徳 と と も に 灌 頂 を 受 け た で あ ろ う こ れ ら の 人 々 は、 受灌後、文徳を筆頭に崇仏に励むこととなったはずであ る。 こ こ で、 ﹃ 慈 覚 大 師 伝 ﹄ の 記 す 順 に 従 い、 文 徳 と 同 日に受灌した人々の当時における処遇をみておく。 素延の俗名は源時有、算延の俗名は源毎有である。い ずれも文徳の皇子で、仁寿三年︵八五三︶に臣籍降下し て い た︵ ﹃ 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 仁 寿 三 年 六 月 十 一 日 庚 午 条 ︶。 細注に清原君、多治比君とあるのは、両者の生母が清原 氏と多治比氏の出身であることによる 27 。両者は、天安二 年︵八五八︶に円仁から再度灌頂を受け、その日のうち に 殿 上 で 出 家 す る︵ ﹃ 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 天 安 二 年 三 月 一 五 日 丙 子 条 ︶。 時 有・ 毎 有 は、 斉 衡 三 年 か ら 出 家 が 予 定 さ
れており、そのため、文徳の諸皇子の中でも彼らだけが この時に灌頂を受けたのであろう。 孝忠︵ ﹃興福寺別当次第﹄巻一﹃興福寺寺務次第﹄ ﹃三 会定一記﹄第一は孝忠、 ﹃僧綱補任﹄第一では教忠︶は、 ﹃慈覚大師伝﹄によれ ば 藤原氏︵ ﹃興福寺別当次第﹄巻一 に よ れ ば 菅 原 氏 ︶、 伊 勢 の 出 身 で、 明 福 に 師 事 し て 貞 観 一三年︵八七一︶に興福寺別当、元慶元年︵八七七︶に 維摩会の講師となり︵ ﹃興福寺別当次第﹄巻一︶ 、元慶二 年 に は 伝 灯 大 法 師 位 と し て 最 勝 会 の 講 師 を 務 め︵ ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 元 慶 二 年 正 月 八 日 甲 辰 条 ︶、 元 慶 三 年 一 〇 月 二 三 日 に は 律 師 に 任 じ ら れ て い る︵ ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 元 慶三年一〇月廿三日巳卯条︶ 。 藤原良相から紀夏井までの人々は、斉衡三年三月当時 の官位に従って列記される。良相は、文徳の生母順子の 同 母 弟 で、 正 三 位︵ ﹃ 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 斉 衡 二 年 正 月 七 日 戊子条︶ 、大納言として右近衛大将を兼帯していた︵ ﹃文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 斉 衡 元 年 九 月 二 三 日 乙 巳 条 ︶。 文 徳 即 位 以 前からの寵臣である良縄は、従五位上︵ ﹃文徳天皇実録﹄ 斉 衡 二 年 正 月 七 日 戊 子 条 ︶、 右 中 弁・ 東 宮 亮・ 内 蔵 権 頭・ 播 磨 介 で あ っ た︵ ﹃ 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 斉 衡 三 年 二 月 八 日 辛 巳 条 ︶。 良 相 の 兄 長 良 の 三 男 で あ り、 良 房 の 養 嗣 子 と な っ て い た 基 経 は、 斉 衡 元 年 に 従 五 位 下︵ ﹃ 文 徳 天 皇 実録﹄斉衡元年一〇月一一日壬戌条︶とされ、斉衡二年 に は 左 兵 衛 佐 と な っ て い る︵ ﹃ 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 斉 衡 二 年 正 月 一 五 日 丙 申 条 ︶。 良 相 の 長 男 で あ る 常 行 は、 斉 衡 二 年 に 従 五 位 下︵ ﹃ 文 徳 天 皇 実 録 ﹄ 斉 衡 二 年 正 月 七 日 戊 子 条︶ 、右衛門佐となっていた︵ ﹃文徳天皇実録﹄斉衡二年 正 月 一 五 日 丙 申 条 ︶。 紀 夏 井 は、 従 五 位 下 で 右 少 弁 を 帯 び て お り、 即 位 直 後 か ら 文 徳 の 信 任 を 受 け て い た︵ ﹃ 文 徳天皇実録﹄斉衡二年九月二七日癸酉条︶ 。 右 の 人 々 は、 ﹃ 慈 覚 大 師 伝 ﹄ の 記 す 順 序 に 従 っ て、 文 徳と同じ灌頂壇で受灌したものと推測される。恐らく文 徳 は、 自 ら の 信 仰 も さ る こ と な が ら、 地 震 の 打 ち 続 き、 その害が仏教にも及ぶ不安な世情の中で、国家の鎮護と 四海の平安を実現するために受灌したのであり、その際、 自身の皇子や叔父・甥にあたる臣下、信任する側近たち にも受灌させることで、彼らを同様の目的の下に結集し ようとしたのであろう。
二、清和天皇の受戒 前節の内容を踏まえ、本節では清和の受戒について状 況を整理していく。ただし清和の受戒について検討する 前 に、 ﹃ 慈 覚 大 師 伝 ﹄ に 、 斉 衡 三 年 九 月 に 清 和 が 円 仁 か ら灌頂を受けたとあることについて取り上げておきたい。 九 月、 東 宮 又 請 二 大 師 一 受 二 灌 頂 一 。 太 政 大 臣 及 雅 院 女御同預 レ 之。 前 述 し た 時 有︵ 素 延 ︶・ 毎 有︵ 算 延 ︶ 以 外 に 、 文 徳 の 男子で円仁から灌頂を受けた皇子は見出せない。臣籍降 下しており、しかもその後出家した両者の受灌と、皇太 子である清和の受灌を同列に扱うことはできない。もし も 清 和 が 灌 頂 を 受 け て い た と す れ ば 、 清 和 の 受 灌 に は、 何らかの特殊な意義がこめられていたはずである。 ここで注目されるのが、前節に掲げた史料では、文徳 が 自 ら の 皇 子 や 近 臣 た ち と 受 灌 し た と あ っ た の に 対 し、 右には、清和が外祖父良房・生母明子と受灌したとある ことである 28 。先に述べたように、清和を直系に据えるこ とに関し、文徳 ― 良房間に意見の対立はみられない。な ら ば 文 徳 が、 翌 天 安 元 年︵ 八 五 七 ︶、 清 和 が 幼 年 で 即 位 する事態に備えて良房を太政大臣に任じ、将来における 清和の輔佐としたのに先立ち 29 、清和に良房・明子と同日 に同壇で受灌させることで、皇太子である清和の身を仏 法によって擁護しつつ 30 、良房と明子が清和の ﹁後見﹂ とな ることを 31 、仏教を通じて確認した可能性も十分にあろう。 このようにみてくると、文徳朝における受灌との連続 性 を、 清 和 の 受 戒 に 否 定 す る こ と は 難 し い よ う に 思 う 32 。 清 和 の 受 戒 に は、 文 徳 の 直 系 で あ り、 史 上 初 の 幼 帝 と なった清和の、即位後の体制作りの一環という側面が認 められるのではあるまいか。 清和が天皇として受戒したことに期待された功徳を想 定する際に重要となるのが、国王等はその位に就くにあ たって菩薩戒を受けるべきであり、それによって一切鬼 神は国王等の身を守護し、諸仏は歓喜するという﹃梵網 経﹄中の著名な一節である。 仏言、 ﹁若仏子、欲 レ 受 二 国王位 一 時、受 二 転輪王位 一 時、 百 官 受 レ 位 時、 応 三 先 受 二 菩 薩 戒 一 。 一 切 鬼 神 救 二 護 王 身 百 官 之 身 一 、 諸 仏 歓 喜。 ︵ 以 下 略 ︶﹂ 。︵ ﹃ 大 正 新 修 大蔵経﹄巻二四、一〇〇五頁 a 二七∼二九︶ 天台宗が受戒経典として﹃梵網経﹄を重視していたこ とからみて、円仁による清和への授戒が、基本的に ﹃梵
網 経 ﹄ に 依 拠 す る も の で あ っ た こ と は ま ず 間 違 い な い。 ただし、円仁の﹃顕揚大戒論﹄には、上記の一説は引用 さ れ て は い な い。 ﹃ 顕 揚 大 戒 論 ﹄ に は 護 国 の 思 想 が 極 め て薄い中で 33 、国王受戒の功徳が直接的に言及されるのは、 以下にあげる﹃大乗本生心地観経﹄報恩品の引用部分し か見出せていない。 諸 仏 護 念 常 受 持 戒 等 二 金 剛 一 無 二 破 壊 一 三 界 諸 天 諸 善 神 衛 二 護 王 身 及 眷 屬 一 一 切 怨 敵 皆 帰 依 万 姓 歓 娯 感 二 王 化 一 是 故 受 二 持 菩 薩 戒 一 感 二 世 出 世 無 爲 果 一 ︵﹃ 大 正 ﹄ 巻 七 四、 七 〇 五 頁 c 二 九 ∼ 七 〇 六 a 三︶ 右には、国王は菩薩戒を受持することにより諸天諸善神 に衛護され、一切の怨敵はみな帰依し、万姓は歓喜して 王化に感ずるとある。円仁の国王受戒に 対する認識を右 史料から窺う限り、清和の受戒は、菩薩である清和を諸 天善神によって衛護させ 34 、一切の怨的を帰依せしめ、清 和の王化を広めることを目的にしていたということにな ろう。 貞観元年に順子が宮中から退出する際、安祥寺に三人 の年分度者を置いた折の願文には、 庶 幾 我 皇、 千 仏 並 レ 手 倶 垂 二 摩 頂 之 愍 一 、 百 像 聚 レ 口 同 加 二 育 養 之 慈 一 。 金 輪 長 転 北 極 之 尊 不 レ 動、 塵 劫 方 盡 南 山 之 寿 無 レ 虧、 大 庭 興 レ 夢 無 為 之 化 可 レ 及、 豊 谷 騰 レ 歌 有 載 之 風 弥 長。 ︵﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 貞 観 元 年 四 月一八日癸夘条︶ とある。順子は、清和を転輪聖王と称賛した上で、清和 の 擁 護 を 終 え て 退 出 し た わ け で あ る。 ま た、 ﹃ 日 本 三 代 実録﹄貞観元年八月二八日辛亥条の恵亮の上表文にも、 伏 惟、 金 輪 陛 下、 乗 二 六 牙 一 而 降 二 神 跡 一 、 逮 二 九 歳 一 而登 二 九五 一 、受 二 仏付囑 一 、転 二 大法輪 一 という。工藤美和子氏は、前者の願文は、清和を転輪聖 王と称えてその治世の安泰と長寿を祈願したものであり、 後者の表文は、清和を六牙の白象に乗った普賢菩薩が神 跡を降した転輪聖王に擬えるものであると指摘する 35 。貞 観元年の四月から、清和を転輪聖王であり菩薩であると する認識が清和の周辺に確認できることは、清和の受戒 時期を考える上で一つの指標となるであろう。 受戒が天皇としての清和のあり方と関わっていたこと は、その法号からも推測可能なように思われる。 A 貞 観 元 年、 仁 王 会。 又 為 二 御 前 講 師 一 。 是 歳、 徴 二
大 師 於 大 内 一 、 受 二 菩 薩 大 戒 一 。 奉 二 法 号 一 曰 素 真。 奏 云、 ﹁ 素 者 本 也。 真 者 真 如。 謂 我 心 名、 為 二 真 如 一 也。 是 一 切 法、 真 実 之 体、 故 云 レ 真 也。 如 二 於 レ 我 真 一 、 於 レ 他 亦 然、 故 云 レ 如 也。 法 号 意 云、 自 他 一 切 依 レ 正、 従 レ 本 以 来、 只 在 二 我 一 念 心 真 如 之 内 一 、 故 云 二 素 真 一 。 是 故 花 厳 経 云、 ﹃ 三 界 唯 一 心、 心 外 無 二 別 法 一 ﹄。 若 迷 レ 此 者、 名 為 二 凡 夫 一 、 若 解 レ 此 者、 称 為 二 聖 人 一 。 若 称 レ 名 時、 冀 也 覚 二 是 心 源 一 。 謹 奉 二 法 号 一 ﹂。 天 皇 御 宇 十 八 年、 譲 二 位 於 皇 太 子 一 。 B 至 二 元 慶 三 年 五 月 八 日 一 、 落 飾 入 道、 法 号 称 二 素 真 一 、 依 二 前奏旨 一 也。 ︵﹃慈覚大師伝﹄ ︶ 傍線部 A には、円仁が授戒時に、清和に﹁素真﹂とい う法号を奉ったとある。 ﹁素真﹂に関する記載は、 ﹃日本 三代実録﹄にはみえない。とはいえ、隋の煬帝が智顗か ら 菩 薩 戒 を 受 け た 際 に、 ﹁ 総 持 ﹂ と い う 戒 名 を 授 与 さ れ たことは著名である 36 。菩薩戒を受けた者が戒名を授与さ れる事例は、中国南朝梁の時代から見出せる 37 。淳和天皇 の皇后であった正子内親王が、貞観二年に円仁から菩薩 戒を受けた折に﹁良祚﹂という法号を授与されているこ と︵ ﹃日本三代実録﹄元慶三年三月二三日癸丑条 38 ︶、傍線 部 A 以下には円仁の奏状が引用されており、法号奉上に 関わる史料が残されていたようであることもあわせて判 断 す る に、 ﹁ 素 真 ﹂ と は、 戒 師 円 仁 か ら 清 和 に 与 え ら れ た法号であったのだろう 39 。傍線部 B には、清和が﹁落飾 入道﹂した時にもこの法号を用いたとある。清和が﹁落 飾入道﹂ 時の法号に ﹁素真﹂ を用いたことは、 ﹃扶桑略記﹄ 巻二〇元慶三年五月八日丁酉条や﹃一代要記﹄清和天皇 条でも確認できる。清和は、菩薩戒師円仁から授与され た法号を、退位後にも用いたと解するべきであろう。 つまり清和は、即位から譲位に至るまで菩薩として君 臨したのであり、退位後も菩薩としての本性を失うこと なく衆生救済に励んだようなのである。工藤美和子氏に よれ ば 、清和は、天皇位にあっては﹁利他﹂行を行えな いとして譲位したのであり、そのため清和の死後、その 母である明子や、嵯峨皇女であり清和の内侍であった源 全 姫 の 家 人、 清 和 の 女 御 源 済 子 を 願 主 と す る 願 文 で は、 清和は死後も菩薩行を行っているとされたという 40 。清和 は、在位中も退位後も、菩薩戒を受けた菩薩として利他 行を推進したのであり、そうであるからこそ、清和の周 辺の女性たちは清和を菩薩と称したのであろう。
三、円仁と王法 本節では、清和の受戒を九世紀の日本仏教史に位置づ けていくこととする。 ま ず 指 摘 し て お き た い の が、 清 和 を 下 限 と し た 場 合、 天皇・上皇の受灌で師を務めたと史料に明記された僧侶 には、空海・円仁・円珍・宗叡が見出せるということで ある。 表 1は、天皇・上皇の灌頂の師とされた僧侶を、先行 研究によりながら、清和朝を下限にまとめたものである 41 。 ここに挙げられた僧侶は、いずれも入唐経験僧である。 遺漏する事例があったとしても、この時代、天皇・上皇 の 受 灌 の 師 と さ れ た 僧 侶 に、 入 唐 経 験 僧 が 圧 倒 的 に 多 かったことは動くまい。 空 海 が 天 皇・ 上 皇 の 灌 頂 の 師 と な っ た こ と に つ い て、 空 海 の 師 で あ り 徳 宗・ 順 宗︵ 皇 太 子 時 代 ︶ の 師 で あ っ た 恵 果 44 、 恵 果 の 師 で あ り 玄 宗・ 粛 宗・ 代 宗 の 師 で あ っ た不空の事績が意識されたことはこれまでも繰り返し指 摘されてきた。空海が上皇・天皇の灌頂の師とされた時 代、不空 ― 恵果の法脈を継承した入唐僧は空海しかおら ず、そのため、天皇の師として空海以上に相応しい僧侶 は存在しなかったであろう。しかし、文徳・清和朝には、 唐で灌頂を受けた僧侶は多く存在していた。例え ば 、真 言宗の請益僧として入唐した円行は、恵果 ― 義操 ― 義真 と相承された胎蔵の伝法灌頂を、長安の青龍寺において 受けている。そうであるにもかかわらず、円行が天皇の 灌頂の師にされたとする史料はない。 表 1 灌頂の師 天 皇 受灌年 史 料 空海 平城上皇 弘仁一三年 ︵八二二︶ 実慧書状・平城天皇灌頂文・灌頂 御願記など 嵯峨天皇 弘仁一四年 ︵八二三︶ 実慧書状・真言付法纂要鈔・大師 御行状集記・大遍照金剛御作書目 録など 淳和天皇 弘仁一四年 ︵八二三︶ 実慧書状・大師御行状集記 円仁 文徳天皇 斉衡三年 ︵八五六︶ 天安二年 ︵八五八︶ 日本三代実録卒伝・慈覚大師伝 円仁 清和天皇 斉衡三年 ︵八五六︶ 慈覚大師伝 円珍 貞観六年 ︵八六四︶ 智証大師伝 42 宗叡 元慶三年 ︵八七九︶ 日本三代実録卒伝 43
このような状況の中で、円仁・円珍・宗叡が天皇の灌 頂の師とされた背景について考えるには、入唐僧の中で も、空海・円仁・円珍・宗叡に共有された特徴を抽出す る必要がある。表 2には、九世紀における主要な入唐僧 の中でも、特に密教を学んだ僧侶について、入唐八家を 取り上げて入唐時の身分・在唐期間・唐で受けた灌頂と その師・受灌場所を整理しておいた 45 。 本表によるに、入唐八家のうち、空海・円仁・円珍・ 宗叡のみが、唐土において両部の灌頂を受けている。こ れに対し、先述した円行も胎蔵の伝法灌頂を受けていた に過ぎない。表 1で得た視点をあわせて考慮するに、天 皇の灌頂の師を選定する際、唐における付法は、国内に おける付法よりも重視されたと結論付けることができよ う。このことは、天皇の受灌が唐代仏教を強く意識して 行われたことを端的に示す。 佐 伯 有 清 氏 に よ れ ば 、 円 仁 は 帰 国 後、 会 昌 の 廃 仏 に 言 及 す る こ と を 避 け な が ら、 唐 皇 帝 の 仏 教 篤 信 を 称 揚 し、 入 唐 求 法 の 成 果 を 内 裏 と の 結 び つ き に お い て 発 揚 させることを企図したという 46 。会昌の廃仏に直面した円 仁が、廃仏以前の唐における崇仏を理想とし、その日本 における再現に励むとすれ ば 、密教僧としては天皇の受 灌を、天台僧としては天皇の受菩薩戒を国家の鎮護や四 海の平安の方法として取り上げるのは自然である 47 。また、 表 1にみられるように、九世紀前半における天皇の灌頂 表 2 人名 入唐時の身分 在唐期間 唐師︵その内容︶*受法場所 最澄 天台還学僧 八〇四年 ∼八〇五年 順暁︵三部三昧耶︶*越州峰山 道場 空海 留学僧 八〇四年 ∼八〇六年 恵果︵両部伝法灌頂︶*長安青 龍寺 常暁 三論留学僧 八三八年 ∼八三九年 文 㻮 ︵太元師法・金剛界伝法灌 頂︶*淮南栖霊寺 円行 真言請益僧 八三八年 ∼八三九年 義真︵胎蔵伝法灌頂︶*長安青 龍寺 円仁 天台請益僧 八三八年 ∼八四七年 全雅︵金剛界伝法灌頂︶*揚州、 元政︵金剛界伝法灌頂︶*長安 大興善寺、義真︵胎蔵大法・蘇 悉地大法︶*長安青龍寺勅置本 命灌頂道場、法全︵胎蔵伝法灌 頂︶*玄法寺 恵運 遣唐使によらず 八四二年 ∼八四七年 不明 円珍 遣唐使によらず 八五三年 ∼八五八年 法全︵両部伝法灌頂・蘇悉地大 法︶*長安青龍寺 宗叡 遣唐使によらず 八六二年 ∼八六五年 法全︵両部伝法灌頂︶*長安青 龍寺
の師が空海に限られていたことを考えれ ば 、円仁が天皇 の受灌・受戒の師となったことは、天台宗にとって特別 な意義を持ったはずである。円仁による清和への授戒は、 唐代仏教を強く意識する風潮の中で、九世紀の天台宗が おかれた状況を背景に行われたと推測できよう。 おわりに 本稿の検討内容をまとめておく。第一章では、清和の 受菩薩戒を考察する手掛かりを得るためとして、文徳の 受灌について取り上げた。文徳は、斉衡三年に円仁から 両部灌頂を受ける。円仁を天皇の師に迎えるという点で、 文徳の受灌は清和の受戒に先行する。文徳は、地震と災 害が相次ぎ、その害が仏教にも及ぶ中で、四海の平安や 国家の鎮護を目的として受灌したと考えられる。しかも その際、文徳は、自身の皇子や近臣らにも受灌させるこ とで、彼らを同様の目的の下に結集しようとしたとみた。 第二章では、清和の受戒について検討した。清和は即 位より以前、良房・明子と共に円仁から灌頂を受けてい る。これは、文徳の受灌を前提として、皇太子である清 和の身を仏法によって擁護し、良房と明子が清和の﹁後 見﹂となることを、仏教を通じても確認するものであっ た。即位後の貞観元年、清和は円仁から菩薩戒を受ける。 清和の受戒は、文徳朝における受灌と連続するものであ り、史上初めての幼帝となった清和の即位後の体制作り の一環として、菩薩である清和を、諸天善神をして擁護 せしめることなどを目的の一つとしていたと述べた。 第三章では、清和朝以前に天皇の灌頂の師とされたの が、唐土において両部の灌頂を受けた僧であることを指 摘した。このことは、天皇の灌頂師を選定する際に、唐 土における付法が、国内における付法よりも重視された ことを示す。天皇の受戒は、そのような唐代仏教を強く 意識する世相の中で、九世紀の天台宗を取り巻く状況を 背景に行われたのであろう。 以上本稿では、文徳の受灌からはじめて、清和の受菩 薩戒にかかわる基礎的な政治状況を整理してきた。冒頭 に記したように、八世紀には、天皇の権威を仏教によっ て荘厳すること、それによる正統の安定が企図されて天 皇の受戒が導入されたと考える。他方九世紀には、天皇 の権威は幼帝の即位を可能にするほどに安定しながらも、 災害が頻発したことなどにより、幼帝清和の身体を仏法
によって護持することが強く求められた結果、受戒が実 施されたものと推測される。 しかし、本稿が述べてきたように、文徳 ― 清和朝に天 皇の受灌や受戒に積極的な意義が見出されていたのであ れ ば 、清和の長子であり、貞観一〇年︵八六八︶に誕生 した陽成天皇に、灌頂・菩薩戒を受けたという史料が見 出せないのはなぜか。 堀裕氏は、御願寺の中でも、九世紀にのみ登場した年 号を寺号とする﹁年号御願寺﹂は、やや特殊な延暦寺を 除き、死去した天皇の追善を営む追善型︵嘉祥寺・天安 寺・仁和寺︶と、天皇在位中からその年号を付した祈願 型︵貞観寺・元慶寺︶とに分類できるとする 48 。堀氏のい う祈願型は、清和・陽成のために建立された二寺を指す のであり、天皇の生前から年号を付した寺院を設けると いうことは、九世紀において清和と陽成に共有された行 為 で あ っ た。 御 願 寺 以 外 で も、 護 持 僧 や 季 御 読 経 な ど 49 、 天皇の身体を仏教によって恒常的に守護するための崇仏 で、清和朝に始まって陽成朝に継続されたものは多い。 こういった状況の中で、陽成に灌頂や菩薩戒を受けた とする記載が見出せないことには、様々な要因があった と推定するべきである 50 。右のみならず、清和の受戒を九 世紀のアジア史にどのように位置づけるのか 51 、九世紀の 天皇の受灌から一一世紀の即位灌頂へ至るまでの過程を どのように考えるのかなど残された課題は多いが 52 、紙幅 も尽きたので、この問題については別稿で論じることと し、本稿を終えたい。 ︵ 1︶ ﹁其 年 四 月、 初 於 二 盧 遮 那 殿 前 一 立 二 戒 壇 一 。 天 皇 初 登 レ 壇 受 二 菩 薩 戒 一、 次 皇 后・ 皇 太 子 亦 登 レ 壇 受 レ 戒 ﹂︵ ﹃ 唐 大 和 上東征伝﹄ 、中華書局、二〇〇〇年、九二頁︶ 。鑑真が道 岸から梵網戒を受けていたことは、勝野隆広﹁鑑真の菩 薩 戒 伝 戒 と そ の 受 容 ﹂︵ ﹃ 印 度 学 仏 教 学 研 究 ﹄ 五 五 ― 一、 二 〇 〇 六 年 ︶、 拙 稿﹁ 唐 の 皇 帝 の 受 菩 薩 戒 ― ― 第 二 期 を 中 心 に ― ― ﹂︵ ﹃ 古 代 ア ジ ア 世 界 の 対 外 交 渉 と 仏 教 ﹄ 山 川 出 版 社、 二 〇 一 一 年 ︶。 ま た、 鑑 真 が 孝 謙 ら に 授 け た 菩薩戒が梵網戒であったと推定できることは、筒井英俊 ﹁聖武天皇の御受戒について﹂ ︵筒井寛秀編 ﹃東大寺論叢﹄ 国 書 刊 行 会、 一 九 七 三 年、 初 出 一 九 三 四 年 ︶、 上 川 通 夫 ﹁ 古 代 仏 教 の 歴 史 的 展 開 ﹂︵ ﹃ 日 本 中 世 仏 教 形 成 史 論 ﹄ 校 倉 書 房、 二 〇 〇 七 年、 ﹁ 天 平 期 の 天 皇 と 仏 教 ― ― 菩 薩 戒
の 受 戒 を め ぐ っ て ― ― ﹂ 一 九 八 九 年、 ﹁ 国 分 寺 建 立 政 策 の 基 調 ﹂ 一 九 九 一 年、 ﹁ 神 身 離 脱 と 悔 過 儀 礼 ﹂ 二 〇 〇 五 年 な ど を も と に 改 稿 ︶、 拙 稿﹁ 聖 武・ 孝 謙・ 称 徳 朝 に お ける仏教の政治的意義 ―― 鑑真の招請と天皇への授戒か らみた ―― ﹂︵前掲著、初出二〇一〇年︶ 。 ︵ 2︶ 前注拙稿﹁聖武・孝謙・称徳朝における仏教の政治的意 義 ―― 鑑真の招請と天皇への授戒からみた ―― ﹂。 ︵ 3︶ 旧稿では、聖武・光明・孝謙を除いて鑑真から菩薩戒を 受けた皇族が見出せないとして、鑑真を戒師とする菩薩 戒は、この三者に独占されたとした。さらに、孝謙が淳 仁に譲位したその日に鑑真の僧綱の任を止めたことにつ いて、鑑真を戒師とする菩薩戒を引き続き独占し、新天 皇である淳仁には自身と同じ条件での受戒を許さないと いう孝謙の意思表示であったとみた。これに対し、勝浦 令子氏からは、文室浄三が鑑真から菩薩戒を受けており、 孝謙等が受戒を独占したとは言い切れないものの、浄三 が孝謙死後に皇位継承候補者に推されていたことからみ て、浄三の受戒が皇位継承者選定において重視された可 能性はあるとのご指摘を頂いた ︵﹁八世紀における ﹃崇仏﹄ 天 皇 の 特 質 ﹂ 大 橋 一 章・ 新 川 登 亀 男 編﹃ ﹃ 仏 教 ﹄ 文 明 の 受容と君主権の構築 ―― 東アジアのなかの日本 ―― ﹄勉 誠 出 版、 二 〇 一 二 年、 一 六 三 頁 ︶。 氏 の ご 指 摘 に 深 謝 申 し上げるとともに、旧稿では、皇族内における戒の独占 と述べたことについて、文室浄三が受戒時に臣籍降下し ていたことを重視し、両者の受戒を孝謙らの受戒とは区 別したことを述べておきたい。 ︵ 4︶ 藤森健太郎 ﹁九世紀の即位に付属する上表について﹂ ︵﹃古 代天皇の即位儀礼﹄所収、吉川弘文館、二〇〇〇年、初 出一九九六年︶二四二頁。 ︵ 5︶ 早川庄八﹁律令国家・王朝国家における天皇﹂ ︵﹃日本の 社会史 3 権威と支配﹄岩波書店、一九八七年︶七八頁。 ︵ 6︶ 孝謙が中継ぎであったことは、河内祥輔﹃古代政治史に お け る 天 皇 制 の 論 理 ﹄︵ 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 六 年 ︶ 八 一 ∼九三頁、水谷千秋﹃女帝と譲位の古代史﹄ ︵文芸春秋、 二〇〇三年︶一七二∼一七三頁、吉川真司﹃聖武天皇と 仏都平城京﹄ ︵講談社、二〇一一年︶一三五頁。 ︵ 7︶ 中林隆之 ﹁聖武から、嵯峨 ―― 空海、そして顕密体制へ﹂ ︵﹃日本古代国家の仏教編成﹄塙書房、二〇〇七年︶ 。 ︵ 8︶ 西本昌弘﹁平城上皇の灌頂と空海﹂ ︵﹃古文書研究﹄六四、 二〇〇七年︶ 二∼五頁、同 ﹁嵯峨天皇の灌頂と空海﹂ ︵﹃関 西大学文学論集﹄五六 ― 三、二〇〇七年︶一四∼一六頁。 阿 部 龍 一﹁ 平 安 初 期 天 皇 の 政 権 交 代 と 灌 頂 儀 礼 ﹂︵ サ ム エル・ C ・モース、根本誠二編﹃奈良・南都仏教の伝統 と革新﹄勉誠出版、二〇一〇年︶など。これら先行研究
の中でも、静慈圓氏は、 ﹁つまり空海の思考のなかでは、 三朝の国師としての密教の阿闍梨の姿は、入唐時すでに 意識のなかに覚証されていた﹂と考えね ば ならず、空海 が帰朝後に天皇皇族へ灌頂儀式を行い﹁三朝の国師﹂と なることは、三朝の国師であった不空・恵果の法を継承 した空海にとって﹁当然なる宗教活動﹂であったことを 端 的 に 指 摘 す る︵ ﹃ 空 海 の 行 動 と 思 想 ― ― 上 表 文 と 願 文 の解読から ―― ﹄法蔵館、二〇〇九年、一二六頁︶ 。 ︵ 9︶ 佐 伯 有 清﹃ 円 仁 ﹄︵ 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 九 年 ︶ 二 三 三 ∼ 二三四頁。 ︵ 10︶ 円仁が用いた戒法や、清和に授けられた戒の内容を推測 するための史料は今のところ見出せていない。今後も継 続して調査するべきであろう。ただし、唐の皇帝の受菩 薩戒が、必ずしも個々の戒条の受持を前提にはしていな かったことから考えて︵拙稿﹁唐の皇帝の受菩薩戒 ―― 第 一 期 を 中 心 に ― ― ﹂﹁ 唐 の 皇 帝 の 受 菩 薩 戒 ― ― 第 二 期 を 中 心 に ― ― ﹂﹁ 唐 の 皇 帝 の 受 菩 薩 戒 ― ― 第 三 期 を 中 心 に ―― ﹂いずれも注 1前掲著、前者のみ初出は二〇一〇 年 ︶、 清 和 の 受 戒 が、 通 常 の 俗 人 の 受 戒 と は 区 別 さ れ て いた可能性も考慮しておく必要がある。 ︵ 11︶ 九世紀仏教の全体像については、薗田香融﹁平安仏教の 成立﹂ ︵﹃日本仏教史 古代篇﹄法蔵館、一九六七年︶を 参照した。 ︵ 12︶ 目崎徳衛﹁在原業平の歌人的形成﹂ ︵﹃平安文化史論﹄桜 楓社、一九六八年︶ 。 ︵ 13︶ 駒井匠氏は、清和の祖母順子が天台僧から受戒したのは 良 房 の 勧 め に よ る の で あ り、 清 和 も ま た 外 戚 で あ る 良 房 を 介 し て 菩 薩 戒 を 受 け た と す る︵ ﹁ 平 安 前 期 に お け る 南都授戒制度の変質とその背景﹂ ﹃立命館文学﹄六二四、 二〇一二年、七二頁︶ 。 ︵ 14︶ 神谷正昌﹁承和の変と応天門の変 ―― 平安初期の王権形 成 ―― ﹂︵ ﹃史学雑誌﹄一一一 ― 一一、二〇〇二年︶四六 ∼四七頁。 ︵ 15︶ 河内注 6前掲著、一八七∼一九六頁 ︵ 16︶ 佐伯注 9前掲著、二二六頁。 ︵ 17︶ ﹁奉為国家請修法表﹂ ﹃遍照発揮性霊集﹄巻四。 ︵ 18︶ 空海の護国思想については、苫米地誠一﹁真言密教にお ける護国﹂ ︵﹃平安期真言密教の研究 第一部 初期真言 密教教学の形成﹄ノンブル社、二〇〇八年、初出二〇〇 〇年︶ 。 ︵ 19︶ 彦由三枝子﹁天安二年大政変と東大寺大仏修理﹂ ︵﹃政治 経済史学﹄二〇〇、一九八三年︶三三八頁。 ︵ 20︶ ﹁聖 武 天 皇 勅 施 入 文 ﹂ に つ い て は、 鈴 木 景 二﹁ 聖 武 天 皇 勅書銅板と東大寺﹂ ︵﹃奈良史学﹄五、一九八七年︶ 。
︵ 21︶ ﹃慈 覚 大 師 伝 ﹄ は、 佐 伯 有 清 氏 が 現 行 の 続 群 書 類 従﹃ 慈 覚大師伝﹄を、尊経閣文庫所蔵の古写本を軸として、 ﹃日 本高僧伝要文抄﹄所載の﹁慈覚大師伝﹂や、諸写本・版 本 に よ っ て 校 訂 を 施 し た も の を 用 い た︵ ﹁ 慈 覚 大 師 伝 の 校 訂 と 注 解 ﹂﹃ 慈 覚 大 師 伝 の 研 究 ﹄ 吉 川 弘 文 館、 一 九 八 六年︶ 。 ︵ 22︶ 佐 伯 氏 は、 三 千 院 本 を 基 に﹁ 円 仁 伝 ﹂ が 編 纂 さ れ、 ﹁ 国 史 所 ﹂ に 提 出 さ れ た と 考 え る の に 対 し︵ ﹁ 慈 覚 大 師 伝 の 基 礎 研 究︵ 二 ︶﹂ 注 21前 掲 著、 初 出 一 九 八 六 年、 一 一 四 ∼ 一 四 二 頁 ︶、 小 山 田 和 夫 氏 は、 三 千 院 本 こ そ が﹁ 国 史 所 ﹂ に 提 出 さ れ た﹁ 円 仁 伝 ﹂ に 相 当 す る と 論 じ る︵ ﹃ 平 成二年度科学研究費補助金︵一般研究 C ︶研究成果報告 書 平 安 前 期 天 台 教 団 と 慈 覚 大 師 円 仁 の 研 究 ﹄、 一 九 九 一年、四六∼五〇頁︶ 。なお、三千院本の影印と釈文は、 小 野 勝 年﹃ 三 千 院 本 慈 覚 大 師 伝 ﹄︵ 五 典 書 院、 一 九 六 七年︶を参照。 ︵ 23︶ 三千院本と現行本﹃慈覚大師伝﹄の比較については、佐 伯有清﹁慈覚大師伝の基礎研究︵一︶ ﹂︵注 21前掲著、初 出 一 九 八 五 年、 二 七 ∼ 六 一 頁 ︶、 同 注 22前 掲 論 文、 一 五 一∼一五六頁、同注 21前掲論文に依った。 ︵ 24︶ 小山田注 22前掲著、三五∼四八頁。三千院本と同じく草 稿本的な面を持った﹃慈覚大師伝﹄を書写抄出したとさ れる阪本龍門文庫所蔵﹃禅院并赤山記﹄ ︵阪本竜門文庫、 一 九 七 四 年 ︶ も︵ 同 右 ︶、 斉 衡 ∼ 貞 観 年 間 に お け る 円 仁 の活動を伝えてはいない。 ︵ 25︶ 佐伯注 22論文、一三二∼一三五頁。 ︵ 26︶ 弘仁一三年︵八二二︶に平城上皇が﹁宮を挙げて﹂灌頂 を受けたことや ︵西本注 8前掲 ﹁平城天皇の灌頂と空海﹂ 五頁、阿部注 8前掲論文一一〇頁︶ 、元慶三年︵八七九︶ に清和が落飾した折、清和の側近たちが清和とともに出 家 し た こ と は︵ ﹃ 扶 桑 略 記 ﹄ 巻 二 〇、 元 慶 三 年 五 月 八 日 丁 酉 条 ︶、 文 徳 の 受 灌 時、 そ の 皇 子 や 側 近 た ち が と も に 受灌したことの類例とみることができよう。 ︵ 27︶ 橋本進吉﹁安然の悉曇血脈中に見ゆる文徳天皇第二皇子 算延﹂ ︵﹃橋本進吉博士著作集 第一二 伝記・典籍研究﹄ 岩 波 書 店、 一 九 七 二 年、 初 出 一 九 二 二 年 ︶。 時 有 と 毎 有 が法号で記されていることについて、橋本氏は、両者が 斉衡三年以前に何らかの戒を受けて法号を授与されてい たか、あるいは天安二年に出家した時の法号に基づいて 表 記 さ れ た も の で あ ろ う と す る︵ 同 右、 一 二 一 頁 ︶。 後 掲する良房と同様に、素延・算延もまた、後世の知識に 基づいて表記されたとみるべきである。 ︵ 28︶ 良房が太政大臣となったのは翌年二月一九日︵佐伯注 21 前掲論文、二八一頁︶ 。
︵ 29︶ 橋本義彦﹁太政大臣沿革考﹂ ︵﹃平安貴族﹄平凡社、一九 八 六 年、 初 出 一 九 八 二 年 ︶。 北 村 有 貴 江﹁ 贈 官 と し て の 太政大臣 ―― 摂政制成立の前史として ―― ﹂︵﹃寧楽史苑﹄ 四五、二〇〇〇年︶一七頁。 ︵ 30︶ 彦由氏は、清和・良房・明子の受灌について、清和の皇 太子としての立場を広く衆知させ、仏の加護を得ること を目的とした、良房の政治的示威行為であるとする︵注 19前 掲 論 文、 三 三 八 頁 ︶。 受 灌 が 清 和 の 皇 太 子 と し て の 立場や、その身体の鎮護と関わるとする点には従うもの の、受灌の動機を良房の政治的示威に求める点には賛同 しかねる。 ︵ 31︶ ﹁後 見 ﹂ に 基 づ く 天 皇 家 と 藤 原 氏 の 関 係 に つ い て は、 吉 川真司﹁摂関政治の転成﹂ ︵﹃律令官僚制の研究﹄塙書房、 一九九八年、初出一九九五年︶ 。 ︵ 32︶ ﹃慈 覚 大 師 伝 ﹄ は、 ﹁ 天 安 二 年 三 月、 天 皇 又 受 二 戒 灌 頂 一 。 預 レ 之 者 十 余 人 ﹂ と、 文 徳 が 天 安 二 年 に 円 仁 か ら 戒 と 灌 頂を受けていたとする。ここでいう戒は、灌頂に伴って 授けられる戒=三昧耶戒を指すとみてよかろう。九世紀 日 本 の 三 昧 耶 戒 に つ い て は、 苫 米 地 注 18前 掲 著 の 各 章、 寺本亮晋﹁台密の三昧耶戒の戒相とその概観﹂ ︵﹃天台学 報 ﹄ 五 三、 二 〇 一 一 年 ︶、 同﹁ 安 然 と 三 昧 耶 戒 ― ― 七 衆 を中心に ―― ﹂︵ ﹃印度学仏教学研究﹄六〇 ― 一、二〇一 一 年 ︶、 真 野 新 也﹁ 安 然 に お け る 三 昧 耶 戒 と 円 戒 ﹂︵ ﹃ 天 台 学 報 ﹄ 五 四、 二 〇 一 二 年 ︶ が 詳 し い。 他 方、 ﹁ 顕 揚 大 戒 論 序 ﹂︵ ﹃ 管 家 文 草 ﹄ 巻 七 書 序 ︶ に は﹁ 田 邑 先 帝、 親 受 二 大 戒 一 ﹂ と あ る。 し か し、 清 和 の 受 菩 薩 戒 が﹃ 日 本 三代実録﹄と﹃慈覚大師伝﹄に明記されるのに対し、文 徳 の 受 菩 薩 戒 は ど ち ら の 史 料 に も 触 れ ら れ て い な い。 よって、文徳が円仁から菩薩戒を受けていた可能性は否 定できないが、本稿では判断を保留しておくこととする。 いずれにしても、清和の受戒に先行して、文徳が円仁か ら何らかの戒を受けていたことは間違いない。 ︵ 33︶ 横 超 慧 日﹁ 顕 揚 大 戒 論 雑 感 ﹂︵ 福 井 康 順 編﹃ 慈 覚 大 師 研 究﹄早稲田大学出版部、一九六四年︶四一五頁、竹田暢 典﹁顕戒論と顕揚大戒論﹂ ︵櫛田良洪博士頌寿記念会編 ﹃櫛 田博士頌寿記念 高僧伝の研究﹄山喜房仏書林、一九七 三年︶一一〇頁。 ︵ 34︶ 受 戒 者 が、 受 戒 儀 礼 に 保 証 さ れ る 形 で、 自 ら を﹁ 菩 薩 ﹂ と 自 覚 す る こ と が 可 能 に な っ た こ と は、 船 山 徹﹁ 六 朝 時 代に お け る 菩 薩 戒 の 受 容 過 程 ― ― 劉 宋・ 南 斉 期 を 中 心 に ―― ﹂︵ ﹃東方学報﹄六七、一九九五年︶一一二頁。 ︵ 35︶ 工藤美和子﹁忠を以て君に事へ、信を以て仏に帰す ―― 一〇∼一一世紀の願文と転輪聖王 ―― ﹂︵ ﹃平安期の願文 と仏教的世界観﹄ 思文閣出版、二〇〇八年︶ 八七∼八八頁。
︵ 36︶ ﹁王 禀 二 戒 名 一 総 持 菩 薩 、 書 疏 即 用 二 法 諱 一 。 弟 子 総 持 和 南 ﹂ ﹃国清百録﹄ ︵史料は、池田魯參﹃国清百録の研究﹄大蔵 出版、一九八二年、二七一頁︶ 。 ︵ 37︶ 勝 野 隆 広﹁ 菩 薩 戒 と 菩 薩 名 の 授 与 に つ い て ﹂︵﹃ 仏 教 学 ﹄四 四 、 二〇〇二年︶ 。 ︵ 38︶ ﹃日 本 三 代 実 録 ﹄ 貞 観 二 年 五 月 一 一 日 庚 申 条 に よ れ ば 、 受戒に伴う斎会に対し、清和と順子が、出席した僧尼優 婆塞優婆夷、及び隠居飢窮のために米・塩・醴などを施 し て い た︵ 佐 伯 注 21論 文、 二 八 六 ∼ 二 八 七 頁 ︶。 貞 観 二 年における正子の受戒は、清和らの支持を受けて挙行さ れていたことがわかる。 ︵ 39︶佐伯注 9前掲著、二三六頁。 ︵ 40︶ 工藤美和子﹁慙愧する天皇 ―― 九世紀における天皇の仏 教 的 役 割 ﹂︵ 注 35前 掲 著、 初 出 は﹁ 九 世 紀 日 本 に お け る 仏 教 的 天 皇 観 に つ い て ﹂︵ 二 〇 〇 七 年 ︶ 及 び﹁ 文 人 官 僚 が︿書く﹀ということ ―― 菅原道真の願文をめぐって ― ― ﹂︵二〇〇三年︶ ︶二九∼三三頁。 ︵ 41︶ このほか、仁明天皇が空海と円仁から灌頂を受けたとす る 史 料 が あ る が︵ 空 海 ﹃ 弘 法 大 師 御 伝 ﹄、 円 仁 ﹃ 東 塔縁起﹄ ︶、仁明の受灌を史実として取り上げる先行研究 は見出せず、そのため表には挙げていない。史料は、六 国史﹃日本紀略﹄ ﹃類聚国史﹄ ﹁入唐五家伝﹂ ﹃扶桑略記﹄ ﹃元享釈書﹄ ﹃日本高僧伝要文抄﹄ ﹃本朝高僧伝﹄ ﹃天台霞 標﹄ ﹃叡岳要記﹄ ﹃東大寺要録﹄ ﹃僧綱補任﹄ ﹃僧官補任﹄ ﹃天 台座主記﹄ ﹃東大寺別当次第﹄ ﹃東宝記﹄を調査した。本 表の作成に用いた主たる先行研究は以下のとおり。布施 浄慧 ﹁弘法大師と灌頂﹂ ︵﹃智山学報﹄ 二二、一九七三年︶ 、 平岡定海﹁宮中真言院の成立﹂ ︵﹃日本寺院史の研究﹄吉 川弘文館、一九八一年︶ 、佐伯注 21前掲著、佐伯有清 ﹃智 証大師伝の研究﹄ ︵吉川弘文館、一九八九年︶ 、同注 9前 掲﹃ 円 仁 ﹄、 同﹃ 円 珍 ﹄︵ 吉 川 弘 文 館、 一 九 九 〇 年 ︶、 藤 井 恵 介﹃ 密 教 建 築 空 間 論 ﹄︵ 中 央 公 論 美 術 出 版、 一 九 九 八 年 ︶、 飯 田 剛 彦﹁ 玻 璃 装 仮 整 理 文 書 断 片 の 調 査 ﹂︵ ﹃ 正 倉 院 紀 要 ﹄ 二 六、 二 〇 〇 四 年 ︶、 西 本 注 8前 掲﹁ 平 城 上 皇の灌頂と空海﹂ 、同﹁嵯峨天皇の灌頂と空海﹂ 、阿部注 8前 掲﹁ 平 安 初 期 天 皇 の 政 権 交 代 と 灌 頂 儀 礼 ﹂、 川 尻 秋 生﹁入唐僧宗叡と請来典籍の行方﹂ ︵﹃會津八一記念博物 館 研 究 紀 要 ﹄ 一 三、 二 〇 一 二 年 ︶、 吉 田 一 彦﹁ 宗 叡 の 白山入山をめぐって ―― 九世紀における神仏習合の進展 ︵一︶ ―― ﹂︵ ﹃仏教史学研究﹄五〇、二〇一二年︶ 。 ︵ 42︶ なお清和は、貞観六年︵八六四︶に良房らとともに円珍 から受灌している。 六 年 秋、 奉 レ 勅 於 二 仁 寿 殿 一 、 結 二 大 悲 胎 蔵 灌 頂 壇 一 、 皇 帝 入 レ 壇 定 二 尊 位 一 。 美 濃 公 以 下 郡 臣 入 レ 壇 者 三 十 余 人。
其 後 重 有 二 勅 命 一 、 和 尚 講 二 大 毘 盧 遮 那 経 一 部 一 、 皇 帝 聴 レ 之忘 レ 倦。 ︵﹁智証大師伝﹂ ﹃日本高僧伝要文抄﹄ ︶ 貞観六年における受灌に ついて、佐伯氏は、神々の祟り に よ る も の と み な さ れ た 災 害 が︵ 同 年 七 月 の 疾 病 流 行 や富士山噴火︶ 、ひいては皇位を危うくするものとして、 それを未然に防ぐために皇位の堅固と安泰を願ったので あろうとする︵注 41﹃円珍﹄ 、二二〇∼二二一頁︶ 。ただ し、この後に発生した災害︵貞観地震など︶の折に、清 和が灌頂を受けたという記載はない。清和の受灌を災害 発生からのみ説明することは難しいであろう。貞観六年 に清和が再び受灌した背景を考察するには、同年正月に 円仁が死去していたこともあわせて考慮するべきではあ るまいか。ともあれ、灌頂による国家の鎮護は、円珍を 師として更新されたわけである。 ︵ 43︶ 宗 叡 に つ い て は、 ﹃ 日 本 三 代 実 録 ﹄ 元 慶 八 年 三 月 二 六 日 丁 亥 条 宗 叡 卒 伝 に ﹁ 元 慶 三 年 夏 四 月 太 上 天 皇 遷 二 御 円 覚 寺 一 、 剔 落 入 道、 設 二 灌 頂 法 壇 一 、 受 二 仏 性 三 摩 耶 秘 密 乗 戒 一 ﹂ と あ る。 こ の 時、 ﹁ 仏 性 三 摩 耶 秘 密 乗 戒 ﹂ と と も に灌頂を授けられたであろうことは、寺本亮晋氏にご教 示賜った。ここに記して感謝申し上げる。なお、出家と 受灌が同時に行われた先例には、本文に前掲した天安二 年 三 月 に お け る 素 延・ 算 延 の 出 家・ 受 灌 や、 真 如 の 出 家・受灌が知られる︵阿部注 8前掲論文、一一〇頁︶ 。 ︵ 44︶ 旧 稿 で は、 恵 果 が 代 宗・ 徳 宗・ 順 宗 の﹁ 灌 頂 国 師 ﹂ に な っ た と い う﹃ 秘 密 曼 荼 羅 教 付 法 伝 ﹄ の 記 述 に つ い て、 ﹁ 国 師 ﹂ は 必 ず し も 戒 や 灌 頂 の 授 受 に 基 づ く 師 弟 関 係 を 前 提 と し た 表 現 で は な い と し た。 そ の 上 で、 不 空 時 代 か ら 仏 教 的 尊 格 化 を 遂 げ て い た 代 宗 が︵ 中 田 美 絵﹁ 五 台 山 文 殊 信 仰 と 王 権 ― ― 唐 朝 代 宗 期 に お け る 金 閣 寺 修 築 の 分 析 を 通 じ て ― ― ﹂﹃ 東 方 学 ﹄ 一 一 七、 二 〇 〇 九 年、 四 三 頁 ︶、 恵 果 か ら 改 め て﹁ 灌 頂 ﹂ を 受 け て い た 可 能性は低いとして、恵果が代宗・徳宗・順宗に灌頂を授 け て い た か は 疑 問 で あ る と 述 べ た︵ 注 10前 掲﹁ 唐 の 皇 帝 の 受 菩 薩 戒 ― ― 第 三 期 を 中 心 に ― ― ﹂︶ 。 し か し、 ﹁ 平 城 天 皇 灌 頂 文 ﹂ 第 一 文 に は﹁ 其 一 人 名 青 龍 寺 某 甲、 能 持 二 両 部 教 一 不 レ 墜 二 師 風 一、 徳 宗 皇 帝 及 南 内 従 而 授 戒 入 レ 壇﹂ とあり、これに基づけ ば 、徳宗と皇太子 ︵順宗︶ は、恵果から灌頂を受けていたこととなる。 ︵ 45︶ 本 表 の 作 成 に あ た っ て は、 堀 池 春 峰﹁ 興 福 寺 霊 仙 と 常 暁 ﹂︵ ﹃ 南 都 仏 教 史 の 研 究 下 諸 寺 編 ﹄ 法 蔵 館、 一 九 八 二 年、 初 出 一 九 五 九 年 ︶、 木 内 堯 央﹃ 天 台 密 教 の 形 成 ―― 日本天台思想史研究 ―― ﹄︵渓水社、一九八四年︶ 、 小西瑛子﹁元興寺僧常暁の入唐求法﹂ ︵﹃元興寺仏教民俗 資 料 研 究 所 年 報 ﹄ 一 九 六 九 年 ︶、 清 水 谷 恭 順﹃ 天 台 密 教
の成立に関する研究﹄ ︵文一出版社、一九七二年︶ 、高見 寛恭﹁入唐八家の密教相承について︵一︶ ﹂︵ ﹃密教文化﹄ 一 二 二、 一 九 七 七 年 ︶、 同﹁ 入 唐 八 家 の 密 教 相 承 に つ い て︵ 二 ︶﹂ ︵﹃ 密 教 文 化 ﹄ 一 二 六、 一 九 七 八 年 ︶、 同﹁ 入 唐八家の密教相承について︵三︶ ﹂︵ ﹃密教文化﹄一三〇、 一九七九年︶ 、小野勝年﹃入唐求法行歴の研究 上・下﹄ ︵法蔵館、一九八二・一九八三年︶ 、佐伯注 9前掲 ﹃円仁﹄ 、 小 山 田 和 夫﹃ 智 証 大 師 円 珍 の 研 究 ﹄︵ 吉 川 弘 文 館、 一 九 九〇年︶ 、佐伯注 41前掲﹃円珍﹄ 、佐藤長門﹁太元師法の 請来とそ の展開 ― ― 入唐根 本大師常暁と 第二阿闍梨寵寿 ― ― ﹂︵ ﹃ 史 学 研 究 集 録 ﹄ 一 六、 一 九 九 一 年 ︶、 同﹁ 入 唐 僧円行に関する基礎的考察﹂ ︵﹃国史学﹄一五三、一九九 四 年 ︶、 高 田 淳﹁ 國 學 院 大 学 図 書 館 蔵 入 唐 僧 円 行 関 係 文書の紹介 ―― 付、円仁小伝 ―― ﹂︵ ﹃國學院大学図書館 紀要﹄六、一九九四年︶武内孝善﹁唐代密教における灌 頂 儀 礼 ― ― ﹃ 東 塔 院 義 真 阿 闍 梨 記 録 円 行 入 壇 ﹄ 考 ― ― ﹂ ︵﹃高野山大学密教文化研究所紀要﹄ 別冊一、一九九九年︶ 、 原田和彦﹁平安時代初期の天台教団について ―― 恵亮を 中 心 に ― ― ﹂︵ 井 原 今 朝 男・ 牛 山 佳 幸 編﹃ 論 集 東 国 信 濃 の 古 代 中 世 史 ﹄ 岩 田 書 院、 二 〇 〇 八 年 ︶、 大 久 保 良 峻 ﹁ 最 澄・ 空 海 の 改 革 ﹂︵ ﹃ 新 ア ジ ア 仏 教 史 11 日 本 Ⅰ 日 本 仏 教 の 礎 ﹄ 佼 成 出 版 社、 二 〇 一 〇 年 ︶、 森 公 章﹁ 九 世 紀の入唐僧 ―― 遣唐僧と入宋唐をつなぐもの ―― ﹂︵ ﹃東 洋大学文学部紀要 史学科篇﹄三七、二〇一一年︶など を参照した。 ︵ 46︶ 佐伯注 9前掲著、二一八頁。 ︵ 47︶ 唐皇帝の受菩薩戒については注 10前掲拙稿を参照された い。 ︵ 48︶ 堀裕﹁平安期の御願寺と天皇 ―― 九・十世紀を中心に ― ― ﹂︵ ﹃史林﹄九一 ― 一、二〇〇八年︶九〇∼九一頁。 ︵ 49︶ 堀 裕﹁ 護 持 僧 と 天 皇 ﹂︵ 大 山 喬 平 教 授 退 官 記 念 会 編﹃ 日 本 国 家 の 史 的 特 質 ﹄ 思 文 閣 出 版、 一 九 九 七 年 ︶、 同﹁ 智 の政治的考察﹂ ︵﹃南都仏教﹄八〇、二〇〇一年︶ 。 ︵ 50︶ 清和の即位では、十陵四墓にその即位が告げられるなど 天智を起点とする父系直系皇統の正統性が強く意識され たのに対し、陽成の即位では、直系家筋のほぼ全祖先山 陵への即位告文使はみられなかったことも ︵服藤早苗 ﹁山 陵祭祀よりみた家の成立過程 ―― 天皇家の成立をめぐっ て ― ― ﹂﹃ 家 成 立 史 の 研 究 ﹄ 校 倉 書 房、 一 九 九 一 年、 初 出一九八七年、六一頁、田中聡﹁ ﹃陵墓﹄にみる﹃天皇﹄ の形成と特質 ―― 古代から中世へ ―― ﹂日本史研究会京 都民科歴史部会編﹃ ﹁陵墓﹂からみた日本史﹄青木書店、 一九九五年、一二九頁︶ 、考慮に入れる必要があろう。 ︵ 51︶ 遅 く と も 九 世 紀 中 頃 以 前 に は 成 立 し て い た と み ら れ る
﹃コータン国授記﹄ ︵吉田豊﹃コータン出土 8― 9世紀の コ ー タ ン 語 世 俗 文 書 に 関 す る 覚 え 書 き ﹄ 神 戸 市 外 国 語 大 学 外 国 学 研 究 所、 二 〇 〇 六 年、 八 二 頁 ︶ で は、 唐 皇 帝・吐番ツェンポ・于国王がともに菩薩と称されてい る︵漢訳史料は、ポール・ペリオ・羽田亨共編﹃燉煌遺 書 ﹄ 東 亜 攷 究 会、 一 九 二 六 年、 チ ベ ッ ト 語 版 の 英 訳 に ついては Emmerick, R. E. Tibetan Texts Concerning Khotan. London : Oxford UP , 1967 ︶。また、赤木崇敏氏によれ ば 、 一〇世紀の敦煌帰義軍政権や于王国、西ウイグル王国 では、国王を菩薩や転輪聖王と称賛することが盛んに行 われたという︵ ﹁十世紀敦煌の王権と転輪聖王観﹂ ﹃東洋 史研究﹄六九 ― 二、二〇一〇年︶ ︵ 52︶ 松本郁代﹃中世王権と即位灌頂 ―― 聖教のなかの歴史叙 述 ―― ﹄︵森話社、二〇〇五年︶ 、上島享﹁日本中世の神 観念と国土観﹂ ︵﹃日本中世社会の形成と王権﹄名古屋大 学出版会、二〇一〇年、初出二〇〇四年︶ 。 ︻キーワード︼ 清和天皇・文徳天皇・菩薩戒・灌頂