• 検索結果がありません。

スミスの道徳感情腐敗論―資本主義の精神の成立とその解体―

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "スミスの道徳感情腐敗論―資本主義の精神の成立とその解体―"

Copied!
146
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論 説

ス ミスの道徳感情腐敗論

田 島 慶 吾

ス ミスの道徳感情腐敗論

―資本主義の精神の成立とその解体 ―

問題の所在 :ス ミスにおける経済 と倫理 一アダム・ス ミス問題 ― 第一節 ス ミスにおける倫理・法 。経済

第一項 デューガル ド・ステュアー トの証言 第二項 ス ミスの道徳哲学体系

第三項 『感情論』初版 における同感原理 第二節 『感情論』初版 における徳性論

第一項 行為の適宜性、行為の動機 、直接的同感、自己制御 と感受性の徳 第二項 効用 と慎慮の徳

第三項 正義 と慎慮

第四項 道徳感情の腐敗 :『 感情論』の改訂動機 第五項 情念制御 と想像力

第三節 『感情論』における道徳感情 を腐敗 させ る諸要因 第一項 「歓喜への同感」論

第二項 歓喜への同感 と慎慮の徳

第三項 歓喜への同感 と統治の原理 :『 法学講義』

第四節 システム原理 と歓喜への同感 第一項 効用 と慎慮の徳・再論 第二項 効用 とシステム原理 第三項 私的効用批判 と慎慮の徳

第四項 公共的効用批判 と公共的徳性

1109020

(2)

経済研究4巻2号

第五 項 道徳感情無効論 一ス ミスの第三 の同感論 一

第五節 分業 の進展 と徳性 の腐 敗 :『法学 講 義 』 と『諸 国民 の富 』 第一項 『法学講義』における商業が国民の生活態度 に及ぼす影響 第二項 機能的国家 と支配装置 としての国家

第三項 労働貧民 における観察者概念の不成立 と「主権者の義務」

第四項 分業の進展 に伴 う労働貧民 における徳性の腐敗 と歓喜へ の同感 による「生活上の中・

下流の人々」における道徳感情の腐敗

第六節 ス ミス最後の言葉 : F感 情論』第六版第六部:自己制御論 と自然法学 第一項 外面的財産 と上級の慎慮

第二項 正義、仁愛の徳 と「普遍的仁愛論」

第三項 「 自己制御」論の導入

第四項 自己制御の諸徳性 と「 自然法学」

第五項 ス ミス最後の言葉 :「 自然法学 (jurisprudence)」

終節 情念 と欲望 論文要 旨

問題 の所在 :ス ミスにお ける経 済 と倫 理 ―アダム・ ス ミス問題一

.資本主義の精神の成立 とその解体

「私は資本主義の精神の本性の中には、おのれを内部か ら解体 し、抑圧 す るべ く努 め る傾 向が ある と信 じている。我々自身が進路の様 々な場所で、資本主義の こうした崩壊 に遭遇 した。…資 本主義の精神 を育成す る企業家精神 を破壊す るのは、沈滞 した年金生活 に甘 じた り、貴族流 の生 活態度 を取 り入れることであろう。ブルジ ョワは富裕 になっておのれの富 を年金の形で運営 し、

しか しそれ と同時に、奢修 に溺れ、田舎の紳士気取 りの生活 をす る度合いに応 じて、肥満す る。」① これは、ヴェルナー・ゾンバル トの言葉である。いわゆる「初期資本主義」(16世紀 中頃か ら 18世紀中頃)② に形成 された「資本主義の精神」がいかに18世紀後期 に解体 されてい くか を述べ た ものである。この解体の原因を彼 は、「経済的合理主義の独立」③、「利益追求の客体 化」0の 結であると見 な したが、この資本主義の精神の解体過程 は、「資本主義 その ものが資本主義 の精

‑2‑

(3)

スミスの道徳感情腐敗論

神 に及 ぼ した影響」③の拡大、深化の過程であった。産業革命以後、第一次大戦 までの資本 主義 を「高度資本主義」 とすれば、アダム・ス ミスの時代 はまさに産業革命以前の「初期資本主義」

の時代である。

そ して、18世紀後半 とはまさ しくス ミスの道徳哲学体系が形成 された時代で もある。我 々は こ の論文で、アダム 。ス ミスの道徳哲学体系 をこの初期資本主義に固有な理論体系であると把握す ることを通 して ⑥、ス ミスにおける経済 と倫理の問題 を追求する。

16世紀以来、商業活動 (経済的利害 に基づ く行為)に由来す る富、また富 を求める際限の ない 貪欲 と奢修 とい う経済的必要の是認 と、経済的行為 もまた人間の人格的行為である以上 は、道徳 的規範 に服 さなければならない、とす る倫理的欲求 とが葛藤 を重ねて きたことは周知のことであ ろう。そ して また、ス ミスの道徳哲学体系 もまた この系譜の中にある。

アダム 。ス ミスは資本主義の確立期 において、その道徳哲学体系の中で、経済的行為の倫理性 を示 し、そ して また、確立 した資本主義の中で、経済合理主義の進展 とともに、この倫理性が失 われてい くかをも示 した0。 ス ミスはこうした事態 を「道徳感情の腐敗」 と呼んだが、 これはス ミスの思想の中で解決するのが最 も困難 な問題の一つ となった。何故ならば、一方におけるいわ ゆる「 自然的 自由の体系」に対す るス ミスの確乎たる信頼は明 らかだか らである。これは要す る に、経済成長 (分業論 。資本蓄積論)、 或 いは、国民一人あた りの実質所得の上昇 (高賃金論)、

及び、これ らか ら帰結す る物質的富の追求 とその経済的諸秩序 (「自然の欺臓」 論)に対 す るス ミスの是認的議論 と、分業に伴 う徳性の腐敗、物質的富の追求に伴 う道徳感情の腐敗 に対す るス ミスの否定的見解 との間に見 られる明 らかな緊張の問題である。た とえば、ハ イルブローナーは これ を「道徳的退廃 を伴 う経済的進歩 と経済的停滞 と結びついた道徳的退廃 の ジ レンマ」0と んだが、ス ミスの最初期の伝記作家であるデューガル ド・ステュアー トは既 に、ス ミスの政治経 済学の中に「別個の極めて陰鬱 な結論」 を認め、その「国民の富の成長は国民の性格の犠牲 を意 味 している とい う結論」(Stewart,"Account",p.315。 F生涯 と著作』、68頁)に対 して不安 を呈 し た。本論文はこのス ミスにおける経済 と倫理の緊張関係 と呼ぶべ きものを考察する。

我 々はス ミスの道徳感情の腐敗 とい う見地か ら、ス ミスにおける経済 と倫理のこの緊張関係 を 資本主義の精神の 自己解体過程 として把握 し、この立場か ら、ス ミスの道徳哲学体系 における経 済 と倫理の問題 を解明 しようとす る ものである。この ような立場 は当然、後代の 目をもってス ミ スの思想 を把握す ることになる、との批判 を招 きやすい。 しか しなが ら、ス ミスの思想 を内在的 に把握すること、そ して内在的に把握 したス ミスの思想 を、現実の資本主義の発展、展開過程 と の相関において理解すること、これは決 して後代の 日で もってス ミスの思想 を評価することでは

(4)

経済研究4巻2号

ないだろ う。これは要するに、ス ミスの思想 を「歴史化」0することであって、現実 の歴 史過程

(ス ミスの生 きた歴史的社会)の中で、ス ミスの思想 を発展史的に把握す る こ とを 目指す もので ある。

問題 とされるべ きは、初期資本主義における資本主義の精神 とその解体の現実的過程 と、 これ を道徳哲学の体系 として理論化せん とし、またその体系内で資本主義の精神の解体 を徳性の腐敗 として位置づけ、その解決 を模索 しなが らも、結局は道徳哲学体系の破産へ と至 ったス ミスの苦 闘である。徳性 に対するス ミスの対処は二重の ものであった。ス ミスは一方で、富裕化が人民 の 徳性 を腐敗 させ るとい う政治学的共和主義者 に対 して、「商業社会」において は富裕化 と徳性 と は両立することを示 しなが ら、他方で、商業社会が 自律す る過程で、その存立の当初必要 とされ もし、富裕化の過程 と共働 もした徳性 その ものが喪失する事態― 道徳感情の腐敗― に対 して批 判 を行わねばな らなかったのである。

.「アダム・ スミス問題 (Das Adam Smith Problem)」

かって、 ドイツ国民経済学者はスミスの二つの著作、F諸国民の富』と『道徳感情論』(以下、

『感情論Jと略記)とを対照 させ、前者においては、人間の行為の動機 は利己心であるとされる のに対 し、後者においては利他心 (同情心)であるから、これら二つの著作は、原理において相 反 しているとスミスを論難 した。彼 らの主張はカント主義的な、物理的法則が支配する外的世界 と道徳律が支配する人間の内的世界 という二元論に由来するものであったが、しか しなが ら、そ の後のス ミス研究は、彼 らの主張が、ス ミスの著作の誤読に基づいていることを示 した ¨)。 彼 ら はス ミスの「同感」を「同情する感情」と読み替え、これに利他的性質のあるものとしたのであ るが、言 うまでもなく、同感とは道徳判断能力であ り、利他的な同情ではない。従つて、この批 判は過去の ものとなった。「スミスの倫理学における慎慮の人は、『諸国民の富』における倹約の 人である」m)、「いわゆるアダム・スミス問題は、無知 と誤解に基づ く疑似問題である」ω)と まで 言われる所以である。現在では、F感情論Jをベースに F諸国民の富Jを読む とい う方法論 は確 立されたと言っても過言ではない。

しか しなが ら、ス ミスには新 しい「アダム・ス ミス問題」 と言 うべ きものが存在 しないで あ ろ うか い)。 我 々が問題 を発見するのは、「ス ミスの倫理学 における慎慮の人は、F諸国民の富』 にお ける倹約の人である」 とい う断定である。この ような断定 を受けて、『諸 国民 の富』 を読 み進 め ると、我々はその第五編で戸惑 うことになろう。有名な箇所であるが、そこには次の ようなス ミ

‑4‑

(5)

スミスの道徳感情腐敗論

スの認識が あ る。「 あ る場合 には、その社 会 の状態が個人の大部分 を必 然 的 に、政府 の注 意 が な くとも、その状態が必要 とし、また、おそらく許容 し得る殆 ど全ての能力や徳が彼 らの中に形成 されるような地位に置 く。だが、他の場合には、その社会の状態が個人の大部分 (the greater part of individuals)を こういう地位に置かないので あ つて、その結果 、人民大衆 (the great body of the peOple)のほとんどが全面的に腐敗 した り、堕落 した りする(almOst entire c6rrup―

tion and degeneracy)の を防止するために政府が何 らかの注意 を払 う必要がある。…分業の進 (prOgress Of divisiOn of labour)に 伴って、労働によって生活する人の大部分、即ち、人民 大衆の職業は、少数のごく単純な作業に、しば しば一つか二つの作業に限定されるようになる。

ところで、大部分の人々の理解力は必然的に彼 らの日常の職業によって形成される。…彼自身の 特定の職業における彼の技巧 は、彼の知的、社会的、及び、軍事的徳性 (intel19ctual,sOgial and martial宙rtues)を犠牲にして獲得 されるように思われる。ところが、改善された文明社会 ではこれこそ、政府がそれを防止するために多少 とも骨を折 らぬ限 り、労働貧民、即ち、人民大

H25‑26頁)(以下、これを「分業の進展に伴 う徳性の腐敗」と呼ぼう) )

ここでの問題はこうである。スミスに与えられた課題が富裕化と徳性 とは両立することを論証 する事であ り、『感情論』における「慎慮の人」が『諸国民の富』での経済人=「倹約の人」 で あるならば、後者における経済主体の諸行為の徳性は保障されていると考えられるべきであるの に、スミスがその第五編では、人民大衆の殆 どにおいてその徳性は「必然的に」腐敗すると言 う のは何故か。これが次のような表現であれば矛盾は回避されよう。「商業社会では、中・下流の 人々の間に徳は自ず と形成 されるが、人民大衆の一部においては、彼 らの徳性は、分業の進展、

商業の発展の代償 として腐敗することがある。」 しか しながら、ス ミスの実際の定式は、「人民大 衆の殆 どにおいて、その徳性は必然的に腐敗す登」となっているのであるから、この「矛盾」は 隠 しようもない。

また更に、ス ミスは、その死の直前に改訂出版された『感情論』第六版の改訂部分において、

「富裕な人々、上流の人々に感嘆 し、貧乏で卑 しい状態にある人々を軽蔑、或いは、無視すると いう性向によって引き起こされる、我々の道徳感情の腐敗 (corruption Of Our moral sentimen

ts)」 (TMS 6th,p.61.『感情論』、95頁)と題 される章をもうけ、「人類の うちの大群衆 は、富 と 上流の地位の感嘆者であ り崇拝者なのであって、しかも、もっと異常と思われるかもしれないが、

利害関心のない感嘆者であ り崇拝者なのである」(ibid。,p.62.同上、96頁)と述べた上で、こうし た事態が「我々の道徳感情腐敗の大 きな、そ して最 も普遍的 な原 因 (the great and most

衆が必然的に (necessarily)陥 らざるを得ない状態なのである。」(WN H,pp.781‑82.『 富』I、

(6)

経済研究4巻 2号

universal cause of the corruption of our moral sentiments)である」(ibid。,p.61.同上、95頁)

と断定する (我々はこれを「歓喜への同感による道徳感情の腐敗」 と名付ける)のは何故か。分 業の進展に伴 う労働貧民の徳性の腐敗への、歓喜への同感による道徳感情の腐敗への言及、これ

ら二つはよく知 られた事実である。

このように見ると、「スミスの倫理学における慎慮の人は、『諸国民の富』における倹約の人で ある」という断定の根拠は極めて怪 しい ものであるとの印象を受ける。我々が上記で、問題 とす べ きは経済成長、或いは、国民一人あた りの実質所得の上昇、及び、これらから帰結する物質的 富の追求に対するスミスの是認的議論 と、分業に伴 う徳性の腐敗、物質的富の追求に伴 う道徳感 情の腐敗に対するス ミスの否定的見解 との間に見 られる明らかな緊張の問題である、と述べたの は、この意味である い)。

従来か らス ミスにおける「分業の もたらす徳性の腐敗」への言及はマルクスの労働疎外論 との 対比、労働疎外論による解釈、ス ミスの労働疎外論の不十分 さの指摘 という形で行われてきた0。

何 よりもまず、辛辣な批判を行ったのはマルクスであ り、マルクスの疎外論を継承 した論者 に おいては、スミスの言 う「分業の進展に伴 う徳性の腐敗」の根元は、資本主義経済における労働 者の搾取であ り、スミスはこれを認識できなかつた、という理解がなされる。こうした把握 はス ミスの中に「原マルクス」を見るという立場であるが )、 必ず しも、スミスの生 きた18世紀的文 脈の中で、「徳性の腐敗」の概念を位置づけることを目指 したものではなかつたし、また、F感 論』との関連において、この徳性の腐敗を考察 したものではなかつた。

スミスのマルクス的解釈に基づ く上記の解釈傾向を大 きく変化 させたものは、言うまでもなく、

ポーコックの The Machiavellian Moment(1975)以後のシヴイック・ ヒユーマニズム論t18)を 受けたスコットランド啓蒙における「富 と倫理」問題の定式化であつて、分業による徳性の腐敗 に関 しての議論は、ポーコックのこの著作 を境に二つに大別されると言って良い。

シヴイック・ヒューマニズム論が提起 した問題の一つは、ス ミスの言 う「徳性」とは何かであ るい)。「知的、社会的、及び、軍事的徳性」とス ミスは言うが、これは、一体何であろうか。知 的、社会的徳性 とは、20世紀の人間でも理解可能であるが、「軍事的徳性」 とは何であろうか。

シヴイック・ヒューマニズム論はこうしたス ミスの言葉を17、 18世紀スコットランドに固有な社 会、経済、政治思想の言葉、概念、言説から明らかにした点にその大 きな貢献の一つがあろう。

富の増大・奢修 0腐敗 0依存・自由の喪失と公共生活への参加、独立、武勇の精神、等の対比 に おいて、スミスの道徳感情腐敗を位置づけるものである。この論理では、商業による徳性の腐敗 を共和主義的な徳性論 (政治的な公共的徳性)でもって制限、ない し、押 しとどめることこそが

‑6‑

(7)

スミスの道徳感情腐敗論

ス ミスの経済 と倫理の関係 における主眼だとされる。この論の意義の一つは「徳性の腐敗」問題 に対 して新たな見通 しを与 えたことであった。ス ミスの分業の進展に伴 う徳性の腐敗 とは、マル クス的な「労働疎外」ではな くて、徳 とは古典的共和主義的なポ リス論 における政治的な徳性 、 土地所有者に課せ られた公共的善であ り、徳性の腐敗 とは、商業による富裕化によるこうした公 共的徳性の腐敗であるとしたのである。従って、この解釈におけるスミスとは、経済学者ス ミス ではなく、立法者の科学を終生の課題 とした政治論者スミスであるい)。

こうしたス ミス像は、当然ながら激 しい論争を引き起こした。スミス解釈における正統的な解 釈は、ス ミスの経済学の形成における大陸自然法の影響を重視するい)。 大陸自然法は特にスコッ トランドで受容 されたが、大陸自然法の受容 → スミスにおける経済学の生誕 という経路で もっ て、ス ミスを把握する。この場合、経済と倫理の関係の上で問題 となるのは、正義論である。

.交換的正義論 と『諸国民の富』

『諸国民の富』の正義論 との関係における主題性格 とは何であろうか。通説的な理解では、交 換的正義が満たされれば、配分的正義は自然に実現する、というものであろう儘)。 商業社会では、

商業 (分)の進展によって、富の分配に不公平はあるが、富は最下層の人民まで潤すとい うこ とである。「富の分配の不平等があ りながら、何故、正義が実現 されていると言い得るのか」の 疑間に対する答えは、例えば、次のようなものである。「貧民の必要と交換的正義」 という観点 に立ち、自然法学 (正義論)からス ミス経済学が生成 した所以を説 くのは、ホントとイグナテイ エフである●)。 彼 らによれば、F諸国民の富』の中心的関心は、正義の問題であ り、所有の不平 等 と所有から除外 された人々への十分な生活資料の供給 を両立 させ うる市場機構 を見いだす こ と」0)にあ り、「ス ミスの不平等の関心は、政治的人格をめ ぐるイングラン ド・アイルラン ド的 なシヴィック・ヒューマニズムの議論ではな く、自然法学の伝統 との彼の関わ りに由来するもの であると見るべ きであ」い)って、「貧民の必要に対する正義こそが、公民的な徳 に優先すべ きな のである。」い)「スミスは、貧民の必要が富者の財産に対する請求権 をなすことを否定 したか らと いって、正義の問題を経済学から押 し出 して しまったわけではない。それどころか彼は、商業社 会は農業の生産性を押 し上げることによって諸個人の所有推笙対するし)かなる形での再配分的干 渉に訴える必要なく、賃金取得者の必要を十分に供給できるということを証明するために、自然 的モデルを用いて、その問題を法学や政治学の領域から経済学の領域へ と移 し替えた。」レ)こ ような思惟の結果は次のような結論である。「近代の商業社会は不平等で徳 を欠いていたが、不

(8)

経済研究4巻 2号

正義なものではなかった。それは、その最 も貧 しい成員たちを犠牲にして、公民的な徳を買 うよ うなことはなかった。人々が財産や市民権の上でどれほど不平等ではあつても、基本的必要 を満 たす手段 を入手できる点で彼 らは平等であ り得た。これら一連の選択において、スミスが公民的 な徳 よりも厳密な正義を選び、能動的自由よりも受動的な自由を選んだことは明らかである。 こ れこそ、自然法学の伝統の選択であった。」●)

こうした見解は一見明瞭であるように思われる(り。資本主義では、人間の「徳性」は問題 とは ならない、そこで唯一重視 される (「重視 される」 という意味は、資本主義経済の制度的枠組み として)のは、「正義」、つまり、等価交換、消極的自由、所有権の安全 と厳格な司法行政である というのが『諸国民の富』における交換的正義論の意味である い)。 これは資本主義では上記の意 味での正義が維持 されている限 り、経済人の行為の徳性 は保証 されているとする考 えである

(「徳性を欠いてはいるが、不正義ではない」)。

だが、今 まで述べた三つの代表的な解釈 (労働疎外論、公共的徳性の喪失論、交換的正義論)

は、「人民大衆の殆 どにおいて、その徳性は必然的に腐敗する」 という『諸国民の富』の文言、

「富裕な人々、上流の人々に感嘆 し、貧乏で卑 しい状態にある人々を軽蔑、或いは、無視す ると いう性向によつて引き起こされる、我々の道徳感情の腐敗」という『感情論』第六版の認識の十 分な説明であるとは思われない。これらの解釈での中心問題は、分業の進展に伴 う労働貧民、下 層階級における徳性の腐敗であるが、真に問題 とすべ きは、「生活上の中流・下流の人々」 にお ける「道徳感情の腐敗」である。私見によれば、この「道徳感情の腐敗」問題はこれまで十分 に スミスの思想の中に位置づけられてはこなかつたように思われる。)。

労働疎外論的解釈であれ、シヴイック・ヒユーマニズム論的解釈であれ、正義論的解釈であれ、

三つの解釈傾向に共通するのは、ス ミスが徳性の腐敗を論 じたのは、「下層の人々」「労働貧民」

に関 してである、という前提であるω)。 しか しなが ら、そのような解釈は狭す ぎるように思われ る。本稿で論 じるのは、下層の人々、労働貧民、及び、「中流の人々」 における道徳感情の腐敗 である。後に示すように、スミスは「労働貧民」における徳性の腐敗以上に、「生活上の中・下 流の人々」における道徳感情の腐敗により多 くの注意を払っているのである。我々はスミスにお ける道徳感情の腐敗に関する考察は、労働貧民ではな くて、生活上の中流・下流の人々のそれに 関わるものであるとの認識に立って、論述を進める。また、従来の「労働貧民における徳性の腐 敗」は、必ず しも、F感情論』の論理 との関係において、論 じられてきたものではなかつた。我々 はこれを関係付けることによつて、この徳性の腐敗に対するスミスの対処、公教育による是正 を スミスの道徳哲学体系の中に位置づける。

‑8‑

(9)

ス ミスの道徳感情腐敗論

.徳性 の腐敗 と立法者の義務

ス ミスが分業の進展 に伴 う労働貧民の徳性の腐敗 に関 して、重大な関心 を払 っていたことは間 違いないが、 しか し、この ような腐敗 はス ミス 自身の体系の枠内で解決可能であると考えていた ことも明 らかである。このようなス ミスの立場がマルクスを経験 した我々の時代か らはどれほ ど 不十分 な ものに見 えようとも )、 ス ミスは、後 に示す ように、主権者=国家の公教育 による是正 で もって対処 し得 ると考えていたのである (ス ミスはこれを「 自然の治癒法」 と呼んだ。後述)。

ス ミスは『諸国民の富』第四編の最後 を次の ように締め くくっている。「優先 させた り、或 いは、

制限 した りす る一切の体系が・"完 全 に撤廃 されれば、自然的自由 とい う自明で単純 な体系 (ob―

vious and simple system of natural liberty)が 自ずか ら確 立 され る。あ らゆる人は、正義の 諸法 を犯 さぬ限 り、各人各様の方法で 自分の利益 を追求 し、自分の勤労 と資本の双方を他の どの 人、または、階級 の人々 と競争 させ ようとも完全 に自由に放任 される。… 自然的 自由の体系 によ れば、主権者 (the sovereign)が 注意 を払 うべ き義務は僅かに三つ しかない。¨・即 ち、第一は、

その社会 を他の独立 な社会の暴力や侵略か ら保護する義務であ り、第二は、その社会のあ らゆる 成員 をその他のあ らゆる成員の不正 、または、抑圧か らで きる限 り、保護する義務、即 ち、厳正 な司法行政 (exact administratiOn of justice)を 確立す る義務であ り、第三 は、あ る種 の公共 土木事業 と公共施設 を建設 し維持する義務である。」(WN H,pp.687‑78。 F富H、 1008頁)

上記の文章はス ミスの思想 :「 自然的 自由の体系」 を伝 えるもの としてはあまりに有名な文章 である。ス ミスは続 く第五編で この「主権者の義務」論 を展開 しているが、我々が本稿の関連 に おいて注 目するのは、その第一章「主権者、または、国家の経費について」、第三節「公共土木 事業 と公共施設の経費について」、第二項「青少年の教育のための諸施設の経 費 について」 であ る。先 ほ どの引用文 にある通 り、ス ミスは分業の進展 に伴 う徳性の腐敗 を主権者=国家 による教 育施設の整備 によって是正で きる と考えていた。ス ミスは「人民大衆の徳性の腐敗」の嬌正策 と して「教育」(教育施設)を「主権者」、即 ち、国家の義務の一つに数えた。ス ミスの この是正策 は、ス ミスにおける立法者の義務 とは何かに関 して、更に、ス ミスの政治経済学 とは何かに関す る見通 しを与 えて くれる。これは後に示す ように、ス ミスの「政治経済学」、或いは、政治経済 学 を一部門 として含 む「 自然法学」が よって立つ ところの「公正、及び、便宜の一般的諸原理」

の一つであ り、分業の進展 に伴 う徳性の腐敗は或 る意味では、折 り込み済みの ものであった (第 五節 を参照)。

(10)

経済研究4巻2号

.再び、振 り出 しへ。

しか し、上記の解決策は、労働貧民=「生活上の下流の人々」の是正 について言われてい るの であつて、「中流の人々」についてではない。「青少年の教育のための諸施設の経費」が主権者 の 義務の一つであるのは、「ある社会の状態 は、その社会が必要 とし、許容 し得 る殆 ど全 ての能力 や徳が人民大衆の中に形成 されない」 とい うことが根拠 とされている。ス ミスは自明のことの よ うに述べているが、「ある場合 には、その社会の状態が個人の大部分 を必然 的 にあ る地位 に置 く のであつて、政府の注意な どが な くとも、その状態が必要 とし、また、おそ らく許容 しうる殆 ど 全ての能力や徳が彼 らの中に形成 される」のは どの ように してか。

「政府の注意」がな くて も、ある社会状態が、「徳」 を形成す る次第をス ミスが考察 したの は、

F感情論』である。 しか しなが ら、上記の文章 を読 む と、「他の場合のその社会の状態」 とは、 ス ミスが考察の主題 とした「商業社会」で しか他 にはあ り得 ない。する と、ス ミスは倫理学 におい ては、政府の注意 を必要 としないある社会状態 (商業社会)では人々の間に徳が形成 され (正 と慎慮)、 経済学 においては、人民大衆 は必然 的、全面的に腐敗す るので 、政府 の注 意が必要 で あると述べていることになる。これはやは リーつのアダム・ス ミス問題 と呼ぶべ きであろ う。 ス

ミスの言葉 を文字通 りにとれば、道徳感情の腐敗 には必然性がある とい うことなのである。

我 々は、ス ミスの道徳感情腐敗論 の主題は、分業の進展 に伴 う労働貧民の徳性 の腐敗ではな く、

「歓喜の同感」に伴 う「生活上の中・下流の人々」 における道徳感情の腐敗 で あ る と主張す る。

また、分業の進展 に伴 う労働貧民 における徳性の腐敗 とは、「大都市 に生活環境 を もつ労働者層 における観察者概念の不成立」による徳性 の腐敗であ り、ス ミスはこれを教育 によつて是正可 能 と考 えていた。

これに対 して、歓喜への同感 による道徳感情の腐敗 は、あえて言 えば、ス ミスの道徳哲学体系 を破綻 させ る ものなのである。ス ミスはその死の直前 に F感情論』第六版 を出版 したが 、 こ こに は、『グラス ゴウ大学法学講義J(以下、F法学講義』)や『諸国民の富』に示 された分業 の進展 に よる労働貧民の徳性の腐敗 に言及 した箇所 はないのである。その代わ りに、ス ミスが力 を注 い だ のは、歓喜への同感 に伴 う「生活上の中・下流の人々」における道徳感情の腐敗への対処 なので ある。いやむ しろ、正義の法が形式化 した社会領域 における道徳感情の腐敗 こそ、ス ミスが 自身 の体系 にとつて危機的な もの と見た事態 なのである。従 つて、我 々は「歓喜へ の同感」 に伴 う

「生活上の中・下流の人々」 における道徳感情 の腐敗 こそが、ス ミスにお ける道徳 感情腐 敗 論 の 眼 日である との認識 に立つ ことが必要であろ う。このために、我 々は初期資本主義生成期 に固有

‑10‑―

(11)

ス ミスの道徳感情腐敗論

な資本主義の精神 と初期資本主義の関係 という視点でスミスの道徳感情腐敗論を考察する。)。 ミスの思想は、中世の末期から18世紀の半ばまで続 く緩慢ではあるが、着実な初期資本主義の生 成期における社会、経済思想である。このような広範な社会、経済思想の枠組みの中でスミスの 道徳哲学の体系を考えることにより、一層、道徳感情の腐敗に対する理解が深 まるであろうい)。

六日本論文の主題

我々は経済成長 (分業論・資本蓄積=生産的労働論)、 或いは、国民一人あた りの実質所得の 上昇 (高賃金論)、 及び、これらから帰結する物質的富の追求 (「自然の欺購」論)に対す るス ミ スの是認的議論 と、分業に伴 う徳性の腐敗、物質的富の追求に伴 う道徳感情の腐敗に対する否定 的見解 との間に見 られる明らかな緊張関係 という視点から、初期資本主義の精神の形成 とその解 体 ということを基本的枠組みとして、ス ミスにおける「経済 と倫理」の問題に取 り組もうと思う。

本稿の主題は、ス ミスにおける資本主義の精神の生成 と、その解体の論理を示すことにあ り、 こ の観点によって、ス ミスの道徳哲学体系の意味を明らかにすることである。具体的には、本稿の 課題は以下の三点である。

ス ミスにおける徳性の腐敗論に関する考察は、労働疎外論的解釈でも、シヴィック・ヒューマ ニズム論的解釈でも、正義論的解釈でも、労働者の徳性の腐敗、疎外を問題としてきた。これに 対 して、本稿では、「生活上の中 。下流の人々」における道徳感情の腐敗を問題 とする。これは、

労働者ばか りでなく、後代に言 う資本家の徳性の腐敗 を問題 とするものである。この関連で、我々 は腐敗する徳性 とは第一に慎慮の徳であるとする。F法学講義』や F諸国民の富』が示す通 り、

スミスは労働階級における分業、商業の進展に伴 う徳性の腐敗について、十分な認識をもってい たが、『感情論』の改訂が示す ところは、道徳感情の腐敗についてより大 きな関心 を払 っていた という事実である。我々がこのために着 目したのは「歓喜への同感」論である。スミスはいかに して、道徳感情が腐敗するのかの論理 をも考察 し、更には、経済の領域において、同感原理その ものが失効する事態をさえ示唆 しているのである。本稿での第一の主題は、このような道徳感情 の腐敗が労働者、資本家双方においていかに生 じるかを「歓喜への同感」論を用いて示すことに ある。そ して、我々は「歓喜への同感」論より更に論を進め、慎慮の徳の中に、道徳感情 を無効 化、失効化する構造が存在することを示す。これは後に示すように、「是認の感情に及ぼす効用 の影響」において言及されている事態である。我々はしか しながら、ス ミスによっても明白には 認識 されていなかったと思われる同感原理その ものに内在する自己解体的な構造を示すことによっ

(12)

経済研究4巻 2号

て、歓喜への同感か ら同感感情の腐敗、更には、同感感情の無効化 とい う論理 に説明 を与 える。

後述す るように、ス ミスの同感は、想像力 に起源 を持つ諸情念制御 を要 とす るが、想像上の立場 の交換 は、それが まさに、想像力の行使であるが故に、想像力 に起源 を持つ諸情念を喚起せ しめ、

同感感情その もの を腐敗化 、或いは、無効化するのである。

第二 に、我 々は労働者 における徳性 の腐敗 を「大都市 に生活状況 を持つ労働者層 における観 察 者概念の不成立」 とい う把握 にその理由を求め、また、主権者=国家の公教育 による是正 とい う ス ミスの主張 (主権者の義務論の一つ)が、法 と統治の一般的諸原理 に基づ く自然法学 、及 び、

自然法学の一部である治世論=政治経済学の構想の中に位置づ け られることを示す。我 々は「法 学の 目的 とは、正義 と便宜の普遍的 な諸原理 を検討す る」 ことであるとい うステュアー トの言葉 を手がか りに してこの ことを論証す る。主権者=国家の第一の義務 は、諸個 人の 自由な経済 活動 を妨 げるような人為的諸制度、諸規則 を造 らず、定めてはならない とい うことであるが、第二 の 義務 は、正義の維持 と労働者 における徳性 の腐敗 を教育によつて是正することである。

主権者=国家の義務が教育に よる徳性の腐敗 の是正である とすれば、各個人に要請 される もの は「 自己制御」である。ス ミスの「 自己制御」論 (後)の原理 は、『感情論』第六版 に よれ ば、

「想定 された中立的な観察者の諸感情への顧慮」 とされる。ス ミスは歓喜へ の 同感 に由来す る道 徳感情 の腐敗 に対 して、諸個人の内面の倫理である「 自己制御」による是正 を主張 したのである。

「法 と統治の一般的諸原理」に基づ く主権者=国家の義務の一つが労働者 における道徳感情 の 公教育 による是正であるとされること、「中立者の諸感情への顧慮」に基づ く歓喜へ の同感 に由 来す る道徳感情の腐敗の是正が「 自己制御」論 に委ね られた こと、この両者 は、ス ミスの「立法 者の科学」「政治の科学」の構想の一部である。主権者=国家の義務論 と諸個 人の 「 自己制御」

論 とは、「想定 された中立的な観察者の諸感情への顧慮」 を原理 とす る「法 と統 治 の一般 的諸原 理」であることによ り、ス ミスの政治経済学 と正義論 とは、自然法学の二つの構成部分 となる。

我 々の第二の 目的は、労働者 における道徳感情の腐敗 を主権者=国家の公教育 による是正、及び、

自己制御 による道徳感情腐敗の克服 はス ミスの完成 されなかった 自然法学の構想の一部であるこ とを示す ことである。

第二 に、我 々は何故、ス ミスが 自然法学 を完成で きなかつたか、或いは、断念 したかの理 由 を 示す。それは、第一 に述べ た「歓喜への同感」論 の必然的な結果なのである。自然法学 に関す る ス ミスの諸議論の一部は、『法学講義Jの名で知 られ る二部の講義 ノー トに見 られる。「 自然法学 (jurisprudence)と は、市民政府 を導 くべ き諸規則の理論である」(LJ(A),p。 6)と の文言 で始 まるこの講義は、1762‑63年,1766年 の 日付 を持 っている。法学講義 は「正義論」 と「治世論」 の

‑12‑

(13)

スミスの道徳感情腐敗論

二部構成になっているが、スミスはこの後半部「治世論」を『諸国民の富』(1776年)と して公 にした。その後、ス ミスは『感情論』、及び、『諸国民の富』の改訂作業 に入 り、『感情論』第六 版を出版 し(1790年)、 同年死去 した。その末尾 において も、ス ミスは、「 自然法学の一般理論 (theory of jurisprudence)」 完成の執着を見せている。結局これは残 されることな く、 自然法学 に関する草稿はス ミスの遺言によって焼 き捨てられた。我々はス ミスの自然法学に関する考察 を 残 された講義ノー トから知るしか方法がないのであるが、ス ミスが自然法学に関 して、自然法学 は「全ての科学の中でもずば抜けて最 も重要な、しか し、おそらくはこれまで最 も開拓されるこ との少なかった個別科学」であるとの認識を持っていたことは注 目する必要があろう。

以上、要するに、経済の領域での歓喜への同感に由来する道徳感情の無効化は、慎慮の徳の解 体の結果なのであ り、経済の論理そのものの帰結であること、次に、道徳感情の腐敗を是正する べ き主権者=国家の統治の原理の一つは「歓喜への同感」なのであるか ら、道徳感情腐敗の一形 態である歓喜への同感をその存立の一原理 とする主権者=国家の義務の一つが道徳感情腐敗の是 正であるということは矛盾であること、ス ミスがこうした事態に対処するべ き努力が上に述べた ように、自然法学の構想であったが、これは、消極的な正義の法 という外枠のみを残 して、徳性 の腐敗 した経済的領域のみが残る「自分の足で立った」資本主義という現実を前にして断念 され た次第、これらのことを論証する。

第 一節  ス ミスにお ける倫 理・ 法・ 経 済

第一項 デューガル ド・ ステュアー トの証言

ス ミスにおける道徳 。法 。経済の三部門の総合的体系 をもって「社会科学の体系」 としば しば 言われるが い)、 我 々はこのような名称 を使用 しない。何故 な らば、それは「社会科学」の体系 で はないか らである。ス ミスの体系 は第一 に、自然神学 を含んでいる。「社会科学」 の体系 と呼ぶ ためには、この 自然神学 を無視 しなければな らない。また、「道徳」であ るが 、 これは一般 的 な 道徳論ではないことは もちろんであ り、経済倫理論である。次 に「法」に関 しては、これ は経済 の法的要件 と呼ぶべ きものであ り、最後に「経済」は現代的な意味での経済 (Economics)で 無論 ない。それはまさしく「政治経済学 (Political Economy)」 と呼ばねばならない。政治経済 学 には、立法者論、または、主権者=国家論が不可欠である。何故 ならば、それは後述す る よう

(14)

経済研究4巻 2号

に、「正義 と便宜の普遍的な諸原理」の考察 を含み、かつ また、これ らの諸 原理 に従 って「立法 者」 を指導すべ き「政策論」 を含 まねばならないか らである )。 従 つて、我 々はス ミスの社会科 学体系 とは言わず に、道徳哲学体系0)の呼称 を使用す る。

ス ミスの道徳哲学体系 は極めて複雑かつ密接 な構造 を持 っている。この体系の外的構成 は「講 義」 とい う形 を取 つている い)。 最 も初期のス ミスの伝記作者デューガル ド・ステュアー トによれ

!ゴ (Stewart,"Account",pp.274‑75.『 生涯 と著作』、11‑12頁)、 ス ミスの道徳哲学 は、第一部 門 として 自然神学、第二部門が「厳密 な意味でそ う呼ばれている倫理学」、第三部 門が 、正 義 に関 連 していて、「精密で正確 な諸規則 と相容れ、まさにその意味によつて十分 で特殊 な説 明が可 能 な道徳分野」、つ ま り、自然法学の第一部門である正義論、第四部が、「正義の原理ではな く、便 宜の原理 に基づいていて、かつ、一国家の富、権力、及び、繁栄 を増大 させ るよう意図 されてい る政治的諸規則」 を検討す る分野 、つ ま り、自然法学の第二部門である治世論 となつている。 こ の内、倫理学 に相当す る分野は『感情論』初版 (1759年)と して刊行 された。自然法学 はその末 尾で、「法 と統治の一般的諸原理」 を取 り扱 う著作 を準備 しているとス ミスが述べ た ものm)に 相 当す るが、これは大 きく、正義論 (Justice)と 治世論 (Police)と に別れ、この治世論 の 中でス

ミスは、後 に『諸国民の富』に結実す る諸議論 を展開 した。

ステュアー トの上記の説明は よく知 られている ものであるが、ステュアー トの伝記の重要性 は 次の ことにある。つ ま り、ス ミスの 自然法学が どの ような もの として、当時の人々の 目に映 じて いたか を伺い知ることがで きることである い)。

ステユアー トはまず、ス ミスが 自然法学で果たそ うとした「現代の課題」 を、「正義 と便宜 の 普遍 的 な諸原理 (universal principles of iustiCe and expediency)を 検 討 す る こ と」(ibid。,

p。312.同上、65頁)と してい る。更 に、ステユアー トによれば、「正義 と便宜の普遍的な諸原理」

とは、「 どの統治形態 において も、社会的秩序 を規制する自然的正義の、及 び、政治 的便 宜 の諸 原理 (the principles of natural justice and those of political expediency)」 (ibid.同)で り、これ らの諸原理 の 目的 とは、「政治的統合か ら生 じる諸利益 を様 々な成員 の 間にで きるだけ 衡平 に (equitable)に 配分すること」(ibid。,pp.309‑10。同上、62頁)であ る とす る。ス テ ユアー トはここか ら、「政治科学の最 も重要 な分野は自然法学の哲学的諸原理 を確証す ること、即ち、…

『全ての国民の法 を貫いてお り、またそれ らの法の基盤であるはずの一般 的諸 原理 』 を確 証 す る こと」(ibid.,p.310。同上、63頁)とい う目的をス ミスの「 自然法学」 の 中に見 てい る。 この よう な理 由によ り、ステユアー トは自然法学 を「政治 の科 学 (science Of politics)」 (ibid。,p.309。 )と呼 び、それを自然法学の中に位置づ け、その 目的 を「諸 国民の政策 を、その国民 の政治経

‑14‑

(15)

ス ミスの道徳感情腐敗論

済学の体系 を形成す る諸法 (laws which form its system of political economy)の 中で もっ とも重要 な種類の ものに関 して導 くこと」(ibid。,p.311.同上、64頁)と し、 自説 を補 強す るため に、ベ イコンを引いて、「法」の 目的 とは具体的には、「国民が敬虔で宗教的な教育 を受 け、徳性 を持つ までに訓練 されること」「適切 な軍備 によ り、外敵か ら安全であること」「争乱や個 人的加 害 に対 して効率的な政策 によって保護 されること」「政府 と行政官 に対 して服従 的であ る こ と」

「富 と物資の豊か さ」 を実現す ることである (ibid。 ,p.311。 同上 、63頁)とす る。 ステ ュアー トは

『諸国民の富』で果た されなかったス ミスの 自然法学の中身を「 これ らの重大 な諸項 目に関 して 立法者の諸制度 を指導すべ きである正義、及 び、便宜の一般的諸原理 を確証することであった」

(ibid。 ,p.312。同上 、65頁)と述べた。ステュアー トがス ミスの F諸国民 の富Jを この「政 治 の科

学」 を一部実現 した もの として見ていることは明 らかである。これは、『諸 国民 の富』 の編 別構 成 に一致 している。つ ま り、「富 と物資の豊か さを実現す る」 ことはま さ し く、 この書物 の主題 である し、ス ミスは分業 と資本蓄積論 を用いて、これ を論証 した (『諸 国民 の富』 第一編 〜第四 )。 また、その第五編第一章 において、ス ミスは「主権者の義務」論 を展 開 しているが、その 第一は「国防」=「適切 な軍備 によ り、外敵か ら安全であること」(第五編 第一章第一節)で り、第二 は「司法」=「争乱や個人的加害 に対 して効率的な政策 によって保護 されること」 であ る。「政府 と行政官 に対 して服従的であること」に関 しては独立の項 目はないが 、ス ミスは第二 節で「服従 をもた らす諸原因、または、諸要因」 を考察 し、これ を正義論 に関連 させてい る。最 後 に、第三節で、「国民が敬虔で宗教的な教育 を受け、徳性 を持つ まで に訓練 され る こ と」 を労 働者層 における徳性の腐敗 の救済策 として論 じている。これ らが、ステュアー トの言 う「正義 と 便宜の普遍的な諸原理」の探求 に基づ くス ミス 自然法学の構想の一部であった ことはこの対応 関 係か らも明 らかであろう。

ステユアー トがス ミスの 自然法学 をベ イコンに由来する「正義 と便宜の普遍的な諸原理」の探 求 としていること、また、この 自然法学 は、「立法者の諸制度 を指導すべ きであ る正義 、及 び、

便宜の一般的諸原理 を確証する」 とい う政策部門を含 んでいるとしていること、この二つは重大 な示唆 を我 々に与 えて くれる。つ ま り、自然法学 とは、正義 と便宜 と普遍的な諸原理の探求であ り、自然法学の一部門である「治世論」は、これ らの諸原理の探求 と、これ らの諸原理によって、

「立法者の諸制度」は指導 されるべ きであ り、この ことを通 して富裕化 の論理 を明 らか にす る こ とにあると言 う意味で、それは「政治経済学」なのである。

また、更に、ステュアー トは富裕化 と倫理の問題 に関 して、『諸国民 の富』 には「古代 と現代 の政策の精神の間に極 めて強烈 な対照」(ibid。,p.312.同上、66頁)が見 られ る としている。「 古代

(16)

経済研究4巻2号

の政策の精神の大 きな 目的は金銭愛や奢修趣味に実定的諸制度 によって対抗 し、また、国民 とい う巨大 な団体の中に倹約の習慣 と生活態度 (manners)の厳格 さを維持す ることにあつた」(ibid.

同上)が「貿易や製造業が なお幼年期であった時代」 には、「富の国外か らの突然の流入 は一 国 民の道徳や勤勉 や 自由を脅かす悪 として当然恐怖 された。(ibid。,p.313.同)古代 ローマや ギ リ シャが滅亡 したのは、こうした富の増大による奢修や金銭愛によって、つ ま り、「富の国民の性 (natural character)へ影響」(ibid。,p.312,同)に原因が求められるのに対 し、「現代」にお いては事情は異なり、「最 も富裕な国家 とは、その国民が最 も勤勉であ り、 また彼 らが最大限の 自由を享受 している国である。(ibid.同)即ち、「現代」では、「富の国民への性格の影響」は、

勤勉、自由といった徳性を脅かす ものではな く、下層階級にまで富が普及 したことによ り、「古 代のもっとも賢明な諸政体のもとで見 られるよりも更に平等な、自由と幸福の普及」(ibid.同)

が生まれた。ここでは、F諸国民の富』は、富の増大 と倹約の習慣、生活態度の厳格 さといつた 徳性 と両立 していることを主張する書物であると認識 されている。ステュアー トが古代ローマや ギリシャと、現代 との富裕化 と徳性の関連に相異をもたらしたものは「古代 と現代における国民 の富 (national wealth)の 資源の相異」(ibid。同上)に見いだしていることは興味深い ω)。

最後に、ステュアー トは既に、分業に基づ く徳性の腐敗に関 して言及 している。「ス ミス氏が 大いに強調 している、生産力を増大 させる分業の諸結果 も、別個の極めて陰鬱な結論を指摘 して いるように思われる。即ち、それはアー トの進歩を増進する同 じ諸原因が職人の心を堕落 させ る 傾向をもつということ、従つて、国民の富の成長は国民の性格の犠牲を意味 しているという結論

である。(ibid。,p.315。同上、68頁)これをステュアー トは「機械技術の進歩に伴 う労働の細分化

によつて生 じる致命的な諸結果」(ibid。,p.313.同上、67頁)と呼び、この「致命的な諸結果」 に 対 して、スミスが提唱 した「自然によって準備 された治癒法」(ibid。同上)とは、「一般教育の促 進を容易にし、個人の教育を彼 らの しめるはずの地位に適応 させるための賢明な制度」(ibid。 )の導入であると述べている。

以上より、ス ミスの道徳哲学体系は、その内容が殆 ど知 られていない自然神学 )、 同感原理 に 基づ く倫理学、「正義 と便宜の普遍的な諸原理」の探求と「立法者の諸制度 を指導すべ きである 正義、及び、便宜の一般的諸原理の確証」 という政策部門を含んでいる自然法学、そ して、正義 の諸原理を扱 う自然法学の第一部門である「正義論」、便宜の諸原理を扱 う「治世論」 であるこ とが分かる。そ して、自然法学の一部門である「治世論」は、これらの諸原理の探求 と、 これ ら の諸原理によつて「立法者の諸制度」は指導されるべ きだと言 う意味で、それは「政治経済学」) であると言 うのである。さらにこの治世論の具体化である F諸国民の富』においては、倫理 と富

‑16‑

(17)

スミスの道徳感情腐敗論

裕化の問題が、「国民の富の資源」の相異 によって、解決 されているとい うのである。

我 々が本稿で問題 にする道徳感情の腐敗の議論は、ス ミスの上述の道徳哲学体系の全ての分野 に関わる ものである。自然神学 に関 しては、現在の ところ、利用で きる資料がないので、道徳感 情腐敗 と自然神学 との関係 は殆 ど考察す ることはで きず、示唆す るに止めざるを得 ない。

我々は以下で、ス ミスの道徳哲学体系の説明 を与 えるが、これは道徳感情腐敗 は、一般に、道 徳 0法 。経済 と言われる全ての部門において影響す る ものであることを示すための準備作業であ る。我々が「アダム・ス ミスの道徳哲学体系 を、この初期資本主義 に固有な理論体系である と把 握する」 と述べた意味は、ス ミスの課題が経済的諸行為 (行為の動機、及び、その結果)に倫 理 的正当化 を与 える (出来得 るならば、神学的正当化 を与 える)こ と、かつ、この諸個人の 自由 な 経済的諸行為が、社会の全般的富裕化 )を実現す る論理 (経済 的諸行為 の結果)を論 証す る こ

とにあった と思われるか らである。

第二項 ス ミスの道徳哲学の体系

上述の講義の構成 はその まま、ス ミスの道徳哲学体系 を反映 していると見 ることがで きる。道 徳哲学 とは人間の科学であ り、人間の本性の諸原理か ら社会形成 (政治社会 、経済社会)のあ り 方 を構成する論理 と言 える い)。 ス ミス的現在である18世紀の思想風 潮 )に規 定 されつつ 、ス ミ スは自らの道徳哲学の体系 を構築 した。議論の進展に必要な限 りでこの体系 を説明 しよう。

.道徳哲学の体系

人間本性論 と徳性論

ス ミスはまず二つの単純 な人間本性 に関する命題か ら出発す る。つ ま り、人間は様 々な情念 (passions)を 持つ とい うことと、同胞感情 (fellow―feeling)を もつ とい う命題 であ る。 この 同 胞感情 とは「他人の諸感情への依拠 関係」 とも呼 ばれる (この点後述)。 ス ミスの体系 の原理 の 一つは、同感原理である。つま り、徳性の判断能力 を人間の生 まれつ きの感情である同感感情 に 求め、この同感 によって制御 された情念 を内実 とする人一 人の同市民的社会関係の中に、行為 の 適宜性である「徳性」あ りとする ものである。ス ミスは伝統的な悪徳 (性欲、権力欲、貪欲)ば

か りか、伝統的な徳 (仁愛、利他心、正義)をもその ままでは情念 に過 ぎない とし、情念 はそれ が社会的であれ、非社会的であれ、また、新参の情念である利己的な情念であれ、これを抑制 、

参照

関連したドキュメント

睡眠を十分とらないと身体にこたえる 社会的な人とのつき合いは大切にしている

題護の象徴でありながら︑その人物に関する詳細はことごとく省か

 基本的人権ないし人権とは、それなくしては 人間らしさ (人間の尊厳) が保てないような人間 の基本的ニーズ

森 狙仙は猿を描かせれば右に出るものが ないといわれ、当時大人気のアーティス トでした。母猿は滝の姿を見ながら、顔に

ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配

我々は何故、このようなタイプの行き方をする 人を高貴な人とみなさないのだろうか。利害得

の総体と言える。事例の客観的な情報とは、事例に関わる人の感性によって多様な色付けが行われ

はありますが、これまでの 40 人から 35