密 教 文 化
奥
院
石
塔
を
中
心
と
す
る
高
野
山
信
仰
の
諸
問
題
(其
の
一)
日
野
西
真
定
一、 序 高 野 山 史 を 研 究 す る に あ た り、 先 づ 奥 院 に 建 立 さ れ て あ る 石 塔 類 を 手 懸 け た 次 第 で あ る。 な お、 不 動 堂 等 に あ げ ら れ た 絵 馬 を は じ め、 灯 篭 等 も 調 査 対 象 と し た。 た だ し 今 回 は、 そ の 様 式 等 は 問 題 に せ ず、 全 て 刻 ま れ た 銘 文 の み を 扱 っ た こ と も、 前 も っ て 断 わ っ て お く。 な お、 高 野 山 全 体 に 本 調 査 は 進 め な く て は な ら ぬ が、 今 回 は 一 応 範 囲 を 奥 院 に 限 っ て お き、 一 段 落 し て か ら、 さ ら に 調 査 を 進 め た い と 考 え て お る。 次 に 本 調 査 に、 重 大 な 関 心 が 寄 せ ら れ る 昭 和 三 十 九 年 に 灯 篭 堂 の 工 事 の 際、 出 土 し た 埋 蔵 物 で あ る が、 こ れ に つ い て こ れ ま で の 新 聞 等 で 発 表 さ れ た 以 外 は、 研 究 発 表 が 止 め ら れ て い る 点 は 誠 に 遺 憾 で あ る。 早 く 自 由 に 研 究 者 に 調 査 を 許 す 目 が 来 る こ と を 願 い た い。 次 に 本 調 査 の 方 法 論 に つ い て で あ る が、 本 調 査 に よ り、 文 献 類 で は 捉 え ら れ ぬ、 実 際 的 な 信 仰 面 を 知 る こ と が 出 来 る と い う 点 に そ の 価 値 が あ る と 考 え る。 勿 論 文 献 調 査 も 重 要 な 作 業 で あ り、 本 調 査 を 完 了 し た 後、 さ ら に 問 題 点 を 明 ら か に し た 上 で、 追 求 し 調 査 を 進 め、 か く て 総 合 的 な 見 地 か ら、 山 史 の 研 究 を ま と め た い と 考 え て い る。 な お、 本 調 査 に は 何 時 も 突 き 当 る、 時 代 的 限 界 の 問 題 が あ る。 即 ち 建 碑 す る に は 自 ら こ れ が 行 わ れ る 時 期 が あ る。 例 え ば 五 輪 の 石 塔 で あ る が、 こ れ が そ の 以 前 は 木 製 の も の が 林 立 さ れ て い た こ と は 古 図 か ら も 明 ら か で あ る。 一 体 に、 こ の 山 は 山 上 他 界 の 一 つ と し て、 近 畿 地 方 に 於 て もか な り 広 い 地 域 の 人 々 か ら 信 仰 さ れ て い た こ と は、 現 存 の ﹁ 骨 上 り ﹂ の 信 仰 か ら も こ れ を 指 摘 出 来 る の で あ る。 即 ち 葬 式 を 終 え た 翌 日、 死 者 の 髪 の 一 部 を 持 ち、 藁 苞 に 死 者 の 弁 当 と 杖 草 鮭 と を 持 っ て、 高 野 へ 参 っ て 来 る 民 俗 で あ る が、 こ れ が 現 在 な お 強 く 広 く 残 っ て い る。 こ の 点 は、 霊 場 高 野 山 の 成 立 に は 是 非 明 ら か に し て お か ね ば な ら な い と 考 え て い る。 こ の 信 仰 に 附 随 し て、 例 え ば 花 園 村 に 現 存 し て い る ﹁ し や く し 塔 婆 ﹂ が あ る が、 こ の 樒 の 生 木 の 塔 婆 は、 角 塔 婆 よ り さ ら に 遡 る も の で あ り、 恐 ら く 高 野 山 に 於 て も、 林 立 さ れ た 角 塔 婆 以 前 は、 生 木 の 塔 婆、 さ ら に 枝 葉 の つ い た 生 木 を 建 て た こ と へ と 遡 り 得 る と 考 え る の で あ る。 こ う し て み る と、 人 工 の 石 塔 を 建 立 さ れ る 時 期 は、 時 代 的 に 非 常 に 下 っ て く る と い う こ と は 明 ら か で あ る が、 こ れ も 現 存 す る 遺 物 を 主 点 と す る 本 調 査 に 於 て は、 や む を 得 な い 事 実 と し て、 了 解 し て お く 以 外 は な い。 本 調 査 に 先 立 っ て、 水 原 尭 栄 師 の ﹃ 高 野 山 金 石 図 説 ﹄ を は じ め、 亀 位 公 昭 師 の ﹁ 高 野 山 の 石 造 記 念 物 ﹂ ( 密 教 文 化 五 一 号)、 愛 甲 昇 寛 師 の ﹁高 野 山 の 町 石 卒 都 婆 の 若 干 に つ い て ﹂ (史 と 美 術 三 八 一 号) ﹁ 高 野 山 に 所 在 す る 五 輪 塔 の 概 要 ﹂ ( 密 教 文 化 九 二)、 天 岸 正 男 氏 の ﹁ 紀 伊 高 野 山 金 石 遺 記 ﹂ ( 史 迹 と 美 術 三 〇 四-四 二 七 等) ﹁ 紀 伊 高 野 山 奥 之 院 石 造 美 術 調 査 ﹂ ( 密 教 文 化 三 六、 七)、 ﹁ 越 前 家 石 廟 と そ の 墓 碑 ﹂ ( 同 上 四 十、 一、 二)、 田 岡 香 逸 氏 の ﹁ 高 野 山 の 金 石 史 ﹂ (密 教 文 化 七 三 号)、 さ ら に 山 内 潤 三 教 授 の ﹁ 高 野 山 詩 歌 句 碑 孜 ﹂ (高 野 山 大 学 論 叢 五 巻)、 ﹁ 高 野 山 石 塔 碑 文 考 ﹂ ( 仏 教 文 学 研 究 第 十 集) 等 の 近 年 の 研 究 成 果 が あ る。 そ れ ぞ れ 各 部 面 の 研 究 を 進 め て お ら れ る が、 水 原 師 の 研 究 は、 最 初 に こ の 分 野 に 本 格 的 な 研 究 を 進 め ら れ た 点、 さ ら に 各 部 門 に わ た り 詳 細 な 調 査 を 行 わ れ て い る 点 か ら、 そ の 功 が 最 も 注 目 さ れ る と 考 え る。 と こ ろ で、 今 回 の 私 の 研 究 は、 こ れ ら の 全 般 を 信 仰 の 立 場 か ら 総 合 的 に 把 握 分 類 を 試 み よ う と す る も の で あ る。 こ う し て み る 時、 こ れ ら は、(一) 高 野 山 上 の 僧 及 び 信 者 の 組 織 の 問 題、(二) 各 種 の 信 仰 現 象、 こ れ に は 圧 倒 的 に 死 者 の 戒 名 を 刻 し た 五 輪 乃 至 一 石 五 輪 が 多 い。 こ れ は、 死 者 供 養 そ の も の を 示 す も の で あ り、 こ れ も 詳 し く 調 査 す る 必 要 が あ る が、 今 回 は 取 り 上 げ な い。 こ れ を 除 く と、 各 尊 と し て は、 地 蔵 を 頂 点 と し て、 阿 弥 陀、 弥 勒、 弘 法 大 師、 不 動、 観 音、 大 日 等 が 認 め ら れ、 経 典 真 言 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 類 で は、 法 華 経、 名 号、 宝 号、 光 明 真 言、 大 日 の 真 言 等、 行 注 関 係 で は、 求 聞 持、 土 砂 加 持 が 僅 か 一 基 づ つ で あ る が 認 め ら れ、 順 拝 参 詣 関 係 で は、 西 国 三 十 三 処、 大 峯 高 野 入 峰、 六 部、 高 野 参 拝 等、 そ の 他 町 石、 御 遠 忌、 三 界 万 霊、 献 木、 献 灯 講、 功 徳 石、 結 縁 碑、 不 食 供 養、 木 食 供 養、 庚 申 講 碑 等 が あ げ ら れ る。 目 的 と し て は、 死 者 供 養、 逆 修 供 養 が 全 体 を 覆 い、 こ の 点 か ら も、 高 野 は、 死 者 の 国、 そ の 成 仏 を 願 う 浄 土 と 断 言 出 来 る。 こ れ ら を 時 代 的 に み る と、 永 久 二 年 ( 一 一 一 四) に 比 丘 尼 法 薬 に 埋 経 さ れ た 法 華 経 等 十 二 巻 と 曼 茶 羅 ( 三) を は じ め と し、 文 永 三 年 ( 一 二 六 六) の 町 石、 弘 安 七 年 ( 一 二 八 四) の 光 明 真 言、 同 十 年 の 納 骨 の 宝 籐 印 塔、 正 和 元 年 (一 二 二) の 名 号、 元 享 元 年 ( 一 三 二 一) の 地 蔵、 文 亀 元 年 ( 一 五 〇 一) の 弥 陀、 天 文 元 年 ( 一 五 三 二) の 不 動、 同 十 年 の 三 界 万 霊、 同 十 四 年 の 念 仏 百 万 遍 供 養、 同 年 間 の 六 十 六 部 の 埋 経 ( 大 乗 妙 典) の 各 碑 を 最 古 と す る 各 群、 さ ら に 大 永 五 年 ( 二 五 二 五) の 奥 院 釣 燈 篭、 寛 永 十 九 年 ( 一 六 四 二) 再 興 の 燈 篭、 同 二 十 年 の 銅 製 の 蓮 華 等 が 上 げ ら れ る。 つ ま り、 平 安 末 期 の 永 久 二 年 を 頂 点 と し て、 鎌 倉 時 代 に 入 り 次 第 に 整 っ て い き、 室 町 末 の 天 文 年 間 を 一 つ の 頂 点 と し て 一 段 と 各 種 の も の が 整 備 さ れ た こ と が 知 ら れ る。 な お、 建 立 の 日 に つ い て は、 三 月 二 十 一 日 が 圧 倒 的 に 多 く、 そ の 他 の 月 で も 二 十 一 日 が 多 い の は、 弘 法 大 師 信 仰 が 卓 越 し て い る こ と が 分 る。 さ ら に、 塔 の 種 類 に つ い て は、 五 輪、 石 柱 型、 宝 笈 印、 無 縫、 重 層 塔 等 が あ げ ら れ る が、 今 回 は こ の 点 に つ い て は、 必 要 以 外 は ふ れ な い こ と に す る。 以 上 で あ る が、 何 分 に も 数 万 に も 及 ぶ 石 塔 群 で あ り、 見 落 し も あ る と 考 え る が、 そ の 点 御 教 示 を 戴 け れ ば 幸 甚 で あ る。 二、 組 織 面 の 研 究 全 般 の 分 類 の 第 一 章 で あ る が、 こ れ に は 学 侶、 行 人、 聖 の 三 階 層、 そ れ に 結 衆 乃 至 講 と 称 す る 僧 及 び 信 者 の 組 織 が 認 め ら れ る。 こ れ ら の 中、 僧 侶 の 階 層 全 般 を 調 査 す る に は、 あ ま り に も 多 く の 日 を 要 し、 文 献 か ら の 追 求 が 有 利 だ と 考 え ら れ る 面 も あ る の で、 今 回 は、 木 食 行 人、 三 昧 聖、 阿 弥 号 の 禿 法 師 と 称 さ れ る 聖 の 一 派 に つ い て ま と め た い。 (1) 木 食 行 人 木 食 行 人 は、 僧 侶 の 三 階 か ら い う と、 行 人 の 部 に 入 る が、 ﹃ 紀 伊 名 所 図 会 ﹄ の 絵 図 か ら み る と、 奥 院 御 供 所 か ら 川 を 隔
て た 外 側 に ﹁ 木 食 所 ﹂ は 位 置 さ れ て あ る。 現 在 の 墓 地 も、 こ の 位 置 と 思 わ れ る 一 郭 に、 一 般 の 墓 か ら 離 れ て、 こ の 一 群 が 存 在 し て い る。 高 野 山 で 木 食 と 言 え ば、 木 食 応 其 を 示 す よ う に、 こ の 上 人 は 有 名 で あ る が、 同 上 人 の 供 養 碑 は こ の 所 に は な く、 興 山 寺 墓 地、 御 所 芝、 及 び 御 供 所 近 く の 廟 の 三 箇 所 に あ る。 そ し て、 興 山 寺 墓 地 に は、 ﹁ 興 山 官 寺 第 五 世 木 食 法 印 霊 尚 ﹂ の 供 碑 も 見 受 け ら れ る が、 こ の 一 郭 の 供 養 碑 及 び 石 造 仏 等 か ら 考 え る と、 木 食 所 の 行 人 達 は、 快 正 を 祖 師 と し、 代 々 住 持 し て そ の 一 派 を 形 成 し て い た こ と が 分 る。 即 ち、 木 食 行 人 は、 日 本 各 地 で み ら れ、 高 野 山 に 於 て も、 他 に も 多 く 認 め ら れ る が、 組 織 的 に は、 木 食 所 に そ の 一 派 が 存 在 し て 活 動 し、 そ の 伝 統 を 標 榜 し て い た こ と が 分 る。 註(1) 今 参 考 に ﹃ 紀 伊 読 風 土 記 ﹄ に よ る と、 木 食 所 は、 ﹁ 御 廟 の 巽 姑 射 山 の 麓 南 流 の 東 岸 に あ り、 三 間 四 方 西 向 東 南 の 角 に 痛 あ り て 番 主 及 浄 人 等 の 燕 居 の 処 と す。 ( 中 略) 此 篭 の 創、 古 老 伝 二 長 弘 上 人 の 創 立 と い ふ。 長 弘 は 護 摩 堂 再 興 の 勧 進 者 な れ ば、 老 後 護 摩 堂 を 退 隠 し て 此 蕎 に 燕 居 し な ら ん。 本 来 断 十 穀 な れ ば、 木 食 上 人 な と 流 俗 の 思 へ る も 宜 な り。 ( 中 略) 此 蕎 入 住 退 出 井 に 蓮 上 院 よ り 指 磨 す。 当 時 廟 院 参 詣 の 輩、 此 篭 の 由 マ マ 来 を 弁 せ す、 避 穀 の 道 心 者 の 棲 息 し け れ は、 此 所 に て 真 言 念 な り 授 り て 大 師 の 名 代 な と 思 ひ 辺 地 寒 村 に 流 言 し け る は 鳴 呼 註(2) の 事 な り ﹂ と あ る。 さ ら に 又 ﹁ 世 事 法 師 ﹂ の 項 に は、 ﹁ 世 事 法 師 老 後 断 十 穀 な と に て 修 練 を 凝 す 族 は、 蓮 上 院 に 希 望 し て 奥 院 木 食 庵 に 栖 て 諸 人 に 法 縁 を 結 は し む る も あ り、 又 中 年 に て も 其 志 操 を 択 て、 蓮 上 院 よ り 彼 木 食 庵 に 住 持 す る も の 断 た る 時 は 補 閾 せ し む る こ と も あ り ﹂ と あ る。 蓮 上 院 は 西 院 谷 に あ っ た 学 侶 寺 で あ り、 護 摩 所 と 二 箇 院 を 支 配 し て い た の で あ る。 詫(3) こ の 長 弘 の 護 摩 堂 再 興 に つ い て は、 ﹃ 読 宝 簡 集 ﹄ 第 三 巻 の ﹁ 奥 院 護 摩 堂 興 隆 作 事 雑 用 入 目 日 記、 本 願 長 弘 ﹂ に よ り 認 め ら れ る が、 本 日 記 中 に は、 第 六 代 快 真、 第 七 代 朝 尊 の 二 代 の み が 出 て 来 る が、 共 に 十 穀 上 人 で あ る。 そ し て、 快 真 の 項 に は ﹁ 代 々 十 穀 ﹂ な る 文 も 見 え、 木 食 上 人 が 多 く、 木 食 所 と も 関 連 が 密 で あ っ た よ う で あ る。 こ の 点、 蓮 上 院 関 係 か ら も、 文 献 面 で、 両 所 を 詳 し く 研 究 す る 必 憂 が あ る。 と に か く、 木 食 行 人 で あ る 長 弘 に よ り 建 立 さ れ、 世 事 法 師 達 の 木 食 行 を す る 者 が 集 り、 し か も そ の 行 の 故 に 非 常 な 信 仰 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 を 受 け て い た こ と が 分 る。 と こ ろ で 本 稿 は、 供 養 碑 等 に よ り、 こ の 木 食 所 の 行 人 達 を 中 心 と し、 他 に 認 め ら れ た 同 行 の 人 々 の を 随 時 に 使 い ま と め て い く。 そ し て 最 後 に、 応 其 上 人 個 人 に 関 し て も、 貴 重 な 供 養 碑 を 見 出 し た の で、 そ れ を ま と め た い。 な お、 各 碑 の 存 在 す る 場 所 に つ い て は、 木 食 所 跡 附 近 に 一 括 し て 存 在 す る 分 は、 そ れ を 示 さ な い。 そ の 他 の 所 の は、 資 料 篇 に 示 す 記 号 を 使 用 す る の で、 前 も っ て 断 わ っ て お く。 そ こ で 先 づ 木 食 所 に つ い て で あ る が、 同 所 に 薬 師 如 来 の 石 造 仏 が あ り、 信 仰 を 集 め た と 思 わ れ る が、 享 保 十 三 年 ( 一 七 二 八) に ﹁代 々 先 祖 等 ﹂ の 為 に ﹁ 木 食 快 正 建 立 ﹂ と あ る。 こ れ は 初 代 の 快 正 と は 異 人 で あ る。 こ れ を 寛 保 三 年 ( 一 七 四 三) に 写 真(1) 法 印 恵 昌 が 修 復 し た と 思 わ れ る が、 ﹁ 木 食 所 ﹂ と 刻 ま れ て あ り、 木 食 所 と あ る の は こ の 一 例 だ け で あ っ た。 次 に そ の 住 持 で あ る が、 資 料(一) に よ り 分 る が、 ﹁ 奥 院 木 食 五 十 四 世 法 印 尊 栄 ﹂ が、 宝 暦 十 一 年 ( 一 七 六 一) に 完 成 さ れ た 写 真(2) と 思 わ れ る が、 ﹁ 木 食 代 々 先 師 快 正 ﹂ の 供 養 の 為 の 宝 簾 印 塔 が あ る。 そ の 位 置 は 二 群 か ら や や 離 れ た 所 に、 一 段 と 大 き く 写 真(3) 建 立 さ れ て い る。 さ ら に そ の 裏 に は ﹁ 納 骨 の 穴 ﹂ が 明 け て あ り 相 当 量 の 納 骨 が 出 来 る よ う に な っ て い る の も 注 目 さ れ る。 つ ま り、 こ の 塔 は、 木 食 一 派 の 信 仰 の 中 心 的 存 在 で あ り、 こ の 一 派 を 信 仰 す る 者 が 結 縁 の た め に 納 骨 し て い た の で あ り、 そ し て、 こ の 一 派 は 快 正 を 代 々 の 先 師 と し て い た こ と が 分 る。 こ の 快 正 と は、 快 昌 と も 言 い、 応 其 亡 き 後 の 行 人 派 の 一 方 の 頭 領 と し て、 学 侶 方 の 頼 慶 と 争 い、 慶 長 十 三 年 ( 二 六 〇 九) に 蛇 柳 で ﹁ 石 子 詰 め ﹂ の 刑 に 処 せ ら れ た 人 だ と 考 え ら れ る。 註(4) な お 代 々 の 住 持 に 関 し て は、 元 文 五 年 ( 一 七 四 〇) の 石 燈 篭 に ﹁ 奥 院 木 食 五 十 二 世 恵 昌 弟 子 快 正 ﹂ と あ り、 前 記 の 快 正 の 註(5) 供 碑 の 五 十 四 世 尊 栄、 さ ら に 安 永 九 年 ( 一 七 八 〇) の 石 燈 篭 に ﹁ 木 食 五 十 六 世 真 栄 ﹂ の 名 が 刻 ま れ て い る の が 認 め ら れ た。 さ ら に 明 治 版 の ﹁ 高 野 山 略 図 ﹂ に も 木 食 所 は 記 入 さ れ て い る の で、 明 治 初 年 ま で は 存 在 し た も の と 考 え ら れ る。 次 に こ れ ら 木 食 行 人 の 行 内 容 に つ い て で あ る が、 木 食 行 そ 写 真(4) の も の を 示 す 供 碑 を 唯 一 例 で あ る が 見 出 し 得 た。 即 ち 資 料(二) で あ る が、 ﹁ 奉 勤 修 一 百 五 十 箇 臼 木 食、 三 万 人 有 情 度、 為 父 写 真(5) 母 菩 提 ﹂ と あ り 表 に は ﹁ 一 切 衆 生 即 身 成 仏 供 養 塔 ﹂ と あ る、 天 保 三 年 ( 一 八 三 二) の 大 法 師 静 雲 木 食 の 供 碑 で あ る。 木 食 行 と は 元 来 五 穀 乃 至 十 穀 を 断 っ 行 を 称 す る の で あ る
註(6) が、 五 来 重 教 授 が ﹃ 微 笑 仏 ﹄ の 中 で 記 さ れ て い る よ う に、 あ る 一 定 期 間 こ の 行 を 行 っ た 修 行 者 に 対 し て 称 せ ら れ る の を 原 則 と し て い る の で あ る。 と こ ろ で こ の 銘 文 に あ る よ う に、 三 万 人 の 人 を 自 分 の 父 母 の 菩 提 の 為 に 救 い た い と 念 願 し て い る。 こ の よ う に 自 分 の 肉 身 を 出 す こ と は 学 侶 等 の 供 碑 に は ご く 少 な く、 又 具 体 的 に 衆 生 に 結 び つ け て 願 を 立 て て 行 う こ と が 庶 民 の 信 仰 を 集 め た 要 因 に な っ て い る と 考 え ら れ る。 次 に 指 摘 し て お か ね ば な ら ぬ の は 表 記 さ れ た ﹁ 即 身 成 仏 ﹂ 写 真(6) の 文 句 で あ る。 こ れ は 資 料 口 に も、 ﹁ 先 祖 代 々 父 母 子 孫 一 家 親 類 二 切 衆 生 即 身 成 仏 ﹂ と あ る が、 こ の 文 句 は、 一 切 の 他 の 学 侶 行 人 の 供 碑 の (銘 文 か ら は 見 出 せ な か っ た。 つ ま り 木 食 行 人 の み が 特 に 念 願 と し て い た も の で あ る こ と が 分 る。 一 体 木 食 行 と 言 う の は、 入 定 往 生 す る 前 段 階 の 修 行 だ と さ れ る が、 そ の 木 食 行 人 が、 例 へ 入 定 往 生 し な く て も、 こ の 二 派 の か か げ た 念 願 で あ っ た と 言 う こ と が 分 る。 写 真(7) 次 に こ れ と 関 連 し た も の で、 資 料 四 に 示 さ れ る よ う に、 ﹁ 阿 闇 梨 入 定 自 光 不 生 位 ﹂ と あ る 石 柱 型 の 入 定 供 養 碑 が、 こ れ も 唯 二 基 で あ る が 見 出 さ れ た。 武 州 の 産 で あ り、 享 保 十 二 年 ( 一 七 二 六) 三 月 廿 八 日 の ﹁午 刻 ﹂ に 往 生 し た と あ る が、 他 に 死 亡 し た 時 刻 ま で 記 入 さ れ た 供 碑 は 認 め ら れ な か っ た。 空 海 が 入 定 し た と い う 伝 承 を 持 っ て い る が、 奥 院 に は そ の 他 に こ の 一 基 し か な く、 前 記 し た 快 正 が 蛇 柳 で 石 子 詰 め の 刑 罰 に あ っ た と い う の も、 二 種 の 入 定 で あ る が、 こ れ は 特 に 江 戸 時 代 に 各 山 に よ く み ら れ る 僧 の 刑 罰 の 一 種 で あ る。 そ し て こ の 自 光 の 揚 合、 こ れ が 木 食 行 人 の 墓 地 に あ る こ と を 注 目 す べ き で、 木 食 の モ ッ ト ウ で あ る 即 身 成 仏 と の 関 連 に お い て こ れ を 捉 え る べ き だ と 考 え る。 そ の 他、 木 食 行 人 の 修 法 に 関 し て 述 べ る と、 そ の 好 個 の 事 例 が、 御 所 芝 の 応 其 上 人 の 供 養 碑 の 銘 文 に 見 出 さ れ る。 即 ち、 食 木 実 被 麻 草 屋 修 難 行、 毎 日 山 中 入 堂 一 石 一 礼 書 経、 無 言 閉 戸 聞 持 両、 度 乾 断 食 二、 度 達 末 摩 計、 度 其 外 別 行 ホ 朦 計、 宿 不 家、 寝 不 衙 床 ( 中 略) 起 居 勤 静、 不 絶 口 密 究、 懸 一 衣 一 鉢 不 出 十 余 年 と あ る。 つ ま り、 麻 を 着 小 屋 を 草 し て 木 食 の 苦 行 を 行 い、 さ ら に、 山 中 の 堂 に て 一 字 一 石 の 写 経 を 行 い、 無 言 で 戸 を 閉 ざ し て 求 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 聞 持 の 法 を 二 度 行 じ、 乾 断 食 を 二 度、 達 末 摩 を 三 十 度、 そ の 他、 旅 を し て も 家 に 泊 ら ず、 坊 に あ っ て も 床 に 寝 な く、 口 に 絶 え ず 真 言 を 究 し て い た と い う の で あ る。 こ の 中 で、 乾 断 食 と は、 水 分 を 断 つ 行 で、 修 験 行 者 の 入 峰 し た 時 行 う 十 界 修 行 の 中 に、 水 断 の 行 が あ る が、 或 い は こ れ に 類 す る も の か と 思 う。 達 末 摩 は 不 明 で あ る。 と に か く、 庶 民 的 宗 教 者 の 行 う 各 種 の 難 行 を、 数 多 く 行 い、 こ れ に 徹 し て い た と 言 え る。 註(7) 写 真(8) 次 に 資 料(五) に 示 し た 天 文 十 四 年 ( 二 五 四 五) の 伝 宥 木 食 上 人 の 碑 伝 型 の 名 号 碑 で あ る が、 ﹁ 奉 唱 念 仏 百 万 遍、 四 十 入 度 結 願 ﹂ と あ り、 弥 陀 の 四 十 八 願 に か け て、 百 万 遍 の 念 仏 を 四 十 八 度 も 行 じ て い る の で あ る。 こ の よ う に 念 仏 の 行 に 徹 し た 木 食 行 人 も あ っ た の で あ る。 註(8) そ の 他、 万 延 元 年 ( 一 八 六 〇) に、 大 阪 の 六 大 講 中 が 建 立 し た ﹁ 光 明 真 言 五 十 六 億 七 千 万 遍 供 養 塔 ﹂ で あ る 宝 筐 印 塔 の 銘 文 中、 ﹁ 故 六 大 院 十 穀 木 食 覚 智 祐 傳 上 人 ﹂ の 名 も 認 め ら れ る。 即 ち、 光 明 真 言 を 諦 す る 行 に 加 わ っ た 者 も あ る。 な お、 木 食 行 そ の も の で あ る が、 前 文 で 引 用 し た ﹃ 紀 伊 読 風 土 記 ﹄ の 文 の 中 で も、 高 野 山 の 木 食 所 で は、 十 穀 断 が 多 い い 旨 記 し て あ る が、 供 養 碑 等 の (銘 文 で は、 普 通 ﹁ 木 食 某 ﹂ と 註(9) あ る が、 天 正 十 三 年 ( 一 五 八 五) に 御 廟 再 建 し た 快 祐 は、 同 廟 の 欄 干 の 擬 宝 珠 に ﹁ 本 願 快 祐 十 穀 ﹂ と 刻 し て あ る。 次 に 変 っ た 信 仰 例 と し て は、 寛 保 四 年 ( 一 七 四 四) に 建 立 さ れ た 石 造 地 蔵 尊 が あ る。 正 面 に ﹁ 計 三 度 廻 向 仏 ﹂ と あ り、 願 主 は 賢 明 で、 施 主 は 丹 波 国 の 住 人 手 嶋 □兵 衛 で あ る。 こ の 三 十 三 度 と い う の は、 各 霊 場 の 碑 伝 に よ く 見 ら れ る も の で、 恐 ら く こ う し た 修 験 者 か ら の 影 響 に よ り 生 れ た も の で あ ろ う。 次 に こ の 木 食 行 人 達 が、 多 く の 信 者 を 得 て い た こ と は、 前 記 快 正 の 宝 簾 印 塔 の 横 に、 こ れ と 同 じ 大 き さ の 同 種 の 塔 が 建 立 さ れ て あ る。 銘 文 に よ る と、 同 じ 願 主 木 食 慧 眼 に よ り、 施 主 大 阪 内 平 野 町 殿 村 氏 が、 釈 了 啓 居 士 以 下 入 霊 の 供 養 の 為 に 寄 進 し た も の で あ る。 勿 論 快 正 の 塔 も 同 氏 に よ る 寄 進 だ と 考 え ら れ る。 そ れ に 前 記 し た よ う に、 快 正 の 塔 に は、 深 い 納 骨 穴 が 掘 ら れ て い る こ と も 考 え ね ば な ら な い。 又、 木 食 浄 心 に よ る 文 化 八 年 ( 一 八 二) 頃 の 上 坂 久 次 郎 家 の 先 祖 代 々 各 々 聖 霊 等 の 五 輪 を 陽 刻 し た 石 柱 型 供 養 碑 も あ り、 そ の 他 こ の 類 の も の は 数 多 く 存 在 す る。 最 後 に、 そ の 他 元 文 五 年 ( 一 七 四 〇) に 恵 昌 の 弟 子 の 快 正 に
よ り 建 立 さ れ た 燈 篭、 御 廟 を 再 建 し た 快 祐 等 も あ る が、 他 の 項 で 触 れ る し、 木 食 行 人 そ の も の の 特 質 の 追 求 に も な ら ぬ と 考 え る の で、 こ こ で は ふ れ な い で お く。 た だ、 こ の よ う な 庶 民 的 宗 教 者 は、 こ う し た 面 で 活 躍 す る の が 得 意 で あ る の で、 こ の 関 係 に は 多 く そ の 名 が 見 出 さ れ る と い う こ と を 記 し て お き た い。 以 上、 木 食 行 人 に つ い て 供 養 碑 等 か ら 分 る 範 囲 を 追 求 し た。 高 野 山 で は、 こ の 一 派 は 天 文 年 間 に 活 躍 し た 木 食 長 弘 に よ り 建 立 さ れ た と 伝 え る 木 食 所 を 本 居 と し て 活 動 し た。 こ の 一 派 は、 快 正 を 代 々 の 先 師 と 仰 ぎ、 代 々 の 庵 主 が 引 き 継 い で 明 治 初 年 ま で は 続 い た と 考 え ら れ る。 と こ ろ で、 同 じ く 蓮 上 院 の 支 配 を 受 け た 護 摩 堂 に も 同 行 の 者 が 多 く い た よ う で あ る の で、 こ の 堂 も 注 意 し て お く 必 要 が あ る。 木 食 所 に は、 世 事 法 師 で 十 穀 断 ち の 行 を す る 者 が 集 ま っ た が、 木 食 行 と は 必 し も 一 生 こ れ を 行 ず る も の で は な く、 静 雲 の 例 に 見 ら れ る よ う に、 一 定 期 間、 し か も 多 数 の 衆 生 を 度 す る と い っ た 念 願 を 立 て て 行 わ れ た の で あ る。 そ し て、 自 身 及 び 信 仰 す る 者 の 即 身 成 仏 を 念 願 と し て い た。 又 事 実 入 定 往 生 ( 即 身 成 仏) す る 者 も い た。 こ の 性 格 の 故 に、 多 く の 信 者 を 集 め、 地 方 に 行 っ て は 弘 法 大 師 の 名 代 と し て 尊 ば れ た。 又、 そ の 庶 民 的 宗 教 者 と し て の 性 格 か ら、 正 規 の 真 言 僧 と し て の 行 法 よ り、 一 石 一 字 の 写 経、 無 言 の 行、 或 る 種 の 断 食、 民 家 に 泊 ら ぬ、 寝 具 を 使 用 せ ぬ、 不 断 究 真 言、 念 仏 行、 光 明 真 言 念 仏 等 々、 全 く 民 間 に よ く み ら れ る 雑 修 行 も 盛 ん に 行 っ て い る の で あ る。 以 上 で あ る が、 蓮 上 院 の 関 係 文 書 を は じ め、 各 文 献 を 求 め て、 さ ら に 詳 し く ま と め た い。 次 に 応 其 上 人 に 関 し て で あ る が、 先 づ そ の 詳 し い 伝 が 御 所 芝 の 五 輪 に 刻 ま れ て あ る の は、 同 上 人 に 関 し て の 重 要 な 資 料 で あ り、 こ れ を 紹 介 し た 水 原 師 の ﹃ 高 野 山 金 石 図 説 ﹄ は、 そ の 功 を 多 と せ ね ば な ら な い が、 こ れ に は 多 く の 誤 読 が 見 出 さ れ る の で、 今 回 改 め て 資 料 因 と し て、 紹 介 を し て お く。 こ の 中 で 最 も 問 題 に な る の は、 受 戒 の 師 の こ と で、 水 原 師 は ﹁ 政 遍 ﹂ と 読 ま れ て い る が、 こ れ は 一 般 に 伝 受 戒 師 を 政 遍 と し て い る と こ ろ か ら、 そ う 読 ま れ た も の と 思 う が、 原 文 は ど う し て も、 そ う は 読 め な い。 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 二 字 の 中、 上 の 字 は ﹁ 覚 ﹂ と 判 読 さ れ、 下 は ﹁ 赴 ﹂ が 確 任 さ れ る が、 磨 滅 し て よ く 読 め な い。 と に か く ﹁ 覚 爬 ﹂ の 人 だ と 考 え ら れ る。 政 遍 説 が ど こ か ら 出 た か は 確 任 し 得 な い が、 そ の 字 も 宥 俊 と 言 い、 別 人 で は な い か と 考 え ら れ る。 覚 の 字 が つ く と、 応 其 の 字 深 覚 に も 通 じ、 さ ら に 可 能 性 を 強 め る。 其 頃 西 禅 院 に 覚 運 が い て、 寛 永 十 八 年 検 校 位 に つ い て い る が、 二、 三 十 年 時 代 が お く れ る。 今 回 は、 問 題 提 起 と し て お き た い。 註(11) 註(12) 次 い で、 資 料 爾 及 び 囚 で あ る が、 こ の 二 基 の 板 碑 に つ い て は、 こ れ ま で 紹 介 さ れ て な い よ う で あ る が、 重 要 な も の と 思 わ れ る の で、 全 文 を 紹 介 し て お く。 応 其 上 人 が、 豊 臣 秀 吉 に 托 さ れ て、 京 都 東 山 の 大 仏 殿 を は じ め 多 く の 寺 社 建 立 乃 至 再 建 に 力 を 致 し た こ と は 既 に 周 知 の こ と で あ る。 そ し て、 特 に 大 仏 殿 に は 力 を 注 い で い る。 こ の 二 基 は、 こ れ に 関 連 し た も の で あ り、 囚 に ﹃ 本 願 木 食 □山 上 人 ﹂ と 判 読 さ れ る が、 こ の 重 要 な 碑 は 三 枚 に 折 れ て お り、 完 全 に は 読 ま れ な い。 写 真(9) (七) は、 ﹁ 都 洛 陽 東 山 大 仏 殿 大 師 講 一 結 衆 中、 奉 行 敬 白 ﹂ と あ り、 ﹁ 文 禄 三 年 ( 一 五 九 四) 入 月 彼 岸 中 目 ﹂ の 建 立 で あ る。 講 員 は、 勢 雅 法 印、 覚 栄 法 印 等 僧 侶 ば か り 約 四 十 名 で あ る。 こ れ に 対 し、 囚 は、 大 体 同 様 で あ る が、 ﹁ 宛 洛 陽 東 山 大 仏 殿 弘 法 大 師 講 一 結 一衆 中 奉 行 各 人 敬 白 ﹂ と あ り、 ﹁ 文 禄 五 年 丙 甲 正 月 ﹂ の 建 立 で あ る。 講 員 は、 行 秀 法 印、 教 春 法 師 等 約 三 十 人 の 僧 に 約 三 十 人 の 俗 人 が 加 わ り、 計 約 六 十 人 と な っ て い る。 そ し て、 僅 か に 二 年 の 違 い で は あ る が、 二 基 の 中 両 方 に 見 出 さ れ る の は、 行 秀、 宗 順 の 二 人 だ け で、 そ の ほ と ん ど が 移 動 を し て い る。 こ の 中 で、 そ の 行 跡 の 分 る 人 を 挙 げ る と、 先 づ 勧 の 覚 栄 法 註(13) 印 で あ る。 ﹃読 宝 簡 集 ﹄ 第 五 十 四 の ﹁ 諸 寺 諸 社 造 営 目 録 ﹂ は、 慶 長 七 年 ( 一 六 〇 二) 三 月 吉 日 に、 遍 照 院 覚 栄 が、 こ れ ま で の 各 寺 社 の 造 営 修 復 に 費 し た 費 用 を 興 山 寺 上 人 に 報 告 し た も の で あ る。 て れ に 添 え て 応 其 が 記 し て い る が、 そ の 中 に、 抑 参 拾 弐 万 弐 千 余 石 ノ 首 尾 悉 弁 済 シ テ 無 為 無 事 二 悉 地 図 満 マ マ ノ 旨 趣 ハ、 第一 一 大 閤 御 所 広 大 憐 慰 ノ、 大 悲 力、 第 二 二 遍 照 院 才 覚 祈 念 ノ 誓 願 力、 第 三 二 愚 老 信 心 懇 祈 加 持 カ カ、 三 身 相 応 シ テ 自 他 ノ 無 辺 ノ 大 願 成 就 ス と 言 わ し め て い る の で あ る。 即 ち、 大 仏 殿、 東 寺、 醍 醐、 高 野 山、 誓 願 寺、 住 吉 社 等、
さ ら に 名 手、 加 勢 田、 妙 寺 等 の 築 池、 安 楽 川 の 井 堰 等、 そ の 功 績 と せ ら れ る も の は、 実 地 に は 覚 栄 が 当 っ て い た の で あ る。 註(14) 覚 栄 は、 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ に よ る と ﹁ 竹 田 遍 照 院 覚 栄 ﹂ と あ り、 山 外 の 人 で あ っ た。 註(15) 次 に、 や は り(七) の 勢 雅 で あ る が、 ﹃ 紀 伊 読 風 土 記 ﹄ の 小 田 原 谷 の 西 門 院 の 項 に、 ﹁ 天 正 年 中 の 院 主 勢 雅 法 印 は、 興 山 上 人 と 共 に 京 都 大 仏 殿 石 山 観 音 堂 等 造 営 ﹂ の 台 命 を 蒙 り て、 其 功 業 少 か ら ず ﹂ と あ る。 註(16) 次 に 教 春 も、 同 書 の 蓮 花 谷 万 福 院 の 項 に、 ﹁ 中 興 法 印 教 春、 ( 中 略) 文 録 年 中 当 山 に 習 学 し 遂 に 当 院 に 住 す ﹂ と あ る の が 同 人 で は な い か と 考 え ら れ る。 註(17) さ ら に、 宗 順、 行 宗、 良 快 に つ い て は、 そ れ ぞ れ ﹃ 読 宝 簡 集 ﹄ 四 十 九 の、 ﹁ 千 手 堂 入 講 所 作 人 請 定 ( 天 正 三 年 六 月) ﹂ の 四 日 の 役 に 宗 順 房、 ﹁ 千 手 堂 修 正 所 作 人 請 定 ( 天 正 拾 二 年 極 月 吉 日)﹂に、 讃 頭 行 宗 房 と あ り、 さ ら に ﹁ 千 手 堂 上 葺 供 養 曼 茶 羅 供 請 定 ( 元 亀 四 年 発 酉 九 月 三 日)﹂に、 大 法 師 良 快 と あ る の が、 当 人 で は な い か と 考 え ら れ る。 以 上 で あ る が、 こ う し た 人 名 が 見 出 さ れ る こ と、 応 其 が 存 在 し 大 仏 殿 建 立 に 活 躍 し て い た 時 代 に 当 る、 こ の 当 時-山 と つ く 有 力 な 木 食 は 他 に 見 出 さ れ な い。 こ れ ら を 考 え て、 木 食 興 山 上 人 が 本 願 だ と 考 え て 誤 り で な い と 考 え る。 と こ ろ で、 応 其 が、 大 仏 建 立 に 当 っ て、 こ の よ う に 大 師 講 を 結 衆 し て 当 っ た こ と は、 他 に 資 料 が 見 当 ら な か っ た。 そ れ で、 こ の 面 か ら も 貴 重 な 資 料 だ と 考 え る の で あ る。 最 後 に、 応 其 の 奥 院 に 存 在 す る 三 基 の 供 養 碑 に つ い て 述 べ 資 料(九) の(イ) る。 こ れ を 年 代 順 に 並 べ る と、 天 正 十 九 年 ( 一 五 九 一) の 興 山 寺 墓 地 碑 ( 一 石 五 輪)、 文 禄 四 年 ( 一 五 九 五) の 御 所 芝 碑 ( 五 資 料(九) の(ロ) 写 真(10) 輪)、 御 供 所 近 く の 廟 中 の 碑 ( 宝 簾 印 塔) で 慶 長 十 三 年 ( 一 六 〇 八) 銘 の も の と な る。 興 山 寺 墓 地 の 碑 は、 ﹁ 興 山 寺 上 人、 応 其、 寿 位 ﹂ と あ る。 こ の 寿 位 と は、 ﹁ 寿 域 ﹂ と い う 言 葉 が あ り、 生 前 の 墓 を 示 す が、 こ れ に 類 す る 逆 修 碑 だ と 考 え る べ き で あ ろ う。 文 禄 四 年 の 御 所 芝 の も、 逆 修 碑 で、 こ れ は 銘 文 か ら も、 弟 子 達 が そ の 偉 大 な 徳 行 を た た え て 建 立 し て い る。 つ ま り、 廟 中 の が、 死 後 建 立 さ れ た 供 養 碑 と な る。 (2) 三 昧 聖 註(17) 三 昧 聖 の 墓 地 は、 一 ノ 橋 ( 大 渡 の 橋 又 は 大 橋) と 中 ノ 橋 ( 手 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 向 橋) の 中 間 の 御 澱 川 寄 り の 地 に、 広 く 群 っ て お る。 そ の 多 く が、 五 十 セ ン チ 前 後 の 石 柱 型 供 養 碑 で、 質 素 な も の が 多 く、 そ の 他 宝 簾 印 塔、 笠 塔 婆 型、 さ ら に 地 蔵、 弥 勒 等 あ っ て 種 類 は 他 の 学 侶 等 と 変 ら な い。 註(18) ﹃ 紀 伊 読 風 土 記 ﹄ に よ る と、 聖 の 階 層 の 中 で も ﹁ 新 坊 ﹂ と 呼 び、 ﹁ 大 渡 の 橋 よ り 巽 方 一 町 許、 廿 四 坊 あ り、 其 聰 堂 は 釈 迦 如 来 を 本 尊 と し、 弘 法 大 師 行 基 頼 慶 法 印 の 木 像 を 安 置 す。 彼 蕪 の 説 は、 旧 来 南 都 に 住 居 し て 行 基 菩 薩 の 法 化 に 浴 し け る に、 弘 法 大 師 の 時 よ り 此 山 に 移 住 す。 此 山 に 移 て 後 大 師 の 命 に よ り て 葬 送 の 事 を 勤 む ﹂ と あ る。 そ の 他、 諸 法 事 の 警 固、 寺 家 の 夜 番、 石 塔 造 り、 寺 家 の 石 垣 水 取 覧 等 の 修 理、 土 蔵 の 壁 塗 等 の 仕 事 も し て い る。 さ ら に、 頼 慶 を 杞 る の は、 遍 照 光 院 に い た 同 師 に よ り、 十 八 道 の 加 行 を 授 か る よ う に な っ た か ら だ と し、 同 院 を 師 匠 寺 と 号 し て い る と あ る。 こ の 点、 奥 之 坊 所 蔵 の ﹃ 福 本 坊 過 去 帳 ﹄ に は、 ﹁ 阿 閣 梨 頼 慶、 遍 照 光 院 廿 一 世、 法 流 祖 ﹂ と あ り、 こ の 一 派 の 高 野 山 で の 祖 と 疑 せ ら れ て い た こ と が 分 る。 こ の 点、 さ ら に 同 院 関 係 の 文 献 調 査 が 必 要 で あ る。 今、 参 考 に 資 料(十) に 示 す 古 図 ( 文 化 七 年 版 年 号 削 除、 版 元 山 本 平 六) に よ る と、 大 橋 を 渡 っ た 所 に 一 郭 を な し、 釈 迦 堂 を 中 心 と し、 天 満 宮 を 鎮 守 と し て 各 坊 が 群 り、 前 方 に 塔 婆 二 基 が 建 っ て い る の が 認 め ら れ る。 註(19) と こ ろ で、 ﹃ 宝 簡 集 ﹄ を 見 て も、 既 に 文 明 五 年 の ﹁ 千 手 院 々 主 渡 日 記 ﹄ に も、 他 の 行 人 寺 と 思 わ れ る 院 名 の 中 に、 奥 之 坊 東 之 坊、 柳 之 坊、 松 之 坊、 西 之 坊、 中 之 坊、 南 之 坊、 角 之 坊 等 三 昧 聖 と し て、 江 戸 期 に 存 在 し た も の と 同 じ 坊 名 が 書 き 並 べ て あ る が、 こ れ ら は 類 を 異 に す る よ う で あ る。 と に か く、 谷 の 者 と し て 奥 院 近 く の 一 郭 に 集 め ら れ、 軽 視 さ れ る よ う に な っ た の は 何 時 頃 で あ る か も 解 明 し な く て は な ら ぬ 問 題 で あ る。 以 上、 今 後 追 求 す べ き 多 く の 問 題 が あ る が、 以 下 供 養 碑 の 面 か ら 分 っ た 範 囲 を ま と め て い く。 写 真(11) 写 真(12) 三 昧 聖 の 墓 原 の 中 で、 先 つ 目 に つ く の が、 資 料(十一)、(十一) の 聖 武 天 皇 供 養 の 宝 籐 印 塔 と、 行 基 菩 薩 供 養 の 石 柱 型 碑 と、 さ ら 写 真(13) に ﹁ 弘 法 大 師 御 忌 供 養 塔 ﹂ と あ る 笠 塔 婆 型 碑、 ﹁ 三 界 万 霊 ﹂ と 刻 し た 宝 筐 印 塔 の 四 基 で あ る。 こ の 中、 行 基 菩 薩 の 供 養 碑 に は、 ﹁ 奉 為 謝 大 祖 行 基 菩 薩 千 歳 御 忌 報 恩 建 立 謹 ﹂ と あ る。
そ の 位 置 が 中 心 部 を 占 め て い る 点、 さ ら に こ の 四 基 の み に ﹁ 三 昧 聖 中 ﹂ と あ る 点 か ら、 同 派 の 信 仰 の 中 心 的 存 在 で あ っ た こ と が 分 る。 そ し て、 聖 武 天 皇 及 び 行 基 菩 薩 を、 重 要 視 し て い た 点 も、 了 解 出 来 る の で あ る。 写 真(14)(15) 次 に そ の 組 織 に つ い て で あ る が、 資 料(十三) の 光 明 真 言 の 笠 塔 婆 型 供 養 碑 が 注 目 さ れ る。 本 碑 も 中 心 部 に 近 く、 約 三 メ ー ト ル の 高 さ で、 重 要 な 信 仰 対 象 で あ っ た と 判 断 さ れ る。 文 化 十 一 年 ( 一 八 一 四) 彼 岸 に 岩 本 坊 光 雲 の 弟 子 光 尊 が 発 願 主 と な っ て 建 立 し た の で あ る が、 ﹁ 光 明 講 結 衆 中 ﹂ と あ り、 講 中 の 東 之 坊、 角 之 坊、 奥 之 坊、 笹 之 坊、 笹 本 坊 等 の 十 一 坊 名 が 列 記 さ れ て あ る。 と こ ろ が 資 料(一四) に 示 す も う 一 基 の 石 柱 型 の 光 明 真 言 供 養 碑 が そ の 近 く に あ る。 正 徳 二 年 ( 一 七 一 二) に、 同 じ く ﹁ 光 明 真 言 講 中 ﹂ に よ り 建 立 さ れ て い る。 そ し て、 こ の 供 碑 も そ の 講 中 の 信 仰 の 中 心 で あ っ た こ と は、 文 政 十 年 ( 一 八 二 七) に 善 教 (等 に よ っ て そ の 前 に 建 立 さ れ た 石 造 常 夜 灯 の 銘 文 と、 さ ら に 天 保 五 年 ( 一 八 三 四) の 弘 法 大 師 一 千 年 御 忌 に、 報 恩 の 為 に 修 せ ら れ た ﹁ 光 明 真 言 秘 法 十 座 神 究 十 万 偏 ﹂ の 供 養 文 も、 後 に 同 碑 の 側 面 に 刻 し て い る こ と か ら も 分 る。 さ て、 同 碑 に は、 講 中 の 坊 名 は 記 し て な く、 快 伝 以 下 二 十 余 の 法 名 ( 一 名 の み 仁 右 工 門 と い う 俗 名 あ り) が 刻 し て あ る が、 快 伝 は 西 之 坊 の 僧 で あ る。 又 善 教 等 も 同 坊 の 者 で あ る。 こ の 坊 名 は、 前 記 の 光 明 講 中 に は 出 て お ら な い。 そ こ で 参 写 真(16) 考 に な る の が、 現 在 奥 之 坊 蔵 の 過 去 帳 で 資 料 十 五 に 示 さ れ る が、 供 養 碑 建 立 と 同 年 の 正 徳 二 年 に 調 え ら れ、 ﹁ 過 去 聖 霊 帳、 光 明 真 言 結 衆 中 ﹂ と あ り、 講 中 が 結 衆 し て 一 冊 の 過 去 帳 を 製 し て い る 点 が 注 目 さ れ る。 さ ら に そ の 中 に 出 て 来 る 坊 名 を 挙 げ る と、 中 之 坊、 北 之 坊、 西 之 坊、 南 之 坊、 乾 之 坊、 西 本 坊、 上 之 坊、 柳 之 坊、 杉 本 坊、 藤 之 坊、 竹 之 坊、 梅 本 坊、 杉 之 坊、 松 之 坊、 中 嶋 坊、 涌 之 坊、 岸 本 坊、 瀧 之 坊 の 十 入 坊 で あ り、 こ れ は 全 く 前 の 講 と は 坊 名 を 異 に す る。 つ ま り、 光 明 講 を も っ て、 二 つ の 異 っ た 結 衆 が あ っ た こ と が 知 ら れ る の で あ る。 そ の 他、 供 養 碑 か ら は、 森 本 坊、 筒 井 坊、 池 之 坊、 福 本 坊 の 四 坊 が 見 出 さ れ、 こ れ ら も 三 昧 聖 墓 中 に 存 在 し て い る 点 か ら、 こ の 仲 間 だ と 考 え ら れ る。 と こ ろ で、 奥 院 の 学 侶 行 人 等 の 墓 全 部 を 見 廻 っ て も、 こ の 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 よ う に 住 山 の 僧 が 光 明 講 を 結 衆 し て 供 養 碑 を 建 立 し て い る 例 は 一 基 も 認 め ら れ な か っ た。 元 来 三 昧 聖 は、 念 仏 を 主 体 と す る 性 格 を 有 す る が、 高 野 山 の 場 合 に は、 こ れ が 光 明 真 言 に 変 質 し て い る と 考 え ら れ る。 そ れ に は、 真 言 宗 化 と い う 点 と、 死 体 処 理 と い う 点 に そ の 理 由 が あ る と 考 え ら れ る。 さ ら に、 奥 之 坊 所 蔵 の ﹃ 北 之 坊 過 去 帳 ﹄ に ょ る と、 十 五 日 欄 の ﹁ 阿 閣 梨 宝 衆 ( 乾 之 坊 一 代)﹂の 項 に、 ﹁ 引 導 師 北 之 坊 等 海 ﹂ と あ る。 又 十 七 日 欄 に も、 ﹁ 阿 闇 梨 光 昌 (杉 之 坊 一 代) ﹂ の 項 に ﹁ 北 之 坊 導 師 ﹂ と あ る。 こ の 乾 之 坊、 杉 之 坊 と 北 之 坊 と は、 同 一 の 光 明 真 言 講 中 で あ り、 同 一 講 中 が、 光 明 真 言 を 中 心 と し て 結 衆 し、 互 い に 死 者 が 出 る と 供 養 し 合 っ た こ と が 分 る。 写 真(17) 写 真(18) そ の 他 の 講 と し て、 資 料(一六)、(一七) に 示 し た 庚 申 碑 が あ る。 明 暦 元 年 ( 一 六 五 五) の は、 ﹁ 為 庚 講 一 結 衆 逆 修 也 ﹂ と あ り、 長 算 以 下 九 人 の 僧 名 が 刻 し て あ る。 元 禄 二 年 (一六 八 九) の は、 ﹁奉 供 養 庚 申 講 結 衆 中 為 同 証 菩 提 也 ﹂ と あ り、 快 仙 以 下 十 四 名 の 僧 名 が 刻 し て あ る。 共 に 石 柱 型 で あ り、 講 の 目 的 も 減 罪 往 生 に あ っ た。 と こ ろ で、 こ の 講 と 光 明 講 と の 関 係 で あ る が、 庚 申 講 は 時 代 的 に 先 行 し て い る。 し か し、 そ の 講 の 性 格 か ら、 こ れ が 三 昧 聖 の 中 心 的 性 格 の も の で あ っ た と は 考 え に く く、 又 元 禄 碑 中 の 快 恵 は、 奥 之 坊 の 僧 と 考 え ら れ る。 と す る と 光 明 講 に も そ の 名 が 認 め ら れ、 有 志 の 光 明 講 と は 平 行 的 存 在 の も の で は な か っ た か と 考 え ら れ る。 と に か く、 こ の 講 の 供 養 碑 も、 奥 院 に は 他 に 一 基 も 見 当 ら な か っ た。 元 来 庚 申 信 仰 は、 修 験 等 の 庶 民 的 宗 教 者 の 厚 く 信 仰 し た も の で あ り、 こ の 点 か ら、 三 昧 聖 の 庶 民 的 信 仰 傾 向 が 指 摘 さ れ 得 る と 考 え る。 次 に 信 仰 面 で 特 色 あ る 供 養 碑 を さ ら に 二 基 だ け で あ る が 見 写 真(19) 出 し た。 そ れ は、 資 料(一八) に 示 さ れ る 不 食 供 養 碑 で、 自 然 石 ( 五 ○セ ン チ 位 い の 高 さ) に 刻 し た も の で あ る。 元 禄 四 年 ( 一 六 九 一) の 秋 の 彼 岸 に、 ﹁ 奉 供 養 不 食 ﹂ の 為 に 建 立 さ れ た も の で、 貞 誉 ・ 於 弥 の 男 女 名 が 刻 さ れ て あ る。 こ の ﹁ 不 食 ﹂ と は 一 体 何 を 示 す の か、 明 か で な い。 こ の 点 に つ い て、 奥 村 隆 彦 氏 に、 こ の 種 の 碑 は、 大 阪 府 下 で は 和 泉 山 脈 の 付 近 に 多 く 存 在 し、 九 度 山 慈 尊 院 境 内 に も あ り、 女 性 を 主 体 と す る も の で あ る 由、 御 教 示 を 得 た。
そ の 内 容 は ま だ 解 明 さ れ て い な い が ﹃ 高 野 山 文 書 第 拾 壱 巻 旧 高 野 山 領 内 文 書 口 ﹄ の 三 六 九 ﹁ 不 食 ノ 日 記 事 ﹂ に、 月 に 一 日 定 め ら れ た 断 食 の 目 が あ り、 ヨ ノ 行 ヲ 月 一二 日 ツ ヽ 三 年 三 月 ケ タ イ ナ ク ス レ バ、 現 世 安 ノ ン 後 世 成 佛 ス ル コ ト ウ タ ガ イ ナ シ ﹂ と あ る。 恐 ら く 本 講 に 関 す る 文 献 で あ ろ う。 な お 慈 尊 院 の 分 も 未 だ 紹 介 さ れ て い な い し、 し か も 不 食 関 係 で は す ぐ れ た 碑 だ と 考 え ら れ る の で、 資 料(一九)、(二〇) と し て 紹 介 し て お く。 写 真(20) (一八) は、 明 暦 二 年 ( 一 六 五 六) の も の で、 光 明 真 言 が 上 部 の 図 内 に 刻 ま れ、 ﹁ 為 不 食 講 結 衆 中 逆 修 善 根 也 ﹂ と あ る。 そ し て、 於 亀 以 下 四 十 七 名 の 俗 名 の 女 性 名 が 刻 し て あ る。 こ れ に よ り、 女 性 の 講 で あ り、 滅 罪 と 往 生 を 願 う 性 格 の も の で あ っ た。 写 真(21) 写 真(22)(23) (二〇)、(二一) は、 寛 文 九 年 (一 六 六 九) と 元 禄 九 年 の も の で あ る が、 不 食 と 念 仏 の 両 講 が 協 同 し て 建 立 し た 名 号 碑 で あ る。 こ の 場 合、 念 仏 講 に は 男 子 が 多 く、 そ の 中 に は 法 名 と 俗 名 の 二 層 が 認 め ら れ る。 法 名 の 者 は、 受 戒 を 受 け た 者 と 考 え ら れ る。 な お、 男 子 名 側 に 多 少 の 女 子 俗 名、 又 逆 に 女 子 側 ( 不 食 側) に 男 子 俗 名 が 混 入 し て い る の は、 疑 問 に な る。 特 に 念 仏 講 側 の 男 子 法 名 の 中 に、 例 え ば 妙 順、 妙 久 の よ う な 女 性 法 名 と 思 わ れ る の も あ り、 こ の 点、 講 自 身 の 中 に も、 多 少 交 流 が あ っ た か と 考 え ら れ る。 マ マ マ そ し て、 同 寺 境 内 に は、 文 禄 四 年 ( 一 六 九 六) の ﹁ 慈 尊 院 陸 済 念 仏 結 衆 逆 修 也 ﹂ と 刻 ん で 名 号 碑 が あ り 男 子 法 名、 俗 名 が 多 く 刻 ま れ て あ る。 つ ま り 慈 尊 院 村 に は 六 斎 念 仏 が あ っ た の で あ り そ の 頃 は 男 子 だ け の も の で あ っ た の で あ る。 こ の 点 か ら 考 え る 時、 慈 尊 院 村 に は、 男 子 の 六 斎 念 仏 講、 女 子 の 不 食 講 が あ り、 後 に こ れ が 交 流 す る よ う に な っ た も の と 考 え ら れ る。 こ う 考 え る と、 六 斎 念 仏 は、 男 子 の 成 年 層 の 講 で あ る の で、 或 い は、 不 食 講 は、 女 子 の そ れ に 当 る 組 織 か と も 考 え る。 こ れ も 慈 尊 院 に も 資 料 は な く、 明 確 に 仕 得 な い。 又、 建 立 し た 日 も、 正 御 影 供、 春 秋 の 彼 岸 の 中 日 で あ り、 定 期 的 な 年 中 行 事 と し て 講 の 行 事 を 行 っ て い た の で あ る。 こ う し た 考 え で 高 野 山 の 唯 一 例 の 不 食 碑 を み る と、 秋 の 彼 岸 に 行 を 行 っ た 於 祢 と 言 う 女 性 に 対 し、 そ の 供 養 の 為 三 昧 聖 の 貞 誉 が、 高 野 山 へ 碑 を 建 立 し た も の と 解 釈 さ れ る。 註(20) そ の 他、 ﹁ 宿 坊 芝 之 坊 ﹂ が 建 立 し た ﹁ 土 砂 加 持 供 養 塔 ﹂ が、 一 基 だ け だ が 認 め ら れ た。 こ れ も 奥 院 全 体 で 今 の と こ ろ こ の 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 一 基 の み し か 見 出 し て い な い。 資 料(二二) と し て 紹 介 し て お く。 し か し、 こ れ は 別 段 三 昧 聖 の 特 色 と は 関 係 あ る も の と し て 取 上 げ る べ き 性 質 の も の で は な い。 次 に 弘 法 大 師 御 遠 忌 の 碑 が 多 い。 天 明 四 年 の 九 百 五 十 回 忌 の を 西 之 坊 宗 玄 が 建 立 し、 次 の 天 保 五 年 の 一 千 年 忌 の は、 西 之 坊 宥 伝、 角 之 坊 組 中、 菊 之 坊 が 建 立 し て い る。 な お、 自 然 石 の 一 面 に 九 百 五 十 年 忌、 そ の 裏 面 を 利 用 し一 千 年 忌 を 組 中 で 刻 し て い る も の、 又 前 記 し た 中 央 部 に 何 時 の 御 遠 忌 か は 記 し て な い が、 三 昧 聖 全 体 で 建 立 し た も の も あ る。 こ れ も、 他 の 学 侶、 行 人 墓 に は、 僧 侶 達 が 自 分 達 で 建 立 し た も の は、 先 づ ご く 僅 か で あ る。 三 昧 聖 だ け が こ の よ う に 多 い の ぱ こ れ を 如 何 に 解 釈 す べ き で あ ろ う か。 以 上 信 仰 面 の 考 査 は 終 え、 組 織 的 な 面 を 分 る 範 囲 ま と め た い。 先 づ 資 料 日 に よ る 図 表 で あ る が、 供 養 碑 銘 よ り 各 坊 の 存 続 期 間 が 示 さ れ る。 勿 論 建 碑 を 初 め た 時 期 の 問 題 が あ り、 上 限 は 明 確 に 捉 え る こ と は 出 来 な い。 例 え ば、 上 之 坊 以 外 は、 槙 之 坊、 福 嶋 坊、 松 之 坊、 東 之 坊、 奥 之 坊、 西 之 坊、 竹 之 坊、 角 之 坊 は、 早 い 時 期、 つ ま り 一 七 〇 〇 年 頃 か ら 初 ま っ て お る。 こ の 一 七 〇 〇 年 と い う の は、 全 国 的 に 建 碑 の 普 及 し た 時 期 で あ り、 そ れ 以 前 か ら 続 い て き て い る と 考 え ら れ る。 そ し て 一 七 五 〇 年 以 後 に 見 出 せ る の は、 一 応 一 七 〇 〇 年 以 後 の 建 立 と 考 え る べ き で あ ろ う。 さ ら に、 池 之 坊 等 一 代 限 し か 認 め ら れ な い も の も 五 坊 あ る が、 多 く は 数 代 乃 至 数 十 代 続 い て、 割 方 長 く 存 続 し て い る。 こ の 中 で、 文 化 六 年 ( 一 八 〇 九) に 寂 し た 阿 閣 梨 真 晃 の 碑 に は、 ﹁ 笹 本 坊 元 祖 ﹂ と あ り、 他 に 二 代 秀 政 が 父 母 供 養 の 為 に 建 碑 し て お り、 二 代 限 り だ と 考 え ら れ る。 こ れ は、 銘 文 よ り そ の 始 り が 分 る 唯 一 の 例 で あ る が、 こ の よ う に 短 命 の も の も あ っ た の で あ る。 大 体、 興 亡 は あ り つ つ も、 一 入 三 〇 年 頃 ま で は ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ に も あ る よ う に、 常 に 二 十 数 院 を 存 続 さ せ て い た が、 そ の 後 は 急 速 に 減 じ、 明 治 維 新 ( 一 八 六 六) を (越 え た も の は 九 院 の み で、 さ ら に 現 存 ( 昭 和 四 十 七 年 現 在) し 独 立 し て 存 在 し て い る も の は、 奥 之 坊、 角 之 坊 の み で あ る。 こ の 明 治 維 新 の 際 に は、 山 上 の 他 院 に 合 併 さ れ た も の も あ る と 云 わ れ、 こ れ も 今 後 追 跡 調 査 を す る 必 要 が あ る。 明 治 初 年 に 他 の 山 上 寺 院 同 様 打 撃 を 受 け た こ と は、 東 之 坊
註(21) 快 本 ( 大 正 三 年 寂) の 碑 銘 に も 記 さ れ て い る と こ ろ で あ る が、 同 師 の 調 し た ﹃ 奥 之 坊 過 去 帳 ﹄ の 序 文 に、 ﹁ 明 治 維 新 の 変 遂 二 各 坊 離 散 殆 ン ト 十 数 ケ 院 二 減 セ シ モ ノ、 次 テ 明 治 二 十 一 年 ノ 春 池 魚 の 災 ヒ 全 山 ヲ 焼 土 ト ナ シ、 我 力 谷 モ 殆 ン ト 一 宇 ヲ 止 メ ズ ( 中 略) 当 時 二 三 ノ 同 志 ト 相 謀 リ、 聯 力 旧 態 ノ 悌 ケ ヲ 保 持 ス ル ヲ 得 タ ル モ、 再 ヒ 往 時 ノ 盛 観 二 復 シ 難 シ、 只 僅 カ ニ 奥 ノ 坊 東 ノ 坊 二 宇 ヲ シ テ 再 営 ス ル ノ ミ ﹂ と あ る。 明 治 維 新 の み な ら ず 火 災 に よ る 人 災 も 加 わ っ て 俄 か に 衰 退 し た の で あ る。 他 坊 と の 交 流 も 盛 ん で あ り、 師 弟 関 係、 他 坊 僧 の 供 養 碑 の 建 立 等 に こ れ が 認 め ら れ る。 そ し て、 こ の 関 係 は、 光 明 講 等 に よ る 境 界 は 全 く な く、 全 般 に わ た っ て い る。 つ ま り、 全 体 に 仲 間 意 識 が 強 か っ た と 言 え る。 次 に 僧 階 ( 位) で あ る が、 坊 主 の 経 験 者 は 殆 ん ど 阿 闇 梨 位 を 称 し て い る。 次 い で 大 法 師、 権 大 僧 都、 法 印、 権 少 僧 都 等 も 認 め ら れ る が、 一 七 〇 〇 年 頃 に は、 先 づ 権 大 僧 都、 法 印 を 称 し て い る 者 が 多 く、 次 第 に 阿 闇 梨 位 が 多 く な っ て い る 〇 弟 子 は 多 く 大 法 師 で、 二、 三 法 師 の も あ っ た。 僧 階 に つ い て も、 後 に 詳 し く ま と め た い が、 大 体 形 式 は 学 註(22) 侶 等 と 同 様 の よ う で あ る が、 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ に ﹁ 俗 に い ふ 隠 亡 筋 目 の も の を 剃 て 此 窯 に 入 る ﹂ と あ り、 俄 僧 侶 の 半 僧 半 俗 的 性 格 の 者 が 多 か っ た と 考 え ら れ る。 こ の 点 注 意 す べ き 記 述 が、 前 出 奥 之 坊 過 去 帳 に 見 出 さ れ る。 大 法 師 快 本 の 項 に 明 治 三 十 九 年 七 月 二 七 日 補 十 五 等 教 師 拝 命 ス、 東 谷 往 昔 ヨ リ 今 二 至 迄 金 剛 峯 寺 ヨ リ 表 面 ノ 位 ハ 古 今 未 曽 有 也 と あ る。 つ ま り、 形 式 は 一 般 学 侶 等 と 同 じ で も、 そ れ は 公 認 の も の で は な か っ た よ う で あ る。 そ の 発 行 す る 所 も、 師 匠 寺 遍 照 光 院 等 が 先 づ 考 え ら れ る が、 こ れ も 今 後 の 追 求 課 題 で あ る。 次 に、 そ の 性 格 で あ る が、 半 僧 半 俗 的 性 格、 同 族 意 識 が 強 い 点 が 碑 文 よ り も 窮 え る。 先 づ 資 料(二四) で あ る が、 (銘 文 そ の も の が 無 学 を 示 し て お り、 先 祖 代 々 及 び 父 母 の 供 養 の 為 に 建 て ら れ た も の で あ る が、 ﹁俗 名 武 兵 衛 教 圓 法 師 ﹂ と あ る 点 注 意 さ れ る。 こ の よ う に 半 俗 半 僧 的 性 格 を 端 的 に 示 す 事 例 は 少 な い が、 資 料(二五)、 に 示 す 同 族 意 識 の 強 い 例 は 数 多 く み ら れ、 他 の 学 侶 等 に は 僅 か し か 認 め ら れ ず、 そ の 特 色 と 言 え る。 園 は、 南 之 坊 の 弟 子 良 秀 の 供 養 碑 で あ る が、 そ れ に 同 時 に そ の 父 母 の 戒 名 ま で 刻 し て 同 じ く 往 生 を 願 っ て い る。 こ う し 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 高 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 た 例 は 他 に も 認 め ら れ 学 侶 等 の 場 合、 こ の よ う な 極 端 な の は 先 づ 見 当 ら な か っ た。 (二四) の 場 合 も、 父 母 の 戒 名 だ と 推 定 さ れ る し、(二六) の 場 合 も、 普 通 で あ れ ば、 僧 侶 と し て は 有 縁 無 縁 一 切 法 界 等 の 句 を 付 す の が 多 い の に、 ﹁ 二 親 春 属、 兄 弟 一 門 ﹂ と し か 刻 し て な い。 又、 奥 之 坊 の 過 去 帳 に し て も、 ﹃ 奥 之 坊 菊 本 坊 梅 本 坊 福 本 坊 俗 縁 過 去 法 名 簿 ﹄ と な っ て お り、 俗 縁 を 重 ん じ て い る。 次 に 問 題 に な る の が、 出 身 地 で あ る。 供 養 碑 中、 そ の 出 身 地 の 刻 ん で あ る も の 五 十 一 基 を 認 め た が、 内 詳 は、 和 州 二 十 五、 紀 州 二 十 四、 泉 州、 信 州 一 で、 先 づ 大 和 と 紀 州 と で 占 め て い る と 言 っ て よ い。 こ の 中、 よ く 出 て 来 る 地 名 を 記 す と、 和 州 宇 智 郡 ( 五 条) 二 見 村、 菊 本、 菊 本、 角、 角、 北 紀 州 伊 都 郡 胡 麻 生 邑 北、 角、 涌 紀 州 牟 婁 郡 切 畑 村 奥、 東、 東 紀 州 伊 都 郡 渋 田 村 北、 東、 東 和 州 十 市 郡 栗 塚 村 西、 岸 本、 岸 本 和 州 添 上 郡 大 安 寺 村 西、 西、 乾 紀 州 那 賀 郡 西 坂 本 中 尾 南、 杉 紀 州 伊 都 郡 加 勢 田 村 梅 中、 槙 紀 州 伊 都 郡 天 野 村 市 場 梅 中、 梅 中 和 州 吉 野 郡 永 井 村 西、 西 和 州 平 群 郡 相 持 寺 村 北、 北 以 上 で あ る が、 同 一 の 地 よ り 同 一 の 坊 に 住 す る 者 が 非 常 に 強 い 傾 向 を 示 し て い る が、 こ れ は 同 郷 者 を 引 く 意 識 の 強 い こ と を 示 し て い る。 そ し て、 五 条 の 二 見 の 場 合 は、 明 ら か に 同 じ 三 昧 聖 同 志 で 行 き 来 し て お り、 元 来 こ の 派 は 同 類 間 で 姻 戚 関 係 を 結 ぶ の を 原 則 と し て い る が、 そ の 傾 向 を、 こ の 山 で も 見 出 す の で あ る。 恐 ら く、 紀 州、 大 和 の 同 類 の 人 々 が 往 来 し て い た も の と 考 え ら れ る。 こ の 場 合、 地 方 で は 妻 帯 し て い る の が 普 通 で あ る が 高 野 山 の 聖 の 場 合 に は、 供 養 碑 か ら は こ れ を 見 出 す こ と が 出 来 な か っ た。 妻 を 山 下 に 置 い て い た か、 或 い は 高 野 山 で は 僧 席 に 入 る と い う の で、 妻 帯 し て い な か っ た か、 今 後 の 調 査 が 必 要 で あ る。 い ず れ、 こ れ (等 の 点 は、 高 野 の 聖 と 関 連 あ る 各 地 の 三 昧 聖 を 調 査 す る こ と に よ り、 明 ら か に せ ね ば な ら ぬ。 次 に 供 養 碑 の 中 で 注 意 さ れ る の が、 大 名 の も の で あ る。 資
料(二七)、(二八) で あ り、 毛 利 御 代 々 の 為 に 水 本 坊、 南 部 御 代 々 の 為 に 岸 本 坊 が 建 立 し て い る。 因 み に 奥 之 坊 本 堂 に は、 現 在 で も、 吉 川 家 越 前 守 殿、 本 多 家、 南 部 大 膳 大 部 家、 松 平 下 総 守 家 の 位 碑 が 杞 っ て あ る。 と こ ろ で、 こ れ ら 各 大 名 に 対 し て で あ る が、 三 昧 聖 の 各 坊 が 宿 坊 と し て の 関 係 を 持 っ て い た と は 考 え ら れ ぬ。 そ れ は 前 記 二 基 の 供 養 碑 か ら も 明 ら か で、 も し 宿 坊 で あ れ ば ﹁ 宿 坊 水 本 坊 ﹂ を 必 ず 刻 し て あ る 筈 で あ る。 こ の 点 ﹃ 北 之 坊 過 去 帳 ﹄ の 御 大 名 方 の 項 に、 資 料(二九) に 掲 げ た 記 述 が あ る。 即 ち、 駿 州 沼 津 城 主 水 野 家 の 墓 を 文 化 二 年 に 建 立 し た の で あ る が、 ﹁ 三 回 忌 二 付 壱 丈 御 石 碑 御 建 立 也 ﹂ で、 ﹁ 尤 西 坂 本 中 尾 産 ﹂ と は、 そ の 石 塔 の 産 地 を 示 し て い る と 考 え ら れ る。 と す る と、 北 之 坊 宗 純 の 時、 こ の 石 碑 建 立 に 携 わ っ た も の と 考 え ら れ る。 又 同 じ 項 に、 文 化 入 末 年 正 月 二 十 日 御 寂 久 近 院 殿 御 命 日 当 山 二 而 御 葬 送 有 之 北 之 坊 現 住 等 海 時 と あ り、 そ の 葬 送 に も 従 事 し て い る。 又 ﹃ 東 之 坊 過 去 帳 名 簿 ﹄ に も、 嘉 永 六 年 四 月 二 十一 日 奉 為 阿 波 守 様 暦 代 御 菩 提 也 阿 波 守 様 御 隠 居 様 四 月 十 八 日 御 登 山 ノ 節 然 為 報 恩 位 碑 立 之 と あ り、 又 前 記 奥 之 坊 本 堂 の 作 茄 津 山 松 平 三 河 守 御 先 祖 代 々 の 位 碑 裏 に も、 ﹁ 奉 作 州 侯 御 歴 代 為 冥 加 具 夕 謹 以 香 花 供 焉 ﹂ の 銘 文 が 見 ら れ る。 現 在 で も、 位 碑 を 供 へ て 供 養 を 願 う に は、 日 碑、 月 碑 料 を 納 め な け れ ば な ら ず、 元 禄 二 年 調 奥 之 坊 の ﹃ 過 去 現 在 帳 ﹄ に は そ の 序 文 に 日 月 碑 の 証 文 の 文 を 載 せ、 ﹁ 今 日 碑 井 月 碑 造 立 之 回 向、 至 五 十 六 億 七 千 万 歳 三 会 暁 毎 月 毎 日 之 御 回 向 不 可 有 憐 怠 者 也 ﹂ と 記 し て あ る。 即 ち、 日 月 碑 料 を と っ て、 希 望 す る 者 に は 回 向 す る 宗 教 活 動 も 行 っ て い た の で あ る。 そ し て、 資 料 日 の 古 図 の 塔 婆 二 基 も こ の 為 に 建 立 さ れ た も の だ と 解 せ ら れ る。 そ こ で、 こ う し た 大 名 ば か り で な く、 各 過 去 帳 を 見 る と、 信 徒 の 戒 名 も 出 て く る。 今 こ の 奥 之 坊 の 過 去 現 在 帳 を 見 て も 紀 州 を 主 体 と し て で は 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 一口同 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 あ る が、 多 く の 信 徒 の 戒 名 が 出 て く る。 し か し そ の 住 所 を 見 る と、 辺 土 村、 安 楽 川、 日 高 村、 切 畑 村、 御 山 村、 加 勢 田 等 々 奥 之 坊 の 住 僧 が 多 く 出 身 し て い る 地 名 が 出 て 来 る。 即 ち、 信 者 そ の も の も、 同 じ 仲 間 の 人 々 を 主 体 と し て い た よ う に 考 え ら れ る。 以 上、 三 昧 聖 に つ い て 一 応 ま と め 終 っ た。 ' 高 野 山 の 三 昧 聖 は、 新 坊 又 は 谷 の 者 と 呼 ば れ、 一 ノ 橋 に 近 い 東 谷 ( 新 坊 谷) に 一 郭 を な し て 住 居 し て お っ た。 そ の 機 能 は、 葬 式、 山 上 の 法 会 の 時 の 警 固、 各 寺 の 夜 番、 石 塔 造 り、 石 垣、 土 蔵 (等 の 工 事 に 携 わ っ て い た。 し か し、 そ の 起 源 は 明 か で な く、 ﹁ 谷 の 者 ﹂ と い う 名 称 が 見 出 さ れ る の は、 今 の と こ ろ 慶 長 七 年 の ﹃ 高 野 山 文 書 第 五 巻 金 剛 三 昧 院 文 書 三 六 〇 ﹄ の ﹁ 谷 之 者 條 々 掟 書 案 ﹂ で あ り、 特 に 近 世 に み ら れ る 差 別 は 何 時 生 じ た か 研 究 の 要 が あ る。 三 昧 聖 は 行 基 菩 薩 及 び 聖 武 天 皇 と 尊 ぶ こ と は、 他 地 区 の と 同 様 で あ る が、 高 野 山 で は 特 に 頼 慶 を 法 流 の 祖 と し、 そ の 住 院 遍 照 光 院 を 師 匠 寺 と 仰 い で い る が、 こ の 関 係 も、 さ ら に 追 求 す る 必 要 が あ る。 信 仰 面 で は、 光 明 講 を 主 体 と し、 光 明 真 言 に 対 す る 信 仰 が 中 心 で あ っ た よ う で あ り、 そ の 他 庚 申 講 も あ り、 そ の 庶 民 的 傾 向 が 窮 わ れ る。 又、 た だ 一 基 で あ る が、 不 食 供 養 碑 が あ っ た が、 こ の 講 に つ い て も、 今 後 解 明 の 必 要 が あ る。 組 織 的 に は、 二 千 八 百 三 十 年 頃 ま で は、 常 に 二 十 数 坊 が 存 在 し て い た の で あ り、 そ の 後 減 少 し、 明 治 維 新 の 時 に は 十 坊 前 後 に な っ て い た。 明 治 維 新 に は、 他 の 山 上 の 寺 院 と 同 様 苦 境 に 立 ち、 さ ら に 同 二 十 一 年 の 大 火 に よ り 打 撃 を 受 け、 現 在 で は、 単 独 で は 奥 之 坊、 角 之 坊 が そ の 姿 を 残 し て い る だ け で あ る。 僧 階 は、 阿 閣 梨 位、 さ ら に 権 大 僧 都、 権 少 僧 都、 大 法 師、 法 師 等 が 見 ら れ 一 見 一 般 学 侶 等 と 同 様 で あ る が、 公 認 の も の で は な か っ た よ う で あ る。 こ の 点、 如 何 な る 仕 組 に な っ て い た か、 今 後 調 査 の 必 要 が あ る。 仲 間 意 識 が 強 く、 さ ら に 同 族 意 識 も 非 常 に 強 か っ た。 僧 と し て は 半 俗 半 僧 的 存 在 で あ り、 そ れ は 諸 国 の 隠 坊 が 山 に 来 た 時、 こ れ を 出 家 さ せ て 住 居 さ せ た と い う 記 述 か ら も 窺 え る。 同 族 意 識 の 強 い の は、 父 母 等 を 供 養 す る 意 識 が 特 に 強 く 表 わ れ て お り、 又 そ の 出 身 も 近 畿 地 区 の 同 類 か ら と 考 え ら れ、 さ ら に 信 者 そ の も の も、 大 名 を 除 く と、 そ の 傾 向 が 強 い。
宿 坊 制 度 は と ら な か っ た が、 日 碑 月 碑 の 回 向 料 を と り 死 者 の 供 養 を す る 宗 教 活 動 は 行 っ て い た。 各 地 と の 三 昧 聖 と の 交 流 が 密 で あ っ た 点、 そ の 関 係、 又 そ の 聖 達 は 妻 帯 し て い た か と 思 わ れ る が、 そ れ と の 差 異 等、 今 後 調 査 を 必 要 と す る。 又 奥 之 坊、 角 之 坊 に は 本 堂 も 現 存 し 文 献 類 も 残 っ て い る 筈 で あ る。 既 に 奥 之 坊 の 分 は 調 査 さ せ て も ら い、 東 大 寺 関 係 を 強 調 す る 文 献 を 見 て い る が、 今 後 検 討 を し た い。 こ の 他、 葬 式 に 関 与 し た も の、 寺 の 工 事 関 係、 石 塔 関 係 等 の 文 献 を 求 め て、 さ ら に そ の 機 能 を 詳 し く す る 必 要 が あ る。 (3) 禿 法 師 註(23) ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ に よ る と、 皆 癩 人 な り、 よ り て 住 居 の 処 を 癩 病 庵 と て 蓮 華 谷 の 東、 大 河 の 南 岸 に 阿 弥 陀 堂 あ り、 ( 中 略) 弘 法 大 師 業 病 の も の を 隣 慰 し て 阿 弥 陀 仏 一 躯 を 彫 刻 し 念 仏 の 法 を 授 給 ひ て 阿 弥 号 を も 許 し 給 ふ。 其 後 同 病 の も の 相 集 て 日 夜 念 仏 俄 悔 し て 往 生 を 祈 り け る に、 中 頃 明 遍 上 人 て ふ 念 仏 の 智 識 蓮 花 谷 に 栖 息 し 給 ひ け れ は、 彼 上 人 の 法 化 に 浴 し て 終 に 蓮 花 三 昧 院 の 指 命 に 随 ひ 奉 る と あ り、 又、 一 人 は 高 野 山 に 召 具 し 給 ひ て 金 剛 草 履 を 作 り て 売 ら し め 給 ふ。 今 に 奥 院 に 草 履 小 屋 あ り と い ふ。 此 党 は 夏 冬 と な く 頭 巾 を 著 す。 其 形 四 角 に て 頂 上 を は 四 辺 よ り 畳 て 綴 付 た り と あ る。 以 上 で、 禿 法 師 の 概 略 が 分 る と 思 う が、 資 料(一〇) の 古 図 に も 示 さ れ る よ う に、 阿 弥 陀 堂 横 に 庵 を 結 び 住 し て い た。 さ ら に、 こ れ に あ ふ れ た 者 は、 奥 院 路 辺 小 桐 の 内、 西 口 ( 大 門 方 面) 五 拾 町 雫 の 桟 道 の 下、 一 心 院 口 岩 不 動 桟 続 の 下 ( 不 動 坂) の 三 箇 所 に 乞 食 を し て い た と い う。 と こ ろ で、 癩 病 庵 に 住 し て い た 者 達 は、 蓮 華 三 昧 院 の 差 図 を 受 け、 服 装 も 独 自 の も の を 定 め ら れ、 奥 院 で 草 履 を 売 り 又 毎 朝 塗 橋 以 東 の 寺 院 の 霊 供 膳 の お 下 り を 載 き、 そ の 代 り 掃 除 を す る と い う、 或 る 程 度 の 生 活 の 保 障 を 受 け て い た の で あ る。 そ し て、 信 仰 面 で も 阿 弥 号 を 許 さ れ て い た。 現 在、 こ の 阿 弥 陀 堂 は 奥 院 墓 地 内 の 御 澱 川 縁 に あ り、 中 に 阿 弥 陀 如 来 と 不 動 尊 が 杞 ら れ て あ る。 そ し て、 そ の 周 囲 に 約 三 十 基 の 阿 弥 号 供 養 碑 が 群 が っ て お る。 弥 陀、 地 蔵、 弘 法 大 師 碑 等 が あ り、 大 体 五 十 セ ン チ 内 外 の 小 型 の も の で あ る。 こ 奥 院 石 塔 を 中 心 と す る 一朗回 野 山 信 仰 の 諸 問 題 ( 其 の 一)
密 教 文 化 の 阿 弥 号 碑 は、 先 づ 奥 院 全 体 か ら 言 っ て も、 ご く 稀 に 見 出 す 可 能 性 は あ る と し て も、 集 団 的 に あ る の は 此 の 所 だ け で あ る。 こ の 阿 弥 号 は、 元 来 念 仏 系 の 遁 世 者 に 与 え ら れ た 法 号 で 中 世 よ り 初 ま っ た が、 宗 派 と し て は 時 宗 に 取 り 入 れ ら れ、 非 常 に 一 般 化 さ れ た 法 号 で あ る。 そ し て こ の よ う に 念 仏 系 信 仰 者 の 下 層 の 者 に 付 け ら れ て い る 例 も 多 い。 因 み に、 高 野 山 で は 重 源 を は じ め 真 別 所 に 阿 弥 号 聖 者 が 住 居 し た 時 代 で あ る が、 現 在 の 同 所 墓 地 は、 律 院 化 し た 後 の も の で、 阿 弥 号 碑 は 一 基 も 見 当 ら な か っ た。 さ て、 阿 弥 陀 堂 の 阿 弥 号 碑 で あ る が、 三 十 基 の 内、 上 限 が 写 真(24) 写 真(25) 宝 永 七 年 ( 一 七 一 〇) の 地 蔵 碑 と 正 徳 二 年 ( 一 七 一 二) の 弥 陀 碑 で あ り、 文 久 三 年 ( 一 八 六 三) の 地 蔵 碑 で 終 っ て い る。 こ の 三 者 は 船 型 の 板 碑 に 陽 刻 さ れ た も の で あ る。 こ れ ら を み る と、 三 昧 聖 達 よ り や や 遅 れ た 江 戸 中 期 に 初 ま り、 同 末 ま で 続 い て い る こ と が 分 る。 先 づ 仏 菩 薩 の 種 類 に 名 号 碑 も 加 え て、 そ の 信 仰 を み る と、 弥 陀 像 二、 名 号 三、 地 蔵 像 四、 弘 法 大 師 像 一 と な り、 弥 陀 の 信 仰 も 強 い が、 絶 対 の も の で は な く、 地 蔵 信 仰 も こ れ に 対 比 す る 程 強 く、 大 師 信 仰 も あ る。 つ ま り、 弥 陀 を 念 じ な が ら、 そ の 他 の 信 仰 も 受 け 入 れ て い た の で あ る。 こ の 点、 堂 内 の 不 動 尊 像 も 注 意 す る べ き で あ る。 次 に 注 目 さ れ る の が、 こ の 中 に 位 階 が あ っ た よ う に 考 え ら 写 真(26) れ る も の で、 明 和 九 年 ( 一 七 七 二) 寂 の ﹁ 慨 二 老 手 阿 弥 霊 ﹂ 碑 写 真 鋤 以 降 は 天 明 八 年 ( 一 七 七 二) の ﹁ 烈一 蕩 法 阿 弥 霊 ﹂ 以 下 一 繭 ( 老) 乃 至 は 二 老 が 多 く 付 け ら れ て い る。 そ し て 最 も 下 る 文 久 三 年 の 地 蔵 碑 に は、 ﹁ 法 印 証 心 霊、 阿 州 小 賀 郡 立 口 村 栄 竜 伜 ﹂ と あ る。 法 印 号 ま で 江 戸 末 期 に は 許 さ れ た の か、 又 は ﹁ 栄 竜 伜 ﹂ と あ り、 宗 教 者 の 息 子 で あ る の で そ の 点 で 付 せ ら れ た の か 疑 問 で あ る。 さ ら に、 癩 者 以 外 の 人 の 碑 の 混 入 か と も 疑 わ れ る。 と に か く 唯 一 例 し か 認 め ら れ な い 点 か ら も、 こ れ を 除 い て 考 え る と、 明 和 の 頃、 こ の 一 派 が 一 段 と 組 織 づ け ら れ た の で は な い か と 考 え ら れ る の で あ る。 又 は 一 段 格 式 化 さ れ た の か も し れ な い。 ﹁ 薦 ﹂ と 言 え ば、 元 来 僧 席 に 入 っ た 年 次 を 示 す 語 で あ る が、 こ の 一 薦 ( 老) と 二 老 と に よ り、 一 派 が 統 率 さ れ た の で は な い か と 考 え る の で あ る。 な お、 こ の 老 位 の も の が 後 半 の 殆 ん ど を 示 め、 唯 の 阿 弥 号 碑 が 数 少 な い 事 実 は、 こ の 一 派 の 中 で も 建 碑 出 来 る 者 は、 非