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真宗教学研究 第31号(2010)

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ISSN 1346-2156

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親驚と現代

『教行信証

J

の課題一一

講 演 『教行信証』成立史の諸問題 建永の法難と『教行信証』後序 研究発表 真宗における真実と方便の一考察 i願車z:入の思想、を手がかりとしてー 御遠忌テーマの願いと課題 『教行信証』公開の動向 明治期の大谷派宗門に注目して 善導の六字釈について 曽我量深の「現在」観 「如来表現の範鴫としての二主心観」を中,Lに、 真宗教学学会講演会 念仏と仏性 委託と応答 2009年度教学大会発表要旨

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6 月

真 宗 教 学 学

草 野 顕 之 l 平 雅 行 18 嵩 j毎 史 37 茨 田 通 俊 48 後 藤 智 道 63 市 野 智 行 79 楠 寛 大 93 下 回 正 弘 104 幡 谷 Z》、 ~ 明 122 159

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講 I寅 真宗大谷派教学大会 二

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九年度

成立史の諸問題

『教行信証J成立史の諸問題 皆さんこんにちは。ただ今ご紹介にあずかりました、 草野顕之でございます。 真宗大谷派教学大会のこの三年間のテ

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マが﹃教行信 証﹄ということになりまして、本年、来年、再来年と御 遠忌までに三回の大会が催されますが、今年は一年目と いうことで、歴史系の方から﹁教行信証﹄の問題に迫っ て欲しいという御依頼を受けました。 それで、先程御紹介にもありましたように﹁親驚伝﹂ ということには少なからず関心を持っていまして、これ までも幾っか文章にも致しましたし、あちらこちらでお 話をさせて頂く機会もございましたが、﹃教行信証﹄と いうことについては、実は正直申しまして、このお話を 早

いただくまで、特に考えたことはありませんでした。 そこで、この御依頼を受けました時にはいささか遼巡 したのですが、お断りする訳にもいかないということで 考え始めました。それで、この﹁﹃教行信証﹄成立史の 諸問題﹂というタイトルは、今年の春頃に出してくれと いうことで、とりあえず出してみたのですが、現実問題 として、一体本日の話がどうなるのかという見込みが、 余りないままにタイトルを付けてしまいました。ですか ら本日は、このタイトルに応じたお話が出来るかどうか、 甚だ心許無いところでありますが、しばらくの間お聞き いただけたらと思います。

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2 そこで、まず戦前から戦後にかけて行われました ﹁﹃教行信証﹄成立史﹂の研究が、どのような先生によ ってどのような形で進められてきたのか、ということを 簡単に見ていきたいと思います。そしてその研究史の整 理の中から、現在、どういう問題が残っているのか、そ ういうことについて歴史学的な見地からお話をさせて頂 き た い と 思 い ま す 。 そこでまず、これまでの研究というものを見てまいり ますが、そこで一体何が課題になっていたのか、という ことを、全て取りあげる訳にもまいりませんので、何人 かの先生のお仕事というものを一括りにして、見ていこ う と 思 い ま す 。 そこで、最初に取りあげますのは、大谷大学の大先輩 であります山田文昭先生の﹁教行信証の御草本に就て﹂ ︵ 一 九 一 回 、 ﹁ 無 尽 燈 ﹄ 一 九 ノ 四 ︶ と 、 そ れ か ら 非 常 に 著 名 な論文ですが、辻善之助先生の﹃親驚聖人筆跡之研究﹄ ︵ 一 九 二 O 、金港堂書籍︶であります。この辺りが、大体 一九一四年、そして二

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年のもので、明治以降に近代的 な 歴 史 学 が 我 が 固 に 始 ま っ て 、 世 界 、 宗 史 の 世 界 に も そ う い う波が押し寄せてきて、そういう中で実証的な歴史学の 中に﹃教行信証﹄の問題が投げ込まれた時代だと思いま す 。 要するに、この時期の﹁教行信証﹄研究の課題は何で あったかというと、皆さん良くご存知のいわゆる﹁親驚 不在説﹂です。この時期は丁度、親驚聖人の史料がほと んど宗内にしか存在せず、宗外史料がほとんど見られな いということで、親驚は実在しないという事がささやか れていた、と言われています。そういう中で、大谷派を 始め本願寺派、或いは特に高田派の本山には、多くの親 驚真筆と言われている文献が残っていた訳ですから、そ ういうものを分析・検討することによって、親驚の実在 をはっきりさせようという問題関心が、この時期にはあ り ま し た 。 山田文昭先生はいち早く、大谷派に所蔵されている ﹁坂東本﹂が親驚真筆であるということを明らかにされ ました。そして、その四年後に辻善之助先生が、東西本 願寺、また高田派の専修寺に残されている多くの親驚の 筆跡を比較検討して、親驚の筆跡を確定するというお仕 事をなさいました。この辻先生の本によって、親驚の実 在 と い う の が 学 問 的 に も 定 着 し た と 一 三 一 円 わ れ て お り ま し て 、

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『教行f言証』成立史の諸問題 この時期の課題というのが、親驚の筆跡を比定する、こ ういう問題関心で研究が進められていたと考えられるの で す 。 続きまして、そういう研究を一変させたのが、これも 有名な研究者ですが、中沢見明氏です。﹁史上之親驚﹄ ︵ 一 九 二 二 年 、 洛 東 書 院 ︶ と い う 非 常 に シ ョ ッ キ ン グ な 、 ある意味でセンセーショナルな親驚伝研究を出されまし た。その中では、それまで﹁教行信証﹄は元仁元年二 二二四年︶という年次が見られることから、この年を ﹃教行信証﹄成立の年として、大谷派、本願寺派以下の 各派は、立教開宗の年と位置づけていたのですが、その ことに疑問を提出され、﹁史上之親驚﹄では﹁教行信証﹄ の 書 写 が 、 ︷ 玉 治 元 年 ︵ 一 二 四 七 年 ︶ と 建 長 七 年 ︵ 一 二 五 五 年︶という二つの時期に行われているが、そのこ回の書 写は京都の門弟の方が先であり、関東の門弟の方が後に なっていることに注意されました。このことから、﹃教 行信証﹂は、実は親驚が京都に帰って来てから撰述され たのではないのか、という大胆な説を出されたのです。 同じ中沢先生は、後に﹃真宗源流史論﹄︵一九五一、法蔵 館︶という遺稿集に収録されることになる﹁高田専修寺 所 蔵 の 見 聞 集 と 教 行 信 証 成 立 の 時 代 に 就 い て ﹂ ︵ 一 九 三 三 一 、 3 ﹃高田学報﹂七︶という﹃高田学報﹄初出の論文におい て、専修寺蔵﹁見開集﹄で確認される﹁五会法事讃﹄の 一部が﹃教行信証﹄に引用されているのだから、その ﹃見聞集﹄成立以後に﹃教行信証﹄が成立になるのだと 主張されました。こうした手法は中沢先生が最初に採ら れたのではないかと思いますが、﹃教行信証﹄に引用さ れている要文が、いつ頃親驚の目に届いたのかという観 点から、成立の時期を推定されています。そして、これ も帰洛後を示しているから、帰洛後撰述説を補強する材 料になるのだという形で、この論文をまとめられており ま す 。 一方で、この時期までの問題、特に戦前の一つの大き い問題としであったのは、﹁教行信証﹄の親驚の真筆は どの本なのかという問題でした。この頃は、坂東本を始 めとして、西本願寺本、高田本、この三本が聖人の真蹟 として通用していましたし、辻善之助先生もこのコ一本と もに親驚真蹟であるという形で認定されておりました。 真筆はいずれであるかという問題と、それから撰述年 代をめぐる問題が、始めてこの時期に研究の端緒につい てきた、そういう時期であったと考えています。そうい う 中 で 東 北 大 学 ︵ 当 時 の 東 北 帝 国 大 学 ︶ の 鈴 木 宗 忠 氏 は 、

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4 大学の機関誌である﹃文化﹄に﹁教行信証の真蹟本につ い て ﹂ ︵ 一 九 三 一 八 、 ﹃ 文 化 ﹄ 五

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一 一 一 ︶ を 発 表 さ れ て 、 辻 先 生 が東西本願寺・専修寺本いずれも親驚真筆としたことを 批判し、真筆と認めるべきものは坂東本のみであり、他 の本は門弟の書写本であるということを主張されました。 このうち高田本につきましては、その後、高田派の学者 であります生桑完明先生が、内部から、親驚の真蹟では ないことを発表され、親驚の弟子専信の書写であること を明らかにされました。そして、それが重見一行先生に よって批判されると、平松令三先生が改めてその筆致を 検証なさり、最終的に高田の真仏の筆であると主張され ました。高田本については、こういう経過を辿って、現 在、真仏筆ということで落ち着いています。一方、西本 願寺本については、内部から親驚真蹟ではないと言われ る学者が出てこられないという関係から、鈴木氏が真蹟 ではないと言ったにも関わらず、暖昧のままに置かれて い っ た よ う で す 。 戦後になって、急速に﹁教行信証﹄成立についての論 考が相次いで、刊行されることになります。それは、戦 前から問題になっていた伝統的な﹁元仁元年成立説﹂と、 中沢見明氏が主張する﹁帰洛後撰述説﹂という大きい二 つの成立に関する説を、どう解釈するかということにつ いての様々な研究が、まず出されてきます。 結城令聞氏は﹁﹃教行信証﹄に於ける﹁信巻﹂別撰論 孜 ﹂ ︵ 一 九 五 一 、 ﹃ 印 度 仏 教 学 研 究 ﹄ 一 ー ー 二 と い う 論 文 を 出 されて、﹁信巻﹂が別撰されたことを主張しました。そ の根拠として、一つは﹃顕浄土真実教行証文類﹄と ﹁信﹂という文字が当初の名前に無いこと。また、﹁信 巻﹂にだけ別に﹁序﹂がついていることをあげ、﹁信巻﹂ が独立した形態を成していることから、確かに﹁信巻﹂ は帰洛後に成立されたものである。しかし、元仁元年と の年紀のある部分は、文字通り元仁元年に書かれたはず だという形で、元仁元年成立説と帰洛後撰述説というも のの矛盾を解消する議論をされました。結城先生のこの 研究も、相当に学会の議論を呼んだようでございまして、 その三年後に﹃教行信証撰述の研究﹄︵百華苑、一九五四 年︶というものが、西本願寺から出されまして、いくつ もの論文が載せられているのですが、その中でも特に私 が注目したいのは、小川貫弐先生の論文、それから宮崎 円遵先生の論文です。宮崎先生の﹁親驚の立場と﹁教行

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信証﹄の撰述﹂から先に簡単に触れておきますと、宮崎 先生も実はある意味で、元仁元年成立説と帰洛後撰述説 をどのように矛盾なく了解していくかという問題意識で 論文を作られておられるようです。宮崎先生は、元仁一冗 年の年紀は、比叡山から専修念仏停止の奏上が出された 丁度その年であり、それを批判するために起草されたの が元仁元年との年紀をもっ﹁化身土巻﹂であるとされて い ま す 。 『教行信証j成立史の諸問題 そ し て 、 も う 一 つ の 問 題 と し て 、 ﹁ 行 巻 ﹂ 、 ﹁ 信 巻 ﹂ 、 ﹁化身土巻﹂に引用される﹁楽邦文類﹂の流布という観 点から、帰洛後の文暦元年︵一二三四︶から嘉禎元年 二二三五︶頃に加筆されて、そして尊蓮という洛中門 弟が書写する寛元五年︵一二四七︶に﹃教行信証﹂は改 正されたのだ。こういう解釈で元仁元年という年紀と、 それから帰洛後でしか見られないであろう経典類の引用 という問題を、どう矛盾なくとらえるかという観点から、 宮崎先生はこの論文を発表されたのです。 これに対して、宮崎先生と同じ本の中で新たな展開を 切り開かれたのが、小川貫弐先生です。この小川先生に 始まり、赤松俊秀先生、或いは重見一行先生につながる ﹃教行信証﹄研究の流れは、まさしく文献学的、或いは 5 書誌学的な詳細な﹃教行信証﹄検討の歴史、こう言って もいいと思います。その先駆けが小川貰え先生の﹁阪東 本﹃教行信証﹄の成立過程﹂という論文で、丁度この少 し前に西本願寺の本願寺修学院が坂東本の調査をなさっ たようで、その時の調査結果を基に、坂東本の行格︵一 頁 に 何 行 記 さ れ て い る の か 、 ま た 一 行 の 字 数 は ど れ 程 あ る の か︶という書誌学的、文献学的な観点を導入し、また注 記 の 形 式 や 、 ﹁ 閥 画 ﹂ と 言 、 っ 一 角 抜 い て 書 か れ た 文 字 が 、 どのようになされているのか。それからおそらく小川先 生から始まったのだろうと思いますが、閥字の問題など を検討されます。結局、小川先生は坂東本﹃教行信証﹂ の筆蹟を実に七種類に分類して、特に八行本文と言われ ている一番古いであろう執筆部分を基にした草稿本・初 稿本というものを想定されます。そこだけがまずまとめ られた初稿本と想定される。そして、それを写したのが 坂東本であり、その後さらに修正を加えていったと考え られて、初校本の想定、それからの転写の時期について は、その記述を文暦二年二二三五︶から嘉禎三|三年 ︵一二三六二三石︶頃と考え、大改訂が仁治三年︵一 二四二︶以前、そして洛中の門弟である尊蓮が書写した という宝治元年︵一二四七年︶の前年には、脱稿してい

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6 たのではないかという成立史を提示なさいました。 こうした書誌学、文献学的な観点を導入して、詳細な 検討を経て坂東本﹃教行信証﹄の成立を整理し、そこか ら翻って初稿本の想定ということがなされたという意味 で、小川先生のお仕事は非常に大きな意味をもちました。 こうした文献学、書誌学的な観点を導入して、特に坂 東本﹃教行信証﹄の成立過程を追っていくという研究は、 その後、赤松俊秀先生に継承されたと見ていいと思いま す。赤松先生は、丁度この頃、坂東本が修理されること になり、その監修を務められることになりましたから、 その時に詳細に坂東本の書誌的検討を行われました。例 えば装丁、それから三種類あるということは昔からよく 言われている料紙の質、さらに筆致の相違、宗祖白身の 筆致がどういう風に変わっているのか、それから多くの 添削があることもよく知られていますが、その添削の方 法、等々について詳細に検討を加えられました。そして、 やはり結論は小川先生に非常に類似しているのですが、 坂東本というものは転写本であるといわれます。何かか ら写されたものであるが、それは寛喜三年二二一三年︶ 以前に成立していた初稿本というものが、その前提とし て想定される。坂東本の当初の書写部分は、丈暦二年 ︵ 一 二 三 五 年 ︶ 頃 の 筆 致 、 書 き 直 し 部 分 は 康 元 元 年 ︵ 一 一 一 五六年︶頃の筆致、というように、小川先生の研究を受 け継ぐような形で、赤松先生も報告をなされました。 そうして、そういう文献学、童日誌学的な手法を突き詰 められたのが、やはり重見一行先生の﹁教行信証の研 究﹄︵法蔵館、一九八一年︶だろうと思います。重見先生 の特徴は、坂東本だけの分析・検討ではなくて、古くは 真蹟と言われていた西本願寺本や専修寺本、それからそ れ以外の大学の図書館や各地の寺院に所蔵されている ﹃ 教 行 信 証 ﹄ の 写 本 を 一

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本以上対校されているのです。 数多くの書写本を検討しまして、それを大きく六冊本系 と八冊本系に、細かくは四種又は五種に﹃教行信証﹄の 系統が分類出来ることを明らかにされ︵この辺は内容の部 分 に よ っ て 少 し 書 き 方 が 違 い ま す の で 、 ど う 受 け 取 れ ば い い の か、私も理解し難いところもあるのですが︶、書写本の系統 を明らかにすることによって、その成立過程を明らかに しようという手法で臨まれています。 重見先生が特に重視されましたことは、﹁字形の異同﹂ ということです。すでに小川先生の時代から、宗祖の帰

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『教行信証』成立史の諸問題 洛直後の時期の筆と一

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年以上経ってからの筆という形 で、いわゆる前期筆跡とか後期筆跡という言われ方がこ の頃からされていますが、ともかく帰洛直後の筆跡と、 それからしばらく経ってからの筆跡が随分変化している。 その字形の異同をより詳しく検討することによって、坂 東本の持つ前期筆跡と後期筆跡の字形の違いを明らかに され、それを西本願寺本等と対照されて﹃教行信証﹄の 構成を推定され、専修寺本の祖本である専海書写本が完 成本を示すという結論を得ておられます。 こういう形で﹁教行信証﹄の成立史というものは、戦 前から戦後にかけて発達してきました。もちろんここで 取り上げていない先生方の論考も数多くあって、甚だ失 礼なのですが、例えば大谷大学の先生で言えば藤島達朗 先生、或いはもう少し昔の日下無倫先生、或いは家永一二 郎先生、古田武彦先生等々、数多くの先生がこの﹃教行 信証﹄の成立ということについて、非常に熱っぽい議論 を戦わされてきたということが、改めて今回こういう形 で整理する中で分かってきました。 それ以降の現在までの研究で、特に重見先生の研究が 出て以来、本格的な﹃教行信証﹄成立に関する書誌学的、 文献学的研究というのは、ほとんど見られなくなります。 7 単発的に何人かの先生が成立史に触れられることはあっ ても、それが大きく話題を呼んだり、或いは議論に議論 を積み重ねて、その問題が深まってきているというよう なことは、研究史的には無いように思われるのです。 何故そうなったかということを少し考えてみますと、 やはり重見先生の研究というのが大変な力作であったこ とがあろうかと思います。一読されるとお分かり頂けま すが、私も講演の準備をやり始めてから二度ほど通読致 しましたが、まだ頭にきちんと入つてないほどです。大 変詳細に写本の系統を分けられて、文字の異同を分析さ れ、また字形を比較されて、そして﹃教行信証﹄の成立 はこうであるとおっしゃっていますが、結局まだ、私自 身重見先生がなされたことの全体を消化し切れていない ほどです。これは、私の頭が悪いせいかなとも思いまし たが、ひょっとすると重見先生の本を読んだ人は、皆理 解しきれないのではないかなとも考えました。本当にこ の本をきちんと理解して、重見先生の言われる﹃教行信 証﹄成立史に、何か物申そうとする人は、余程しっかり とこの問題を考えていかなければ、とても出来なかった のではないでしょうか。 しかも重見先生は、 一

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本に余るような書写本を分

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8 析・検討されているのですが、それを私どもが手元に写 真版で置こうとするだけでも、どれだけ大変なことかと 感じられます。そこまでの努力をはらって、重見先生が 提起された﹃教行信証﹄の成立史、或いは坂東本、西本 願寺本や高田本の位置づけを覆すというようなことは、 なかなか後の研究者には出来なかったのではないか、と い う 気 が し て な り ま せ ん 。 ただ、重見先生にいたる﹃教行信証﹄の研究史で明ら かになったことを、私なりにある程度整理してみますと、 どうやらこれくらいは言えるだろうと思うことは、以下 の よ う な こ と で す 。 それは、﹃教行信証﹄の書誌学的、文献学的研究をな さった小川貰え先生、赤松俊秀先生、それから重見一行 先生、これらの先生方の分析研究の結論として得られた ことは、坂東本﹁教行信証﹄の、特に一頁八行の部分、 最も古い筆跡、だといわれているこの部分には、元になっ た初稿本の存在を想定しなければならない、ということ で は な い か と 思 い ま す 。 坂東本自体が草稿本であるというようなことも言われ ていますが、その草稿本である坂東本の前に、初稿本の 存在を置くこと、これはいずれの研究者も、やはり押し 並べて認めているところです。ただし、初稿本という名 前を付けられたのはおそらく小川先生であり、例えば赤 松先生はこれを﹁原教行信証﹂と呼んでおられますし、 それから古田武彦先生は、初稿本と呼ぶのはおかしいの で、﹁書写原本﹂とすべきだと言っておられます。 このように、坂東本﹁教行信証﹄の中でも最も古い筆 致であるとされる八行本文の前提としての初稿本、或い は﹁原教行信証﹂、﹁書写原本﹂、どういう表現をしても 同じことなのですが、ある程度まとまった形の﹁原教行 信証﹂的なものが存在したこと、これはいずれの先生も やはり認められているのではないかということです。 それからもう一点、他の先生方の様々な議論を見てい き ま す と 、 初 稿 本 、 或 い は ﹁ 原 教 行 信 証 ﹂ 、 ﹁ 書 写 原 本 ﹂ 、 そういうものの存在を前提として、何人かの先生が言わ れていることですが、様々な経典からの抜き書きが修正 されていますから、そういう要文を抜き書きしたものが 複数宗祖の手元に蓄積されていて、そういう抜き書きを 編纂する形で、当然のことながら初稿本は出来上がって きた。こういう成立過程は、二応多くの方が認めている 考え方であろうと、こう整理できるのではないかと思い ま す 。

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ところが難しいのは、それではこういう経緯で﹃教行 信証﹄坂東本が出来上がってきたと仮定して、それでは どの段階を﹃教行信証﹄の成立と考えるのか、という問 題です。そういう疑問が起こりました時に、ちょうど古 田武彦先生の﹁親驚思想ーその資料批判

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﹄ ︵ 一 九 七 八 年 、 富山房︶を見ておりましたら、以下のように仰っていま し た 。 『教行f言証J成立史の諸問題 かつて﹁初稿本﹂のごとくに目途せられ来った坂東 本が、その実けっして然らざりしことの判明したよ うに、この坂東本八行本文の﹁書写原本﹂も厳密に 言って、はたして真に﹁初稿本﹂なりや、それとも 再 稿 本 、 二 一 稿 本 の 類 に な り や 、 こ の 点 に 関 し て は 、 何らの実証的保証は存しない 口調は少し古い文体ですが、要するに初稿本とか﹁書 写原本﹂と呼ぶべき一本が、仮に坂東本の前提として認 められるとしても、それが最初のきちんとした形の本か、 それともこれが二回目に編纂された本か、三回目に編纂 された本か、そういうことは全然実証出来ないというこ とです。﹃教行信一証﹄成立史ということを私が掲げてこ こまで考えてきて、結局こういう一文に出会うと、では 成立史研究は音 9 わざるを得ないような、そういう発言まで、 な さ っ て い る の で す 。 私はこのことは、﹃教行信証﹄の成立ということと、 坂東本の成立ということが、研究者の中で混乱をきたし た結果ではないかと考えています。つまり、坂東本の成 立を明らかにすれば、それが﹃教行信証﹄の成立を明ら かにしたことになるかのような錯覚を生んでしまったの ではないかと思うのです。それもこれも重見先生の責任 に帰すのはどうかと思いますが、やはり重見先生があれ だけ詳細に分析をされたということが、実はそこまで研 究者の目を惑わせたのではなかったのでしょうか。﹃教 行信証﹄成立史は重見先生の研究で終わりだ、というよ うな考えに研究者が陥ってしまい、本当は別のことであ る﹃教行信証﹂の成立と坂東本の成立を一緒くたにして しまったのではなかろうかとも思うのです。それほど重 見先生の研究というのは、大変なインパクトを持ってい たのではないかということです。 古田先生は 四 以上の話しをして今日は終わろうと思ったのですが、 それだけではやはり自分自身の研究とは言えないような

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10 気がしますので、今私が考えている﹃教行信証﹄成立史 についての一つの視点を、残りの時間で喋らせて頂きた い と 思 い ま す 。 先程から申し上げているように、坂東本が現実に存在 する。それに前提する初稿本というのが想定される。し かしこの初稿本とて、いきなり冒頭から親驚聖人がどん どん書いていけるものではないと思います。当然のこと ながらその前には、要文の抜き書きが手元にたくさん蓄 積されていて、この要文とこの要文とつないでいければ、 こういう問題に対応出来るのではないか、という考え方 で、宗祖が要文の抜き書きを沢山準備されていた。これ は一般的に、あれだけ大部の本の成立ということを考え れば、当然あってもいいことだろうと思います。 私がどういう情況をそこから連想するかといいますと、 何故その要文を抜かなければならないのか、何故この部 分が大事だとその時々に宗祖が考えられたかなのです。 個々の要文を宗祖が抜き出される、そのもう一つ前提を 考えてみれば、そこには宗祖のその時々のお考え、何か 現実的な問題に直面して、この問題を一体どのように経 典に尋ねていけばいいのだろうか、ということを宗祖が 考えられたという情況があったのではないか。そういう 中で、それに対応する経典の部分を尋ね当てられて、抜 き書きされる。私はそういう成立過程があっても不思議 ではないと考えています。 それでは、そういう現実的な宗祖の例えば門弟達との 関係、或いは門弟達との会話、そういうものがどういう 形で検証出来るのだろうかということです。私は近年、 先程のご紹介にもありましたように、親驚伝に強い関心 をはらってきましたが、その親驚伝は、これまでのよう に﹃御伝秒﹂や﹃恵信尼消息﹄といった一級史料で組み 立てられた親驚伝ではなく、各地に残っている親驚伝承 を如何に史実として復元出来るか、という試みを幾っか やり始めています。この方法が今申し上げたような問題 になりはしないかと思って、以下少し、私が今関心を持 っている史料を挙げてまいりました。 まず﹃遺徳法輪集﹄と言いまして、江戸時代に全国の 親驚聖人の遺跡を巡拝した願楽寺宗誓という人が、越後 の国の蒲原郡弥彦庄鳥屋野というところで、採集した伝 承を書き留めたものです。これは、皆さんよく御存じの ﹁越後の七不思議﹂と言われている中の﹁逆さ竹﹂の伝 承 で あ り ま す 。 この処は聖人三人御逗留ましましき、 しかるに邪見

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『教行{言証』成立史の諸問題 放免の族初て御教化にあっかれとも狐疑の惑をいた いて信仰せず、誹誇の唇をめくらして悪罵するもの 瓦磯のことく荊赫に似たり、しかれとも柔軟慈悲の 聖人におはしませは、いよいよふかくこれをあはれ たまひ、種々に教えたまへは、岩木にあらぬ人情の 終に改悔の袖をうるほし、信順するのともから、稲 麻におなしく竹葦に等しけれは、聖人もよろこひた まひけり、あるときこの地に紫竹の御杖をさしこみ たまひ呪してのたまはく、竹木心なしといえとも、 我すすむるところ仏意にかなはば、ふたたひ繁茂せ よとのたまひしに、不思議なるかなや、その杖根芽 を生し枝葉さかさまにそ茂りける、これによりて諸 人いよいよ聖人を信仰したてまつりけり こういうお話で、よく知られています。新潟県に行っ て鳥屋野というところで人々を教化していたけども、彼 等は、﹁それは何の話だ、うそだろう﹂と一言って、全然 宗祖の話をを聞こうとしない。あまつさえ、その教えは 間違っていると、誹誘の唇をめぐらす人までいたとあり ます。ところが親驚聖人はそれに懲りず、何度も何度も ひたすら教化活動をしていたら、ついに﹁岩木にあらぬ 人情の、終に改悔の袖をうるおし、信順するのともがら、 11 稲麻におなじく、竹葦に等しければ﹂とありますから、 親驚聖人の教えを聞く人々が段々増えてきた。そこで親 驚聖人は喜んで、自分が持っておられた杖をその土地に 差し込んで、私の説いている教えが仏意に叶うものなら ば、芽を出し葉が茂れとおっしゃると、そこから芽が出 て葉が出てきた。ところが杖というのは太い方を手に持 っていますから、天地が反対なのです。杖を押し込んで、 葉が出できたら逆さ向きであったというのです。それで 逆さ竹と一百うのだというお話です。前々からこの件につ いては関心を持っていました。というのは、この話は、 江戸時代の伝承ではなくて、かなり古い伝承なのです。 といいますのは、﹃反古裏﹂という戦国時代に出来た 記録の中にはすでにこの話が載っています。江戸時代に、 宗祖の史蹟巡拝が盛んになって、それから作り出された 話ではないのです。実はそのはるか以前の中世からこの 話は残っている。こういう話をしたり書いたりしていま したら、大谷大学の織田顕祐先生から大変な御示唆を受 けました。この話は宗祖が﹃教行信証﹄の﹁信巻﹂に書 いておられる誇法とか一間提の往生に関する問題の比聡 ではないですか、との示唆を受けたのです。そこで私も 慌てて調べてみますと、﹃教行信証﹄の﹁信巻﹂に﹁浬

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12 般市経﹄を引いて、以下のようなことが載っています。 そ れ 仏 、 難 治 の 機 を 説 き て 、 ﹃ 浬 般 市 経 ﹄ ︵ 現 病 品 ︶ に 言わく、迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。 一つには誇大乗、二つには五逆罪、三つには一関提 なり。かくのごときの三病、世の中に極重なり。 以下は省略いたしますが、要するに仏になれない人に つ い て ﹃ 浬 般 市 経 ﹄ に は 、 三 一 つ の 治 し が た い 病 が あ る と い う形で表現されています。一つは大乗を誇るもの、です から先程の例で言えば、唇をめぐらして悪罵をなすもの ですね。それから二つ目には五逆罪、これは今回は触れ ませんが、三つ目には一間提。これは要するに仏性がな い、教えを説いても聞く気がない、聞く耳を持たない。 先程の﹃遺徳法輪集﹄の中で言われていた、まさしくそ の仏法を全く聞く気を持たない、そういう人が﹁教行信 証﹂の﹁信巻﹂の中に往生出来るかどうかという議論が なされています。そして、典型的にはその後半部分の ﹃法事讃﹄からの引文ですが、こうあります。 また云わく、永く識嫌を絶ち、等しくして憂悩なし。 人天、善悪、みな往くことを得。彼に到りて殊なる ことなし、斉同不退なり。何の意か然るとならば、 いまし弥陀の園地にして、世鏡王仏の所にして、位 を捨てて家を出ず、すなはち悲智の心を起こして、 広く四十八願を弘めしめたまいしに由つてなり。仏 願力をもって、五逆と十悪と、罪滅し生を得しむ。 誘法・闇提、回心すればみな往く このように﹃法事讃﹄を引かれて、誇法の民であって も、一間提のものであっても心をひるがえして法を聞く ようになれば、皆往生出来るのだということが、﹁信巻﹂ の後半部分の特に大きい謀題として延々と述べられます。 そうすると、こういう引用を親驚聖人が様々な経典か ら、何故抜き書きしようとされたのか。それは現実的に は、そういう人達を間近に見られていたからではないの かと思うのです。それは、例えば関東へ行かれでも、山 伏弁円の話などでも全く一緒なのです。山伏弁円も親驚 聖人の教えをまったく聞こうともせず、あまつさえ憎ん で殺そうとする伝承です。そういう人が越後や、関東に たくさんいた。そういう人を見ながら、彼らは救われる のか救われないのかという親驚聖人の大きな課題があっ たのではないでしょうか。そこで、このような誘法・一 間提は救われるのか否かにかかわる要文を引かれる契機 になったと、こう考えることは出来ないだろうかと考え て い ま す 。

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『教行信証』成立史の諸問題 次の史料も﹁遺徳法輪集﹄ですが、これも非常に俗っ ぽい話としてこれまでの歴史学者は、ほとんどこういう ものを史料として使おうとしなかった話です。これはい わゆる幽霊済度です。 この厭良先祖を与八と申しけるに、その妻難産にて 命おはれり、是非なく塚につきけるにその夜より幽 霊かたちをあらはし泣叫声村里にひびき、諸人おの おの怖けり、与八これをかなしみ諸山の法師を請し 種々に穣へとも詮なく、護摩の煙は空に設設けとも 印 な し 、 : ・ ︵ 中 略 ︶ ・ : 然 る に 聖 人 鹿 島 へ 御 越 の 棚 、 この里をすきさせたまふをきき、与八この旨を申し 奉り、哀れねかはくは御済度なしたまへとて聖人を 屈請いたしけれは、不便に思しめすとて、小石をあ つめよと仰けれは、与八一族を具し近辺の小石を拾 ひもちきたれり、聖人三部経をのこらすかき写した まひ、これを塚に埋よと仰せられ御立なされけり、 与八これをいただきかの塚につきこめしに、その夜 の暁与八ならひに一族の夢に見えて告ていはく、我 愛執のなみにただよひ、夜々諸人を携しけるに、昨 日聖人の御化益によりて往生を遂るなりとて光をは な ち て 西 に 去 ぬ 、 : ・ ︵ 省 略 ︶ ・ : 13 これは常陸国の厭良というところに与八︵喜八とも︶ という者がいたが、その妻が難産で亡くなったためお墓 に埋めたら、毎晩、泣き叫ぶ声が村中に聞こえてきたと いいます。いろんな験者を呼んでそれを鎮めようとしだ けれども全然効果がない。そこで、親驚聖人にお願いし たら、﹁石を持ってきなさい﹂と言われたので集めてく ると、それに三部経を書かれて﹁これを塚に埋めなさ い﹂と言われて立ち去られた。そこで石を墓に埋めると、 その夜の夢に﹁私は聖人の化導によって往生することが できた﹂と言って、西方に去っていったという話です。 こういう話は俗的な話として、これまで歴史研究者は ほとんど触れることはなかったのですが、これとてよく よく考えてみれば、非常に関係のありそうな話が実は残 っているのです。それが﹃恵信尼消息﹄です。いわゆる ﹁寛喜の内省﹂としてよく知られているお話なのですが、 次のようなことがあったと記されています。 親驚聖人がある時、熱を出されます。その大変な熱の なかで﹁まはきであらん﹂とおっしゃいます。つまり ﹁もう、そうしよう﹂といわれたのです。そこで恵信尼 が﹁どうしたんですか、たわごとですか﹂と聞くと、 ﹁いや、そうではない。寝込んでから二日目から大経を

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14 休むことなく読んでいた。これはどうしたことだろう、 念仏を信じること以外何が心にかかるのだろうかと、よ くよく考えてみると、十七・八年前に衆生利益のために 三部経を千回読請しようと発願したことがある。しかし、 自ら信じ人に教えて信じさせることが仏思に報いること と信じながら、名号の外に何が不足で経を読もうとした のかと思い直して読むのをやめた。そういう気持ちが今 も少し残っていたのか、人の執心・自力の信は十分に注 意しなければならないと反省して、﹁もう、そうしよう﹂ と言ったのだ﹂と答えられたと言います。これが﹁寛喜 の 内 省 ﹂ で す 。 つまり、十七・八年前に佐貫という所で、衆生利益の ために三部経を千回読諦しようとした行為と、石に三部 経を書きつけて﹁これを塚に埋めよ﹂と言われて、幽霊 がいたかどうかは置いておくとしても、人々を救済しよ うとされた。つまり、いずれも三部経の功徳による人々 の救済ですが、これはさほど大きな違いではないと考え て い ま す 。 この厭良での出来事は、親驚聖人の五

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才前後のこと だと言われています。そして、その頃の聖人の課題とし ては、﹁三願転入﹂の問題があったのではないでしょう か ここをもって、愚禿釈の驚、論、王の解義を仰ぎ、宗 師の勧化に依って、久しく万行・諸善の仮門を出で て、永く双樹林下の往生を離る、差口本・徳本の真門 に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しか るにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転 入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往 生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。 ここに久しく願海に入りて、深く仏恩をしれり。 親驚聖人における聖道門から浄土門への大きい転換は、 法然上人との出会いによって実現するのですが、それが ﹁万行・諸善の仮門﹂︵第十九願︶から﹁選択の本願﹂ ︵第十八願︶への帰入と言われています。そこで、問題 となるのが﹁善本・徳本の真門﹂︵第二十願︶の意味です。 安富信哉先生の御著書などを拝見いたしますと、第二十 願の存在によって人の執心・自力の信に対する反省がな され、第十八願への帰入を親驚に促していると言われて います。第十八願と第二十願というのは、そういう関係 にあるのだと説明されておられますが、﹃教行信証﹄の ﹁化身土巻﹂に三願転入を掲げるような前提には、そう した人の執心・自力の信の問題を経験された関東での親

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驚聖人の立場が反映していたのではなかろうかと思われ るのです。そうしますと、﹁教行信証﹄のこの部分、或 いはこの部分に関わる引文に、そういう体験というもの を想定するのはどうだろうか、というような事も考えら れ ま し ょ う 。 『教行信証』成立史の諸問題 最後の﹁真仏因縁﹂の問題ですが、これは要するに、 本地垂誠一説というか神仏関係の問題であります。﹃親驚 聖人御因縁﹄に含まれる﹁真仏因縁﹂は、﹁御伝紗﹄で は﹁熊野霊告﹂という話になっていますが、それは平太 郎という人物が熊野に詣でることになり、親驚聖人にそ のことを尋ねるために京都のお住まいを尋ねます。する と親驚聖人は、﹁熊野の神の本地は阿弥陀如来であるか ら、仕事としていくのはやむを得ない。ただ、賢善精進 の姿はするべきではない﹂とおっしゃるのです。そこで、 穣れた姿で平太郎が熊野にお参りすると、その夜の夢に 熊野の証誠殿の神が現れて、﹁何故お前は私をないがし ろにして、被れた姿で参詣するのだ﹂と平太郎を責めま す。そこへ親驚聖人が現れて、﹁この者は、私の教えに よって念仏をしているのです﹂と言、っと、熊野の神は札 をしてそれ以上何も言わなかったというのです。 こういう話が﹃御伝紗﹄にあるのですが、この 15 ﹃ 御 伝 紗﹄の話は、覚如上人の創作の部分がかなりあり、﹁親 驚聖人御因縁﹂に含まれる﹁真仏因縁﹂というものの方 が、オリジナルの話だと私は思っています。その根拠に ついては、別の所で述べさせて頂いておりますので、今 日はもう申し上げませんが、問題は、﹁御伝紗﹄に立ち ますと、親驚聖人が本地垂遮思想を語ったことになるの です。ところが、オリジナルの話だと思われるこの﹁真 仏因縁﹂の話は、要点だけ申しますと、平太郎は関東で 親驚聖人から次のようなことを聞いたと言います。 いっそや親驚上人とて念仏の大師くたりたまひたり しは、神はまよひのすかた、仏はさとりの林なれは、 念仏まうさんものはあなかちに神につかえすとも、 と聴閉まふしたりしかとも つまりこの﹁真仏因縁﹂では、親驚聖人自身は本地垂 遁思想は述べないのです。神は迷いの姿、仏がさとりの 叫粋であるから、念仏する者はあながちに神に仕えなくて もよい、と言われたことになっています。これに対して、 熊野の神の方が﹁阿弥陀如来は自分の本地だ﹂と語った という話になっていて、全く話が逆転しているのです。 覚如上人は恐らくこのオリジナルの話を、何らかの意図 で改変されたと思っているのですが、実はこういう神仏

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16 関係に関する課題も、関東の親驚聖人にはあったに違い な い と 思 わ れ ま す 。 親驚聖人は神仏関係については﹃教行信証﹄の中では、 ﹁ ﹃ 浬 繋 経 ﹄ ︵ 如 来 性 口 問 ︶ に 言 わ く 、 仏 に 帰 依 せ ば 、 終 に またその余の諸天神に帰依せざれ、と。﹂というように、 断定的に神祇不拝の立場を語られているのですが、﹁真 仏因縁﹂の﹁神はまよひのすかた、仏はさとりの鉢なれ は、念仏まうさんものはあなかちに神につかえすとも﹂ という言い方と、この﹃教行信証﹄の言い方は大分違っ て い ま す 。 それでは、こういう考えがどういうところに残ってい るのかというと御消息です。晩年の御消息の中で現実に その神仏問題について、どう対応していくかということ に 関 し て 、 仏法をふかく信ずるひとをば、天地におはしますよ ろずのかみは、かげのかたちにそえるがごとくして、 まもらせたまうことにてそうらえば、念仏を信じた る身にて、天地のかみをすてもうさんとおもうこと、 ゆ め ゆ め な き こ と な り 。 と見えています。御消息になりますと、考えが随分柔ら かくなっています。どちらかと言うと私は、﹃教行信証﹄ よりも御消息の立場の方が﹁真仏因縁﹂の立場に近いと 感じています。ということになりますと、この﹁真仏因 縁﹂の時代、つまり京都に一民ってこられた後に平太郎が 京都へやってくるという話ですから、帰洛後の親驚聖人 になると御消息にあるような形での神仏関係というもの が表れてくる。ところが﹁教行信証﹄の段階では、﹁仏 に帰依せば、終にまたその余の諸天神に帰依せざれ﹂と いう、非常にきっぱりとした神祇不拝の立場を語ってお られる。その辺りに年代的な違いというものを見るべき で は な い か と 思 い ま す 。 五 最後にまとめにもなりませんが、本日私が申し上げた かったのは、﹃教行信証﹄の成立過程というのは、やは り結局のところ、古田武彦氏が言、つように、例え初稿本 の存在を認めたとしても、その前に本当に本が無かった のか、と言い出せばこれはきりがないと思います。です から、古田先生に教えていただいたように、そういう形 で﹃教行信証﹄の成立ということを語るのは、恐らく意 味がないことであろうとも思うのです。 但しこれから出来ること、歴史学的に出来ることは、

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何がその時々の親驚聖人の課題であったのか。その事を 通して﹃教行信証﹄のどの部分の問題は、どの時代に宗 祖が課題とされたことであったのか。そういう検証を積 み重ねていくことによって、或いは﹁教行信証﹄の成立 という問題に、一歩でも二歩でも近づくことが出来るの ではないか。そういう近づき方しか、歴史学的な意味で は、今、意味を成さないのではないか、というようなこ とを感じています。 そうしたことがらにつきまして、粗々とした話になっ てしまいましたが、日頃考えておりますことを本日はお 話しさせて頂きました。ご清聴ありがとうございました。 『教行信証』成立史の諸問題 17

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18 二

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九年度 真宗大谷派教学大会 講 演

建永の法難と

は じ め に ご紹介いただきました平です。どうぞよろしくお願い い た し ま す 。 今日の教学大会は﹃教行信証﹄が統一テ

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マだとお聞 きしていますが、何分教義の世界から離れて久しいもの ですから、このあたりの話を十分に展開することができ ません。そこで今回は、建永の法難と﹁教行信一証﹄後序 との関連についてお話しさせていただきます。﹁教行信 証﹂後序は建永の法難の実態を解き明かす上で決定的に 重要な資料である、このことを再確認するのが今日のお 話 の 趣 旨 で す 。

一 二

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七年の弾圧を私は﹁建永の法難﹂と呼ん でいますが、浄土真宗では﹁承元の法難﹂と呼ぶことが 多いようです。どちらでも結構ですが、法難があった時 点は建永二年でして、その八ヶ月後に承元に改元されて います。たとえば、明治天皇が亡くなったのは明治四五 年で、死没直後に改元されますが、こういうときに﹁明 治天皇が大正元年に亡くなった﹂というのは私には若干 違和感が残ります。まあ、﹁建、水の法難﹂と呼ぶほうが 学術的には正確です。 レジュメを用意しましたが、時間も限られています。 駆け足でお話しすることになり、省略する部分もかなり ありますが、その点どうぞよろしくお願いいたします。 な お 、

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建永の法難と『教行信託J後序 上横手雅敬先生が﹁﹁建永の法難﹄につい て ﹂ ︵ 同 編 ﹃ 鎌 倉 時 代 の 権 力 と 制 度 ﹄ 思 文 閣 出 版 、 二 O O 八 年︶という論文を発表されました。この論文で先生は、 建永の法難に関するこれまでの研究は、実証が甘いと苦 言を呈されています。﹁史料の正しい解釈﹂という点で も、また﹁個々の事実の解明﹂という点でも不十分であ るとし、特に私の論文﹁建永の法難について﹂︵拙著﹃日 本 中 世 の 社 会 と 仏 教 ﹄ 塙 書 房 、 一 九 九 二 年 ︶ を 批 判 さ れ ま し た。先生の論題が、私の論文とほぼ同じ題名であるのも、 私の仕事に対する不満の表明と理解してよいでしょう。 先生はこの論文で、三つの論点を提起しています。第 一は、建永の法難のときに﹁専修念仏停止令﹂が出され たとは認めがたい、というものです。第二は、この法難 で安楽や住蓮が死刑になりますが、この処刑は後鳥羽院 による私刑であって、延暦寺や興福寺の訴訟が原因では ない、と主張されます。第三は、法然や親驚たちの流罪 についても、延暦寺や興福寺の訴えによるものではない、 と 述 べ て い ま す 。 このうち第二点はたいへん的確な問題提起であり、私 も支持したいと思いますが、第一と第三点については賛 成 で き ま せ ん 。 特 に 一 一 一 点 目 の 流 罪 の 問 題 に つ い て は 、 先 さ て 最 近 、 19 生自身も詳しい説明をされておらず、まだ議論が完結し ていないようです。総じていえば、建、水の法難を風紀問 題として捉えようとする赤松俊秀先生のお考えをさらに 一歩進めたものでして、建永の法難を思想弾圧であった とする考えそのものを否定されようとしています。 建永の法難では死罪になった弟子と、流罪になった人 がいます。私の考えでは、死罪の僧侶は﹁密通事件﹂に 直接関わった者であり、彼らは後鳥羽院の意向によって 処刑されたのだと思います。一方、法然・親鷲らの流罪 処分は、顕密仏教側の要求に応じた朝廷による思想弾圧 であり、建永の法難はこの一一つの要素が複合していると いうのが私の基本的な考えなのですが、このあたりの議 論の実証的な詰めが甘いとお叱りを、つけたわけです。 実は上横手先生は、京都大学時代の私の恩師でありま す。赤松先生の実証的な学風を受け継がれて、鎌倉幕府 や朝廷研究の第一人者として活躍してこられました。近 年は中世仏教史についても積極的に発言されています。 特に先生は後鳥羽院について造詣の深い方ですので、先 生のご批判に対し、きちんとした形で検証を加えて、ぉ 応えするのが後学の徒の責務だと考えます。

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20 建永の法難と専修念仏禁止令 では、本論に入らせていただきます。建永の法難の時 に専修念仏に対する禁止令が発布されたのか、それとも 先生のおっしゃるように、それは出ていないと考えるべ きなのでしょうか。赤松先生は禁止令の発布を認めてい ますので、この間題では上横手先生がもっとも極端な立 場をとっていることになります。 建 永 の 法 難 、 建 、 水 一 一 年 ︵ 二 一 O 七 ︶ 一 一 月 に 専 修 念 仏 禁 止令が出されたことを裏づける史料は二点あります。第 一は少し時期がくだりますが、建保七年︵二一一九︶閏 二月八日の官宣旨です。この官宣旨は専修念仏の弾圧を 改めて諸寺に命じたものですが、その一節に﹁専修念仏 の行は、諸宗衰微の基なり。仰て去ぬる建永二年の春、 厳制五箇条裁許の官符を以て、施行まず畢わんぬ﹂とあ ります。建永二年春に朝廷が五箇条にわたる太政官符を 出して専修念仏を禁止した、と事件の一一一年後に朝廷が 言っているのですから、建永二年に専修念仏の禁止令が 発布されたことは事実と認めてよいはずです。 しかし問題は、この建保七年の官宣旨が信頼できるの か、という点にあります。この文書の原本は残っておら ず、日蓮が編纂した﹁念仏者令追放宣旨御教書集列五篇 勘 文 状 ﹄ ︵ 以 下 、 ﹁ 念 仏 者 追 放 宣 状 ﹂ と 略 称 ︶ と い う 著 書 の なかに収録されているだけです。日蓮は念仏を激しく非 難した人物ですから、この史料だってそう簡単に信用す ることはできません。上横手先生は﹁この史料集の信憲 性もまた検討の余地がある﹂とおっしゃって、﹁念仏者 追放宣状﹄の信頼性に疑念を示しておられます。 専修念仏禁止令の発布を裏づけるもう一つの史料は、 ﹃ 法 然 上 人 伝 記 ︵ 九 巻 伝 ︶ ﹄ や ﹁ 本 朝 祖 師 伝 記 絵 詞 ︵ 四 巻 伝 ︶ ﹄ に み え る 建 永 二 年 の ﹁ 宣 旨 ﹂ で す 。 宣旨に云わく、顕密両宗は丹府を焦がして歎息し、 南北衆徒は白疏を捧げて欝訟す。誠に是れ天魔障遮 の結構と謂いつべし。寧にまた仏教弘通の怨讐に非 ず や 。 たいへんきびしい言葉で法然らを批判しています。一般 に伝記史料は史料的価値がさがりますが、法然たちを朝 廷が天魔、悪魔と非難した史料を、お弟子さんが偽造す るとは考えられません。私はこの史料も信頼できると判 断しました。しかしそうはいっても、やはり伝記史料で す。﹁史料価値に若干の疑問﹂があると先生は主張され、 総じて専修念仏禁止令が発布された﹁史料的根拠は薄

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建永の法難と『教行信証J後序 弱﹂だ、と述べています。 そしてそのうえで先生は、建保五年︵一一一一七︶に延 暦寺が求めた弾圧要請を後鳥羽院が無視したことを、重 要な論点として提起されました。法然の高名な弟子に空 阿弥陀仏という僧侶がいますが、彼がこの年に九条油小 路堂で四十八日の念仏法要を開こうとしました。そこで 延暦寺が後鳥羽院にその弾圧を求めたのですが、後鳥羽 はそれを無視しています。この事実と専修念仏禁止令の 史料的裏づけの弱さをもとに、先生は﹁後鳥羽は一貫し て念仏を制止しなかった﹂と結論されています。言って みれば、建、水の法難といわれるものは、風紀問題に対す る処罰なのであって、専修念仏弾圧などといったもので はないというのが、先生のお考えです。 たいへん厳しい、根本的な批判を、つけたのですが、残 念ながら私はそれに従うことはできません。私の考える ところ、専修念仏禁止令発布に関する上横手説が成り立 っためには、クリア l しなければならない問題が少なく とも二つあります。第一は﹁民経記﹄の記事です。 ﹃民経記﹄というのは藤原経光という人物が書き記し た日記でして、彼の自筆本が伝来しており、その信頼性 が確定しています。この自筆日記の嘉禄三年︵一二二七︶ 21 七月二十五日条をみますと、数日前に専修念仏の禁止を 命じた後堀河天皇宣旨が掲出されています。その宣旨に よれば、﹁内には三宝の戒行を守らず、外には数般の制 符を顧みず、専修の一字を建てて、自余の諸教を破す﹂ とあります。何度も繰り返し禁止してきたにも関わらず、 専修念仏が相変わらず盛んだ、と嘉禄三年七月の時点で 述べているのですから、これ以前の段階で専修念仏禁止 令は﹁数般﹂、何度か発布されたはずです。とすれば、 専修念仏の禁止を命じた﹁数般の制符﹂とは具体的にい っ発布されたものなのか、きちんと説明しなければなり ま せ ん 。 私見によれば、専修念仏禁止令は建永の法難の建永二 年 ︵ 一 二 O 七︶、建保七年︵一一二九︶、貞応三年二二二 四︶の三回出されていて、嘉禄三年の禁止令が四回目と なります。四回目ですので、これまで﹁数般の制符﹂が 発布された、と述べているのもうなずけます。 ところが上横手先生は、後鳥羽院の治世下では専修念 仏の禁止令は出されていない、と主張されています。後 鳥羽院の治世は承久の乱、承久三年二二二二七月で 終わりますので、上横手説が成り立っためには、承久三 年七月から嘉禄三年七月までの六年の聞に、専修念仏を

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22 禁止する﹁数般の制符﹂が出されたことを明示しなけれ ばなりません。現存史料で確認できるのは貞応三一年二 二二四︶の弾圧だけですので、上横手説では嘉禄三年の 専修念仏禁止令が二度目となります。しかしこれでは、 ﹁数般の制符﹂という文言と組離が出ます。少なくとも、 嘉禄三一年以前に複数回の禁止令の所在を明示する必要が あります。先生が自説を維持されるのであれば、この課 題をクリア

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し な け れ ば な り ま せ ん 。 上横手説の第一一の問題点は、﹃念仏者追放宣状﹄につ いてです。先生はこの文献の史料的価値に疑問を呈され ましたが、具体的な検討は十分なさっていません。これ は具合が悪いと思います。そこで、次に﹃念仏者追放宣 状﹄の信頼性について検証してみたいと思います。 ﹁ 念 仏 者 追 放 宣 状 ﹂ の 検 討 先行研究によれば、﹁念仏者追放宣状﹄は正元元年 ︵一二五九︶の成立と推測されています。日蓮の主著で あ る ﹃ 守 護 国 家 論 ﹄ ︵ 一 二 五 九 年 ︶ 、 ﹁ 立 正 安 田 論 ﹄ ︵ 一 一 一 六 O 年︶とほぼ同時期の成立です。残念ながら原本はなく、 写本しか伝来していません。この著作は、前文と史料編 と後記の三部構成となっています。前丈によれば、これ にはもともと広本があったが、あまりに煩雑なので一部 を抜粋し、五篇にまとめ直して略本を作った、とのこと です。この略本に当たるのが、現在我々が日にしている ﹁念仏者追放宣状﹄でして、広本は伝来していません。 さらに残念なことに、現存する略本の写本も、五篇のう ち ﹁ 奏 状 篇 ﹂ と ﹁ 宣 旨 篇 ﹂ の 一 一 篇 し か 残 っ て い ま せ ん 。 ﹁勘丈篇﹂以下は欠ですので、略本の半分ぐらいしか伝 わっていないことになります。 問題はここに掲載された史料の信頼性ですが、正直な ところ、なかなか扱いのむずかしい史料群です。いずれ の史料も誤字や脱文が相当あって、そう簡単には手が出 せない。慎重な取り扱いが求められる、そういう史料群 で あ る こ と は 確 か で す 。 この﹃念仏者追放宣状﹄には、専修念仏の弾圧にかか わ る 二

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点の史料が収載されています。しかしそのうち 九点については、﹁興福寺奏状﹂﹁停止一向専修記﹄﹃金 綱集﹄にも見えています。特に﹁停止一向専修記﹄や ﹁金綱集﹂については、伊藤真徹﹁日本浄土教文化史研 究﹄︵隆文館、一九七五年︶や拙著で史料的な検討を終え ていますので、問題は﹁念仏者追放宣状﹂の独自史料一 一 点 の 史 料 的 価 値 で す 。

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建永の法難と『教行信証』後序 時間の関係ですべてに触れることができませんので、 ここでは主要なものだけ、かいつまんでお話ししたいと 思います。まず取り上げるべきは、八通目の︵嘉禄三年︶ 月日欠﹁太政官符﹂です。 太政官符五畿内諸国司応宜停廃専修念仏興行、 早捉掛隆寛・幸西・空阿弥陀仏等遺弟留処所犯禁法 輩之事、弘仁聖代格条在眼、左大臣宣、奉勅、宜 課五畿七道、停廃興行之道、捉捌違犯之身者、諸国 司承知、依宣行之、符到奉行、 修理右宮城使正四位下行右中弁藤原朝臣 修 理 東 大 寺 大 仏 長 官 正 五 位 下 左 大 史 兼 備 前 権 介 小 槻 宿 禰 この﹁太政官符﹂は専修念仏の興行停止と、隆寛・幸 西・空阿弥陀仏の張本三名の逮捕を命じたものです。と はいえ、一見すればわかるように、これは﹁太政官符﹂ としての体裁を成していません。冒頭の﹁太政官符五 畿内諸国司﹂と﹁応宜停廃専修念仏興行、早捉槻隆寛・ 幸西・空阿弥陀仏等遺弟留処所犯禁法輩之事﹂とは改行 になっていないといけませんし、後者の事書部分と本文 との間も改行が必要です。最後の二人の署名部分だって、 本当は二人で一行でないといけませんし、署名の後の年 月日も落ちている。現存の﹃念仏者追放宣状﹄が略本で 23 あることとも関わっているのだと思いますが、本文も相 当省略されています。このように問題になるところが一 杯ある。そういう史料です。 では、これは何時のものでしょうか。隆寛・幸西・空 阿弥陀仏の逮捕を命じていますので、これが嘉禄の法難 のものであることは明らかです。関連史料を調べますと、 ﹁明月記﹄嘉禄三年七月十一日条に﹁専修停止の沙汰、 日々議定すと難も、その事未だ一定することあらず﹂と あって、専修念仏禁止令の発布についてはまだ朝廷の方 針が定まっていない、と記しています。一方、同年七月 十三日の後堀河天皇論旨によれば、﹁五畿七道﹂に専修 念仏の禁止令を通達した、と述べています。この通達が 前掲﹁太政官符﹂に当たりますので、もしもこれが本物 であれば嘉禄三年七月十一日から十三日の聞に発布され た こ と に な り ま す 。 私が注目したいのは、二人の署名者の肩書です。まず 弁官のほうは﹁修理右宮城使正四位下行右中弁藤原朝 臣﹂とあります。この人物は藤原頼隆といいまして、最 終的に参議従三位の地位にまでのぼっています。﹁八ム卿 補任﹄で藤原頼隆の官位を追跡しますと、彼が﹁修理右 宮城使﹂と﹁正四位下﹂と﹁右中弁﹂の三つの官位を兼

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24 ね備えていたのは、嘉禄三年正月五日から十月四日まで のわずか九ヶ月間だけです。わずか九ヶ月しかないその 時期の彼の官位を、この史料は正確に記しているのです。 しかも藤原頼隆は宣旨や論旨の発給によく携わりました が、﹁鎌倉遺文﹄データベースで検索すると、﹁修理右宮 城使正四位下行右中弁﹂という肩書は、この文書にしか 見えません。これを後世、偽造することはほぼ不可能で す 。 もう一人、大史は﹁修理東大寺大仏長官正五位下左大 史兼備前権介小槻宿祢﹂と署名しています。残念ながら、 この小槻宿祢を割ることはできませんでした。しかし ﹁左大史﹂と﹁修理東大寺大仏長官﹂と﹁備前権介﹂と いう、この三つの肩書を兼ね備えた人物を検索しますと、 六点の史料がヒットするのですが、そのうち二点が重要 です。まず、香取宮司家文書には前年の嘉禄二年五月日 ﹁関自家政所下文案﹂があり、そこに﹁修理東大寺大仏 長官左大史兼算博士備前権介小槻宿祢﹂がみえます。ま た 、 ﹃ 門 葉 記 ﹄ 巻 一 三 四 に は 安 貞 二 年 ︵ 一 一 一 一 一 八 ︶ 一 一 月 二 十七日﹁太政官符案﹂が収載されていて、そこに﹁修理 東大寺大仏長官正五位上行左大史兼備前権介小槻宿祢﹂ が登場します。これらは同一人物でしょう。つまり﹃念 仏者追放宣状﹄の嘉禄の﹁太政官符﹂に署名している小 槻宿祢は、一年前の史料にも、また半年後の史料にも見 えていて、実在していたことが確認できます。 つまり、この史料は太政官符としての体をほとんど成 していませんが、そこに記されている二人の肩書は極め て正確であり、後世偽造することは不可能です。この ﹁太政官符﹂は問題が多いものの、史料そのものは信頼 性が非常に高い、そう結論することができます。 次に少し飛ばして、一五通目の建保七年間二月八日 ﹁ 官 宣 己 目 ﹂ と 一 六 通 日 の 建 保 七 年 間 二 月 二 十 二 日 ﹁ 綱 所 請文﹂を検討してみましょう。まず﹁官宣旨﹂ですが、 ここでも﹁応下知諸寺執務人、令糾弾専修念仏輩事﹂の 事書と本文とが改行されることなく、追い込みで記され て い ま す 。 ﹁ 綱 所 請 文 ﹂ も 、 謹 請 綱 所 宣旨一通被載応下知諸寺執務人令糾断専修念仏輩事、 右、任宣旨状、可告触諸寺之状、謹所請如件 建 保 七 年 間 一 一 月 二 十 二 日 行 之 となっていて、こちらも威儀師・従儀師の署判がないな ど、いくつか問題があります。しかしだからといって、 この二通の信憲性を否定してよいことにはなりません。

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建永の法難と『教行信証』後序 先生はこの史料の問題点を三点挙げています。まず、 いずれも傍線部分に﹁諸寺執務人﹂の語が出てきますが、 先生はこの言葉を﹁見慣れない用語である﹂と、不審を 表明しています。でも、この語は新制に何例か見えてい ます。寛喜三一年の公家新制には﹁諸寺執務人﹂、弘長元 年の関東新制では﹁諸堂執務人﹂、弘安八年の公家新制 では諸寺社の﹁一旦執務人﹂の語が登場していて、決し て 奇 異 な 用 語 で は あ り ま せ ん 。 確かに﹁諸寺執務人﹂という語の用例が少ないのは事 実です。日常的に使われた言葉ではありません。しかし、 この言葉がなぜ朝廷や幕府の新制によく登場するかとい うと、長官職の名が寺院によってバラバラだったからで す。延暦寺や醍醐寺は座主、東大寺や興福寺は別当、関 城寺は長吏、東寺は長者というように、長官職の呼称が バラバラです。そのため、朝廷や幕府が諸寺院に一括し て命令を発するとき、総称として﹁諸寺執務人﹂の語を 使用したのです。この﹁官宣旨﹂では専修念仏の札弾を ﹁諸寺執務人﹂に命じていますので、用倒的には公家新 制などと非常に近い。鎌倉時代特有の﹁諸寺執務人﹂の 語が存在することは、この史料の信頼性を増すものであ っても、これを否定する根拠にはならないはずです。 25 またこの﹁官宣旨﹂は、朝廷が僧綱所に対し、専修念 仏を糾弾するよう諸寺執務人に命じなさい、と下知した ものであり、﹁綱所請文﹂はそれを了承したことを返答 したものです。これに関し先生は﹁当時﹁綱所﹄がこの ような機能を果たしていたとは思われず﹂と述べていて、 僧綱所の機能面からこの史料を疑っておられます。 しかしながら近年、中世の僧綱所研究は飛躍的に発展 しました。たとえば、その代表的研究者の一人である伊 藤清郎氏は、公家新制の服飾規定について﹁綱所を通じ て僧綱等に遵守させる方策をとっている﹂と述べていま すし、さらに先の﹁官宣旨﹂を取り上げて﹁専修念仏輩 を排除するとき、国家は綱所という機構を利用してい る ﹂ と 語 っ て い ま す ︵ ﹁ 中 世 日 本 の 国 家 と 寺 社 ﹄ 高 志 書 院 、 二 八 頁 、 二 OOO 年 ︶ 0 現在の中世僧綱所研究を最先端で 担っている研究者が、中世僧綱所の機能分析でこの史料 を使っているのです。中世の僧綱所がこうした機能を担 うことはあり得ないとおっしゃるのであれば、少なくと も中世僧綱所研究の達成を踏まえた上で、発言される必 要 が あ り ま す 。 少し飽きてこられたかも知れませんが、もう一点だけ お付き合いください。次は一八通日の延応二年︵一二四

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26 O ︶五月十四日﹁延暦寺公文審賢書状﹂です。 大衆余議云、専修念仏者繁昌子天下︵中略︶、在家 称名之所者、任例、仰犬神人、宜令停止云云者、大 衆余議之旨如斯、早任先例、仰含犬神人等、可令停 止専修念仏者給云云、恐恐謹言、 延 応 二 年 五 月 十 四 日 公 文 勾 当 審 賢 謹上祇園執行法眼御房 逐申、去夜大衆余議、先於此異名、殊付犬神人可責 之由仰合、の実名献之、専修念仏張本之事、唯仏・ 鏡仏・知日願・定真・円真・正阿弥陀仏・名阿弥陀 仏・善慧・道弁、真如堂狼籍張本也、巳上、唐橋油 小路井八条大御堂・六波羅総門向堂、己上、当時興 行之所也 延応二年に専修念仏の弾圧が行われた史料は、この﹃念 仏者追放宣状﹄にしか見えません。関連史料はまったく ありませんので、この信恵性の検討は延応二年の弾圧の 有無に直結します。その意味でも慎重な吟味が必要です。 まず、この書状の発給者である﹁公文勾当審賢﹂です が、この人物は嘉禎二年︵二二一一六︶六月に延暦寺﹁所 司﹂として登場しますし、正元二年︵一二六 O ︶正月に は延暦寺﹁勾当﹂として、また丈永七年︵一二七 O ︶ 六 月にも﹁寺家勾当﹂として見えますので、彼が実在した こ と は 明 ら か で す ︵ ﹃ 天 台 座 主 記 ﹂ ﹃ 門 葉 記 ﹄ 巻 一 七 四 ︶ 0 また追って書きには、専修念仏の張本九名の名が挙が っていて、犬神人に命じて彼らを謹責するよう祇園執行 に 求 め て い ま す 。 と こ ろ で こ の 史 料 か ら 一 一 一 一 年 前 の 嘉 禄 の法難の時に、延暦寺は朝廷に専修念仏﹁余党﹂四六名 の交名を提出して、彼らの追放を要求しました。実は今 回、﹁専修念仏張本﹂の筆頭にあがっている傍線部分の 四名は、前回の﹁余党﹂交名にも名前が載っていた人物 です。彼らは嘉禄の法難で弾圧され、さらに延応二年に も追却されたのです。以上の点から、﹁延暦寺公文審賢 書状﹂も信恵性が高いと言えるでしょう。 四通の吟味しかできませんでしたが、これだけでも ﹁念仏者追放宣状﹄の史料群は、いろいろ裏づけがとれ ることが、ご理解いただけたかと思います。 ﹃念仏者追放宣状﹄を考える上で重要な点がもう一つ あります。これを編纂した日蓮の動機です。﹁念仏者追 放宣状﹂の後記で、日蓮はその意凶を明かしています。 日蓮はここで二点の幕府法を引用しています。源氏三 代および北条政子の時代の裁決は改変しないという御成 敗式目の第七条と、北条泰時の裁決は改変しないという

参照

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