1.目次 序章 第一節 問題の所在 第二節 研究動向 第三節 本論文の分析対象と時代区分 第四節 本論文の構成 第一章 日本人人道会による救済事業 第一節 組織と救済事業の目的 第二節 婦人救済組織としての活動 第三節 救済対象の変化 ―婦人救済から「孤児」救済へ 第二章 南加小児園の児童保護 第一節 小児園の設立と変遷 第二節 小児園の児童保護活動 第三節 日本とのかかわり 第三章 州政府の児童福祉と小児園 第一節 州の児童福祉政策 第二節 保護の対象外とされた移民の子ども 第三節 科学的方法による移民の子どもの差異化 ―精神薄弱児の因果関係に関する二つの調査 第四節 日系ホームの必要性―小児園への協力 終章 2.概要 〈序章〉 本論文は、1910 年代から 1930 年代のアメリカのカリ フォルニア州において、日本人移民の子どもが保護の対 象とされていく過程を分析するものである。アメリカと 日本の児童保護観が日本人移民の児童救済活動にいかに 機能したかを明らかにすることが課題である。 従来の児童保護に関するアメリカ史研究では、白人中 流階級の役割に重きを置いて研究が進められてきた背景 があり、日本人向けの保護施設自体が研究の対象とされ ることが極めて尐なかった。だが、そのような白人中流 階級に偏重した研究のあり方に対して、近年、問題提起 がなされている。クラップが指摘するように、階級、人 種、エスニシティを意識した研究を行うことで児童救済 活動の従事者の多様性が見えてくる。日本人を対象とし た児童保護施設が研究対象とされることが尐なかったの は、日本人はコミュニティ内の互助によって浮浪児等の 問題を解決し、アングロサクソン系の福祉援助を受ける 必要がなかったとの評価がされてきたためである。しか しながら、本論文で明らかにされるように、日本人移民 の児童保護活動が現地のアメリカ人の児童保護のあり方 と全く無関係に行われていたとはいえない。 日本人向けに現地のアメリカ人が行った福祉事業に ついては、松本悠子が指摘している。移民の生活を改善 することを目的とした組織の援助活動を取り上げ、日本 人移民をアメリカ化するプロセスとして論じた。だが実 際は、日本人移民はアメリカ化されることに対して受身 だったというだけでなく、独自に活動を行ったり、州の 援助を利用したりすることもあった。 そこで、本論文では日本人移民によって運営された児 童保護施設に着目することによって、日本人移民とアメ リカの児童保護政策との関係を分析することとした。そ のために、州政府や地方の組織が日本人の救済活動に対 して行った対応と、その関わり方を考察する。 〈第一章〉 日本人人道会による救済事業 第一章では、南加小児園の母体である羅府日本人人道 会の活動について検討し、日本人移民のなかで子どもが 着目されていく様相を明らかにした。史料として『羅府 日本人人道会記録』の 1912年から1916年までを用いた。 人道会は、キリスト教プロテスタントの組織であり、 役員は楠本六一を中心として、牧師や伝道師に占められ ていた。楠本は社会事業家の林歌子の影響を受けながら、 日本で社会事業や孤児救済に取り組んでおり、日本の児 童福祉の方法や考え方を学んでいた。アメリカへ渡った 楠本が、女性と子どもの保護のために同会の設立を発起 したのである。会は「保護防衛扶助」を目的とすると掲 げていた。人道会の役員はロサンゼルス近郊の各教会を 廻り、会の活動の主旨を説く目的で日曜説教を行ってい た。会の主旨が人道主義や婦人救済、児童に関する問題 への取り組みであったとわかる。会の運営を支えたのは、 日本人移民からの寄付金であり、会員は一定額の寄付を 納めることが義務付けられた。日本人移民のなかでも裕 福な者だけが会員となることができたのであり、寄付者 となることはコミュニティ内でのステータスともなって
1910-30 年代米国カリフォルニアの日系児童保護―南加小児園をめぐって
キーワード:20 世紀アメリカ,児童保護,日本人移民,小児園,越境 教育システム専攻 大森 万理子いたと考えられる。 人道会の活動初期には、女性が救済の主な対象となっ ていた。1908 年の紳士協定締結以降、家族の「呼び寄せ」 によって日本人コミュニティ内の女性と子どもの数が増 加していた。家族からの呼び寄せによって渡米する者が いる一方で、当時日本人移民のあいだで一般的だった写 真結婚によって多くの女性が写真花嫁として渡米した。 だが、写真結婚を「愛のない結婚」と考える現地のアメ リカ人からは蔑みの対象とされた。人道会の活動では、 写真結婚は虐待や家庭の不和の原因であるとみなされ、 女性を保護する理由となりえた。アメリカ中流階級の価 値観を取り入れようとした人道会のメンバーにとって、 アメリカ的ではない結婚形態は忌むべきものだったこと がわかる。また、人道会の活動によって酌婦(売春婦) と賭博が取り締まられたことは、1910 年代後半に本格化 する矯風運動とのかかわりがあった。日本人会の賭博撲 滅委員からの要請で、楠本は酌婦の女性に「清き家庭」 を築き、「善良な市民」となることを誓約させた。酌婦は 日本人移民社会のなかで悪影響を及ぼしかねないものと して、賭博の取り締まりとともに保護の対象とされたの だった。 このように、初期は女性の保護を活動の中心としてき た人道会であったが、1914 年 2 月の小児園設立を境に活 動に変化が見られ、この時期から子どもの保護に熱心に 取り組み始めたことがわかる。これは人道会の子どもに 対する保護意識が高まったことを意味しているが、保護 された子どもの行き先は小児園に限ったものではなく、 メソジスト教会婦人ホームやカトリック系保育所といっ た日系の施設のほか、白人小児園に委託する場合も初期 にはわずかながら見られた。初期には保護の対象とされ た写真花嫁も、人道会の活動の後期になると役員会で却 下され、保護の対象とされなかった。一方で、子どもに 関する事例は慎重に扱われ、小学校や幼稚園の教師から 人道会に子どもについて相談が寄せられることもあり、 問題があるとみられる子どもの家庭には調査が行われた。 保護の対象は、親がいない子どもたちに加え、親がいた としても貧困などの理由で親の養育能力がないと認めら れた場合、親の怠慢によって養育責任を果たしていない 場合の子どもたちであった。貧困のために養育不可能と 判断された事例、子どもの病気の治療を親が怠っている とされた事例、学校へ通学させずに家の手伝いをさせて いた事例などで、子どもが保護の対象となった。つまり、 人道会によって保護された子どもたちは親を失った孤児 とは限らなかったのである。 〈第二章〉 南加小児園の児童保護 人道会の活動の分析を通して、徐々に子どもが保護の 対象として注目されてきたことが明らかとなった。第二 章では、日本人の子どもの保護施設として楠本が設立し た小児園の活動を分析した。人道会から派生した小児園 のメンバーは人道会の役員と多く重複している。運営は 初め人道会が担ったが長くは続かず、1917 年に南加慈恵 会へ運営権が移り、大山領事夫人を筆頭に女性が中心と なって活動した。この時期には、女性たちが日本まで寄 附金募集に赴いている。 小児園では、小川しめ子や迎田みのりといった看護婦 学校出身の公認看護婦が職員として働き、スペイン風邪 が流行した際には感染者と、家族の死亡によって残され た孤児の救済に当たった。小川しめ子の死後は経営主が 次々と代わり、小児園の運営は不安定な状態が続くが、 1925 年に楠本が主事に復帰したことで楠本の監督下に 戻った。1934 年には資金集めのための二世ボードが設立 され、二世が小児園での運営にかかわり始め、そののち 1930 年代ごろには会の運営は徐々に二世の手に委ねら れていった。 初期の保護の対象となった子どもは乳幼児が多かった と見られるが、幼尐期から小児園で生活していた子ども が成長し、徐々に小児園の年齢層は上がっていったと見 られる。カリフォルニア州法では、16 歳以上の者を収容 児として保護することができなかったが、18 歳までの義 務教育を受けさせるため、小児園は対策を講じる必要が あった。そこで、収容児をスタッフとして雇用する形で 小児園に残れるようにし、年上の子どもたちは雑用をこ なしたり、年下の子どもの世話をすることによってわず かながらも賃金を得ていたことがわかった。収容児を留 め置くための苦肉の策であった。 収容児の保護状況を見ると、親によって小児園へ子ど もを連れてこられるケースは尐なくなく、1920 年代の記 録から病気や生れて間もない子どもが小児園へ預けられ たことが確認できる。1939 年の報告によれば、親が精神 病や結核を患っている場合や裁判所によって不適当な保 護者と認められた場合に子どもは保護の対象とされた。 小児園の収容児は、毎日の日課として礼拝を行ったり、 クリスマス会といった行事に参加したりするなど、キリ スト教に基づいた生活を送る一方で、端午の節句のよう な日本的な行事も経験していた。小児園は日本とも深い かかわりを持っていたといえる。1935 年に宮内省から下 賜金が送られ、小児園敷地内に恩賜記念館が設立された。 それに関して、小児園副主事の飯田百合子が現状報告書 を宮内省へ提出するが、日本人移民はアメリカにあって も「陛下の赤子」であることを強調した。日中戦争以降
は、日本人移民内で小児園の寄付金は減尐していたが、 寄付金募集の活動を抑制し、日本と一体となることを示 そうとした。こうした動きからは、小児園幹部が日本と の良好な関係を維持しようとする姿勢が見えるのである。 小児園では日本語教育部が設立された。英語しか話さず、 日本語を解さない二世が増えるなかで、小児園のスタッ フは危機感を持ち、日本語の教育に取り組んだ。 〈第三章〉州政府の児童福祉と小児園 第三章では州政府の児童福祉政策と小児園の位置づ けについて論じた。小児園は日本とのかかわりを維持し ながら活動を続けたが、州政府の監督下に置かれ、州の 移民政策と児童保護の政策方針の影響を避けることはで きなかった。州の児童保護施設を統制する慈善矯正委員 会が、小児園の監督組織としての役割を担った。 慈善矯正委員会は孤児が過剰に施設収容されている ことを問題視していた。カリフォルニアは他州と比べて も、孤児の収容施設数が多かった。そうした問題への対 応として、州は児童保護施設の管理に力を入れるように なり、収容する児童の選抜基準を厳密化する方向へ向か った。1925 年に同委員会は州公共福祉局へと昇格し、児 童保護施設に対する管理を強化していった。児童保護施 設やホームの認可団体は年に一度許可証の再発行を受け ることが義務付けられ、公共福祉局の要求する資格を満 たしていることが条件とされた。施設への訪問や調査が 増加した。州の児童保護政策は、州の財政負担を減らす ため、収容児の数を減尐させる方向に進んでいた。 州慈善矯正委員会の事務局長ゲイツは、親の「無責任」 さを問題にしていた。子どもを養育し、教育する責任は 親にあるとし、「不完全」な家庭においては子どもに対す る親の責任が果たされていないと述べた。孤児保護施設 の存在意義を強調する一方で、施設が州からの補助金を 受けることを目的に子どもを必要以上に集めていること を非難した。施設が「孤児」を生み出していることを州 政府が認識していたことは特筆すべきである。親が子ど もを施設に預けて養育費の支払いをしなければ、子ども は「半孤児」として登録され、州からの補助金を受けて いた。ゲイツは州の児童福祉が民間に頼りすぎているこ とを懸念し、児童保護への州政府の権限強化を試みよう とした。子どもの「権利」を守るために、州が介在して 保護することは「義務」であるとし、ゲイツは児童保護 施設の監督を州が行うことの必要性を述べる。そうする ことで、慈善矯正委員会の存在意義を見出そうと目論ん だのである。施設運営のために子どもを過剰に収容しよ うとする施設と、施設への管理強化・孤児収容の厳密化 を図る州政府の関係性が明らかとなった。 必要以上に子どもを収容していることに対するゲイツ の対応は、白人以外の人種の子どもを保護の対象から外 すことにあった。「太平洋沿岸における東洋移民」という 演目でのゲイツの講演では、とくに日本人移民に対する 危惧が鮮明に表れている。アメリカの生地主義ゆえにア メリカ市民となれた日本人移民の子どもたちだが、考え 方も生活も「蒙古人」のままである子どもたちをアメリ カ市民として認めることに危機感を持っていた。他の人 種の子どもを州の保護対象から除くため、人種に見合っ た里親を見つけることをすすめた。慈善矯正委員会の救 済リストのなかでは約 92 パーセントはアメリカ生まれ であるのに対して、外国生まれはほんの 8 パーセントに 過ぎなかった。救済の対象となった移民は非常に限られ ていた。 人種別の保護を目指す政策の推進に伴い、調査が遂行 された。その目的は移民を、科学的根拠をもとに差異化 することであった。慈善矯正委員会の呼びかけで結成さ れた州協同委員会は、教育委員会や衛生委員会のメンバ ーと共に構成された。州内の公立学校や孤児院、マタニ ティ・ホームにおける精神異常の調査チームが組まれ、 慈善矯正委員会と教育委員会が調査に必要な経費の財政 援助を行った。調査の中心的役割を担ったのは、ルイス・ M・ターマンで、知能指数(IQ)の用語を創始した心理 学者である。ゴダードがアメリカに持ち込んだ知能調査 を改良してスタンフォード・ビネー知能調査を考案して おり、ターマンがゴダードの影響下にあったことがわか っている。調査が行われた 1918 年当時は、精神薄弱が社 会問題として注目された時代であり、報告書には「精神 薄弱の脅威」について述べられている。慈善矯正委員会 も例外なく、州内の精神薄弱に注目していた。報告書で は、ターマンとその潮流にいるウィリアムズによる調査 が中心であった。 まず、ウィリアムズの調査では、孤児院とマタニテ ィ・ホームで生活する子どもと母親が対象となり、両者 はいずれも全体的に精神年齢が低く、精神薄弱の数が多 いことが「証明」された。精神薄弱は病気や女性の「ふ しだら」さと関係づけられた。精神薄弱者と非行尐年、 犯罪者、売春婦、貧困者、浮浪者といった「社会の負担」 の因果関係が説明され、孤児を保護することが意義付け られていった。ウィリアムズは精神薄弱者の増加を防ぐ 対応策として隔離施設をつくることを提案するが、それ はまさに「断種」ともいえる方法だった。ウィリアムズ は孤児のあいだの人種の差異を強調し、移民の「劣等性」 を主張することで精神薄弱と移民孤児を関連づけた。 一方、ターマンは公立学校において知能検査を行い、
結果を報告している。検査の対象者の全ての回答はター マンによって事後、確認されスコアは付け直された。そ の調査結果は、精神薄弱児の割合が「驚くほど高い」も のだった。ターマンは調査結果の精確さを主張するため に、精神薄弱児の割合が高いことを、カリフォルニア州 内の移民の数の多さを理由に説明した。調査の前年には、 ゴダードが移民と精神薄弱の連関を示すデータを発表し ており、その発表がターマンの報告に反映されたのであ る。こうして、児童保護に取り組む州政府は移民の子ど もを精神薄弱児として隔離する科学的根拠を得たのであ る。 州政府が移民の子どもを隔離して収容する方向へ進む 一方、小児園は 1915 年には州政府の認可団体となり、翌 年に州慈善矯正委員会からも認可を受けていた。これは、 人種ごとの保護を行うべきだと主張する州の児童福祉政 策の動向とも一致するものである。慈善矯正委員会は小 児園の監督組織であり、ときに監査や注意勧告を行った。 州が小児園を認可し、監督を行っていたことは、日系の 児童保護施設の必要性があったことを意味している。 州や郡は認可と改善勧告だけでなく、資金援助を行う ことによって小児園の運営を支えていた。1939 年の報告 書から、州と郡からの下付金が財源の一部を占めている ことが確認できる。小児園の性質上、収容児の両親から の養育料に頼れないため、下付金が重要な資金源であっ た。州・郡の政府組織が運営を支え、小児園を必要とし ていたといえる。1930 年前後になると、小児園は日系の 児童保護施設として認知されるようになり、州や郡政府 発行の社会事業施設の目録で他のエスニシティの保護施 設とともに掲載されるようになった。小児園が州内の日 系児童保護施設としてその存在を求められ、位置を確立 していたといえるのである。 〈終章〉 本論文は、日本人移民の子どもの保護について明らか にした。人道会による保護活動と小児園運営を通した児 童保護は、日本人移民による、日本人移民のための活動 であったため、「コミュニティ主導の相互扶助」として従 来の研究で評価されてきた。しかしながら、活動を追っ ていくと移民のなかでも富裕な者が出資して運営を行っ ており、チャリティの特徴も持つことがわかってきた。 チャリティと互助の双方の性格を併せ持っていたのであ る。 また、資金募集のために日本へ渡り宮内省へ活動の現 状報告を行うなど、小児園と日本の密接な関係が明らか となった。アメリカで活動しつつも日本語教育を行った り、日本の行事や生活習慣を取り入れたりし、日本人の 子どもとしての教育も行われた。日本とのつながりを保 つことに小児園幹部は積極的姿勢をとっていたことがわ かった。 さらに、州政府と小児園の協同関係が明らかとなった。 日本人移民の保護活動は、独立した民間の活動ではなく、 州政府の児童福祉政策と連動性を持つものであった。そ こには、公的扶助(国家)か民間かという単純な二項対 立図式ではなく、両者が補完し合う関係性を見出すこと ができるのである。 楠本が持ち込んだ日本の社会事業の考えにもとづき、 児童保護の必要性が日本人移民のなかで認められる一方、 州政府は収容児を選別し移民は別の施設に収容する方針 をとっていた。そうした背景のもと、日本人移民の児童 保護活動は後押しされ、児童保護施設として小児園が設 立、運営されるに至ったのである。結果として、小児園 は日本とアメリカの越境的存在となった。 今後の研究では、日本の児童福祉の考え方がアメリカ へ持ち込まれる動きを検討したい。本論文では、日本と アメリカの児童保護が互いに協同した段階を示すことが できたが、アメリカへ持ち込まれる過程については十分 に検討できなかった。また、小児園に資金援助をしたコ ミュニティ・チェストの存在に着目することによって、 州内の他の移民組織との関係性を明らかにすることが今 後の課題である。 3.主要引用文献(史料)
・Gates, W. Almont, The Dependent Children of California. 1909.
・Terman, Lewis M. Dr. et al., Surveys in Mental Deviation in
Prisons, Public Schools, and Orphanages in California.
Sacramento: California State Printing Office, 1918. ・『社団法人 南加小児園小誌』1939.
・『ロスアンゼルス郡日本人人道会記録』1912 年 3 月~ 1923 年 6 月
4.主要参考文献
・Beito, David T., From Mutual Aid to the Welfare State. Chapel Hill and London: The University of North California Press, 2000.
・Clapp, Elizabeth J., Welfare and the Role of Women. Journal
of American Studies, 28: 3, 359-383, 1994.
・Kuramoto, Ford H., A History of the Shonien, 1914-1972 (Dissertation), San Francisco, CA, 1976.
・J.W.トレント Jr. (清水貞夫他訳)『「精神薄弱」の誕生と 変貌(上)(下)』学苑社, 1997.(原著 1995)
・松本悠子『創られるアメリカ国民と「他者」』東京大学 出版会, 2007.