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真宗研究55号 004藤原 智「横出の菩提心――「化身土巻」開顕への視座――」

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横出の菩提心

||﹁化身土巻﹂開顕への視座||

大谷大学

口 はじめに 親鷺はその著作の中でたびたび二双四重と呼ばれる独自の判釈をおこなう。それは仏教を大きく﹁竪﹂と﹁横﹂ の二種に分け、さらにそれぞれについて﹁超﹂と﹁出﹂に分けるものである。﹁竪﹂とは此土において果を得る道 であり、﹁聖道門﹂﹁難行道﹂﹁自力﹂の教えとされ、また﹁横﹂とは浄土に往生しその彼土において果を証する道 であり、﹁浄土門﹂﹁易行道﹂﹁他力﹂の教えとされる。さらに﹁超﹂とは即座に証を得る頓教を意味し、﹁出﹂とは 迂回の道であり漸教とされる。そして﹁横超﹂こそが真宗の立場であるとされるのである。この判釈が親驚の主著 ﹃教行信証﹂の論述の中で初めに為されるのが菩提心釈である。 然に菩提心に就て二種有り。一は竪、二は横なり。又竪に就て、復二種有り。一は竪超、二は竪出なり。竪超 竪出は、権実、顕密、大少の教に明せり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心也。亦横に就て、復 一は横超、二は横出なり。横出は、正雑、定散、他力の中の自力の菩提心也。横超は、斯乃願力団 二 種 有 り 。

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横出の菩提心 四 向の信楽、是を願作仏心と日ふ。願作仏心即是横の大菩提心なり。是を横超の金剛心と名る也。横竪の菩提心、 其の言一にして其の心異なりと難も、入真を正要とす、真心を根本とす、邪雑を錯とす、疑情を失とする也。 欣求浄剃の道俗、深く信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべき也︵﹃定本﹂二三三頁︶ この様に、ここでは教えに対してではなく菩提心について判釈が為されるのである。その中で注目されるのが、 ﹁竪超﹂と﹁竪出﹂は区別されていないにも関わらず、﹁横超﹂と﹁横出﹂は明確な区別がつけられているという事 である。それは竪の菩提心と横の菩提心とを峻別しながら、さらに親鷲は浄土門の中における﹁他力の中の自力の 菩提心﹂という、いわば﹁横出の菩提心﹂と言うべき心こそ課題とし見据えていたと言えるだろう。 本論文はこの菩提心について、まず浄土教の伝統の中、特に法然においてどのように捉えられていたかを確かめ、 その上で親驚が﹁横に就て、復二種有り﹂として﹁他力の中の自力の菩提心﹂という横出の在り方を別開せねばな らなかった課題性を考察するものである。

一、浄土教における菩提心||﹃往生要集﹄を通して||

つまり自利利他円満という無上菩提を求める心である。仏道とはこの心によって歩まれるもの であるから、仏道の始めには菩提心を発すことが要請されるのである。浄土教も、それが仏教である限り、菩提心 こそ歩みの根本とされるのである。﹁大経﹄を見れば、衆生の往生の相を説く三輩段において、行業の違いはあっ 菩 提 心 と は 仏 果 、 ても上輩・中輩・下輩を通して念仏と共に発菩提心は説かれるのである。 発菩提心一向専念無量寿仏 発無上菩提之心一向専念無量寿仏 ︵ 上 輩 ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 四 頁 ︶ ︵ 中 輩 ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 五 頁 ︶

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発無上菩提之心一向専意乃至十念念無量寿仏 この様に、往生に菩提心が必須であることが浄土教の根本経典である﹁大経﹂ ︵ 下 輩 ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 五 頁 ︶ の 上 に 確 認 で き る の で あ る 。 さて、この菩提心こそ浄土菩提の綱要であると力説したのが、 日本浄土教の祖師である源信である。源信は 往 生 要 集 ﹄ の大丈第四正修念仏において﹃浄土論﹂の五念門行を出し、その作願門で菩提心について詳説するのであ る。そこで源信はまず道紳の﹁安楽集﹄を引用する。 梓禅師の﹃安楽集﹄に云く。﹁大経に云はく、凡そ浄土に往生せんと欲はば、要ず須く菩提心を発すを源と為 すべし。︵中略︶浄土論に云く。発菩提心とは、正しく是願作仏心なり。願作仏心は、即ち是度衆生心なり。 度衆生心は、即ち是衆生を摂受して有仏の国土に生ぜしむるの心なり。今既に浄土に生ぜんと願ず。故に先づ 須く菩提心を発すべき也と o ﹂ 巳 上 このように﹃安楽集﹄から﹁大経﹄︵取意︶及び﹃浄土論﹄︵正しくは﹁浄土論註﹄ ︵ 中 略 筆 者 、 ﹁ 真 聖 人 王 ﹄ 一 ・ 七 八 二 頁 ︶ の 取 意 ︶ で往生浄土に発菩提心 が必須とされている文を引用し、その釈尊・天親︵曇鷲︶・道縛という浄土教における発菩提心の伝統を確認する の で あ る 。 そ の 上 で 源 信 は 、 当に知るべし、菩提心は是浄土菩提の綱要なり ︵ 同 前 ︶ と菩提心の重要性を語るのである。ここから源信は菩提心について、行相・利益・料簡という次第で詳説していく。 そしてまず菩提心の行相について次の様に規定する。 総じて之を謂はば、願作仏心なり。亦上求菩提・下化衆生の心とも名く。別して之を謂はば四弘誓願なり ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 七 八 三 頁 ︶ まず菩提心とは仏にならんと願う心であり、それは自利利他円満せんとする心である。さらに別して言えば、度断 知証の四弘誓願であるとし、この四弘誓願について縁事と縁理の二種を立て、﹁摩詞止観﹂の説に従い論じていく 横出の菩提心 五

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横出の菩提心 ︵ 3 ︶ のである。この事は十分確かめなければならない事であるが、今は菩提心が往生浄土と如何に関わるのかという点 に絞って考えたい。何故なら、そもそも成仏と往生浄土との聞に必然性はないからである。この事について源信自 ~ ノ、 身、第三の料簡の中で問答を立てて確認している。 自利の行は是菩提心の所依に非ざれば報を得ること亦少し、云何が独り速に極楽に生れんと願ふや ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 七 九 五 頁 ︶ 源信は浄土往生とは自利の為であり、菩提心との関わりがないのではないのかという問いを出すのである。ここに 菩提心と浄土との関係性が窺われるであろう。そして次の答えを述べる。 極楽を願求するも、是自利の心に非ず。然る所以は、今此の婆婆世界は諸の留難多し。甘露未だ泊はず苦海朝 宗す。初心の行者、何の暇ありてか道を修せん。故に今菩薩の願行を円満して、自在に一切衆生を利益せんと 欲するが為に、先づ極楽を求むるなり。自利の為にせず ︵ 同 前 ︶ つまり、自利利他円満を願っても今この裟婆世界ではそれを実現させることができない。だからこそ菩薩の願行を 満足し衆生を利益する為にまず浄土に往生することを求めるのであり、それは自利の為などではないというのであ る。つまり菩提心があるからこそ、自身が凡夫の身であるという深い現実認識によって、浄土の往生を願うのであ る。ここに菩提心が願生心へ転化する必然性があるのである。そしてさらに、 問。一心に仏を念ぜば理亦往生すべし、何ぞ要ず経論に菩提の願を勧むるや ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 七 九 六 頁 ︶ という問いを出す。 一心に念仏すれば道理として浄土に往生するのである。そうであれば殊更に菩提心を発す必要 はない筈なのに、菩提心が勧められるのは何故なのだろうかという問いである。そこで﹃十住毘婆沙論﹄から次の 言葉を引用し、これに答えている。 一切の諸法は願を根本と為す、願を離れては則ち成ぜず。是の故に願を発すと ︵ 同 前 ︶

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念仏の行業も菩提心を抜きには成立しない。菩提の願こそ浄土を願う心となり念仏が行ぜられるのである。それ故 に行者に菩提心を発すことを源信は要請するのである。 以上の様に作願門において浄土菩提の綱要としての菩提心が確かめられるのである。その上で大文第五助念方法 の第七総結要行において、どの行業が往生の要となるのかという問いを出だし、源信は次の結論を述べる。 答。大菩提心と三業を護ると、深く信じ誠を至して常に仏を念ずとは、願に閣ひて決定して極楽に生ず ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 八 四 七 頁 ︶ 菩提心を発し、身口意の三業を護り、深信至誠常念の念仏によって往生を得る事を説くのである。そしてそれらの 意 味 を 、 菩提心の義は、前に具に釈せしが如し。一二業の重悪は能く正道を障ふ、故に須く之を護るべし。往生之業には 念仏を本と為す。其の念仏の心は、必ず須く理の如くすべし。故に深信と至誠と常念との三事を具す。︵中略︶ 惣じて之を言はば、二一業を護るは是止善にして、仏を称念するは是行善なり。菩提心及び願は此の二善を扶助 す。故に此等の法を往生の要とす ︵ 中 略 筆 者 、 同 前 ︶ と説く。菩提心とは念仏行を助け励ますものであると述べていくのである。 以上をまとめるならば、﹁往生要集﹄において菩提心とは自利利他円満せんとする志願である。そしてこの菩提 心こそ浄土を願求せしめ、その往生の業である念仏行を助け成立せしめる根本意欲なのであり、浄土菩提の綱要な の で あ っ た 。 横出の菩提心 七

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横出の菩提心 }\

二、法然の菩提心観

しかし、このような仏道の根本である菩提心をもって廃捨すると言ったのが法然である。そこには法然自身の菩 提心に対する真撃な省察がある。 われらは信心おろかなるがゆへに、 いまに生死にとまれるなるべし。過去の輪転をおもへば、未来もまたかく のごとし。たとひ二乗の心おばおこすといふとも、菩提心おぱおこしがたし ︵ ﹃ 西 方 指 南 抄 ﹄ 巻 下 末 ﹃ 定 親 全 ﹂ 五 ・ 一 二 一 二 頁 ︶ 法然に仏に成らんと願う心が無かったということはないであろう。しかし、その心を深く見つめる法然にとって、 それは二乗心︵自利︶とは言えても菩提心︵自利利他︶と呼ぶことは決してできなかったのである。つまり自利利 他円満という仏果を求める意識はあっても、その心を突き詰めれば自利利他円満を求める心ではなかったというの である。書提心が浄土の綱要であるならば、菩提心なき凡夫の身は仏道を成ずるどころか、浄土に往生することも 適わないことになるであろう。そのような身が救われる法が果たしてあるのだろうか。これが法然の課題であり、 その結論こそが次の主著﹃選択集﹂ の 総 結 の 言 葉 で あ る 。 正定之業とは、即ち是仏の名を称するなり。称名は必ず生を得、仏の本願に依るが故に ︵ ﹁ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 九 九

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頁 ︶ ﹁依仏本願故﹂と述べる様に、全く仏の本願を根拠にした称名念仏一行によって必ず往生を得るというのである。 では菩提心について法然はどのような見解を持っていたのであろうか。﹃選択集﹄には﹃大経﹂の三輩段に基づ き、余行について﹁廃立﹂﹁助正﹂﹁傍正﹂の一一一義を立ててこれを解釈している。そして先の﹃往生要集﹄に説かれ

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た菩提心の在り方は﹁助正﹂の義と了解される。法然は助正の義を解釈するのに、﹁同類の善根﹂と﹁異類の善根﹂ との二つを挙げる。前者は善導の一不す五正行を意味し、後者こそが今の三輩段の教説に直接する事柄であるが、そ ﹂ で 次 の 様 に 述 べ る 。 次に異類の助成といふは、先づ上輩に就て正助を論せば、﹁一向専念無量寿仏﹂といふは、是正行也。亦是所 助也。﹁捨家棄欲而作沙門発菩提心﹂等といふは、是助行也。亦是能助也。謂く往生之業には念仏を本と為る 一向に念仏を修せんが為に、捨家棄欲して沙門と作り、又菩提心を発す等也 K J 品 味 ’ ﹂ 、

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︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 九 五

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頁 ︶ こ れ は ﹁ 往 生 要 集 ﹂ の総結要行の意を取ったものであり、﹃往生要集﹄に﹁菩提心及び願は此の二善を扶助す﹂と 述べられていた事が助行として﹁一向に念仏を修せんが為に﹂﹁菩提心を発す﹂と確かめられるのである。それは ﹁今菩薩の願行を円満して、自在に一切衆生を利益せんと欲するが為に、先づ極楽を求むるなり﹂という願生心へ と 展 開 す る 菩 提 心 で あ り 、 ﹃ 往 生 要 集 ﹄ で 作 願 門 の 初 め に ﹃ 大 経 ﹄ ・ ﹁ 浄 土 論 ﹄ ︵ ﹁ 浄 土 論 註 ﹂ ︶ ・ ﹁ 安 楽 集 ﹂ と い う 浄 土 教の伝統が確認された菩提心である。それが助正の義として法然が確かめている﹁発菩提心﹂の意義である。この 様に押さえた上で、しかし法然は、 今若し善導に依らば、初を以て正と為す耳 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 九 五 一 頁 ︶ と善導の意として、余行が説かれるのは助正ではなく廃立の義なのだと述べていく。その廃立の義とは次の様に説 か れ て い る 。 一には諸行を廃して念仏に帰せんが為に、而も諸行を説くとは、善導の﹃観経疏﹄ の中に﹁上来定散両門の益 を説くと難も、仏の本願の意を望まんには衆生をして一向に専ら弥陀仏の名を称するに在り﹂と云へるの釈の 意に準へて、且く之を解せば、上輩の中に、菩提心等の余行を説くと難も、上の本願の意に望むるに、唯衆生 横出の菩提心 九

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横出の菩提心 四 0 をして専ら弥陀の名を称せしむるに在り。而るに本願の中には更に余行無し、三輩共に上の本願に依るが故に、 ﹁一向専念無量寿仏﹂と云ふ也。︵中略︶既に先に余行を説くと難も、後に一向専念と云ふ。明かに知んぬ、諸 行を廃して唯念仏を用ふるが故に一向と云ふことを。若し然らずば、 一向の言、最も以て消し巨き歎 ︵ 中 略 筆 者 、 ﹁ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 九 四 九 頁 ︶ ここで法然は﹃観経﹂流通分を釈する善導の意に準じて、﹃大経﹂一一一輩段を解釈する。それは﹁望仏本願意﹂とい うように、仏の本願の意こそを根拠とした選びなのである。その仏の本願の意について、﹁選択集﹄本願章では、 弥陀如来、法蔵比丘の昔、平等の慈悲に催されて、普く一切を摂せんが為に、造像・起塔等の諸行を以て、往 生の本願と為したまはず、唯称名念仏の一行を以て、其の本願と為したまへり ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 九 四 五 頁 ︶ と述べられ、仏の平等の慈悲が称名念仏一行を選択されたのであると確認している。そこでは菩提心についても、 或は菩提心を以て往生の行と為るの土有り と一不されつつ、往生の行業としては選び捨てられているのである。これをもって三輩段を説かれる仏意は﹁一向﹂ ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 九 四 三 頁 ︶ と冠される﹁専念無旦一寿仏﹂にあり、﹁菩提心等の余行﹂は廃捨されるのである。それは法然の恋意的選択ではな く、﹁依仏本願故﹂という信念の選びなのである。 さらに﹁選択集﹄は念仏付属章において、﹃観経﹂流通分及びその善導の﹃疏﹄によって定散二善と念仏とを論 ︵6 ︶ じていく。その散善︵三福・九品︶の行の中、﹁彼の固に生れんと欲はん者は、当に三福を修すべし﹂と往生の業 として釈尊が発菩提心を説かれた事について次の様に述べていく。 人皆以為へらく、菩提心は是浄土の綱要なり、若し菩提心無くば、即ち往生すべからずと ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 九 八 二 頁 ︶ 仏教に対する常識として、往生浄土に菩提心は必須であるとされている事をまず確認する。そこには ﹃ 往 生 要 集 ﹂

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の﹁菩提心は是浄土菩提の綱要なり﹂という言葉が念頭に置かれているであろう。しかしながらこれを他の諸行と 共 に 、 ︵ 同 前 ︶ と、人の欲する行であると断定する。菩提心自体は崇高なものであるけれども、現実には人間関心の中でしか語ら 当世の人、殊に欲する所の行也。此等の行を以て、殆ど念仏を抑ふ れ得、ず、念仏を抑えてしまうものであるとする。そして結論として三輩段と同様に﹃観経﹄流通分に立ち、 当に知るべし、随他の前には暫く定散の門を聞くと難も、随自の後には還て定散の門を閉づ。 一 び 聞 き て 以 後 永く閉ぢざるは、唯是念仏の一門なり。弥陀の本願・釈尊の付属、音ゆ斯に在り ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 九 八 三 頁 ︶ と 述 べ る の で あ っ た 。 と こ ろ で ﹃ 逆 修 説 法 ﹄ の三福中の発菩提心について次の様に述べられている。 三に発菩提心とは、菩提は即日芯仏果の名、心は是衆生能求の心なり。然に諸宗の意おのおの是れ同ぎれども、 皆願行倶に此土に在。今浄土宗の菩提心は、先浄土に往生して、 の 中 で は 、 こ の ﹁ 観 経 ﹄ 一 切 衆 生 を 度 し 、 一 切 の 煩 悩 を 断 じ 、 ︵ ﹁ 漢 語 燈 録 ﹄ 巻 七 ﹃ 真 聖 全 ﹄ 四 ・ 四 四

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頁 ︶ 切 の 法門を悟、無上菩提を証せんと欲するの心也 この記述だけを見ると、法然は諸宗の菩提心に別して善導の釈によって浄土宗の菩提心を述べているように読める。 ここに浄土宗の菩提心は廃していないと見る事ができるだろうか。しかしそうではないだろう。﹃選択集﹄には三 福中に発菩提心が説かれる意義を次の様に確かめている。 諸の往生を求むるの人、おのおの須く自宗の菩提心を発すべし。縦ひ余行無しと難も、菩提心を以て往生の業 と為す也 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 九 七 七 頁 ︶ 往生を求めるならば、それぞれの立場で菩提心を発すべきであり、もしその他の行が無くても、その発心だけで往 生の業となるのだとしている。この事は﹁観経釈﹄でも同じように述べられている。 横出の菩提心 四

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横出の菩提心 凹 次に発菩提心とは、四弘誓の大菩提心を発す也。之に付て亦諸宗の菩提心有り。︵中略︶此れ等の発心おのお の浄土に回向して往生の業と為すべき也︵中略筆者、﹃漢語燈録﹂巻二﹁真聖全﹄四・二一三二頁︶ こうして法然は諸宗の菩提心をもって往生の業となることを確かめている。そこには善導所釈を含め、菩提心を区 別する意図はない。そもそも諸宗の菩提心も、それを浄土へ向けるならば善導との区別を付ける意味は無くなるで ﹁観経﹂正宗分散善の中で述べられるものである。﹁逆修 あろう。﹁逆修説法﹄での﹁浄土宗の菩提心﹂もあくまで 説法﹂全体を見ると、その後に流通分を挙げ、 然則弥陀の本願に随ひ釈尊の付属に順ぜんと欲する者は、当に須く一向に念仏の行を修して往生を願求すベし ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 四 ・ 四 四 五 頁 ︶ と語られ、定散諸善は捨てられているのであり、浄土宗の菩提心も諸宗と同様である。法然が念仏一行を述べるの は弥陀の本願・釈尊の付属というこ尊の意に順ずること一つにあり、そこには如何に菩提心が重要な心と考えられ ょうとも往生の業としては捨て去られるべきものであったのである。 以上﹁選択集﹄を中心に法然の菩提心廃捨の姿勢を見てきたのであるが、そこには往生の業として菩提心が廃さ れるべきことが述べられていた。それは聖道の菩提心を廃したというよりは、浄土教における菩提心を廃したと言 うべきである。そのことは次の﹁醍醐本法然上人伝記﹄にも読み取れることである。 或時云。浄土の人師多と難、皆菩提心を勧て、観察を正と為、唯善導一師のみ菩提心無しての往生を許。︵中 略︶曇鷲道紳懐感等、皆相承の人師と為と難も、義に於は未だ必ず一准ならず、能々之を分別すべし ︵ 中 略 筆 者 、 ﹃ 昭 和 新 情 法 然 上 人 全 集 ﹄ 四 四 三 頁 ︶ ここで法然は曇驚・道梓・懐感等といった具体的な人名を挙げながら浄土の人師の中で菩提心を勧めている事を確 かめ、その中で善導一人だけ菩提心の無い往生を許していると述べる。 つまり菩提心廃捨の姿勢は浄土教の中で確

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かめられる事柄であり、浄土教の菩提心こそ廃捨されていると見るべきである。その菩提心とは源信が述べたよう に自利利他円満の願いがあるからこそ浄土を求めるというものであり、菩提心を中心とした浄土教がそこには述べ られていた。しかし法然は 道心発て申す念仏こそ仏意に叶らめと思ふは却をるるにて有也 ︵ ﹃ 昭 和 新 情 法 然 上 人 全 集 ﹂ 四 五 三 頁 ︶ と 一 詰 る よ 、 つ に 、 道 心 ︵菩提心︶を発して申す念仏こそ仏意に適うと思うのは、本願から降りることになるのだとす る 。 そ し て さ ら に 、 道心は我を救わざりけりと。唯仏の願力のみそ我をは助け候へき。されは道心は有りもせよ無くもあれ其をは 顧ず、唯須く名号を称し浄土に生と思は即乗たる也 とも語るように、菩提心を顧みる事無く念仏せよと勧める。こうして専修念仏の道を打ち立てるのであり、同じ浄 ︵ 同 前 ︶ 土教でも菩提心を中心とした立場とは全く違う立場に法然がいたことが改めて承知できる。そこには﹁たとひ二乗 の心おばおこすといふとも、菩提心おばおこしがたし﹂と述べられるように、自己の求道心をもってついに菩提心 であると認めなかった法然の真撃な省察があったのである。 ﹁観経﹄回向発願心釈 ︵7 ︶ の説を見てみたい。そこでは自らの悪業の為に下品の往生で十分であると言い、上品を願わない者に対して次の様 では法然は自己の上に菩提心を全く認めなかったのであろうか。ここで ﹁ 三 部 経 大 意 ﹂ の に 述 べ て い る 。 われら罪業おもしといゑども、 五逆をつくらず、行業をろそかなりといゑども、 一声・十声にすぎたり。臨終 よりさきに弥陀の誓願をき冶えて、随分に信心をいたす。しかれば下品まではくだるべからず。︵中略︶上品 は大乗の凡夫、菩提心等の行者なり。菩提心は諸宗おのおのふかくこ﹀ろえたりといへども、浄土宗のこ﹀ろ は、浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり。念仏はこれ大乗の行なり。無上の功徳也。しかれば上品の往 横出の菩提心 四

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横出の菩提心 四 四 生、てをひくべからず ︵ 中 略 筆 者 、 ﹁ 真 聖 全 ﹄ 四 ・ 七 九 七 頁 ︶ ここで、浄土に生まれんと願う心を菩提心というのだと法然は語る。それは先の ﹃逆修説法﹂と同様の立場ではな いかと考えられる。しかしそうではない。この文脈では、浄土に願生する心の前提に﹁弥陀の誓願をき:えて、随 分に信心をいたす﹂という事が語られている。本願を聞き信じている、そこに浄土に願生する心があるのであり、 これを菩提心だと法然は語るのである。また法然は本願に出遇った感動を次の様に述べている。 本願に乗ずる事は、たず信心のふかきによるべし。うけがたき人身を、つけて、あひがたき本願にまうあひ、お こしがたき道心をおこして、はなれがたき輪廻の里をはなれ、むまれがたき浄土に往生せむことは、よろこび の中のよろこびなり ︵ ﹁ 西 方 指 南 抄 ﹄ 巻 下 末 ﹃ 定 親 全 ﹄ 五 ・ 二 九 五 頁 ︶ 遇い難き本願に遇った、そこに発しがたき道心︵菩提心︶を発した、そして浄土に往生するのだと法然は語る。法 然にとって菩提心とは本願に出遇った感動の中で語られるべき事柄であった。だからこそ本願を語る事なしに菩提 心について是非すれば、それがどれほど真撃に浄土菩提を願う心であっても、﹁当世の人、殊に欲する所の行也。 此等の行を以て、殆ど念仏を抑ふ﹂と語られたように、人の欲する所でしかなかったのであり、﹁依仏本願故﹂の 念仏を抑えるものだったのである。菩提心があるから願生するのではない。法然は本願を信じるからこそ願生する のであり、この心を菩提心としたのである。こうしてそれまでの浄土教とは一線を画した立場を法然は表明するの であり、ここに聖道の寓宗である浄土教からの浄土宗独立という意義があるのである。同じ浄土教、同じ願生とい う心でも前者と後者では全くその心根が違うのであり、この少しの差にこそ人間の持つ決定的な問題性がある。こ れを見据え展開されたのが二双四重の判釈をもって一不される親鷲の菩提心論である。それは法然の菩提心無用の説 を自身の内に確かめたものであり、そしてそこに顕かとなった事が横の中に別聞した横出の心である。

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二一、横の大菩提心 親驚の菩提心に関する記述は大きく二つに分ける事ができる。 讃 ﹄ ︵ 草 稿 本 ︶ に は 次 の 様 に 詠 ま れ て い る 。 一つには自力聖道の菩提心である。﹁正像末法和 正法の時機とおもへども 底下の凡愚となれるみは 清浄真実のこ冶ろなし 発菩提心いかずせむ 自力聖道の菩提心 こ﹀ろもことばもおよばれず 常没流転の凡愚は いかでか発起せしむべき ︵ ﹃ 定 親 全 ﹂ 二 ・ 和 讃 篇 ・ 一 四 六 頁 ︶ 聖道の菩提心とは、まさに心も言葉も及ぶことのできない高速なる菩薩の志願であり、自己の身にこれを発起させ ることはできないのだといわれる。そこには清浄真実の心がない凡愚の身であるという深い憐悔のみが語られてい るのである。この背景には当然比叡山での二十年に百一る修道の末、山を出ざるを得なかった親驚の求道体験がある のであろう。そして山を出た親驚は法然との出遇いを果たす。その体験の意味を次の様に記す。 愚禿釈の鷲、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す この法然との出遇いにおける﹁帰本願﹂の自覚をもって、これこそ菩提心であると親驚は語っていくのである。 ︵ ﹁ 化 身 土 巻 ﹂ ﹃ 定 本 ﹂ 三 八 一 頁 ︶ ﹁ 高 僧 和 讃 ﹂ ︵ 天 親 和 讃 ︶ に は 次 の 和 讃 が あ る 。 尽十方の無蒔光仏 一心に帰命するをこそ 天親論主のみことには 願作仏心とのべたまへ ︵ ﹁ 定 親 全 ﹂ 一 一 ・ 和 讃 篇 ・ 八 四 頁 ︶ 一心帰命の信こそ仏に作らんと願う心︵菩提心︶ であると天親は仰っているのである、と親驚は述べ、さらに、 横出の菩提心 四 五

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横出の菩提心 四 六 信心すなわち一心なり 一心すなわち金剛心 金剛心は菩提心 信心とは帰命の一心であり、さらに金剛心であり菩提心であるが、これは本願他力のはたらきなのである、と親驚 は述べるのである。さらに﹁唯信紗文意﹄には、 この信心は摂取のゆへに金剛心となれり。これは﹃大経﹄の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩は、 この心すなわち他力なり ︵ ﹁ 定 親 全 ﹄ 二 ・ 和 讃 篇 ・ 八 五 頁 ︶ ﹁ 願 作 仏 心 ﹂ と の た ま へ り ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 三 ・ 和 文 篇 ・ 一 七 四 頁 ︶ とも述べられる。これら﹁無碍光仏に帰命する﹂﹁他力の信心﹂﹁本願の三信心﹂という確かめ、 つ ま り ﹁ 帰 本 願 ﹂ の自覚においてのみ親鷺は菩提心を語るのである。 以上の事を明確に述べているのが﹁信巻﹂の論述の次第である。﹁信巻﹂の中心をなすのはいわゆる三心一心問 答である。それは本願成就である天親の一心帰命の信に立って、その因である如来の﹁至心﹂﹁信楽﹂﹁欲生﹂とい う三心の願の意を推求していく問答である。そうして信心と本願との関係を問う三一問答の直後に、菩提心釈は説 かれていく。それは二二問答での確かめがあって初めて菩提心について語ることができるという事を示しているの であり、コ二問答と菩提心釈は不可分の関係にあるのである。その三一問答で語られているのは、念仏申す身とな ったところに名号を体として如来の真実功徳が団施されてあること。その事実は、自身に全く真実なき事を意味す るのであり、自己の為す事は全て虚仮雑毒であるという自覚を開くものである。そこに於いては、 此の虚仮雑毒の善を以て無量光明土に生と欲する、此必不可也。何を以ての故に、正しく如来、菩薩の行を行 たまふし時三業の所修乃至一念一利那も疑蓋雑こと無きに由てなり ︵ ﹁ 定 本 ﹄ 頁 と述べられるように、もはや往生を欲することは﹁必不可﹂であるという他ないのである。そして﹁帰本願﹂とは この﹁必不可﹂なる自覚そのものでありつつ、しかも﹁願生﹂という志願に人を立たせるのである。何故なら﹁必

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不可﹂なる自覚を開く如来の真実功徳の回施は、その根底に﹁﹁欲生我国 L といふは、他力の至心信楽をもて安楽 ︵ 8 ︶ 浄土にむまれむとおもへとなり﹂﹁欲生と言は則是如来諸有の群生を招喚したまふの勅命なり﹂と述べられる如来 の大悲心があるのであり、一心帰命の信とは﹁帰命はすなわち釈迦・弥陀の二尊の勅命にしたがひ、めしにかなふ ︵ 日 ︶ とまふすことばなり﹂と述べるようにその勅命に随う心であり、さらには﹁帰命は本願招喚の勅命也﹂とも述べる ように勅命そのものだからである。自身に発起した信とは如来の喚びかけの現実態であり、この事実を本願成就丈 に 返 す 形 で 、 本願の欲生心成就の文、﹃経﹂に言まはく、至心回向したまへり、彼の固に生と願は即往生を得、不退転に住 せむと。唯五逆と誹誇正法とを除くと。己上 ︵ ﹃ 定 本 ﹄ 一 二 八 頁 ︶ 一心帰命の信は﹁必不可﹂の自覚のまま﹁願生彼国﹂という志願として相続されるのである。ここに ﹁至心回向したまへり﹂という如来の回向成就の事実を聞き当てるのである。その本願力回向の信心とはまさに、 位相は違えど如来の願心と衆生の信心とが一つである事を語るのであり、これこそ二二問答で確認されてある事柄 と 引 用 し 、 で あ っ た 。 この確認をもって初めて親鷲は菩提心を語るのである。はじめに示したように菩提心釈で親驚は菩提心を大きく ﹁竪﹂と﹁横﹂の二種に分ける。そして親驚は当然﹁横超他力﹂なる立場に立つのであり、その心を次の様に語る。 横超は、斯乃願力回向の信楽、是を願作仏心と日ふ。願作仏心即是横の大菩提心なり。是を横超の金剛心と名 る 也 ︵ ﹁ 定 本 ﹂ 二 一 三 頁 ︶ 願力回向の信楽とは、まさにその直前の二二問答で顕かにされた信を指すのであり、これこそ願作仏心であると親 鷲は述べるのである。この意味を示しているものとして次の﹃正像末法和讃﹄︵草稿本︶が挙げられるであろう。 浄土の大菩提心は 願作仏心をす冶めしむ 横出の菩提心 四 七

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横出の菩提心 四 J¥ すなわち願作仏心を度衆生心となやつけたり ︵ ﹃ 定 親 全 ﹄ 二 ・ 和 讃 篇 ・ 一 四 七 頁 ︶ この一句日の﹁浄土の大菩提心は﹂には﹁よろつの衆生を仏になさんとおもふ心なり︵原文仮名ことの左訓があ り、これは一切衆生を救わんとする如来の願心を示している。そして二旬日の﹁願作仏心をす﹀めしむ﹂には﹁極 楽に生まれて仏にならんと願へとす﹀めたまへる心なり︵原文仮名︶﹂との左訓があり、それは二二問答で語られ た﹁浄土に生まれんと欲へ﹂という知来の勅命に他ならない。 つまり願力回向の信楽が願作仏心であるというのは、 ﹁浄土に生まれて仏にならんと願え﹂という如来の勅命に帰する信であるからこそ﹁仏にならんと願う心﹂なので ある。そしてその信は衆生を招喚してやまない知来の願心・浄土の大菩提心の現実態であるからこそ﹁横の大菩提 心﹂なのである。そこには衆生の内に清浄真実の心の無き事が信知されているのであり、その衆生がどれほど真面 目に作仏・自利利他円満を願つでもそれは真実の﹁願作仏心﹂ではなく、 ︵ ロ ︶ 心とのべたまへ﹂と親驚は述べていくのである。 ただ﹁一心に帰命するをこそ﹂﹁願作仏 この立場に於いて親驚は﹁竪﹂の菩提心についても語るのである。それは﹁権実、顕密、大少の教に明せり﹂と 述、べられる心であるが、ここでの眼目は﹁教に明かせり﹂という所にあるのではないか。 つまりこれは言外に﹁教 に明かされているだけであり、現実には無いのである﹂と語っているのではなかろうか。﹁教行信証﹂ の い わ ゆ る 後 序 に は 聖道の諸教は行証久しく廃れ、浄土の真宗は証道今盛なり ︵ ﹁ 定 本 ﹄ 一 二 八

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頁 ︶ と述べられ、聖道の諸教はただ言教のみあって現実には行証されていないと言われる。それは行の根本である菩提 心が発されていないことに起因するのである。そしてその聖道の菩提心とは﹁歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、 菩 薩 の 大 心 也 ﹂ と 述 、 べ ら れ る が 、 こ れ は 、 弥勅は竪の金剛心の菩薩なり ︵ ﹃ 一 念 多 念 文 意 ﹄ ﹁ 定 親 全 ﹄ 二了和文篇・二二

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頁 ︶

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と言うように、弥勤に象徴される等覚の菩薩の発す大心である。それは﹁こ、ろもことばもおよばれ﹂ざる心であ り、﹁清浄真実のこ、ろなし﹂と信知される﹁常没流転の凡愚﹂にとっては﹁いかでか発起せしむべき﹂と述べる 他ない心であった。そしてそれは親驚一人の反省などではなく如来の智慧に見抜かれた一切衆生の相であり、聖道 の菩提心とはそれが幾ら素晴らしい理想的な心であろうとも、現実には﹁教に明かせり﹂というだけのものなので あ っ た 。 ここに如来の回向に帰入することにおいてのみ衆生は菩提心を獲得し仏道に立つことができるのであり、親驚は ﹁竪の菩提心﹂に選んで﹁願力団向の信楽﹂をもって﹁横の大菩提心﹂として顕揚するのであった。

四、横出の菩提心

﹁菩提心おばおこしがたし﹂、これが法然の立場であり親驚の立場である。それは衆生の上に求道心を見ないので はない。その求道心は真実の菩提心ではなく、それ故に﹁道心は我を救わざりけり﹂と法然は述べ、﹁無量光明土 に生と欲する、此必不可也﹂と親驚は語ったのである。それは聖道門のみでなく浄土門においても衆生の上に菩提 心を見ないものであり、ただ﹁本願に帰す﹂ということのみが語られていた。それでは衆生の仏呆を求める意欲と は一切排除されるべきものであろうか。ここに親驚が﹁他力の中の自力の菩提心﹂として横出の菩提心を語る課題 が 浮 き 彫 り に な る 。 人間は本能的に理想を追い求める意欲を持っている。それが仏教に触れた時には自利利他円満なる仏果を求める レ 、

つまり菩提心として自覚化されることになる。ただ、法然や親驚はその心を真実の菩提心であるとは認めなか った。しかしそれは菩提心としか言いようのない心であり、この心を抜きに衆生と仏教との接点がない事も確かで 横出の菩提心 四 九

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横出の菩提心 五

ある。そして浄土教もこの心の上に成立していた。源信が、裟婆世界に留難多しという自覚の下、なお﹁菩提心が あるからこそ浄土を求める﹂と述べていたようにである。何より浄土経典である﹃大経﹄﹃観経﹄に三輩・三福・ 九品として発菩提心が説かれているという事実がある。法然は﹁仏の本願の意を望む﹂に往生の業として菩提心は 廃捨されると述べ、親驚も一一一一問答でこれを確かめた。しかしそれでもなお菩提心が説かれているという事実の上 に親鷲は、如来の大悲方便を見出したのである。つまり衆生の発す菩提心とは真実の菩提心ではないにも関わらず、 その心を通してしか衆生と仏教との接点はないという現実に沿って、釈尊は方便して菩提心を勧め本願に帰せしめ ようとされたのだと、敢えて本願に非ざる教えを説いてまで自身を育てた如来に深い機悔と感謝を親驚は述べてい くのである。それが﹁化身土巻﹂の論述である。その冒頭には、 濁世の群萌・穣悪の含識、乃し九十五種の邪道を出てて半満権実の法門に入と雑も、真なる者は甚だ以て難く、 実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。是を以て釈迦牟尼仏、福徳 蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまふ。既にして悲願有す ︵ ﹃ 定 本 ﹄ 二 六 九 頁 ︶ つまり菩提心を発したという事である。しかし真実なる者はおら ず、虚偽なる者ばかりであると述べられていく。そしてここにこそ釈尊が﹃観経﹄︵福徳蔵︶を説く必然性がある と述べられる。﹁半満権実の法門に入﹂るとは、 のであり、それは﹁群生海を誘引﹂するという意味を持つのだと述べる。 人間の本能ともいえる理想を求め努力する心は、自己の虚偽性を見ることはできない。寧ろそれを見るからこそ、 克服せんとして愈々努力するのである。しかし仏の智慧からすればその努力意識自体が虚偽であった。そこに釈尊 は、努力意識に立つ事しかできない衆生にあわせて理想郷としての浄土を説き、諸善万行ことごとく往生浄土の善 として顕したのである。こうして浄土の教えの中に衆生を誘引せんとしたのが、﹃観経﹂ である。そしてその本意

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は、浄土を建立せる精神である如来の弘願を彰し、﹁帰本願﹂という利他の一心を獲得させることにあったのであ る。この様に釈尊が﹁観経﹄を顕説するところには、弥陀の誓願がある。それは第十九願﹁至心発願の願﹂である。 是を以て﹃大経﹄の願に言く、設我仏を得むに、十方の衆生、菩提心を発し諸の功徳を修し、心を至し発願し て我が国に生と欲はむ。寿終の時に臨て仮令大衆と囲遺して其の人の前に現ぜずは、正覚を取らじと ︵ ﹃ 定 本 ﹄ 二 七

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頁 ︶ ここに誓われる﹁菩提心を発して功徳を修していき、その中で浄土を願う者となっていくのだ﹂というのは、まさ に源信の語った浄土教そのものである。そして親驚はその成就の文として、 と ﹃ 大 経 ﹄ 此の願成就の丈は、即三輩の文是也、﹃観経﹄の定散九品の丈是也 の定散九品を挙げるのである。それは釈尊の三輩・定散九品という誘引の教説が第十 ︵ ﹃ 定 本 ﹂ 二 七 一 頁 ︶ の 三 輩 ・ ﹃ 観 経 ﹂ 九願に基づき、その具体相を述べたものという事である。 つまり誘引の教えを説く釈尊の根本精神こそ、弥陀の第 十九願であるということである。そしてこの願について親驚は﹁既にして悲願有す﹂と述べる。この言葉を述べる 親驚は、﹁雑行を捨てて本願に帰す﹂と語る親驚である。それは、今まで如来の本願を知らず菩提心を発して歩ん できたが、如来の本願に照らされてみれば、自己の菩提心は非本願であり捨てるべき心であると信知するのだけれ ども、この菩提心を発し歩んできた自己の仏道全体が、既に如来に誓われ浄土に生まれんと欲えと喚びかけられて いたのだと述べているのである。それは如来に背き続けていたという機悔であると同時に、その我が身を既に見抜 いて、これを見捨てずに包んで下さっていたという大きな謝念の言葉なのである。ここに親驚は自己の発した真実 ならざる菩提心を、﹁他力の中の自力の菩提心﹂という横出の菩提心であると位置付けたのである。これが﹁横の 中に二種有り﹂として横超に別して横出を立てた意味である。それはつまり、人間は全て如来の本願の中に既にし て包まれであり、あらゆる行業は全て﹁本願に帰す﹂という信を獲得させる為の方便としであったのだと述べるも 横出の菩提心 五

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横出の菩提心 五 のである。ここに、この方便について慨悔と讃嘆の思いの中で論述されたのが﹁化身土巻﹂だということになる。 それは全て﹁本願に帰す﹂という信の獲得から始まるのであり、これを述べたのが﹁信巻﹂の菩提心釈なのであつ や / ﹂ O おわりに 菩提心を円満させる為に浄土を願うという既存の浄土教から法然・親驚は決別し、ただ如来の本願に順じて浄土 を願う浄土教を確立したのである。それは自己の持つ菩提心を全く虚偽であったと知る事によるのである。法然は 自己の菩提心を全く廃捨するのであるが、親驚はこれを如来の第十九願の上に見出し、これを大悲方便の願である と位置付けたのである。そこには自己が如来に背き続ける身であるとの機悔と、その我が身を見捨てずにおいて下 さった如来への謝念のみが語られているのであった。ここに親驚は、菩薩の持つ真実の菩提心を﹁竪﹂とし、我が 身に信として発起した如来の喚びかけを﹁横超﹂とし、そしてその信を獲得せよと如来が方便して誓って下さって いた一切衆生の立てる菩提心を﹁横出﹂として位置付けたのであった。この横出の菩提心の位置付けは一切衆生が 同じく如来の本願の前に立っていることを意味するのであり、本願の仏道の広大さを如来への讃嘆として親驚は語 っ て い る の で あ る 。 本論文は、横出である﹁他力の中の自力の菩提心﹂を第十九願の上に見ていったのであるが、﹁化身土巻﹂の論 述は続けて第二十願﹁果遂の誓﹂へと展開する。そこでは﹁本願の嘉号を以て己が善根と為る﹂という仏智疑惑を 問題としていく。それは本願に帰しながら、なお自力に生きる他ない人間の根本的過失である。﹁他力の中の自力 の菩提心﹂とは、終にこの仏智疑惑の問題へ極まっていく。それが菩提心釈の終わりに、﹁疑情を失とす﹂と語ら

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れていた課題であり、これを超えしめる教一三一口こそ﹁信不具足﹂﹁聞不具足﹂である。この事は今後の課題としたい。 註 ︵ l 2 ﹁ 教 行 信 証 ﹄ ﹁ 信 巻 ﹂ ︵ ﹁ 定 本 ﹄ 一 四 一 頁 ︶ 、 ﹁ 化 身 士 巻 ﹂ ︵ ﹁ 定 本 ﹄ 二 八 九 | 二 九 O 頁 ︶ 、 文 篇 ・ 一 二 l l 六頁、二三二六頁︶参照。 ﹁要須発菩提心為源﹂の文は、﹃真聖全﹄では﹃教行信証﹄﹁信巻﹂︵﹁定本﹄一四七頁︶での訓点に依って﹁要ず 発菩提心を須ふるを源と為す﹂としている。しかしこれは親鴛独自の訓点であると考えた為、この一文に関して は ﹁ 浄 土 宗 全 書 ﹄ 一 五 ・ 一 一 二 二 頁 の 訓 点 に 従 い 書 き 下 し た 。 普賢晃寿﹃日本浄土教思想史研究﹄一四四 1 一 四 九 頁 この助正の義について﹃漢語灯録﹄﹁大経釈﹂では次の様に述べられ、これが﹃往生要集﹄総結要行の意である ことが示される。﹁異類の善とは、是れ﹃往生要集﹄の意也。彼の﹃集﹄の中に十門を立て、念仏往生を釈す。 且く其の中の第四は正修念仏、第五は助念方法なり子正修念仏とは、此に五念門有り。其の中の第四観察門は 正 く 是 れ 念 仏 門 也 云 云 助 念 方 法 に 七 有 り 。 其 の 七 と は 五 五 且 く 第 七 の 総 結 要 行 に ﹁ 問 て 日 く 。 上 諸 門 中 等 ﹂ 一 五 云 此 の 義は即ち今経の意に似たり。此は即ち異類の善根を以て、念仏を助成する也。彼の集の意念仏を助くを以て決定 往生の業と為す﹂︵﹁真聖全﹄四・二九六七頁︶ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 九 七 五 頁 ﹃ 真 聖 全 ﹂ 一 ・ 五 一 頁 ﹁上古よりこのかた、おほくは下品といふともたむぬべしなむどいひて、上品をねがはず、これは悪業のおもき におそれで心を上品にかけざるなり﹂︵﹃真聖全﹄四・七九六 1 七 頁 ︶ ﹃ 尊 号 真 像 銘 文 ﹂ ︵ 略 本 ︶ ﹁ 定 親 全 ﹄ 一 二 ・ 和 文 篇 ・ 四 三 頁 ﹁ 定 本 ﹄ 一 二 七 頁 ﹃ 尊 号 真 像 銘 文 ﹄ ︵ 略 本 ︶ ﹁ 定 親 会 ﹄ 一 二 ・ 和 文 篇 ・ 五 三 頁 ﹃ 定 本 ﹄ 四 八 頁 これについては拙論﹁真仏弟子の歩み||菩提心の現働||﹂︵﹃大谷大学大学院研究紀要﹄第三十六号︶を参照 さ れ た い 。 ﹁ 愚 禿 紗 ﹄ ︵ ﹁ 定 親 全 ﹂ 二 ・ 漢 ︵ 3 ︶ ︵ 4 ︶ ︵ 5 ︶ ︵6 ︶ ︵7 ︶ ︵ 8 ︶ ︵9 ︶ ︵ 叩 ︶ ︵ 日 ︶ ︵ 臼 ︶ 横 出 の 菩 提 心 五

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横 出 の 菩 提 心 13 ﹃ 定 本 ﹄ 三 O 九頁 凡 例 ・人名への敬称は省略した。 ・漢文のものは読みやすさを考慮し書き下し文にした。 その際、旧漢字は可能な限り現行字体に改めた。 . 、 主 な 出 典 は 以 下 の 様 に 略 記 し た 。 ﹃ ︷ 疋 本 教 行 信 詮 ﹄ ・ : : ﹁ 定 本 ﹄ ﹃ 定 本 親 驚 聖 人 全 集 ﹄ : : ・ ﹃ 定 親 全 ﹄ ﹃ 真 宗 聖 教 全 書 ﹄ : ・ ﹁ 真 聖 全 ﹂ 五 回

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