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トリール大司教領国における城塞と領域政策(1)

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(1)

トリール大司教領国における城塞と領域政策(1)

著者 桜井 利夫

雑誌名 金沢法学 = Kanazawa law review

巻 38

号 1・2

ページ 53‑116

発行年 1996‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/2297/18593

(2)

トリール大司教領国における城塞と領域政策(-)

(1)

中世の城塞は村落や都市と並ぶ第一二の定住形態であり、教会と共に中世に決定的な影響を与え、中世を古代と

(2)

近代から鋭く区別する重要な要素である。定住地の量的展開に着目するならば、C・ティルマン0.9---p〕四目の

(3)

『ドイツの城塞と城館の百科事典』は一九、○○○の城塞を収載し、父どらに中世ドイツ語圏の城塞の数をH・ク

(三)経過(以上本号)四第二次シュミットプルガー・フェーデ五第三次シュミットプルガー・フェーデ六結語 二大司教パルドゥインと文轡主義三第一次シュミットブルガー・フ 内容

一一 第一次シュミットブルガー・フェーデ

トリール大司教領国における城塞と領域政策(二

前史経過 はじめに

桜井利夫

53

(3)

ンストマン西・尻目⑩【日口目は一一五、○○○、H・M・フォン・アウフゼス函・更[・ぐ○ロシロ厨(出、とH・プレテイ ヒァ国国のごngは約一○、○○○であると推定してい斑。日本における城塞史研究は野崎直治氏をもって塙矢と することに異論はないと思われるが、氏は中世ドイツ語圏の城塞の数を約一○、○○○と推定しておられる・こ

(5)

のように、中世ドイツ語圏に存在した城塞の数は、論者の推定に相違はあれ、少なくとりも一○、○○○を下回ら ないと考えて大過ないであろう。これに対して、ドイツ語圏における中世都市の数をK・ビューヒアー【・国号冨『

(6)(7)

が約一二、○○○と推定して以来、この数が一般的に承認されているように思われる。したがって、城塞は都市よ りも遙かに広範な分布を示していたことになる。それにもかかわらず、城塞の本格的な歴史的研究は、ドイツ史 とドーィッ法制史に限って言えば、ドイツと日本の両国において著しく未開拓なままに残されている分野であると 一一旨わなければならない。このことを、ドイツにおける本格的な城塞史研究の開始が漸く第一次世界大戦後である (8){胆) のと同時にその盛行が第二次世界大戦後であることと、日本ではドイツ語圏の研究成果が最近になって初めて紹

(9)

介の緒に就いたという事情が明確に一不している。ドイツの歴史学と法制史学における城塞史研究の立ち遅れの背 景として、|つには、城塞研究は一九世紀のロマン主義の生みの子であったために、戦間期まで歴史的考察方法

(皿)

よりも建築学的美術史的考察方法が、圧倒的優位に立っていた事情と、他方では「中‐世の政治はすぐれて城塞政 策であっ範」と一一言われるごとく、城まはへルシャフトの最奥の核心をなす故に、都市や村落と異なり総じてゲノッ センシャフトののロ・段淵貝門富津的な組織形式を生みだすことがなかったという事情に求められよう。 この状況の中で、同時に、城塞は領国形成過程においていかなる役割を果たしたのかという問題を解決する必 要性が一九世紀以来唱えら池、例えばヒルデスハイム冨一Qの農の一日司教領に関するHⅡW・クレーヴイッッ国,言・ 門一の冨局やヴュルテムベルクミ且『耳のロ]ウの日大公領に関するHⅡM・マウラー国・‐三[・冨目『の『等の重要な研究成果

(M)

が生み出された。これに次いでコンスタンッ中世史研究会【○口⑫Bpいの『少Hすの】(の【『の厨(色『昌冒の一四一(の『一一sの

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(4)

トリール大司教領国における城塞と領域政莱(-)

の①の8-n頁のがドイツ諸領邦に関する研究成果として公刊した一一巻の論文集『一四世紀のドイツ領邦国家』□の『 』の具の。■の弓の『『】8『国一切白日一日]』・]四面『ず巨口』の『[一団』・目ppq国一]。「◎口。。]①『]〈ごo『(『凹砠のロロロ句。『のnケppmの。》国q・

{胆}

湧昌目ロメ『ご)の中で、確かに領国形成過程における城塞の重要な意義に時折言及されることがあった。それに もかかわらず、領邦国制史における城塞の機能と意義如何という問題の追究は同じコンスタンッ中世史研究会 が一九七六年に「地域史の基礎の上に立つ国制史的考察方法」ぐの『甘の⑪目、、、①の、冨、亘一-9の□の戸日n頁目、、三の一の①、具 一m己の⑫、①の、三、再一一sの『。『目s四mのに基づき、この問題をドイツの諸領国を対象して正面から取り上げ、その研究 蘂を『ドイツ雷における筆lその法制釜びに鬮蟄的襄l」・扇国巨量日……薑写 田口日.凄『の円の、耳⑭‐ロロ○ぐのH【ロの⑫巨口、の、●の、嵐、宮一】O声の国の□の巨白ごゆ目の】一員ロロロ国》巳『③(ぐ○円〔『蝉、の口ロ』句。『の、夛巨ロ、の。

〈川)

因Q・凶〆)》ず『のm・ぐ。ご国・勺山【Nのと題する一一巻の論文集として公刊して以来、大幅に進展したものと考えられる。 けだし本小稿が取り上げるトリール大司教領国だけに関しても、その後この論文集に触発されて、WⅡR・ベル ンスミ.,閃閃の日切の『トリール大司教バルドゥィン(在位一一一一○七’一一一一五四年)の城塞政策とへルシャフーr』 団員、のゴロ○一量六二国旦四の『『のn画口坤Qmの向日回の、ロ。【の国回国Pヨぐ○口、司臥①『(]単三,』韻←)(ぐ。『芹『叫晒のロロ。『○日、ゴ巨口、の己 、。…目三s……三尾gとIポトシュ目…の『菫とヘルシャフトー大司拳イー ター.フォン・ナッサウの死亡(一一一一○七年)に至るまでの中世盛期におけるトリール大司教の領域政策と城塞 肇l]言目…『…:昌弓……目旦冒・目・冒百:『駒…愚…弓…劃餌§ ロ〕岸【の一四一〔円亘⑩いロ『ロ日。□□]の〔の『のぐopzm⑪の四口(屋ミ)(PmpQのの丙ppq一一nヶのシ号の一厨、、曰のごm9口{〔』日

「〃}

幻の、】の『目、、‐ずの国鳥丙・ワ]の。N》因Q・]い)e一mの・国・目』勇『)》]@$という一一つの著書が刊行されているためである。 本小稿はドイツの歴史学界におけるこのような動向に刺激されつつ、他方で日本での城塞史研究が未だ開始の 緒に就いて日が浅いという状況に鑑み、中世後期(一一一五○’’五○○年)について、城塞の国制史的法制史的

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(5)

意義を一四世紀前期トリール大司教バルドゥイン国口巨口ごく・ごP[貝の白ウ日、の治世(一一一一○七’一一一一五四年)に 限定して考察することを目的とする。具体的には先ず同大司教が領域政策の一環として貴族城塞シュミットブ ルクの9日己昏巨『、を独得するために遂行した一一一次に及ぶフェーデ(シュミットブルガー・フェーデの9日冒す日‐ 、の『句の豆の)の経過を究明することにより、領域政策の中で城塞がいかなる国制史的法制史的役割を減じたのかを 考察したい。その過程で、我々は同時に「城塞とその周辺領域」、つまり、「城塞区」団員、すの凶『丙》【閉庁の]]目の一の 存在如何という問題に特別の考慮を払ってゆくこととする。これには幾つかの理由がある。第一に、城塞区は城

、、

塞の周辺領域をなすが故に、同じ領域権力たるランデスヘルシャフトの生成と発展の問題を考察する際に、城塞 区の分析は不可避の課題とならざるをえない。逆に言えば、城塞区の分析を通じて初めて、より充分にランデス ヘルシャフトの生成と発展を把握しうるのではないかと考えられる。しかし、第一一に、ドイツの歴史学において 従来、確かにカーロリング時代以後裁判・租税制度・国境防衛・教会組織の》)とき国家的目的のために作り出さ

〈旧〉

れた城塞組織という広義の城塞区は比較的しばしば取り上げられてきた。それにもかかわらず、管見の範囲では、

、、9℃、、

城塞の直接の周辺領域という狭義における城塞区は、フランスとドイツの中間地帯に位置するグラーフシャフ

、、、、、、、、、、

卜・フランドルの日帛円冨博司一四aの『ロに関する研究を除けば、ドイツの古定住地匿扇一の□の一一目。について本格的な 研究対象とされることが殆どなかっただけでなく、その存在自体さえも史料に則して明らかにされてこなかった

(Ⅲ)

という事情がある。最近の事典たる『ドイツ法制史事典』困四且ョ。『(のSpn可目『□の具⑩、けの口内の、耳⑪、の⑪、嵐、耳の》閂・ 【[国四員]や『][【・に城塞区を意味する国日召§『穴》園の〔の一一四.囚の見出し語がそもそも載せられていないのみなら ず、『中世事典』Pの×房。。□の⑩冨買の一四一【の[m》閂{{・》]湯◎廟・の「城塞」団日、の項目でフランドル、北イタリア、フ ランスの各地域に城塞区ないしシャテルニIng〔の]]のロ一m(城主支配領域)が存在したことが記されているのに対し

(即〉

て、ドイツの古定住地についてはその記述が全く見当たらないこともまた、その証左となるであろう。この点に

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(6)

トリール大司教領国における城塞と領域政策(-)

ついて、M・シャープ冒・のnggもまた上部ライン○ヶの円昌の】ロ領域に関する論文の冒頭で、いみじくも次のよう に述べている。つまり、「他方、従来の城塞に関する文献での研究は外ならぬ城塞の領域的諸関連となるといよ

、、、、■、、、、

いよもって考察の隅に置かれている一」とを示している。これまで城塞の領域的諸関連が考慮されるとしても、関

(Ⅲ)

心は著しく軍事技術的な観点に及んでいる」(傍点Ⅱ筆者)と。日本では、管見の範囲では、野崎直治氏が唯一「裁 判管轄区は城塞所属地と合致し、一一一世紀以降古典荘園制の崩壊ののち城塞は裁判領主制の中枢であった。裁判 領主制はフランスのバン領、王制〔Ⅱシャテルニー権力〕に相当する一円的領域支配である」と述べられ、城塞の

(狸)

領域的関連を明確に指摘されている。しかし、啓蒙書という性格のためにやむをえないことと思われるが、この 指摘には史料の基礎が欠けている。さらに山田欣吾氏はオーストリアの領主制に関する研究の中て「バン領域内 に所領をもつ多くの壷領主のうちからある一人の領王l篝は最大の土地をもつlをして当該領域全 体の裁判領主たるべき要素、いいかえればそのバン領域において他の土地領主たちにぬきんでた集中的所領と 権力的地位とを同時に保証しうるような実態的基礎は何であったか」という問題を提出し、氏は「そうしたもの としては、中世における「Pロロュロ且Pの貝のの組織の細胞核」……としての、日、(城郭)以外にありえなかった

(羽)

と考え」られている。このようにして、氏は城塞を裁判領、王のパン領域を支える不可欠の実態的基礎として把握 することにより、城塞の領域的関連に注目しておられるが、さらに踏み込んでランデスヘルシャフトと城塞区の 関連を独自の問題として追究してはいないように思われる。 城塞区に特別の注意を向ける理由として最後に、城塞区の検討が封建制社会の理論的把握を繰るグルントヘ ルシャフト細胞論とシャテルーーー細胞論の対決という戦後日本の歴史学界の重要な論争問題の解決の端緒になり うるという事情がある。細説するならば故世良晃志郎教授(以下世良教授と略称)は領主直営地を具えた古典 的グルントヘルシャフト三口出、SのQ目島の園、宮津(またはヴィリカッィオーン制ぐ一一一一汚呂・口のぐの『[四mの自侭)が

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(7)

(別〉

九世紀から一一一一世紀までの封建制社会の基底をなす細胞であると、王張された。この古典的グルントヘルシャフト 細胞論に対して、バン領主権国四目ゴのq⑪、冨沖ないし裁判支配権の野】、耳⑪ゴのHHmn富津をもって細胞とすべきであ

(顕}

るという批判が展開されると同時に、特に木村尚|二郎氏と井上泰男氏によって古典的グルントヘルシャフトでは

(妬)

なくシャーアルニーこそが封建社会の細胞であるという見解が積極的かつ具体的に主張された。両氏の批判に対し て、世良教授は「〔封建制社会〕第二期〔一一世紀’一三世紀〕についての考察は従来の私の橘想に欠けていた」 ことを認められつつ、「古典荘園が「歴史的に本来的を基底である」という条件」を付した上で「第一期〔九・一 ○世紀〕封建社会の細胞はやはり古典荘園でなくてはならず、、菌斤の一一の己のは第二期封建社会の細胞として措定し

{”)

うるにすぎない」と反批判された。こうして世良教授は留保付きながらも、シャテルニーが第一一期封建社会の基 礎をなすことを理論的に承認された。他方で、木村氏と井上氏もその後見解を修正しているように思われる。す なわち、先ず木村氏は九・一○世紀の古典荘園制を基礎とする第一期封建制、一一・一二世紀のシャテルニーを 基礎とする第二期封建制、一一一一世紀における国家秩序形成的な第三期封建制を区分し、九・一○世紀を古典的グ

(配)

ルントヘル、ンヤフトを基礎する封建社会であると理解されている。また井上氏は古典荘園制の過大評価に疑義を

(湖)

表明しつつ、他方でシャーアルニーが一○世紀と一一世紀初頭の混迷期における古典荘園制の解体の結果新たな領

(弧〉

主権力(バン領主権)として成立したと述べられた。このことから、井上氏は古典的グルントヘル、ンヤフトが第 一期封建社会の基礎とまでは言わないとしても少なくともその一つの重要な機成要素であると解釈されているこ とが読み取れる。封建制社会の構造を緯るこの論争は一応収束したかのごとき観を呈するが、しかし世良教授は さらに「、颪扁一]の己のの問題が最終的に解決されるためには、なおいくつかの予備的研究が必要である」と同時に、 この予備的研究課題の一つとして、「ドイツにおいて、颪什の一一の己のに該当するような段階を想定しうるかどうかと

jう泊刈罰一下上かり一、「プルク管区(切口『§の凶1〈)……を、厨庁の二のa①と同質的なものとみうるかどうかという点も、

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(8)

トリール大司教領国における城塞と領域政策(一)

狐}

ユーュだほとんど具体的な解明を見ていないといわなくてはならないであろう」と述べられた。かくして、ドイツの 城塞区の究明は、封建制社会の細胞を巡る論争との関連で、フランスのシャテルニーとの異同如何という問題性 を孕む課題の解決に寄与する故に、著しく重要な意味を帯びてくるものと一一一一口わなければならない。のみならず、 城塞区の究明は城塞ないし城塞区を「中世における豪族支配体制シロの」:の[【、、冨沖の一般的基礎であるととも

(犯〉

に、後年の一フンデスヘルシャフトの萌芽で」あると促える故堀米庸一一一教授の見解や、城塞を「周辺地域住民の全 く新たな政治的結集の核」、「諸侯のより広い政治的支配〔Ⅱ自立的・実力的領域支配権力〕への拠点」と捉える

(羽)

山田氏の見解を9℃考慮する時、益々一層必要な9□のとなってくる。なお因みに、上記の野崎氏と山田氏の指摘は フランス史学のシャテルニー理論を背景としてなされたものと推測される。以下、早速本題に入ってゆきたい。

(5)野崎直治「ヨーロッパにおける鑓鑿研究の現状と課題」、『歴史と地理』、’一一七五号、一九八六年、四頁下段後に、同『ドイ

ツ中世社会史の研究』、一九九五年、所収、一九七頁、同『ヨーロッパ中世の城』、一九八九年(中公新瞥)、一一一一一一頁、同『ヨー (4)西・尻目の日]自口・冨呂の、彦目Q切目、(ご巾a篇ロー一n宮。、□の『の①、の一一m、宮(【旨『可『晋冨⑪nゴの●の、。三n耳の幻の一ヶの貝届、)》ご負の』巴一浬・富ごoヨシ具⑩の⑪、》ロロ閃の己》]や『○叩・患.H・プレティヒァ箸、平尾浩一一一訳『中世への旅騎士と城』、一九八二年、 (2)四・m囚冨p因巨Hmのロのロnmn壷『upp〕》の,《《浜(3)○円一一一ヨロロロ.旧の邑『》向ご]の一【ニコ函已の’一一一一・ (1)富の旨『且、、菌四戸(いの。、日ロ三⑪、冨国の日の。〔の。、『ョ言の一四一[、『一一、汀の三mこ『ぬのゴくの臥囚の切目、己山、す○ずの『『声のご厨nコのご]wの】⑩ロの]の二・旨⑪四四口の勺四厨の(因Hmm・)一己『の■巨旧のロ日白鳥日⑰n冨回、C『■nす『四口日・房門の円の、言⑪‐■口旦ぐの臥回、、回。、⑪、の⑫n亘n頁一一、ゴのロの。①呉目、(ぐ◎耳風、の巨回旦司oHmnp回口、のP胃⑩m・ぐ。目尻Cpmap㈱の『し『ずの芹⑩丙『の一m旨『目鼻[の一口一庁の『一】nケの(甲①の、宮、胃の》国』・×閂×)自弓の二畠》】召の》

の。』@

n.弓一一一ヨロロロ.旧の邑戸CpQの円旦の臣[mnpmp国巨【、のロEppmn三@mのの【》、。. 四・m囚[いの》因巨凋のロヨぐの風口、の巨口mPpg幻のn頁□のの□の具⑩9のロ、ロ『口、冒四Epの⑩》旨い□の『P{国風、.}】ロ】の国巨『ぬの。】ョ。①巨厨、茸、。

旨(】@mm)]臣(】垣、や)ごme・ヨ(閂⑪①つ)言国已』ご{]や、])一三の『国9

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