道徳性の発達とは何か 道徳概念の検討
安達 喜美子*
(1993年10月18日受理)
What is Moral Development
Discussion of the Concept of Morality
Kimlko ADACHI
(Received October 18, 1993)
1. はじめに
道徳とは何かについては,すでに筆者が,Gert(1988)や村井(1967)らによる定義の問題点を論じて いるが(安達,1991),さらにその後,検討をかさねた結果,先の主張の幾分かの修正と共に,新た に道徳性の心理学的定義を提起する必要を感じたので,本論で,その論拠となった考え方を示し,改
めて道徳性の再定義を試みる。なぜなら,その観点は,道徳性の発達研究を進めていく上で必要な
ものと思われるからである。従来,守屋ら(1952),青木(1953),大平(1964)をはじめ多くの道徳発達研究者達が前提にし
てきたのは哲学的な定義である。そして,Kohlbergはもっと積極的に道徳性の発達の研究は道徳性
についての哲学的な概念を指針とする必要があるとしているのであるが(永野,1985),そのような哲学的な観点からの定義は,心理学の課題として道徳発達を考える上でいくつかの間題があると考
える(安達,1991)。その一つは道徳発達を道徳的事象における判断基準の変化によって規定しているが,そのような説明からは,道徳性が身につくということがどういうことなのかが不明のまま残 されているということであり,どのようなプロセスを通して自律的な判断が可能になっていくのか も不明であるということである。第二は,認知的な判断の基準の変化をもって,道徳性が発達する と考えてよいのかという疑問である。道徳判断は後述するように,科学的論理的判断のような,単 なる認知的情報処理の結果としての判断とは異なるものであると考えられるからである。これらの 疑問が生ずるのは,一に道徳(性)にっいての概念規定の曖昧さにあるといえる。そこで,本論で は,道徳(性)についての概念を検討して,その意味を明らかにすると共に,道徳性が発達するこ
ととはどういうことかを考えてみたい。*茨城大学発達心理学研究室(310水戸市文京2丁目1番地;Laboratory of Developmenntal Psychology,
Faculty of Education, Ibaraki University, Mito, Ibaraki 310 Japan)
2.道徳とは何か
道徳という言葉についての辞義的定義としての辞書上の意味や日常的な使われ方,および,哲学的 定義については,すでに論じてある(安達,1991;1993)ので,ここではそれを整理しておくにとど める(表1)。
表1 道徳の意味の規定の比較
分類 第1の意味 第2の意味
広辞苑
人のふみ行なうべき道 その社会で一般に承認されている規範辞義的
ナの言葉
日常生活
普遍的理性的 日本人道徳戦争道徳など村井 人間の本質的なあり方 社会生活での慣習的,約束としてのルール
哲学的
Gert 理1生的人々によって採用され
驛求[ル ある社会集団採用されるルール
表1に示されいるように,従来考えられてきているのであるが(村井はこの道徳の意味について,
二つの別のものと明言している),道徳がこのように二つの別の意味のものなのかどうかが問題なの である(安達,1991)。つまり,一見異なる二つの意味のように見えるこれらが,真に異質の二つの
ものなのかどうかということである。とくに,それが心理的な意味においても全く質の異なる二つ のものなのか,それとも同じ一つのものなのか,あるいは一つのものの発達という延長線上にある ものなのかについて検討する必要がある。なぜなら,もしこれが二つの異質のものである時,道徳 性,ないし道徳判断において二つの異なる心理的メカニズムが働くことになり,それらが互いに一 致しないとき,人の行動はどうなるのかという問題が出てくるし,道徳発達研究はどちらに視点を 定めるかということも問題になる。さらには,道徳教育はどちらを目指すのかという実質的な問題 がでてくるからである。そこで,言葉の意味としては,広辞苑にも示されているように,いくつか の異なった意味があり得るわけであるが,道徳という言葉で表されている概念の心理学的意味とし ては,はたして異なる二つの意味があるのかどうかということを検討しながら,さらに,道徳とは
何かについて検討していくことにする。3. 心理学用語としての道徳性の定義
先に指摘したような道徳の二義性は,それが人の生活の中で必要なものとされ,習得されるべきも
のとして教育の対象となるものであることを考えるとき,心理学の立場からは受け入れ難いもので
ある。二つの意味,それも性質の異なる二つのものが含まれるものであるという定義を,道徳発達
研究において,そのまま受け入れることには問題があると思えるのである。というのは,子供の発
達の過程において,家庭教育,あるいは学校教育としての道徳教育が,どちらの意味においてなさ
れるのが適切なのか,あるいは,ある行為が第一の意味において肯定され,第二の意味において否
定されるとき,その行為を人は子供にどのような価値のものとして呈示し得るのか混乱が起こるこ とになってしまう。もっとも,Kohlbergが自身の道徳論の理論的背景の一つとして位置づけ,その
考え方を要約しているプラトンの考え方からすれば,「徳は究極的には一つであり,それは風土や文 化に関係なく,常に同じ理念的形をとる」(Kohlberg,1972)ということであるから,理念的に追求し ていけばそのような混乱は起こらないということになるのかも知れないが,前節で指摘したように,道徳は人の社会生活,つまり,人と人との関係においてはじめて問題になるものであるという前提 で考える必要がある。このように問題を指摘してきたが,筆者は道徳の哲学的定義に問題があると
か,誤りであるなどと言うつもりは毛頭ない。少なくとも,それを心理学的に取り扱う立場として,道徳判断の心理学的メカニズムを考えたとき,それらが一つのものでなければ問題があると考える
のである。ここで,心理学の問題として取り上げられる道徳性と道徳との違いについて触れておきたいと思う。
道徳性とは道徳が個人の中に定着し,一定の判断傾向,あるいは行動傾向として表現されるように なったとき,その個人のものとしての道徳性となると考える。つまり,道徳性とは個人に見い出さ れる一定の道徳的な行動特性であって,道徳的判断という観念(あるいは,意識)的側面と,道徳 的行動という行動的側面から成り立っているものといえる。このことについては,守屋(1952)も
すでに,「道徳性の発達には道徳的行動の発達と道徳的概念の発達の二つの側面を考えねばならない」として,道徳性が道徳的な行動と意識の二側面から成っていることをしてきしている。また,青木
(1953)も同様の考え方を打ち出していることを指摘しておきたい。
このように,われわれがある個人の道徳性の発達段階を同定しようとする場合,その個人の行動選
択や判断を通して同定することになるが,認知的な側面のみによってだけではなく,現実的な行動 的側面からの規定も必要である。そのような道徳をここで,心理学における問題としてとらえてみ ると,道徳そのものが問題になるのではなく,行動上の問題あるいは心的プロセス(判断,学習 など)の問題になるわけだから,道徳が個人のものになっていく過程(道徳性の発達の問題)や道 徳判断がどのようになされるか,そしてそれがどのように変化していくか(道徳判断の発達)とい う形で取り上げられる。また,その発達はどのような状態を目指すのか,つまり,もっとも発達し た状態とはどのような状態になることなのかが問題になる。そのとき,道徳を二つの意味で考える
と,たとえば,道徳判断の検討は上記の第一の意味と第二の意味のどちらにおいて扱われることが,適切であるのかが問題になるし,どちらの意味における発達を基準にして,発達の水準を規定する
のかが問題になる。そこで,前述のように二つの質の異なる意味を持つとされた道徳が心理学的観点,すなわち,その
心理的メカニズムや意識という点から捉えたときもやはり,質の異なる二つの意味のものといえる
のかどうかを考えてみようというのが,本項のさしあたっての目的である。結論から言ってしまうと,筆者はこの意味について,それは二つの異なるものではなく,同じ一つ
のものであると考えている。二つの意味の違いとされているものは,実は,外的な規範がどの程度 自分のものになっているか(後に述べるように,筆者はこれを内化という概念によって説明を試み
ている,安達,1993)の程度の違いであって,意味の違いではないのではないか考えている。つまり,二つの意味と村井らが述べているものは,実は一つのものの内化の程度の差であるということであ
ると考えるのである。われわれが,他者から非難されたり,罰を与えられたりするかもしれないということを恐れるなど
の明らかな他者規制なしで,外的な規制(法や規範など)を自己の行動規制として意識して,社会 から是認される行動が可能であるにしても,これは自己の外にある規制を意識した行動の規制であ るという点で,外的規制,あるいは他者規制である。というのは,そのような外的な規制力の意識 なしには自己の行動の制御ができないからである。そのような外的規制を意識することなく行動で
きるようになることが,自己規制的になったということである。つまり,自己規制的になるとは,そ れまで自己の外側にあって,行動を起こそうとする際に意識された規制が自己内に取り入れられ,自 分のものとなって,自己抑制的になっていくことである。この自己規制の進行が十分達成されると,規制自体が自己であり,自己が規制を規定する。つまり,自己の思いのままに行動していても,そ
れが人間としての善(本来的な善)に外れないものになっているということではないかと考える。こ れは筆者の仮定である。以上のような考えに基づいて,筆者は道徳の意味をつぎのように整理しておきたい。社会において 受け入れられ,採用されている約束事(法則)としての行為の総体という,表1に示した第二の意味 は,それが個人の欲求に基づく行為を規制する外部的な力として存在しているときのものであり,そ
のような規制力が個人のものとなったとき表1の第一の意味になる。
このような考え方で道徳をとらえた結果,表1にあげた村井やGertらの指摘のような二つの意味 は,心理学的な観点からとらえると,表面的な違いであり,外的規制から完全な自己規制にいたっ ていない段階でのことであって,それは本来的には規制の内化という連続した一つの線上で考えら れるべきものである。だから,一見異なって受け取れるような意味の違いは,自己規制力の発達の
程度の差(内化の程度の差)によるものであるといえるということを主張したいと思う。これらのことをさらに明確にするために,道徳判断に見られる心理的メカニズムに注目して,判断 の変化をみていくことにする。
4.道徳性の発達とは
4−1.判断の種類
日常,われわれは,さまざまな判断をしなければならない場面に遭遇しているが,それらの判断場 面は,与えられる情報とその情報の処理の仕方の違いによっておおよそ3つに大別することができる。
その一つは,ものの量や構造に関する情報に基づいて行われる認知的判断あるいはものの因果を
含む関係に関する情報処理の結果としての認知的判断などである。それは普通,科学的論理的判断
と呼ばれるが,真なるもの,つまり論理的科学的に正しいとか正しくないなどのような論理的価値
の判断判断である。この種の判断は,人の個人的な経験や心理的状態によって多様に判断されるこ
とが許容されるものではなく,ほとんどすべての人によって等しく認知され,論理的な正しさをも
つ判断が可能である。そして,それが唯一の正しい判断とされ,それと異なる判断は,錯覚などの
特別な場合を除いては,誤りとみなされるものである。この種の判断は他者存在や社会的関わりに
よって変わるものではないし,それらを考慮する必要のないものである。それゆえ,この種の判断
は,それに関わる刺激要件の情報を客観的に理解し得るだけの認知発達を達成しているかどうかが
問題になるだけである。しかし,私達の生活場面では,そのように場面や材料を認知しても,すべ
ての人によって一様の(あるいは,一律の)答が出せない(また,出す必要もない)判断がある。これが二つ目の判断であるが,それは判断材料に美醜の価値が含まれる場合であって,この種の判断 をわれわれは美的判断と呼んでいる。この美的判断とは情報を価値的・感覚的に処理した結果とし
て出てくるものである。美的判断は真善美という言葉に示されるように,真なるもの(論理的価値),善なるもの(倫理的価値)と並び称される価値判断ではあるが(Windelband),その判断はより感覚
的なものである。それゆえ,すべての人に共通の正しい答というものが規定されにくいものである し,また,他の人と同じでなければならないというものでもない。その判断はあくまで個人の自由 な選択に任されており,その判断基準は個々人特有のものであってよいものであるという意味で主 観的判断なのである。したがって,美的判断はその判断基準の社会的広がりや共通性を必ずしも必 要としなくてもよいものであるといえる。とはいえ,日常的には,人々が美しいと感じるものを自 分も美しいと感じられるだけの感性はある程度,必要かもしれない。このように,美的判断は多少
の社会的共通性は認められはするものの,他者や社会的な関係が必ずしも考慮される必要はなく,多 分に個人の主観に任されることが可能な判断である。この美的判断と同様に,価値的な判断ではあるが,その価値が上記のような「美・醜」に関するも のではなく,「善・悪」や「是・非」などである場合がある。そのような価値の判断をわれわれは道 徳判断と呼んでいる。
4−2.道徳判断の特徴
第三の判断は,その判断に際して,他の人との関係が考慮される必要があり,その社会において受
容されている善悪の基準,つまり,その社会における価値観の認知が必要になるものである。この 判断は主に,人の行為や行為の源にある意図や動機等に関わる判断である(上で触れたWindelband
が倫理的価値と呼んだ価値判断に対応すると考えられる)。道徳判断はとくに,対人的・社会的場面 における善か・悪か,あるいは是か・非かを判断する価値判断であるので,そこでは,その社会で,何がよいことであって何が悪いことと考えられているか,何が是であり何が非であると考えられて いるかという,その社会の価値観の認識が求められる。それゆえ,その判断は前記の二つの判断と は異なり,刺激材料(あるいは状況)の認知(情報収集)とそれの処理(情報処理)というだけで は十分ではなく,また個人の感覚に頼ることによってでは処理できないものである。その判断のた めにはそれ以外に,他者存在の意味の認識や,その個人が生きる社会の中で暗黙の内に一般に受容 され,認識されている価値観やものの考え方の認知と受容が必要とされるのである。道徳判断の発 達を考えようとする場合は,意識空間の広がり(他者存在や社会の価値などが意識される事柄の範 囲に入ってくるなど)と共に,その社会の価値観をどれだけ認識し受容して本人自身の価値観とな
っているかということが問題になるのである。
このように,道徳判断は日常的な行動場面における行動選択のための判断であり,与えられた情
報や状況を価値的・社会的・人格的・倫理的手がかりによって処理した結果として出てくるもので
ある。このことからわかるように,道徳判断は個人の認知発達の水準,とりわけ認知構造に大きく
関わっていることはもちろんであるが,その上にさらに,その個人の価値構造が大きく関わってい
るのである。道徳性の発達段階の理論で近年注目されているKohlbergは,道徳判断の基礎前提と
なる能力は認知能力と役割取得能力であると述べているが,その判断の基礎は認知発達や社会性の 発達だけでは十分ではなく,個人の価値構造をも関わらせて考えていかなければならないものであ
ると思われる。
以上述べてきたように,道徳判断が上記の他の二つの判断と最も異なる点は,情報の処理にあたっ
て他者存在や社会の秩序や法,そしてまた,暗黙の了解事項としての規範やルールと関連づけてな される価値的な総合的判断であるという点である。その意味で道徳判断はもっとも複雑で,大きな 困難さを持つ判断であるといえる。さらに,その判断の困難さをもたらしているのが,判断を阻止 するように働く個人の欲求の存在である。つまり,道徳判断は論理的に処理し得る認知的情報と理 屈では処理が困難な欲求との両者が同時に存在する場面(それも,相反する形で存在する,いわゆ
る葛藤場面)での判断なのである。道徳判断が上述してきたように,対人的・社会的手がかりによる価値的判断であるということは,
その社会に生き,文化を担う人々が彼らの関係の安定や安全をはかる上で必要とされる判断であり,
文化を維持する上で必要とされてきた判断であるということを意味している。そして,理想的には,
それによって,その時代・文化に生きるすべての人々が等しく社会生活を保証されるべきはずのも のであることを暗示している。例えば,力の強いものだけが安全で,弱い者だけが人権を損なわれ たり危害を受けたりすることがないように,また力の強い者だけが利権を得たり,得をしたりする ことなく,すべての人々が平等に現在を生きる権利が保証され,安全で公平な状況で暮らせるため の条件を「是,あるいは善」と考え,それを是認する(プラスの価値)判断である。これは,多く の人間が共存する社会だからこそ必要とされるものであったといえる。したがって,それの認知と 受容は当然,社会のメンバーとして求められることであり,その教育はその社会の大人達が担って いる。このように道徳判断は,彼らが直面している社会に存在する価値の認知や,他者存在の認知
(単に認知するだけでなく,他者への配慮・尊重が求められる)が重要である。それゆえ,道徳判断
の発達は社会的認知的能力や社会性の発達が重要な鍵を握ると同時に,社会的場面における自己の 欲求の処理と,そこに反映される価値構造ないし価値観を含む判断であるという意味でも,前述の
二つの判断とはその質を異にしていることは明かである。たしかに,認知能力の発達の段階はあらゆる判断において,判断材料や状況に関する情報を認知し,
その情報をどう処理するかという処理の仕方を規定するので重要な要因であるが,道徳判断はその ような認知能力のみでなく,社会的な事柄や事態に対するその社会の価値観を考慮しつつ,自己の 欲求を社会的視点から処理し,それを受容しその人自身の価値意識にまでなり得るような社会性や 価値観の発達,つまり,統合的自制力の発達(自己内に統合され,もはや自己のものになった統制
力)によっても規定されるものなのである(安達,1993)。4−3.道徳判断の変化(発達)
われわれの生活の中で,道徳判断が行われるのは,社会的場面で自分の欲しいもの,したいこと(す べきこと)を見いだしたときで,その目標物の獲得行動を起こすか起こさないかに関して行われる。
そして,人の発達の最も初期の段階では,その行動を起こすことについての「善悪や是非」の判断
は,至極単純に行われる。というのは,この段階では,他者の欲求や意図,あるいは社会的な規則
やルールを意識したり,社会の価値観が考慮されることがなく,自分があること(あるいは,もの)を「したいか・したくないか」,「欲しいか・欲しくないか」という自己の欲求に基づいて判断がな されるからである。すなわち,初期の段階では,あることを「したいか・したくないか」とか,「欲
しいか・欲しくないか」という自己の欲求だけが意識され,何らの規制を意識することもなく,そ の欲求の実現に向かう行動だけが,自分にとって,好ましいもであり,望ましいものとして採用さ れるのである。正木(1960)はこのような行動を利己的欲望に基づく行動と呼んでいるが,欲求に 忠実な行動が単純な意識において起こされる。そのとき,自分以外の他の誰かの意図や欲求が意識 されたり,考慮されたりすることはないので,自己の行動の他者への影響や規制との間で葛藤する こともない。このような判断は典型的には,まだ,社会生活をほとんど経験していない乳幼児期初 期に見られる(ごくまれには,ある程度成長して後でも,そのような段階にとどまったままでいる
ものがいないわけではない)。例えば,目の前に自分にとって魅力的なものを見いだした子供は,それが他の人の所有物であったり,あるいは他の人の大切なものであったとしても,そのようなこと には気づきもしないし,頓着もしない。その子供の意識の中には,自己の欲求以外の他者の欲求や 規制は存在せず,他者への迷惑の考慮からくる規制も存在しない。意識されるのは自己の欲求のみ
であり,それが唯一重要なものである。そのような子供には,自分の欲求の対象(物)がさまざまな社会的な障害や規制(他人の所有物や,
他者の権利を侵すことに対する法的な禁止や,他者からの非難罰など)に取り巻かれているとい う意識がないということから,その子供の行動には何らの自己の意識的な抑制は働かないし,葛藤 もないのだが,子供によって一つの行動選択がなされたといえる。しかし,その行動選択は,われ
われが日常,意識して行っている判断ほど明確な判断意識があるかどうかは疑問である。とはいえ,一応一つの行動が起こされている以上,何らかの選択的判断がなされたと考えられ,その判断に基 づいて行動が起こされたのである。この行動選択(判断)は,そこで起こされる行動が社会的に認 められるかどうかとか,社会の行動基準から逸脱していないかどうかといったような社会的な妥当 性や是非が検討されたり,個人の行動基準の明確な意識に基づいてなされた判断とは言い難いもの
である。その意味で,そのような行動選択における判断は真の意味での道徳判断とは言えない。しかし,対象物に対してプラスやマイナスの価値を見いだして,それへの接近行動や回避行動を選
択しているという意味では,最も原初的な形ではあるが,欲求に基づく一つの価値判断であると認 めることができる。その意味で最も原始的な一つの道徳判断と呼んでもよいものであると考えるの
で,これを準道徳判断と位置づけることにする。このような判断の心理的なメカニズムは,子供の対象への一方的な欲求のみが存在しているだけの,
如何なる外的な抑制力も意識空間に存在していない場面として考えることができる。こうした心的
メカニズムを示す幼い段階においては,行動に際して,自己の欲求を抑制すべきものとして何の外
的抑制力も意識しないばかりでなく,大人からも,とくに危険であるとか,特別に不都合であると
認知されないかぎり,大人からの明確な形での禁止や制止が無いのが普通である(大人はむしろ,そのような行動をほほえましく見守っていることが多い)ので,子供は欲求の実現行動が,外的にも
ほとんど抑制力が働くことなく起こされる。ごくまれに物理的抑制(例えば,手にしようとしたら
電気的ショックを受けたなど)が見られることがあるガ,そのような直接的な物理的罰が繰り返さ
れて学習されたわずかの場合を除けば,外的抑制は子供の判断において抑制としては機能しないの
が普通である。したがって,子供はその行動を外的な抑制力のゆえに起こすか起こさないかで迷う
ことはほとんどなく,行動に際しての心の葛藤は見られない。
しかし,子どもは,いつまでも単純に,上記のような欲求のみによって動かされる段階にとどまっ
ているわけではない。そのような,欲求だけが意識され,何の社会的障害も意識せずに行動選択が なされる段階は,日常的現実的な人間関係を経験していく中で,他からの禁止や障害によって行動
が起こせないという経験を通して,他からの抑制を意識する段階へと代わっていく。この段階では,欲求とその欲求の実現に向かおうとする行動を抑制しようとする力のどちらを選択するかの判断が 行われる。この種の判断の初めの段階では,大人からの直接的な外的制止が利己的欲求の前に立ち はだかる。子供の受けるそのような大人からの,とくに親からの初期の禁止や制止を基本的行動様 式Q形成の教育と位置づけ,そのような教育をわれわれは「しつけ」と呼んでいるが,それは社会 的抑止力の子どもへの提示である。この教育を通して,子供は社会的に許容されることと許容され ないことの基本的なルールを学ぶことになるのである。この「しつけ」によって,子供は社会的抑
止力の存在を認識し,自己の行動をそれに一致させることを学習するのである。子供があることを「したい⊥あるいは,目前の魅力あるものが「欲しい」という欲求を意識し,
それを獲得する行動を起こしたとき,その行動が社会的に好ましくないと大人(親)が考えたり,危
険なものであるとき,大人(親)から,その行動場面で直接,その行動が禁止されたり,抑制され たりする。これが外部的な直接的抑制である。この経験が繰り返されることによって,子供の中で
学習が起こり,子供は自己の欲求のままに行動することに対する抑制があることを明確に意識し,行動に際して具体的な禁止や罰を受ける以前に,抑制を予測し,その予測が行動の抑制力として欲求 に対立するようになる。しかし,予期的抑制が有効になるのは,発達もかなり進行してからのこと
である。
近代の民主的社会では一般に,互いの所有の権利を守るものとして法や規則,他者の目などの社会
的な障壁がある。それらの法や規制,他者の目はまた,個人の人間としての権利(人権)が他者か ら侵害されたり被害を蒙ったりすることがないように守る働きもしている。しかし,現実的な人間 関係での経験つまり社会経験が乏しいと,障壁に直面するという経験も少ないため,意識される
社会的障壁は少ない。そのような社会的障壁との遭遇が少ないと,つまり社会的経験が少ないと,しゃにむに自己の欲求を実現させることだけを考え,対象に向かって突き進む自己中心的な行動が多 くなる。そして実際に行動を起こしてしまってから親や他の大人達に叱られたり,身体的・精神的 苦痛を伴う罰を受けたり,危険な目にあったり(物理的罰など)というように障壁との衝突によっ
て,行動が現実場面で抑制され,阻止されるのである。このように,社会生活の経験がそれほど十分でない時期,認知的な能力や社会性が十分発達してい
ない時期は,まだ,あらゆる社会的障壁が障壁としての意味をもって意識されていないため,対象 への自己の欲求を優先させてしまって,行動の後に,直接的外的な罰が与えられることによっては じめて,その行動に抑制が働くということも少なくない。それゆえ,このような段階では,欲求を 優先させるか抑制力を優先させるかという内的プロセスとしての葛藤は,あまり多くは起こらない
といえる。つまり,直接的罰による抑制力はまだ外的なものであるので,心的プロセスの力になり 得ていないのである。
しかし,やがて,そのような行動をすると,親などの大人に叱られたり,罰を受けるということを
明確に意識するようになると,叱られたり罰を受けると予測されるような行動を起こすことが少な
くなる。それは子供の日常の生活経験(すなわち,学習)の結果,障壁が意識内のものとしてとり 入れられたということであるのだが,そこにおいて子供には親などの大人に叱られる行為とそうで ない行為との弁別が可能になっていることがわかる。叱られたり,罰を受けたりする行為は望まれ ない行為であり,好ましくない行為,さらには悪い行為であると意識するようになってきているこ とを示している。そこで,子供は自己の欲求を優先させるか,親(大人)の叱責・罰という障壁を 優先させるかという心理的葛藤が,行動選択の都度起こることになる。欲求の対象の持つ意味や障
壁の持つ意味が個人にとって重要になればなるほど迷いが生じ,そこでの葛藤も大きくなってくる。こうした葛藤状況での判断は,当然のことながら,あることが「したい」とか,ある対象物が「欲 しい」などの個人的な欲求が起こったとき,それを充足させるための目標達成行動を優先させるか,
その欲求の対象を取り巻く(ある場合には,その前に立ちはだかる)障害(親や大人)が持つ抑制 力を優先させるかという二つの力の間で生ずる葛藤における「するか・しないか」の選択的判断で ある。このような判断が可能になるためには,自他の区別が可能になることや,刺激場面の把握が ある程度できるようになってきているという認知的側面の発達が当然前提となっていなければなら
ない。
この種の葛藤が生ずるころになると,子供は認知的側面での発達が進行しているので,欲求の種類
も多くなり,同時に意識される抑制の種類も多くなるであろうし,抑制力としての罰の重大性の意
識も明確になることと相まって,ここで起こされる葛藤はかなり多くもなる。ところで,以上のような判断は,他者からの賞賛あるいは叱責を得たり回避したりするための判 断であって,欲求実現行動自体の善悪に対する自発的意識がないという意味では,真の自己のもの としての道徳判断とはいい難い。というのは,外的な非難や罰を意識することなくしては,いかな る行動も抑制されることがないと考えられる判断だからである。また,他者存在は意識されてはい ても,それは利権の侵害や迷惑を避けるべき対象としての他者存在の意識ではなく,その行動の抑 制は自己の利害だけが意識されているにすぎないという点から見ても,社会的意味を持つ道徳判断 とはいいがたい。したがって,この種の葛藤は自己に内在する価値によって生ずるものではないが
ゆえに,周囲の大人達の非難や罰の与え方によって,生じ方が異なるもので,他者依存的である。それ故,その行動の取捨選択は外的動機づけによるものであるといえる。つまりそれは,他者の叱責 や罰という抑制力が自己の外側にあって,外部的圧力として欲求充足行動を抑える働きをしている のであって,自分のものとしての抑制力にはなっていないことを意味している。このような形でな
される判断は自律的な判断とはいえないのである。以上のような判断の段階,あるいは,行動選択の段階から,やがて子供の生活世界や経験の広がり によって,社会的な規則や法,約束ごとなどの存在を意識するようになり,行動選択や判断に際し,
それらを意識する段階へと進むことになる。生活の空間や経験は子供の成長ととも広がりをもって
いく。その中で,「約束ごとや規則に反する」こと(社会においては「規範や法に反する」こと)は 家庭においてのみでなく,広く他の社会的場面においても「非難される」こと,「罰せられる」こと であって,「善くない」ことであるということが意識されるようになってくる。その結果,規則・法や約束ごとが行動に対しての抑制力をもってくる。それは,子供が日常生活の中で受けるしつけや
教育の結果としての学習の成果である。そのような約束ごとや規則に対する意識以上に強い,「したい,手にいれたい」という対象や行為
への欲求を,もう一方で意識すると,その対象や行為への欲求の実現を抑制する力との間で強い葛 藤が生じてくる。しかし,上記のように実際に禁止や抑制を受けなくても,もし,そのような行動 を起こした場合,受けるであろう非難や罰の予測が可能になってくるのは,外的規範の内化が幾分 か進行して自己内に統合され始めたためである。このように外的規範が自己内に位置づきはじめる と,自己の力が自己の欲求を自ら制禦するようになり,欲求自体がある程度,自制的になってくる
ので,葛藤の量は減少しはじめ,同時にその大きさも減小してくる。すでに別のところで述べたことであるが(安達,1993),われわれの社会には,それを守らないか
らといって,法的に罰せられるわけではないが,その行動が社会的場面や対人場面で当然のことで あるとして,慣習的に多くの人々によって承認され,受容されている行動のルール,ないし行動様 式がある。あるいは,暗黙の内に了解されているその社会における行動基準がある。それにはずれ ない行為を「よいこと」と見なしており,そのような行動基準から逸脱することに対して,厳しい チェックの目を向けている周囲の人々の存在があると考えられている(とりわけ,わが国では個人
の意識の中でその存在の意味が大きく,そのような周囲の目に行動が拘束されることが多い)。われわれの社会でよく言われるような「世間体」を気にするとか,他者の非難や,村八分などの社会的 制裁(心理的罰)を回避しようとして自己の行動を規制するような場合がそれである。これは行動 を起こした結果生じるであろう罰や非難の予期が行動を抑制しているのである。そのような場合の 葛藤においては,他者の目は自己の欲求を規制する力として意識されているが,具体的な他者によ る非難や罰に出会うことによって行動に対する抑制が働くのではなく,個人によって予想される観 念的他者(あるいは,他者ステレオタイプとでもいえるような,その個人の中に作り上げられてい
る他者一般像)の非難や罰の意識なのである。
暗黙の了解事項としての社会的ルールは明確な形で提示されないだけに,その習得には困難が伴う
が,いま述べてきたような親(長じては,もっと広く他の大人達や友人達)による抑制を受けるこ とを通して,子どもは行動に際し他者の目を意識すべきことを学んだり,法のように明文化されて いない暗黙の行動のルールがあることを学んでいく。このように人々は次第に,具体的な非難や罰 を与えられるときにのみ,欲求に基づく行動やルールに反する行動を抑制するのではなく,自分の しようとしている行動が他者からの非難に結び付くであろうという,非難や心理的罰への予測が行
動を抑制するようになるのである。これは,他者からの非難や罰を受けることに対する恥の意識や,罰を受けることによって陥る自我の危機的状況への予期が抑制力として働くことを示しており,自
尊心を含む自我意識の発達が深く関わっていることを示している。このような葛藤においてなされ
る判断は,暗黙の社会的ルールの存在や他者との関わりを意識した判断を含む社会的判断であり,社会的承認を得られるか否かを,行動を抑制するかどうかの基準として取り入れている。社会的承認
を是とする一つの社会的価値が含まれる判断である。これは個人の関与する世界が社会的広がりを
持ったことを意味している。そして,「社会の多くの人々に承認されること」を「よいこと」として受け入れ,それに反しない行動を選択するのがよいことであるという社会的な価値判断がなされる
のである。そこでの行動規制は自己の外側にある他者存在という外的基準による規制であるので,他者規制と言える。とはいえ,他者の罰や非難を自己の内部で予測するということは,他者の評価的
目を自己内に取り入れたことを意味しており,取り入れられた自己内の力による自発的な規制であ
るという意味では,半ば自己規制でもある。行動の自己規制とは,すでに上で繰り返し述べていることであるが,あることを「してよい」か,
「してはいけない」かの判断の基準が,自分自身の内部に位置ついたもの(規準)によってなされる
(別の言葉で言えば,他律的でない)ということである。したがって,行動は自己の内なる力によっ
て動機づけられており,自己の統制下にある,いわば,自律的水準にあるということである。その 意味でも,他者の評価的な目を意識することによって生ずる自己規制は,まだ完全に,そして自発
的な自己の意識的力による規制になっているとはいえないものである。このような他者規制を法規制よりも低次元のものとする考え方も一部に存在するが,筆者はそのよ うには考えていない。警察力(つまり,法による規則)や自衛のための武器の所持が必要な社会(つ
まりそれは,人々が相互に行動を規制しあえないということを示している)よりは,むしろ,人々 が相互に他者の目を意識して自己の行動を規制しあっている社会の方が,人が他のものの助けを借 りずに自分達の中で処理できる力を持つと考えられるので,人間社会のあり方として,より成熟し ていると考えてよいのではないかと思う。さらにいえば,法や権力による規制は「人は自主的自律 的に自分達の行動を規制できないものである」という,ある意味では人間不信ともいえる考え方が 基本になっていると思えるのである。人として十分成熟し,また互いに十分成熟した存在であるこ とを認めあえる状況ならば,そのような外的規制を必要としなくても,互いに少しの配慮で規制し あえるのではないかと考えている。これが筆者が他者規制を法規制より低次に位置づけるべきでは
ないと主張する論拠である。議論を元に戻すと,いずれにしても上述のように外的な規制が自己内に取り込まれた心的状況では,
その個人は法や規則の枠を越えては行動しようとはしないし,他者の許容度をこえては行動しよう ともしなくなる。この他者規制を法規制の観点から,他者の目や世間体が法の代替機能を持ったと
いうこともできるかもしれない。規則や法の枠を越える行動や他者によって許容されない行動は,罰 なくしては許されないという意識が働くからである。やがてそれが,「罰」の回避によるものではなく,規則や法,あるいは暗黙の社会的ルールを守る ことを社会の一員としての義務であり,責任と考えるようになり,「罰」を意識することなく,規則
や法が行動の規制力を持つようになる。これは,それまで,個人の外側にあって,規制力を持って いた規則や法が,その個人の内側の世界(内面)に取り入れられ,自分のものとして,抑制力を持 っようになったことを示している。つまり,行動が自己規制的になったのである。他者の目や世間 体の場合も同様である。他者と協調して行くことを拒否し地域や社会の秩序を乱したり,他者に迷 惑をかけ他者を不快にする行動をすることは,社会に生きる人として,してはならないことと意識 するようになる。それを越えた行動に対して世間の非難が生じることはもちろん,認識してはいて も,非難を回避するために行動を抑制するというのではなく,社会人として当然のこととしてその
種の行動を起こさないと意識するのである。この段階になると,実際に行動を規制しているのは,外部の世界に存在していた規則や法ではなく,
自分が社会的存在としての義務・責任において守るべきものとして意識し,自己の行動を規制する 基準として取り入れられているものの意識である。この場合,人はその人自身の内面に取り入れら れた行動の基準に基づいて判断し行動しているので,いわゆる,自律的な良識ある人の振舞い(行
動)をする人として評価されることになり,Sprangerの記述する「善き品性」の人となる(安達,1993)。この段階では,人は自己の内面に取り入れられ,自己の意識となった行動基準にしたがって行動す
るので,そのような基準に反する対象物への欲求は葛藤を起こす前に不合理なものとして自己の意 識から自発的に排除される。このような状態は,かって外側にあった規範や法が内面化が起こった
と見ることができる。このように規範が内面化されると,人は欲求を起こさせる対象物に対して,法 や規則に触れたり,他者の非難を受けるような形で接近しようとはしなくなる。だから,もはや,こ の段階では葛藤は明確な形では起こらなくなるのである。なぜなら,欲求を引き起こす対象(物)が自己統制された世界にあり,欲求充足行動はすべて合理的に,あるいは合法的に起こされるように
しか意識されないからである。このような外的抑制力の内面化を説明する概念として筆者は「内化」という言葉を用いている(安達,1993)。
ここで,あらためて「内化」という概念を用いて上記の自己規制,もしくは自己抑制の段階を記述
すると,それまで個人の外側に存在していた法や規範他者の目などの外的抑制力が「内化」され ると,行動は自らの内なる力によって規制され,自律的になる。このとき,欲求も統制された自己 の世界の内にあり,内的にはごく小さな葛藤はあるかもしれないが,以前の迷いという形で起こさ
れる葛藤はほとんど見られなくなってくる。そして,この「内化」がさらに充分に進行すると,それは人間としての「良心」,あるいは「良識」
という形に変形された意識として個人の中に存在するようになる。このような段階になると,自己 の欲するものが自ずから自己抑制の範囲を出ず,同時にそれは,社会的制約を逸脱しないものにな
るという段階にまで至るかも知れない。この段階では,かつての抑制は今や抑制として意識されず,むしろあるべき行動原理として個人によって主張されるものとなる。すなわち,抑制が抑制として 意識されている限り「内化」はまだ十分とは言えず,規範が自己内に取り込まれ,それが個人によ
って主張される 自己主張としての行動原理 となって初めて,「内化」が完了したとみることができる。つまり,内化が進行していくということは,別の言葉で表現するならば,外的規範が自己内に
完全に取り込まれ,個人の意識体制の再体制化が行われるということである。ここで,ふりかえって,内化という概念を中心にすえて,道徳判断の発達をながめなおしてみると,
道徳判断は個人の対象への欲求の実現を目指す行動がどのように抑制されるかに関する判断である
が,それの発達は,「内化」の進行のプロセスであるということができる。すなわち,最も初期のほとんど抑制がみられない段階,行動が他者の直接的な言語によって外的に規制される段階,社会的
規範や法を意識することによって外的に規制される段階(外的なものの取り入れがみられている),他者の批判的目や世間体を意識することによって,半ば外的に半ば内的に規制される段階(漠然と
存在する社会的約束ごとの自己内への取り入れが認められる),さらに,そのような外的基準が内化され自律的になる段階,さらに,内化され自己の良心といえるような意識になった自己基準によっ て自己を規制するだけでなく,人としての行動原理としてそれが主張される段階へと発達していく
のである。そして,そこで起こされる葛藤の大きさや量は,すでに述べたように,心理的発達の初期において
は全く見られないが,次第にその量が増大し,大きさの点でも大きくなっていく。葛藤が最も大き
くなるのは,他者の叱責や法の罰を恐れて,様々な欲求に基づく行動を抑制せざるを得ないと意識
する段階である。そして,外的基準が内化されるにつれて,葛藤の量は減少していき,最も内化の
進行した段階で葛藤はもはや見られなくなるのである(図1)。100
葛藤の量
内化の程度 →内化 図1 内化の程度と葛藤の量との関係
5.結 論
以上述べてきたことを改めて結論的に整理すると以下のようになる。
道徳判断は最も初期的な段階では,個人の欲求のみに基づいて行動が起こされ,他からの抑制もほ
とんどかからないし,自己においても何等の抑制力を意識することなく,したがって,行動を起こ
すに当たって葛藤を起こすことがない。それがやがて,他との関わりの中で行動を禁止されたり,抑制されたりする経験を通して,社会に存在する抑制力を意識するようになる。この社会に存在する 抑制力,つまり,外的抑制力による行動抑制は,初めは親など身近な大人の直接的な禁止や罰であ るが,次第に直接的な罰などといったものによらない,罰の予期といったものによる抑制に変化し ていく。このころになると,子供の意識空間の拡大もあって,親から与えられた物に満足していた 子供時代とは違って,さまざまな魅力ある物を知っていく。そのため,それらの物に対する欲求も 強くなり,欲求の種類も多様になってくる。その結果,多くの,そして強い葛藤が生じるようにな る。この段階では,個人の行動の抑制因として,葛藤の原因となっているものは,個人の外側にあ る,つまり,外的な抑制力である。この外的抑制力は,親を始めとする大人の禁止から,具体的な 約束ごとやルール,さらには法や規範,世間体などの人の目があるが,このような外的な規制によ って行動を抑制するのは,その社会で多くの人によって認められている行動様式に合わせていくと
言う段階を意味している。
しかし,これがさらにそのような外的な抑制力を意識することなく,自らの意識として,抑制的と
外からは見えるけれども,しかし,自身の意識としては抑制しているという感覚もない段階,そし
て,このときには葛藤も起こらない,そのような段階に至る。これは,もともとは個人の外部に存
在していた規制力が,個人の内面に取り入れられ,そして,ただ取り入れられただけでなく,個人
の内面に統合され,個人のものとして位置ついたのである。これを筆者は内化という概念を用いて
説明してきたのであるが,この内化が十分に進行すると,自分の意識する欲求そのものが,すでに
規範をはずれないものとなるのである。そして,自分が起こす行動は人として当然あるべきものと
しての行動となる。さらには,他に向かって,人はそのように行動すべきものであると主張しさえ するようになる。これは,哲学的な概念による,人としてあるべき行動様式と同一のものであると
考えられる。このように考えてくると,先にあげたような,道徳の異なった二つの意味とは,その心理的メカニ
ズムからみたとき,異なった二つのものではなく,外的規準の内化の程度の差という発達の差でし かないことがわかる。そして,道徳発達は,この内化の程度と葛藤の大きさによって(つまり,無 葛藤から次第に葛藤を起こす状態になり,さらにその葛藤が強く,大きくなる段階を経て,次第に 葛藤が少なくなり,ついには葛藤のまったく無くなる状態になる)規定し得る変化の過程であると
いえる。
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