• 検索結果がありません。

独立より1960年までのインドの外資政策

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "独立より1960年までのインドの外資政策"

Copied!
38
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

独立より1960年までのインドの外資政策 119

独立より1960年までのインドの外資政策

は じ め に

 この小論では,主として,独立(1947年)より第2次5早年計画期(1956年4月〜1961 年3月)までの対米国資本を中心とするインドの外資政策を問題とする。インド政府の公 式声明等の重要性は言うまでもないが,ここでは,大財閥を中心とする土着大資本,米国 政府・世界銀行,英・米の独占資本を中心とする外資の動向をも重視する。国民会議派政 府は,国民会議派の一面での統一戦線的性格や官僚機構の特異性により,大ブルジョアジ

ー・ 蜥n主に対し一定の独自性を有している。しかし,国民会議派の究極的な基盤は大ブ ルジョアジー主導のブルジョアジー・地主階級であり,大財閥を中心とする土着大資本の インド政府の外資政策への影響力はきわめて大きい。また,彼らの外資に対する姿勢それ じたいも無視できない。

 とくに外貨危機(1957年〜1958年)以後における独占資本主義陣営による援助供与と外 資政策の推移は密接に結びついており,とりわけ米国・世銀の対印援助動向は重要である。

インドは米国の新植民地主義的支配の典型の1つと考えられるが,援助はその最大の下野 であった。経済援助は,次の3つの機能を通じて供与国を中心とする外資の進出を促進す る。供与国政府は援助を条件として自国に有利な形で「門戸開放」を要求する;援:助は企 業進出のための産業基盤を形成する;援助は何らかの形で自国企業へ供与されることがあ る。ここでは,主として第1の機能を問題とし,新植民地主義の構造・運動そのものには 言及しない。

 外資政策は産業政策と密接に関連している。ことに,1948年産業政策声明・1956年産業 政策決平等に見られる公・私両部門の産業上の役割分担の問題は,外資進出の第1の関門 である。国有化をも含め産業統制が外資進出の重要なポイントであることも言うまでもな い。また,税制は外資にとって最大の問題の1つである。これらの諸点についてもできる 限り言及したい。

 さらに,ここでは,外国企業提携(foreign collaboration)に注目したい。独立後,イ ンド政府と土着大ブルジョアジーは,米国を中心とする独占資本主義に対して一定の距離 を保ちながら,資本主義的再生産構造の確立を目指して重化学工業化を推進したが,資金 とくに外貨面および技術面での脆弱性を有している。したがって,彼らは,独占資本主義 国家や外資系企業へ大きく依存せざるをえず,「多国籍企業」を中心とする外資系企業と

(2)

 120

の企業提携を求めた。また,外資側にとっても,企業提携は,独占資本主義の新たな段階 におけるインドに対する譲歩という一面を有しつつも,多大なメリットを有する。こうし て,企業提携は,外資進出の主要な形態となっていったのである。

 なお,外資進出にかかわる具体的事例についても,できるだけ取上げることとする。

第1節 独立より1950年山臥まで

 〔1〕1947年8月,インドは独立を達成したが,イギリス帝国主義から土着大ブルジョ アジー主導下のブルジョアジー・地主階級を基盤とするインド国民会議派への権力の移譲 は,インドにおける帝国主義の莫大な資産保有・投資を認めることを条件として行われた。

この意味では,外資を受容れる土壌は,独立後もそのまま受継がれた。たとえば,R. Palme       1)Duttは,インド独立の妥協的性格について述べるとともに,「インドにある帝国主義の巨 大な資産,投資持株と金融上の利益は熱心に保護され,帝国主義者の搾取物の流出さえも

   、         2)

同じよっにつづいていた」と指摘している。なお,独立によりインドが米国を中心とする 英国以外の独占資本主義国へも 開放 された点は,きわめて重要である。

 大ブルジョアジー主導のブルジョアジー・地主権力下における「混合経済」の大枠を設 定した1948年4月の産業政策声明は,公共部門拡大の原則を打出すとともに,民間企業の 役割をも高く評価している。さらに,同声明は,工業技術・知識面における外資の有益性

を指摘するとともに(第10項),国有化回避の方針について次のように述べている。「……

政府は,当分の間,すでに操業をしている政府部門企業は現在の活動を拡充することによ って,またそれ以外の分野では,現に操業中の企業単位を接収して運営するよりも新規の 企業単位に生産を集中することによって,国家は国富の増加に急速に寄与しうると考えて いる(第3項)」。同声明は,とくに「企業の新設については国家がもっぱら責任を負う部 門」について,次のように,国有化の10年間保留,10年後における再検討および補償につ いて述べている。「政府はこれらの分野の現存企業を,向こう10年間は発展させることと し,その間これらの企業に対し,能率的な運営と妥当な限度の拡張のためにあらゆる便益 を供与することを決定した。この期間の終了時に,全面的な再検討を行ない,その際の状 況に照らして改めて決定を下すこととする。国家がある企業単位を接収すべきであると決 定したときには,憲法の保障する基本的権利を考慮し公正かつ公平な基準に基づいて補償 されよう(第4項)」。.また,同声明は,企業におけるインド人による「所有権の過半と事        3)実上の支配権」の掌握の原則を打出しながら,他方ではその例外を認めている(第10項)。

以上から明らかなように,この声明は,明確に,外資奨励の姿勢を打出しているのである。

この点は,同声明に付属した公式の覚書からも明らかである。同覚書は,最後のところで 次のように述べている。「この決議はインドの産業における外国資本と外国企業の完全な

自由を考慮している。同時にそれが国家の利益によって律せられるべきことを保証してい るのであるが,決議のこの部分は,インド政府が,経営面と技術訓練と投資の面における

(3)

 独立より1960年までのインドの外資政策       121 外国の援助の必要を認めていること,インド企業を補足する意味で外国資本と外国技術を       4)

歓迎すべきことを認めているのを示すものである」。

 国有化の10年間保留条項については,1949年3月,Nehru首相がインド商工会議所連 盟(FICCI)に対して次のように述べている。「われわれは,一定の基礎的・基幹的諸産業

についてさえも少くとも10年間あるいはそれ以上の間それらに手を触れないであろうと,

述べた。そのことは,われわれが10年後ただちに必ずそれらに手を触れるということを意 味していなかった」。これは,できる限り長期間にわたり国有化を回避しようとの意図の 表明である。この点については,同首相はすでに同年1月にも産業諮問委員会に対し次の

ように述べている。「……われわれの政策は,機能している現存の機関を手に入れること        5)

ではなく,生産財を増大させることにわれわれの力を注ぐことである」。また,同年2月,

Pate1副首相も別の角度から率直に次のように述べている。「私の言うことを信じて戴き たい。現在の政府は,いかなる産業についても,国有化を企てるだけの能力も資金も有し     6)

ていない」。

 つぎに,1948年声明の延長上にあり,その後のインド政府の外資政策の枠組を設定した 1949年4月のNehru首相外資声明について見ておこう。同声明は次の4つの原則を打出 している。(1)内外の全産業は「政府の産業政策の一般的要件」に従うこと;(2)外国企業の インド企業との同一平等待遇;(3)外国企業は外貨事情の許す限り利潤送金・投資回収の自 由を有す;(4)外国企業の強制接収の場合,「公正かつ適正な基準に基づき,補償金が支払 われるはず」であり,「接収代金の送金に対して妥当な便宜を提供するであろう」。同声明 は,さらに,1948年声明における「所有権の過半と事実上の支配権」にかんする原則の弾 力的適用について,次のように,1948年声明以上に詳しく述べている。「明らかにこの問 題には,硬直的な基準があるわけがない。政府は,もしそれが国家的利益に一致すると見 られる場合は,一定期間外国資本がある企業の支配権を保有することに反対するものではな い。個々の事例はその功罪に応じて処理されるであろう」。なお,この1949年声明は,1948        7)年声明と同様にインド人職員の訓練についても触れている。

 以上から明らかなように,インド政府の政策声明等は,独立当初より外資奨励の姿勢を 打出し,その後これをさらに強化しつつあったが,インド政府は,たとえば次のように,

実際的諸措置も講じた。外国会社が単独で進出する場合も,インド政府は資金の多くを供 与する用意があった;この時期に設立された国営工場(Hindustan Machine Tools, Hin−

dustan Cables, Hindustan Shipyard, Indian Telephone Industriesや最初の鉄綱プラン ト)のほとんどにおいて,外国提携者は資金供給を求められた;投資の本国引揚に対する 諸制限が漸次緩和された;外国会社は工作機械・肥料のような更Yeserved industries の参入を奨励された;製油所設立のための誘因として,外国会社はかなりの程度の治外法 権を与えられた(後述)。こうして,1953年春でに,インドでの投資条件は合衆国の国際商 業会議所が公表した『綱領』に規定された諸条件にほとんど一致することが,一般的に認

(4)

 122

められることとなった。また,次のようなワシントンのインド人大使の動きも注目される。

彼は,米印両国の民間業者による共同所有の印一米投資会社(後述のICICIのような機 関と考えられる)の設立を訴えるとともに,米国資本のインド進出に明るい未来を約束

  8)した。

 また,国有化についても,前述の政策声明等のとうりに,「国有化の洪水」とも称せら れる1969年の14大商業銀行国有化をかわ切りとする危機管理的様相の濃い一連の国有化の 断行まで,顕著な事例はきわめて少く,次の数例が見られるに過ぎない。インド準備銀行 RBI(1948年);インド帝国銀行(1955年);生命保険事業(1956年)。これらについても,そ の主たる目的は,不振の業界全体の救済,国立中央銀行の設立や経済開発資金の調達等に あり,また,補償の内容,国有化後の役員の構成や経営にも限界がある。これらは資本主       9)

義的国有化の域を出るものではない。

 インド政府は,以上のように,政策声明等の面でも実際的諸措置の面でも,外資のイン ド進出を促進しようとした。ところで,先の政策声明からほぼ明らかなように,インド政 府は,共同出資・共同経営形態すなわち合弁企業形態を,外資受容れの望ましい形態とし ているのである。第1次5力年計画(1951年4月〜1956年3月)書も,「わが国では多数 の外国企業が合弁企業方式(system of j oint enterprises)に基づいてインド人産業家と 提携して新たな産業を確立してきたのであるが,この方式は,外国資本利用の確保にとつ        10)

てふさわしいように見える」と指摘してこの形態に注目し,言及している。

 第2次大戦末期から戦後にかけ,自動車・化学・電気工業・繊維工業等において,大財 閥を中心とするインド資本と英米の「多国籍企業」を中心とする外資との問で,合弁企業 設立をも含め少なからぬ企業提携が行われた。たとえば,岡倉古志郎氏は,「戦後のイン ドの経済界にめだつ現象は,多くの英印合弁会社の設立,および,イギリスの独占企業体 とインドの大企業とのあいだに結ばれた長期契約であるといっていい」として,次の例を 挙げている。Nuffield−Birla協定(Hindustan Motors), ICI−Tata Chemicals協定,

Lansilk−Silsilk協定。さらに,岡倉氏は,「このような英印合弁会社は,戦後,1947年の はじめごろまでに,ほとんど,すべての産業部門にあらわれた」と述べている。また,岡 倉氏は,「独占資本は,また,アメリカ資本とも結びついている……アメリカ資本は,戦 時中から戦後にかけて,ほとんどあらゆる産業部門,とくに機械器具工業,農機具工業,

人絹工業,樹脂工業などに進出した。これにともなって,米印合弁会社がぞくぞく設立さ れ,アメリカ商社とインド商社との協定がつぎつぎに結ばれた」として,次の例を挙げて いる。Radio Corporation of America一ファザブハイ・フォトフォーン協定, Kaiser Frazer Export Co.一Motor House協定, Schenand Rayon/Lockwood Green一ネイシンル・レ       11)

       また,第2次大戦一ヨン協定,Studebaker−Birla協定, Chrysler−Walchand協定。

末期に一部のインド大企業が外資との企業提携の問題をますます取上げるようになり,1945 年夏にこれが最高潮に達しJ.R. D. TataとG. D. Birlaの率いる政府支援の産業使節団

(5)

 独立より1960年までのインドの外資政策      123 が英米を訪問していることも12)注目される.

 〔2〕 ところが,以上のような一部の大資本の動きにもかかわらず,1950年代の半頃ま で,インド資本の外資に対する姿勢は,概して敵対的ないし慎重であった。独立前につい ては,M. Kidronが,大資本家グループによるBombay Plan(1944年)に注目しなが ら,「インドの実業家達は,国家を略奪的な外国資本に対する唯一の保護者と見なすに至 っているので,広範なイデオロギー的譲歩をせざるをえないと考えた」と述べているほど である。たとえば,Bombay Plan(Part II)は,次のように述べている。「われわれは,

私企業と私的所有に基づく現在の経済機構が満足のゆく国民所得の分配をもたらすことに 失敗したことを,認める」,「実践的見地からすると,資本主義と社会主義を区別する意味        13)

は,ほとんどなくなった」。また,Kidronは,独立より1950年代半までについても,一 方ではインド企業の外資に対する姿勢の二面性を指摘しているのだが,結論的には,「…

外国資本に対する敵対的雰囲気,および外資受容れということによる政府に対する不信の       14)

雰囲気は,ずっと明白であった」と述べている。ことに,前述の1949年の外資声明の発表 に際して,FICCIや全インド製造業者協会(AIMO)は,政府の「門戸開放政策」に抗 議し,強力な外資規制(インド人が所有の過半と事実上の支配権を掌握することや外資を 特定分野へ限定すること等)を求めた。このキャンペーンは1953年に最高潮に達した。石 鹸工業においてLever Brosと闘うために結成されたスワデシ連盟は,外国資本保護と いう全般的問題に焦点を当て,その工業の枠を超えて支持を集めた。FICCIも,有名な「ス       15)

ワデシ決議」を採択し,政府へ覚書を送った。

 この時期におけるインド政府の外資に対する姿勢は前述のとうりであるが,インド政府 も無原則に外資を受容れたわけではない。その典型的な事例の1つを鉄鋼産業(1948年産 業政策声明と1956年産業政策決議iでは「企業の新設については国家がもっぱら責任を負う 部門」に属する)において見出すことができる。これについて簡単に見ておこう。

 当初,公共部門への参加を求めるため鉄鋼使節団が英国へ派遣された。しかし,英国の 業界は,「国有化と非国有化の間を往き来しており」,さらに政府の支援もなく,これを拒       16)賢して,その契約を西独のKrUPP−Demag社へ任せた。交渉の初期の時点では,世銀融 資の可能性があった。世銀は,同社とインド政府がそれぞれ必要資金の3分の1つつを調 達するならば,残りの3分の1に対して借款を供与するという立場をとった。世銀は次の ように考えていたのである。業績が確実となった時点で同借款は株式へ転換され,インド 市場で民間投資家へ売却されるであろうし,同時に同社は技術・経営面でその企業を支配 できるほど多量の株式を所有するに至るであろうと。しかし,インド政府は,鉄鋼工場に 対する世銀一KrUPP−Demagの実質的な支配を承認しようとはしなかった。そこで,同社 は自己の株式資本を払込資本の10%へ減額することを希望したが,世銀はこれを承認でき なかった。この計画のために,1953年12月,Hindustan Steel ltd.(授権資本10億ルピー)

が設立されたが,インド政府は,払込資本50万ルピーの80%を出資した。しかし,その後

(6)

 124

同プラントの政府完全所有が決定されて,KrUPP−Demag社との契約は改訂され,その株        17)

式は買取られた。

 一方,外資の側も,インド政府の外資奨励政策にもかかわらず,インドの独立後の政治 的・経済的不安定性や個々の具体的条件に対する不満足のため,インド進出には消極的で

あった。 繽qのように,1957年〜1958年の外貨危機を契機にインドの外資政策は新たな展 開を示し投資環境が「整備」されていくのだが,Sofia Melmanは,1956年頃の米国民 間資本について次のように述べている。「インド共和国における米国民間投資は,植民地 時代に比して著しい増加を示しており,また増加率も増大しているのだが,米国独占体は 一定の節度を示している。彼らは,インドでの「好環境」,換言すれば高利潤やそれらを 輸出したり産業別投資配分を自由に決める機会を保証されるような諸条件を,確保しよう と努力している。米国独占体は,以下の諸要求を出している。課税の軽減,民間会社の準 備金の50%をインド準備銀行に預けさせるインド政府法の廃止,民間企業に対する政府統        18)制の緩和,外国の専門家に対する所得税の免除等々」。

 以上のような状況の下で,1950年代半頃まで,主と、して近代的産業分野を代表する外国支 配ルピー会社形態の直接投資の年平均投資額はそれ以後に比して小さい。さらに,間接投 資の場合の投資額も,それ以後に比してほとんど無視しうるほど小さい。この時期には,

既存外資系企業の撤退さえ見られたのである。たとえば,1954年1月1日までに,100社の 株式会社を支配する16の英系経営代理商社がインド人実業家の手に渡った。しかし,英国 資本の撤退は,主として,綿・砂糖工場,建設・ジュート会社,茶プランテーション等々       19)

の伝統的産業分野で生じた。一方,支店形態の直接投資の伸びは,それ以後に比して著し い。表一1参照。

表一1 企業部門への投資残高 (単位:100万ルピー)

1948年忌 1955年末 1961年末 1965年3月末

直接投資 2,111(82.5) 3,865(87.3) 5,272(77.5) 6,133(65.6)

支       店 1,361(53.2) 2,431(54.9) 2,703(39.7) 2,681(28.7)

外国支配ルピー会社 750(29.3) 1,434(32.4) 2,569(37.8) 3,447(36.9)

子   会  社 1,194(27.0) 2,069(30.4) 2,672(28.5)

そ  の  他 240(5.4) 500(7.4) 775(8.3)

間接投資 447(17.5) 559(12.6) 1,526(22.4) 3,225(34.4)

証 券 投 資 392(8.8) 443(6.5) 547(5.9)

融       資 167(3.9) 1,083(15.9) 2,678(28.7)

民      間 140(3.2) 90(1.3) 1,001(10.7)

. 政      府 27(0.6) 993(14.6) 1,677(18.O)

2,558(100.0) 4,424(100.0) 6,798(100.0) 9,358(100.0)

(注)会社法により設立された政府会社を含む。

(出所)1948年一新名政秀「インド経済開発における外国資本」『アジア経済』1966年,第4号,

   28ページ。

   1955〜1965年一外務省経済一編『インド』日本国際問題研究所,1971年,161ページ。

(7)

 独立より1960年までのインドの外資政策      125  1950年代半面までの外資流入の大部分を占めるのは,石油・製造業,ことに前者である

(1948年央〜1955年末で,石油46%,製造業33%)。1955年末の企業部門への産業別外国投 資残高によれば,石油24%,プランテーション20%,建設・公益事業・運輸10%,食料・

飲料7%,商業6%,繊維5%,化学5%であった。製造業全体では29%を占めている。

表一2参照。石油産業については後述。また,1956年末の企業部門への国別外国投資残高 によれば,英国が80%と圧倒的優i位を占め,第2位の米国は約10%ほどでしかない。しか

し,米国の場合,その割合は,1948年央と比較すると,2倍以上に増大している。表一3

参照。

 表一2 企業部門への産業別投資残高

1948央 1955末 1956末 1957末 1958末 1959末 1960末 1961末 プランテーション 522 872 878 865 951 942 990 1,024

鉱 業 115 93 106 95 118 124 127 124

石 油 223 1,040 1,164 1,341 1,184 1,195 1,492 1,525

製造業 707 1,291 1,442 1,807 2,149 2,303 2,460 2,950

食料・飲料 101 290 297 301 304 340 361

繊 維 280 218 219 211 2ユ1 219 221 2ユ4

輸送用設備 10 36 45 49 57 71 79 130

一般機械 12 50 54 56 59 71 101 140

金属・金属製品 80 111 204 515 760 822 826 951 電気機械・器具 48 146 158 165 171 178 185 148 化 学 80 203 221 229 259 301 345 541 その他 96 237 244 281 328 327 363 465 サービス産業 1,079 1,128 1,193 1,212 1,223 1,263 1,278 1,175 商 業 430 268 290 270 296 278 294 293

建設・公益事業・運輸 315 427 490 534 518 544 528 565

金 融 157 174 168 164 166 189 202 124 その他 177 259 246 244 243 251 254 193 全産業合計 2,646 4,424 4,783 5,320 5,625 5,828 6,347 6,798

(出所)大杉一雄編『インド』アジア経済研究所,1965年,486頁。

       (1)

表一3 企業部門への国別投資残高 (単位:100万ルピー)

1948年央 1956年末 1961年末 1965年末 イ ギ リ ス 2,060(77.9) 3,812(79.7) 4,462(65.6) 5,293(56.6)

ア メ リ カ. 112(4.O) 469(9.8) 959(14.1) 1,932(20.6)

西 ド イ ツ 1 23(0.5) 107(1.6) 245(2.6)

ス  イ  ス 53(2.0) 73(1.5) 93(1.4) 181(1.9)

その他西側諸国② 182(2.7) 464(5.0)

世     銀 サ  の  他

一420(15.9) ユ48(3.1)

Q58(5.4)

757(11.1)

Q38(3.5)

}・・243(13・3)

2,646(100.0) 4,783(100.0) 6,798(100.0) 9,358(100.0)

(注)(1)会社法により設立された政府会社を含む。

  (2)カナダ,イタリア,日本,スエーデン。

(出所)外務省経済一編『インド』日本国際問題研究所,1971年,157ページ。

(8)

 126

 以上のような外国投資動向と同様に,外国企 業提携件数もそれ以後の時期に比してかなり少 い。1965年までの政府による外国企業提携認可 総数2,723件のうち,1955年までのものは284件

(約10%)でしかない。表一4参照。

 〔3〕 後述のように,1950年代半以後,こ とに1957年〜1958年の外貨危機以後膨大な額の 援助を供与した米国やその支配下にある世界銀 行を中心とする独占資本主義陣営は,インドの 産業・外資政策へ大きな影響を及ぼすこととな る。表一5参照。これ以前の時期においては政 府部門開発総支出額も少く

  20)

ピー),

く,こうした事態は避けられた。

表一4 政府による外国企業提携認可件数

1948−55 284

1956 82

1957 81

1958 103

1959 150

1960 380

1961 403

1962 298

1963 298

1964 403

1965 241

(出所)Reserve Bank of India, Fo忽gη    Co1励。磁ゴ。η伽1η4彪η1η4嘘η

   βz〃z/6ッム〜6ρ070,1968,p.4。

       (第1次5力年計画196億→第2次467.2億→第3次863.1億ル    巨額のポンド残高を保有していたため,外貨事情は比較的良好で援助受取額も少        とくに外交面では,インドは,1954年から1955年にかけ てジュネーヴ会議,バンドン会議等において社会主義国へ接近し,積極中立主義外交のも とでアジアの平和と独立に一定の役割を果した。しかし,援助等を介しての米国・世銀の 様々なレヴェルでのインドへの浸透は,この時期にもかなり見られる。この点を簡単に見 ておこつ。

   表一5国別援助承認額      (単位:100万ルピー)

第1次計画末

ワでの承認額 第2次計画期 第3次計画期 債権国会議参加諸国 2,463(64.5) 18,919(74.5) 22,832(78.8)

ア メ リ カ 2,136(56.0) 15,250(60.1) 12,857(44.4)

イ ギ リ ス 4 1,231(4.8) 2,380(8.2)

西 ド イ ツ 1,352(5。3) 3,073(ユ0.6)

そ  の  他 323(8,5) 1,086(4.3) 4,522(15.6)

その他西側諸国 135(3.5) 123(0.5) 322(1.1)

国 際 機 関 572(15.0) 2,605(10.3) 4,115(14.2)

1.B. R. D. 572(15.0) 2,605(10.3) 1,357(4.7)

1.D. A. 2,758(9.5)

社会主義諸国 647(17.O) 3,741(14,7) 1,714(5.9)

ソ     連 647(17.0) 3,203(12.6) 1,096(3.8)

そ  の  他 538(2.1) 618(2.1)

3,817(100.0) 25,388(100.0) 28,983(100.0)

(出所)外務省経済局編『インド』日本国際問題研究所,144頁。

 米国は,すでに第2次大戦中,米国をインド市場から締め出すための英国の一連の諸措 置にもかかわらず,インドへの輸出において第1位を占めるに至った(インドの輸入にお ける米国の占める割合:1938−39年の6.4%→1944−45年の25%)。米国の独占体は,イン

(9)

 独立より1960年までのインドの外資政策      127 ドにおける彼らの地位を拡大するために武器貸与法を広範に利用したのである。米国独占 体は,インドを貴重な原材料の安価な供給源としても利用し,インドの輸出における米国 の占める割合も著しく増大した(1938−39年の8%→1944−45年の21%)。また,米国は,

Grady使節団や大統領の使者をインドへ派遣し,英国に対抗してインドへの影響力を強化 しようとした。戦後も,米国は,インドとの直接的な接触関係を築くために精力的に努力

  21)

   とくに中華人民共和国の成立後,反共反社会主義の砦としてのインドに対する期待した。

が大きくなるとともに,アジアにおけるその戦略的重要性が高まった。1950年8月掛く吻y∂娩 回帰θSは次のように書いている。「彼(ネールー)は,ある意味では,毛沢東に対抗して,

民主陣営側に加えられた釣りあいのおもりである。アジアの支持を得ようとする闘いにお いて,同盟者としてのパンディット・ネールーをもつことは,何箇師団にも相当する価値

   22)  、 がある」,

     こっして,米国は,インドに対して特別の考慮を払い始めた。

 1950年ユ2月,.ポイント・フォア計画による米印経済援助一般協定が締結され,さらにこ れに基づき1952年1月目印米技術協力協定が締結された。これ以後,後者の協定の下で組 織された印米技術協力基金へ,米国の援助が供与されることとなる㌔また,1951年6月,

米国経済協力局による1億9,000万ドルにのぼる食糧援助が決定された。これに対し,イ        、         23)

ンド政府は,支払いの一部を戦略物資の引渡しで行っことに同意した。米国は,これを利 用してインドに圧力をかけ,朝鮮戦争におけるインドの中立的姿勢を変更させようとした カ㍉これカ㍉かえって外国援助への依存を回避しようとする作用を強化したのである14)

 一方,世銀も,1950年代半までに,鉄道・ダム・農業向けの対政府借款とともに,民間 会社へも借款を供与した。たとえば,1952年6月の世銀総裁の訪印に続いてU.S. Stee1 と密接な関係があったG.D. Woodを団長とする使節団が訪れ,その結果インド第2の 民間鉄鋼会社IISCOに対する3,150万ドルの借款と政府公社に対する電力開発のための       25)1,950万ドルの借款が供与された。前述のように鉄鋼産業は国家独占的色彩の濃い分野で

あるが,この使節団は,さらに,政府が既存鉄鋼企業に対して財政援助を与え,その設備 拡張を承認するよう勧告した。政府は,この勧告に基づいてIISCOに7,090万ルピーの融 資を行なった。同じく,政府は,インド最大の民間鉄鋼会社TISCOおよびMISWに対 しても,それぞれ1億ルピー,2,82。万ルビ_の融資を行い,その設備拡張を援助した16)

 世銀は,また,民間企業のための産業金融機関の設立・運営に対しても大きな影響を与 えた。世銀は,1951年冬り産業金融公社(IFCI)を民間部門産業企業へ世銀借款を導入す る機関として利用する可能性をインド政府と検討していたが,1952年IFCI法修正によっ       27)

てこれが可能となった。さらに,次のように,外国借款を導入するための新たな機関(後 の産業信用投資会社ICICI)を民間部門に設立することが決定された。1954年2月,民間 産業の拡大と近代化に融資するための民間の所有と経営による開発会社設立の可能性を調 査するために,世銀使節団がインドを訪れた。その後,この新しい金融機関の性格と構造 を世銀と協議するために,大財閥の代表から構成される運営委員会が設置され,そこでの

(10)

 128

協議等を経てICICIが設立されるに至った響ICICIについては後述。

 なお,すでに1953年に,米国商務省が,『対印投資の手引き(1卿6s 〃zθ窺助伽4砿1953)』

において,次のように対印投資奨励の方向を打出していることも注目される。「今日イン ドの投資に対する空気のなかでもっとも顕著な面は,外国民間投資さらに民間企業全般の 必要性がますます認められ,したがって外国投資家に魅力のある条件を提供する意向があ ることである。この事態は徐々に生まれ,ことばでよりも行動によって明らかにされてき た。対印投資の承認を得,あるいは承認をうる交渉を行なっている外国会社の資料によれ        29)

ば,相互に満足のゆく条件で投資を認められた外国投資家の数は増大している」。これは,

メジャー側にきわめて有利な石油精製部門への進出等の事態の反映であるとともに,イン ドの戦略的重要性に対する米国政府の配慮とも関連しているものと考えられる。

 〔4〕 この時期,石油精製・原油開発分野への,インド側にきわめて不利な形でのメジ ャー進出が行われた。前者はStanvac Refining of India Ltd.(1952年), Burmah−Shell Refineries Ltd.(1952年), Caltex Oil Refining Ltd.(1953年)であり,後者はStanvac とインド政府との合弁事業Indo−Stanvac Project(1953年)である。ここでは,石油精 製へのメジャー進出について簡単に見せおこ晃。)

 このメジャー進出においてまず注目すべきことは,次のように,インド政府との製油所建設 協定によって外資側へ種々の「特権」が与えられていることである。(1)普通株式の完全外

国所有;(2)産業法適用免除;(3)25年間の国有化免除;(4)原油源選択の自由;(5)一定期間の 原油輸入関税免除;(6)石油製品への10年間の保護関税;(7)「輸入平衡価格」での製品販売

;(8)税制上の優i遇措置;(9)基本施設の提供;(10)波止場使用料の保証;(11>必要外貨の保証;

       31)

(12)資材・設備への輸入関税の緩和。

 インド政府が国内における製油所の設立を決定したのは,基本的には,石油の経済・軍 事上の決定的重要性,石油消費の増大とこれに伴う外貨負担増,石油供給の安定化,さら には肥料をも含む石油化学産業の育成等に対する考慮からである。しかし,インド政府が,

1948年産業政策声明において石油産業を「企業の新設については国家がもっぱら責任を負 う部門」に属するものと見なすとともに,前述のような外資政策の原則を掲げ,さらにイ ンド資本が外資に対して厳しい姿勢を打出すという状況の下で,インド側にきわめて不利 な形でのメジャー進出が可能となったのは,以下の事情による。

 まず,土着大財閥を中心とする民間大資本側は,少くとも1950年置初期にはそのような 資本も技術も有しておらず,この種の投資に興味を示す段階には達していなかった。彼ら は強力な外資規制の一環として外資の進出を特定分野へ限定することを求めていたのだが,

石油精製は,そのような分野の1つであったと考えることができる。また,インド政府も 公企業による石油精製産業の育成を断念したのであるが,それは以下の理由による。第1 に,資金面からである。インドは独立後十分なポンド残高を有していたが,これは,英国 が封鎖しており自由には使用できず,小出しの使用しかできなかった。しかも,これは,

(11)

 独立より1960年までのインドの外資政策       129 経常勘定の赤字を埋めるために必要とされた。また,世銀は,工業化における政府の役割 は社会的間接資本の分野へ限定されるべきであり,外国民間資本を利用できる分野へ政府 が参入すべきではないとの理由から,発展途上国に製油所を設立するための貸付には乗気 ではなく,後述のようにインドが公企業による石油産業の育成に乗出した後も圧力をかけ た。第2に,技術面からである。インド政府は,技術的には,ほとんどメジャーもしくは ソ連へ依存せざるをえなかった。しかし,インド政府が1950−51年にこの種の援助をソ連 に求めたという形跡はなく,おそらく西欧諸国をむやみに刺激するのを控えたのであろう。

第3に,原油供給面からである。メジャーは原油供給においても支劇的であり,1950年当 時ソ連は主たる原油供給国ではなかった。また,インド政府は,1951年にAnglo−Iranian Oil Companyを国有化したイランに長期・安定的供給を依存することもできなかったで あろう。さらに,メジャーは,インド国内の石油製品の配給面をも支配していたのである。

 メジャーに製油所設立に踏切らせた理由としては,当時インドの石油製品必要量の70%

を供給していたイランのアバダン製油所が前出の会社の国有化によって閉鎖されたこと,

新会社のインド市場への参入の恐れ,インド政府の熱心さとそれによる前述の「特権」

      、32)

の付与等を,挙げることができよっ。

 独立後のナショナリズムの高揚のもとで,産業・外資政策の面でかなりの自主性を打出 していたインドが,このように一方的な形で外資の進出を認めざるをえなかったことは,

資本主義世界体制内にとどまり,資本ことに外貨および技術を独占資本主義諸国に依存せ ざるをえない発展途上国において,自立的国民経済形成が如何に困難であるかを,象徴し ている。このような形での外資進出は,その後における外資に有利な形でのインドの様々 な産業分野への進出の突破口となった。しかし,これは,また,当の石油産業においては,

インド政府にその拝しばらくの間ソ連・東欧諸国に依拠しての公企業中心の石油産業育成 策をとらせる大きな原因ともなった。

  〔注〕

 (1)R.Palme Dutt,勉4劾:τ10磁y醜47b〃zoγ70〃,1955一大形孝平訳『現代インド』岩波書店,1965 年,第15章。

 (2)同上訳書,321頁。

 (3)1948年産業政策声明のテキストは次を利用。V. B. Singh,加d伽E60ηo鰐(2η46珈㎎θ46認

♂oηλPeople s Publishing House(New Delhi),1970, ApPendix A.訳文は次に拠っている。大杉一 雄編『インドー経済と投資環境』アジア経済研究所,1968年,付録III。

 (4)Dutt, oか。鉱,前掲訳書,324頁。

 (5)Michael Kidron, Fo紹卿加鷹魏6燃勉加4忽Oxford Universlty Press(London),1965, PP.

86〜87.

 (6)Daniel L. Spencer,∫η伽一ル伽θ4 E漉吻お6αηげ晩s勿πβ癬瑠ss, Martinus Nijhoff(}lague),

1959,p.49.

 (7)1949年外資声明のテキストは次を利用。Singh, oρ.6鉱, ApPendix B.訳文は次を利用。大杉編,

(12)

130

前掲書,付録III.

 (8)Kidron, oρ.6鉱, P.102.

 (9)次を参照。古賀正則「インドの国有部門(1)」『経済学雑誌』第52巻1号,29〜32頁;拙稿「インドの 企業と国有化問題」儀我壮一郎編著『現代企業と国有化問題』世界書院,1978年,125〜129頁。なお,

古賀氏は,同稿で,「この時期における私企業の国有化は,あらゆる点からみて,資本主義的国有化の範 囲と内容を一歩も出るものではなく,経済計画から全く断絶したところでおこなわれたものであった

(古賀,前掲論文,31〜32頁)」と述べておられるが,最後の部分は納得し難い。

 (10)Government of India, Planning Commission, E魏 E勿θ】晦αγ1「Z侃,1956, P.34。

 ㈲ 岡倉古志郎「インド人民民主主義革命の展望」『植民地主義と民族解放運動一岡倉古志郎政治 論集3』勤草書房,1969年,322㌘325頁(潮流講座『経済学全集』第1巻  1949年1月  所収)。英印合 弁会社については次も参照。Sofia Melman, Fo%忽η1吻ηoρo砂αψ勿1」η動4伽E60ηo〃窃People s Publishing House(New Delhi),1963. pp.108〜112.

 (12)Kidron, oゑ6鉱, P.69.

 (13)乃配,p.73. Bombay Planを含め,独立前後における経済計画構想については,次を参照。伊 藤正二「独立前後における経済計画構想の諸系譜」山口博一編『インドの経済政策と諸階層』アジア経 済研究所,1975年.

 (14) Z∂ゴ41,p.103。

 (15) Z∂ゴ謡,pp.108〜109.

 q6) 1δづ鳳, P.93.

 (17)Wolfgang G. Friedman&George Kalmanoff ed.,.ル嬬編醐α渉加α1β癬η6ss%吻総Co.

lumbia University Press,1961一鹿島守之助訳『国際ジョイントヴェンチュア』鹿島研究所出版会,

1964年,505〜506頁。なお,1954年11月,Birla財閥による鉄鋼工場建設の企画が政府によって拒否さ

れた。

 (18)Melman, oれ6菰, PP.14ブ〜148.

 (lg)A.1. Levkovsky, G砂磁1お〃z初1勿4彪 翫sガ6丁廻ηぬ加爵1)ω40伽¢6ηちPeople s Publishing House(Bombay),1966, p.486.

 (20)大杉編前掲書,86・87・89頁。

 (21)Melman, oゑ6鉱, PP.127〜131.

 (22)Palme Dutt,前掲邦訳書,326〜327頁。

 (23)Melman, oゑ6鉱, P.134.次も参照。 P. J. Eldridge,η26 Po1耽sげEo名6忽π.4♂4勿伽伽,

Schocken Books(New York),1969, pp.29〜30。

 (24)Thomas E。 Weisskopf, Dopendence and Imperialism in India−Mark Selden ed.,1〜¢磁鰍9

、4吻∴E冶sのsoπ孟勉 、4〃z碗6αη θヨ6s qプPozθθろPantheon(New York),1974, p.204.

 ㈱ Melman, oか6鉱, P.135.

 (蜀 古賀,前掲論文,54頁。

 (27)Government of India, Rのoγ (ゾZ雇嘘磁1ゐゴ06ηε初g Po1勿動卿勿Co呪〃z薦6θ撒勿Rの。繊 1969,P.145.以下,同報告書をRの。π(ゾ伽が勿∬ HCと略記。

 (28) ∫房謡,p.146.

(13)

独立より1960年までのインドの外資政策       131  (29)斉藤吉史「インドの財閥(3)一外国資本とインドの財閥」『アジア経済』第4巻1号(1963年1月)

19頁。

 GO)Indo・Stonvac Prolectについては次を参照。 Michael Tanzer,7劾P∂1漉ω1 Eoo%o〃η(ゾ1η一 三6γ微z ∫o勉z1α1α7z4劾θ乙薄白z4θη6101)64 Co〃η γ勿s Beacon Press(Boston),1969, pp.223〜224;R.

Vedavalli, P物証Fo名吻ηZηoθs吻6η (旦Eooηoz耽Dθρθ10力初θ雇一4 GαsθS伽め,(ゾ露 名。♂θ〃勉勿動一 4勿,Cambridge University Press,1976, pp.123〜126.

 (31)外務省経済三編『インド(世界各国経済ハンドブック19)』日本国際問題研究所,1971年,174〜

175頁;Vedavalli, oゑ。鉱, pp.26〜36;Biplab Dasgupta,7物6α1肋4粥 ηゴη加4勿一So〃26 E60η一

〇珈6、4s勿。虹Frank Cass&Company(London),1971, pp.137〜138/p.145.

 (32)Vedavalli, oカ.6菰, PP.15〜26;拙稿「インドの石油産業の発展過程における政府と国際独占企 業」『経営研究』第27巻3号(1976年9月)89〜93頁。

第2節 1955年〜1956年

 〔1〕 1950年1月26日実施の新インド憲法は,社会主義的「福祉国家」の建設を目的と し,国家の経済政策の指導原則を明らかにした。これは,1954年12月のインド議会での

「インドの経済社会政策の目的は,『社会主義型社会』を建設することでなければならな       1)

い」との決議により,明確化された。よく知られている,1955年1月の与党国民会議派の アヴァディ決議も一,「社会主義型社会」を目的としている。それは,次のことが行われる 社会であるとされている。(1>主要な生産手段の社会的所有もしくは管理;(2)生産の漸次的 急速化;(3)国富の公正な分配;(4)10年内の完全雇用1)しかし,同決議は,他方で民間部門 が重要性を持続けることをも指摘している。Tata財閥の弓師J. R. D. Tataも,TISCO の第8回株主総会でこれを支持して,「大胆な計画化および大規模な開発企画の断固たる 執行が不可欠である」と述べている。また,このアヴァディ決議の発表後,株式市場はブ       3)

一ムを迎えたほどであった。同決議の強調点は,社会変革ではなく生産増強にあったので

ある。

 インド政府は,1956年4月,「社会主義型社会」建設のため新たに産業政策決議を発表 した。同決議は,国家の重要産業に対する積極的・主導的参加を打出しており,1948年声 明に比して国家の産業に対する介入が強化されている。しかし,ここでも1948年声明と同 様,民間企業をできるかぎり発展させようとの意図がうかがえる。同決議は,外資政策に ついては,1949年外資声明で明示されているとして,「これらの問題を論ずる必要はない

(第19項)」と述べている。

 前述のように,1948年産業政策声明は一定の産業分野について国有化の10年間保留,10 年後における再検討をうたっていたが,1956年産業政策決議は,これに言及していないば        4)

かりか,国有化についてまったく触れていない。これは,内外企業の投資促進,ことに外 資奨励という点で大きな意味を持っている。実際上も,前述のように1956年1月の生命保

(14)

 132

険事業国有化条令発布以来1969年以後の「国有化の時代」まで顕著な国有化の事例は見ら        5)

れず,Metal Corporation of India Ltd.の国有化(1965年)やいくつかの経営失策企業に 対する産業(開発・規制)法18条Aの適用による経営接収の事例が見受けられる程度であ る1)次のように,当初の国有化案が取消された例も少くない。1954年10月のTELCO ; 1954年12月の商業銀行業;1956年初めの外国貿易・セメント・ジュート・プランテーショ

 7)

ン。

 こうして,1956年産業政策決議発表後,カルカッタのC砂金1誌(1956年5月3日)は

「株式市場は産業政策声明を歓迎する」との大見出しを掲げ,ボンベイでは株式価格の積 極的反応が見られた。また,FICCIやAIMOはこれを批判したが,それはきわめて穏

         8)

やかなものであった。

 この当時,第2次5力年計画下での公企業新設による公共部門の拡大とともに,前述の 金融機関の国有化,税制上の諸改革,経営代理制度徹廃を目指す1956年会社法,インド準       9)

備銀行へ種々の権限を与える1956年銀行会社(修正)法雨,黙進歩的 諸措置がとられた。

しかし,これらは「社会主義型社会」の生産第1主義の考え方にも合致しており,むしろ そこにこれらの諸措置の狙いがある。さらに,次のように「その当時でさえ極端な見解で あると考えられたようなこと」が求められたが,Kidronは,「これらの政治的な左への 突進は,まったく政府の意図ではない」と指摘している。J. Matthai下の税制調査委員 会は年間所得の上限を10万ルピーとすることを勧告した;議会の計画諮問委員会は,1956 年1月,指定された諸産業の全面的国有化,重工業の目標を修正して高くすること,民間 部門におけるインド・外国間の合弁企業の禁止,そして利潤分配と労働者の経営参加を要        10)

求した;ウッタル・プラデシュ州議会は「すべての形態での資本主義の廃止」を求めた。

他方では,次のように,明らさまな統制「骨抜き」の諸措置も見受けられる。銅鉱業は 1956年6月に国家の「指定席」とされたのだが,同産業で唯一の活動的な会社である In−

dian Copper Corporationはわざわざ除外された;電力の生産・配給は1948年の電力(供 給)法の下で厳しく統制されていたが,1956年の電力(供給)修正法によりかなりの自由

を回復した;全産業の再編成という当初の計画の多くが続行されなかったが,「国家と 民間との関係のもっとも敏感な判断基準」である石炭は国有化を免れただけでなく,民間 炭鉱は続けて増産を許された(1955年10月の800万トン→1956年5月分1,000万トン);プ ランテーション産業は調査委中華の遠大な提案にもかかわらずまったくそのままにしてお    11)

かれた。

 〔2〕 1955年1月,民間企業の設立・拡張・近代化および内外民間資本の投資の促進・

奨励を主たる目的とするICICI(前出)が設立された。その主要業務は,融資・資本参加,

株式・社債の発起・引受け,株式・社債への直接広募,融資の保証,経営技術上の援助・

勧告である。

 払込資本金5,000万ルピーの30%は英米の銀行・産業会社等によって所有された。すな

(15)

 独立より1960年までのインドの外資政策      133 わち,英国の場合はEastern Exchange Banks,数社の保険会社・産業会社, The Com−

monwealth Development Finance Company Ltd.が計1,000万ルピー応募し,米国の場 合はBank of America, Rockfellers Brothers l Fund Incorporated, Olin Mathieson Chemical Corp., WestinghouSe Electric International Corporationが計500万ルピー応 募した。こうして,ICICIの取締役会には数名の外国人が加わった。インド側の払込資本 の多くは,直接,間接にTata・Birla等の少数の大財閥に掌握された。なお,1956年の 生命保険事業国有化後生命保険公社(LIC)が最:大株主(約17%所有)となり取締役を1名 派遣することとなったが,当時の蔵相は,政府が同公社を通してICICIの経営と支配に干 渉しないことを保証した。

 ICICIの自己資本以外の資金調達方法は,中央政府よりの借入れと外国借款である。

1966年代半弓までの中央政府よりの借入れは,1955年1月における無利息・期限30年・据 置15年の7,500万ルピーをはじめとして,合計2億7,500万ルピー(計3件)にのぼる。前 述のLICとの関係をも含め, ICICIは純然たる民間会社とは言えないのである。ところ で,これらの政府貸付の原資は米国政府による援:助資金にほかならない。3件の政府貸付 の原資は,それぞれ馬印技術協力協定にもとずく鉄鋼売却代金,米国余剰農産物売却代金,

PL 480見返資金である。本来の外国借款としては,1968年頃までに,世銀より1億4,000 万ドル,米国国際開発局(AID)より500万ドル,西独KFWより4,000万マルクを供与さ れた。とくに,世銀は,ICICIの設立に大幅に関与したのだが,設立後も多額の貸付を行 い,ICICIは資本主義世界全体の単独の世銀借款の借入れ人として残高がいつも最高であ ると言われた(1968年頃)。なお,表一6から明らかなように,ICICI以外のIFCI(前出)

等の産業金融機関にも米国・西独政府や世銀の援助が供与されており,これらの産業金融 機関は,独占資本主義国よりの援助を内外の民間企業へ導入するための媒介機関の役割を 果したのである。

    表一6 インドの信用機関への外国援助(1965年3月現在) (単位:1,000万ルピー)

米国国際

J発局 米国PL480ゥ返資金 世界銀行 西ドイツ (計)

1産業金融公社(IFCI) 14.3 20.0 2.97 37.27

2.産業信用投資会社(ICICI)(注) 2.4 20.0 42.8 3.57 68.77

3.再融資公社(RCI) 36.2 36.20

4.全国小工業公社(NSIC) 10.0 1.18 11.18

(計) 26.70 76.2 42.8 7.72 ユ53.42

(注)同機関は,また,海外の民間貸付により追加資金を調達する。

(出所)P。J. Eldridge,乃6」%砺6s(ゾFoz6忽η・4ガ4碗動4鉱Schocken Books(New    York),1970, p.155.

 以上から,ICICIにおいては,土着大財閥,英米を中心とする独占資本,米国を中心と する独占資本主義国政府および世銀との共同支配体制が形成されていたと考えられる。こ の点は,ICICIの資金i援助実績にも反映されている。その援助対象業種は重化学工業に集

参照

関連したドキュメント

1970 年には「米の生産調整政策(=減反政策) 」が始まった。

⑹外国の⼤学その他の外国の学校(その教育研究活動等の総合的な状況について、当該外国の政府又は関

この問題をふまえ、インド政府は、以下に定める表に記載のように、29 の連邦労働法をまとめて四つ の連邦法、具体的には、①2020 年労使関係法(Industrial

 そこで,今回はさらに,日本銀行の金融政策変更に合わせて期間を以下 のサブ・ピリオドに分けた分析を試みた。量的緩和政策解除 (2006年3月

○福安政策調整担当課長

結果は表 2

2011 年の主たる動向は、欧州連合 (EU) の海洋政策に新たな枠組みが追加されたことであ る。漁業分野を除いた

運営費交付金収益の計上基準については、前事業年度まで費用進行基準を採用していたが、当