「生涯学習」を配慮した教育課程の編成 一茨城大学教育学部附属中学校の場合一
蓋 林 一 仁*
教育機関の一つとしての学校教育
学校教育はそれ自体で完結する教育目標教育内容などを保有していると同時に,人生を生涯にわ たり連続するものとして捉えるなら学校教育はその一時期を担うものとして位置づけることになる。
比喩的に言えば,鎖の一つの環を成す。また,学校教育を人間の形成の一つの機関として据えるな ら,学習者は家庭を基盤として出掛けてくるのであるから,それは家庭教育を踏まえることとなる し,意心的にそれとの提携を図ることとなる。そしてまた,学校教育はその時代,社会の中に存在 するものであるから,その時代における国家社会の在り方に根差した教育,つまりその国家社 会で必要とする人間の形成を行うこととなる。率直に言えば,その時代の国家,社会を築いている 国家の政治の方針の一環を成す教育方針に基づいた河蝕の形成を行う機関の一つである,とするこ とができる。それは,国家の基範(この言葉が適切かどうかということはあるが。)としての日本国 憲法,教育基本法,学校教育法,そして学習指導要領などの法制の中に示される。具体的には,そ れに基づく学校教育を形造る教育課程であり,使用する教科書(文部省検定済の。)であり,日々の 教育活動である。
人為の生涯の一時期を成す学校教育の滋養を完結的なものとして捉えて表しているものが「終了証 書」という言葉である。それにも拘らず,従来から外来の考えかたを入れて,卒業は始まり(コメン スメント)であるとも言った。これは,一つの環を成す部分を終えばしたものの,それだけでは十分 と言えず,人生は連続的に学び続けなければならないことを指摘したものである。昔,芸道におい ては,例えば世阿弥の花伝書など,生涯にわたり修業が必要であることを伝えている。武術も,あ るいは特定の職業もまたそうであった。修業に終わりはないとか奥が深いなどと言う。このように 人闇は生涯にわたり何かについて学び続けるものであるという考え方や生き方は,とりわけ真剣に 取り組む必要があると意識されているところにおいては,古くから言われてきたものであると思わ れる。このことは意識的ではなくとも,例えば松尾芭蕉のその俳譜への打ち込み方は,生涯,業俳 を忌避し,一風になじまず,常に新風への改革を志すものであったのに,象徴的に表れている。
一個の人間の形成人格の陶冶は生涯にわたるものという観点から捉えると,学校教育はその一時 期を担うものということになり,また一個の人間が自分自身の存在する場を家庭環境,学校環境社 会環境などと広げてみると,家庭教育,学校教育,社会教育などをそれぞれに重複的に受けている ことになるゆえ,学校教育は教育の一機関となる。一個の人間にとり,学校教育は時間的に一時期 であり,環境的(空問的)に一機関である。今日,言うところの生涯学習の環の一つを形造るもので
*茨城大学教育学部
ある。
一個の人問が自分自身をどう形成するかに当たっては,主体的に自主的に積極的に意図的に自己の 形成を目指すことこそが必要であるから,今日,これを自己教育力と名付けている。自ら進んで学 習することの大切さを殊更に言うのは,例えば学校教育の教育課程の目標,内容,編成,実践,評 価が極あて綿密であり,受け身になりがちであること,しかも小・中・高とも受験勉強というベルト コンベアに乗せられてしまう場合には,自主性も何もない,システムに従うだけになることからも,
来ていよう。受動的な在り方を打ち破るために,学校教育での学習の活性化が言われ,意欲や自主 性が言われ,自分の意志に基づく学習を学習者に求めることとなる。それに,学習の方法を習得す ることの大切さも付加されている。生涯にわたり,学び続けるために,である。また,情報化社会,
国際化社会などの社会の急激な変化に対応するためには,学校教育だけでは十分に対応しきれない ゆえに,自ら進んで問題を持ち解決に当たるという能力や態度が望まれるということにもなる。そ こで,自己教育力を身に備えるようにと,言われるようになったと考えられる。自己教育力は,や る気・意欲といった学習への積極的な意志と,何らかの学習目標を達成するための学習内容に対する 学習方法の習得とに始まる。というのは,そうした構えに立ち,知識・理解の形成や研究があるから である。生涯にわたり学び続けるという考え方のもとに,学校教育においても,この自己教育力の 育成が要求されることになる。
学校教育における中学校段階は,従来から義務教育の完成・終了段階という位置づけをされるとと もに,今日では高等学校への殆ど全員に近い進学の状況から中・高を併せての中等教育の一貫性を配 慮して前期中等教育という位置づけも積極的に行う。生涯学習という観点からは,13歳から15歳に 至る青年前期の人問の形成にあずかるところという考え方をとることになる。一人一人の人間,個 の側の視点から中学校教育を位置づけると,自分の心身の成長の著しい時期に相当する。精神的に も肉体的にも子供から青年へと成長する時期である。そこで,中学校段階を「生涯学習jの一時期 として位置づけ1ここで行われている教育の実状を取り上げて,環の一つとしての意義を確認する こととしよう。
特別活動の一環としての「望ましい人間関係づくり」
人間の形成に当たり,人間は他の人間とともに生きる存在であること,集団を成して生きる存在で あることを前提とすれば,まず一口に言って,基本的人権尊重の思想に立った,社会性を身に付け ることが大切である。これは,今日,豊かな人間性の育成心の教育と言われるものの中核をなす ものと考える。知・徳・体のバランスのとれた人間性の育成とも言う時の「徳」性の酒養である。
このことについて茨城大学教育学部附属中学校(以下,附属中学校と記す。)では,特別活動の一 環として自己をみつめ知るとともに友人に自分がどう映っているかをも知り,自己を抑制し,友人
と協調して生活できるような心構えや実践を目指す活動を取り立てて行っている。
これは附属中学校の内部で「ERD(イー一一一・アール・ディー)活動」と名付けているものであり,英語 の「Encounter(グループの出会い), Recognition(他者の再認識), Developme藪人間関係の広まりと 深まり)」の頭文字を採ったものである。これは,学級内,学年内,また学級間,学年間を問わず,
人間が互いに尊重しあいっっ共存することのできる人闇関係を築くことができるように目指すもの
であるが,学級での活動をベースとする。附属中学校の刊行物での「ERD活動」の定義によれば,「学
級においては,生徒一人一人が心を開いて自由に自己表現できたり,互いの良さを認め合ったり,互 いに支え合ったり,磨き合ったりできるような集団となることが諸活動を活性化させるためには大 切であると考える。その基本となる人間関係をどのようにつくっていけばよいのかを目指し,望ま
しい人間関係づくりをするための一方策である。」としている。
そして「望ましい人間関係」とは「。お互いに正直で率直である。。お互いに思いやりがある。
。お互いの個性や特徴を認め合い,それを伸ばしていくことができる。。お互いに信頼し合い,尊 重し合っている。」という関係であることを想定した。
各学年とも年間8回程度,話合いのテーマを変えて実施している。例えば,第2学年であると,次 のようになる。(1991年度に実施のもの。)
第1学期
①ねらい(まだ余りよく知らない級友に心を開き,交流の機会をつくる。)テーマ(始あまして。
私の抱負。)
②ねらい(自分を誇り,相手を知る。うまく自己表現できるようにする。)テーマ(私は何色?私 の一番大切な時間。)
③ねらい(相手の長所やプラスのイメージを感じ取り,伝え合えるようにする。)テーマ(ファー ストインプレッション)。
第2学期
④ねらい(相手に希望や理想について語り合う中で,注意深く傾聴できる。)テーマ(こんな国に 住んでみたい。)
⑤ねらい(自己を見つめ,それを表現し,素直に受け入れられるようにする。)テーマ(他の人と 違うところ。ほめあげ会。)
⑥ねらい(入間的な弱さを互いに認め合いながら,より良い生き方を考える。)テーマ(短所も長 所に。)
第3学期
⑦ねらい(改めて自分と友人と,その友情の意味を考える。)テーマ(友情の吟味。)
⑧ねらい(自己の価値観を見直しながら,相手の考えを知ろうとする。)テーマ(My Way。)
これらのうちから一例,テーマ「②私は何色?」を取り上げよう。大津清教諭の「ERD活動案」に よれば「2年生になった2か月半が過ぎ,学級としての活動もまとまりを見せてきている。遠足やス ポーツ大会等の諸活動を通し,生徒の問にも友人との人闇関係が形成されっっある。しかし,1年の 時のクラスの友人に固執したり,自分から進んで広く友入を求めなかったような生徒も見られるの が実態である。今,諸活動の中で,相互の信頼関係づくりを目指している現状である。そこで,今 回のERDでは,自分を「色」にたとえることを通して自己を見つめさせ,互いに紹介し合うことで 友人をより深く理解し,良さに気づかせ,温かな人間関係づくりを図っていきたい。」とある。活動 の展開,評価等の細部は省略するが,この年代の個々の生徒の具体的な気持ちには,まだまだ自分 本位であり,むき出した感情を露わにする傾向もあり,二相的に直覚的に好き嫌いを表明したりも する。そこで,自分を抑えて客観的に相手を知り,その性格を肯定的に理解するように持っていく 訓練を自分に課することが必要となる。
このような入間関係づくりが出来るように心掛けることは,生涯を通しての生き方の一端を形造る
ものである。どのような人間に対しても,温かい思いやりを持ち,公平に接することが出来るよう
になることは,いわば豊かな人間性の表れである。
一人一人の生徒が,相互に認め合い,信頼し合い援け合い磨き合うことが出来るというのは理想で はあるが,一人一人が謙虚になり自己啓発に努めることと表裏をなして,効果を挙げるであろうこ とを願い,ERD活動を特別活動の中に組み込み,生涯の財産となるように続けている。
朝の勤労体験,奉仕の活動
学校の教育課程は,時間割の編成により具体的に組み立てられる。知育を中心に教育課程を編成す るとしたら,各教科の学習指導がきちんと行われることを配慮するのでよい。知徳体のバランスの とれた,豊かな人間性の育成を願って,ゆとりのある充実した教育の樹立を目指してはいるものの,
中学校教育の現実は高校受験の教育,偏差値に振り回されることで,かなり歪んでいることは否定 できない。極端な話表の格好よい物差しとして「豊かな人間性」の育成を言いつつ,同時に裏の 物差しとして受験対策偏差値,点数を出さざるを得ないし,この後者は頭にこびりついて離れな い。しかも,場合によっては本人の希望とは沿わない進路指導学校選びを強いることも生じる。こ の裏の物差しを捨てることが出来ない現在の教育制度のしばりがある限り,漏る生徒には夢も希望 も持たせることが出来ないことになる。そこで,単位制高校や様々なコースを揃えた,特色ある学 校づくりを意図した高校などが用意されはしても,それが十分に期待をかなえてくれるものとなる かどうかは,今後にまつよりない。附属中学校の大部分の生徒は,高校から更に大学をも見通した 進路の展望を持っているゆえに,現実に対応した知育教育を,実は望んでいると思われる。それに 応じる対策には,ここには書かないが,随時に具体的な形で現している。
この裏の物差しに左右されている教育について,きちんとした対応なしには今EIIの中学教育はあり えないということを含みっつ,豊かな人間性の育成という表の物差しによる人間の陶治の一端につ いて触れる。生涯にわたっての豊かな人間性の育成を目指す教育課程の編成に当たっては,付属中 学校の時間割の編成にその一つの表れを見ることが出来る。それは,朝の勤労体験,奉仕の時間,つ まり清掃の時間の設定である。午前8時20分に登校完了とし,その後,15分閤,制服をジャージに 着替え,全員がそれぞれに分担個所の清掃に当たる。これは各クラスに教室,廊下,運動場体育 館 トイレなどさまざまに割り当てられているので,ローテーションで週替わりでさまざまな箇所 を清掃することとなる。自分も使うところはともかく,自分は使わないところでも全体として見て 清掃すべきところは清掃するという勤労体験ないし奉仕活動により,体を動かし,尽くすのである。
考え方を変えれば,知育中心にすれば,朝の登校完了時にすぐ授業開始とし,清掃は放課後,一部 の者のみで身の回りの教室等を当番制でやればよいという方法もある。現在,附属中学校ではこの 方法は取っていない。それは,全員による勤労体験により,環境を整備し,すがすがしい気持ちで 生活を始めようというねらいを持つからである。この15分の後に,基本的には学級ごとの「朝の会」
15分が来る。清掃15分には,体を動かし血の循環をよくし,頭脳の働きもよくしょうという,隠れ たねらいもあるという。
平成4(1992)年度9月から月1回土曜休業(第2土曜休業)が始まった。その土曜に組み込まれてい
る時間割は,他の曜日で実施すること,カットしてはならないという行政指導があった。もし,毎
週土曜休業となったら,他の曜日に振り分けて組み込まれるとして,月曜から金曜までのところで
数日(3日ないし4日)はプラス1ないし2時間となる。現状の教育課程のまま毎週土曜休業というこ
とになったら,現在の朝の,全員での勤労体験奉仕の時間は圧迫され,また続く朝の会も圧迫さ れることになるかもしれない。知徳体のバランスのとれた豊かな人間性の育成は,時間も心もゆと りのあるなかから滲み出るようにして長期的にじっくりと行われるものであろう。それが崩れ,朝 の登校完了に続いて直ちに授業開始となりかねない。
では,毎週土曜日休業とするとして,数時間を減らす教育課程をどう作り出すのか。現在,現場は 月1回の土曜休業でも,時間割の編成上では余りいい感じを持っていないことは確かである。
学校教育が短期的な即効的な知育中心(偏重)の教育課程(つまり時間割の編成)に陥らないように するには,やはり「知徳体のバランスのとれた,豊かな人間性」の育成を目指すという,表の物差 しが持ち出せるよなうな,ゆとりのある教育課程の編成が出来るようになっていなければならない。
人間の形成は,長期的な展望のもとにじっくりと行うべきである。
高校への受験対策の勉強に拘束されない中学校教育を作るには,一つには中学校と高等学校とが受 験なしでの一貫教育となるように,学校制度を作り出すことである。これは,現在,地域の小学校 から中学校へとそのまま進学している制度に見合う。公的には,これである。その上で,高校の普 通科,専門学科がどうあるべきかについては,進路指導として案出されなければならないであろう。
大学への進学をも視野に入れた中学教育での教育課程の編成は,つまり中・高一貫教育の編成は,既 に大学受験型の私立での中・高一貫教育でわき立って行われっつある。このようなことを考慮すると,
本学の附属中学校での表の物差しによる「豊かな人閤性」の育成教育も,裏の物差しによる受験教 育によって崩されて,苦しくなることも予想される。生涯学習体系の中に,附属中学校の教育をど う位置づけるか,という問題である。これは,短期的な即効的な教育を前面に打ち出すか,長期的 な展望に立つ人闇の形成を中核に据えて維持するか,でもある。
生徒の自主的な学習の創造とそれへの指導者の援助と
日常の各教科の学習指導(つまり,授業)でも,指導者のレクチュアによる基礎的基本的な知識の 伝授は必要である限りは行うべきであるが,それにおいてもその知識の必要性,意義などの納得の いく説明が伴わないと,学習者にとっては詰め込まれているという反応となり,苦痛ともなる。
それゆえに,学習の意義の理解や動機づけがきちんと丁寧に行われて初めて,学習者は誘われて内 発的に学習を進あることとなり,興味をそそられ関心を抱き,学習意欲を持つこととなる。その機 を逃がさずに,指導者はそれぞれ個々の学習者の達成状況を配慮しながら学習指導を進めることと
なる。