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スミス最後の言葉 :『 感情論』第六版第大部 :自 己制御論と自然法学

以上 、我 々は分業の進展 に伴 う徳性の腐敗の論理 を示 し、これに対するス ミスの解答、国家 に よる矯正 を明 らかに した。 しか しなが ら、ス ミスの真 に対処すべ き問題は、歓喜への同感 に伴 う

「生活上の中・下流の人々」における「道徳感情の腐敗」なのである。

ス ミスは、この問題 に対処するために、『感情論』第六版 において大 きな改訂 を行 った。 この 新たな改訂のキイ概念は「 自己制御」論である。ス ミスはこの「 自己制御」論の中で慎慮 に代 わ る上級の慎慮 、仁愛 に代わる普遍的仁愛論 を展開 し、上級の慎慮、正義、普遍的仁愛に基づ く自 己制御の徳 をその倫理学の根底 とした。この新たな倫理学 に基づ く法学の構想が「 自然法学」 で あつたが、ス ミスはこれを完成 させ ることはで きなかったのである。

『感情論』第六版第六部は、「徳性の性格 について」 とい う表題 を持 ってい るが、その主題 は

「 自己制御」論である。第六部は三編で構成 されるが、第一編で慎慮が、第二編 で正義 と仁愛 、 及び、その関連 において、「 自然法学」が考察 され、第三編で「 自己制御」 論が主題的 に取 り扱 われる。我 々はここで、慎慮、及び、仁愛 についての新たな概念 を目にする。上級の慎慮 と普遍 的仁愛である。 しか しなが ら、この第六部での強調は、利己的な情念に対する制御 なのである。

我 々は この理由を理解で きる。ス ミス に とって道徳感情 の腐敗 は、「歓喜へ の同感」 に基づ く

「我 々が 自分たちの状態の改善 と呼ぶ人生の大 目的」の追求に基づ くものであるか らである。

「 自己制御」論 は、『感情論』第六版第三部第三章「良心の影響 と権威」へ の付加部分 で既 に 強調 されているが、そ こでは、「我 々の諸感情 を適宜性 の枠 内 を越 え させ る私 的 な悲運」

(TMS

経済研究4巻 2号

6th,p.141.『感情論』、253頁

)に

は二種類あることが指摘 され、ス ミスは「我 々 自身 に対 して直 接無媒介 に、す なわ ち、我 々の身体 、我 々の財 産 、我 々の名声 のいず れか に作用す る もの」

(ibid。同上

)に

関 して、「適宜性の感覚が我々の感受性の欠如 によつて よりも、その過度によつて、

損 なわれる傾向がはるかに大 きい」(ibid。,p。143.同上 、255頁

)と

述べた上で、次の ように観 察 し ている。「人間生活の悲惨 と混乱の双方の大 きな源泉 は、一つ の不 変 的

(permanent)な

境 遇 と 他の境遇 との違い を過大評価す る (over―rating)こ とか ら生 じる ように思 われ る。貪欲 (ava̲

rice)は 、貧困 と富裕の違いを過大評価 し、野心 (ambition)は 私的な地位 と公 的 な地位 との違 いを、虚栄 (vain―glory)は、無名 と広範 な名声 との違い を過大評価す る。 そ れ らの過度 の諸情 念 (extravagant passions)の 影響下 にある人間は、彼の実際の境遇において悲惨 であ るばか り でな く、 しば しば、彼がその ように愚かに も感嘆す る境遇 に到達す るために、社会の平和 を乱 そ うとす る。…それ らの うちどれ も慎慮 または正義の諸規則 (rules of prudence or of justice) の蹂躙 に我 々を駆 り立てる情念的な熱意 (passionate ardour)を もって追求 され る もので はあ

りない 」(ibid.,p.149.同 上、262頁)。「貪欲」「野心」「虚栄」 とい う「情念」か ら生 じる「富裕」

「公的 な地位」「名声」 とい う境遇 に対す る「過大評価」 とは「歓喜への同感」に言われ る もの と 同 じである。ス ミスは この ような情念 に基づ く「過大評価」 を「本源的で利己的な諸感情 に対す る最 も完全 な制御 に、他の人々の本源的諸感情、及び、同感的な諸感情の双方への最 も鋭い感受 性 を結 びつける」(ibid.,p.152.同 上、265頁

)こ

とによつて「制御す る (command)」 必要が あ る と述べている。「貪欲」「野心」「虚栄」 とい う情念が「慎慮 また は正義 の諸規則 (rules of pru―

dence or of justice)」 を蹂躙す るまでに高め られる とい う表現 に注 意 しよう。上述 の諸情念 が

「蹂躙す る」 もの とは、正義、或いは、慎慮の徳 なのである。

第一項

 

外面的財産 と上級の慎慮

―.『感情論』第六版第六部における「慎慮の徳」

ス ミスは『感情論』第六版第六部 を次の ように始めている。「人が成長す るにつ れ、彼 は ま も な く次のことを学ぶ。それは、彼等の 自然的欲望 (natural desire)を 充足 させ 、快 楽 を得 て、

苦痛 を避 け、暑 さ寒 さの温度の、快適 な ものを得 て、不快 な もの を避けるため に手段 を整 え るに は、ある配慮 と洞察が必要であるとい うことである。この配慮 と洞察 とを適切 な方向に向ける こ とに、彼の外面 的財 産 (external foFtune)と 呼 ばれ る もの を維持 し、増大 させ るための技術

―‑94‑―

スミスの道徳感情腐敗論

(art)が存す る。」(ibid。,p.212.同上

t444頁

)この文章は、効用 と慎慮の徳 に関 して語 つた第四部 の以下の文章 に対応す る。「我 々が、観察者がその ような感嘆 をもって、富裕 な人々、上流の人々 の状態 を差別す るのは、何故かを検討す るならば、それは、彼 らが享受する と想定 される優 れた 安楽、快楽のためではな く、この安楽、または、快楽 を促進す る無数の技巧的で優雅な工夫 のた めである。」(TMS l ,p.345。同上 、278頁

)そ

して、ス ミスは「慎慮 の徳」 につ いて言及す る。

「その個人の健康、財産、身分 と評判、即 ち、彼の この世での快適 と幸福 が主 と して依存す る と 思 われる諸対象についての配慮 は、普通、慎慮 (Prudence)と 呼ばれる徳性の本来の仕事である。」

(TMS 6ぬ,p.213.同上、445頁

)或

いは、「彼の勤勉 と倹約 (industry and frugality)の 堅 固 さに おいて、彼が堅固に、現在の瞬間の安楽 と享受 とを、 もっと遠いが継続する時期のさらに大 きな 安楽 と享受 に対す る有望 な時期の犠牲 に していることにおいて、慎慮ある人は、常 に中立的 な観 察者、及び、中立的な観察者の代理人である胸 中の人の完全 な是認 によって支持 されるとともに、

報償 を得 る (the prudent man is always bOth suppOrted and rewarded by the entire approba―

tion Of the impartial spectator, and of the representative of the impartial spectator, the man within the breast)。 」(ibid.,p。 215。同上、447頁)

前述 したように、我々はこの部分での「慎慮ある人」の把握が、『感情論』初版以来一貫 した ものであることを見る。 「勤勉と節約」は、 「常に中立的な観察者、及び、中立的な観察者の代理

人である胸 中の人の完全 な是認 によって支持 される とともに、報償 を得 る」のであるか ら、これ らはまさしく「徳性」なのである。我 々は更 にここで、「外面的財産」の「本来の」諸利 点が、

「人間の 自然的欲望」(鵬)を充足 させ るためであ り、この 自然的欲望 を充足 させ るため に手段 を整 えることの「配慮 と洞察」 に「慎慮の徳」があると知 らされるわけである。 しか しなが ら、ス ミ スはこれに満足せず「上級の慎慮」 とい う概念 を持 ち出す。 しか し何故 、新 た な概念 を持 ち出す 必要があるのか。それの解答は次の文章にある。

「外面的財産の諸利点が本来 (originally)、 我々にとって望 ま しい もの とされるのは、 身体 の 諸必要 と諸便宜 (the necessities and cOnveniencies)を みたす ものであ る とはい え (though)、

我 々が この世 に長 く生活 していれば必ず、我 々の同等者の尊敬、我々が住んでいる社会の中での 我々の信望 と身分 とが、それ らの利点 を所有す る程度、或いは、所有すると想定 される程度 に大 いに依存することを悟 らずにはい られない。我 々の同等者たちの間で、この尊敬の適切な対象 と

なること、この信望と身分に値 し、それを獲得することの欲茎

(the desire Of becoming the

proper objects of this

respect,

of

deserving

and obtaining this credit and rank among

our

経済研究4巻 2号

equals)は、恐 ら く、我 々の欲 求 の 中で も最 も強 い し、従 って財 産 の諸利 点 を獲 得 した い とい う 熱 意 は、身体 の全 て の諸必要諸便宜 を満 たそ うとい う欲求 (that of supplying all the necessi―

ties and cOnveniencies)に よってよりも、はるかに大 きくこの欲求によつてかき立てられ、刺激 される。」(ibid。,p.212.同上、444頁)

「外面的財産の諸利点が本来、我々にとつて望ましいものとされるのは、身体の諸必要 と諸便 宜をみたす もの」というこのス ミスのこの言葉は直ちに我々に『諸国民の富』における次の文章、

つまり、「あらゆる人は、その人が人間生活の必需品、便益品、及び、娯楽品 (the necessaries, conveniencies,and amusements of human life)を どの程度 に享受で きるかに応 じて富んでい た り、貧 しかつた りするのである」

(WNI,p.47.『

富』I,105頁

)を

思い起 こさせ る。富 とは、

「身体の諸必要 と諸便宜をみたす もの」、「人間生活の必需品、便益品、及び、娯楽品」であると いうのが、F諸国民の富』における「富概念の転換」(内田

)と

呼ばれるものである。 したがつて、

「本来 (originally)」 とは、『諸国民の富』のこの立場を「本来」と言つているのである。

問題 となるのは次の部分 、「 とはいえ (though)」 である。「 とはいえ、我 々が この世 に長 く生 活 していれば必ず、我 々の同等者 の尊敬 、我 々が住 んでいる社会の中での我 々の信望 と身分 とが、

それ らの利点 を所有す る程度、或いは、所有す る と想定 される程度 に大いに依存す ることを悟 ら ずにはい られない。我 々の同等者たちの間で、この尊敬 の適切 な対象 となること、この信望 と身 分 に値 し、それを獲得す ることの欲求 は、恐 ら く、我 々の欲求の中で も最 も強い し、従 つて財 産 の諸利点 を獲得 したい とい う熱意 は、身体の全ての諸必要諸便宜 を満たそ うとい う欲求 によつて よりも、はるかに大 きくこの欲求によつてか き立てられ、刺激 される」という文章における強調 部分は何 を意味するのか。これはまさしく歓喜への同感に基づ く「人生の大 目的の追求」に他 な らない。「身体の全ての諸必要諸便宜を満たそうという欲求」を自然的欲望 と呼ぶならば、「我 々 の同等者たちの間で、この尊敬の適切な対象 となること、この信望 と身分に値 し、それを獲得す ることの欲求」は社会的欲望 と言い得るであろう。「上級の慎慮」はこの歓喜への同感に基づ く

「人生の大 目的の追求」の批判のための概念であることが分かる。

二.「上級の慎慮 (superior prudenco)」 論

このような「歓喜への同感」に基づ く「人生の大 目的の追求」批判のために、ス ミスが提示す るのが「上級の慎慮」である。「要するに慎慮は、単に、その個人の健康 について、財産 につい

―‑96‑―

スミスの道徳感情腐敗論

て、身分 と評判 についての配慮 (care)に 向け られた場合には、非常に尊敬すべ き資 質 と見 な さ れ、或いは、或 る程度は愛すべ き資質 とさえ見 なされるにせ よ、それで も決 して、諸徳性 の中で 最 も心 を引 きつける ものである とも、最 も高貴 にす る ものである とも見 なされない。それは一定 の冷静 な尊重 を獲得す るが、何か非常 に強烈な愛情、または、感嘆 を受ける権利 をもつ とは思 わ れない。賢明で分別のある行動 は、その個人の健康、財産、身分 と評判 についての配慮 よ りも、

偉大で高貴 な諸 目的に向け られる場合 には、 しば しば、そ して非常 に適切 に、慎慮 と呼ばれる。

我 々は、偉大 な将軍、偉大 な政治家、偉大 な立法者の慎慮 について語 る。慎慮 はこれ ら全 ての場 合 において、多 くの もっと偉大で もっ とすば らしい徳性 と、即 ち、武勇、広範で強力な慈愛 、正 義の諸規則への神聖 な顧慮 と結合 されていて、これ ら全ては、適切 な程度の自己制御 によって支 え られている。この上級の慎慮 (superior prudence)は 最高度の完成に到達 された場合、必然 的 にあ らゆる可能な事情 と境遇において最 も完全 な適宜性 において行為するという技術、オ能、慣 行、または、性向の存在 を想定 させ る。」(TMS 6th,p.216.『 感情論』、448頁)

しか しなが ら、なお、我 々は、この「上級の慎慮」が何故、ここで言及 されるか、この箇所 だ けでは判然 としない 。0。 我 々は「上級の慎慮」 とはこの歓喜へ の 同感 に基 づ く「人生 の大 目的 の追求」の批判のための概念であることを確認 したが、なお疑間は残る。だが この疑間は次編で 解決す る。

「上級 の慎慮」 とは、「偉大 な立法者」の慎慮 であ り、かつ また、「武勇、広範で強力 な仁愛 、 正義の諸規則への神聖 な顧慮」に結 びついた ものであるとされ る 。つ。我 々はここで、ス ミスの 次の議論が、「立法者」に関す る ものであることを予測する。これは、第二編 「他の人 々の幸福 に作用す る限 りでの個人の性格 について」で明 らか となる。第二編は「 自然法学」への言及で始 まっている。この編でのス ミスの 目的は「第一に諸個人に対 して、第二、諸社会 に対 して、我 々 の善行 を配分するための (for the distribution of Our g00d Offices)」 (ibid。 ,p.218。 同上 、451‑

52頁

)自

然が準備 しておいた順序 を語 ることである。

第二項

 

正義、仁愛の徳 と「普遍的仁愛」論

第二編「他の人々の幸福 に作用 しうる限 りでの個人の性格 について」は「 自然法学」へ の言及 に始 まる。「あ らゆる国家、または、公共社会の知恵は、それの権威 に従属す る人 々が、相互 の 幸福 を害 した り、妨 げた りしあ うことがない ように、社会の力 を行使 して抑制する努力 を出来 る 限 り行 っている。この 目的のために、それが樹立する諸規則は、あ らゆる個別的な国家、または、

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