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龍谷大學論集 480 - 005浦西 勉「地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代 : 祇園牛頭天王信仰の地方伝播と在地の拠点」

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龍谷大学論集 九

地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代

││紙園牛頭天王信仰の地方伝播と在地の拠点││

争 闘

西

祇園牛頭天王信仰の由来を書いた﹁牛頭天王縁起﹂が存在している。これは﹃室町時代物語集﹄一巻、﹃室町時代 物語大成﹄三巻、﹃続群書類従﹄三輯上、﹃神道集﹄巻三ー一一一寸祇園大明神 L などに紹介されているものである。こ の﹁牛頭天王縁起﹂は京都八坂神社の祇園社の御神体牛頭天王の縁起であることはよく知られている。西田長男氏が ﹁祇園牛頭天王縁起の諸和﹂の論文の中に各地に残る各種の﹁牛頭天王縁起 L を紹介している。その成立については 室町時代の年紀のあるもので﹃室町時代物語集﹄一巻、﹃室町時代物語大成﹄三巻に翻刻されている文明一四年(一 四八二)の奥書がある東北大学図書館蔵がもっとも古い。﹁牛頭天王縁起﹂の成立は一五世紀の半ばには成立してい た。特にこの説話の普及は室町時代中頃にかなり流布したようである。 さて、この寸牛頭天王縁起﹂にはいくつかの点で関心を持つところがある。その一つは、西団長男氏が﹁紙園牛頭 天王縁起の諸本 L に引用されている﹁濯頂(勧請)祭文﹂(天文一九年)で、宮地直一氏所蔵の巻子本である。西田 氏はこの 1 濯頂(勧請)祭文﹂を説明﹁和州平群郡当郷令居住給信心大施主:::﹂とある﹁和州平群郡当郷﹂の七字

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は、もと﹁和州葛城郡当郷﹂とあったのを、その上に紙を貼布して、かく書き改めたものであると紹介している。 ﹁してみると、本書は、天文の頃おい、大和国平群郡や葛城郡やの地方に盛んに布教活動を行っていた﹁おんやうし かんなき﹂﹁法師除陽師﹂に属せしめるべき民間宗教家の実際使用していた牛頭天王勧請祭文であったのを知られる のである。﹂として紹介されている。おそらく西田氏の指摘するように、この﹁濯頂(勧請)祭文﹂は牛頭天王縁起 を各地に持ち歩いている民間宗教者の存在が認められるのである。このような﹁濯頂(勧請)祭文 L や﹁牛頭天王縁 起﹂を持ち歩く、おそらく、祇園社の御師(民間宗教者と言う用語を使用する)がこの一五・二ハ世紀(室町時代中 頃から後期)に活動しているという点に関心を持つ。 その寸勧請祭文﹂については少し後に述べるところであるが、おおむねその構成は次のとおりである。 一、まず牛頭天王を勧請する。勧請するのは牛頭天王、波利妻女そして八王子と、そして関連する神々。その勧請し た神々の前に供え物 二、次に牛頭天王縁起を語る(この部分が﹁牛頭天王縁起﹂にあたる) 三、この法会を行う目的の願文 四、経文の読経・講讃・呪 と言う牛頭天王を-杷る法会の次第の様式がうかがえるのである。つまりこれを持ち歩いた民間宗教者の地域社会での 法会(祭り方)の姿がうかがえるのである。 また、もう一つの関心は﹃室町時代物語集﹄の所収寸牛頭天王御縁起 L ( 文明十四年)中に記載されている牛頭天 王の性格に関してである。これを持ち歩く民間宗教者が話した縁起は、あまりにも奇想天外である。しかし、それが 地域社会に普及し定着し今日牛頭天王を記る神社の成立していることが各地で認められることは、﹁牛頭天王縁起﹂ に心が動かされた地域社会の人々の存在があえるからである。それはどのような部分に認められるであろうか。 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西) 九

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龍谷大学論集 九 四 この縁起の内容の構成を次のように整理してみる。(表一参照) (表ー)牛頭天王縁起の構成 13 12 11 109 8 7 6 5 4 3 2

年紀俊 端将古来と 蘇 民 将 来 将来古来

端古将来 途帰 竜宮 竜宮 鳩 王牛頭天

蘇 民の ~ H廿r・ 旅 立の の ~ 宿の 妻告聞のをげら の の 行 事 子 孫 の 宿の つ 生誕 呪 誼 ~ 否の ち れづ ~ の の 容姿と 加 護 の 復讐 美麗 れ 来の由 王 約 束 の 徹底的 貸すtこ れる 子 滅に

~~

J¥ 王 子 す 後 記 来由 旅 発端 この﹁牛頭天王祭文﹂や﹁牛頭天王縁起﹂を持ち歩いた民間宗教者が何を地域社会に伝え、地域社会の人々は何を心 にうけとめようとしたのかという点に関心を持つのである。 そのことを考えるのに、今この﹁牛頭天王御縁起﹂の内容の中では、特に強調されているのは、牛頭天王が竜宮に 妻を求めて旅に出る話である。そして旅の途中での出来事が何よりもこの縁起では強調されており、印象的である。 牛頭天王は南海の沙掲羅竜王の三女婆利菜女を要るために竜宮に赴く途中の話であるロ裕福な古端将来に宿を求めた が断られ、次に貧しいが慈悲のある蘇民将来の宿に泊まり、その礼に牛玉を与えた。竜宮にて婆利菜女と八年暮らし

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八王子をもうけその帰途、古端将来を滅ぼした。左にその富める古端将来と貧しい蘇民将来の宿を求めた部分を引用 すると次の通りであ&。 其日ハ暮テ、御道クタヒレニテ、何クニカ宿ヲ取へキ慮ヤ在トノ給へハ、人申様、古端将来ト申長者川、御宿ヲ召レヨト 申、サラハトテ、敷万騎ノ御勢ニテ御宿ヲ食レケレハ、古端将来申様ハ、是ハ貧者ニテ W 問、思モヨラヌ事ナリ、此這ノ 末ニ有徳ナル人ノ川、其ニテ御宿ヲメサレ u w へトテ、マイラセサル問、鍵而出サセ給フ、牛頭天王大 ι 怒 リ 給 ヒ テ 、 ケ コ ロシテ捨ムトノタマへハ、関白殿申給フ様ハ、后ノ御向ヱノ首途ニテ W 、イマハシク W ト申給へハ、サラハトテ御出有 戸、又何クニカ宿ヲ取へキ慮在ル卜宣旨在レハ、愛ニ貧者一人川、名ヲハ蘇民将来ト申テ、浅間敷者ニテ W へトモ、慈悲 剖川剖斗升川、入ラセ給へトテ W 程ニ、御宿メサレ W 、家ハ宝形作リニテ、浅間敷タ W へトモ、嫌テ宿マヒラセタリ ケレトモ、御座敷ニマヒラセへキ物ナクテ、茅蓬一マイマヒラセタリ、残ノ御勢ハ皆茅苅敷キ居サセ給 t ケリ、文御 クコンニ何ヲカマイラセント申ケレハ、御道クタヒレノ事ナレハ、何物ニテモアレ、汝ヵ給ル物ヲ参セヨト宣旨在リ ケレハ、粟蒋ノ外ハ給ル物ナク W ト申、其ニテモ在レマヒラセヨト宣へハ、即チ粟飯ヲ参セタリ、其ノ夜ヲ明シ給ヒテ御立 在リケル時、何ヲカ宿タメニトラセントヲホシテ、牛玉ヲ取出サセ給ヒテ、是ハ第一ノ賓ニテ在リトテ、蘇民将来-一御 ト ラ セ 在 リ ケ リ 、 大 ニ 悦 ヒ 申 、 ( 傍 線 筆 者 ) 泊めくれなかった古端将来に対して宿をかきぬ慈悲のない者として﹁牛頭天王大ニ怒り給ヒテケコロシテ捨ム﹂に 対し、蘇民将来には﹁貧者一人候。名ヲハ蘇民将来ト申テ浅間敷者ニテ候へトモ慈悲在ルモノニテ候﹂という、対比 としての表現に関心を持つ。ここには、古端将来と蘇民将来が慈悲があるかないかの一点に絞ってその人物の評価が 決まることを強調されているように思える。とりもなおさずそこに寸牛頭天王縁起﹂の性格が認められるのである。 そして帰途、富めるが慈悲のない古端将来を滅ぽす部分は牛頭天王の執念深きと合わせて慈悲のない人間の末路を 考えさせられて凄ごみがある。この部分を、民間宗教者(たとえば紙園社の御師)はどのように演出して読むのか。 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西) 九 五

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龍谷大学論集 九 /、 ふ し おそらく独特な演出により独特な寸節﹂をつけて語っただろう。当時の人々は、 おそらく慈悲のない人間の結末の話 その富めるが慈悲のない古端将来への徹底的な成敗の様子は、 それを聞いた地域社会の人々にとっては痛快であり、魅力的であって喝采した部分かもしれない。その徹底的に古端 将来を滅ぼす部分であるが﹁牛頭天王縁起﹂には次のように語られてい&。 牛頭天王三日ノ内ミ古端将来ヲ始テ敷万人ノ替属共ヲ、捉コロサセ給フへキ也ト申ハ、古端将来歎キ悲ミ申ヶレハ、如 何様 - Z 祭 リ 替 テ タ ヒ 給 ヒ W へト申、其時ハカセ申様、何トシテ我身ヲ人ノ身ニ替 W ヘキ、七郎万宝モホシカラス、只今 ケコロサレマヒラセ W へキト云蹄リケルヲ、挟ニ取付テ長者申様、如何様ニシテカ此難ヲ遁 νW ヘキト申、ハカセ申 様 、 此 難 ヲ 遁 レ ン ト 思 ハ 、 千 人 ノ 法 師 ヲ 請 テ 、 大 般 若 経 ヲ 七 日 夜 ル 日 ル ノ 問 、 讃 奉 リ W ハ 、 、 此 難 遁 ル ヘ キ カ ト 申 捨 テ 蹄 リ を、恐怖心を持って聞いたであろう。あるいはまた、 ケ リ サテ千人ノ法師ヲ請シテ、大般若経 7 入 マ ヒ ラ セ 讃 奉 ル 、 又 牛 頭 天 王 大 -怒 リ 給 ヒ テ 、 見 目 聞 鼻 ヲ 古 端 ヵ 家 ニ 行 テ 、 如 何 様 ノ 事 カ 在 、 見 廻 リ テ 参 レ ト 宣 旨 ナ ル 、 急 ニ 行 テ 躯 テ 参 リ テ 申 様 ハ 、 只 今 千 人 ノ 法 師 ヲ 呼 テ 、 大 般 若 経 ヲ 讃 マ ヒ ラ セ ケ レ ハ 、 六 百 巻 ノ 大 般 若 ノ 、 高 サ 四 十 余 丈 六 重 ノ 織 ノ ツ イ チ ト 成 テ 、 箱 ハ 上 ノ 葦 ト 成 リ テ 御 座 ス ト 申 ケ レ ハ 、 牛 頭 天 王 キ コ シ メ シ テ 、 八 万 四 千 ノ 替 腐 ニ 宣 旨 ヲ 成 レ ケ ル ハ 、 急 キ 行 テ 繊 ノ ツ イ チ ヲ 立 廻 リ テ 見 ョ 、 千 人 ノ 法 師 ノ 内 ニ 、 目 ニ キ ス 在 ル 本 師 ノ 、 食 ニ サ へ ラ レ テ 子 ブ リ 居 テ 、 文 字 ヲ ト ス ナ ラ ハ 、 其 ヵ 織 ノ 透 ト 成 テ 、 六 重 ノ ツ イ チ ヲ 開 ク へ シ 、 其 ヨ リ 、 古 端 将 来 ヲ 初 予 、 替 屑 -至 ル マ テ 、 腿 コ ロ シ テ 参 レ ト 宣 旨 也 ケ レ ハ 、 急 キ 行 テ ツ イ チ ヲ 立 廻 リ 見

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、 案 ニ タ カ ワ ス 、 片 目 ニ キ ス 在 ル 法 師 、 文 字 ヲ 落 シ ケ レ ハ 、 織 ノ 窓 卜 成 リ ケ リ 、 其 ヨ リ 走 リ 入 リ 、 皆 と 促 コ ロ シ テ 蹄 リ ケ リ 、 是 ニ 付 テ 有 徳 -在 リ 禦 ニ 有 リ ケ レ ハ ト テ 、 慈 悲 無キ物ハ身ホロヒ、貧ナレトモ慈悲アレハ、忽一幅徳来ルナリ 特に印象的なのは﹁有徳ニ在リ楽ニ有リケレハトテ慈悲無キ物ハ身ホロビ貧ラレドモ慈悲アレパ忽福徳幸来ルナリ﹂ と強調する。長者で宿を貸さない慈悲無き人物を﹁け殺す﹂と言う表現やそれに対して﹁慈悲﹂のある蘇民将来に限

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りなく幸福を与えるなどが一対になって表現される。ここに牛頭天王の性格を見て取れるのである。おそらくこのよ うに表現されるのは﹁牛頭天王御縁起﹂を持ち歩き、語ったであろう民間宗教者の境遇も反映されているように思わ れる。同時にまた、この貧しくて浅ましくても、慈悲と言う概念を十分に理解する地域社会の人々の存在もあったの で あ る 。 また﹁牛頭天王御縁起﹂は、各地に民間習俗の由来を教えている点にも注意したい。節供ごとの祭礼の食べ物の由 来に関して今も、これが民間の伝承として普及しているのも大きな意味があ&。 ︹ 7 M ( 校カ) 文 正 月 ニ ハ 先 堂 枇 ニ テ 、 牛 頭 天 王 ノ 第 一 ノ 御 財 牛 玉 ヲ 給 ヲ 、 蘇 民 将 来 ヲ 柳 ノ 枚 ニ 書 テ 、 男 ハ 左 リ 女 ハ 右 ノ 挟 -付 テ 守 二 懸 テ 、 其 テ イ 後鬼梯トテ、壁板敷ヲ拍タ事ハ、古端将来ヵ家ニ八万四千人ノ御香属ヲ放シ入テ、古端ヲ打レシ事ヲ猶モ兇岨スル鉢也、三 月三日ノ草餅ハ、古端ヵ身ノ皮也、桃ノ花ハ古端ヵ肝也、五月五日ノ綜ハ古端ヵモト、リ也、菖蒲ハ古端ヵ髪也、如此六月 一日-一、牛頭天王ノ御主天典薬一刷、天ヨリ御下リマシマス、其時見セマ井ラセン鋳ニトテ、正月ノ白キ餅、古端舟骨 トテ取出シテ食スル也、文六月一日ヨリ十五日マテ、七反ツ¥南無天襲紳南無牛頭天王卜唱へ奉レハ、諸ノ難退キ、事情 命長遠也、去ハ古端ハ慈悲無キ故ニ、末代マテ加様ェ呪岨セラへ奉ル、蘇民将来ハ慈悲深重ナル故ミ子孫マテモ目出 度守ラセ給 7 也 此本懐、年ノ初八王子皆、牛頭天王ノ王子マテ御座ス問、少モ疑ヒ申へカラス、惣テ何事モ正月ノ祭リ事ハ、皆古端 カ調伏ノ局也 ﹁牛頭天王縁起﹂の右のような部分を念頭に置きながら表題の﹁村落と関わる民間宗教者の時代﹂として、今日の地 域社会の信仰の成立がいったい何時に求められるの、また、どのような場所であるのかを考えてみたい。この不思議 な縁起が各地の紙圏社の成立に大きな役割を果たしたであろう事から、その普及した時代と合わせてこの縁起を受け 入れた地域社会の人々に関して考えてみたいのである。 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西) 九 七

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龍谷大学論集 九 J¥

天理市機本村

和爾下神社から│﹁治道天王﹂あるいは柿本寺の存在から

はじめに述べたように、ここで考察したいことは、祇闘牛頭天王信仰がどのように地域社会の人々に伝播・定着し たのかである白それを、奈良県下に存在する祇園牛頭天王信仰の伝播・定着している地域社会を取り上げて考えてみ ることにする。今﹃大和圏神社神明恒例﹄による奈良県の紙園牛頭天王信仰の神社と推定できる神社名は、須佐之男神 社、素斐鳴神社、牛頭天王社、八坂神社、八王子、津島神社、杵筑神社などである。今回、考察しようとする奈良盆 地中央部の地域社会の天理市や田原本を見てみるとかなり多く分布している。また牛頭天王の子供である八王子も地 域社会では﹁ハツオ

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﹂さんと呼ばれてかなり分布している。先に紹介した西田長男氏の牛頭天王の﹁勧請祭文﹂に も記されている奈良県の平群郡や葛城郡の地名が記されているのであ&。このような祇園寸牛頭天王縁起﹂がいった いどのような地域社会の人々により受け入れられるのであろうか。どのような背景が認められるのであろうか。やは り今日、祇園信仰が分布している地域社会のことは、その普及定着の時代とそれを受け入れる人々はどのようであっ たかを問題としてみてもよいのである。 さて今回は、天理市機本にある﹁和爾下神社﹂を取り上げてみたい。延喜式内社である﹁和爾下神社二座﹂に比定 されているこの様本の郷社の神社である。この神社の名称は明治の神仏分離令の後に改められたもので、江戸時代を 通しては機本は﹁上治道天王 L 社と呼ばれ郡山市横田は﹁下治道天王﹂社と呼ばれていた。﹃大和名所図会﹄にも、 襟本に神社を治道天王社の名を記載されている。また神社境内にある金石文の銘文にも治道天王社と刻まれているこ とが確認できる。その神社名の記録はここでは並河永のまとめた﹃五機内志﹁大和志﹂﹄享保二十一年刊次のごとく あるところから検討したい。

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- 和爾下神枇二座一在一棟時一瞬間一一誌襲五一世諸鎮静雫-ここには、天理市襟本村と隣の天理市和爾村にも延喜式内社﹁和爾坐赤坂比古神社 L に比定されているが、やはり当 時は﹁天王﹂と称するとある。機本村の﹁上治道天王 L 横田村﹁下治道天王﹂もこの和爾村の寸天王﹂も﹁牛頭天 王﹂のことである。﹃五畿内志﹄を表した儒学者並河永は延喜式内社を調査してその神社を確認するために現地を訪 ねた仕事として価値があるのである。その結果、当時現地で呼ばれた神社名をここに報告してくれていることに注目 したい。つまり当時の人々が信じていた信仰対象は牛頭天王なのである。このことをあえて言うのは、地方の神社の 成立とその歴史に関わるからである。おそらく、中世から江戸時代を通じての呼び方の神社名を、明治の国家神道体 制により神社名を変更させたいわば歴史事件なのである。では、江戸時代を通じて呼ばれていた﹁上治道天王﹂や ﹁下治道天王﹂、また、和爾の﹁天王﹂と呼ばれていた時代はいつまでたどれるのか。それは、今のところ十分な史料 がない。ここに﹃大和志料﹄に﹃筒井諸記﹄を引用して﹁牛頭天王ト云フ﹂と記されることから、少なくとも中世に はこの﹁天王 L と 呼 ば れ て い る 。 ここにこの神社との関わりで、少し注意したいのは、平安末の薯永二年(一一八一二)の年紀を持つ﹃柿本朝巨人麻 呂勘文﹄には次の表記がある点である。 墓 所 事 。 考↓言問葉-人丸於二石見園-死去了。其間和歌等。度々前註了。而清輔語云。下斗同大和園-之時。彼園古老民云。添 上郡石上寺傍有 v社。稽ニ春道杜ベ其杜中有 ν寺。稽ニ柿本寺寸是人丸之堂也。其前田中有ニ小塚↓稽ニ人丸墓ベ其塚 霊所市常鳴云々。清輔聞 ν之。祝以行向之慮。春道社者。有ニ鳥居寸柿本寺者只有ニ礎計ベ人丸墓者四尺計之小塚 也。無 v木而薄生。伯爵ニ後代寸建ニ率都婆寸其銘書ニ柿本朝巨人丸墓ベ其裏書ニ悌菩薩名競経教要文ぺ文書ニ予姓名寸 其 下 註 ニ 付 和 歌 ぺ 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西) 九 九.

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龍谷大学論集

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世をへでもあふへかりける契こそ苔の下にも朽せきりけれ 蕎永三年二月七日勘註了。頴昭 右一巻太秦寺額昭以ニ正筆-寓 ν 云 々 。 寛永拾龍集年醗迎寒下旬 親 衛 中 郎 将 藤 原 朝 臣 隆 術 ( 傍 線 筆 者 ) この文章を見てみると、柿ノ本人麻呂の墓についての部分であるが、注意して読むと石上寺の傍らに﹁杜﹂がありそ の﹁杜﹂を﹁春道社﹂と呼ばれているロその﹁杜 L の中に寺がありそれを柿本寺という。これを人麻目堂と言い、そ の前に人麻呂の墓があるというのである。﹁春道杜﹂には鳥居があり柿本寺は礎石が残る。 これをどの様に解したらよいのかロ文面通りに読めば、石上寺という寺院の傍らに社があるのだから現代の位置か らすると天理市石上と様本の境ぐらいに石上寺(現在の在原神社辺り)があり、その北東が﹁杜﹂と解すると、今日 の地形からするとうなずける。この春道は神社とは記載されておらず﹁社﹂と記載されている点注意しなければなら ない。鳥居はあるが神社ではない。古い﹁カミ﹂の-紀り方であるのだろう。ここには﹁春道杜﹂とあって天王の文字 が入っていないのではたして﹁治道天王﹂同じかどうか検討の余地がある。私はこの﹁杜﹂機本の古い民間の神々を 肥る杜であって、まだこの平安時代には﹁牛頭天王 L は紀られていないと考える。私は﹁春道﹂というのはおそらく この辺りの地名でありうっそうとした樹木を持った寸杜 L をそう呼んだのであろう。﹁春道﹂の地主の﹁カミ﹂とい う意味であろう。ここでは決して延喜式の神社名寸和爾下神社﹂とは呼ばれていないのである。 そもそも、ここに記載される石上寺、柿本寺など、また記録に現れる在原弘の寺院の関係がどのようになっていた のかなかなか判然としない。﹃大和旧跡幽考﹄には﹁磯上寺、磯上村にて在原山本光明寺と号し在原業平朝臣の住ま われし地に立てられけるなり﹂とある。そこで、石上寺、在原寺、本光明寺、柿本寺の関係を一応私は次のように解

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地級社 会の神社成立に関わる民 間 宗教者の時 代 ( 山 川 西 ) してお く。奈 良時代に建立 さ れ た 寺院名が石上寺 その寺院の塔頭が在原寺であ り本 光 明 寺であ り柿 本寺である。その寺域は上街道から東方の東大寺 山にか けての一帯がこの寺域になると考える。 ( 地図 参 考 ① ) 。 石上寺、在原寺、柿本寺が存在していたその周 辺に天理市和爾や標本とい う集落 が 存 在 す る 。 こ の寺院の 関係はお そらく古くは 石上寺 が総 体の名 称で在原寺や柿本寺はその搭頭であ っ ただろうと 白 山 ﹀ フ 。 機本地域と石上寺推定区域 乙の地は、古代から中世を通じて明治まで、東 大寺の所領であった。後に述べるように聖武天皇 が施入した土地である 。江 戸時代は 二 千石の朱 印 状をも らう、あらゆる 面で、東大寺にとって重要 な所領であった。この様本、和爾地域は東大寺が その権力者であるはずである。であればこの地に 東大 寺の 鎮守手向山八幡 宮があってもおか しくな 地図① いのであるが今わずかに 一 垣内に八幡神社がある のみである 。 ﹁ 上治道天 王 ﹂ と言う郷村的な神社

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龍谷大学論集

ではない。この関係も詳細は検討してみなければならない。ここに延喜式内社﹁和爾下神社﹂が存在したのかどうか もまた検討されるべきだが、不明としなければならない。ここには、明確に祇園牛頭天王信仰である機本﹁上治道天 王 L 、横田﹁下治道天王 L 、和爾の﹁天王﹂が明治になるまでは名前を変えずに存在しており、また、祇園会を近年ま で華やかに営まれ、村人との関係が深い神社なのである。この地域の信仰の形態について﹁東大寺﹂の所領であるこ とと、在地の農民と、柿本寺などの寺院が如何なる関係であるのか、また、外部から祇園牛頭天王信仰を普及させた 民間宗教者との関係はどうであるのかを考えて見てみなければならない問題がある。

機本荘の地域社会の形成と百姓土民等

ここでもう少しこの地の、治道天王社を中心とする村落を眺めておく必要がある。﹃大和志﹄に記された﹁近隣五 ヶ村共預祭組﹂と言うのはどの範囲なのか。五ヶ村とは、天理市機本以外として楢、中の庄、蔵之庄、森本と大和郡 山市石川の五ヶ村の集落の事である。地図①で見てもらうと理解されるのであるが共通するのは高瀬川(高橋川)か らの水利を共有に持つ地域共同体と言うことになる。 この様本周辺は奈良時代、聖武天皇が施入され、それ以降、東大寺にとって重要な圧園であった。それについては、 高梁川の濯瓶用水の開発があった。機本地域は元来地形的に東大寺山の北西側は用水が不便な地である。そこで、こ の時代に大工事が行なわれ、この地域の農業を安定させたと伝えられるのである。この話は﹃東大寺続要録﹄に記載 されている。東大寺﹁造東大寺司高瀬川一井三池造﹂とあり高瀬川に一の井堰を作り、この東大寺山の裏をぐるりと 回り通した水路を開発したのである。この歴史的認識が、機本の水利を共通する﹁近隣五ヶ村共預祭杷﹂には在る点 が重要である。ここに大きく治道天王社の性格を見いだす。 この周辺には東大寺の末寺として虚空蔵寺・柿本寺・願興寺などが存在していた。これらの寺院は当然この地域社

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会においては重要な役割を持っていた。それはやはり水利慣行に関わる点ある。 標本荘として﹃東大寺要録﹄には次のごとくこの庄園を把握しているのであゐ。 大和園 様 庄 畠六町五段 所 品 目 園 地 子 見 作 田 品 川 四 町 二 段 二 百 四 十 歩 建 仁 三 年 検 回 帳 定 除 三昧田二町 戒師団一町 温室田二町三段 法花曾悌供田一町 姓 田 五 段 二 月 堂 回 一 町 二 段 寺 主 供 田 二 町 勾 嘗 供 田 一 町 穎性房五師給田八段林寛房得業給一町 曾明房得業団八段邸一公人給田一町 圧堂三昧田一町三段井料二段 預 所 佃 一 町 下 司 給 一 町 公 文 給 五 段 職 仕 菟 五 段 表団二段百四十歩 定田十四町九段百歩 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西)

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龍谷大学論集

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欲早被経御沙汰、自興幅寺被切死土打段米動仕、難堪﹄子細事 右 嘗 御 庄 者 、 時 持 雛 貯 刈 剖 側 旬 以 御 年 守 対 側 関 罰 司 倒

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一 仕 カ ︺ 口 、 等 之 僻 神 ﹄ 事 重 色 之 析 庄 也 、 此 外 人 夫 停 馬 以 下 恒 例 臨 時 細 と 寺 一 ﹄ 日 朝 関 J I I I I l l i -曜 rill--⑤

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働側矧沼町御 i 相矧智敗、愛自興一帽寺非分被催佼土打段米等之刻、自﹄御寺就有御奏聞、可被止他寺催俊之 催 由、被成下院宣之﹄後、圧家安全之慮、今又以数多之使者被。俊之僚、殊所驚﹄申也、早被経御沙汰、任遡剖 永被止他寺之課役者、土民才﹄欲成安堵之思、の謹言上如件、 弘 安 十 年 八 月 目 標 庄 百 姓 才 上 ﹄ ( 傍 線 番 号 筆 者 ) 右の文書からこの時代に、機本荘園における東大寺と輿福寺の問題が発生し始めているのである。この文書には様本 の荘民の主張がうかがえるのである。興福寺が東大寺の荘園に土打段米を要求してきたことは﹁難堪﹂ことである。 領主東大寺にこのことを訴えたのである。 その主張と文書の性格を次に指摘しておきたい。 一、東大寺の傑本荘(傑荘)は聖武天皇施入の土地であることの歴史認識。 二、今まで東大寺に忠誠を尽くし年貢皆済してきたこと。 三、その年貢の使われる目的が具体的に認識されていたこと。 四、農民の訴えを理解してこの文書を書く僧侶の存在していたこと。 五、興福寺に対する激しい抵抗する心理と領主東大寺に対する不信感。 などがこの文書には認められる。このことは何を意味しているのであろうか。 この東大寺文書に見る一四世紀の農民の考えを、訴状として代弁した僧侶の存在が重要なのである。いったいこの 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西)

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六 僧侶はどのような立場なのであろうか。この文書は、主張する百姓等の気持ちを見事な文章にまとめ上げたことにこ の僧侶の立場がある。それはおそらく柿本寺の僧侶に違いない。この僧侶は当然、東大寺から派遣された僧侶である はずである。荘民からの年貢やその都度の訴訟などを判断する東大寺側の役人的僧侶である。また農業経営や水利慣 行を指導する僧侶である。 この文章に書かれていることは、興福寺の土打段米などの要求に対し、この要求を拒否する東大寺の毅然たる態度 を求めているのである。このことは、おそらく、単に輿福寺に対して土打段米への反発だけではない。様本の荘園は 先に述べたように聖武天皇が施入し東大寺が開発した土地である。その開発は大変な労力がかかり、歴史的事業であ った。その文章がこの文書の一番先頭に来る。この歴史認識の上に、領主東大寺にその自覚を促すのである。高橋川 を東大寺山の裏側を削屈して作った一の井の井堰の河川である。その川の水域に成立した村落社会を形成していた共 同体を東大寺は守れるかどうかを問いただしているのである。鎌倉後期には、この地域に変化があった。機本の北側 の興福寺と関係の深い正暦寺から流れてくる菩提山川と東大寺末寺の虚空蔵寺の方から流れる川との関係はいつも波 乱含みの問題を待っていた。また、南側の石上村との境あたりは高橋川の水利とが布留川との水利とが奪い合う関係 にあり、輿福寺の荘園と境をするため、たびたび水利の争いが生じてきていふロ 機本荘民にとって、この興福寺の土打段米の要求は、かねてからの水利の争いごとが重なって領主東大寺にかなり 激しい口調で一つの主張となったのがこの文書の内容である。ここには地域社会の現状を百姓等の自覚がはっきりし ている。つまり、室町時代の在地農民の共同意識が発展した郷村社会が明確化してきているのである。その時に、こ の郷村的共同体の要になる話し合う場所と信仰の対象が必要となる具体的な心理が発生する。ここに、働いたのが柿 本寺の僧侶である。このような時代背景が存在していたと考える。東大寺の荘園内に祇園社牛頭天王を勧請するとい う時代が存在しているように思うのである。ここでも、東大寺鎮守手向山八幡社ではなくてなぜ祇園社なのか。おそ

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らく、もと古代からあった春道の杜としての鎮守はそのままであろう。これは柿本寺の鎮守なのかもしれない。しか しその発展ではなく、それとは別に新たな百姓達の共通の信仰対象を求めたのが牛頭天王だと推定したい。 ここにはこの治道天王社の誕生する背景がある。治道天王社の存在する襟本を中心とした郷村を形成をなした楢、 森本、中の庄、倉の庄、石川の村落社会の人々も共通の信仰対象としたのは在地の農民達である。これは先にも触れ たが、古代に開発された水路が共通する地域である。だからこの治道天王社の場所が重要なのである。何が重要かと 言えば高瀬川の水路が東大寺山を大きく北に迂回させた水路があるからでありその山の入り口に位置するのが治道天 王社なのである。(地図参照①)この春道天王社は江戸時代を通じても雨乞いなどまた祭礼なども共通に行うのであ 街。また、たとえば境内地の北側の石灯篭には﹁奉寄進治道宮治道宮天王奉寄進二世安楽天和元年 L や拝殿西側に ﹁治道宮元禄四年襟本中庄村﹂とこの郷村形成の構成する村名が存在する。この水路による農業経営が重要でその管 理を含め、雨乞いも盛ん行われている。

機本庄の農民の任務

この文書に記載されている内容は、当時の機本荘の具体的な百姓等の姿が浮かび上がる。それは興福寺から要求さ れた土打段米に対する拒否する理由である。東大寺を領主と仰ぐ百姓等の誇りでもある。機本荘民は聖武天皇が施入 した土地であり水利も自分たちが工事をしたのであり、その後の管理もしているのである。それにより東大寺の経営、 特に次の諸法会が営まれるのである。 大仏殿長日御悌聖・八幡宮日次御供・華厳会・仏生会 大悌殿長﹄日御悌聖・八幡宮日衣御供・花巌曾・悌生曾・妓築曾・法華﹄曾・大悌供・万燈曾、文手掻御祭用途 ︹ 仕 カ ︺ 姓析・恒例倶舎三十講﹄井世親講、或温室田・法華三昧供令勤口、知此等之悌一締﹄事重色之析圧也、此外人夫停 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西)

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八 馬以下恒例臨時細と寺役、 その他、人夫、伝馬、寺役などにも機本荘民は日夜勤めているところである。 この文書は、それにもかかわらず、輿福寺から、このような土打段米の要求を東大寺領の機本荘にかけてくるのは 道理に反していると主張する。領主東大寺自身から、はっきり興福寺へ拒否してほしいという、怒りを持った百姓等 の主張である。同時に、これを書いた僧侶の考え方である。東大寺の政治的力は、このころ弱体の一途をたどってい たことは石母田正氏の﹃中世世界の成羽﹄に伊賀の国黒田庄について詳しく述べられている通りであり。 この様本荘に関しても、東大寺の弱体化は、興福寺に抵抗することができないほどであったのだろう。このことが、 在地の東大寺末寺の僧侶に取って農民の嘆願と同じ考えに結びつくのである。 当時の百姓等は、地元農業経営のための農業用水の水利慣行のための水路の管理のための公的な費用やまた祭りの ための費用が認められている。先の﹃東大寺要録﹄には次のように記載され仇 o これらの任務は地元荘民が行ってい た費用である。 除 庄 紳 祭 二 段 定 使 菟 五 段 本 田 繁 二 段 ( 傍 線 筆 者 ) 機本の百姓等は、東大寺の年貢の皆済を行い、また、東大寺の諸役の人夫として出仕する姿が見受けられる。諸役の 人夫として東大寺八幡宮の転害会に出仕している記録が残る。﹃東大寺雑集録﹄には機本荘の田楽や転害会の出仕の

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場面が記されている。 行烈次第文明拾四年壬寅八月十三日書 v 之 八幡手掻曾却処配鰍 Jm 御 前 公 人 一 薦 御 幣 。 二 薦 白 献 。 二 行 立 。 四 四 拾 拾 責

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萱 渡馬威儀御馬三疋。次騎兵。競馬。 泰平集。狛杵。寓歳集。延喜集。賀殿。地久。長保。 三重胡徳口此節地布ヲ敷。 萱番

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競馬十騎。素襖三綱所勾嘗ヨリ沙汰。 騎兵廿騎乗馬甲兵番匠雨座十騎。符雨座六騎瓦作・ 紳費。御唐橿三合。駕輿丁持 v 。 白 張 。 大 鉾 持 八 人 。 御 輿 所 持 之 素 襖 ニ 行 獅 子 二 頭 。 雨 水 守 役 四 人 一 頭 ニ 二 人 入 獅 頭 ヲ 著 十烈。祭所 o ト 別 府 日 ノ ト 。 著 = 青 色 赤 色 4 上 馬 。 四 五 _._ / 、 、 七 J¥ 九 上下ノ使二人乗馬長物傘。 楚駒賭一口取白張二人。頭人沙汰後奔殿出。 本座回集。標庄清澄・圧。河上三ケ所暮ニ沙汰。 先 白 幣 祭 頭 次 群 参 。 春 日 ノ 祭 同 前 。 紳人散所以下群参。黄衣。 御 前 梯 紳 人 御 輿 所 。 白 幣 持 紳 入 賞 衣 。 床 木 持 費 人 。 玉舞萱人。大悌殿主典役長鼻面トリカブト。 持 。 十│十 十 十 十 四 三 二 十 五 一 一 柳 輿 白 張 著 。 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西) 一 紳 輿 二紳輿 三紳輿 太卒集。狛杵。 別集散手。貴徳。 陵玉。納曾利。 賀輿丁事

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様圧八人之内。機本ノ儀 六人御輿之前鼻 ν 之 。 一人雨覆持。一人御供持。

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玉井庄五人之内。 三人御輿移後左尤鼻 ν 之 。 二人御唐橿持。

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長匡庄四人之内 ohu 和 万 円 御 捌 。 三人御輿移右鼻 ν 之 。 一人神輿雨覆持。 清澄庄七人之内。刊 W W 竹 刀 。 六人御輿前向デ之。 一 人 御 供 持 。

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雑役主八人之内。

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げ な ノ 。 六人御輿之後鼻 ν 之 。 二人御唐橿持。 薬 薗 庄 十 二 人 之 内 。 い 竹 内 け 川 河 , ン ( 傍 線 筆 者 )

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様本荘は田楽を奉納している。また御輿を担ぎに六人の人足がでている。 また、東大寺の西側の京街道に面する場所に祇園社勧請が建武五年(一三三八)六月五日に行われた記録がある。 祇園社が勧請され、東大寺鎮守八幡宮の末社とした。どのような理由かはわからないが、この手害町周辺が町場とし て発達し、その町人達が京都の祇園会と同じ風流や山鉾など営み始め祭りとしたのであろう。その勧請するときにも 機本荘は御供を四膳供えてい旬。 今明両白紙薗社神子神人酒肴事 よ』 仁I 第二日分 黒田庄十五前 第二日分 北伊賀圧十一前 初日分 機庄四前 初日分 薬薗庄六前 初日分 長屋庄二削 式 一前別酒六合 第二日分 笠間薦生庄九前 初日分 青澄庄三前 初日分 賀茂庄二別 初日分 雑役庄四前 居へキ瓜タカシ、十ハイ、

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右酒肴者紙薗御影向之問、御社就新造、両日亙女神人仁可有酒肴之旨、依新儀之衆議支配如件 建 武 五 年 六 日 ( 傍 線 筆 者 ) この東大寺祇園会はなかなかにぎやかであったようで、その後、御輿が担がれ、たびたび喧嘩や騒雑があったよう 四 だ。次の記録がそのことを示す。 東大寺紙薗会在之、押上郷与中御門郷車先前相議故、難令用意舞車一向不押之、今少路郷山計押出、風流如例、 事出来、見物衆両三人被殺了、負手数輩在之云々、我古市等馳上、先以無殊子細欺引退了、先年車先前相論事、 ( 中 御 門 ) { 中 御 門 } ( 寛 正 五 年 ) 両郷在之、為寺門成敗探ニテ押上一番ニ押之、当年又可為探之由、中御門郷申入之、押上ハ以先年之探、行末治 定上者不可取之云々、六方此間色々雄及評定、無処成敗之問、今日両郷風流止之畢云々、山押次第ハ転害・今少 路・中御門・押上如此各年沙汰也、知山次第ハ車事無是非之由中御門申、寛正五年ニ以探行末事相定之、紙薗御 前ニ札打之了、其後押上打破了云々 文明一一年(一四七九)これらのことは標本荘に田楽座や御輿かきなどの恒例化する組織の存在があったであろう事 が想像される。これらのことから、荘民が祭礼の任務を勤めると同時に、徐々に大きな規模の祭礼を営めるような力 を持ってきていることがうかがえるのである。

柿本寺の僧侶の性格と柿本蔓茶羅の成立および祇園牛頭信仰の伝播

東大寺末寺柿本寺の僧侶は先の嘆願書の文章のをまとめ上げた筆者であると推定する。またこの柿本寺の僧侶は次 のような文化に対する保護者でもあったのである。この柿本寺は﹁柿本像彩色勧進状﹂に見るごとく文化面にきわめ て深い関心の持ち主でもある。 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西)

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龍谷大学論集 沙門慶範敬白。 殊に十方檀那の御助成をもて。大和園添上郡治遣の柿下寺人丸の堂を修造し。ならびにかの木像をあらため緑 色せんとこふ勧進の獄。 ( 中 略 ) 今はりみちの堂にかの影あり。星霜かさなりて草堂敗壊をなし。雨露におかされて木像の緑色分明ならず。これ によりて十方の檀那を勧て諸人の助縁をもて再興を致さん事をおもふロ一紙をもかろしとせず。牢銭をもすこし きなりとせず。微塵もかさぬれば山となり。小水もつもれば海となる故なり。敷しまの道に心をかけむ輩は目の まへにその縁を結び白御法の岸にいたらんと願ふものも耳のほかに聞事なかれ。やまと歌は日本の陀羅尼なりと いにしへより是をいひったへたり。これによりて和光同塵の紳明も此遁を捨給はず。入重玄門の薩睡もそのなさ けをのこし給へり。もし諸人の奉加によりて修造功ならば。ならの葉の名におふふる寺も二たびあらたまり。緑 色事をへてかきのもとのひじりのみちもむかしの面影にたちかへらんといふ事しかり。勧進のおもむき大概かく の ご と し 。 文明八年卯月日 右大和園添上郡治道山柿本欄寺所蔵慶範自筆本寓之 ( 傍 線 筆 者 ) その記す内容は勧進をすることの情熱的説明文である点や、また、合理的であることなどの性格をうかがわせる。こ のように﹁はりみちの堂﹂の柿本人麻目像の修復の勧進に努めている。またこれと合わせてまた柿ノ本人麻呂の﹃影 供記﹄を残し、また﹃柿本講式﹄なども残す。これなどからしても、柿本寺の僧侶の活動はきわめて文化的である。 江戸時代、寛永一

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年に写している﹃柿本朝巨人麻呂勘文﹄を見てもわかるように、常にこの柿ノ本人麻日墳墓の由

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柿木受茶羅(大和文筆館蔵) 来と合わせて意識されていたのである 。 またおそらく和歌や連歌もそこでは詠草されていたであろうと思う 。 先に見た百姓等 の成 長は自覚的と なり 、裕福であるが、慈悲の持たない権力 者(この場合 興福寺 )に 対し て 抵 抗す る精神が発達し、柿本寺の僧侶が 、 慈悲を持つ人々への勧進を募ったり、興福寺に対しての社会的不合理に対する反 抗心と合わせて、柿本人麻目などの文化復興への活動などが認められる。この ことによ り 、 百 姓 等の自 覚す る 共同体 を望む傾向を持ち始めている。このことが 、 祇園 牛 頭天王信 仰 の勧請の背景であると考えるのである 。古 代に存在し た鎮守春道社にこの祇園天王社を勧請したのは上記の傑本荘の良民等と 柿 本寺の僧侶の共通の心情の現れ方 であので あろう。そしてその形を完成させたのが室町時代後期の今の本殿である。本殿は室 町 時代の建造物として重要文化財 に指定されている。

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また今 日 、﹁柿本円安茶羅﹂と呼ばれる絵像が残されている 。 ﹁ 柿本長茶羅 ﹂ は今大和文華館に所蔵されているもの で 地域社会の神社成 立に関わる民 間宗教者 の 時 代 ( 浦 西 )

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龍谷大学論集 一 一 四 ある。その内容は、あきらかに祇園牛頭天王社として描かれた絵画である。この絵画上部には日輪が描かれ、重なる 四重の山が描かれる。いわゆる垂迩画である。右丘陵の山には竜王社が描かれている。絵画正面の神社の裏の山が東 大寺山である。その山麓に位置する神社が治道天王社である。四角に板玉垣をめぐらした境内には本社三間の社殿が 建つ。左てにも一間の社が、またその聞に小洞が三つならぶ。本殿右には灯寵が描かれている。本殿のその上に本地 仏が描かれている。右から地蔵・薬師・観音そしてもう一つ左側の一聞社は十一面観音が円の中に描かれている。本 地仏である。三間の社殿は右から八王子、中央は牛頭天王、左が婆利采女が配られていると推定する。そして左にあ るのがおそらくこ最初の機本荘の鎮守である春道社であろう。板玉垣は小高い丘の上の神社境内を取り囲み石段があ りその上に楼門や左右に参簡所がある。参寵所はこのころ農民達が祭礼に集まる宮座の人々の座する場所であろう。 石段の下には十二神将が描かれ、その社がある。石段のもう少し下に土鰻頭が描かれているのが人麻呂の墓にあたる ものであろう。その下に鳥居と建物と左右の建物が描かれている。今日御旅所にあたる場所である。一番下に鳥居が 西向きに描れている。柿本寺は描かれていない。この絵画がなぜ柿本憂茶羅と言われるのかははっきりしないが、明 確に治道天王社でありそれは牛頭天王を描いた事は明白である。この絵画の成立はおそらく室町時代には成立したと 思 わ れ る 。 このように、治道天王社の絵画と社殿が完成したのはおそらく室町時代の農民の成長が大きな一因になっているよ うに思う。そしてその指導的役割を果たした柿本寺の僧侶の果たした役割は大きかったと思う。時代としてはおそら く室町時代中期のことで大きな転換期がやってきているのであろう。東大寺の権門寺院の存在も危うくなってきてい る の で あ 旬 。 そのような時代背景には柿本寺の僧侶も百姓達も最初当述べた﹁牛頭天王縁起﹂の説話に関心を示し心をよせたの であろう。その内容は、富裕な権力者に対して抵抗し、貧しくても慈悲ある人を認めるという、権力者に対する一つ

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のプロテスタントの思想が背景にあるように思う。そのことはとりもなおさず、室町時代の土一撲にも通ずる社会現 象でもあるのである。また、牛頭天王が婆利菜女を訪ねる旅や、竜宮で多くの子供えたことなど、また牛玉によるの ような宝物を出す事など、浪漫的な物語はある意味ではこの時代の農民や商人達が憧れたものなのであろう。このよ うな治道牛頭天王社の絵図は京都祇園社に残る鎌倉時代の神社境内絵図と比べてみてもきわめて類似した構図を持つ 事に気づくはずである。そのことは京都祇園社と東大寺祇園社と襟本荘の天王社との共通する交通や商業のル

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ト が 存在していることを意味する。この門前に商業活動が活発であることを意味する。 今ここで天理市機本の今日、和爾下神社の明治以前の治道天王社の成立を眺めてた。在地百姓等が選んだ神が牛頭 天王であることを指摘し、牛頭天王信仰を持ち歩いた民間宗教者と荘民の聞に、柿本寺にいた僧侶の存在とその立場 について触れてみた。時代は室町期の一五世紀の頃である。ここで在地柿本寺の僧侶の活動の具体的実態について触 れなければならないが今後の課題としておく。 間 最初に紹介した﹁勧請祭文 L がまさに当時の人々が請い願ったものであり、その部分を引用しておく。 一切物怪除。五穀成就。万菓豊儀。疫難消除。牛馬安穏。口舌・争論・厭魅・究岨・非時・中夫・短命・怖 タ 告 へ ノ ヲ キ ヲ ケ ヘ 畏・早魅・水損難皆悉消除・解脱給。福寿・高官栄花開。千秋万歳楽授給。信心大施主・子孫・伴類安穏・泰平 令 ν保給。往昔本誓無 ν 誤令ニ守護-給申。再拝々々。 祇園牛頭天王信仰は、おそらく在地百姓等の成長とあわせて当時発達仕掛けた商品や交通の発達ときわめて関係が深 い。この時代の社会現象として京都の祇園社の御師(民間宗教者)の活動がきわめて歴史的意味を持つのである。も ちろんここでは祇園社の御師のみを言うのではなく念仏聖、山伏、琵琶法師、連歌師、説教芸能のどの活動するいわ ゆる民間宗教者の時代でもあるのである。 ここで述べたかったことは、地域社会の神社の成立が、あまりにも乱暴に古代から、あたかも不変のように存在し 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西) 一 一 五

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龍谷大学論集 一 一 六 ていたかのように考えられている点について注意を促したいのである。その地域社会の神社の歴史の一こまには必ず 寺院が存在しその中の僧侶がいかに関与していたのかを考察してみなければならない点を指摘したいのが主眼である。 同時にその地域社会の僧侶を通じて民間宗教者の活動も可能であるのだ。

まとめにかえて│奈良県田原本の津島神社と年中行事など背景

今、機本で見た祇園牛頭天王信仰の伝播する場所として、在地の百姓等と商工業が発達した地域で有りまたその中 間に、在地寺院の内部の僧侶との存在が認められると述べてみた。民間宗教者の立場からすれば商工業が発達し、そ のつに理解をしてくれる在地僧侶の存在したところでこの祇園牛頭天王信仰の説話が広まるのである。この点をふま えてまとめにかえて次にもう一例見ておこう。 祇園牛頭天王信仰が中世以前の権門寺院の内部に関係しながら発達したであろう事を想定している。そこでもう一 例を奈良県磯記郡田原本に存在する津島神社に関して述べておきたい。 神仏分離の時に津島神社と名称を変えた。それまでは牛頭天王を肥っていたのであるロ本殿三神像が杷られている のも京都祇園社と同じでありまた神宮寺が感神院というのも同じである。あきらかにこの神社は紙園牛頭天王社なの である。なぜこの地に紀られることになったのか。ここでも、室町時代の在地農民や商人達が自分たちの信仰生活を 豊かに発達してきた事を指摘したい。また、在地寺院の僧侶の存在とおそらくその場所で外部からの民間宗教者の結 びつきが認められる。この記録を少し見てゆくと田原本の中に商人職人の存在を認める。﹃大乗院寺社雑寺副﹄を紹 介 し て お く 。 一嘗園檎物座事同相語之近日相論事出来、 物等進之云々、大略経算之披宮人云々、 サ カ 手 座 ハ 檎 物 ヲ 十 方 ニ 持 貰 座 、 間 脚 一 宮 一 一乗院方寄人也、年始以下替

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田原本座ハ檎物ヲ作座也、サカテ座以下ニ貰之主也、大乗院座也、大略十市披宮人也、大乗院方年貢六百文余 也、弊舜奉行之、近来無沙汰云々、 今度雨座相論ハ、吉野之檎物ヲ、直ニサカテ座ニ買之テ貰也、此条田原本座ノ矯難義之問、可停止之由令申之、 猶以無承引問、サカテ座者ヲ白田原本方一一隅人打死了、自皐侶色々及問答云々、 所詮作手与買手相論也、 これは檎の皮を曲げ物にする槍物座の存在とそれを販売する存在である。製造と販売がありそのことはこの地に町 場が形成していたことを意味する。おそらくこれは奈良盆地の中央の京都奈良から吉野への幹線道路の下津道(中街 道)に位置するところから発達したのであろう事が想像される。それは次に示す門前町としてでもあ旬。 一田原本寺者、聖道所号楽団寺也、平坊二十小所計也、坊主入滅以下相替之時、随器用入置之、任析五貫宛出之、 箸尾ト十市ト各度ニ坊主相計入、在々所々ニ交衆法師共在之内ヲ計入者也、面白挺法也、只供僧也、本尊十一 面也、同所ニ律院在之、号慈尊院、本尊弥勅也、僧衆在之、此両寺相讐在之、西方聖道、東方ハ律宗也、聖道 ( 僧 ) ( 秦 ) ( 津 ) 方濯頂連々在之問、法服ケサ・冷人装束・扉風等色々物沙汰置所也、自泰楽寺ハ二十丁計北、下律道ヨリハ西 方也云々、新口モ近所也、 ここにまとまった寺院が存在している田原本寺楽団寺の存在である。 この文章から楽田寺の境内には聖道・律院・慈尊院・坊主・在所在所の法師・交衆・長老・祭礼の用具等の記載が 見られる。﹁在所在所の法師﹂・寸在所在所の交衆﹂・﹁長老﹂・そこには絵物座の職人のいることと田原本南の在地豪族 の存在。そして景観的にはきわめて環濠集落的な所にこの寺院がありまたその境内の中に今日見る寺院の中の祇園社 が成立していることになる。(地図参照②) 牛頭天王社はこの付近は濃厚である。牛頭天王縁起に記された話がそのままではないにしても、田原本町阪手の八 地域社会の神社成立に関わる民間宗教者の時代(浦西) 一 一 七

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J¥ 坂 神 社(牛頭天王社) の 正 月行事 ﹁ ケイチン﹂と いう弓打ち行事の存在。また田原本 町 鍵村と今里 村の﹁綱掛け祭り﹂の八坂 神 社(牛頭天王社)と 薦姪の存在。桜井市江包村 ・ 大西村の﹁綱掛け﹂ などに見る大暴れなど牛頭天王縁起の中身と気分 がきわめて額似していることに気づくはずである 。 こ れ ら の行われる祭礼はきわめて良民的な行事で あり、か つ 民衆のエネルギーが爆発した行事でも ある点、牛頭天王縁起の信仰の一つの表現と考え られる。これらの民俗行事もこの民間宗教者の室 町期の活動の一端ではなかっただろうか。この室 町時代後半の在地の農民の成長と自覚(宮座の成 立)と在地僧侶思想と共に宗教的環境について改 めて述べてみたい。 註

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﹃ 室町時代物語集 ﹄ は昭和九年に償 山 霊らにより翻刻され大岡山書庖から出版されている。ここに所収されている表題 は 寸 & 1 頭 天 王 御縁起﹂と表記されている。巻 子 本。巻末に J 文明十四壬寅年正月二 十 五日白書之宗俊 L と あ る 。 昭 和 コ 一 十七年刊 ﹃ 神道集 ﹄ 河野本

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西 団 長 男 ﹃ 神社 の 歴史研究 ﹄ 昭 和 凹 一 年(神道史研究十一

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二 ・ 三 )

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。目白,}(24)ωi}(22)ωωω(18) 01) 06}(l5)ω (l3) (12)ωω(9) (8)(7) (6) (5)(4) (3) 向 上 ﹃室町時代物語集﹄による。三

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七頁 向上三

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八 頁 向 上 = 二

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頁 松固定一編﹃大和国神社神明帳﹄昭和一五年奈良県史学会 西国長男﹃神社の歴史研究﹄昭和四一年(神道史研究十一ー二・三) ﹃大和名所図会﹄寛政三年秋里離島 ﹃日本古典全集﹄所収並河永﹃大和志﹄ ﹃群書類従﹄十六輯 ﹃天理市史﹄本文編上巻寺院解説 ﹃続々群書類従﹄十一巻 同右 ﹁様荘百姓等申状﹂﹃大日本古文書東大寺文書﹄所収 ﹃大乗院寺社雑寺記﹄に石上村との水論がたびたび記載されている ﹃天理市史﹄本文編上巻寺院解説 ﹁様荘百姓等申状 L ﹃大日本古文書東大寺文書﹄所収 石母田正﹃中世世界の成立﹄昭和二四年は東大寺の庄関経営の終駕が述べられている ﹃続々群書類従﹄十一巻 ﹃ 大 日 本 仏 教 全 書 東 大 寺 編 ﹄ 和田義昭﹁奈良手掻郷祇園会につて﹂(﹃芸能史研究﹄二十四頁) ﹃大乗院寺社雑寺記﹄文明十一年六月十四日 ﹃群書類従﹄十六輯 大和文化華館蔵 石母田正﹃中世世界の成立﹄ 地 域 社 会 の 神 社 成 立 に 関 わ る 民 間 宗 教 者 の 時 代 ( 浦 西 ) 一 一 九

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龍谷大学論集 (29) (28) (27) 西国長男﹃神社の歴史研究﹄昭和四一年(神道史研究十一

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二 ・ 三 ) ﹃大乗院寺社雑寺記﹄文明三年二月六日 ﹃大乗院寺社雑寺記﹄明応七年正月二十六日 キーワード 紙園天皇信仰 天理市機本 治道天皇社 民間宗教者

一 ニ

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機庄百姓等申状

参照

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