﹁よい﹂という価値語の意味と用法
︵一︶ 河︑γ 合浩
われわれは日常︑ ﹁よい﹂一反対は﹁わるい﹂或いは﹁よくない﹂1
という語を︑いろいろな場合に︑いろいろな意味を含めて用いている︒
﹁よい﹂は一種の価値語であるが︑価値語を用いるということは︑わ
れわれの行為実践と表裏して価値意識がはたらき︑価値判定がなされて
いるということである︒価値意識は行為の選択基準となるものであり︑
行為の可能的制約をなすものであって︑価値のあるなしに無頓着な行為
というものは︑実際には殆んどないといってよい︒
われわれが﹁よい﹂という語を適用する場合は︑限りなく多くて︑こ
れを分類整理することは困難をきわめるが︑ごく大まかに分ければ︑一
つは人のしわざ︵行為︶︑心がけ︵意志・心情︶︑人がら︵人格・品性
・徳︶のような倫理道徳上の価値をいい表わす場合の用い方と︑もう一
つは︑直接に右のようなことがらに無関係と思われることがらに適用さ
れる場合の用い方になると思う︒ここでは︑前の場合を倫理的意味の用
い方︑後の場合を非倫理的意味の用い方と呼ぶことにして︑以下︑両者
相互の意味的聯関を考慮しながら︑併せて﹁よい﹂の全体としての意味
を検討してみたい︒
まず︑﹁よい﹂︵或いは﹁よし﹂︶という形容詞の意味と用法を︑手 ︵1︶もとの国語辞典から拾ひあげてみることにする︒
﹁よい﹂という価値語の意味と用法 O ﹁或る物事が他よりも何等かの点で︑ いう意味で用いられる場合︒
意
味
すぐれ︑まさっている﹂と
ω 決い︑楽しい
② うつくしい︑うるわしい
㈲ たくみである︑上手である
ω かしこい︑さとい
㈲ 効果がある
㈲ 上等である
① 尊貴である
㈹ 利益である︑得である
⑧ 確実である
⑩値が高い
⑫ ω
⑭ ⑬
有用性にまさる
からだの状態や機能がすぐれている
文化的価値がすぐれている
人間の.性能が丈化的社会的役割を果す上ですぐれている 用
例
気分がよい︑
顔色がよい︑
手際がよい︑
頭がよい よい天気よい景色よい歌
散歩はからだにょい
よい品物 ひん 家柄がよい︑品がよい
割のよい商売
ものおぼえがよい
値がよいよい時計︑よい鉛筆
体格がよい︑眼がよい
よい音楽︑よい研究
よい教師︑よい政治家
⇔ ﹁適している﹂という意味で用いられる場合︒
意
味.
ω ころあいである
㈲ 相応である 用
例
よいあんばい
よい相手
一
﹁よい﹂という伍値語の意昧と用法
㈲ 好都合︵便宜︶である
ω十分である よい折︑住みよい家覚悟はよいか︑ただ勝ちさえずればよい
日 ﹁同意する︑承認する﹂という意味で用いられる場合︒
意
味
ω さしつかえない
② 然るべきである 用
例
もう帰ってもよい他人の忠告は素直にうけるがよい
四 ﹁幸である﹂という意味で用いられる場合︒
意
味
ω 運がよい
ω めでたい
㈲ ﹁むつまじい﹂
用例一二がよい 用
例
へ ぞぴ へさbさきカよし
日どりがよい
﹁したしい﹂という意味で用いられる場合︒
丙 ﹁手前勝手﹂という意味で用いられる場合︒
用例−虫がよすぎる
㈲ ﹁たやすい﹂という意味で用いられる場合︒
用例i書きよいぺγ
㈹ ﹁正しい﹂ ﹁正当である﹂という意味で用いられる場合︒
的﹁善﹂︶
用例iよい行い︑よい子ども ︵道徳
﹁よい﹂の用法は︑右のように多種多様であって︑ ﹁よい﹂ということが何を意味するかは︑この言葉自体をいくらせんさくしてみても︑容
二
易に明らかにならないように思われる︒ちなみに︑ ﹁よい﹂に相応する
漢字としては︑善︑良︑好︑吉︑佳︑芳︑美︑雅︑貴︑是︑宜︑嘉︑令
可︑淑など︑これまた数多く︑それぞれ︑大体その用法が一定してい
るようであるが︑また相互に明確な区別なく混用もせられているようで ︵2︶ある︒なおまた︑ρσq暮げ○昌︵希︶︑げO霞昌O日︵羅︶︑αqOO◎︵英︶︑αQ鼻
︵独︶︑三窪︵仏︶などの外国語についてみた場合も︑似たりよったり
のことがいえるようである︒
単一の語が︑種汝雑多の用例をもつということは︑その語が異った多
様の意味を含んでいることの実際的なあらわれとみられるが︑これを何
等かの仕方で整理統一して︑何等かの共通的意味のもとに理解すること
はできないものであろうか︒ ﹁よい﹂の根源的意味ともいうべきものを
見出すことは不可能であろうか︒
︵二︶
﹁よいもの﹂ ﹁よいこと﹂は︑それぞれ固有の﹁よさ﹂をもってい
る︒﹁よさ﹂は﹁よいもの﹂﹁よい︑こと﹂の本質であって︑この﹁よさ﹂
は即ち価値である︒ ﹁よさ﹂を漢字の﹁善﹂に置きかえると︑ 一種独特
む む のニュア7スが漂いはじめ︑真善美︑善意︑善行︑善人と聯想されて︑
倫理的価値としての﹁よさ﹂に限定したくなるようだが︑ここでは︑あ
えてそれにはこだわらず︑ ﹁善﹂を﹁よい﹂と同様︑一般的な意味で用
いることにする︒
イデア中のイデア︑価値の価値として︑あらゆるイデア・価値を統一
する︑唯一最高の﹁善のイデア﹂の実在を想定したプラトγは︑いわ
ば︑善をあらゆる場合に共通する単純普遍の概念として捉えたものと思
われるし︑ムーア︵08HσQ①国畠≦碧自冒oOお︶が︑善は単純概念或いは
単一な性質であって︑ ﹁善とは何か﹂に対しては︑ ﹁善は善である︒そ
︵3︶れでおしまいである︒﹂としか答えられないというのも︑同じ考え方か
ら出たものといえよう︒
プラ㍗γに対して︑アリストテレスは︑善が﹁実体においては例えば
神や理性﹂︑﹁性質にあってはもろもろの徳﹂︑﹁数量にあっては適度﹂
﹁関係にあっては有用ということ﹂︑ ﹁時間にあっては好機﹂︑ ﹁場所
にあっては適住地とかその他そういうもの﹂にっかわれるところをみれ
ば︑ ﹁善はすべてに共通な単一的な屠る一般者ではありえないことは明 ︵4︶らかである︒﹂といっている︒また︑ロス︵QQ一税ノ≧一一一一9日 一︶9<乙口︒︒︐ω︶は︑ムーアが善を単一な性質として︑すべての場合に同一であるとする
のに対して︑善は場合によって異なる性質を意味し︑単一化することは
出来ない︒例えば︑同じく善といっても︑快楽を善という場合と︑知識
・芸術を善いという場合と︑行為や徳を善いという場合とでは︑善の意
味するところが異るとして︑価値の多様性︑価値語の多用性をみとめる ︵5︶のである︒
それでは︑いったい﹁よい﹂とはどういうことか︑善とは何か︒この
問いに対して︑うかつな答え方をすれば︑ムーアのいわゆる﹁自然主義
的誤謬﹂ ︵軽篭霞巴一ω戯︒︷巴冨身︶におちいるから︑警戒しなければなら
ない︒ムーアによれば︑ ﹁よい﹂は︑ ﹁黄色い﹂と同じように︑単純で
分析できない独特の観念または性質であって︑分析できないから定義す
ることはできないし︑説明によって理解させることもできないものであ
る︒水は﹁缶NO﹂という分子式で科学的に定義せられるが︑それは水を
Bと0という構成部分に分析して説明したことになる︒水のような複合
概念は︑このように分析記述によって︑定義できるが︑善は色と同様単
純概念であるから分析できないから定義することもできないのである︒黄色を見たことがなく︑黄色について何も知らない人に︑黄色を定義に
よって説明し理解させることはできない︒種汝の黄色い物を直接見せ
﹁よい﹂という価値語の意味と用法 て︑それらのものに共通する色が黄色だと教えることしかできない︒同様に︑善の何たるかを知らせるには︑種汝の善なる事物事象を直接に体験させて︑それらに共通する性質が善であるという外はない︒しかしこのことは︑黄色や善の定義でもなく説明でもないというのである︒ そこで︑強いて善を定義しようとすれば︑善以外の他の事物︑性質によって定義せざるをえないことになる︒というのは︑善であるものは
﹁よさ﹂の外にまた別の性質︑特徴をもっている︒たとえば︑ ﹁快楽﹂
はたしかに﹁よいもの﹂であって︑また誰もが﹁欲求﹂するものでもあ
り︑欲求の達成は﹁生命の維持発展﹂にもつながる︒そこで自然主義的
倫理学者のなかには︑ ﹁善とは快楽である﹂とか︑ ﹁善とは欲求されて
いることだ﹂とか︑ ﹁善とは生命の維持発展である﹂とかによって定義し︑説明しようとする者があるのである︒このように︑善を﹁快楽﹂と
か﹁欲求の対象﹂とか﹁生命の進化﹂とかいう自然的・心理的概念によって定義しようとするのが︑ ﹁自然主義的誤謬﹂の典型的なものである
が︑この誤謬をおかす点では︑形而上学的倫理学でも同じである︒たと
えば︑ ﹁神の意志﹂とか﹁理性の要求﹂とか﹁人格の実現﹂とかは︑自
然的概念ではないが︵形而上学的概念であるが︶︑それによって定義不
可能な善を定義しようとすることは︑やはり﹁自然主義的誤謬﹂と同様
の論理的過誤になるというのである︒結局︑ムーアによれば︑善を善以
外の他のことがらによって定義しようとすることは︑すべて誤りで︑そ
れを一括名づけて﹁自然主義的誤謬﹂というのである︒
たしかに︑ ﹁快楽﹂は﹁よいもの﹂であるし︑われわれが﹁欲求する
もの﹂も﹁よいもの﹂にちがいない︒ ﹁理性の要求﹂することも︑ ﹁人 む格の実現﹂も﹁よいこと﹂であろう︒しかし︑そのそれぞれが唯一のよ む いことではない︑それぞれみなよいのである︒快楽がよいといっても︑
﹁快楽﹂と﹁よい﹂とがまったく同じ性質であるということを意味する
のではなく︑ただ︑ ﹁快楽﹂が同時に﹁よい﹂という性質をもっている
三
﹁よい﹂という価値語の意味と用法
ということを意味するにすぎない︒善以外のことがらをもってきて︑そ
れが即ち善の意味内容であるとすることは︑たしかに誤りである︒ ﹁よ
い﹂もの﹁よい﹂ことは︑快楽︑欲求等汝のいくつかにとどまらず︑多
汝あるはずである︒
次に︑ ﹁よいもの﹂ ﹁よいこと﹂という表現からして︑ ﹁よい﹂とい
う語は︑ ﹁もの﹂ ﹁こと﹂即ち事物︑事象について︑その性質を修飾し
ていることが明らかである︒即ち︑端的にいえば︑ ﹁よい﹂は漏る客観
的対象の性貿として存立するものであるということである︒しかしまた
或る事物︑事象を﹁よい﹂と感じ︑ ﹁よい﹂と認めるのは︑人間主観の
作用であるともいえる︒そこで︑善は対象そのものの性質として客観的
に存在するものであるか︑或るいは︑主観的意識の側にその成立の起源
を求めるべきものであるかが問題になる︒
英独のいわゆる直覚主義価値倫理学者︵○・国・寓︒自ρω蹄≦.U●
図︒ωω︑悶冨昌N切8暮窪ρ冒9×QQ︒げ︒一自など︶は大体︑客観説をとる︒後に
情緒説︵主観説︶に転向したラッセル︵切興霞9昌α口¢ω︒︒Φ=︶も︑はじめは
客観主義者であった︒ムーアは︑善は直覚︵一暮巳鉱8︶によって直接知
られるもので︑それは何人にとっても自明的な同一の客観的性質である
とする︒ロスは︑われわれの対象に対する好意的態度︵蜜く︒霞9げざ
暮江εα⑦︶を︑必須の条件として﹁よし﹂ ﹁あし﹂がきめられるとす
る︒しかし︑或る対象を﹁よい﹂というとき︑われわれは︑そのものに
対する主観的態度︵或るいは意識状態︶を表出︵①×嘆8︒・︶しているけ
れども︑この態度そのものが﹁よい﹂ということを意味︵巨①9口︶して
いるのではなく︑ ﹁よい﹂ことの意味は︑対象それ自体にそなわってい ︵6︶る詰る客観的性質を指しているのであるとロスはいう︒さらに彼は︑ペ
リー︵口巴℃げしd9蓉︒口℃︒ほ団︶の価値関心説︵ぎ8器琢夢oo曙︶に反対
し︑ペリーが価値は本来アイデアル︵頭の中︶のものであり︑ ﹁善﹂と
四
﹁関心の対象﹂とは︑表現が異なるだけで同一の観念であるとするのに
対して︑われわれが或.るものを﹁よい﹂というとき︑われわれはかなら
ずしも︑そのものを﹁関心の対象﹂としているのではなく︑そのものが
すでにそれ自体で﹁よいもの﹂であるからこそ︑それに着眼して︑それ
を﹁よい﹂と呼ぶにすぎないのである︒ ﹁善と関心の対象とは同一の観 ︵7︶念を表わすという見方は放棄せらるべきである︒﹂というのである︒
ラッセルの﹁善と悪とは︑われわれの意見からは独立に︑対象に属す . ︵8︶る性買である︒あたかも︑円とか四角形とかがそうであるように︒﹂と
いう発言も︑善が客観的性質として︑主観からは独立に存在することを
主張するものである︒
このラッセルの客観主義を批判して︑みずからは主観主義︑相対主義
をとることを表明したものに︑サンタヤナ︵O①oHσq①ω窪富巻轟︶があ ︵9︶る︒彼によれば︑善のごとき﹁非物体的本質﹂ ︵事物の属性︶は︑われ
われの主観から無条件的に独立ではない︒それを選択するわれわれの意
向︵凶⇔8旨叶︶によってきめられる︒左と右とは︑見る主観の位置によっ
て変化し︑大と小は比較する主体の対象選択の如何によって変動する︒
或る人間にとっては善であることも︑他の人問にとっては悪でありうる︒善は他のさまぎまな性質と同様︑われわれ個汝の態度や関心に相対
的なものであり︑それに依存するものである︒善はわれわれ人間の意向
・関心・態度などによって相対的に事物に賦与される性質にすぎない︑ ︵10︶というのである︒
サγタヤナの主観的相対主義を︑さらに積極的に推進したものに︑ペ
リーの関心説がある︒それは︑要約すれば次のようなものである︒価値
とは︑なんらかの関心のなんらかの対象である︒関心には︑肯定的・積
極的なものと︑否定的・消極的なものとがあるから︑したがって︑その
対象にもプラスの価値︵よい︶と︑マイナスの価値︵わるい︶がある︒
闘心という心理的機能ば本来L自然的・情動的なものであるから︑論理
的にイエスとノーの両極端に還元できないような︑好−悪・欲求一忌避
・意志する一拒否するなど︑多くの嗜好上の二重性をもってあらわれ
る︒そういう関心こそが︑すべての価値の源泉である︒だから﹁Xは価
値あるものだ︒﹂というのは︑ ﹁Xに対して或る関心がはたらいてい
る︒﹂ということを意味する︒誰にも知られず︑誰も関心をはらわない
事物は無価値である︒人間に認められ︑何等かの関心の対象となったと ︵11︶き︑はじめて価値ある存在となる︒
また︑エーヤー︵ヒ富◎︸巳①ω﹀︽臼︶やスティヴンスγ︵○妻達ω
炉QQ$ぐΦ昌ωo昌︶などの価値情緒説︵↓ゴΦΦ日○怠くΦ9Φ○蔓︒︷ぐ巴ロ①︶
も︑価値は単なる情緒や欲望の表出にすぎないとして︑価値の主観への
依存を主張する︒エーヤーによれば︑ ﹁よい﹂とか﹁正しい﹂とかいう
倫理的価値語は︑ただ自分の感情を表現して︑他人の同感を呼びおこす
だけの意味しかもたない︒一般に︑価値を言い表わす言葉は︑感激の叫び声や苦痛をうったえる叫び声の﹁あτ﹂や﹁う一﹂と同種の︑主観的感情の表出であって︑事実的内容をもたない室虚なものである︒従って
価値判断は事実判断に︑無内容の概念を附加したものにすぎなくなり︑論理的にその真偽を検証することもできないし︑普逼妥当性を論ずることもできないことになって︑結局は︑規範的性格の倫理学は独立の学た ︵12︶りえず︑それは心理学と社会学の中に自己を解消してしまうのである︒
価値は人間主観からは独立に︑事物それ自体にそなわる早る独特の性
質として︑客観的普遍的に存立するものであるか︑それとも︑関心説や
情緒説にその範型がみられるように︑なんらかの人間的・主観的態度の
反映の上に成立するものであろうか︒このことは︑あたかも︑一般的認
識論における実在論と観念論の対立の問題と相似的であるように見える
が︑価値の問題は純粋認識の問題にくらべると︑よりわれわれの現実の
行為実践に直接的であるだけに︑やや趣を異にするものではないかと考
﹁よい﹂という価値語の意味と用法 えられるα 前述の如くムーアは︑ ︵はじめは︑ラッセルも︶善の存在は︑すべての関心・態度・意見から独立でなければならないというのであるが︑率直にいって︑われわれが或.る事物を﹁よし﹂とし︑ ﹁善﹂という語を適用するとき︑そこには︑常に一種の情意的な肯定の態度の裏づけがあり︑ ﹁わるい﹂の場合は反対に︑否定の態度をとっていることは疑う余地がない︒ロスのいわゆる﹁好意的態度﹂が︑われわれの身内に存在することは︑何としても否定できない︒もちろん︑この肯定的・好意的態度そのものが善なのではなく︑善という価値そのものは︑われわれの態度とかかわりなく対象そのものに属する客観的性質であろう︒むしろ︑この対象に属する客観的性質に︑われわれの肯定的・好意的態度が向うといった方が適当であろう︒だから︑態度という主観的状態をもって善を定義することは︑ムーアのいわゆる自然主義的誤謬におちいることはあきらかである︒ただしかし︑われわれが善といちとき︑常にかならず︑その事物に好意的・肯定的態度をとり︑その事物・事象の持続または実現を欲求・要望していることは確実である︒この欲求は︑普通の欲求とは異り︑善に向う欲求︑善と不可分に連続した欲求である︒そういう一種独特のものである︒そのかぎりにおいて︑われわれは注意ぶか く︑欲するものを﹁よい﹂と思い︑ ﹁よい﹂と思うものを欲するのであるということができるであろう︒われわれは︑善を感知し︑或いは認識することと不可分に︑善を欲しているのである︒ ムーアをはじめとして︑一般に直覚主義の価値論は︑価値の客観性・自体的存在性を強調するのあまり︑ややもすれば︑われわれのうちにある価値に対する情意的態度の積極的な意義を︑ことさらに軽視する傾向がある︒反対に極端な主観主義には︑価値の客観的性質や︑その普遍必然的な妥当性を拒否する行きすぎが認められる︒価値は人間の主観的態度と無関係な︑超越的実在ではないと同時に︑客観的対象の性質如何が
五
﹁よい﹂という価値語の意味と用法
人間の情意を動かし︑態度決定をせまり︑選択・決意をうながすのであ
る︒このことは︑われわれの︑現実の行為実践の場において︑確然たる真実であるといはなければならない︒
もちろん︑この場合においても︑デユーイ︵︸o野司︼︶Φ宅①図︶が注意す
るように︑価値を固定的に標準化し︑教条化してはならないであろう︒
価値の先験的設定には十分に注意しなければならないが︑しかしデュー
イも︑行為を推進し指導するものは価値であり︑行為の動向の規定には
常に︑価値の判断・評価・鑑定が先導するとし︑常にかならず何らかの
価値決定の後に行動があるとする︒価値によって方向づけられ︑価値に
よって指導せられる行動こそ﹁善﹂なる行為といいうるという︒彼の
﹁善﹂は﹁満足﹂︵ω騨叶一ω囲90二一〇切︶であり︑いわば︑価値ある悦楽である
が︑しかしそれは実験的に実現せられ︑不断⁝の検証過程を通して且ハ体化
されて行く﹁仮設﹂的価値と見られる︒彼の実験的経験論における価値は︑不断に新しい生活活動の試みの中に具体的に結果する経験の発展と
改善の可能性を指標として発見される︑可変的・試験的な性格のもので
あるが︑それはどこまでも︑行為実践の立場から︑価値の・王観性と客観
性を統一的に捉えたものであり︑ムーア的先験主義とペリー的経験主義 ︵13︶を折衷したものと見ることができる︒
価値の存立にかんする主観主義と客観主義との対立には︑同時に︑も
う一つの問題点を含んでいる︒それは︑価値を相対的で多元的なものと
見るか︑絶対的で一元的と見るかの問題である︒価値は︑時霊位という
条件によって左右せられ︑したがって特殊相対的であり︑多元的様相を
もって発現するものか︑或いはそれらの条件を越えて︑普遍的・永遠的
に実在するかという問題である︒
究極的価値︑特に倫理的最高善のような価値は︑その性質上︑カγト
ならずとも︑これを特殊相対的なものとすることはできないであろう︒
プラトγの善のイデフもそうである︒しかしまた︑ヵツトの最高善は現
六
実的人間にとっては︑どこまでも可能的価値であるに止るものであるし
プラトγの善のイデアも︑超越的に実体化された価値であるだけに︑容
易にうかがい知ることのできないものであった︒ムーアの・︑一算H言︒︒皆
σQ潤Bα︑︑︵自体的な善・目的としての善︶も︑直覚によって直接的に認知
される心ないもので︑万人に共通普遍の自明的で客観的な性質であると
せられるが︑このことについては︑同じ直覚主義者の間においても異っ
た見解がみられる︒例えば︑同じく直覚主義の流派に属する質スは︑善や義務の中には︑何人にとっても︑またいかなる場合にも直覚的に明瞭
なものもあるが︑しかし時と場合によっては︑価値判断の衝突は避けら
れないことを認め︑各人の直覚が不幸にして一致しない場合には︑もは
や相互に︑論証によって一致する価値判断に到達する希望はないとして
次のようにいうのである︒ ﹁多くの場合︑われわれの行為に対する義務
の要求はいくつかあって︑しかもそれらの義務の要求は︑しばしば衝突
する︒したがって︑われわれは義務の要求の存在を確実に知ることがで
きても︑その場合︑どの要求を行き過ぎと断定すべきかは︑誤りをおかしやすい個人的な判断にまかされることになる︒⁝⁝そのような状況のもとでは︑多くの場合︑同程度に善なる人汝が︑何が自分の為すべき義務であるかについて︑異った判断を下すであろう︒彼等がみな正しいということはありえないが︑しかし︑どの判断が正しいかを判定すること
が不可能な場合が多い︒そういう場合には︑各人が︑異った義務の要求
の比較的な強弱についての自分自身の個人的な感覚にしたがって判断す ︵14︶るほかはないのである︒﹂すなわち︑倫理的価値判断においては︑ ﹁わ
れわれは︑われわれにとって公理的と思われる前提に達したとき︑その
前提を誰かが否定するならば︑われわれはもはや︑それ以上の論証はで ︵15︶きない︒﹂のである︒
ラッセルも︑直覚主義を十分に理解し︑理論的には一応賛同しながら
も︑直覚主義が実際上︑相対主義を克服しえない点を指摘して次のよう
にいう︒ ﹁いかなる種類の行為がなさるべきであるかについて︑一般附
な一致は事実上存在しない︒しかも一致しない場合に︑直覚主義は何人
の主張が正しいかを判定する方法を示すことができない︒したがって︑
それは︑実際上は自己中心的な教説になる︒⁝⁝︵実際上の意見が対立
する場合には︶⁝⁝ただ独断的に︑自分自身の直覚にたよって︑ ﹃何が
なさるべきかについて論争がおこるときには︑常に自分の考えが正し
く︑自分と一致しない人汝は誤っている︒﹄というほかないであろう︒しかしそういえば︑汝と一致しない人汝もまた︑自分たちの直覚によっ
て︑同様の主張をなすであろうから︑倫理的論争は︑単に対立的な独断 ︵16︶的意見の衝突に終るほかはないであろう︒﹂と︒
このように︑価値感の多様性・相対性という事実の前に立って︑何人
にも妥当するような︑客観的・普遍的な価値を定立することは︑それ相
当の理由はあるにしても︑十分にひとを納得せしめないものがあること
は拒み難い︒
以上は︑価値の多元性と一元性︑多義性と一義性︑客観性と主観性︑
相対性と絶対性についての簡単なスケッチであるが︑これを次に︑価値の質差︑価値の序列の問題に照射しつつ︑価値の全体的調整・統一の試
論に移りたい︒
︵三︶
或る人汝にとっては︑快楽が唯一最高の価値である︒しかし他の或る
人汝にとっては︑快楽は倫理的には無価値︑逼るいは反価値である︒或
る立場の人権には︑生命が唯一の究極的価値として尊重されるが︑他の
立場の人汝にとっては︑学問・芸術など精的平帯的価値の方が︑生命の
価値よりも尊ばれる︒また出る人汝にとっては︑個人の自由が他の何物にも代えがたい価値であっても︑他の人賦にとっては︑社会公共えの奉
﹁よい﹂という価値語の意味と用法 仕が最高の義務であり価値である︒このように︑人間生活の現実においては︑万人を通じて価値の自覚が一致するという保証はないといってよい︒そして︑この事態は価値の多元的相対性を示すとともに︑価値の質的差別と︑その順位・序列の存在を含蓄している︒ およそ︑価値には質差があり︑さらに︑それぞれの質には︑正︵積極︶反︵消極︶の対立がある︒ ︵快と不快︑有益と有害︑健康と病弱︑高貴と下賎︑真理と誤謬︑美と醜︑聖と俗など︶この質の対立と︑質における正反の価値の対立が︑価値に高低の順位序列を成り立たせる︒価値の世界は︑質の多様と正反の対立の交錯した姿をもって︑現実のわれわれにせまってくる︒すなわち︑現実的には︑ ﹁よりよい﹂ ﹁よりわるい﹂という対立的︑相関関係において︑われわれは価値を感知し︑その比較検討と順位づけによって︑あらゆる事物を価値的に調整統一しながら精神生活をしているのである︒ われわれの行為には︑その目的たる価値が意識せられ︑さらに価値の選択が前提とならなければならない︒価値の選択とは︑その優劣高低の順位づけを行うことである︒この順位づけは容易ではなく︑われわれの日常生活に於ては︑このことは︑常に不明確であり︑局部的であり︑不安定たるをまぬかれない︒しかし︑何等かの形︑何等かの程度で︑それが行われなければ︑いかなる行為も成り立たないであろう︒可能的また理想的には︑あらゆる価値の統一的な順位づけ︑価値序列の体系化が必要である︒この順位・序列形成の基準として作用する価値が善︵倫理的価値としての︶にほかならない︒ シェーラー︵寓9× ωOげO一ΦH︶は︑倫理的な価値と倫理的でない価値とを区別し︑後者をさらに段階的序列のもとに︑感性︵的︶価値︵ω監置7
︒げ2をΦ詳︶ ・生命︵的︶価値︵<淳巴霞≦︐①暮︶・心的︵精神的︶価値
︵ωO①一匹ωO︼P¢同 ﹂<<ΦH酔︶・人格的︵宗教的︶価値︵二三ω8≦Φ洋︶ の四つに ︵17︶分ける︒そして︑倫理的な価値は︑非倫理的な価値と区別せられるが︑
七
﹁よい﹂といい価値語の意味と用法
これはけっして︑前者が後者と無関係に独立して存立することを意味す
るものではなく︑後者を順位的に選択する基準的価値として作用し︑そ
の実現にあずかることにおいて自己自身を実現するものなのである︒
シェーラーのいわゆる感︐性的価値・生命的価値・心的価値・人格的価
値︑その他もろもろの価値のそれぞれは︑さらに︑それ自身の中に種汝
の個別的特殊的価値を包含して︑それぞれの領域を形成し︑それぞれの
領域内において自律的な価値体系︑価値の順位関係を保有するであろ
う︒これらのもろもろの価値領域は独自的な意味をもち︑相互に他の価
値による侵犯を拒否するから︑倫理的価値とても︑他の価値領域に関与
することは許されないかにみえる︒芸術作品の美的価値や︑科学的真理
の価値を︑直接的に倫理的価値の尺度で評価することはできない︒その
意味では︑倫理的価値は非倫理的価値の圏外に退いて︑不干渉の立場に立たなければならない︒
しかし︑前にもふれたように︑倫理的価値としての善悪は︑人間の意
志・行為・人格などに述語されるものであるが︑志向の対象・行為の目
的・人格の実現を規制するものは︑もろもろの価値一般である︒もろも
ろの価値を取捨選択して︑これを実現することが行為や人格の具体的内
実である︒且一体的内実を欠いた︑単なる抽象的形式としての行為や人格
は無意味であり︑存在もしない︒かくして︑倫理的価値は︑他の諸価値
を前提とすると同時に︑それらを順位づけ︑選択し︑実現するためめ︑
いわば基準的な価値として作用する価値であり︑非倫理的な一切の価値
はそれ自体固有独立の意味を保有しつつも︑倫理的価値による整序統一
をまって︑おのれ自身を且馬体的に実現するものである︒ ︵18︶ こごで想い起されるのは︑ シュプラγガーの﹁生の型式﹂ である︒周知のような六つの人間類型︵理論的・経済的・芸術的・社会的・権力
的・宗教的︶の区別が意味するところは︑価値の選択実現において︑い
かなる価値が優越的.支配的な価値とされるかに対応して成立する人声
八
の個性的形成の様相でφる︒注目すべきは︑倫理的価値による類型があ
げられていないことである︒ということは︑倫理的価値は︑他の諸価値
と異なる別個の価値としてあるのではなく︑他の諸価値の順位づけと︑
順位的に選ばれた価値を実現するものとして︑他の一切の価値にかかわ
り︑それらを統一する作用としてあるものであるからである︒個性の相
違は価値選択の相違に︑価値選択の相違は倫理的自覚の相違に帰するの
である︒ 倫理的価値を︑そのものだけに限って抽象的にみれば︑亙る特殊の領
域をもった価値と考えられるけれども︑あらゆる価値の全体的聯関的構
造の一環としてみるならば︑あらゆる価値の相互媒・介に共通する価値基
準という性格をもって現われる価値である︒ごのことからして︑あらゆ
る価値が︑一般的に︑それぞれ正反高低の順位関係の意味を含むと同時.
に︑倫理的な意味の正反高低の順位関係の意味を含んでいることが了解
む むせられる︒経済的価値は︑ ﹁より有用﹂ ﹁より有害﹂という順位関係を
む む む む内含するとともに︑ ﹁より有用なのがよい﹂ ﹁より有害なのがわるい﹂ む む む という意味をもち︑美的価値は︑ ﹁より美しい﹂ ﹁より醜.い﹂の順位関
む む む む む 係を含意する︒とともに︑ ﹁より美しいほどよい﹂ ﹁より醜いほどよく
ない﹂を含意する︒このように︑倫理的価値としての﹁よい﹂ ﹁わる
い﹂は︑同時に非倫理的な諸価値にかかわるのである︒
倫理的価値があらゆる価値にかかわるということは︑これを逆にいえ
ば︑あらゆる価値が常に同時に︑倫理的意味の価値であるということに
もなるのでφる︒あらゆる価値には﹁よい﹂ ﹁わるい﹂という意味が含
まれて︑倫理的な価値体系﹁の中に包摂される︒そのとき︑非倫理的価値
は︑それ自身︐の意味を失うことなしに︑倫理的性格をもった価値となる
のである︒価値を行為的世界においてとらえるかぎり︑このことは真実
である︒ ﹁よい時計﹂・﹁よい体格﹂・﹁よい家﹂ ・﹁よい音楽﹂・﹁ むよい研究﹂⁝の﹁よい﹂は︑ ﹁よい﹂とせられる物や事の性質.機能の
卓越さの程度をあらわすと同時に︑そのまま︑倫理的意味でもすぐれて
いることをあらわすことになるのである︒
この場合の倫理とは︑自覚的存在としての人間の生活全体にかかわり
人生全体を統一する最も広汎かつ究極的なものとして把握されなければ
ならない︒いや︑倫理というものは︑本来そのようなものでなければな
らないのである︒人間は生きることを﹁よし﹂として生きるのであり︑
また﹁よく﹂生きるために生きるのである︒いかに生くべきかを自覚す
る人間は︑同時に︑いかにして﹁よく﹂白くべきかめ自覚に生きるので
ある︒この自覚が倫理的自覚であって︑この自覚は一切の行為を包括統
一する︒この意味で︑一切の価値・規範は︑倫理的価値・規範に統一さ
れる︒高次の文化的活動から低次の生命活動にいたるまで︑人間の行為
はすべて倫理的善の実現を究極の目的としてなされるというべきであ
る︒プラトγが善のイデアを想定したことには深い意味があるといはな
くてはならない︒カγトの﹁最高の目的はただ一つだけあるものであ
る︒⁝⁝これは人間の全規定に他ならないもので︑これに関する哲学を ︵19︶道徳という﹂という言葉も︑上のことを裏書きするものと思う︒
ここで出発点に帰ろう︒冒頭に記したように︑われわれは日常︑何の
気なしに﹁よい﹂という価値語を種汝の含意のもとに用いているのであ
るが︑ ﹁よい﹂・﹁善﹂は勝義においては︑倫理的・道徳的価値語であ
る︒同一の﹁よい﹂という語を︑いろいろの場合に︑いろいろな物や事に通用せしめるのは︑考えてみれば︑上来述べたように︑われわれの生
活全体の在り方と関係づけられた﹁よさ﹂の意味を含み﹁よい﹂とは人
生の全体的意義からの肯定を含意しているからであろう︒
︵完︶
註︵1︶大日本国語辞典︵松井簡治︑上田万年︶︑大辞典︵平凡社︶︑大言海
︵大槻文彦︶︑広辞苑︵新村出︶による︒用例には筆者の作もあり︒
︵2︶善一悪の反対︑正しいこと︑交りが親しいこと︒
﹁よい﹂という価値語の意味と用法 好1もと醜の反対にて︑形貌のよきことなれど︑軽き言葉にて︑広く種 々の場合に用う︒ 佳一美也︑好也と注す︑好に似て晴れ晴れしき意を含む︒ 令−美也と注す︑事物につやがあるようにうつくしきこと︑外にあらわ れたるを主としていう︒ 良−善也︑賢也と注す︑すなおにてよきこと︑善にすぐれたる意を兼ぬ︒ 美−醜︑悪の反対︑好の意に近く︑且はなやかなる意を含む︒ 嘉−佳に似たれど︑善︑楽︑美の意を兼ね︑内を主とす︒ 可−否の反対︑それにてよろしとゆるすこと︒ 吉一凶の反対︑めでたきこと︑正しきこと︒ 淑一善の意に和の義を兼ぬ︒ 大辞典︵平凡社︶第二十五巻による︒︵3︶O・国・竃Oo器℃壇貯︒な貯団汁ぼoρやΦ●︵4︶︾ユωけ︒汁巴︒︒︒国梓窪oρZ一〇〇ヨ鉾︒ロ①Pど9一8c59.︵5︶≦ドU●閑︒ω︒・国︒§9江○昌︒︷国叶三︒ω二①ω①.× .︵6︶ま乙◎や点鼻ほ噺︵7︶≦●U・図︒ωω目9回目q年きα夢︒Oo8二㊤ω9ワ︒︒P︵8︶じd.鋤ロ︒・ωΦ=.国冨旨Φ昌房︒囲国梓三8.︑︵︑.菊①鈴α言σqω︑︑℃●﹃.︶︵9︶︑︑毛ぎ審9000窪ヨ9.︑℃℃一ω︒︒〜δ轟にある ︒目プΦづげ謬︒ω○℃げ︽ohしd霞ヰρ降q園自ω︒︒9劉.という論文︒
︵10︶上掲書℃℃蟻三〇〜三N参照︒
︵11︶切・切●℃①同団鱒Oo口巽薄目げ︒自図Oh<p冨Poげ・<.
︵12︶A・Jエ:ヤー著吉田夏彦訳﹃言語︑真理︑論理﹄
︵13︶︸.UΦ≦①団↓ヶΦOロ︒馨○協6①障a口強ざ6膿・o罫×畳
.円げφOO⇔のけ馬副O二〇昌O臣OOOα..
植田清次訳﹃確実性の探究﹄二七〇頁以下︒
︵14︶≦︑.U・肉︒ω︒︒司︒β昌α㊤江︒昌oh国汁三〇ρや↓Q︒㊤・
︵15︶8δ・℃.ω㊤.
︵16︶ヒd・菊拐︒・①一一出信ヨρ昌むoo︒一①げ鴫ぢ国け三$9昌◎℃o一三〇ω一お翼.℃●一ご嶋
力
﹁よい﹂という伍値語の意味と用法
︵17︶︵18︶
︵19︶ 寓●Q∩Oげ①一①円鱒UO同団︑OH日ρ一一ω旨q◎隠一旨棄①暮簿ぼぎによれば
︵i︶
(
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(…香j
︵V︐−︶
︵v︶国・ω嘆ρ口αQ象bΦぴ︒霧hoHヨ①P
カント﹃純粋理性批判﹄第二版
天野貞祐訳 創①吋国げケ一閃自昌自創δヨρげ①誌9一①
永続的な価値ほど高い︒
非分割的な価値ほど高い︒
他の価値に依存しない価値ほど高い︒
満足感の深い価値ほど高い︒
現存在に局限されることの少い価値ほど高い︒
従って四段階に分けられた価値については︑感性価値が最低で人
格価値が最高である︒
一⑩三●
八六八頁
岩波文庫版下巻ノニ︑一三八頁 一〇