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――襲撃と侵略、そして 947 年の遼の征服―― 

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(1)

【翻訳】

遊牧民は何を欲するか

――襲撃と侵略、そして 947 年の遼の征服―― 

(注 1)

  ナオミ・スタンデン著、山根直生訳   

                       

 947 年の正月元旦、遼(907-1125)皇帝耶律徳光(遼太宗、926 年即位 -947 年死去)

は征服者として後晋(936-947)の首都に入った(注 2)。 続く数週の間に彼は、中国の初 代皇帝として期待される事をした――官僚達の降伏の受領、新王朝としての宣言、法令 の発布、統治上の再組織化の指揮、などなど。しかし、5 ヶ月のうちに遼軍は中原を去 り、現地の皇帝が再び玉座に座っていた。

 遼の征服は、五代(907-960)と唐宋変革の転換点として広く認められている。しかし、

それほど重要な出来事であるにも関わらず、明らかにそれはほとんど研究されてこな

かった(注 3)。それはなおしばしば、 中国を征服しようという不変の遊牧民の願望と、異

序説 

矛盾点:領域の統治としての征服  936 年の遼の侵略 

 侵略、あるいはありふれた関係?  石敬瑭の反乱  徳光の意図   遼晋戦争と 947 年の征服 

 944 年から 945 年の時機  946 年から 947 年の時機と首都の陥落 結論――より広範な問題

 類似点と相違点

* 福岡大学人文学部教授

(2)

質な支配に抵抗する同じく不変の中国の衝動との、証拠だとして受けとめられている。

かくして遼の事例は、失敗した征服であると解釈された。中国ならざる契丹はただ単 に、中国を統治する仕事についていけなかった、特に、中国の地方的抵抗を前にして

は、と(注 4)。この解釈の問題点は、もし本当に中国を征服するために遼が出撃している

なら、遼の大軍が後唐 (923-36)を破って混乱の中で王朝を倒し、新帝をあがめた 936 年の時点で、すでにそうできたであろうことである。もし遼が終始、征服の機会を捜し ていたなら、936 年の時点で彼らはその好機を逃した。しかしもし遼が、異なるものを 優先していたなら? もし徳光はさして征服に興味がなく、他の何かにより興味があっ たら?(注 5)

 より一層複雑なのは、現在、後周(951-60)および宋(960-1276)と遼との関係を扱 う学者が、この期間――少なくとも三代続いた皇帝たち――の遼について、まったく中 原を征服する意図がなかったとの考えで合意していることである(注 6) 。これでは、私 達が 947 年の出来事を失敗した征服と見なそうとするなら、遼の態度の根本的かつ永久 的な変化を説明し、それが起こった時機を正確に見出さなければならない、ということ になる。あるいはその代わりに、徳光はそれらの成功を維持しようとしていただけと見 なすか、遼の支配者には北中国を征服することへの興味が一貫して欠けていたと仮定す ることになる。

 本論では、征服に関する現代の理解――断片的な領域を恒久的に統治しようとする軍 事的奪取として征服をとらえるもの――では、徳光の意図を正確に説明できないことを 提起する。正しく軍事理論的に事件を再評価することは、私達が支配者の観念と領土の 問題とを区別することを可能にするだろう。それは、徳光においては、南の隣人に対す る支配者としての自身の地位よりも、領土的野心にはずっと興味がなかった、というこ とも含む。私達は同じく一定の重要な問題の理解を北中国境界地の民族が持っていたと 知り、それはまた遼と中原政権の相違に関するよりよい理解を私達に示すだろう。

矛盾点 : 領域の統治としての征服

 これら二回の侵略に関するほとんどの記録者は、遊牧民と農耕民の文化的な違いの結 果としてそれらを説明する。牧畜民は農耕民と別個のエコロジーと経済を持ち、結果と してしばしば完全に相反する文化を生じる。中国の北の遊牧民は彼ら自身の需要のすべ てを供給できるわけではなかったので、彼らはその不足を中国に求め、独特な襲撃に

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よって獲得した。伝統的に歴史家は、もし可能であれば征服へと発展する連鎖の末端に 襲撃を位置づけた(注 7)。  しかしより最近の学者は二つのものを有効に区別してきた。

Sechin Jagchid は、遊牧民は平和な取引によって商品を得ることを好むが、市場へのア クセスを拒否された時には襲撃することを強いられ、それがしばしば起こったと主張す る。彼らの目標は領域や政治的な有利さではなく、純粋に戦利品を得ることであった(注8)。  この見方によれば、二回の遼の侵略は巨大な略奪的襲撃(plundering raids)であった にすぎないが、これでは 936 年に略奪が見られなかったことは説明できない。これはま た反面では、947 年まで続く遼晋間の戦争の数年間について、従来全く説明が為されて こなかったことを浮き彫りにしている。

 Thomas Barfi eld も、ほとんどの遊牧民が領土の征服を目指さなかったと主張してい る。実際、彼らはそれを積極的に回避した(注 9)。代わりに、匈奴やトルコ人などの主要 なステップ帝国は、歳貢を漢や唐などの主要な王朝からゆすり取るため、彼らが報いる べき追従者や軍事力によって維持した連合とともに、襲撃によって「フロンティア外延 部の戦略」を使用した。これは、遼への年々の歳貢を結果として生じた 936 年の侵略を 説明するのに役立つかもしれない。しかし、遼晋の戦争で和平のための三度の要求を徳 光が拒絶した時、あるいは、947 年の征服で中原からのさらなる歳貢を不可能とした時 については、そうではない。

 いずれの事例においても Barfi eld は遼をこれらと異なるカテゴリーに置き、伝統的な 満州王朝としている。その国々は自壊した中華帝国の残りをあさり、領土のコントロー ルを希求したが、北中国の複数の部分を征服できなかったと判明している。従って、遼 の侵略が領土についての意図を持っていたことについて Barfi eld は伝統的理解に合意す る。そのため、947 年に遼皇帝が「北に撤退することを強いられた」時(注 10)、これは永 久的な占領および直接的な利用という目標に向かう上での失敗と考えられた。しかし、

徳光が持ったという征服の展望は、なぜ彼が 936 年に勝利を追求しなかったかについて の説明を困難にする。Barfi eld はこれを、初期の遼国は生き残るために相対的に非攻撃 的である必要があり、遼は「より軍国主義的な軍事指導者の国が彼ら自身を破壊した後 にだけ、北中国を征服するよう動かされた」証拠と考える(注 11)。しかしその機会は、

936 年、高度に軍国主義であった李嗣源(唐明宗、926-33)の「戦争狂国家」が彼の後 継者とその挑戦者によって別個に引き裂かれた時にも、明らかに存在した。遼の征服、

さらにはもし実際に要求されたならばその支配にも対しても、その時ほど北中国が無防

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備なことはなかったろう。しかし 947 年までにはすでに、10 年前にあった迅速な機会 は北中国にはなかった。なぜなら、徳光が首都に到着する前の数年間があったからであ る。にもかかわらず、すべての努力の後に、軍事的征服は遼の長期的支配へとつながら なかった。

 徳光の 947 年の撤退が、彼が維持を望んだであろう何かからの不本意な退却であった ことに関する議論は、十年早く彼がした(またはしなかった)こととの矛盾をいまだ解 決していない。940 年代に彼は、かつて行って最後のものとならなかった、征服に結果 する懲罰的な戦争を戦った。936 年の時には、彼は侵略の軍勢とともに行軍し、容易に 征服する機会を持っていたが、それを取らなかった。もし徳光が本当に、領土の征服に より提供される資源の入手という欲望に動機づけられているならば、彼はきっと 936 年 に征服していたであろう。もし彼が本当に「フロンティア外延部の戦略」を用いている ならば、それが提供される時には彼は有益な平和を受け入れたであろう。そしてもし Jagchid が提案するように、単に安易な盗みのために彼が出撃しているならば、彼はそ のような努力を 943 年から 947 年の激しい戦争に投じなかったであろう。他の何かが、

ここで作用したにちがいない。

 何かを見つけ出すために私達は基本的な問題に戻る必要がある。遼の朝廷はなぜ、

936 年と 943 年 - 947 年に中原を攻撃したか? どちらの時も理由は同じであったか? 

遼のリーダーシップには何が最も重要であったか? それは、いまなお広く理解されて いるように、領域であったのか? そして、領域でないとしたらそれは、戦利品、歳 貢、または他の何かであったのか?

 領域が遼皇帝徳光にとってどれほど重要であったかに関するよりよい理解を得るため に、私達は、関係する要素を明確化する必要がある。先述のように征服という観念は、

新領域およびその人口の永久的な占領と統治を暗示し、軍事的というよりも本質的に政 治的である。征服の政治的な行為は一般に、「侵略された領域の一時的または永久的な 占領」として西洋軍事史家の Archer Jones により定義された、侵略者の軍事行動と関 連する。Jones は侵略(invasions)を襲撃(raids)と対比する。襲撃は「敵対的な国 への一時的な侵入(intrusions)」である(注 12)。ここでは、軍隊の行動の一時的な性質 だけで、その行動が襲撃であると定義しない点を指摘することが重要である。すなわ ち、侵略も一時的であるかもしれない。違いは戦略(strategy)にある。襲撃と侵略は、

二種類の戦略と関連する。すなわち、一時的に襲撃すること(raiding)と「持続的に

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占領すること(persisting)」である。これらは、領域に関する異なる意味合いを持つと ともに、衝突に対する異なるアプローチを含んでいる。襲撃者は通常衝突をさけようと 努めるが、占領戦略は可能な限りそれを想定するのである。

 私達はこれらの定義を、徳光の意図についてのより一貫する尺度として用いることが できる。もし彼が戦利品のために襲撃するか、毎年の貢ぎ物の支払いをうながすだけの つもりであったならば、私達は短期的でシャープな略奪攻撃の襲撃戦略と、力の有る立 場から条約を作るという欲求を見ることになるだろう。力は大きいかもしれないが、戦 いは回避される。地域は一時的に占領されうるが、管理のコントロールを設立する試み は全く無いだろう。徳光がより持続的な意思を持っていたと結論するためには、戦いに 参加する自発性、より長期的な領域占領へのいくらかの興味、そしておそらくより大き な侵略の軍事力が必要になる。さらには、もし徳光が中原の征服を目指したのならば、

中原側の防衛軍を押しつぶすために圧倒的な力を用意する決定や、獲得した領域に忠実 な管理者を派遣するシステムがあったはずである。しかし、軍事的事象のある文脈を いったん特別視してしまうと、より広い政治的な問題をも私たちは同じ文脈でとらえ続 けてしまうのである。

936 年の遼の侵略

 947 年が遼の征服をうけた中国の愛国心の高潮期としばしば見なされるのと同様、

936 年はしばしば、外国人に降伏した低潮期と見なされる。というのもこの年、後唐の 河東の反将石敬瑭は、遼に後唐王朝を滅ぼす手助けを求めたからである。そして彼の同 盟国には十六州を与えることで「支払い」がされた。現在の北京から大同まで、大まか に拒馬河の北とされる地域である(注 13)

侵略、あるいはありふれた関係?

 私達は『旧五代史』から、契丹の部落が後唐一代を通してその北の境界地を襲撃した と知っており、これは遼朝の扇動であったと通常仮定されている。最初の遼の支配者阿 保機(太祖、907-26)の拡張活動には、そうした攻撃(aggression)の明らかな先例が ある。彼はステップにおいて隣人たちを「制圧」し、926 年には渤海を征服した(注 14)。 彼の皇后、述律平の激励によるものであった(注 15)。彼は、後唐が李存勗(荘宗、923-6)

の死および李嗣源の継承を報告するため特使を送り出してから、幽州に対して規則的な

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略奪遠征を送り、その州と黄河の北の全ての返還を要求した(注 16)

 もし阿保機の後継者徳光もこれらのこだわりを共有していたなら、私達はその計画か 結果の記述を『遼史』に発見できるだろう。公式に編纂された王朝の歴史として、同書 は中国の史料編纂の慣習に従っており、権力の所有者としての皇帝はすべての行動にお いて完全に正当化される。これらはもちろん、通常「講和」の名の下にある軍事的手段 による拡張を含み、付随する軍事的残虐行為とともに迷い無く記録される。従って、阿 保機の軍事的功績は 901 年から 926 年の彼の死まで、私達がそれらについて知るのに不 可欠な『遼史』本紀に記録されている。しかし『旧五代史』の後唐本紀に記述された、

彼の後継者の下での契丹の襲撃の大部分は、その遼側の対応する史料に現れず、徳光が これらの襲撃を命令しなかったことを強く示唆する。言いかえればこの遼帝は先帝と 違って、計画的または長期的な戦略の一部としての襲撃を巧みに操ってはいなかった。

故に、記録された行動はおそらく、局地的な冒険の一種かその他のものであった(注 17)。 これは、機会が生じた時でも、徳光が彼の権限を拡張することに興味を持たなかった、

という意味ではないが、彼のすべての行動においてそうした日和見主義を見出すには慎 重であるべきことを意味している。

 例証となるケースが 934 年にあった。その年の四月、後唐の太子李従珂は義兄弟の李 従厚(唐閔帝、933-934 年)に反逆し、帝位を奪った。この時、かつての遼の正統後継 者でありながら後唐の宮廷に亡命していた阿保機の長子耶律倍(注 18)は、強奪者に対す る懲罰的遠征を求める手紙を遼に送り返した。934 年の秋、遼の皇帝徳光自身が、後唐 の北西の境界地へと遠征軍を率いた。史料によれば徳光は西暦 10 月 28 日に雲州に「次」

し、二日後に應州で河陰を「抜」いた。河陰は代州と雁門のすぐ北で五台山へと通じて おり、この地域を横切る一般的な南北のルートとなっていた。後唐のこの領域の知事で ある石敬瑭は、約 1 ヶ月後に彼の軍隊とともに代州へ向かうよう指示されたが、西暦 11 月 20 日には徳光と対決していない。徳光は西暦 11 月 29 日、霊丘(朔州と易州の間)

を「略地」している。西暦 12 月 13 日に彼は陽城(新州の北)を「囲」んでいるから、

その時彼は北に帰ったにちがいない。その投降者は洼只城(詳細不明)まで従わされ、

その壮丁は軍隊に徴兵された。明らかに遠征に同行していた徳光の后が、2 月の初めに 早産を迎えて 2 週間後に死んだ後、遼は完全に撤退した(注 19)

 どのように語彙を解釈するかによるが、これらの出来事は、少なくとも三つの部分に おいて遼に傾いた読み方を引き起こしており、また、後唐の対応と后の死によって中断

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された、遼の領土拡張主義の例であると容易く見なされうる(注 20)。城壁で囲まれた町 を遼の軍隊が包囲したことは、領域を得ようとする関心への一定の決意をおそらく暗示 しているが、多くの努力と資源を費やす心構えをした「侵略」に徳光はあまりこだわら ず、後唐もまた彼らが戦おうとすることを心配していない。さらに、もし本当に徳光が

「侵略」したのなら、なぜ彼は抵抗がなかった時にもこれほどゆっくりと行動したのか? 

河陰を取ったのは、地方の軍事力が動員され徳光が霊丘を「侵略」する 4 週間前で、帰 途で陽城を包囲する 6 週間も前である。これらの間の距離は大きなものではなく、遼軍 はおそらく 150 × 280km(95 × 175 マイル)の範囲で行動しているように見えるし(注 21)、 南へと圧力をかける試みを全くしていない。確定的な結果や領域的占領、あるいは統治 に関するものは全く何もなかったのであった。

 私達はこれを征服ではなく、境界地での生活の一部に適合する、ありふれた「遊牧民 としてくらすこと(nomadizing)」の発展形と考えることができる。妊娠している場合 もある女性やおそらく集団の従者も含む帝国の家口は、軍隊の行軍に適する季節と考え られた数週の間、後唐の領域の東北端に広がり(注 22)、地方の牧草地や作物の上で家畜 にえさを与えている。徳光の追従者のための手っとり早い報酬は、城壁で囲まれた一群 の都市の降伏によってもたらされた。その都市は包囲する騎兵に対して流血と損害を最 小限にするために、喜んで一時的に降伏した(注 23)。この範囲において、遠征は襲撃に 似ている。この状況は誰もがおなじみで、規則的な年中行事のようなものであった。地 方の都市に関わる住民はおそらく遊牧民がやって来ると知っており、状況に対応して財 産を隠し、女性や子供を高地に送っていた、といったことが考えられる。領域の知事は 遼を監視するため地方の軍事力を動員し、出撃した、というが、戦闘において彼らと接 触し命を捨てようとはまったく思っていなかった。遼は歩兵の到着を撤退の合図としつ つも逃亡はせず、武装しての交戦を避けた。

 そうした相互の駆け引きがありふれたものであったのは、来訪者の「蹂躙」を被った 地域のために三年分の税金が規則的に放免されることに見られる。そして次の夏の報告 では西北辺からの契丹の兵士が――今回は中央の指揮下になかった――、徳光の遠征が 攻撃したのと同じ場所を襲撃した。すなわち新州、振武(朔州)および應州である。さ らにその秋(935 年)、徳光の「侵略」に服従する前のその年だけ、韃靼が霊丘で平和 に定住したと報告されている。実際的な報告をしたのが知事の石敬瑭であることは、少 なくとも彼がその状況を容認していたこと、そしておそらく彼が韃靼とある種の関係を

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持っていたことさえも示唆している(注 24)。おそらくこの集団は唐の権威に服従し、徳 光が許可無く行ったことを行う認可を持っていた。これらすべてをふまえれば、耶律倍 の要求と徳光の遠征とのつながりを推定することは無謀である。私達は、徳光がお定ま りの遊牧民の活動と同じくお定まりな後唐の対応を幾ばくかの政治的有利さに変えよう としたとも想像できるが、どんな特使が彼の要求を伝えたか不明とされていては、これ には説得力が無い。

 遼皇帝その人が参加したため、934 年の侵入(incursion)に関する記述は異常なほど 豊富だった。そこからの知見に留意することで、私達はその後の襲撃と「侵略」を考察 できるのである。襲撃として記された出来事は『遼史』『旧五代史』の両方でいくつか の公式・非公式な事柄に連続している。先述した 935 年の非公式な契丹の略奪は別とし て、私達の目的のために最も重要な報告は、同年に黒楡林(朔州の近く)に 2 万の契丹 騎兵がいたと述べていることで、それは遼の意図と唐の警報のしるしだと受け止められ

やすい(注 25)。しかし、『遼史』は徳光がこれを命令したことについて何の証拠も与えて

くれず、『旧五代史』の記述は論拠としては簡潔すぎる。それは単に、緊急事態に対し てうろたえなかったという記録なのだろう。通常より慎重な監視が必要であったろう が、お定まりの遭遇戦よりも本来的には厄介なものではない。その同じ夏、幽州知事の 趙徳鈞は易州の「契丹の宿営」での「奇襲攻撃」(すなわち略奪)を報告した。一方そ の年の末、徳光は幾人かの指名された人物に「生きた捕虜を敵の境界から連れ去れ」と 命じている(注 26)。これは明確に公式な投機的事業であり、徳光は情報や身代金のため の人質を求めたか、あるいは単に人口を拡大しようとしたのだろう。先の易州の襲撃

――すなわち一般的には襲撃に対して「防御」した記録――も公式なものと想定するの は容易だが、その記録は誰が攻撃を扇動したかを明らかにしていない(注 27)。それは徳 鈞であったかもしれないが、同時に彼は防衛よりも財政上の動機を持って、事態が管轄 外にあったとおそらく報告したことだろう。

 これら相互の駆け引きの背後にある動機が何であれ、それらがどのような脅威を表し ていたかを示す史料はいずれの側にもない。少なくとも後唐の朝廷は、河北の旱魃と飢 饉を憂慮した(注 28)。たしかにそれは双方で襲撃のうちのいくつかでも促したかもしれ ない。後唐の朝廷は増大する石敬瑭の力を憂慮していた。なぜなら――これが最初でも 最後でもないが――南に向かう牧畜民を監視する必要性が、境界の知事に権力の基盤を 増大させることを可能にしたからである。932 年から石敬瑭は、河東の知事としての主

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要な役職に加えてフロンティアでの 4 つの知事の地位を保持した(注 29)。この任命は、

おそらくはお定まりな遊牧民の襲撃に対処することを目的としたが、結果として後唐の 西北地域全体のコントロールを石敬瑭に与えた。935 年の記録の半ばは、石敬瑭が彼自 身の軍に皇帝として歓呼で迎えられた、というものだった。石敬瑭自身は首謀者を罰し たが、その出来事は朝廷で彼についての重大な懸念と、彼の権力を削ろうとする試みを 引き起こした(注 30)

石敬瑭の反乱

 後唐が石敬瑭を恐れるのももっともで、936 年の夏に彼が蜂起した時には即座に、地 方官や将軍、諸地域の多くが彼の側に回った。張敬達の指揮下で朝廷から送られた帝国 の軍隊の迅速な先遣隊を、離脱者たちは断ち切った。彼らは謀反からほんの数日後、石 敬瑭の座する太原城下に到着した。石敬瑭の行動と無関係であるような反乱軍から中原 の中心である鄴都を奪還するために、別の軍団が送られた。この奪還は七月まで続い た。政権の対応はさらなる離反を防ぐことができず、また、後唐に従っていた奚の遊牧 民も反乱を企てたという(注 31)

 境界での支配の広がりにもかかわらず、石敬瑭自身の持つ軍隊は不十分だったよう で、西北での在職期間を通して彼は朝廷にくり返しより多くの軍を要求した。彼は今や 遼に助けを求め、見返りに金銭や十六州、そして遼の支配下で仮子として従属すること を提案した(注 32)。これは決して五代において、華北の指導者が北方に助勢を求め、遼 の支配者にその忠誠を誓約した初の事例ではなかったが、対価として領域が提供された のは初めてであった(注 33)。呂思勉は、沙陀族として石敬瑭は中国の領域を与えること を気にしなかったとの見解を出している。しかし、石敬瑭の沙陀としての継承者劉知遠 が、遼への支払いは土地でなく品物でされるべきだったと強く議論していることからす れば、これは一事例であって沙陀全体が同様に感じたわけではない (注 34)。と同時に、

石敬瑭は領域の申し出によって遼が引き付けられることを望んだらしい。ここで重要な のは一見して、徳光はそれを求めていないことである。とはいえそれが提供されれば、

彼が受け入れたのも驚くことではない。

 徳光自身は八月に、雁門の通りを抜けるおなじみのルートを取って南に数万の軍を 送った。そして太原での後唐軍との対決のため忻州を経て行かせた(注 35)。934 年の遠征 と違って、この事業は明確な目的を持ち、大軍を備え、遼の皇帝はより積極的に戦った。

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 後唐側は遼の野営地へ、一度は正面から、一度は隠れてという二回の攻撃で主導権を 取った。しかし激戦で勝利したのは石敬瑭と遼の連合軍であった。破られた後唐の軍隊 は晋安の要塞に逃げ込んだ。徳光の敷いた包囲攻撃からは、彼の一貫した意思が確認で きる。それが、派遣された四部隊ほどの後唐の援軍を、洛陽の朝廷から切り離した。ふ たつは実質合計三万の兵士で、太原の近くで合流し趙徳鈞と趙延壽(父と仮子)により 導かれた。三番目は二万を数え、范延光の指揮下で約 40km 東にとどまった。そして、

首都の近くの黄河において約三万の予備軍が配置され、皇帝自身により率いられた。朝 廷はまた将軍に太原の西南のふたつの州から非正規軍を集めるよう命令した(注 36)。  これらの軍隊が集合し配置につく間、徳光は石敬瑭を晋王につけた後、十一月に彼を 正式に大晋皇帝とした(注 37)。同時に、後唐の抵抗は崩壊した。援軍は小競り合いには 勝利したが前進に失敗し、皇帝自身は望みをすて、晋安で包囲された唐軍は屋根の草ぶ きや死んだ馬を食べるはめになった。約 80 日後、張敬達麾下の楊光遠は司令官を殺し、

彼自身と軍隊、生き延びた馬五千匹を遼側へ引き渡した。後唐の兵士は石敬瑭に手渡さ れ、おそらくは馬たちも同様であった。趙父子に指揮された兵士は追撃されて捕虜と

なった(注 38)。李従珂の率いる朝廷は急事に対応できなかったようである。強引な募兵

による軍隊はほとんど未訓練であったと思われ、何の効果もなかった。残る范延光の軍 隊だけは訓練され効果的な指揮の下にあったが、 彼は自身の主導権の下で同盟軍に抵抗 する何の動きもしなかった。征服者と、首都を傍らに置く黄河の間には何の妨げもな かった。同盟軍は黄河からなお 150km の潞州まで行進した。

 全面的な勝利を得ながら、遼の将軍たちはさらに進むことを声高に要求はしなかっ た。代わりに勝利した兵士の退却を要求し、徳光は最初の派遣団に帰還を命じた。同時 に彼は、贈り物とちょうど五千の騎兵の護衛を提供して、帝位を取らせるため南へと石 敬瑭を急送した。石敬瑭を見送るために徳光は、二人が父子の関係となるための宴を催 した。徳光は「我々の帰還前に無秩序が解決されるのを待つだけ」だと約束した。これ は彼が距離をとって石敬瑭の即位を見守ることを意味している (注 39)。しかし後唐の指 導者は、石敬瑭よりも徳光が征服をしようとしていると仮定した。後唐の本紀に従え ば、意見は分かれた。唐の増援がそのまま居続ける間は遼にはさらに南に進む勇気はな いだろうと信じるもの、激怒して首都防御のための撤退を要求するもの、皇帝に河陽の 河で立ちはだかることを勧めるもの、どんな防御も不可能だと論ずるもの(注 40)。徳光 による乗っ取りの仮定は十分に論理的であった。なぜなら彼は明らかに、石敬瑭の謀反

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の背後にある力であった。そして後唐の視点からすれば、ひとたび首都への道が開けば 他に何をするというのか? もし後唐側が石敬瑭と彼のわずかな護衛を攻撃したなら、

遼の意図を試すことになっただろう。徳光は本当に石敬瑭の援助に来ただろうか、ある いは、石敬瑭を見捨てたか? もし彼がさらに南に進軍しても、やはり撤退するのか? 

しかしこれらの議論の後、後唐皇帝はまもなく自殺した。だから年末に石敬瑭が首都に 到着した時には、大臣と生き残った廷臣はおそらく少しばかり驚いたことだろう。一 方、徳光は北に向かった。さらに 937 年の新年に、徳光はより多くの部隊――この時点 で軍の重要な部分となっていた奚族の兵士――を帰還させた。そして次の月、全ての部 族(部)に彼らの兵士を休めさせるよう命じた(注 41)

徳光の意図

 936 年の終わりまでに、中原征服の理想的な準備が徳光にはできていたが、彼は実行 しなかった。彼はその時何を望んだのか?

 この遠征最大の意義は、遼による十六州の獲得であった。これは、失地回復に固執す る宋の官僚と、それをモンゴルの征服へと向かう遠大な趨勢の起点と見なす西洋の学者 によって、非常に重要視されている。だからこそ、この問題に関する情報がかくもわず かでまばらなことには驚くべきだろう。石敬瑭の本紀の語る唯一の時系列によれば、石 敬瑭の即位と同じ日に、年間の支払いおよび領域の受け渡しが同意されている。しかし これについて『遼史』の本紀は、よく知られた 937 年六月の十六州の見返りに関する石 敬瑭の要求まで何ら言及せず、938 年の終わりになって初めて、地図と台帳が遼にわた されたとしている(注 42)。にもかかわらず、すでにこの時までに帰途についていた徳光 は、この領域が彼のものであると考えていた。彼は雁門では捕虜とした軍団を分配する ためとどまり、應州では大同すなわち彰国と振武での、石敬瑭の以前の州知事職を続け させると決めた。そしてその一州が服従を拒絶した時には、徳光は降伏を促すため兵士

を送った(注 43)。私達は、石敬瑭の年間の支払いが、彼らの「フロンティア外延部の戦略」

において優先されるものよりも領土からの利益で補われたことに注意するべきで、実際 徳光は十六州と増額された歳貢との交換を断っている。ここでは彼は自らの望むものに ついてはっきり確信している。そしてそれは、彼に与えられた領域とそれを管理する役 人たちとの接収を明確にともなっていた。

 にもかかわらず、同時代人にとって領域の譲渡は、新しい状況の中で最も重要な側面

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ではなかったかもしれない。双方の史料は、彼らの支配者の間の新しい関係にはるかに 重きを置いている(注 44)。晋安の包囲攻撃を記す『遼史』の本紀は、徳光が石敬瑭に言っ たことを引用しているようである。

 「觀汝雄偉弘大,宜受茲南土,世為我藩輔。」遂命有司設壇晉陽,備禮冊命(注 45)。  言い換えれば、行動中の石敬瑭を見た徳光は、彼が遼の南の境界を侵入(incursion)

から守りつつ、中原の良好な支配を形成するだろうと評価していたのである――公式に も、そしておそらく非公式にも。

 『旧五代史』の記述はこれを展開させている。それは、即位の前に徳光が石敬瑭に言っ たことだけでなく、徳光の勅令が権力を石敬瑭に与えていることを示すよう主張してい る。文書と個人的述懐の双方が、支配者としての石敬瑭の個人的な資格を強調する。徳 光は石敬瑭が「理解のための幅広い能力」を持つと当人に言い、その布告では「天が(彼 の)勇気を讃える」と述べた。そのテキストは、その命令が王朝を変更するための正統 な理由であると称し、石敬瑭の後援者にして義父であった李嗣源と徳光との複雑な関係 を遠回しに言及している(注 46)。「畏るべき残酷さ」を持つ「暴君李従珂」への厳しい批 判は、石敬瑭の謀反の正当化に作用するが、低い生まれで「天に反逆する」には、徳光 の勇ましい支援が必要だった(注 47)

 私達はここで、そもそも決起において徳光が石敬瑭に約束したのは、その支援だった ことを思い出さねばならない。というのも、徳光が石敬瑭に帝位を約束した記録はまっ たくないのである。かつての阿保機のように徳光は、様々な華北の指導者たちの内乱に おいて彼らを助けてきた。だから、彼が石敬瑭の反乱を同じような機会として扱っても 無理はなく、その成功は決して保証されていなかった。936 年、石敬瑭の乱の広がりと 後唐の抵抗の崩壊を見てはじめて徳光は、地方の知事の自立を手助けする試み以上のこ とを、現実的に想像できたのかもしれない。言い換えれば徳光は、石敬瑭を皇帝にすえ るつもりでこの冒険的事業に入ったのではなかった。その代わりに双方の史料は、徳光 が石敬瑭に報酬としての王国を与えたのは、遼の皇帝たる彼が抱いた石敬瑭の美徳への 高評価のせいだった、と描いている。

 しかし、石敬瑭の擁立を進めていることを当人に話す前に徳光は、ただ一つの戦いで 自らが勝利を得たという事実に気づいた。そこでは、軍事的功績の徳によって、石敬瑭 にではなく彼自身に明白に命を下す天意が示されていた(注 48)。徳光は『旧五代史』で 引用された文書において、彼が「元来あなた(石敬瑭)を私に(臣民として)ついて来

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させるつもりであった」と主張しており、また、石敬瑭への冊命の語彙は、皇帝より下 位の地位を授与するために使われるものである。しかしその勅令は、石敬瑭が、それを 必要とする土地の支配者としての必須の役割を満たしていたこと、そして彼の徳は、「皇 帝を拘束している規則」を彼が受け入れることを要求していたこと、をくりかえし示唆 する。遼と晋の間の父子関係は具体的に記されており、帝位を手放さぬためには徳を表 すことが求められ、それを続けることを欠けばフロンティアのトラブルとして現れるだ ろう、という警告によって締めくくられている。これを警告以外のものとして石敬瑭が 読むことは愚かであろう。

 もしこれらの記述が実際の発言や記録にある程度近いなら、これらの出来事は、近隣 の君主との関係に関する従来の中国の理解に、重要な再考を求めることになったであろ う。記録されたように徳光の勅令は、彼(または彼の官吏)が、草原の、そしてまた間 違いなく境界地の世界から、彼になじみ深い類いの命令の専門用語を適用したことを示 している。そこで最も強力な軍事的指導者である徳光は、彼が破った、あるいは敗北の 危険を冒すより服従を選んだ者からの忠誠を受け取ってきた。そして、彼のカリスマ 的・経済的・軍事的な合法性を、組織や軍号の受け取りや利益の分与によって、彼の部 下の地位を支えるために分け与えた(注 49)。かくして徳光はタングート(党項)、室韋、

そのほか彼の優位な立場を受け入れた者から「貢ぎ物」をうけた(注 50)。 936 年、石敬 瑭は徳光に、タングートや女真の指導者とほとんど同じ方法で正式に従属させられてい たが、中国の記録においては後晋王朝の天子として存在した。国家間での用語における 彼の従属的地位にもかかわらず、もちろん彼は、施政権を持つことを主張する他の同時 代の中原の支配者のように後晋の人戸にふるまったであろう。しかし、施政権は官僚機 構と不可分であり、こうした状況においてそれを要求することは、国外で下位の役割を 受け入れている現実と、国内の目的のために不可分な最高位の地位を満たすこととの間 で矛盾を生じた。この矛盾は、石敬瑭が帝位を保持している間、外部の支援に彼が全面 的に依存することで、強調されるばかりだった。

 もし石敬瑭が下位の皇帝としての登用に不充分であると判明したら、徳光は自ら帝位 を得ることに誘惑されたであろうか? あるいは、彼はただ他の誰かを見つけたであろ うか? 他の候補者はたしかにいた。石敬瑭が帝位についたほんの数日後に、後唐の支 配者趙徳鈞は、南の王国で彼が皇帝として石敬瑭より多くのものを提供できたことを徳 光に確信させることにほとんど成功した。即位はすでに実行されていたが、徳光は最初

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戦場で趙徳鈞の申し出を受けており、困難だったのは、石敬瑭を支持するよう徳光が説 得することだけであった(注 51)。したがって、自分で南の王国を支配することへの興味 を徳光が本当にまったく持っていなかったというのはありえることである。彼のための 中原統治に支配者たちが失敗したとしても、徳光自身がそれをする必要はまったくな かった。

 936 年に起こったことは、以前の遼と中原政権の間での相互の駆け引きとは明らかに 違った。しかしそれは、遼が征服に本腰を入れたためではない。二つの違いが重要であ る。一番目は、930 年代に遼という国家が――その南の隣人より明らかに堅固に――成 立するまで、徳光にとっては日和見的に領域を増加させることで充分だったことであ る。より一層の発展には、中央の制度を設立し徳光に従う牧畜民の幸福を維持するため の、より多くの資源が必要とされた。これらは領域という形である必要はなかったが、

934 年に記述されたもののような不安定でローカルな「合意」――あるいは、暴力的な 盗み(violent theft)の不確定要素――に比べれば、徹底的な所有には明らかな利点が あった。農業にも適したようではあるが、十六州は完全に遼の人々が習慣的に遊牧を行 う土地であった。なじみがあり、管理あるいは防御のために大きすぎもしなかった。資 源の基地としてそれらは徳光の目的に理想的であったが、彼はその獲得を意図的に試み なかった。むしろ彼は、北中国の境界地の、彼の仲間とするあらゆる文化的集団のリー ダーすべてとともに、彼の隣人によって示されたどのような機会でも単に利用した。遊 牧民と定住者の敵対的な状況において私達がこうした出来事全体を耳にするということ は、現実の正確な反映というより、史料や歴史編纂上のアクシデントである。

 以前の出来事との第二の違いは、徳光や彼の大臣が、中国的統治の根本的な原則とは 矛盾する国家間の関係のために中原の用語を借用したことであり、このこととステップ や境界地の伝統との違いは本当に際だっている。徳光は軍事的にだけでなく、新しい状 況下で古い概念を操るという能力においても、この状況をコントロールした。ステップ と中国双方の伝統のより優位な地位を獲得しながら、徳光は全く矛盾を経験しなかっ た。というのも、彼がステップのリーダーであった時と同様、彼は納得の行くように命 を下すことができ、また下位の役職を石敬瑭に授与することができたからである。徳光 にとって使われる言語は重要でなかった。しかし彼は、中原の人民の認めうる組織に よって石敬瑭をつなぎとめることの有用性を認識したようである。これらのうちのいず れにせよ徳光自身が計画したはずはないが、自身の居る状況の多くを築くため彼はまた

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も非凡な能力を示した。中国の領域でこのこじれた産物を扱う必要があるのは石敬瑭で あり、遼晋の戦争を招いたのは、彼の死後、妥協を働かせる力が崩れたことであった。

遼晋戦争と 947 年の征服

 遼晋同盟は石敬瑭の生涯にわたって堅固であり続けた。942 年六月に彼が死んだ時に は、その息子である石重貴(晋出帝 942-947)が徳光の「孫」という家族的呼称を受け 入れたが、これにともなった「臣」という従属的地位を拒絶した(注 52)。徳光はよろこ ばず、特使が彼の警告を南に伝えた。そして「先帝はあなたの賢明なる朝廷に推戴され たが、現帝は私達自身の国からその位を受け取った」という強硬な応答を受け取った時、

徳光は「南への征伐を考え始めた(「始有南伐之意」)」(注 53)。だがどんな遠征も起こら なくなって以降、徳光は戦うことを渋っていたようである。出征の季節として時期が適 切であったり、936 年の遠征が同じタイムスケールで組織されていたとしても。『遼史』

によると、晋のあるスパイが「晋が反逆的であった」ことを 943 年十一月の終わり近く に明かすまで、晋は日常的かつ頻繁な使節団を送り続けた(注 54)。 翌月遼は進軍し、北 の境界の少なくとも三カ所を攻撃して貝州に到達した(注 55)。そこは黄河までの中間点 であり、首都の城壁を前にした重要な最終防衛線であった。戦争の最初の犠牲者となっ たのは、晋から遼への毎年の慶賀使であった。944 年、『遼史』の記述にその到着が無 いのは、おそらく皮肉によるものではない(注 56)。遼は 951 年まで、中原の歳貢を受け 取らなかったのである(注 57)

 国内問題に没頭する晋は有効な財源を見つけなければならなかった。主な問題は、国 内の多くから報告される旱魃であった。晩秋までに餓死が数十万も報告された。その頂 点に立つ楊光遠は、現在の山東の西にある青州の知事で、異志を疑われ遼の支援を求め ていると考えられたので、外部からの脅威がさらに加えられた。山東の西の鄆州に配置 された帝国の軍隊と、黄河下流をパトロールしていた 26 人の禁軍将校、という、943 年後半の晋の軍隊の配備は、光遠に対して防御しつつ、北からのいかなる増援に対して も黄河の横断を防いだ。加えて、七つの州の知事と当局がそれぞれの地区の巡検として 任命された。表面上は「契丹が襲撃に来ていたため」であったが、貝州を除いては、首 都の周囲の地方、主に黄河の南と水運を保護することに焦点があった (注 58)。もし契丹 がこれらの防衛線に到達したら、その時点で晋はすでに深刻な危機の下にあるだろう。

 943 年の末、遼の南への進軍と同時に楊光遠は反した。貝州が降伏すると、重貴は遠

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征軍の指揮官を任じ、飢饉救済の命令のためのみに休止しつつ、澶州の河沿いへ野営す るため自ら赴いた。遼は和平の申し出を断った。ほんの数語で報告されているのは、「す でに既成事実である状況は、変えられることができない」というものだった。そして、

黄河を横切ることに備えて、黎陽へ進んだ。晋の朝廷は黄河の四カ所に防衛軍を送っ た。しかし、ちょうど彼らが配置へ移動していたとき、博州(遼の先鋒の東)は降伏し た。楊光遠は黄河の向こうに侵略者(invaders)を案内したが、彼らの前進は麻家口の 戦闘での完全な晋の勝利によって、944 年の二月に停止した。遼の先鋒は渡河を安全に しようと、明らかに「十万以上」と数えられる主力軍をうながし、黄河から彼らの野営 地に退却しようとしていたところをとらえられたのである(注 59)

 この敗北にもかかわらず、遼軍の大部分は無傷のままだったにちがいない。なぜなら 三月、『遼史』は、澶淵の橋の素早い占領が「晋は確かに落ちる」ことを意味するとい う趙延壽の見込みを報告している。しかし、晋を待伏せに導く試みは豪雨によって邪魔 され、そしてまた続く戚城の戦いは決着せず、その季節の間の軍事行動は終了した(注 60)。 遼軍は従来通りの方法で北に撤退し、貝州を守るために趙延昭を残し、途中で徳州を 襲った。徳州を維持しようという試みはなかったようで、貝州の駐屯軍も夏には北へ向 かい、「捕らえられた人戸は内陸へと」移された(注 61)

 貝州と徳州の強奪(seizure)と放棄は、934 年の遠征の間に占領された町を私達に想 起させよう。どちらの都市も包囲されていなかった、そのことは、何者かが引き渡した ことを意味している(注 62)。そして略奪品は徳光の軍隊に報いるのに役立った。中原都 市を保持することへの遼のこだわりは強くなかった。貝州への駐屯は領土の増加を維持 する試みとして解釈することができる。しかし、以降の撤退を含めて考えれば、敵領地 の奥深くでの大軍の撤退をカバーするためにも、等しく賢明な予防措置であったと言え る。背後に敵の前線があり、支配されていないいくつもの町や州によって後ろを断たれ ていたとすれば、それを維持しようと試みることは莫大な軍隊の関与と補給を必要とし ただろう。徳光の軍隊には、晋の領域の奥深くの都市で夏に駐屯するよりも望ましい選 択があったのである。そして、よく知られているように、契丹人たちは中原の夏の暑さ を受け入れられなかった。

944 年から 945 年の時期

 晋はその夏を、新たな民兵召集の制定、次の季節のための新たな十五人の将軍の指

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名、澶淵での黄河の横断をさえぎるための帝国軍隊の配置、引き続き拡大する飢饉の追 跡、などに使った。飢饉は万単位の人を死なせ、いくつかの地区を人食いにまで追いつ めた。好戦的な景延広は朝廷から遠ざけられ、政治家の桑維翰が復帰した。最も重要な のはおそらく、石重貴が楊光遠の反乱に注意を集中できたことである。彼はその年の終 わり頃に降伏し特赦をうけ、それから殺された(注 63)。重貴も遼に平和を求めるため第 二の使節を送ったが、使節は拘留された(注 64)。軍事行動の季節がやって来た時、遼の

「全軍」は 944 年の最後の最後に、恆州―鎮州周辺の九つの都市をとった。そして先鋒 は、黄河の上で黎陽に再び向かう前に邢州に着いた。しかし、彼らの進入が帝国の軍と 相州の一見よく守られた都市によって妨害されるのを見て、遼は引き返して北に撤退し

始めた(注 65)。守備の不十分な領域は大軍でやすやすと前進するが、包囲攻撃に時間と

努力を費やすことは忌避する、という様を、私達は再び見ることになる。領域的占領の ためのマニュアルは無かったのだ。

 戦争を解決するための決戦を求めて、晋はその時攻勢に出た。というのも、和平が不 可能なら、黄河の北へ侵入(incrusion)され続けると、重貴には予見されたからであ

(注 66)。三ヵ月め、深い雪中を進んで、朔州の方へ引き返す前に、晋は遼の領土で勝

州をとった。晋も襲撃戦術を使っていた。なぜなら彼らも勝州を維持しようとはせず、

おそらくは単に略奪(looted)しただけだったからである。遼軍は北へ向かって、祁州 を取った。しかし晋の成功は続き、泰州、満城と遂城の降伏を受け入れた。この時点で 晋軍は、遼軍が古北口と幽州にもどり、晋軍を破って泰州に彼らを押し戻し、今は 5 万 の騎兵隊とともに再び南へ向かっていると、遼の逃亡者から聞いていた(注 67)。ここで の遼軍は守備を固めた都市での損失に反応しているようであり、それは領域に対する関 心を意味するかもしれない。しかしこれは石敬瑭によって遼に与えられ、ほぼ 10 年の 間、遼の支配下にあった領域だった。自らのものと考えるものを敵の蚕食(encroach- ment)から守ることは、領土の拡大のため戦うこととはまったく別である。

 晋の前進は決戦へと遼を引き込むことに効果があった。そして、晋の将軍は占領した 都市から退き、双方が決定的なものになると望んだ会戦に備えて満城にもどった。とい うのも、全晋軍と対峙し「天下を定める」という徳光の願望と、戦争を解決しようとい う重貴の考えは、その時合致していたからである。定州の近くの白團衛村で戦いは合流 し、そこで晋軍は遼を大いに破った。この時に徳光がラクダに乗って戦場から逃れたと いうのは有名な出来事である(注 68)。徳光の軍隊は夏になって根拠地に帰還した。その

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間晋は馬を集め、澶州の黄河の主要な渡河点と、鎮州の北からの進入に対応する主戦線 に兵を配置した(注 69)。晋は激戦に再び勝ったが、戦争がこれで終わったとは思ってい なかった。

 945 年の秋に晋は三度めの和平交渉を求めたが、徳光は「仍お前事を以て之れに答」

えた。だが 945-6 年の季節には軍事行動はなく、代わりに晋は広大な境界の警備活動を 進めた。それは北のフロンティアをパトロールするために帝国の軍隊を送ることや、襲 撃に対応することを含んでいた。『遼史』に何も記録されていないことから、その襲撃 はおそらく非公式なものだったのだろう(注 70)。その損失は民衆にとって多くの困難を 生じた。特に、進行中の旱魃と飢饉(疑う余地なく前年の軍事行動によって悪化する)

のために、河南と河北がなお何千もの死に見舞われていたためである。州治を奪い、時 には討伐軍を破りさえする盗賊集団によって、これらの困難は春夏に明らかとなった。

ステップと華北の間の境界の集団はその忠誠を遼へと転じた。ようやく秋に雨が降り始 めた時、河岸が破れ、出水が河南と河北全体の収穫を破壊したので、盗賊と襲撃は晋の 後背地だけでなく境界地の問題でもあった(注 71)。このように晋の北方防衛は、北方か らの大軍に対する懸念と同程度に、多くの旱魃と無秩序がひきおこす事態への対応のた めのものだった。いずれにせよ、各地方での災害への対処が晋――そしておそらく遼を も――完全に支配してしまっていて、二つの朝廷の間の戦争は保留の状態にされた。

946 年から 947 年の時期と首都の陥落

 遼側の中国人司令官趙延壽の寝返りを誘うことで、晋は 946 年から 947 年の軍事行動 の季節に備えた。彼らは以前に延壽に接近しており、もし彼と戦うために軍が送られる なら「中国(the Middle Kingdom)にもどりたいと思う」と延壽は言っていた(注 72)。 それは熱心に工作された。そして十一月、趙延壽が遼軍とともに南へ行軍する間、晋の 遠征軍は実質的に帝国の全軍を取りこんで、杜重威(注 73)や李守貞その他の指揮下で北 へ向かった。しかし延壽は晋側につかなかったばかりか、徳光がより多くの軍とともに 貝州を通って再度運河ルートに向かってきたという知らせが届いた。朝廷が騎馬先遣隊 に対する防御として二つの予備兵力を送る間、晋軍は鎮州の近くで滹沱水の渡河点を守 るため陣取った。中渡で晋軍と接触し、遼は十分に勝った(注 74)。936 年にも破れた後唐 の軍隊は晋安に立てこもったのだったが、重威は大部分の軍とともに中渡で要塞に避難 した。936 年と同様、遼軍は包囲を敷いた。そして中渡の軍隊は降伏するよう兵糧攻め

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にされ、汴州の首都への道が露わに晒された。晋の将軍張彦澤は以前の石敬瑭がそうし たように遼と合流し、首都の門に思いがけず姿を現した先発部隊を導いた(注 75)。一族 とともに自殺しようとした重貴の試みは、遼皇帝から晋皇太后への文書の呈示によって 妨げられ、重貴は降伏の文書で応じた(注 76)

 936 年に徳光はほとんど同一の状況で首都(そして洛陽)へと進む機会を拒んだが、

今回の彼は首都への先発隊に続いた。重貴は城外で彼に会おうとした。これは大きな敬 意を示したが、『遼史』によれば重貴の忘恩ぶりを「目の当たりにするのに耐えられない」

という徳光によって拒絶された (注 77)。『旧五代史』は勅書での明言を記録している。

 「比欲許爾朝覲上國,臣僚奏言,豈有兩箇天子道路相見!今賜所佩刀子,以慰爾心」(注 78)。 正確な言い回しについては懐疑的でなければならないが、筋立てとしてはより寛大なこ の解釈は、徳光が彼の帝国をいかに運営したか(あるいは、中原側がそれについてどう 認識したか)、何らかのものを示している。徳光は、唐の常例になお則って運営されて いる政治的文脈での――中原の朝廷での――儀式とふるまいについて、北中国の大臣か ら助言を受けていたのである。そしてここでは彼は、中国の公的文脈での公式な慣習を 適用しようとしている(注 79)

 ひとたび首都に入るや、意味深長な敬意とともに彼自身の方針をとる一方で、徳光は おおよそ中原の儀礼を借用し続けた(注 80)。彼は新年元日に、帝国の車駕で首都への正 式な入城を行い(注 81)、百官による降伏の儀式を受け入れ、彼らの地位を安堵する命を 下した。そして彼は予想通り内廷に入ったが、夜をそこでは過ごさず、都市郊外の赤岡 で過ごした(注 82)。続く日々、彼は謁見式を行って、報酬と懲罰を与えることだけでな く、大臣に対する通常の再配置を取り仕切った(注 83)。こうしたことの間に重貴は降格 された。それは『旧五代史』が「契丹の体制によって」であったと慎重に記しているも ので、その処遇は五代諸朝でのそれとは異なっていた。五代では、簒奪されて自殺しな かった統治者は退位させられ、その後に殺されるものだったのである(注 84)。重貴はも と渤海国の境界で土地を与えられ、そこまで多数の随員と三百の遼騎兵の護衛に伴われ た。彼は 964 年にそこで死んでいる。

 中原の皇帝のように徳光は二月まで定期的に謁見を行った。そして、偉大な遼の新王 朝を宣言することから始めて(注 85)、大赦を宣言し改元した。同時に鎮州は中京とされ た。そして、寛大にも晋と遼の臣下に等しく肩書きが配布された。劉知遠が漢皇帝を自 称したという知らせは、西暦 3 月 10 日にもたらされた。その後、三人の古参の遼側の

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中国人が、旧晋首都周辺の枢要な知事職に任命された。ほかの地の降伏した知事は故地 に残された。三ヵ月めの西暦 3 月 25 日に、汴州を中心とする行政区を運営する宣武の 知事に、遼の皇室(蕭翰氏)のメンバーが任命され、その地区の後唐での名称が復活さ

れた(注 86)。新しい遼の首都(徳光はすでに三つ持っていた)が鎮州の北に健在である間、

晋の旧都はこのように格下げされたことになる。遼の統治者は新しく得られた領土で新 しい首都をつくることを習いとし始めていたので(注 87)、新しい中京の設立は中原の制 御を続けるという意向を示したのかもしれない。他方で、新首都が新領土の中央よりは むしろ遼の有する十六州の南の境界のごく近くに位置したことには興味をそそられる。

 これに関する一つの説明は、軍事的なものであろう。というのも鎮州は多くの軍事行 動や平和的共存からさえも遼には関わり深く、難攻不落と証明されていた(注 88)。さら には、高度な戦略と政略もからんでいる。中京として鎮州を選ぶことは、領土拡大に傾 きすぎはしないことを暗示していただろう。牧畜をよしとする彼の支持者に対し、汴州 の保持を要する持続的な戦略の利益を納得させるのは困難であろうことを、徳光は意識 していたにちがいない。だが鎮州であれば、防御のみでなく遼にとって前線も提供して くれることになる。十六州は遼に南北のアクセスを開いたが、鎮州は峡谷の下流へと軍 事的境界線を押し下げたのである。強大化した遼は十六州を維持し、さらにもし徳光が 鎮州周辺の制御を保持すれば、おそらくは十六州と同等な課税対象となりうるほどの新 たな領域となり、同様に管理もできるだろう。もし徳光が少しでも領土の拡大を目指し ているならば、これは賢明な最高のやり方であっただろう(注 89)。鎮州に対する関心は 彼のこれまでの成功をふまえていた。過度の拡大を避けることは利益をもたらし、統合 の困難さを和らげるのである。

 汴州を降格した三週後、西暦 4 月 14 日に、徳光は晋の朝廷のすべての貴重品を北へ 移す有名な命令を出した。それには以下のものを含んでいる。

    晉諸司僚吏、嬪御、宦寺、方技、百工、図籍、暦象、石経、銅人、明堂刻漏、太 常楽譜、諸宮縣鹵簿,法物及鎧仗(注 90)

これは大規模な略奪だった。というのも徳光は、帝国の宝物庫の中身だけでなく、帝室 図書館の最後の編集者に至るまで、晋の首都の官僚組織全体を北に持ち去る予定だっ た。それは、中原の拠点から支配しようとする者ではなく、せいぜい北方から支配しつ つそこでの収穫を楽しもうとする者の行動だった。一地方としてでさえ中原を統治する には、諸行政区間の連絡網だけでなく、多くの首都官僚の努力を要した。すべての官僚

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を残らず移動させるという計画は、その後に中原をどのように管理するか、徳光が顧慮 しなかったことを強く示唆する。中原を有して利益を得ようとするなら課税しなければ ならず、効果的な課税には相応の統治機構を必要とし、官僚は適切なまま置かなければ ならないと徳光も理解し知っていた(注 91)。彼がそうしなかったことは、中原全体を支 配しようとする意図が皆無だったことを示し、他方、人々の職能を手に入れようという 彼の関心は、故地でそれを発揮させることができると考えていたことを意味する(注 92)。 結局大部分の官僚は鎮州で取り残されたが、撤退後の遼朝の大きな再編(注 93)は、徳光 とその後継者が後晋の官僚を彼ら自身の官僚機構の成員を満たす職能のプールとみなし た、という印象を強める。このような征服の一面からは、それは基本的に非常に大規模 な襲撃であった、という考えが支持される(注 94)

 この略奪を命じて四ヵ月めで、徳光は故郷に向けて出発した。ここで彼は暑さを逃れ るため北に退却するという通常の遼のパターンを踏襲した。というのも、ここで議論し たいずれの遠征も同じことをしているからである。『遼史』の本紀は、ことの顛末につ いて尋ねた弟に対する徳光の返事の文面を、はっきりと引用している。戦争を要約して 徳光は彼の軍の勝利と記したが、地域的問題の多さを述べている。それは、管理の混乱 と怠惰、権力者の敵意、盗賊と河東すなわち劉知遠の後漢政権の抵抗も含んでいた。彼 は続けて、

    非汴州炎熱,水土難居,止得一年,太平可指掌而致。且改鎮州為中京,以備巡幸。

欲伐河東,姑俟別圖(注 95)

といっている。この書簡は徳光の真意が中原の征服にあったことの証としてしばしば用 いられる。そしてそれは、彼の努力が失敗に終わったことを意味する。南を支配しよう とする意図のここでの最も有力な証は、巡幸の計画であろう。それは支配領域を巡回す る遼の支配者の常態に適合しており、また唐の事情においても理にかなっていた(注 96)。 しかし、新しい中京を基地とする巡幸は必ずしも後晋全体を含んだわけではない。徳光 の領土的野心が鎮州のまわりに限られていたとすれば、巡幸はその地域のみだったと思 われる。この書簡だけでは徳光の懸念が鎮州を中心とするものであったと証明はしない が、彼が中原全体を保持しようとしたと示しもしないのである。

 その書簡は、中原の皇帝たりえる自らを思いがけず見出した状況に関する現実的論評 である、ととらえることもできる。支配の強化がいかに簡単であったかという述懐はさ ておき、気候と地形についての彼の警告は重要である。それらは、徳光や他の何者であ

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れいかなる制御もできるものではなかった。彼はそれが単に軍事的または政治的成功の 問題であるならば、ほとんど困難がないだろうと言っているが、生態学的な要因を考慮 に入れなければならない以上、遼が「平和裡に統治(govern)する見込み」はなかった。

より現実的なゴールは、河東を「服従させる(subjugate)」ため戻ることだった。鎮州 より防御しやすいのもさることながら、気候は彼らにも許容できるだけ十分に北方的で あり、農牧の混交も可能だった。それは漸進的拡大の次の段階となるか、遼の境界を河 東からの襲撃や中原の統率された攻撃から守れたかもしれない。徳光が鎮州を保てれ ば、河東は次の明らかな目標となったろう。失敗の告白からほど遠いその書簡は、完全 な征服に関して長く抱いてきた野心の達成についてではなく、現在の状況と将来の見通 しについて述べたもの、ととらえられる。

結論――より広範な問題

 それでは、遼は何のため戦っていたのか? ここで本論は、領土の支配の問題を支配 者の地位の問題と混同させていては、後晋王朝の始まりと終わりの事件は説明できない ことを主張しよう。侵略は征服の欲求を意味し、征服は直接的統治の欲求を意味するな どという安易な仮定は、ここで考察した事例には全く適合しない。私達はこれら二つの 質問を切り離して尋ねなければならない。徳光は領域を欲したのか、そうであればどれ ほどに? そして、徳光は中原皇帝として直接支配をしたかったのか?

 徳光が領域的支配を望んでいたか否かという質問への答は、「イエス」である。しか しそれは重大な条件つきのものであったに違いない。944 年の晋の和平交渉について『遼 史』本紀は、徳光が「詔割河北諸州,及遣桑維翰、景延廣來議(注 97)」した、と語る。

これはまるで徳光が領土の譲歩を引き出すために彼の軍事力を使っているように聞こえ る。しかしこれが彼の望みなら、征服した河北の土地を保持するため、後により多くの 努力を費やさなかったのは奇妙である。征服に対する徳光の態度を検討した本論での全 事例に照らせば、これは徳光が「領域的支配を試みている」ケースであったことはあり えよう(注 98)

 たとえ徳光がこのように何かを本当に言ったと仮定しても、具体的な証拠――都市や 地域の獲得を記録したもの――が恒久的占領の意図をめったに表さないことを、私達は 見てきた。これらは通常、兵士に報いるため、あるいはおそらく退却を支援するための 一時的な占領である。外交的な(あるいは非外交的な)宣言にもかかわらず、その全体

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それから 3

としても極少数である︒そしてこのような区分は困難で相対的かつ不明確な区分となりがちである︒したがってその

真竹は約 120 年ごとに一斉に花を咲かせ、枯れてしまう そうです。昭和 40 年代にこの開花があり、必要な量の竹

自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので

その2年目にはその数798件におよんだ。 その 届出相談, および行政にたし、する大衆からの